天平20年(748)、31才。
住めば都の諺通り、天離る鄙の生活にも慣れて、また都から公私両面のさまざまの用向きで知友・愛人が訪れる。その度に飲宴が開かれ、歌が作られ、時に都方の歌を交えた情報も入って来る。もと越中掾として家持と近く歌文を作り交していた大伴池主は隣国越前掾に転ずるが、便りは絶やさず歌の贈答も続いている。
出挙のため砺波(となみ)・婦負・能登など諸郡を巡行。
家持は、一個の万葉歌人であるよりもまず、公務を遂行するのに明け暮れしていた。
「砺波郡雄神河の辺にして作れる歌一首」
♪雄神川 くれないにほふ娘子らし 葦附(あしつき)採ると 潮に立たすらし(万葉集・巻17・4021)
(雄神川が 赤く輝いている 乙女らが あしつき(みるの種類)を採りに 瀬に立っているらしい)
砥波は、富山県西部。
雄神川は、庄川。岐阜県北部の烏帽子岳に発し、白川郷を経て富山県に入り、東礪波郡および砺波市を経て新湊市で富山湾に注ぐ。
乙女たちの赤い裳が陽に映えて、河原一面が紅色に染まって見える。
あしいきは、あしつきのり。
富山県の庄川および滋賀県の一部に産し、小石に付いて夏季に繁殖する。じゅずも科の緑褐色の淡水藻。
寒天質で食用になる。
家持の自注に「水松の類」とあるから、かわもずく、とする説もある。
「水松」は「海松」とも書き、みる科の海藻。
「婦負(めひ)郡う坂河の辺にして作れる歌一首」
♪う坂川 渡る瀬多み この吾が馬(ま)の 足掻きの水に 衣(きぬ)ぬれにけり (巻17・4022)
(う坂川は 渡り瀬が多いので この私の馬の 足掻きの水で 衣が濡れてしまった)
婦負は、富山県婦負(ねい)郡。
う坂川は、神通川の富山市西南部を流れる辺りの呼び名か。う坂は、現在合併して婦中町に入った。
う坂付近での神通川は、川幅が約 300m あり、その間を幾筋にも分かれて流れている。
「能登郡香島津より発船(ふなだち)して、熊来村を射して往きし時、作れる歌2首」
♪とぶさ立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びそ (巻17・4026)
(とぶさを立て 船材を伐り出すという 能登の島山 今日見ると 木立が繁っている 幾代経てこう も神々しくなったのであろうか)
天平20年 3月23日、左大臣橘諸兄の使者として造酒令史田邉史福麻呂(みきのつかさのさかんたなべのふひとさきまろ)の来訪をうけ、家持は手厚くもてなしている。
橘諸兄は、田辺福麻呂ら文化人を側近において、何かの名目をつけて、越中の家持に使いに出した。
『万葉集』撰集の話や政治的密談を託したらしい。
その時、明日布勢の水海を遊覧しようと約束して、作った家持の歌、
♪乎布(をふ)の崎 漕ぎたもとほり ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに (巻18・4037)
(乎布の崎は 漕ぎまわりつつ 一日中 見ても飽きない 浦なのですがね)
タモトホルは、同じ所をうろうろする意。佳景に見とれて通過できず、行きつ戻りつすること。
天平感宝元年(749) 5月 5日、東大寺占墾地使(せんこんちし)の僧平栄(へいえい)が来ている。
東大寺建造のため、東大寺の僧が占墾地使として、日本全国にとんで寺領拡大につとめた。
この時も、家持は布勢の海にと饗応している。
♪焼き大刀を 砺波の関に 明日よりは 守部(もりべ)遣り副へ 君を留めむ(万葉集・巻18・4083)
(焼キ大刀ヲ 砺波の関に 明日からは 番卒を増やすがよい 客僧をお引き留めしよう)
焼き大刀をは、砺波の枕詞。
焼き大刀は、何度も火に焼いて鍛えた鋭利な大刀。砥石で磨(と)ぐの意でかける。
守部は、番人。ここは関守をいう。
この頃、砺波の関は蝦夷防備の本来的意義を失い、廃関に近い状態であったが、ここは帰京する平栄ら一行を引き留めるために、急遽増員せよと下僚に命じた趣。手荒な語調に似るが、平栄に対する親しみを込めた挨拶。
面白い歌がある。
史生(ししょう)の尾張少咋(おくい)という者が、都の妻の目の届かぬのを幸いに、遊行女婦(あそびめ)と同棲し、国庁周辺の住民の顰蹙・失笑の的となった。 (万葉集・巻18・4106~4109)
♪あをによし 奈良にある妹が 高高に 待つらむ心 しかにはあらじか (万葉集・巻18・4107)
(アヲニヨシ 奈良の細君が しきりに 待っているであろう心が哀れだ それでは済むまいぞ)
この歌は、憶良の「惑へる情を反さしむる歌」の模倣。
cf♪父母を 見れば貴く 妻子見れば めぐし愛し、、、しかにはあらじか (万葉集・巻5・800)
♪里人の 見る目はづかし 左夫流児(さぶるこ)に 惑はす君が 宮出後姿(しりぶり) (4108)
(里人の見る目がこっちまで恥ずかしいわい 左夫流女(さぶるめ)に迷った君の出勤する後ろ姿よ)
家持は、法令用語を持ち出して、お説教する。(「七出例」「三不去」「両妻例」)
家持の性格のなかに野次馬根性を、垣間見るようで面白い。
天平21年 4月、陸奥国寄り金が出たために、その喜びの詔勅が出され、 4月 1日をもって、天平感宝元年と改められた。詔のなかで、大伴・佐伯の功績がたたえられている。(佐伯は、大伴氏と同族で雄略天皇代に、大伴から分かれた)
『新撰姓氏録』には、雄略天皇代に大伴室屋(むろや)がその子、談(かたり・佐伯氏の祖)と共に宮門の警護に当たった。それが大伴・佐伯の宮門警護の起源である、とある。
平城宮の朝堂院南門が大伴門、西面中門が佐伯門と呼ばれたのは、この伝統を踏まえたもの。
天平感宝元年 5月12日、詔に答えて家持は詠った。
♪葦原の 瑞穂の国を 天降り しらしめしける 天皇(すめろき)の、、、陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金(くがね)ありと、、、海行かば、、、 (万葉集・巻18・4094)
♪丈夫(ますらを)の 心思うほゆ 大君の 御言(みこと)の幸(さき)を聞けば貴み(巻18・4095)
(ますらおの 心とはこういうものと知った 大君の 忝い仰せを 承れば貴くて)
ますらおは、心身ともに堅固な男子。
詔に、名ざしで家の名誉を称揚され、また発布された 4月 1日に、家持自身も従五位下から従五位上に昇進したから、誇らしい気持ちになった。家持ぶんぶん。
♪大伴の 遠つ神祖(かむおや)の 奥津城は 著(しる)く標(しめ)立て 人の知るべく (4096)
(大伴の 遠い先祖の 御霊屋(みたまや)は はっきり印をせよ 人がそれと知るほどに)
遠つ神祖は、高天原から天降った遠祖を神と見なした尊称。
標(しめ)は、大伴氏の光栄を誇示するための標識。
♪天皇の 御代栄えむと 東(あづま)なる みちのく山に 金(くがね)花咲く (巻18・4097)
(天皇の 御代が栄えるであろうと 東国の 陸奥の国の山に 黄金の花が咲いた)
国産金の出現を皇統の永続・繁栄の予兆と見なして詠った。
しかし、眼前に聞き手が在るわけでなく、自分も現体制下にあっては、一個の律令官僚、歯車の一つとして僻地に身を置いているのみ。所詮は、この呼びかけも机上での架空指令に過ぎないのだ、という現実に返って、単なるつぶやきでしかない、と覚る。
それでも、その責任感と無力感との間にあって、思う所をはばかりなく万葉集という文学作品に書き付ける現実回避の便法が家持にあったというのは、素晴しいことだった。
しかし、家持が喜んだ3ヵ月後、
天平感宝元年 7月 2日、聖武天皇は、阿倍皇太子に譲位し、天平勝宝と改めた。
孝謙天皇が即位すると、さっそく藤原仲麻呂は紫微中台を設け自らその長官である紫微中台令になった。
つまり、太政官橘諸兄と並んだ。
表面的には、太政官権力が大だが、仲麻呂には、現天皇(孝謙)・現皇太后の支持を得ていた。
天平勝宝 2年(750)33才。家持は、墾田地検察のため砺波郡主帳多治比部北里の家に宿泊し、作歌。
♪やぶなみの 里に宿借り 春雨に 隠(こも)り障(つつ)むと 妹に告げつや (巻18・4138)
(荊波の 里に宿を借り 春雨に 降りこめられていると 妻に伝えてくれたか)
奈良時代に入って、三世一身の法や墾田永代私有法を背景に墾田開発が盛んになる。
越中でも東大寺の占墾地使が視察に来、国守にはその実状検察の業務があった。
妹は、家持の妻の坂上大嬢。
坂上大嬢が越中に下向した時期は不明。3月に大嬢が母坂上郎女に贈る歌(4169) の代作を家持に頼んでいるのよりも早く、前年(天平勝宝元年)11月には来越していた。(4138)。ただし、虚構表現かも。
巻18の最後の歌。
巻19の最初の歌。12日後に始まっている。
天平勝宝元年秋頃かに、妻の大嬢が下向し、生活に潤いがでたようだ。
「天平勝宝 2年 3月 1日の暮(ゆうべ)に、春の苑の桃李の花を眺矚(なが)めて作れる歌二首」
♪春の苑 くれなひにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ (万葉集・巻19・4139)
(春の園の 紅色に咲いている 桃の花の 下まで輝く道に たたずむ乙女よ)
李は、すもも。中国から渡来したバラ科の落葉高木。春白い花が群がり咲く。
名詞止めの新鮮さ。漢詩の雰囲気に似てる。
中国のはるかペルシャに起源をもつ思想が詠み込まれている幻想の歌。
「樹下美人図」とよばれるものを、幻想的に詠ったフィクション。(中西進)
「樹下美人図」は、正倉院にある。
中国新疆ウィグル自治区のアスクーナ遺跡にある。更にその西方ペルシャからも出ているらしい。
シルクロードを通って日本に伝えられた図柄。
それを、家持は、国司の館で幻想しながらフィクショウンの歌として詠んだ。
ハイカラ趣味の橘諸兄に仕えていた家持は、当時最も新しい外来の教養を身につけていた。
♪わが園の 李(すもも)の花か 庭に落(ふ)りし はだれのいまだ 残りたるかも (巻19・4140)
(わが園の 李の花が 庭に散っているのだろうか それとも薄雪がまだ 残っているのであろうか)
はだれは、うっすらと降り置いた雪や霜。
旅人の「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(822)に似てる。
天平勝宝 2年(750) 3月 3日、「遥に江を泝(さかのぼ)る船人の唱(うた)を聞く歌一首」
♪朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝こぎしつつ 唱ふ船人 (万葉集・巻19・4150)
(朝床で 聞くと遥に聞こえてくる 射水川を 朝漕ぎながら 歌う舟人の声が)
待ちわびた春の到来が、嬉しくて歌心が疼き、歌にかまけて、ここ数日眠りが浅い家持であった。
その早朝、半覚睡の寝床にいる家持の耳を、川霧が立ち昇るように、遥に聞こえてくる船頭の声が揺さぶる。
巻19には机上の歌がたくさんある。
憶良の最後の歌「士やも、、、」(巻6・978) に追和した歌、
♪ますらをは 名をし立つべし 後の代に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね (万葉集・巻19・4165)
(ますらおは 名をこそ立てるべきだ 後の世に 伝え聞く人も 語り伝えてくれるように)
旅人の「梅花の宴」に追和した歌、
♪春のうちの 楽しき終(をへ)は 梅の花 手折りをきつつ 遊ぶにあるらし(万葉集・巻19・4174)
(春のうちの 何よりの楽しみは 梅の花を 手折って呼び寄せ 遊ぶことだろう)
梅の花を擬人化し、それが咲くことを、人が招待したように表現した。
葦屋の莵原娘子の追同歌、(4211~4212)
♪処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛(つげおぐし)生ひ代はり生ひて なびきけらしも(巻19・4212)
転載元: 旅人