Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all 1050 articles
Browse latest View live

福井県庁にて、結城 秀康は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。

$
0
0
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8



イメージ 9

結城秀康

   
 
結城秀康 時代 生誕 死没 改名 別名 戒名 墓所 官位 主君 藩 氏族 父母 兄弟 妻 子
Yuki Hideyasu.jpg
結城秀康像(舜国洞授賛、子孫所蔵)
安土桃山時代 - 江戸時代前期
天正2年2月8日1574年3月1日[注釈 1]
慶長12年閏4月8日1607年6月2日
於義伊、於義丸、義伊丸、義伊松(幼名)→ 羽柴秀康(初名)→ 結城秀康 → 秀朝 → 秀康 → 松平秀康[注釈 2]
通称:越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将、徳川三河侍従
孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士
浄光院殿森岩(巌)道誉運正大居士
東京都品川区南品川海晏寺
福井県福井市田ノ谷町の大安寺
和歌山県伊都郡高野町高野山高野山奥の院
従五位下侍従三河守従四位下左近衛権少将従三位権中納言正三位
正二位
豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
下総結城藩主 → 越前北ノ庄藩
徳川氏羽柴氏結城氏越前松平家
父:徳川家康
母:於万の方(おこちゃ、長勝院永見吉英の娘)
養父:豊臣秀吉結城晴朝
松平信康秀康徳川秀忠松平忠吉武田信吉松平忠輝徳川義直徳川頼宣徳川頼房
正室鶴子(結城晴朝養女、江戸重通の娘)
側室:岡山(中川一元の娘)
側室:駒(小田氏治の娘)
側室:長寿院(奈和、津田信益の娘)
側室:品量院(三好長虎の娘)
忠直忠昌喜佐姫毛利秀就正室)、直政直基直良
結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。



イメージ 2

イメージ 1



結城秀康 - Wikipedia

時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期 生誕 天正2年2月8日(1574年 3月1日) [注釈 1] 死没 慶長12年閏4月8日(1607年 6月2日) 改名 於義伊、於義丸、義伊丸、義伊松(幼名)→ 羽柴秀康(初名)→ 結城秀康→ 秀朝 → 秀康 → 松平 ...

イメージ 3

結城秀康とは~文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる -戦国 ...

結城秀康(ゆうき-ひでやす)は、徳川家康の次男として浜松の有富見村にある中村正吉の屋敷にて1574年2月8日に生まれました。幼名は於義丸(おぎまる)で、母は永見吉英の娘・於万の方(長勝院)で …

結城秀康は鼻が欠けていた?家康に嫌われた次男の性格と逸話 ...

pleasure-bit.com/2534.html
結城秀康とは? 結城秀康は家康の次男でありながら、生涯にわたって徳川の姓を名乗ることはありませんでした。 秀康は1574年(天正2年)、徳川家康と永見吉英の娘である長勝院の間に生まれ、幼名は於義丸(おぎまる)と言いました。


歴史

令制国ごとの歴史は、越前国若狭国も参照。

先史時代

旧石器時代
  • 県内には遺跡が各地に点在しており、約1万5000年前から人が住んでいたことが窺える。三国町の西下向・雄島・馬コロバシ遺跡や永平寺町の木橋遺跡、南幅遺跡などからはナイフ型石器(三国型と命名)や掻器などの多数の石器が出土している。
縄文時代
  • 鳥浜貝塚(若狭町)からは草創期の縄文土器(隆起線文・斜格子文土器)をはじめ竪穴式住居跡や丸木舟、弓矢、土器に模様を付けるための縄などが出土している。その他、県内各地の遺跡からも多くの遺物が出土し、土器の形式から畿内飛騨国などの地域との交流があったことが窺える。
弥生時代
  • 前期頃には稲作が伝わったとみられ、それを窺わせる土器が出土している。
  • 金属器、玉、布の生産も行われていたようである。嶺北は銅鐸が出土した日本海側の北限である。
  • 中期頃には首長の墓が作られ始め、後期後半になると大型化してくる。
古墳時代
  • 4世紀初め頃には嶺北前方後円墳が造られ始め、4世紀中頃からは九頭竜川中流域で大規模な古墳が造られ始める。手繰ケ城山古墳(4世紀末)や六呂瀬山古墳群(4世紀後半~5世紀前半)などは北陸地方最大規模であり、この地域が強大な勢力を持っていたことが窺える。
  • 5世紀になると嶺南でも主に若狭町付近で前方後円墳が造られ始める。
  • 5世紀後半から6世紀にかけて若狭(わかさ)、高志(こし)、三国、角鹿(つぬが)の四国造が分立した。三国国造があった地域は、継体天皇がその即位まで過ごしたとされている。現在の嶺北出身である継体天皇がヤマトの大王として迎え入れられたことが契機となって、ヤマトの勢力と越国の勢力とが合一した。
  • 570年574年高句麗使が越国近辺に来着する。
  • 継体天皇以来、古墳に船と馬の埴輪が埋葬されるようになり、日本は後期古墳時代となる。
  • 6世紀後半以降は前方後円墳に代わって小規模な円墳群集墳が造られ始めるが、7世紀になると古墳自体造られなくなる。[2]

古代

飛鳥時代から奈良時代
  • 7世紀後半頃には律令制の導入に伴い「若狭国」が成立したと見られ、7世紀末には「越前国」が成立したと考えられる。
  • 若狭国は若狭湾で精製した塩を調(地方特産物を納税)として都に納めていた。現在も製塩遺跡が残る。
  • また調とは別に(にえ)と呼ばれる海産物を直接天皇家に貢いだことが平城京の木簡や延喜式から分かっている。これにより若狭国は万葉集に出てくる「御食国」の一つと推定されている。
  • 749年東大寺が越前国の豪族から土地の寄進を受け、また墾田を買収して、福井平野に多くの荘園を獲得する。この頃には条里制が布かれる。現在でも福井平野には条里遺構が存在する。
  • 8世紀になると渤海との交流が盛んになり、若狭国や越前国は渤海使の来航や遣渤海使の派遣の拠点となる。8世紀後半には交易が中心になる。
  • 764年、クーデターに失敗した恵美押勝(藤原仲麻呂)が越前国に逃れようとするも愛発関が閉じられたため失敗する(藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱))。
平安時代

中世

鎌倉時代
  • 島津氏後藤氏等が守護職に任ぜられる。
  • この頃になると廻船業が発達し、敦賀津小浜津三国湊などが整備され、海上交易が盛んになる。また、それらの港は年貢を京に輸送するための拠点ともなる。
  • 1243年には、道元が越前国志比庄にある吉峰寺(永平寺町)に入り、翌年に大佛寺(後の永平寺)を創建する。
  • 13世紀末以降には高田系浄土真宗が越前国北部を中心に広まる。
室町時代
  • 1336年足利尊氏の入京により恒良親王尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞金ケ崎城(敦賀)に入るが、越前国守護斯波高経の軍勢により翌年落城する。義貞は脱出するも、1338年に越前国藤島燈明寺畷(福井市新田塚)にて戦死する。この後も越前国内は戦乱が続き1341年、北朝方が平定する。この後、主に斯波氏が越前国の守護となる。しかし、実質的に越前国を統治していたのは守護代甲斐氏であった。
  • 若狭国では南北朝時代には守護の交代が頻繁に行われるが、1366年一色氏が守護となり、国人一揆を抑えて若狭を支配する。しかし、1440年、一色氏の勢力拡大を恐れた将軍足利義教武田氏を守護に任命する。武田氏は一色氏残党や一揆を抑えて若狭を支配する。
  • 15世紀後半になると斯波氏と甲斐氏の対立が深まり、やがて越前国内で内乱が起きる。最終的には幕府の支援を受けた甲斐氏が勝利するものの、応仁の乱時、朝倉孝景が台頭、甲斐氏に代わって越前国を掌握する。後に朝倉氏戦国大名として勃興する。
戦国時代
  • 1471年蓮如が越前国吉崎に入り吉崎御坊を建立、北陸地方における本願寺系浄土真宗の布教拠点となる。その後、一向一揆が相次ぐこととなる。
  • 1506年加賀国から本願寺門徒らが侵入する。しかし、朝倉教景(宗滴)指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利する(九頭竜川の戦い)。
  • この後、朝倉氏は本願寺系浄土真宗を禁圧する。そのため、多くの本願寺門徒や僧は加賀国に逃れる。そして、たびたび越前国に侵入することになる。
  • 16世紀以降、若狭国では内乱が相次ぎ武田氏は次第に弱体化する。また、朝倉氏が武田氏支援のため若狭国に軍事介入するようになる。
  • 足利義秋(義昭)が上洛を果たすため、1566年に武田氏を頼って若狭国に、1567年には朝倉義景を頼って越前国に入る(この時、義昭に改名)。しかし、上洛を果たせず、1568年織田信長を頼って美濃国に出国してしまう。
  • 1568年、朝倉氏が若狭国に侵攻する。
  • 1569年、将軍義昭が本願寺と朝倉氏を和睦させる、この時、本願寺系浄土真宗の禁圧も解かれる。また、本願寺と外交関係のあった甲斐武田氏ら遠方勢力らとも連携を取る。
  • 1570年4月、信長が朝倉攻めを開始し、金ヶ崎城などを開城させる。しかし、浅井長政の離反により京に撤退する(金ヶ崎の退き口)。
  • 1570年9月、信長が大坂、野田・福島で三好三人衆や本願寺と交戦している最中、義景が兵を率い、浅井・朝倉連合軍が3万の軍勢で京に攻め上り、京の口、比叡山に築城する。六角氏の挙兵などもあり、信長は孤立するが、将軍義昭の仲介で講和が成立する(志賀の陣)。
安土桃山時代
  • 1573年8月、信長が刀禰坂の戦いを経て朝倉氏の本拠地である越前国一乗谷に侵攻、義景は大野に逃れるも家臣の裏切りにより自刃、朝倉氏は滅亡する。越前国は朝倉氏の旧臣に、若狭国は丹羽長秀に統治させる。
  • 1574年、朝倉方から織田方に寝返った武将同士で抗争が発生、それに乗じて一向一揆が蜂起する。本願寺門徒は武将や国人、平泉寺などを襲撃し、越前国を本願寺領国化する。
  • 1575年8月、信長が越前国に再侵攻し本願寺門徒や僧を弾圧、柴田勝家に越前北ノ庄をはじめ越前八郡を、金森長近らに越前大野郡を、不破光治佐々成政前田利家府中三人衆)に越前府中二郡を与える。
  • 1583年清洲会議羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まり、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉が勝利、勝家の居城である北ノ庄城を攻め落とす。その後、丹羽長秀が越前の大半を、蜂屋頼隆が敦賀郡を、金森長近が引き続き大野郡を統治する。その後も領主の交替が相次ぐ。
  • 一方若狭では丹羽長秀が越前に移った後、木村隼人佐らが治めていたが、1585年には長秀の子丹羽長重の領地となり、1587年には浅野長吉(長政)が統治し、その後も領主の交替が相次いだ。[4]

近世

  • 1586年に若狭で、1598年には越前で太閤検地が実施され、結果、若狭が8万5000石、越前が68万石となった。
江戸時代
  • 越前国
    • 1600年関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として結城秀康に越前一国および下野国結城郡75万石が与えられる(北ノ庄藩)。越前松平家は、将軍家徳川秀忠の兄の家ということから、制外の家(各種特権が許された家)または、御三家に次ぐ家という意味で四家などともよばれる。
    • 1623年、秀康の長男松平忠直狼藉を理由に豊後国荻原に配流された。かわりに秀康次男の越後高田藩松平忠昌が幕命により相続し、忠直の長男松平光長には越後国高田(上越市)に新たに領地が与えられた。このとき北ノ庄藩は規模を縮小し、余地をもって越前勝山藩大野藩丸岡藩などの複数の小藩が成立。また、敦賀郡はいったん幕府領(天領)となった後、小浜藩領となり、後に小浜藩支藩の敦賀藩などが成立した。このように、越前は複数の藩に分割統治されることとなった。江戸幕府八代将軍徳川吉宗が若かりし頃、領地を持っていたこともあった。交代寄合旗本の陣屋としては白崎陣屋の金森氏がある。忠昌の越前入部の際、北ノ庄は福居(後に福井)に改称された。これが福

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

$
0
0



若狭国   

若狭国 別称所属相当領域 諸元国力距離数 国内主要施設若狭国府若狭国分寺若狭国分尼寺一宮
地図 令制国 若狭国.svg
-若狭国
-北陸道
若州(じゃくしゅう)
北陸道
福井県南部(嶺南地域)から敦賀市を除いた部分
中国
近国
3郡20郷
福井県小浜市
福井県小浜市(若狭国分寺跡
(未詳)
若狭彦神社(福井県小浜市)
テンプレートを表示
若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。


沿革

古代

律令制で統一国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造角鹿国造の領土だったと言われており、日本書紀には若狭国造やツヌガアラシトの記述がある。しかし、4世紀後半にはヤマト王権の支配下にあった。
ヤマト王権の支配下に入ると、7世紀に若狭国が設置された。当初は遠敷郡三方郡から成ったが、 天長2年(825年7月10日に遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。

奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国(みけつくに)」に該当すると推定されている。調を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。塩を京に運んだことを示す木簡で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める[3]

奈良東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来するである。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。

お水取り

3月12日、後夜の咒師作法の中で(13日午前1時)、咒師は蓮松明という松明に照らされながら5人の練行衆とともに南側の石段を下りて閼伽井屋(あかいや 別名・若狭井)へ向かう。

大勢の参拝者の見守る中、雅楽も奏され、おごそかに行列が進む。途中小さな神社に立ち寄り法要を営んでから、咒師と堂童子と駆士と数人の童子が閼伽井屋に入り香水をくむ。他の5人の練行衆は入口を警備する。香水は閼伽桶とよばれる桶に入れられ榊を飾った担い台に載せられ内陣に運ばれる。香水は須弥壇下の香水壺に蓄えられ、本尊に供えられたり、供花の水として用いられたりする。

この水は、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が神々の参集に遅れたお詫びとして二月堂本尊に献じられたと伝えられ、今でも遠敷明神の神宮寺であった若狭小浜市若狭神宮寺では今もこの井戸に水を送る「お水送り」(3月2日)の行事が行われている。お水取りが終わると咒師作法は再開される。


中世

鎌倉時代には執権である北条氏自身が守護職を務めていたが、鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力支族である斯波氏など、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が京に近い若狭の守護職を得ている。

室町時代初期の一色範光以降は一色氏が世襲するようになるも、一色義貫が殺害された後は安芸国分郡守護の安芸武田氏から分出した若狭武田氏が若狭守護職を獲得し、丹後に拠点を移した一色氏と丹後守護職を廻り激しく対立した。

若狭武田氏は戦国時代に将軍家や管領細川氏の信任を得て勢力を保ち小浜を拠点に日本海交易を展開するが、永正の錯乱以降の畿内の戦乱と共に衰退の色を深め、一族間の内乱の末、親族である越前朝倉氏に庇護され、その傀儡となる。その朝倉氏も尾張守護代より台頭し畿内を席捲する勢力となった織田氏に滅ぼされた。

織田政権において、若狭国は織田信長配下の丹羽長秀が支配し、旧武田氏の被官を指揮した。本能寺の変の後、織田信長に代わって豊臣秀吉が政権を握ると(豊臣政権)、若狭国は山内一豊などの秀吉の子飼いの大名が治めるようになる。

近世

江戸時代になると、京極高次が若狭を領することとなり後に越前敦賀郡を含む若狭地方一帯は小浜藩領となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀小浜は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ今の国道367号が「鯖街道」と呼ばれていたように、江戸時代には特にの水揚げが多かった。のちに藩主家は京極家から酒井家へと替わる。

幕末になると、水戸を本拠地とする天狗党が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は皆殺しされた。

鯖街道

   
若狭街道熊川宿
鴨川に架かる出町橋。たもとには「鯖街道口 従是洛中」と書かれた石碑がある。

鯖街道(さばかいどう)は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の福井県嶺南地方に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。
主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、その中でも特にが多かったことから、近年になって鯖街道と呼ばれるようになった[1]

近現代

明治維新を迎えると、1871年8月29日廃藩置県後、同年12月31日には、旧若狭国に敦賀郡今立郡南条郡を加えて敦賀県を形成した。1873年(明治6年)1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された足羽県を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。

1876年(明治9年)8月21日には敦賀県が分割され、敦賀郡と若狭地方(嶺南)は滋賀県に編入された。

4年半後の1881年(明治14年)2月7日には、嶺南4郡と嶺北福井県が形成された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。
帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。

1881年(明治14年)に、福井県令は、電信施設の設置を突如、政府が計画した他の地域の電信敷設計画を遅らせ、優先して嶺南に建設することを決定し、小浜小学師範・中学校開設費を原案通り可決し、年内にその設置を布達するなどの配慮を行った。嶺北と嶺南の地域対立の構図は、1881年からの約10年間、福井県政において、克服すべき大きな課題として存続し続けた[4]

明治前期に舞鶴鎮守府が設置されると、小浜線の敷設が進められた。

第二次大戦後には、若狭湾岸に原子力発電所が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。また、現在の若狭地方は沿岸観光地域になっている。

近世以降の沿革


北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それ

$
0
0


北前船

   
復元北前船 みちのく丸

北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船(かいせん)の名称買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。

当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸から下関を経由して瀬戸内海大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかうのことである。西廻り航路西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地北海道樺太)にまで延長された。


概要

千石船の1/5複製「天神丸」

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

江戸時代になると、例年70,000石以上のを大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功した。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであるとされる。また、外海での船の海難事故などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことにも起因する。さらに、各藩の一円知行によって資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府鎖国政策を持ち込んだため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。

一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされる。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がった。江戸時代に北前船として運用された船は、はじめは北国船と呼ばれる漕走・帆走兼用の和船であったが、18世紀中期には帆走専用で経済性の高い和船である弁才船が普及した[2]

北前船用の弁才船は、18世紀中期以降、菱垣廻船などの標準的な弁才船に対し、学術上で日本海系として区別される独自の改良が進んだ。日本海系弁才船の特徴として、船首・船尾のそりが強いこと、根棚(かじき)と呼ばれる舷側最下部の板が航(船底兼竜骨)なみに厚いこと、はり部材のうち中船梁・下船梁が統合されて航に接した肋骨風の配置になっていることが挙げられる[3]

これらの改良により、構造を簡素化させつつ船体強度は通常の弁才船よりも高かった。通常は年に1航海で、2航海できることは稀であった。こうした不便さや海難リスク、航路短縮を狙って、播磨国市川但馬国円山川を通る航路を開拓する計画(柳沢淇園らが推進)や、由良川保津川を経由する案が出たこともあったが、様々な利害関係が介在する複数の領地を跨る工事の困難さなどから実現はしなかった。

明治時代に入ると、1隻の船が年に1航海程度しかできなかったのが、年に3航海から4航海ずつできるようになった。その理由は、松前藩の入港制限が撤廃されたことにある。スクーナーなどの西洋式帆船が登場した影響とする見解もあるが、運航されていた船舶の主力は西洋式帆船ではなく、在来型の弁才船か一部を西洋風に改良した合の子船であった。

明治維新による封建制の崩壊や電信郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、一攫千金的な意味が無くなった。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道へシフトしていき、江戸期以降続く北前船の形態は消滅していった。

その後も北前船の船主たちは小樽や函館などを主な寄港地として、北海道のニシンを主な積み荷とした、北陸と北海道を結ぶ北前船によく似た航海を明治後期頃まで行っていた。日露戦争において、ロシア海軍の水雷艇が北海道沖の日本海を航行中の右近家所有の弁才船「八幡丸」を拿捕・撃沈した記録も残っている。

豊島区(としまく)は、東京都西部に位置する特別区の一つ

$
0
0



豊島区   

としまく
豊島区 国 地方 都道府県団体コード面積 総人口人口密度隣接自治体 区の木 区の花豊島区役所区長 所在地 外部リンク
池袋の超高層ビル群
池袋の超高層ビル群
Symbol of Toshima, Tokyo.svg
豊島区章
日本の旗日本
関東地方
東京都
13116-4
13.01km2
297,763
推計人口、2017年10月1日)
22,887人/km2
文京区新宿区中野区北区
板橋区練馬区
ソメイヨシノ
ツツジ
高野之夫
171-8422
東京都豊島区南池袋二丁目45番1号
北緯35度43分34秒東経139度43分00秒座標: 北緯35度43分34秒 東経139度43分00秒
豊島区
豊島区位置図
― 区 / ― 市 / ― 町・村
 表示 ウィキプロジェクト
豊島区役所

豊島区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
としまく
豊島区 国 地方 都道府県団体コード面積 総人口人口密度隣接自治体 区の木 区の花豊島区役所区長 所在地 外部リンク
池袋の超高層ビル群
池袋の超高層ビル群
Symbol of Toshima, Tokyo.svg
豊島区章
日本の旗日本
関東地方
東京都
13116-4
13.01km2
297,763
推計人口、2017年10月1日)
22,887人/km2
文京区新宿区中野区北区
板橋区練馬区
ソメイヨシノ
ツツジ
高野之夫
171-8422
東京都豊島区南池袋二丁目45番1号
北緯35度43分34秒東経139度43分00秒座標: 北緯35度43分34秒 東経139度43分00秒
豊島区
豊島区位置図
― 区 / ― 市 / ― 町・村
 表示 ウィキプロジェクト
豊島区役所
豊島区(としまく)は、東京都西部に位置する特別区の一つ。の一つ。



池袋駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
池袋駅所在地所属事業者電報略号
西口(2012年6月)
西口(2012年6月)
いけぶくろ
Ikebukuro
東京都豊島区
東日本旅客鉄道(JR東日本・駅詳細
東武鉄道駅詳細
西武鉄道駅詳細
東京地下鉄(東京メトロ・駅詳細
イケ(各社とも)
テンプレートを表示
[表示]全ての座標を示した地図 - OSM
全ての座標を示した地図 - Google
東口の西武百貨店(左)とパルコ(右)(2010年12月4日)
東口の西武百貨店(左)とパルコ(右)(2010年12月4日)
東口(2006年4月29日)
東口(2006年4月29日)
池袋西口公園(2007年3月8日)
池袋西口公園(2007年3月8日)
メトロポリタン口(2007年8月7日)
メトロポリタン口(2007年8月7日)
各社の駅の位置関係
各社の駅の位置関係
池袋駅(いけぶくろえき)は、東京都豊島区[1]にある、東日本旅客鉄道[1](JR東日本)・東武鉄道[2](東武)・西武鉄道[3](西武)・東京地下鉄[4](東京メトロ)のである。



「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。

$
0
0






歴史

第二次世界大戦以前

「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。

金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。
古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日(1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている[3]

天文15年(1546年)。戦国時代一向一揆本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。


賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成された。利家は金沢城を人心の一新(羽柴秀吉に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である尾張国にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の前田利長の時代には再び「金沢城」の名前に戻した[4][5]
城下町には二重の惣構が掘られ、環濠都市となり、現在でもその遺構を確認することができる。それまで点在していた寺院は一向一揆を防ぐために、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが寺町寺院群卯辰山山麓寺院群小立野寺院群となった。

玉泉院丸庭園
玉泉院丸庭園

慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国能登国越中国を有する大大名となる。第三代藩主前田利常の時代には、十村制改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、木下順庵室鳩巣稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから新井白石は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている[6]

集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。

以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。


石川県の歴史

原始

御経塚遺跡(野々市市

県内で発見された旧石器時代遺跡能美市の灯台笹遺跡[44][45]など極めて少ない。

縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがある。能登町真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期まで約4,000年続く長期定住遺跡である[46]。縄文時代後期から晩期の遺跡としては金沢市チカモリ遺跡[46][47]野々市市御経塚遺跡[46][48]がある。

1980年昭和55年)チカモリ遺跡からクリの巨木を縦に半分に割り円形に並べた環状木柱列が見つかった。環状木柱列はその後真脇遺跡でも発見されている。環状木柱列の用途・機能は「儀礼の場」や「特殊な建物」など様々な考えがあり不明である[46]羽咋市吉崎・次場遺跡は北陸地方でも規模が大きい弥生時代の遺跡で近畿東北山陰などとの交流が認められる[46]

能美市には60数基の古墳が点在する能美古墳群がある。その中心に位置する和田山・末寺山古墳群からは武器・武具など大量の副葬品が出土している。また、同じ能美古墳群の一角にある秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳である。中能登町雨の宮古墳群には北陸最大級の前方後方墳である雨の宮1号墳がある。また、七尾市の能登島にある須曽蝦夷穴古墳はドーム型の墓室を持ち朝鮮半島古墳にも通じるものとされる[46]

古代

大伴家持も参詣した気多大社[49](羽咋市)

県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていた。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国の国司として赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。平安時代初期の823年になって越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立てられた。これは令制上最後の立国である。

七尾市にある能登国分寺跡は、能登地方を支配した能登臣(のとのおみ)一族が白鳳時代に建てた寺院を843年国分寺としたものである。法起寺伽藍配置を持ち[50]、約400年にわたり能登の仏教の場として栄えたとされる[46]。奈良時代から平安時代には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し交易が行われていた。志賀町福浦港では渤海使が船の修理や宿泊をしたと伝えられており、平安時代初めに渤海使接待のため能登国に建てられた能登客院はこの地にあったと考えられている[51]

野々市市末松廃寺跡は加賀地方北部に本拠を置く有力氏族道君(みちのきみ)が7世紀後半に創ったとされる寺院である。法起寺式伽藍配置をしており、屋根瓦の一部は能美市辰口地区(旧・辰口町)で焼かれたものであることが分かっている[46]奈良平安時代北陸地方には東大寺西大寺などの荘園が多くあった。白山市から金沢市に跨る東大寺領横江荘もそうした荘園の一つである[46]。平安時代に修験道が活発になると白山を山岳信仰の対象とする白山信仰が広まり、山頂への登山道(禅定道)の起点の一つとなった白山比神社は信仰の拠点となった[52]

平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、源義仲(木曾義仲)が倶利伽羅峠の戦い津幡町)で数で圧倒する平家の義仲追討軍を破り[53]、さらに篠原の戦い加賀市)で逃げる平家を追撃し、京都に進んだとされる。

中世

鎌倉時代、新たに設けられた守護は加賀国、能登国とも比企氏北条氏室町時代に入ると加賀国は斯波氏冨樫氏、能登国は吉見氏畠山氏であった。
加賀一向一揆が抵抗の拠点として築城した鳥越城(白山市)[46]

加賀国では、応仁の乱のころ浄土真宗が広まり、やがて農民らによる加賀一向一揆が守護の富樫政親を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた[54]所以である。本願寺は金沢の台地上に尾山御坊金沢御坊)を作り、ここを拠点にして支配した[55]本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登国を前田利家に、加賀国を佐久間盛政に与えた。織田信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀国も領して、尾山御坊跡の尾山城金沢城)に入り城下町の建設を始めた[13]

能登国では、正長年間(1428年 - 1429年)頃に初代当主畠山満慶七尾城を築城し、畠山氏の領国支配の拠点となる。7代目当主畠山義総の時代に最盛期を迎えるが、義総の死後は畠山七人衆が実権を握り、大名権力を傀儡化する。1560年永禄3年)、9代当主畠山義綱が実権を取り戻すが、1566年(永禄9年)に永禄九年の政変能登国から追放される。1577年天正5年)、上杉謙信が能登国へ侵攻し七尾城の戦いが起こり、畠山氏は滅亡する。

近世

金沢城石川門(金沢市
前田利家長男前田利長関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍につき、戦後越中国を与えられた。利長は江戸幕府幕藩体制のもと加賀国、能登国、越中国の3国を治める加賀藩の藩主となった。加賀藩前田家は外様大名でありながら大名の中で最大石高である約120万石を領した。

第 2代藩主前田利常は、江戸幕府 2代将軍徳川秀忠の娘・珠姫を娶った徳川の大名として大坂の陣を戦い、戦後の大坂城改修の普請では通常の大名の負担分より多い負担を敢えてするなど、外様大名として取り潰しを避けることに意を用いたとされる[56]。利常は1639年に家督を長男前田光高に譲り、次男の前田利次富山藩を、三男の前田利治大聖寺藩を分封した。しかし、1645年に光高が急死し、第 4代代藩主となった光高の長男前田綱紀がまだ幼かったため、利常が後見人として藩政を補佐した。

利常が綱紀を後見した時代には、貧農の救済、年貢納入の徹底などを目的とした改作法と呼ばれる農政改革が実施された。これは、農民の借金を帳消しにした上で、農具、種籾の購入資金や当座の食料を貸し付けて農業生産性を高めるとともに、各地の有力豪農などから選任した十村(とむら)に農民の監督や徴税を委ねるものである。改作法は所期した成果を挙げ、藩政の安定に寄与した[56]。この頃から加賀藩は蔵米日本海から関門海峡瀬戸内海を通り大坂まで運ぶ船輸送を始め、後の西廻海運の基となった[57]。なお、1659年に白山が噴火(最も新しい噴火)。1668年1671年には手取川の洪水で多数の死者が出ている[58]
江戸時代前期の古九谷の銚子

加賀藩は、産業の振興に力を入れ、学問や文芸を奨励したことから、城下町の金沢を中心として今に続く伝統文化が興隆した。金沢城内に設けた御細工所は初め武器・武具の修理等を行う組織であったが、利常は茶の湯道具や掛幅など美術工芸品の製作・修理をさせ、綱紀は塗物・蒔絵細工、象嵌細工など20を越える職種を扱わせた。綱紀は学問の奨励のため木下順庵室鳩巣稲生若水といった学者の招聘につとめた。綱紀が収集した古今東西の図書は尊経閣文庫として受け継がれている。綱紀は能楽宝生流を取り入れ加賀宝生と呼ばれ栄えた。兼六園は綱紀による蓮池庭と御殿の建設が始まりとされ、現在の姿が完成するのは江戸時代後期である[13][59]

輪島塗江戸時代に輪島で下地塗りの漆に混ぜる珪藻土が見つかったことで堅牢な漆器となり、日用食器として盛んに生産されるようになった。北前船が寄港する輪島港の海運の利を活かして全国に販路を広げた。また江戸時代後期には沈金や蒔絵の技法が加わり美術工芸品としても発展した[60][61]大聖寺藩では江戸時代初めに殖産興業の一環として鉱山開発に取り組み九谷村(現・加賀市)で磁鉱が発見されたことから窯を築き色絵磁器(九谷焼)の製造が始まった。一旦廃窯されるが九谷焼は加賀藩により再興され、明治期には海外への輸出品となった[62]
江戸時代後期、加賀藩は1792年藩校の文学校明倫堂と武学校

[転載]金沢の歴史探訪トレッキング

$
0
0
?H1>金沢の歴史を訊ねてトレッキング

  今日は、大学の同窓会主催のトレッキングに参加してきました。朝9時スタート、最高齢71歳、

  一番若い人は一歳になる子供を背負って参加してきました。大体、45歳から60歳までの総勢

  35人の参加でした。万歩計の歩数を事前予想し、一番近い歩数の人にプレゼントがでるという
  
  趣向でしたが、自分はきょうは16000歩近く歩いたのですが、賞はもらえず残念賞でした。

  金沢の代表的な用水で兼六園にも取水されている辰巳用水の上流から歩き始めました。

  市内には湧き水が多くそれが大事に保存されているのにも初めて気がつきました。

  また、坂の多い金沢、そのひとつひとつに由緒があります。あらためて知らない坂が多くあること

  がわかりました。

               辰巳用水の上流に沿って歩き始めました

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1389090/64/41411864/img_0?20060917231252

水を好む竹薮の中を流れる辰巳用水

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1389090/64/41411864/img_1?20060917231252

八坂  昔、この付近に木こりが通う八つの坂があったそうで、その中で
もっと急な坂。舗装面に前田にちなんだ梅鉢の紋様が刻まれている

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1389090/64/41411864/img_2?20060917231252

嫁坂 藩政初期に篠原出羽守が娘を嫁がせるときに造った坂といわれている

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1389090/64/41411864/img_3?20060917231252

今でも大切にされている湧き水、市内のところどころにある

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1389090/64/41411864/img_4?20060917231252

転載元: クレッシエンド・ライフ

[転載]北の都に秋たけて

$
0
0
 

北の都に秋たけて

吾等二十の夢数ふ

男女(おとこおみな)の棲む国に

二八に帰るすべもなし

これは、金沢の旧制第四高等学校(四高)の寮歌「北の都に」の一節です。

  金沢の広坂通りに今は「近代文学館」としてこの旧制四高本館が残されています。

  秋の季節になりこれから冬の寒さが近づくようになると、この寮歌を高唱して高下駄を

  ならして、マントをまとい雪の兼六園や犀川などを逍遥し、お酒をのみながら人生を

  語り合っただろう昔の学生が想像されます。戦後、金沢大学となっても歌い継がれて

  まさに金大の歴史とも言うべき歌です。

  一高は東京、二高は仙台、三高は京都、四高は金沢、五高は熊本に創立されました。

  現在、四高本館は「近代文学館」として、四高が生んだ哲学者西田幾多郎、文豪井上靖さん

  の資料などが保存されています。またその校庭は中央公園として市民の憩いの場となっています。

             赤煉瓦の四高本館(近代文学館)
  
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1418720/77/41154077/img_0?20060910211147

  金沢大学も金沢城の中にあり、石垣に囲まれて校舎がありました。今はすべて移転し、金沢城

  公園として整備されました。しかしその石垣に根付く大樹は大学がありし日の思い出をかもし

  だしてくれます。

            石垣に根付く大樹見上げれば在りし日を思い出す

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1418720/77/41154077/img_1?20060910211147



  

転載元: クレッシエンド・ライフ

[転載]金沢城にも秋の気配

$
0
0
      ?H1>金沢城にも秋の気配

 金沢城公園を歩いてみると風に涼しさを感じました。

 お城の石垣やその周りにススキの穂が、風に揺れていました。

 また、早くも落葉樹の葉が落ち始め芝生の緑の上に散らばっていました。

 秋の気配が少しずつ近づいてきています。

ススキの穂が秋風に吹かれて印象的でした

 
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1418720/38/40908738/img_0?20060906225723

落ち葉が風に飛んでいました


https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-bb-59/kh2765ts/folder/1418720/38/40908738/img_1?20060906225723

転載元: クレッシエンド・ライフ


石川県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡など極めて少ない。縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがある。能登町の真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期

$
0
0


石川県の歴史

原始

御経塚遺跡(野々市市
石川県内で発見された旧石器時代遺跡能美市の灯台笹遺跡[44][45]など極めて少ない。縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがある。能登町真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期まで約4,000年続く長期定住遺跡である[46]。縄文時代後期から晩期の遺跡としては金沢市チカモリ遺跡[46][47]野々市市御経塚遺跡[46][48]がある。



チカモリ遺跡

チカモリ遺跡公園の環状木柱列復元模型
チカモリ遺跡(チカモリいせき)は、石川県金沢市新保本町に所在する縄文時代後期から晩期の遺跡である。1987年2月23日に国の史跡に指定された。

概要

本遺跡は犀川の造り出した扇状地にあり、地下水が豊富にあるため木製品や植物製品が残されていた。1954年から数回にわたり発掘調査が行われたが1980年の調査の際に掘立柱環状木柱列(ウッドサークル)が発見された。その後の調査で、直径30から85センチメートルの巨木柱の下部部分(柱根)が総計347点も発見され、円を描くように配置されている。それら木柱の多くは縦に半分に割られ、断面がカマボコ形になっているものやU字形になっている。加工されていないものは少ない。堅いクリ材であり、運搬に便利なように半截してあり、目途孔を開けている。

これら木柱のうち直径50センチ以上の23本の巨大な木柱は、集落の中央広場付近に8〜10本が組みになって、直径6〜8メートルの円形に規則正しく並べて立てられ、出入り口が付いている。円形遺構、正方形遺構、長方形遺構の三タイプに分けられる。これらのタイプが近接したり、重複したりしている。柱根だけが残っているので本来の長さは分からないし、どのような建築物であったかも分からない。しかし、柱の太さからいって普通の住居ではなかったことは推測できる。

これら、木柱根の出土が縄文時代の遺跡の中で極めて多く巨木文化の存在が考えられる。祭祀施設と想定されている。


御経塚遺跡


御経塚遺跡
御経塚遺跡(おきょうづかいせき)は、石川県野々市市御経塚1丁目で発見された縄文時代後期から晩期の遺跡である[1]

概要

1954年昭和29年)に発見され[2]、翌1955年(昭和30年)から発掘調査が行われた[1]。その後1977年(昭和52年)3月8日に国の史跡に指定された[1]。周辺は史跡公園として整備されており、復元された竪穴式住居などがある。
出土した品は主に石器で、土掘り具とみられる打製石斧が多く出土し、石鏃スクレーパーなどが目立つほか、御物石器、石棒といった祭祀用石器も多く出土している。出土した品は2010年平成22年)6月29日に重要文化財に指定されている[3]



1980年昭和55年)チカモリ遺跡からクリの巨木を縦に半分に割り円形に並べた環状木柱列が見つかった。環状木柱列はその後真脇遺跡でも発見されている。環状木柱列の用途・機能は「儀礼の場」や「特殊な建物」など様々な考えがあり不明である[46]羽咋市吉崎・次場遺跡は北陸地方でも規模が大きい弥生時代の遺跡で近畿東北山陰などとの交流が認められる[46]

能美市には60数基の古墳が点在する能美古墳群がある。その中心に位置する和田山・末寺山古墳群からは武器・武具など大量の副葬品が出土している。また、同じ能美古墳群の一角にある秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳である。中能登町雨の宮古墳群には北陸最大級の前方後方墳である雨の宮1号墳がある。また、七尾市の能登島にある須曽蝦夷穴古墳はドーム型の墓室を持ち朝鮮半島古墳にも通じるものとされる[46]

能登町位置図
能登町(のとちょう)は、石川県能登半島北部に位置する鳳珠郡

古代

  • 真脇遺跡・・・縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡
真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。用水路工事に伴う1982 - 1983年にかけて行われた発掘調査により発見された。遺跡は入江奥の沖積低地の遺物包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした土層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期 - 中期にかけて多く見られる)。イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。

遺跡最晩期の土層からは円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。その太さは直径80 - 96センチもある。小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

遺跡は、1989年に国の史跡に指定された。また出土品のうち保存状態の良好なもの219点が1991年に国の重要文化財(考古資料)に指定された。

  • 718年(養老2年)5月2日:越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡珠洲郡の四郡を分立して能登国成立。
  • 741年(天平13年)12月10日:越中国に併合。
  • 748年(天平20年):大伴家持が能登巡行。
  • 757年(天平宝字元年):再び分立し能登国成立。
  • 8世紀初めごろ:鳳至郡の最初の行政長官。鳳至郡司に外正ハ位下能登臣智麻呂が任命される。(中央官人が派遣)

中世

旧珠洲郡

  • 平安時代に入ると荘園開発が進み12世紀半ばには能登最大級の荘園である摂関家九条家領の若山荘が成立し、事実上の支配権は日野家がその領主になる。荘園内にある法住寺や春日神社を庇護し支配権を確立。鎌倉時代に入ると地頭職も定められるが形骸化し、引き続き日野氏の支配が続く。
  • 1470年(文明2年):松波城着工。1474(文明6)年に完成。能登畠山3代当主・畠山義統が建設。
三男・義智が松波に入部して自ら松波畠山氏の祖となり以後100年近く同地を領した。

旧鳳至郡

  • 崎山城・・・能登畠山氏の重臣であった三宅一族の居城 

江戸

  • 織田・上杉家の能登畠山家を巡る騒乱を経て、織田家配下前田利家の所領に。
  • 江戸期、加賀藩独自の十村役に山本家・中谷家・源五家等がなり支配
  • 松波には鍛冶町,本組などの町々が形成され,収納蔵,塩蔵などが置かれた。
  • 1627年(寛永4年):能登奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の年貢・塩の算用を担う奥両郡算用場が珠洲飯田に置かれる。
  • 1729年(享保14年):能登半島で大地震
  • 1756年(宝暦6年)6月:大雨・洪水 死者76名
  • 1756年(宝暦6年)7月:宝暦の百姓一揆(地域の23カ村の千人ほどが宇出津の十村役源五宅を襲撃)

古代

大伴家持も参詣した気多大社[49](羽咋市)
県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていた。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国の国司として赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。平安時代初期の823年になって越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立てられた。これは令制上最後の立国である。
七尾市にある能登国分寺跡は、能登地方を支配した能登臣(のとのおみ)一族が白鳳時代に建てた寺院を843年国分寺としたものである。法起寺伽藍配置を持ち[50]、約400年にわたり能登の仏教の場として栄えたとされる[46]。奈良時代から平安時代には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し交易が行われていた。志賀町福浦港では渤海使が船の修理や宿泊をしたと伝えられており、平安時代初めに渤海使接待のため能登国に建てられた能登客院はこの地にあったと考えられている[51]
野々市市末松廃寺跡は加賀地方北部に本拠を置く有力氏族道君(みちのきみ)が7世紀後半に創ったとされる寺院である。法起寺式伽藍配置をしており、屋根瓦の一部は能美市辰口地区(旧・辰口町)で焼かれたものであることが分かっている[46]奈良平安時代北陸地方には東大寺西大寺などの荘園が多くあった。白山市から金沢市に跨る東大寺領横江荘もそうした荘園の一つである[46]。平安時代に修験道が活発になると白山を山岳信仰の対象とする白山信仰が広まり、山頂への登山道(禅定道)の起点の一つとなった白山比神社は信仰の拠点となった[52]
平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、源義仲(木曾義仲)が倶利伽羅峠の戦い津幡町)で数で圧倒する平家の義仲追討軍を破り[53]、さらに篠原の戦い加賀市)で逃げる平家を追撃し、京都に進んだとされる。

安田城(やすだじょう)は富山県富山市婦中町安田にあった戦国時代末の日本の城(平城)。存城期間が短かったため後世の改変がなく、当時の遺構をほぼそのまま残す全国的にも貴重な城跡である。

$
0
0


安田城跡資料館 - 富山市

www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/yasuda/top.htm - キャッシュ
歴史講座開催のご案内. 「中世城館の情報連絡について-富山市のお城を中心として-」. 6月19日(火曜日)10時から12時まで 講師佐伯哲也氏(北陸城郭研究会会長). ミニ企画展を開催中! 「秀吉の越中出陣前後の婦負-白鳥城・安田城・大峪城・安養坊砦、  ...
安田城跡資料館に関する地図
  • 安田城跡資料館の画像
  • 安田城跡資料館の画像
  • 安田城跡資料館の画像
住所: 電話: 最寄り駅:
富山県富山市婦中町安田244-1
076-469-4241
婦中鵜坂駅[出口]から徒歩約14分
www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/.../shiryoukan.htm - キャッシュ
資料館では映像や出土品による解説を行い、天気の良い日には展望室で立山連峰をバックにした城の全景を御覧いただけます。 安田城資料館, 2階展望台からの眺め. 安田城跡資料館, 2階展望室からの眺め ...
www.info-toyama.com/spot/11067/ - キャッシュ
発掘調査で本丸・二の丸・右郭と堀が確認されており、古絵図「安田古城之図」とも一致し、保存状態がよく全体像がわかる貴重な例として1981年国史跡に指定されました。 安田城跡資料館では、安田城を紹介するビデオの上映や出土品の展示がされています。
ja.wikipedia.org/wiki/安田城_(越中国) - キャッシュ
安田城(やすだじょう)は富山県富山市婦中町安田にあった戦国時代末の日本の城( 平城)。存城期間が短かったため後世の改変がなく、当時の遺構をほぼ ... 関連施設[ 編集]. 安田城跡資料館: 所在地:富山市婦中町安田224 - 1: 開館時間:9:00~17:00: 休館日:月曜、祝日の翌日、年末年始: 入館料金:無料: 駐車場:50台(無料) ...
サイト内リンク:
構造 - 歴史
www.pcpulab.mydns.jp/main/yasudajyo.htm - キャッシュ
平成2年(1990年)から4年にかけて整備事業が行われ、現在土塁、水濠が復元され、 資料館が併設されています。資料館には城跡からの出土品が展示されています。 この安田城は、戦国時代の平城がどのような構造だったのかを伺わせる貴重な遺構です。
www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g298126-... - キャッシュ
安田城跡歴史の広場、富山市の写真: 安田城跡資料館 - トリップアドバイザー メンバーが投稿した写真 (3318 件) および安田城跡歴史の広場の動画をチェック.
www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298126-d8148... - キャッシュ
評価(評価: 3.5)評価:3.5-5件のレビュー
安田城跡資料館には、秀吉の越中攻めで使用された安田城と白鳥城で発掘された出土品や模型などが展示されています。昨年からは北陸の城郭研究で知られる佐伯哲也氏が作成した富山県内の山城の縄張り図も配布されています。現在32の山城の縄張り.
toyamacastle.web.fc2.com/toyama/yasuda.html - キャッシュ
安田城. 富山県富山市婦中町安田字殿町割. 天正13年(1585)豊臣秀吉による越中佐々成政討伐の際、白鳥城の出城として前田 ... 安田城 遠景 隣接する安田城跡資料館テラスから見た本丸方向. 安田城案内板. 右郭と水堀. 右郭 。周囲に土塁はありません。
www.shirofan.com/shiro/hokuriku/yasuda/yasuda.html - キャッシュ
富山県の安田城へ誘う観光情報と見どころを掲載。 ... 安田城. 住所:富山県富山市婦中町安田244-1 / 富山県 / 城ファンチェック: 1 件. 安田城・右郭 .... 安田城跡資料館は、9時から17時、休館は月曜日(祝日の場合は開館)・祝日の翌日・年末年始。なお、 城跡 ...
kojodan.jp/castle/429/ - キャッシュ
評価(評価: 3.2)評価:3.2-65件のレビュー
安田城(富山市)の見どころや構造、歴史や雑学、さらに地図などのアクセス情報を写真つきで詳しくご紹介します。安田城は別名、安田塁と呼ばれてい ... 行われ、土塁、水濠が復元されました。また城址には見学用施設として安田城跡資料館が併設されています。




イメージ 1




イメージ 2



イメージ 3


www.pref.toyama.jp/branches/3041/maibun/ - キャッシュ
縄文土器、弥生土器、ヒスイ勾玉など、富山県の遺跡からの出土品を展示しています。
www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center.htm - キャッシュ
2018年6月4日 - 富山市教育委員会 埋蔵文化財センター. 〒939-2798 富山県富山市婦中町速星754 (婦中行政サービスセンター内 3階). 電話番号 076-465-2146 ファックス番号 076-465- 5032 メールアドレス maizoubunka-01@city.toyama.lg.jp ...
www.city.toyama.toyama.jp/.../maizobunkazaijoho.html - キャッシュ
埋蔵文化財の発掘調査・記録開発行為に伴う遺跡の発掘調査等を行い、記録を残す。 史跡と埋蔵文化財の保存・活用史跡や重要な遺跡を保存し、整備を行い、歴史活動の場として提供する。 国史跡北代遺跡は「北代縄文広場」、国史跡安田城跡は「安田城跡 ...
museums.toyamaken.jp/museum/cehm033/ - キャッシュ
ホーム > 富山県埋蔵文化財センター. 富山県埋蔵文化財センターToyama Prefectural Center for Archaeological Operations. 富山県埋蔵文化財センター. 沿革・概要. 昭和52年1月開設。埋蔵文化財の調査研究と保存活用を図るため、県立としては全国初の ...
www.jalan.net > ... > 北陸の観光 > 富山の観光 > 富山の観光 > 富山市の観光 - キャッシュ
評価(評価: 4)評価:4-6件のレビュー
富山県埋蔵文化財センターの観光情報 営業期間:営業:9時~17時、交通アクセス:(1) JR北陸本線富山駅より富山地鉄バス高岡・新港行15分、呉羽山公園口より徒歩5分。 富山県埋蔵文化財センター周辺情報も充実しています。富山の観光情報ならじゃら.
ja.wikipedia.org/wiki/富山県埋蔵文化財センター - キャッシュ
富山県埋蔵文化財センター(とやまけんまいぞうぶんかざいセンター、Toyama Prefectural Center for Archaeological Operations)は富山県富山市茶屋町にある埋蔵文化財の調査・研究、展示を行う公立施設。富山県博物館協会会員。


イメージ 4



イメージ 5










イメージ 6





イメージ 7




イメージ 8





イメージ 9





イメージ 10
7





イメージ 11





イメージ 12




イメージ 13





イメージ 14



イメージ 15




イメージ 16

長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。

$
0
0

長滝白山神社

長滝白山神社 所在地 位置 主祭神社格等 創建 本殿の様式別名 例祭
Nagatakihakusan-jinj honden.jpg
本殿(2015年5月)
岐阜県郡上市白鳥町長滝138
北緯35度55分15.46秒
東経136度49分50.30秒
菊理媛神
伊弉諾尊
伊弉冉尊
旧県社
伝養老元年(717年)
神明造
白山長滝神社
1月6日:六日祭(花奪い祭)
5月5日:でででん祭り
テンプレートを表示
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代神仏分離により、長滝白山神社長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。



イメージ 1




イメージ 2



イメージ 3



イメージ 6




イメージ 4





イメージ 5



イメージ 7


イメージ 9


イメージ 8






イメージ 10



イメージ 11



イメージ 13





イメージ 14





イメージ 15




イメージ 16



イメージ 17





イメージ 18



イメージ 19

祭神

沿革

伝承によれば、養老元年(717年)、白山中宮長滝寺として泰澄が創建したとされる。同6年には同寺にて元正天皇の病気平癒を祈願して効験があったことから、元正自作の十一面観音聖観音阿弥陀如来の本地仏を安置し、白山本地中宮長滝寺に改称したという。
天長5年(828年)にはそれまでの法相宗から天台宗寺院へ改宗。同9年には白山三馬場の一つになる(『白山之記』)。馬場とは禅定道の起点のことであり、白山三馬場とは、美濃国の白山中宮長滝寺、加賀国の白山寺白山本宮(現白山比神社)、越前国平泉寺白山神社である。平安時代の長滝寺は、白山三所、若宮社、大講堂、鐘楼、護摩堂、神楽殿、三重塔、法華堂、薬師堂など30以上の堂宇が建ち、6谷6院360坊を有していたという。文永8年(1271年)には火災により半数の建物を焼失。正応3年(1290年)には本殿が再建された。
江戸時代には白山嶺上の管理を巡り、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺、加賀馬場の白山寺白山本宮、越前馬場の平泉寺との論争が起きる。日本全国の白山神社の半数以上が白山本地中宮長滝寺系統の白山神社であったという。
慶応4年(明治元年、1868年)、神仏分離令により、長滝白山神社と長瀧寺に分離した。白山本地中宮長滝寺の建物のうち、白山三社、拝殿は長滝白山神社となり、大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺となる。明治32年(1899年)に火災で社殿を焼失し、現在の建物は大正時代の再建である。


イメージ 26


主な行事

  • 1月6日:六日祭(花奪い祭)
  • 5月5日:でででん祭り
    • 豊作、豊蚕、無病息災を祈願する祭り。独特の太鼓を敲く音から、でででん祭りと呼ばれる。

文化財

  • 鉄蛭巻手鉾(てつひるまきてぼこ)[1]
  • 鉄製斧 木柄付(入峯斧)[2]
  • 銅仏餉鉢(どうぶっしょうばち)3口[3]うち内1口に正和三年、1口に元亨三年、1口に延文二年の紀年銘あり
  • 木造古楽面 27面[4]鎌倉時代から江戸時代に至る古楽面群で、能面の源流を知るうえで重要な資料である。[注釈 1]
  • 古瀬戸黄釉瓶子 2口[5]正和元年十二月施入の銘がある - 正和2年は西暦1312年
石燈籠
  • 石燈籠 正安四年壬寅七月日願主伝燈大法師覚海の刻銘がある - 正安4年は1302年
  • 黄地蝶梅文様繍狩衣・黄地牡丹文様繍狩衣[6]各元和六年(1620年)墨書銘
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
重要無形民俗文化財
  • 長滝の延年[7]
岐阜県指定重要文化財
  • 絹本著色聖武天皇真影[8]
  • 木造狛犬[9]
  • 和鏡[10]
  • 朱根来瓶子[11]
  • 木造唐櫃[12]
岐阜県指定天然記念物
  • 白山神社のスギ[13]






イメージ 12







所在地

  • 岐阜県郡上市白鳥町長滝138




周辺

  • 徒歩5分で白山文化博物館があり、白山信仰や白鳥町の歴史が展示されている。


イメージ 25
  • 徒歩4分で道の駅白鳥があり、地域の産物や土産物を販売している。


交通

公共交通機関



イメージ 20



イメージ 21



イメージ 22



イメージ 23


イメージ 24

  • 郡上市自主運行バス白鳥ひるがの線(旧名金急行線)「長滝神社前」下車

[転載]未だに根本的な治療方法さえ確立していない現在、「カネカ・カネミ油症被害者」が直面している問題は

$
0
0
未だに根本的な治療方法さえ確立していない現在、「カネカ・カネミ油症被害者」が直面している問題は
1.資金が無い、治療費を出し渋る「カネミ倉庫」への「国」の支援の拡大
2.認定された後も、十分な補償を受けていない「新認定患者」の救済
3.「認定基準」の見直しと「未認定被害者」の「早期認定」
4.胎盤を通して胎児への「PCB」の移行が医学的に証明されている今、「認定患者」から生まれた子供の「認定」
5.生活に困窮する「カネカ・カネミ油症患者」への、「国」の支給する「健康調査協力金」の増額
イメージ



イメージ




イメージ



イメージ

転載元: 持続可能な開発(水・土・廃棄物)

「志賀町に 泊まる」と言って助成券をもらってください

$
0
0

石川県レンタカー協会加盟店からレンタカーを借りると1泊3,000円
前後、3連泊分まで志賀町から助成されます。
トヨタレンタリース、ニッポンレンタカー、日産レンタカー、オリックス
レンタカー、駅レンタカー、タイムズレンタカーなど加盟店で
「志賀町に 泊まる」と言って助成券をもらってください




志賀町レンタカー利用者助成制度

能登半島の観光はレンタカーが便利!

http://www.town.shika.ishikawa.jp/data/open/cnt/3/1364/1/rentaka-tirashi.jpg http://www.town.shika.ishikawa.jp/data/open/cnt/3/1364/1/0000000010_0000031504.jpg

石川県レンタカー協会・富山県レンタカー協会の加盟店にてレンタカーを借り、
志賀町の対象施設(町内36施設)に宿泊した方を対象に、レンタカー代金の一部を助成するものです。

1.石川県および富山県レンタカー協会加盟店の窓口にて、レンタカーを借りる受付時に
 「志賀町にて宿泊する」ことを伝えてください。レンタカー会社窓口にて助成券の交付が受けられます。

2.レンタカーで能登半島の観光をお楽しみください。観光を楽しんだあとは志賀町へ。
  宿泊施設のフロントへ、交付を受けた利用助成券を提出してください。

3.宿泊施設をチェックアウトするときに、宿泊代金からレンタカー助成額を差し引いた金額を支払います。
  レンタカー利用者において、このほかの手続きは必要ありません。

 この制度について
 *石川県および富山県レンタカー協会加盟店のレンタカーに限る。
 *レンタカー利用者又は搭乗者のうち1名が助成対象。
 *車種により助成額が異なります。
 *最長3連泊までの助成となります。
 *志賀町が行う「地域交流型合宿等助成金交付事業」との併用はできません。
 *観光・仕事、どちらの用途の利用でも助成が受けられます。

関連ファイル

お問い合わせ

部署: 商工観光課
住所: 〒925-0198 石川県羽咋郡志賀町末吉千古1番地1 本庁舎2階

[転載]2007年2月22日 (兵庫県高砂市曽根町)

$
0
0

今日は久しぶりの遠征地として、ブライダル都市高砂市に行ってきました。
兵庫県西部の姫路市と加古川市に挟まれた小さな都市であります。
市の花は「菊」、「市」の木は松と大変風光明媚なところでもあり、
いたるところに植えられている松とは、海岸線と相性がいいのか風情が漂っています。

高砂市の人口は10万人にあと少しというところでもあり、
平成10年の99422人をピークに現在は97225人と弱冠下り坂であります。
しかし、日本中で少子化が謳われる中では貢献しているともいえます。

主な産業のうち有名な竜山石(今回の写真)は、凝灰岩特有の優れた防火性と、
耐久性に優れた特性から、主に建築・環境用石材としての需要が多く、
古代、畿内の豪族勢力の石棺に用いられたり、仁徳天皇陵の石材にも用いられています。
安土桃山時代になると、姫路城や明石城、大阪城など築城の際にも用いられ、
姫路藩の専売特許として全国に提供されていきました。

ただ、磨いてもつやが出なく、派手な装飾が出来ないために、
現代のような御影石のようにはいかず墓石には向きません。
そのようなこともあってか竜山石の市場はあまり大きくも無く、
知名度も低くなってしまいました。

今日の調査対象エリアは山陽新幹線沿線から山陽電鉄沿線と広く、
まだまだ広大な空き地と田畑が目立つ住宅街でありました。
駐車場も数が少なく供給が間に合っていないようでもあり、路上駐車は多かったです。
駐車料金も5000円からと都心部の10分の1の価格で非常に安いのが特徴で、
複数代契約などすれば20台詰め込んでも10台分とかも十分考えられます。

神戸市内まで50分、大阪市内まで100分?とアクセスは悪いものの、
姫路市内、加古川市内、明石市内へは比較的近くもあります。
しかしこの地域では、自動車が無いと生活に不便を感じるのではないでしょうか。

転載元: 駐車場調査日記

[転載]日本海海戦から110年 対馬の人々は敗残のロシア兵を手厚く介抱した 今年も5月27日に対馬で慰霊祭

$
0
0
日本海海戦
 日露戦争中の1905年5月27~28日、対馬沖で日本海軍の連合艦隊がロシア海軍バルチック艦隊を破った。当時、世界最大の軍事力を保持していたロシアの敗北は世界を驚かせた。同年9月5日にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終結した。日本以外の国は対馬沖海戦と呼ぶ。
(2014年5月3日掲載)

語り継がれる人間愛 日本海海戦 敗残ロシア兵介抱 対馬市上対馬町西泊 今年も慰霊祭/平和を ナガサキ

 対馬市の厳原港から北へ約100キロ。景勝地で知られる上対馬町殿崎に、日露戦争の日本海海戦の記念碑が立つ。戦いに敗れ、この地にたどり着いたロシア兵を地元の人たちは介抱し、手厚くもてなした。国家の争いを超えた人間愛は大切な資料とともに受け継がれている。 
 

 殿崎の段山からは日本海が見渡せる。1905年5月27日、戦闘の火ぶたが切られた。

 「村人たちは段々畑の麦を刈りながら、海の向こうの大海戦を目にした」「水平線のかなたから光るものが少しずつ近づいてきた」。殿崎に程近い西泊地区に住む犬束通さん(93)は、当時14歳だった母や古老から、開戦とその後の村に起きた出来事をよく聞かされた。

 開戦初日の昼すぎ、日本海軍に撃沈されたロシアバルチック艦隊の戦艦モノマフの敗残兵143人が、4隻のボートに分乗して浜に上陸した。「西泊の村は水兵の上陸で大騒ぎになった」-。犬束さんが話を続ける。

 ロシア兵の中には深い傷を負った者もいた。言葉は通じなかったが、身ぶり手ぶりでやりとりをするうちに、水をほしがっていることが分かった。村人たちは、恐れながらも近くの水場へ連れて行き、水を飲ませた。

 ロシア兵は西泊の2階建て民家6軒に分宿した。村人はおかゆやイモ、その頃は貴重な食糧だった米も炊き、軍服を洗濯した。村人の振る舞いにロシア兵は心から感激していたという。

 日本海海戦記念碑は1912年に建立され、連合艦隊を率いた東郷平八郎元帥が記した「恩」「海」「義」「〓(〓は「やまへん」に「喬」)(きょう)」の文字が刻まれる。恵みの海と、ロシア兵を温かく受け入れた西泊の人たちの義の気高さをたたえたとされる。

 海戦100周年の2005年には、近くに新たな記念碑が建立された。対馬沖で重傷を負い、佐世保の海軍病院で治療を受けていたロシア艦隊のロジェスト・ウェンスキー司令官を東郷元帥が見舞い、握手をする場面が描かれている(古島松之助画)。

 犬束さんはたくさんの先人に伝え聞いたことを後世に残すため、海戦伝記集「妣(はは)と記念碑」を09年に自費出版した。「敵兵でも同じ人間であることに変わりない。悲しい歴史の中にも人間愛があったことを、生きている限り伝えていきたい」。西泊の美挙がいつまでも語り継がれることを願ってやまない。


    ■   ■

 西泊地区の農家で、日本海海戦の記念碑に関する文書が丁重に保管されている。記念碑に刻まれた東郷元帥の揮毫(きごう)の写し、対馬出身の在京軍人が書いた手紙、記念碑建立の趣意書や寄付の文書など約100点。

 23戸の農家でつくる西泊農組は散逸を防ぐため、資料を収めた木箱を開けるときの決まり事を定めている。普段は開かれることのない木箱には「五人以上ノ立會(たちあい)ヲ受ケザレバ開箱スルヲ禁ズ」と書かれている。5人の立ち会いと署名なしに開けることはできない。最近も10年ほど閉じたままだった。「記念碑ができた当時の様子を伝える大事な資料。大切に保管し、次世代に引き継ぎたい」と安心院(あじみ)文夫組合長(80)。関係者はこのしきたりを固く守り続けている。

 来年で開戦110年となる日本海海戦。今年も5月27日に殿崎で戦没者の慰霊祭が行われる。

 ●浜辺に残る戦艦の大砲 茂木浜海水浴場

 天然の砂浜が広がる対馬市上対馬町の茂木浜海水浴場。夏になると海水浴客でにぎわう浜辺に、場違いな鋼鉄の大砲がある。日本海海戦で日本海軍に撃沈されたロシア戦艦ナヒモフの大砲だ。

 大砲は1980年に海中から引き上げられた。さびついた口径20センチの砲身の先に日本海が広がる。この浜にも、100人近いロシアの敗残兵が3隻のボートに分乗して上陸した。

 ロシア兵は近くの琴(きん)地区の民家や小学校に収容された。ここでも村人たちは食事や焼酎を与え、ロシア兵を喜ばせたと伝えられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以上、西日本新聞)
 
対馬は外敵と向き合う最前線です。元寇の悲劇はしっかりと後世に語り継いで行かなければなりません。
もう一つとても大切なことがあります。
明治時代以前から、植民地化の波が東洋に押し寄せて来ていて、特に領土拡張の野望あからさまなロシア帝国に当時の小国・日本が敢然と立ちあがった日露戦争の最終局面となった日本海海戦。これは対馬の島民の眼前で展開されました。
島民は今でも当時を語り継ぎ、歴史を顕彰して戦死した日露の将兵を慰霊しています。
イメージ
 
海戦の叙事詩の歌です。戦いの経緯がよく分かります。
 
イメージ
10年前に建てられた顕彰碑 
負傷して佐世保の海軍病院で手厚い看護を受ける敵将
ロジェストウェンスキー提督を東郷提督が見舞った様子のレリーフです
 
                     ツシマの歴史凄いでしょ
                            イメージ
 
対馬に行くなら
イメージ
 
関連記事
 私が対馬で泊まるとしたら、日本人が集まって来る宿を選びます。  
                    
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
お勧めサイト
対馬への旅行、物産購入、音楽などいろいろ充実しています。
韓国人観光客押し寄せによる諸弊害を排することができるよう支援しましょう。
                                                                         イメージ 2
 
対馬支援@wiki』  
 このwikiのアイドル画像「恵海(めぐみ)」ちゃんです。

転載元: くにしおもほゆ


対馬北端に行こう!東郷平八郎著の「恩海義僑」とは、「日本海海戦で死の海となった対馬の海が恩愛の海となった。対馬の人たちの義は気高いものだ」という意味を表しています。

$
0
0

イメージ 15


イメージ 1



イメージ 8

www.nagasaki-tabinet.com > HOME > 観光スポット - キャッシュ
この対馬沖で繰り広げられた日本海海戦を記念して地区住人により建立された記念碑です。 ... 戦況を見守る傍ら農作業をしていた農婦は、命からがら逃げ延びてきたこの水兵達を水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど、手厚く持てなした ...


イメージ 2

b-co811.hatenablog.com/entry/2015/05/20/000000
日本海海戦日露戦争中の1905年5月27~28日、対馬沖で日本海軍の連合艦隊がロシア海軍バルチック艦隊を破った。 ... 殿崎に程近い西泊地区に住む犬束通さん(93) は、当時14歳だった母や古老から、開戦とその後の村に起きた ...




イメージ 3
www.47news.jp/2405656.html
2018年5月31日 - 日露戦争の「日本海海戦」で犠牲となった日露両国の戦没者の慰霊祭が27、28の両日、対馬市上対馬西泊の殿崎公園であった。 海戦は1905年5月27日に対馬沖であり、日本の連合艦隊が勝利。翌28日、 ...



イメージ 4



イメージ 5
www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1022846-d662... - キャッシュ
評価(評価: 4)評価:4-16件のレビュー
日本海海戦記念碑(対馬市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(16件)、写真(11枚) 、地図をチェック!日本海海戦記念碑は対馬市で9位(68件中)の観光名所です。 ... 〒 817-1703 長崎県対馬市上対馬西泊. 電話番号を追加する · Web サイトを追加する.



イメージ 6



イメージ 7
this.kiji.is/374767721973367905
2018年6月1日 - 日露戦争の「日本海海戦」で犠牲となった日露両国の戦没者の慰霊祭が27、28の両日、対馬市上対馬西泊の殿崎公園であった。 海戦は1905年5月27日に対馬沖であり、日本の連合艦隊が勝利。翌28日、同町の西泊に流れ着いた100 ...


イメージ 9

イメージ 16
mainichi.jp/articles/20160611/ddl/k42/040/314000c
対馬市上対馬町の住民がこのほど、1905年の日本海海戦に敗れて対馬に流れ着いたロシア兵と島民との交流を描いた漫画「ロシア兵を救った上 ... 沈没したロシア艦から逃れた262人のロシア兵が同町西泊や茂木に流れ着いたとされる。


イメージ 10



tsushima.world.coocan.jp/kamitusima/S.kankou/.../tonosaki.ht... - キャッシュ
明治38年(1905)5月27日から翌28日、祖国の興廃をかけ、この対馬沖で繰り広げられた日本海々戦を記念し、地区住人により建立された。 この海戦の際、撃沈されたロシアバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名は、4隻のボートに分乗し、 この地に上陸した。戦況を見守る傍ら農作業をしていた農婦は、命からがら逃げ延びてきたこの水兵達を水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど、 手厚く持て成 .




イメージ 11
..
www.welcomekyushu.jp/event/?mode=detail... - キャッシュ
この対馬沖で繰り広げられた日本海海戦を記念して地区住人により建立された記念碑です。 ... 戦況を見守る傍ら農作業をしていた農婦は、命からがら逃げ延びてきたこの水兵達を水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど、手厚く持てなした ...


イメージ 12

src-h.slav.hokudai.ac.jp/ubrj/whats-new/archives/.../3060.html - キャッシュ
北大・九大合同チームで展開する「国境観光」プロジェクトの一つの舞台である対馬市上対馬西泊の区長が、5月27日、日露戦争時に対馬沖で繰り広げられた日本海海戦の慰霊祭に参列したロシア大使館の総領事に対して、ヴラジーミル・ ...




イメージ 13
blogs.yahoo.co.jp/watch_compass/11680659.html - キャッシュ
語り継がれる人間愛 日本海海戦敗残ロシア兵介抱 対馬市上対馬西泊今年も慰霊祭/平和を ナガサキ. 対馬市の厳原港から北へ約100キロ。景勝地で知られる上対馬町殿崎に、日露戦争の日本海海戦の記念碑が立つ。戦いに敗れ、 ...


イメージ 17

イメージ 14

イメージ 18


宗像・沖ノ島に行こう!福岡県沖ノ島のペルシャから来た宝物が伝えるシルクロードからの古代アジア交流

$
0
0

イメージ 1



イメージ 17


古代祭祀とシルクロードの終着地 沖ノ島 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) | 弓場 紀 ...

www.amazon.co.jp/古代祭祀とシルクロードの終着地-... - キャッシュ
Amazonで弓場 紀知の古代祭祀とシルクロードの終着地 沖ノ島 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)。アマゾンならポイント還元本が多数。弓場 紀知作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また古代祭祀とシルクロードの終着地 沖ノ島 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) ...




イメージ 2
www.city.munakata.lg.jp > ... > 文化財 > 時間旅行むなかた - キャッシュ
シルクロードは、陸路の「草原(ステップ)の道」「オアシスの道」、海上路の「南海ルート」 の3つの道で構成されています。 ... 世界遺産登録を目指す「沖ノ島」は、国家的祭祀( さいし)が実施され、「海の正倉院」と呼ばれるほど、多くの品が奉納 ...



イメージ 3
www.okinoshima-heritage.jp/know/ritual - キャッシュ
島全体が信仰の対象である沖ノ島では、「神宿る島」として厳しく入島を制限する禁忌などの慣習が人々の間に根付き、 自然崇拝 ... 金製指輪は新羅の王陵から出土した指輪とよく似ており、 また、イラン製のカットグラス碗片は遥かシルクロードを経てもたらされ ...




イメージ 4
www.viento-office.com/okinoshima/index.html - キャッシュ
神の島・沖ノ島からはシルクロードを介してわたってきたペルシャガラスが発掘されている。作曲した竹口美紀曰く「沖ノ島に流れ着いたペルシャガラスを通して、遠き異国のラクダの歩みに想いを馳せました」という。Vientoでは初登場となるハープの響きがシルク ...



イメージ 5
www.nishinippon.co.jp > 西日本新聞 > 注目 - キャッシュ
玄界灘にある沖ノ島(福岡県宗像市)は、4世紀後半から9世紀末の国家的祭祀(さいし) の様相を今に伝える。2017年...| 西日本新聞は、九州の ... シルクロードを経てもたらされた品々を含む出土品約8万点は国宝だ。辺りには土器片が今も ...




イメージ 6

沖ノ島 シルクロードの画像

-Yahoo!検索(画像)
78770533.jpg510TD05JG3L._SX346_BO1,204,203,200_.jpg510TD05JG3L._SR600%2C315_PIWhiteStrip%2CBottomLeft%2C0%2C35_PIAmznPrime%2CBottomLeft%2C0%2C-5_SCLZZZZZZZ_.jpg3.jpg
www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s46.html - キャッシュ
沖ノ島と大和朝廷の関係は、祭祀遺跡や古墳から出土した資料を比較しながら眺めることで、はじめて明らかになります。 沖ノ島の選りすぐり ... シルクロードの流れを 汲 く む黄金の指輪は、まさに日本とアジアのつながりを示す資料と言えるでしょう。 新羅王 しら ...



イメージ 7
bookmeter.com/books/1838803
評価(評価: 86%)評価:86%-3件のレビュー
古代祭祀とシルクロードの終着地 沖ノ島 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)の感想・レビュー一覧です。




イメージ 8
mainichi.jp/articles/20170528/k00/00m/040/128000c
島内の祭場跡から金製指輪や銅鏡、シルクロード経由のガラス工芸品が出土した。 ... 世界遺産の登録を目指す「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」の資産8件のうち勧告を受けたのは沖ノ島と周辺三つの岩礁の4件のみ。7月のユネスコ ...

イメージ 13


イメージ 9



イメージ 12


イメージ 14


イメージ 16


イメージ 15
www.nhk.or.jp/historia/backnumber/327.html
2017年11月3日 - 平成29年、世界遺産に登録された「沖ノ島」。4世紀から500年にわたって祭祀の場となり、神に捧げられた宝物のうち、8万点が現在 国宝に。玄界灘に ... 参考文献. 『 シリーズ遺跡を学ぶ 古代祭祀とシルクロードの終着点 沖ノ島』(新泉社)




イメージ 10




イメージ 11





能登はいらんかいね 能登半島とは、北陸地方の中央付近から日本海へ北に向けて突き出した半島である。日本における日本海側海岸線で最も突出面積が大きい半島である。

$
0
0


能登半島

能登半島座標最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属大陸・島 所属国・地域
能登半島のランドサット衛星写真。スペースシャトル標高データ使用。
北緯37度15分23.6秒
東経136度52分43.1秒
座標: 北緯37度15分23.6秒 東経136度52分43.1秒
544m
鉢伏山
石川県七尾市
日本海
本州
日本の旗日本
テンプレートを表示
能登半島の位置
能登半島の位置
能登半島
能登半島の位置
能登半島の地形図
能登半島(のとはんとう)とは、北陸地方の中央付近から日本海へ北に向けて突き出した半島である。日本における日本海側海岸線で最も突出面積が大きい半島である。近世以前は、多くが能登国であったため、こう呼ばれる。

概要

大半が石川県に属するが、宝達丘陵の南東側は富山県氷見市)に属する。半島付け根の側は富山湾を形成する。半島東側の中部には、能登島を抱えるように七尾湾がある。このほか半島全体に断崖など変化に富んだ海岸線が多く、景勝地・観光地として知られる。半島の北方沖合には舳倉島七ツ島という離島がある。
半島内部は、標高 200 mから 500 m 程の丘陵地帯(南部は宝達丘陵、北部は能登丘陵)が連なり、平地は少ない。輪島市などでは千枚田が見られ、中でも白米千枚田は有名。海岸線を主体に広い範囲が能登半島国定公園に指定されている。漁業水産業が盛んで、古代からナマコの特産地である。現代では牡蠣も多く養殖されている。
地形・気候が厳しい反面、北前船など日本海交易の中継地でもあったことから、独特の文化や気風が育まれた。輪島朝市や半島各地で夏から秋にかけて開かれる能登キリコ祭りはその表れである。「能登はやさしや土までも」との言葉もあるように、人はもとより土までも優しい(柔らかい意)と言われている。また女性がよく働くことから「能登のとと楽 加賀のかか楽」という言い回しもある。

能登国沿革

養老2年(718年5月2日越前国から羽咋郡能登郡鳳至郡珠洲郡の四郡を分立して成立した。天平13年(741年12月10日越中国に併合された[1]が、天平宝字元年(757年)に再び分立した。
また、天元3年(980年)、『和名抄』の編纂で有名な源順が能登国守として赴任している。
能登郡の名称は後に鹿島郡へと改められた。

近代以降の沿革


www.geocities.co.jp/une_genzaburo/historykodai.htm - キャッシュ
そのやり方は絨毯式に畿内に近い方から席巻するのではなく、比較的畿内色の濃い福井平野や能登半島に最初の根拠地を求めたようだ。これは初めから抵抗の大きい地域へ軍事力にものをいわせて侵攻するより、いくらかの交渉がもたれていた地域を傘下に ...
サイト内リンク:
1.大和朝廷のノト支配 - 2.能登の国の成立 - 3.律令制下の人々の姿
gurutabi.gnavi.co.jp > ... > 名所・観光スポット - キャッシュ
能登半島の人気の歴史・郷土文化に関連した観光情報をご紹介。全国各地の59件の歴史・郷土文化に関連した情報の他、ぐるたびは学びや刺激・感動のある旅情報を発信しています。
Photo
北國新聞社
北陸歴史遺産研究機構は、かつて修験者がたどった石川、富山県内の古道を調査し、そのルートをほぼ踏破した。研究機構が「巡礼の道北陸歴史古道」と名付けたルートは、能登半島から中能登町の石動山(せきどうさん...-北國新聞社-12時間前
のと鉄道列車に「能登國」-北陸新幹線で行こう! 北陸・信越観光ナビ-7月3日
ameblo.jp/shimonose9m/entry-12038446785.html - キャッシュ
テーマ:下関歴史. 能登半島は日本海沿岸文化圏の支点であった。半島の東は縄文人が卓越し、西は渡来系弥生人、古墳時代渡来人達が主に居住し、海人族が沿岸を往来し、東西を結び付けた! 九州の志賀、山口県の日置と同じ地名も ...
www.isitabi.com/notohanntou/notohanntou.html - キャッシュ
能登半島歴史や自然の見所を写真を交えて紹介します。能登半島の観光、旅行、 宿泊先の参考にしてください。
www.jalan.net > ... > 北陸の観光 > 石川の観光 > 輪島・能登の観光 - キャッシュ
輪島・能登のおすすめ歴史的建造物6ヶ所をセレクト!人気の上時国家(時 ... ランキングでご紹介。輪島・能登の歴史的建造物スポットを探すならじゃらんnet。 ... 志賀の郷温泉. 能登半島のほぼ中央、日本海を一望にする高台に広がる「志賀の郷リゾート」を.
suzutennen-shio.jp/user_data/history.php - キャッシュ
日本の塩づくりは、戦後の国策によりその様式は大きく変化しましたが、奥能登の風土として残る塩づくりの歴史をご案内いたします。 ... 能登の塩づくりはいつから始まったかは定かではありませんが、製塩用土器が古墳時代、律令時代の地層から出土している ...
earth.s.kanazawa-u.ac.jp/2007_notohanto.../report1.html - キャッシュ
能登半島には、およそ2億年〜2億4000万年前にユーラシア大陸の東縁部に発達した深成岩類を基盤とし、主に新第三紀に形成された火山岩類および堆積岩類が広く分布して .... しかし、能登地方でも被害地震が発生していることは歴史記録上に残されている。
serai.jp > ホーム > 旅行 - キャッシュ
12月10日発売の1月号から第3話「能登半島」に舞台を移した『サライ』連載の「半島をゆく」。今回は、三重大学教授で、戦国期がご専門の歴史学者・藤田達生さんに、連載を執筆する安倍龍太郎さんとの旅行記を執筆していただきました。
www.jstage.jst.go.jp/article/jale/19/2/19_161/_pdf
石川県能登半島歴史と景観の形成過程. 柳井 清治 *. 石川県立大学生物資源環境学部 〒 921-8836 石川県野々市市末松 1 丁目 308 番地. Deciphering landscape: history and development of landscape in the Noto Peninsula. Seiji Yanai*.

[転載]石川県編/歴史性≪全国県民性論破≫

$
0
0
★全国県民性論破★石川県編/歴史性
県旗【共和国誕生】

石川県はもともと加賀国と能登国の二国にあたる。
古代には能登のほうが先に開け、奈良時代に大陸から使者が渡来し、
仏教文化の門戸としての役目を果たした。
その後、農村部に浄土真宗が急速に広まり、百姓が連帯して信者となった。
民衆による共和国が誕生し、「百姓ノ持チタル国」となり、公共自治体が形成された。
しかし秀吉の全国統一によって消滅した。

前田利家が加賀に入り、能登も支配した。
それから約300年近く、加賀、能登、富山を支配した前田家は、加賀を封建美豊かな町につくりあげた。
その気風はいまでもどっしりと根づいている。

silverfleuretサンからの投稿)↓

 守護大名富樫政親は念仏を唱える一向一揆勢に城を囲まれ、自害。
 一族郎党は散りぢりになって加賀を落ちました。
 その後、かのフランス革命に先立つこと400年。
 ここに世界初の民衆自治による共和国が出来上がりました。
 これぞ加賀の一向一揆ですね。

【加賀百万石】

加賀の前田家は、加賀、能登、富山の三国で、122万1000石の雄藩であった。
そのため徳川幕府も恐れたのが前田家であった。
前田家では幕府の警戒心を軟化させるため、武芸ではなく文化の振興に励むに至った。

利常の時代には、徹頭徹尾、文芸に現をぬかした。
「加賀の狸寝入り」がそれである。
これは外様大名が生き抜くための秘策であった。

その後、綱紀の時代になっても、文化の振興に力を注いで中央との緊張親和を心がけた。
綱紀は江戸に入ると鼻毛を伸ばし、鼻水を垂らし、暗君を装ったという。
「加賀の阿呆ぶり」という言葉があるが、「加賀は遊び惚けている」という印象を幕軌こ
強く与えることで、藩を存続させたのである。

前田家は外様大名であるという立場から、武力よりも文化振興に力を注ぎ、幕府に忠節を示した。

初代利家から14代慶寧まで、領地替えは一度もなく、加賀百万石を守りきった。
幕府からは「いつ謀反を起こすか」と疑心を持たれていたから、高山右近の指導のもと、
大改築した金沢城に天守をつくらなかったし、藩を富山、大聖寺などに分けて表面上は石高を
減らす努力も行なった。

その一方で、寺や神社の屋根は、すべて鉛瓦で葺くという、したたかさも持ち合わせていた。
いざというときの準備を怠らなかったのである。
道路を見れば、袋小路や三叉路、五つ辻が入り組んで交差し、外敵の進入に備えていた。

城下には用水を張り巡らせた。
これは城下の景観を保つのが目的でなく、あくまでも軍事目的でつくられていた。

さらに着々と殖産興業を行ない、藩の財政を安定させ、美術・工芸をはじめ加賀文化が花開いた。

このように、加賀百万石が徳川300年の間に一度も転封されなかったのは、
利家以来、「絶対に徳川と争うな」という家訓を守り通してきたからである。

明治維新でも加賀は動かなかった。
一兵たりとも兵を出さなかったため、明治政府から何らおとがめもなく、
加賀文化はそのまま後世に引き継がれていった。

そしてこの地からは、文学者や思想家が多く輩出した。
文化勲章の受賞者は、東京、京都に次ぐ多さである。

silverfleuretサンからの投稿)↓

 維新に動かず、明治初年になって石川県士族はそうとうバカにされたようで。
 世は薩摩長州藩閥政治の真っ只中。
 そこで石川県士族(旧加賀藩士)の島田某が仲間を募り、東京紀尾井坂で明治政府最重要人物の
 大久保利通を刺殺したんですね。西南戦争のすぐ後くらいの頃ですか。

【参勤交代】

加賀の参勤交代は、金沢→富山→上越→長野→軽井沢→高崎→熊谷→江戸のルートをたどった。
東海道に比較すると難所が多く、12泊13日の旅であった。

最大の難所である親不知(新潟の県境)では、麻縄を持った波除人足500人を集めて、人垣をつくり、
藩主を波から守ったという。
行列の数は2000人、全行程中63の宿を利用した。
旅費は現在のお金に換算すると約5億~6億円であった。
いかに加賀が財政豊かな藩であったかがわかる。


* 当記事、『全国県民性論破』は、当管理人BOSSに著作権を帰属し、
  ≪BOSSの『BOSS/心の鏡 参之巻』≫ に付加させたものです。
  無断コピー並びに無断転載及びトラックバックを原則的に禁じています。
  ご必要な場合は、その旨のコメントをくださいませぇwww

  また、当記事は著作者の見識と各種データから客観的に作成する努力をしています。
  誹謗中傷は一切認めていませんので、気を悪くされる方はスルーされることをお勧めいたします。


管理人★BOSS★ BOSS『心の鏡/参之巻』 ヤフブロ・ファミリー 心☆花☆組
Copyright (C) 2005 Allrights reserved

転載元: BOSSの『心の鏡/参之巻』 WEBお遍路

[転載]大伴家持の年譜

$
0
0
養老 2年(718) 1才 大伴旅人の長子として誕生。母は丹比氏。
天平10年(738) 21才 内舎人となる。橘諸兄邸の宴遊に弟書持らと参じ、作歌。(『万葉集』巻8)
天平17年(745) 28才 正六位上から従五位下に叙せられる。
天平18年(746) 29才 越中守となり赴任。
天平20年(748) 31才 出挙のため砺波・婦負・能登などの諸郡を巡行中、作歌 6首(『万葉集』巻17)
天平感宝元年(749) 32才 陸奥の黄金献上を嘉賞する詔を承り、賀歌をつくる。(『万葉集』巻18)
天平勝宝 2年(750) 33才 墾田地検察のため砺波郡主帳多治比部北里の家に宿泊し、作歌。(巻18)
天平勝宝 3年(751) 34才 少納言となり越中国より帰京。
天平勝宝 6年(754) 37才 兵部少輔、次いで山陰道巡察使となり、「防人の悲別の心をいたむ歌」巻20
天平勝宝 8年(756) 39才 淡海三船の讒により、大伴古慈斐解任。家持「族に喩す歌」(巻20)
天平宝字 2年(758) 41才 因幡守となる。
天平宝字 3年(759) 42才 因幡国庁で、郡司らと宴を催した際に新春を寿ぎ、最終歌を詠む。(巻20)
宝亀 3年(772) 55才 従四位下、左中弁兼式部員外大輔となる。
宝亀11年(780) 63才 参議・右大弁となる。
天応元年(781) 64才 能登内親王の喪事を監護する。正四位上、左大弁・春宮大夫となる。
延暦元年(782) 65才 従三位のとき、氷上川継の謀反に連坐、一族与党35人処罰される。
延暦 2年(783) 66才 解任が許され、中納言・春宮大夫となる。
延暦 3年(784) 67才 陸奥按察使・鎮守府将軍として陸奥に赴任。半年にして帰京。長岡京に遷都。
延暦 4年(785) 68才 没す。藤原種継の暗殺事件に連坐し、没後、除名。

転載元: 旅人

Viewing all 1050 articles
Browse latest View live