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[転載]能登の島山

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fd-13/mn_wakamurasaki/folder/475818/21/28444521/img_0?20180211132951

写真は、石川県七尾市にある島「能 登 島」から見た七尾湾です。

能登島は面積46.78km²、周囲長71.9kmの島で、全長1,050mの「能登島

大橋」と全長620mのつり橋「ツインブリッジ」で半島と結ばれていま

す。(昔は七尾港からフェリーで渡りました。20歳前後に2度訪れま

したが、ずいぶん便利になりましたね)

ここは能登半島国定公園に含まれ、2004年の合併後は七尾市の一部とな

っています。

※能登の島山とは現在の能登島のこと。

浜ダイコンが群生する浜辺と

松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台にもなった観光名所「能登金剛・

巌 門」です。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fd-13/mn_wakamurasaki/folder/475818/21/28444521/img_1?20180211132951
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fd-13/mn_wakamurasaki/folder/475818/21/28444521/img_2?20180211132951

羽咋市(はくいし)にある「千 里 浜(ちりはま)」

ここの浜の砂は粒子が細かく、海水を含むと固くなり、波打ち際でも自

動車が快走できるので、天然の「渚ドライブウェー」として利用され、

人気の浜辺です。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fd-13/mn_wakamurasaki/folder/475818/21/28444521/img_3?20180211132951

最後はやっぱりこれ「じ ゃ が 芋 ソ フ ト ク リ ー ム」

ほんのりじゃが芋の味がして、少し塩をかけて食べます。
珍しいでしょ。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fd-13/mn_wakamurasaki/folder/475818/21/28444521/img_4?20180211132951


鳥 総(とぶさ)立 て 船 木 伐 る と い ふ  能 登 の 島 山

今 日 見 れ ば  木 立 繁 し も 幾 代 神 び そ

              大伴家持(万葉集)巻17-4026

<意味>
鳥総を立てて船材を伐り出すと言う能登島の山よ、今日見ると木立がう

っそうと茂っている。いったい幾年を神さびてきたことか。

昔は船木を伐る場所として、能登の他、伊豆、熊野など限られていまし

た。

作者が越中国内(当時は能登も越中国でした)を巡回している時に、山

から船木を伐り出している光景を見て、長い歴史を見てきたであろうそ

の木々の神々しさに心打たれ感動して詠んだ歌です。

※神さびる・・古びて神々しく見える。荘厳で神秘的であること。

※鳥総・・木の梢で鳥の羽根状にして束ねた物。(これを挿して船木を

伐ると木の魂が宿ると言う言い伝えがあった)

※船を造る時の木は長い年月を経た物が使用された。

転載元: 閑 日 茶 話


[転載]大伴家持ー6、越中守時代

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天平17年(745)正月、正六位上から、従五位下に叙せられる。28才。 3月、宮内少輔に任じ、
天平18年 1月、民部少輔(しょうゆう)となった。29才。
       民部卿は、紀麻呂。民部大輔は、橘奈良麻呂。
正月、左大臣橘諸兄は諸王臣を率いて、雪の中宮西院の元正太上天皇御座所に参上して宴にあずかり、
応詔歌を奏した。家持も南の細殿に列して、
♪大宮の 内にも外(と)にも 光るまで 降らす白雪 見れど飽かぬかも  (万葉集・巻17・3926)
と、詠んだ。
この雪掃き日の記憶が、最後の歌(4516) を詠むまで持続したのではなかろうか。

6月、人事異動があり、家持は、越中守に任命される。
この時、越前守は、藤原宿奈麻呂だが、2ヶ月後に上総守となり、代わって越前守は大伴駿河麻呂(またいとこ)になる。
何もかも初めての経験でしかも単身赴任。
ただ、下僚に同族で気心も知れ、性格も明るかったと思われる大伴池主が掾(じょう)にいて心強かった


7月、任地に赴く時、坂上郎女(50才前後)は家持に歌を贈った。
♪草まくら 旅ゆく君を 幸(さき)くあれと 斎瓮(いはひべ)すえつ 吾が床のべに(巻17・3927)
 (クサマクラ 旅に出られるあなたが 無事なようにと 斎瓮を据えました 私の床のそばに)
斎瓮は、神事に用いる土器。床辺や枕辺に掘って据え、木綿(ゆう)を垂れる神聖な瓶。

♪今のごと 恋しく君が 思ほへば いかにかもせむ 爲(す)るすべのなさ (万葉集・巻17・3928)
 (これからもこのように恋しくあなたが思われたらどうすればよいでしょうね なすすべもありまん)

更に、坂上郎女は越中国に歌を贈った。
♪旅に去(い)にし 君しも継ぎて 夢(いめ)に見ゆ 吾が片恋の しげければかも (巻17・3929)
 (旅にでられた あなたが続けて 夢に見えます 私の片思いが 絶えないからでしょうか)

坂上郎女が家持に贈った歌には、しばしば恋人に対する歌のようで、家持から坂上郎女に贈った歌にもその傾向がある。坂上大嬢のための代作とも考えられる。また、趣向に興ずる遊戯の歌とも思える。
大嬢を嫁がせた後、
♪玉主に 玉は授けて かつがつも 枕と吾は いざ二人宿(ね)む      (万葉集・巻4・652)
 (玉守に 玉は渡してしまって ともかくも 枕と一緒に私は どれ二人で寝るとしよう)
女手一つで育てた娘を手離した、半ば安堵、半ばあきらめの心境。

着任早々の家持にとって、海との出会いは感動的だった。浮き立つ家持は詠った。
♪馬並(な)めて いざうち行かな 渋渓(たに)の清き磯廻に 寄する波見に(万葉集・巻17・3954)
 (馬を連ねて さあ皆出かけよう 渋渓の 清い磯辺に 寄せる波を見に)

 家持は、越中赴任数ヶ月後、
天平18年、 9月25日、弟書持(ふみもち)の死の報を聞いた。
「長逝(みまか)りし弟を哀傷(いた)める歌一首並に短歌」
♪天離(あまざか)る 鄙(ひな)治めにと 大君の 任(まけ)のまにまに、、、、、(巻17・3957)
 (アマザカル 越の国を治めにと 天皇の仰せに従い、、、)

♪ま幸(さき)くと いひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも(万葉集・巻17・3958)
 (お互い無事でと 言って別れたのにのに もう世を去って 白雲となって 立ちなびいたと 聞くと  悲しいことです)
 
♪かからむと かねて知りせば 越の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを  (巻17・3959)
 (こんなに早く世を去ると かねて知っていたら 一緒に連れてきて 越の海の 荒磯の波でも 見せ  てやればよかった)

年が明けると、今度は家持自身が重い病気にかかった。(天平19年春 2月20日、越中国守の館にて)
心身ともに堅固であるべきなのに、気弱くもろい自分を情けなく思って詠った。
♪世間(よのなか)は 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべきおもへば  (巻17・3963)
 (人生とは はかないものだ 春花の 散り乱れる時に 死にそうなのを思うと)

♪山川の そきへを遠み はしきよし 妹を相見ず かくや嘆かむ      (万葉集・巻17・3964)
 (山川の 遠く隔てた果てなので いとしい妻にも逢えず こうも嘆くことか)

家持30才。人生的な不幸に出会って、家持の心には暗いかげりが加わってきた。
しかし、国司としての責務は重く人事にかかわることも多くなり、感傷に浸ってばかりいるわけにも行かなくなった。家持は、しだいに越中の自然のたたづまいに、心ひかれるようになってくるままに、対自然の歌を多く詠うようになった。
遠くは、秀峰立山、近くは、なだらかな二上山を望み、眼下には、射水川を見下ろすことができた。
その付近には、景勝の渋谿(しぶたに)の磯があり、少し足をのばせば、布勢の水海や羽昨(はぐい)の海や能登の島々があった。

天平19年 3月、「二上山の賦」。(3985~3987)
♪玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり        (万葉集・巻17・3987)
この鳥は、ほととぎす。
ただし、昨秋着任した家持はまだ二上山に鳴くほととぎすの声は聞いていないはず。

天平19年 4月24日、「布勢の水海に遊覧する賦」。(3991・3992)
♪布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや毎年(としのは)に 見つつ偲はむ (万葉集・巻17・3992)
 (布勢の海の 沖の白波のように 絶えず通ってずっと毎年 見て賞でよう)
「二上山賦」が「興に依りて」作ったものであると同じく、この「布勢水海遊覧賦」も観念的作品とする説がある。水上遊覧の作ともみられるが、そのような場面を想定して擬した机上の作の可能性が強い。

天平19年 4月27日、立山(たちやま)の賦」を作っている。(4000~4002)
♪立山に ふり置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし     (万葉集・巻17・4001)
 (立山に 降り置いた雪は 一年中 見ても飽きない その神々しさのゆえであろう)
家持は、公務の精励するかたわら、時に都の人には想像もつかない雄大な海山の景色を眺め、また鵜飼や鷹狩に心を晴らす。

家持さんは、鷹が好き!
天平19年(747) 9月26日、家持は、鼠の腐肉を与えて飼っていた鷹が、飼育係の山田君麻呂の不注意で逃げたのを嘆いて、『万葉集』中、第2の長さで詠った。
しかし、その2年前には、今後3年間は肉食いっさい禁止するため、鷹や鵜を飼ってはならないという勅が出ていた。仏教の殺生禁止が、時々詔勅にだされたけど、その時限りで日常生活に影響はなかった。
貴族は、禁令が出たと庶民に知らせるだけで、自分は平気で肉食していた。

「放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦(よろこ)びて作れる歌一首並に短歌」(巻17・4011~4015)
♪情(こころ)には ゆるふことなく 須加の山 すかなくのみや 恋ひ渡りなむ   (巻17・4015)
 (心では 休む間もなく スカノヤマ 悶々とずっと鷹を恋い慕うことであろうか)
須加の山は、現在の富山県高岡市国吉の頭川(ずかわ)山東南の山地。
ここは同音を利してスカナシの枕詞とした。
スカナシは、心が楽しくない意の形容詞。
鷹狩の時期は、冬。雪の降り止んだ晴天の日が最適で、みぞれの降る日や風の吹く日、特に後者では飛ぶことに専念し、野生に戻って帰って来ない。

家持さんは、越中方言に、ほほぅ!
♪あゆの風 いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ  (巻17・4017)
 <越の俗(くにびと)の語(ことば)に東(ひむがし)の風をあゆのかぜといふ>
 (あゆの風が ひどく吹いているのであろう 釣りする小舟が 波に漕ぎ隠れている)
 (越の方言で東風をあゆのかぜという)
あゆの風は、日本海沿岸の各地に「あゆの風」(または「あいの風」)という風位名が現在も残っており
その多くは北東ないし北西の方角から吹く北寄りの風をいう。
富山県高岡市を中心とする越中一帯でも北寄りの風を「あい」と呼んでいるが、春先にそれが多いこと、また東からの風では、国庁のあった射水川(小矢部川)左岸から見て、奈呉の江に格別波が立たないことなどから、家持は「あゆの風」の語に春風の意を持たせ、かつ越中にはコチ(東風)の語がないことを、
珍しく思ってこのように注した、という説がある。
奈呉の海人は、奈呉の浦の漁夫。

転載元: 旅人

[転載]大伴家持ー7、越中守時代ー春の出挙

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天平20年(748)、31才。
住めば都の諺通り、天離る鄙の生活にも慣れて、また都から公私両面のさまざまの用向きで知友・愛人が訪れる。その度に飲宴が開かれ、歌が作られ、時に都方の歌を交えた情報も入って来る。もと越中掾として家持と近く歌文を作り交していた大伴池主は隣国越前掾に転ずるが、便りは絶やさず歌の贈答も続いている。
出挙のため砺波(となみ)・婦負・能登など諸郡を巡行。
家持は、一個の万葉歌人であるよりもまず、公務を遂行するのに明け暮れしていた。

「砺波郡雄神河の辺にして作れる歌一首」
♪雄神川 くれないにほふ娘子らし 葦附(あしつき)採ると 潮に立たすらし(万葉集・巻17・4021)
 (雄神川が 赤く輝いている 乙女らが あしつき(みるの種類)を採りに 瀬に立っているらしい)
砥波は、富山県西部。
雄神川は、庄川。岐阜県北部の烏帽子岳に発し、白川郷を経て富山県に入り、東礪波郡および砺波市を経て新湊市で富山湾に注ぐ。
乙女たちの赤い裳が陽に映えて、河原一面が紅色に染まって見える。
あしいきは、あしつきのり。
富山県の庄川および滋賀県の一部に産し、小石に付いて夏季に繁殖する。じゅずも科の緑褐色の淡水藻。
寒天質で食用になる。
家持の自注に「水松の類」とあるから、かわもずく、とする説もある。
「水松」は「海松」とも書き、みる科の海藻。

「婦負(めひ)郡う坂河の辺にして作れる歌一首」
♪う坂川 渡る瀬多み この吾が馬(ま)の 足掻きの水に 衣(きぬ)ぬれにけり  (巻17・4022)
 (う坂川は 渡り瀬が多いので この私の馬の 足掻きの水で 衣が濡れてしまった)
婦負は、富山県婦負(ねい)郡。
う坂川は、神通川の富山市西南部を流れる辺りの呼び名か。う坂は、現在合併して婦中町に入った。
う坂付近での神通川は、川幅が約 300m あり、その間を幾筋にも分かれて流れている。

「能登郡香島津より発船(ふなだち)して、熊来村を射して往きし時、作れる歌2首」
♪とぶさ立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びそ  (巻17・4026)
 (とぶさを立て 船材を伐り出すという 能登の島山 今日見ると 木立が繁っている 幾代経てこう  も神々しくなったのであろうか)

天平20年 3月23日、左大臣橘諸兄の使者として造酒令史田邉史福麻呂(みきのつかさのさかんたなべのふひとさきまろ)の来訪をうけ、家持は手厚くもてなしている。
橘諸兄は、田辺福麻呂ら文化人を側近において、何かの名目をつけて、越中の家持に使いに出した。
『万葉集』撰集の話や政治的密談を託したらしい。
その時、明日布勢の水海を遊覧しようと約束して、作った家持の歌、

♪乎布(をふ)の崎 漕ぎたもとほり ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに (巻18・4037)
 (乎布の崎は 漕ぎまわりつつ 一日中 見ても飽きない 浦なのですがね)
タモトホルは、同じ所をうろうろする意。佳景に見とれて通過できず、行きつ戻りつすること。

天平感宝元年(749) 5月 5日、東大寺占墾地使(せんこんちし)の僧平栄(へいえい)が来ている。
東大寺建造のため、東大寺の僧が占墾地使として、日本全国にとんで寺領拡大につとめた。
この時も、家持は布勢の海にと饗応している。

♪焼き大刀を 砺波の関に 明日よりは 守部(もりべ)遣り副へ 君を留めむ(万葉集・巻18・4083)
(焼キ大刀ヲ 砺波の関に 明日からは 番卒を増やすがよい 客僧をお引き留めしよう)
焼き大刀をは、砺波の枕詞。
焼き大刀は、何度も火に焼いて鍛えた鋭利な大刀。砥石で磨(と)ぐの意でかける。
守部は、番人。ここは関守をいう。
この頃、砺波の関は蝦夷防備の本来的意義を失い、廃関に近い状態であったが、ここは帰京する平栄ら一行を引き留めるために、急遽増員せよと下僚に命じた趣。手荒な語調に似るが、平栄に対する親しみを込めた挨拶。

面白い歌がある。
史生(ししょう)の尾張少咋(おくい)という者が、都の妻の目の届かぬのを幸いに、遊行女婦(あそびめ)と同棲し、国庁周辺の住民の顰蹙・失笑の的となった。      (万葉集・巻18・4106~4109)
  
♪あをによし 奈良にある妹が 高高に 待つらむ心 しかにはあらじか   (万葉集・巻18・4107)
 (アヲニヨシ 奈良の細君が しきりに 待っているであろう心が哀れだ それでは済むまいぞ)
この歌は、憶良の「惑へる情を反さしむる歌」の模倣。
cf♪父母を 見れば貴く 妻子見れば めぐし愛し、、、しかにはあらじか   (万葉集・巻5・800)

♪里人の 見る目はづかし 左夫流児(さぶるこ)に 惑はす君が 宮出後姿(しりぶり)  (4108)
 (里人の見る目がこっちまで恥ずかしいわい 左夫流女(さぶるめ)に迷った君の出勤する後ろ姿よ)
家持は、法令用語を持ち出して、お説教する。(「七出例」「三不去」「両妻例」)
家持の性格のなかに野次馬根性を、垣間見るようで面白い。

天平21年 4月、陸奥国寄り金が出たために、その喜びの詔勅が出され、 4月 1日をもって、天平感宝元年と改められた。詔のなかで、大伴・佐伯の功績がたたえられている。(佐伯は、大伴氏と同族で雄略天皇代に、大伴から分かれた)
『新撰姓氏録』には、雄略天皇代に大伴室屋(むろや)がその子、談(かたり・佐伯氏の祖)と共に宮門の警護に当たった。それが大伴・佐伯の宮門警護の起源である、とある。
平城宮の朝堂院南門が大伴門、西面中門が佐伯門と呼ばれたのは、この伝統を踏まえたもの。
天平感宝元年 5月12日、詔に答えて家持は詠った。

♪葦原の 瑞穂の国を 天降り しらしめしける 天皇(すめろき)の、、、陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金(くがね)ありと、、、海行かば、、、            (万葉集・巻18・4094)
♪丈夫(ますらを)の 心思うほゆ 大君の 御言(みこと)の幸(さき)を聞けば貴み(巻18・4095)
 (ますらおの 心とはこういうものと知った 大君の 忝い仰せを 承れば貴くて)
ますらおは、心身ともに堅固な男子。
詔に、名ざしで家の名誉を称揚され、また発布された 4月 1日に、家持自身も従五位下から従五位上に昇進したから、誇らしい気持ちになった。家持ぶんぶん。
♪大伴の 遠つ神祖(かむおや)の 奥津城は 著(しる)く標(しめ)立て 人の知るべく (4096)
 (大伴の 遠い先祖の 御霊屋(みたまや)は はっきり印をせよ 人がそれと知るほどに)
遠つ神祖は、高天原から天降った遠祖を神と見なした尊称。
標(しめ)は、大伴氏の光栄を誇示するための標識。
♪天皇の 御代栄えむと 東(あづま)なる みちのく山に 金(くがね)花咲く   (巻18・4097)
 (天皇の 御代が栄えるであろうと 東国の 陸奥の国の山に 黄金の花が咲いた)
国産金の出現を皇統の永続・繁栄の予兆と見なして詠った。
しかし、眼前に聞き手が在るわけでなく、自分も現体制下にあっては、一個の律令官僚、歯車の一つとして僻地に身を置いているのみ。所詮は、この呼びかけも机上での架空指令に過ぎないのだ、という現実に返って、単なるつぶやきでしかない、と覚る。
それでも、その責任感と無力感との間にあって、思う所をはばかりなく万葉集という文学作品に書き付ける現実回避の便法が家持にあったというのは、素晴しいことだった。

しかし、家持が喜んだ3ヵ月後、 
天平感宝元年 7月 2日、聖武天皇は、阿倍皇太子に譲位し、天平勝宝と改めた。
孝謙天皇が即位すると、さっそく藤原仲麻呂は紫微中台を設け自らその長官である紫微中台令になった。
つまり、太政官橘諸兄と並んだ。
表面的には、太政官権力が大だが、仲麻呂には、現天皇(孝謙)・現皇太后の支持を得ていた。

天平勝宝 2年(750)33才。家持は、墾田地検察のため砺波郡主帳多治比部北里の家に宿泊し、作歌。
♪やぶなみの 里に宿借り 春雨に 隠(こも)り障(つつ)むと 妹に告げつや   (巻18・4138)
 (荊波の 里に宿を借り 春雨に 降りこめられていると 妻に伝えてくれたか)

奈良時代に入って、三世一身の法や墾田永代私有法を背景に墾田開発が盛んになる。
越中でも東大寺の占墾地使が視察に来、国守にはその実状検察の業務があった。
妹は、家持の妻の坂上大嬢。
坂上大嬢が越中に下向した時期は不明。3月に大嬢が母坂上郎女に贈る歌(4169) の代作を家持に頼んでいるのよりも早く、前年(天平勝宝元年)11月には来越していた。(4138)。ただし、虚構表現かも。
巻18の最後の歌。

巻19の最初の歌。12日後に始まっている。
天平勝宝元年秋頃かに、妻の大嬢が下向し、生活に潤いがでたようだ。
「天平勝宝 2年 3月 1日の暮(ゆうべ)に、春の苑の桃李の花を眺矚(なが)めて作れる歌二首」
♪春の苑 くれなひにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ     (万葉集・巻19・4139)
 (春の園の 紅色に咲いている 桃の花の 下まで輝く道に たたずむ乙女よ)

李は、すもも。中国から渡来したバラ科の落葉高木。春白い花が群がり咲く。
名詞止めの新鮮さ。漢詩の雰囲気に似てる。
中国のはるかペルシャに起源をもつ思想が詠み込まれている幻想の歌。
「樹下美人図」とよばれるものを、幻想的に詠ったフィクション。(中西進)
「樹下美人図」は、正倉院にある。
中国新疆ウィグル自治区のアスクーナ遺跡にある。更にその西方ペルシャからも出ているらしい。
シルクロードを通って日本に伝えられた図柄。
それを、家持は、国司の館で幻想しながらフィクショウンの歌として詠んだ。
ハイカラ趣味の橘諸兄に仕えていた家持は、当時最も新しい外来の教養を身につけていた。

♪わが園の 李(すもも)の花か 庭に落(ふ)りし はだれのいまだ 残りたるかも (巻19・4140)
 (わが園の 李の花が 庭に散っているのだろうか それとも薄雪がまだ 残っているのであろうか)
はだれは、うっすらと降り置いた雪や霜。
旅人の「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(822)に似てる。

天平勝宝 2年(750) 3月 3日、「遥に江を泝(さかのぼ)る船人の唱(うた)を聞く歌一首」
♪朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝こぎしつつ 唱ふ船人         (万葉集・巻19・4150)
 (朝床で 聞くと遥に聞こえてくる 射水川を 朝漕ぎながら 歌う舟人の声が)
待ちわびた春の到来が、嬉しくて歌心が疼き、歌にかまけて、ここ数日眠りが浅い家持であった。
その早朝、半覚睡の寝床にいる家持の耳を、川霧が立ち昇るように、遥に聞こえてくる船頭の声が揺さぶる。

巻19には机上の歌がたくさんある。
憶良の最後の歌「士やも、、、」(巻6・978) に追和した歌、
♪ますらをは 名をし立つべし 後の代に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね   (万葉集・巻19・4165)
 (ますらおは 名をこそ立てるべきだ 後の世に 伝え聞く人も 語り伝えてくれるように)
旅人の「梅花の宴」に追和した歌、
♪春のうちの 楽しき終(をへ)は 梅の花 手折りをきつつ 遊ぶにあるらし(万葉集・巻19・4174)
 (春のうちの 何よりの楽しみは 梅の花を 手折って呼び寄せ 遊ぶことだろう)
梅の花を擬人化し、それが咲くことを、人が招待したように表現した。
葦屋の莵原娘子の追同歌、(4211~4212)
♪処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛(つげおぐし)生ひ代はり生ひて なびきけらしも(巻19・4212)
 

転載元: 旅人

[転載]日本周遊紀行(221)七尾 「七尾城」 .

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日本周遊紀行(221)七尾 「七尾城」 .



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写真:草生した七尾城址(本丸への上り口)




能登半島は、無理していうなら鮫の顔に似ている・・!、 
鮫が口を開いて能登島をガブリと銜(くわえる)え込んでいて、その口元から下顎に当たるのが「七尾市」であり、喉仏に相当するのが「和倉温泉」の地域であろう。 
その七尾市へ向った。

七尾市は能登半島の中程に位置し、平成16年(2004年)10月、旧七尾市、田鶴浜町、中島町、能登島町の1市3町が合併し、新生七尾市として新しい一歩を踏み出した。 
この地域は、天然の良港として栄えてきた七尾港を海の玄関口とし、古代より能登の政治・経済・文化の中心地として発展を続けてきた。


鮫の頭部に似た、能登国は小国である。 

律令制によって養老年間、越前国から分立、更に、越中の国との併合と分離の変遷を繰り返している。 
その、越中国に併合されていた時期に越中国守であった「大伴家持」が巡視に訪れた事は先に記したが、この奈良期、能登国守として実際に政務を執ったのが「源順」(みなもとのしたごう)であった。 

源順は嵯峨天皇の直系で平安初期の学者、歌人と若い頃から博学で有名で、20代で辞典『和名類聚抄』を編纂している。 
三十六歌仙の一人にも数えられ、大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』もある。 

尤も、源順が能登守に赴任するのは七十歳の老翁であったという。 
従って、国政としての真新しい実績はあまり無く、博学歌人としても能登においては名歌は残していないという。 

能登の人は、源順については余り記憶の中に無いという。 
又、実際に政務を執ったとされる国庁の跡は未だ発掘されず、源順が編纂した和名抄には「能登国国府在能登郡」とあるので、現在の七尾市古府の総社の近くか、七尾市府中町の辺りとも云われてる。   


次に、西方、高さ300mの山中に「七尾城址」がある。 
室町中期、能登畠山氏(12世紀、源頼朝の重臣・畠山重忠の分家筋)の初代当主・畠山満慶(はたけやま みつのり)が城山に城を築いたのが始まりといわれる。 
城は、尾根を平に削って曲輪(重臣達の居城)を連ねる典型的な山城の縄張りで、長屋敷・本の丸・二の丸・三の丸など尾根筋に並び、その堅固さは日本の五大山城(謙信の越後・春日山城もその1つ)とも言われた。  
しかし戦国期、さすがの堅城も上杉謙信の侵攻により開城させらる。上杉謙信は七尾城を攻め滅ぼした後、本丸から眺める七尾湾のあまりの素晴らしさに「九月十三夜」という詩を読んだといわれる。

九月十三夜』  陣中作 上杉謙信(1530-1578)

霜軍営満秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷遠征憶


1行:見渡す限り真っ白な霜が、我が陣営いっぱいに満ちて、秋の気配がすがすがしい。
2行:幾列もの雁の群れが空を飛んで行き、真夜中の月が白々と照り映えている。
3行:越後、越中の山々の他に、手中にした能州を併せたこの光景はまことに素晴らしい。
4行:故郷では遠征のことを案じていることだろうが、ままよ、今夜はこの美しい十三夜の月を静かに賞でよう。


その後、謙信から前田利家と城主を変えたが、戦国の世も終わりを遂げつつあるとみた利家は、山城を不便として七尾城を廃城にし、行政府は平地に造った「小丸山城」に移したという。

七尾城の本丸などに見られる石垣は、造成技術が未熟な頃の戦国初期(室町期)に造られたものして貴重なものとされ、又、七尾城は山全体が城とも言える複合城で、その範囲はかなり広く、長期の篭城にも耐えうる性格を持っていたという。

七尾城跡は現在、七尾市によって保存整備計画が進められていて、現在の城跡範囲の追加、拡大と城下町の遺構の範囲までの史跡指定を進めている。 
また、七尾城下町の町並、通路の復元なども視野にいれているという。 
ただ現時点では未だ計画段階に過ぎず、本格的な保存・調査・整備はまだ先であるという。


次回は、富山県・「氷見





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転載元: 『日本周遊紀行』

[転載]日本周遊紀行(221)七尾 「和倉温泉」 

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  日本周遊紀行(221)七尾 「和倉温泉」   .



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写真:最後の宿「フローイント和倉」


http://www.c-player.com/_images/archive/d01014QPN1HPLAGEPQSKC81CEO0SVV0FTI3654R14L0JCESDDSR632B/large
部屋にて・・、(小生の素顔です)



能登島大橋を渡った先の、和倉温泉東の交差点を右に行った先に、地方公務員の保養所になっている「フローイント和倉」があった。 
一見、五階建ての地味な建物であるが、玄関を入ると真赤な絨毯が敷かれた広ーい豪華なロビーは一流ホテルを思わせる。 
案内された最上階の和室はゆったりとした新装の施しがしてあり、窓の向こうには能登南湾から能登島が一望できる展望絶佳な部屋だった。

早速、湯に浸かる・・、
温泉浴場は一階に設置してあり、大窓で風流な中庭の和庭を見ながらの大浴場は満足である。
露天風呂がないのが残念であるが、折角だから、中庭の一角にでも掘っておけば、一段と風流さを味わえるのにと思ったが・・?。 
湯質は海辺の温泉のせいか塩分が多く含まれて、やや塩味がするが、効能豊かそうなサッパリした湯である。 
風呂上りで寛いでいるとやがて食事の時間になり、部屋に御膳が運ばれてきた。 
ビールは部屋の冷蔵庫から取り出し、精魂の入った地元の食材、海の幸とともに戴き、更に地の酒を流し込む。 
至福の時である。 

それにしても、こちらの会席風の料理は超一級品であり、実感を込めて礼を言っておいた。 旨い酒に、美味い肴で今夜も気持ちよく酔えた。

思えば、長道中の内の今日は最後の夜になるだろう。
公営の宿舎とはいいながら、一流ホテル以上の隅々までの気使いを実感して大満足である。
今日の旅路の纏めも、そこそこに、もう一ッ風呂浴びて心地よい夢路を辿った。


目覚めて、更に、朝湯に浸かる。 
部分覚醒が朝の湯浴みによって全身覚醒に至るのである。 
あらためて屋上ラウンジより外を眺めると、海辺に沿って高層のホテル群が林立していて、その奥のほうに一段と巨大なのが、和倉温泉でも特に有名な「加賀屋」だという。 

加賀屋は、旅行雑誌、その他に取り上げられる名旅館であり、全国的にも評判の旅館で、その豪華さ、満足度の点で日本を代表できる旅館だという。 
プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、26年連続で加賀屋が一位となっているという。 日本一の「加賀屋」の施設、建物は七尾湾に突き出るようにして建っている。 
温泉が海から湧き出るように。


実は和倉の温泉は、時代を遡ること凡そ1200年も前に、沖合60メートルの海中から湧き出したという・・!。 
湯の湧き出づる浦」、湯涌浦(ゆわくうら)が発見されたが、実際に大衆、民衆が温泉として利用したのは江戸期に近い後の世のことであった。 
江戸期には加賀藩の統制を受けつつ、湯が涌く「涌浦村」は加賀前田家の命により今日の「和倉村」と名を改めたとされる。 

明治初期の廃藩置県の際、村人により和倉村の“湯権”は官地ではなく村の共有地として認められ、ともなって「湯の島」であったのが埋め立てられて陸続きとなった。 
湯が発見され、湯島ができ、船着場や橋ができ、そして埋め立てて陸続きになったのは、或いは、今の「加賀屋」辺りではないだろうか・・?。 
加賀屋は今の和倉温泉の草分けといわれ、創業は明治中期の頃という。


和倉温泉は明治初期、ドイツで開催された万国鉱泉博覧会で三等賞を受賞したと記録にあるという。戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化し、高度経済成長期になって能登方面にも観光ブームが沸き起こり、その後北陸本線の特急が直行運転され、急速に宿泊客が増加した。 

一時は同じ石川県内の加賀温泉郷や福井の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが、今日その傾向は薄く、加賀屋旅館の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出し、今では山代温泉を抜いて、県内温泉地では宿泊客トップを誇るという。 

大きな旅館が林立する和倉温泉の街中に、唯一の共同浴場「総湯」がある。 
「竜宮城」という豪華な浴場もあり、その他、お楽しみのセンター形式の浴槽もある。 
温泉はナトリウム・カルシウム塩化物泉(高張性中性高温泉)で神経痛、筋肉痛、関節痛、特に慢性皮膚病、虚弱体質、慢性婦人病等々に効くという。 
飲用も可能だというがチョッとしょっぱいのがのが難・・。


江戸期、大阪に居ながら和倉温泉の湯に入ることが出来た・・? 
この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒す所謂湯治が主流であり、多くの病に効くことが自慢となっていた。 
涌浦(和倉)の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可であり、そこで、七尾の商人やお偉いさんは和倉の湯を船で運び、七尾の旅館の風呂に入れて湯治がわりにしたという。 
この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも、湯が樽に詰められて船で運ばれるようになったとされる。 
商人(あきんど)の町、大坂の「和倉の湯」は大変人気があり、温泉好きな人々を居ながらにして楽しませたといわれる。 

現在、関西方面の利用客が多いのは、この「樽湯」の伝承が大阪地域には行き渡っているからだろうとも云われる。
和倉温泉駅まで電化されていることもあって、関西の大阪・京都方面、名古屋、新潟(越後湯沢)方面からの直通特急が其々和倉温泉まで運転されている。 
能登の観光と併せて、半島唯一の名温泉・和倉温泉は今でも幅広く利用され、人気がある。


次回、再び「七尾





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転載元: 『日本周遊紀行』

[転載]石川県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡など極めて少ない。

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石川県の歴史

原始

御経塚遺跡(野々市市)
県内で発見された旧石器時代遺跡能美市灯台笹遺跡[40][41]など極めて少ない。

縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがある。能登町真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期まで約4,000年続く長期定住遺跡である[42]。縄文時代後期から晩期の遺跡としては金沢市のチカモリ遺跡[42][43]野々市市御経塚遺跡[42][44]がある。1980年(昭和55年)チカモリ遺跡からクリの巨木を縦に半分に割り円形に並べた環状木柱列が見つかった。環状木柱列はその後真脇遺跡でも発見されている。環状木柱列の用途・機能は「儀礼の場」や「特殊な建物」など様々な考えがあり不明である[42]羽咋市吉崎・次場遺跡は北陸地方でも規模が大きい弥生時代の遺跡で近畿東北山陰などとの交流が認められる[42]

能美市には60数基の古墳が点在する能美古墳群がある。その中心に位置する和田山・末寺山古墳群からは武器・武具など大量の副葬品が出土している。また、同じ能美古墳群の一角にある秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳である。中能登町雨の宮古墳群には北陸最大級の前方後方墳である雨の宮1号墳がある。また、七尾市の能登島にある須曽蝦夷穴古墳はドーム型の墓室を持ち朝鮮半島の古墳にも通じるものとされる[42]

古代

大伴家持も参詣した気多大社[45](羽咋市)

 県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていた。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国の国司として赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。平安時代初期の823年になって越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立てられた。これは令制上最後の立国である。

七尾市にある能登国分寺跡は、能登地方を支配した能登臣(のとのおみ)一族が白鳳時代に建てた寺院を843年国分寺としたものである。法起寺伽藍配置を持ち[46]、約400年にわたり能登の仏教の場として栄えたとされる[42]。奈良時代から平安時代には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し交易が行われていた。志賀町福浦港では渤海使が船の修理や宿泊をしたと伝えられており、平安時代初めに渤海使接待のため能登国に建てられた能登客院はこの地にあったと考えられている[47]

野々市市の末松廃寺跡は加賀地方北部に本拠を置く有力氏族道君(みちのきみ)が7世紀後半に創ったとされる寺院である。法起寺式伽藍配置をしており、屋根瓦の一部は能美市辰口地区(旧・辰口町)で焼かれたものであることが分かっている[42]。奈良・平安時代、北陸地方には東大寺西大寺などの荘園が多くあった。白山市から金沢市に跨る東大寺領横江荘もそうした荘園の一つである[42]。平安時代に修験道が活発になると白山を山岳信仰の対象とする白山信仰が広まり、山頂への登山道(禅定道)の起点の一つとなった白山比神社は信仰の拠点となった[48]

平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、源義仲(木曾義仲)が倶利伽羅峠の戦い津幡町)で数で圧倒する平家の義仲追討軍を破り[49]、さらに篠原の戦い(加賀市)で逃げる平家を追撃し、京都に進んだとされる。

中世

鎌倉時代、新たに設けられた守護は加賀国、能登国とも比企氏北条氏室町時代に入ると加賀国は斯波氏冨樫氏、能登国は吉見氏、畠山氏であった。
加賀一向一揆が抵抗の拠点として築城した鳥越城(白山市)[42]

加賀国では、応仁の乱のころ浄土真宗が広まり、やがて農民らによる加賀一向一揆が守護の富樫政親を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた[50]所以である。本願寺は金沢の台地上に尾山御坊金沢御坊)を作り、ここを拠点にして支配した[51]。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登国を前田利家に、加賀国を佐久間盛政に与えた。織田信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀国も領して、尾山御坊跡の尾山城金沢城)に入り城下町の建設を始めた[13]

能登国では、正長年間(1428 - 1429年)頃に初代当主畠山満慶七尾城を築城し、畠山氏の領国支配の拠点となる。7代目当主畠山義総の時代に最盛期を迎えるが、義総の死後は畠山七人衆が実権を握り、大名権力を傀儡化する。1560年(永禄3年)、9代当主畠山義綱が実権を取り戻すが、1566年(永禄9年)に永禄九年の政変で能登国から追放される。1577年(天正5年)、上杉謙信が能登国へ侵攻し七尾城の戦いが起こり、畠山氏は滅亡する。

近世

金沢城石川門(金沢市)

前田利家の長男前田利長関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍につき、戦後越中国を与えられた。利長は江戸幕府幕藩体制のもと加賀国、能登国、越中国の3国を治める加賀藩の藩主となった。加賀藩前田家は外様大名でありながら大名の中で最大石高である約120万石を領した。

第三代藩主前田利常は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の娘・珠姫を娶った徳川の大名として大坂の陣を戦い、戦後の大坂城改修の普請では通常の大名の負担分より多い負担を敢えてするなど、外様大名として取り潰しを避けることに意を用いたとされる[52]。利常は1639年に家督を長男前田光高に譲り、次男の前田利次富山藩を、三男の前田利治大聖寺藩を分封した。しかし、1645年に光高が急死し、第五代代藩主となった光高の長男前田綱紀がまだ幼かったため、利常が後見人として藩政を補佐した。

利常が綱紀を後見した時代には、貧農の救済、年貢納入の徹底などを目的とした改作法と呼ばれる農政改革が実施された。これは、農民の借金を帳消しにした上で、農具、種籾の購入資金や当座の食料を貸し付けて農業生産性を高めるとともに、各地の有力豪農などから選任した十村(とむら)に農民の監督や徴税を委ねるものである。改作法は所期した成果を挙げ、藩政の安定に寄与した[52]。この頃から加賀藩は蔵米を日本海から関門海峡瀬戸内海を通り大坂まで運ぶ船輸送を始め、後の西廻海運の基となった[53]。なお、1659年に白山が噴火(最も新しい噴火)。1668年1671年には手取川の洪水で多数の死者が出ている[54]
江戸時代前期の古九谷の銚子

加賀藩は、産業の振興に力を入れ、学問や文芸を奨励したことから、城下町の金沢を中心として今に続く伝統文化が興隆した。金沢城内に設けた御細工所は初め武器・武具の修理等を行う組織であったが、利常は茶の湯道具や掛幅など美術工芸品の製作・修理をさせ、綱紀は塗物・蒔絵細工、象嵌細工など20を越える職種を扱わせた。綱紀は学問の奨励のため木下順庵室鳩巣稲生若水といった学者の招聘につとめた。綱紀が収集した古今東西の図書は尊経閣文庫として受け継がれている。綱紀は能楽宝生流を取り入れ加賀宝生と呼ばれ栄えた。兼六園は綱紀による蓮池庭と御殿の建設が始まりとされ、現在の姿が完成するのは江戸時代後期である[13][55]

輪島塗は江戸時代に輪島で下地塗りの漆に混ぜる珪藻土が見つかったことで堅牢な漆器となり、日用食器として盛んに生産されるようになった。北前船が寄港する輪島港の海運の利を活かして全国に販路を広げた。また江戸時代後期には沈金や蒔絵の技法が加わり美術工芸品としても発展した[56][57]。大聖寺藩では江戸時代初めに殖産興業の一環として鉱山開発に取り組み九谷村(現・加賀市)で磁鉱が発見されたことから窯を築き色絵磁器(九谷焼)の製造が始まった。一旦廃窯されるが九谷焼は加賀藩により再興され、明治期には海外への輸出品となった[58]

江戸時代後期、加賀藩は1792年藩校の文学校明倫堂と武学校経武館を文武ごとに別けて設立した[55]。明倫堂では儒学のほか易学、医学、本草学暦学算学などを、経武館では馬術剣術などを教えた。また幕末には洋式兵学校の壮猶館や航海、測量の実習のための軍艦所を作り、ヨーロッパから洋式艦船を購入するなど海防に力を注いだ[55][59]

近代

大正時代に竣工した旧石川県庁(現・石川県政記念しいのき迎賓館)(金沢市)

1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された[55]。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国新川郡婦負郡礪波郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡七尾県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。

なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。

1874年(明治7年)、旧金沢藩士長谷川準也(後の金沢市長)らにより金沢製糸場が創設された。官営模範工場富岡製糸場に倣ったもので、県下の殖産興業の先駆けとなった[60]1887年(明治20年)4月、金沢に旧制第四高等中学校(現・金沢大学の前身)が設置された[61][62]。また1898年(明治31年)10月、金沢城内に旧陸軍第九師団司令部が設けられた[13]。これにより金沢は北陸地域での学問的、軍事的な拠点として発展していく。
明治期の金沢駅舎および駅前広場(金沢市)

鉄道は、1897年(明治30年)9月、北陸線福井駅から小松駅まで延伸。翌1898年(明治31年)4月に金沢駅まで、同年11月に高岡駅まで延伸された。また同年4月には七尾鉄道が津幡仮停車場(現・本津幡駅付近)から矢田新駅(後の七尾港駅)まで開通し、1907年(明治40年)国有化された。1925年(大正14年)和倉駅まで延伸し、1935年(昭和10年)までに輪島駅まで開業した。

金沢製糸場の施工にあたった津田吉之助の子津田米次郎織機の機械化に取り組み、1900年(明治33年)日本初の力織機を発明した。当時、羽二重生産で出遅れていた金沢はこの力織機による工場制大量生産で大正期にかけて生産量を伸ばした[63]。同年、金沢では電気の送電が開始され、翌1901年(明治34年)に市内電話が開通。1908年(明治41年)にはガスの供給が始まっている[64]

1918年(大正7年)富山県魚津で発生した米騒動は石川県でも高浜町堀松村(いずれも現・志賀町)から金沢市、宇出津町(現・能登町)、松任町(現・白山市)、

転載元: 環境・正義・歴史の友達のブログ

[転載]能登半島の外浦は、その位置と対馬海流の為に山陰地方や朝鮮半島からの漂着物が多く、8世紀から9世紀には志賀町の福浦港が渤海使の玄関口となった。

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能登半島


   
能登半島座標最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属大陸・島 所属国・地域
能登半島のランドサット衛星写真。スペースシャトル標高データ使用。
北緯37度15分23.6秒
東経136度52分43.1秒
座標: 北緯37度15分23.6秒 東経136度52分43.1秒
544m
鉢伏山
石川県七尾市
日本海
本州
日本の旗日本
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能登半島の位置
能登半島の位置
能登半島
能登半島の位置
能登半島の地形図

能登半島(のとはんとう)とは、北陸地方の中央付近から日本海へ北に向けて突き出した半島である。日本における日本海側海岸線で最も突出面積が大きい半島である。

概要

ほぼ全域が石川県に属するが、南東の一部は富山県に属する。側の海岸線は途中から東に折れて、富山湾を形成する。
半島内部は、標高 200 mから 500 m 程の丘陵地帯が続く為に平地は少なく、輪島市などでは、千枚田が見られ、中でも白米千枚田は有名。海岸線を主体に広い範囲が能登半島国定公園に指定されている。古代からナマコの特産地である。
「能登はやさしや土までも」との言葉もあるように、人はもとより土までも優しい(柔らかい意)と言われている。

半島内の地域

富山湾側の風景(雨晴海岸
富山湾に面した海岸を内浦(うちうら)、日本海に面した海岸を外浦(そとうら)と呼ぶ。また、半島の先端から根元に向け、順に奥能登(おくのと)、中能登(なかのと)、口能登(くちのと)と呼ぶ。行政区域で分類すると、下記のようになる。
口能登
羽咋市羽咋郡宝達志水町志賀町
中能登
七尾市鹿島郡中能登町
奥能登
輪島市珠洲市鳳珠郡穴水町能登町
  • 口能登と中能登を分類せずに「中能登」という場合、輪島市を中能登に入れる場合、河北郡以北を能登地区という場合もある。江戸時代には羽咋郡、鹿島(能登)郡を口二郡(或いは口郡)、鳳至郡珠洲郡を奥二郡(或いは奥郡)と呼び区別した。
外浦は、その位置と対馬海流の為に山陰地方朝鮮半島からの漂着物が多く、8世紀から9世紀には志賀町福浦港渤海使の玄関口となった。また、勇壮な景観で知られる能登金剛曽々木海岸などの景勝地があり、男性的な景観を見せる。一方で、内浦は穏やかな湾入地形の為に波が比較的穏やかで、また、九十九島など繊細な自然美を誇る景勝地を持つことから女性的とも言われ、対比関係にある。

口能登では気多大社のある羽咋市が、中能登では和倉温泉がある七尾市が中心地であり、奥能登には外浦側に曹洞宗大本山總持寺祖院がある輪島市、中央付近に2003年に開港した能登空港、半島先端に禄剛崎がある珠洲市などがある。一帯は水産資源が豊富で、タラ・ブリ(特に寒ブリ)・イカなどが有名。輪島の朝市輪島塗、禄剛崎や外浦・内浦の海岸景勝地、和倉温泉など、観光資源が豊富。

このように観光地としても有名だが、反面リアス式海岸とまではいかなくても海岸線が複雑で、海沿いでも道を外れれば人気のない場所が多くある。そのため1950年代から度々北朝鮮の工作員が出入りする格好の場所(同様の地点として男鹿半島も挙げられることがある)とされ、1977年には日本人拉致事件の被害者が出ている。また、1978年にも半島の付け根にあたる氷見市で北朝鮮工作員による拉致未遂事件が起きている(これを1980年1月にアベック失踪事件と絡めて産経新聞が初めて報道した)。

能登国   

能登国 別称所属相当領域 諸元国力距離数 国内主要施設能登国府能登国分寺能登国分尼寺一宮
地図 令制国 能登国.svg
-能登国
-北陸道
能州(のうしゅう)
北陸道
石川県北部(能登半島
中国
中国
4郡26郷
石川県七尾市
石川県七尾市(能登国分寺跡
(未詳)
気多大社(石川県羽咋市
テンプレートを表示
能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。


沿革

養老2年(718年5月2日越前国から羽咋郡能登郡鳳至郡珠洲郡の四郡を分立して成立した。天平13年(741年12月10日越中国に併合された[1]が、天平宝字元年(757年)に再び分立した。
また、天元3年(980年)、『和名抄』の編纂で有名な源順が能登国守として赴任している。
能登郡の名称は後に鹿島郡へと改められた。

近代以降の沿革

領域

明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。

国内の施設

国府

源順の『和名抄』には「能登国国府在能登郡」とあり、現在の七尾市古府の総社の付近か府中町にあったと推定されている。発掘調査はまだなされていない。

国分寺・国分尼寺

国分僧寺は、新たに創建されたものではなく、飛鳥時代後期(700年頃)に創建された大興寺を承和10年(843年)に国分寺としたものである。国分寺跡には建物の基壇や柱跡が表示され、南門と塀が復元されている。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1社1座・小社42社42座の計43社43座が記載されている。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下
  • 総社 能登国総社 (能登国魂神社とも、七尾市古府) - 源順が能登守の時代、大穴持命を祀っていた神社に国内の有力神社43社の神を勧請・合祀し、現存する。
  • 一宮 気多大社
  • 二宮 伊須流岐比古神社または天日陰比神社

地域

国司

能登守

守護

鎌倉幕府

室町幕府


転載元: 環境・正義・歴史の友達のブログ

能登半島沖不審船事件は、1999年(平成11年)3月23日に発生した、北朝鮮の不審船による日本領海侵犯事件と、その逃走時に生起した海上自衛隊および海上保安庁による追跡行の一連の行動を指す。

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能登半島沖不審船事件



能登半島沖不審船事件は、1999年平成11年)3月23日に発生した、北朝鮮不審船による日本領海侵犯事件と、その逃走時に生起した海上自衛隊および海上保安庁による追跡行の一連の行動を指す。

端緒

最初に特異な兆候が発生したのは1999年3月18日のことであった。北朝鮮の諜報員が使用する無線局「A-3」に変化が発生。この兆候は、電波による情報活動(シギント)を任務とする自衛隊情報本部電波部、警察庁警備局の外事技術調査官室(通称「ヤマ」)、また、日本や大韓民国に駐留するアメリカ軍の情報機関などによって傍受されたものとみられている。
端緒は他にもあった。翌日の3月19日には清津にあ
工作船基地から工作船が出航した旨の衛星情報が在日米軍司令部経由で情報本部に寄せられた。また、北朝鮮が「日本にある重要なブツを持ち込む」との情報が韓国の情報機関国家情報院(NIS)から公安調査庁(PSIA)に寄せられたともいわれる。しかし、この時点では差し迫った脅威があるという情報がなかったことから特に対策はとられなかった。

事態が急展開したのは3月21日であった。この日の22時ごろ、日本海能登半島東方沖の海上から不審な電波発信が続けられているのを各関係機関が一斉に傍受した。さらに、深夜には「A-3」にも異常がみられたという。これらの情報を踏まえ、3月22日15時に海上自衛隊舞鶴基地から護衛艦はるな」(第3護衛隊群直轄艦)、「みょうこう」(第3護衛隊群所属)、「あぶくま」(舞鶴地方隊所属)が緊急出港した。法的根拠は防衛庁設置法に基づく「調査・研究」とした。同時に警察庁から日本海側各県の警察に対して沿岸の警戒強化を呼びかける「KB(KOREAN-BOAT)参考情報」が発せられた。

不審漁船の発見

海上自衛隊八戸航空基地から飛び立って上空を捜索していたロッキードP-3C対潜哨戒機が、翌3月23日6時42分、佐渡島西方18キロの日本領海内に「第一大西丸」と記された船を発見[4]。9時25分、能登半島東方64キロに「第二大和丸」と記された船を発見した[2]
などの不審点があったことから[3]、これらの船名を漁協に問い合わせたところ、第一大西丸は既に廃船、本物の第二大和丸は兵庫県沖で操業中である事が判明し[1]、海上自衛隊による追跡が始まった。また、航空自衛隊が情報収集のため、三沢基地所属のノースロップ・グラマンE-2C早期警戒機を海域上空に派遣した[3]

追跡

11時30分に海上保安庁新潟航空基地を飛び立ったS-76Cヘリコプター「らいちょう1号」は、不審船を写真撮影するとともに船舶電話を使って呼びかけ(朝鮮語英語日本語による)を行ったが、不審船からは何の反応もなかった。海上保安庁では、特殊警備隊(SST)を大阪からヘリコプターで「ちくぜん」に搬送し、待機させた。日没前には「はるな」艦載ヘリが不審船を撮影し、航空自衛隊小松基地に着陸して防衛庁へ画像を電送。これが初めての画像電送装置の実戦使用になった。

日本海側の各警察に出されていた「KB参考情報」は、さらに重要度が高い「KB情報(例の不審船は明らかに北朝鮮工作船である。警察は沿岸地域を厳重に警戒せよ。の意)」に変更される。警察は、人気のない海岸での工作員の密入国や、「土台人」が工作員を待ち受けたりしないよう、海岸沿いの警戒を強化した。

威嚇射撃

海上保安庁は、巡視船艇15隻および航空機12機を動員し[1][2]、追跡は夜までおよんだが不審船は停船せず、挑発するように逃走を続けた。18時10分には首相官邸別館にある危機管理センターに官邸対策室が設置された[5]

19時になると不審船は24ノットに増速、19時30分には28ノットとなったため、PC型の「はまゆき」「なおづき」が引き離され始めた。その報告を受けると、川崎二郎運輸大臣は威嚇射撃を許可し、第九管区海上保安本部(新潟)に通知した。

20時過ぎ、第九管区海上保安本部長が海上保安庁法第二十条に基づく威嚇射撃を指示。「みょうこう」から照らされたサーチライトが光る中、20時頃より「ちくぜん」が「第二大和丸」の傍の海上に向かって20mm機関砲曳光弾を50発発砲[2]1953年ラズエズノイ号事件以来46年ぶりとなる警告射撃を行った。20時24分と21時1分ごろには、「はまゆき」も13mm機銃で計195発を射撃した[2]。また、「第一大西丸」に対しても、「なおづき」が9丁の64式小銃で1,050発(うち曳光弾が500発)もの威嚇射撃を行った[2]。不審船は威嚇射撃に反応したためか、35ノットに増速して逃走。燃料不足もあって「はまゆき」「なおづき」は追跡を断念、また、速力差もあり、20時14分には「第一大西丸」、21時12分には「第二大和丸」が巡視船のレーダー探知距離外に離脱した[2][6]

特に「第一大西丸」は護衛艦はるな」のみの追跡となった。官邸対策室ではこれを受けて海上警備行動発令へと傾いたが、親北朝鮮派である野中広務内閣官房長官が発令しないよう官邸に圧力をかけ、官邸も一旦は追跡打ち切りの方向へと向かっていた[7][8]

謎の停船

「第一大西丸」は、一時的に追手との距離が開いたために、日本側が追跡を断念したと見たのか、23時47分に突然停止[3]。その報告を受けて野呂田芳成防衛庁長官海上警備行動の発令を決断した。

手続きとして、翌3月24日0時30分に川崎運輸大臣より野呂田防衛庁長官に「海上保安庁の能力を超えている」との連絡があり[3][4]、0時45分に持ち回り閣議が開かれて海上警備行動を承認、0時50分、自衛隊法第82条に基づく初の海上警備行動が野呂田防衛庁長官から自衛艦隊司令官および各地方総監あてに、海上における警備行動に関する海上自衛隊行動命令(海甲行警命第16号。11.3.24 0050)として発令された[1][3]

初の海上警備行動

吉川榮治第3護衛隊群司令(後に海上幕僚長)に現場指揮が命令され、第2航空群に爆弾投下命令が出された。「みょうこう」をはじめとする各護衛艦は、海上自衛隊発足以来初のROE(交戦規定)となる野呂田防衛庁長官名の命令書「部隊の取るべき措置標準」を受け取り、はるな及びみょうこうは2隻に対して無線及び発光信号にて停船命令を実施[4]、その後1時19分から4時38分にかけて搭載速射砲で25回35発(みょうこうが第二大和丸に対し13回13発、はるなが第一大西丸に対し12回22発、砲側射撃)の警告射撃を実施した[3][4]

3時20分から5時41分にかけ、上空から八戸のP-3C 3機が、巨大な水しぶきにより水の壁を作り、水の力で不審船を停船させるため、150キロ対潜爆弾12発(のべ3回各機4発ずつ)を投下する警告爆撃を行った[3][4]。上空には海上自衛隊岩国航空基地所属のロッキードEP-3電子戦機在日米海軍のP-3CとEP-3も飛来していたが、航空自衛隊には警備行動への参加が発令されず、P-3Cと監視中だったE-2C早期警戒機は、護衛の戦闘機無しで不審船上空を飛びまわった。そのため、爆弾を搭載したP-3Cが現場に到着すると、不審船からの地対空ミサイルによる攻撃を防ぐため、現場判断で、爆弾投下を行うP-3Cと不審船の間に、監視目的で飛行していた無防備のE-2C僚機が割り込み、命懸けで盾となる飛行を行うなどの混乱が起きた。

防空識別圏境界が近づくと、ロシア政府から不審船追跡におけるロシア側海域通過の許可が下りた、同時にロシア側による不審船追跡が開始され[6]、ロシア側からも停船命令が発せられた。後にロシア側の責任者は「この不審船が、もしもロシア領海に侵入していれば、即座に撃沈するつもりだった」と語っている。

命がけの突入計画

護衛艦みょうこう」では、不審船に接近し立ち入り検査を行うこととなった。艦長命令により、航海長伊藤祐靖(当時1尉)を指揮官とする臨検部署(戦時国際法の海戦法規に基づく行為)が臨時に発令され、臨検要員が選出された。防弾チョッキ代わりにマンガ本をガムテープでぐるぐる巻きにして臨検に備えて、艦内に備え付けの64式7.62mm小銃9mm拳銃が配られた。
海上自衛官は、全員が小銃拳銃の射撃訓練を受けているが、当時の海上自衛官にはテロ対策に必須の技術であるCQB(近接戦闘)・CQC(近接格闘)に精通する者は皆無で、護衛艦には防弾チョッキすらなかった。また、護衛艦「はるな」に於いても臨検部署が令される中、第1分隊(砲雷科)が、不審船の進路上に割り込んで(体験航海時の緑色の転落防止ネット)を投下し、海面に漂わせてプロペラに絡ませようとしたが、回避され失敗した[3]

逃走

不審船はその後も高速で逃走し、3時20分に「第二大和丸」が、6時6分に「第一大西丸」が防空識別圏を越えたため追跡を断念した[1][2][3][4]。7時55分に、E-2C北朝鮮羅津からのミコヤンMiG-21戦闘機2機の出撃を確認。このため、各護衛艦では対空戦闘に備え、空自からは通常のスクランブル任務として小松基地からマクドネル・ダグラスF-15J戦闘機2機が発進した[3]

2隻はロシア側海域を逃走していたが、途中から南西方向へ転進し、両船の位置が入れ替わった。25日の朝7時ごろに北朝鮮の清津に入港した。これをもって状況が終了し、15時30分をもって海上警備行動は終了した[2][3]

事件の影響

この事件は、自衛隊における2回目の武器使用事案(1回目はソ連空軍偵察機による沖縄本島領空侵犯時の威嚇射撃事件)、すなわち実戦経験という点で、隊の歴史上重要な事件である。この事件の後日、海上自衛隊内に強襲・臨検を任務とする特殊部隊特別警備隊(SBU)」と、護衛艦ごとに臨検を任務とする「立入検査隊(立検隊)」が編成された[9]。「みょうこう」航海長伊藤祐靖は、初の臨検部署発動という経験を買われて、特別警備隊準備室に異動した[10]

また、追跡の際、海上保安庁の船艇の速力が不審船や護衛艦に比べて大幅に劣り、有事に対応できないことが判明したため、海上自衛隊のとの連携強化に加え、以降に新造される巡視船艇の能力が大幅に向上されるようになった[11]。また、海上自衛隊も高速艦艇の整備を行った[9]

さらに、本事件において、海上保安官武器を使用して人に危害を加えた場合の違法性阻却事由(免責要件)が「警察官職務執行法第7条」に定められた要件[12]のみという状況では、不審船事案に有効に対応できないことが判明したため[11]2001年海上保安庁法の改正が行われた。この改正では第20条2項において、一定の条件に限って[12]、巡視船などが、停船命令を無視して逃走・抵抗する船舶に対して射撃し乗員に危害を加えても、海上保安官の違法性が阻却されることが明定された。

当事件後の2001年に発生した九州南西海域工作船事件においては、不審船の現認位置が日本の領海外のEEZ内であったため、改正された第20条2項の要件を満たすことができず、従来と同じく船体射撃で被疑者が死傷した場合は違法性を問われる恐れがあったが、RFS機能のついた機関砲で被疑者に危害を与えずに船体射撃を行えると判断して攻撃を行った結果、不審船は自爆し沈没した。
また、この事件で北朝鮮の偽装船が日本の領域で暗躍していることが
国民の間にも知られるようになった。この事は、前年(1998年)のテポドン事件と合わせ、日本の世論に大きな影響を与えている。佐藤秀峰の漫画『海猿』の第5巻において、設定場所を変えてはいるが、本事件とほぼ同じ推移の物語が描かれている。また、日本財団海上保安協会が中心となって、海上保安庁公認のボランティア団体として「海守」が結成されるきっかけとなった。



[転載]北朝鮮の工作船の話から平和と安全を考えてみる!

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海上自衛隊も海上保安庁も海の安全を守っています。
海上保安資料館横浜館 -Japan Coast Guard Museum YOKOHAMA-
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3d-95/yukensandesu/folder/963992/46/34363746/img_0?20180707143814
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3d-95/yukensandesu/folder/963992/46/34363746/img_1?20180707143814
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3d-95/yukensandesu/folder/963992/46/34363746/img_2?20180707143814
【転載】能登半島沖不審船事件の話・・・第1話~第5話(伊藤祐靖ブログより)のそのまた転載です。
【転載】能登半島沖不審船事件の話・・・第6話~第11話(伊藤祐靖ブログより)のそのまた転載です。
平和だ安全だ平和憲法だと言うのですが、その平和と安全を
自分の生命を賭して守る人々がいる事を知り、
その安全と平和は国民一人一人にその責務が有る事を思います。

転載元: ☆名古屋砥泥会(なごやとどろかい)☆

日本海中部海域不審船事件

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日本海中部海域不審船事件


日本海中部海域不審船事件とは、2002年9月4日に発生した、北朝鮮工作船と見られる不審船日本海上で発見された事件。

2002年9月4日午後5時15分、防衛庁から海上保安庁に対し、「能登半島沖の北北西約400kmの海域にて、不審船が発見された」との通報があり、海上保安庁では、第八管区海上保安本部(舞鶴市)が巡視船15隻、航空機を現場海域に派遣することとなった。首相官邸内の危機管理センター内には官邸対策室が設けられ、海上自衛隊においても、P-3C対潜哨戒機による監視飛行が行われた。
現場海域は、日本の排他的経済水域ではなく公海上であったことから、停船命令を発することなく監視追尾をすることとし、つるぎ型巡視船が能登半島沖の北西約450kmで不審船「ズ・ダン1211[1]」を視認、そのまま監視を続けた。翌9月5日0時37分、不審船が日本の防空識別圏を通過したため、追尾を終了した。
後日、アメリカ軍偵察衛星他の情報から、この事件の当時、日本海上には少なくとも4隻の工作船がいたことが判明した。

関連項目








[転載]能登半島地震

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昨日は大阪も結構揺れた

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-2f-29/paisan3141/folder/543082/40/48008040/img_0?20180707150619
 ちょうど、オフィスに出勤し
 ブログのコメントを書いている
 時だったろうか・・
 9:43頃だったと思う。
 ミシミシと建物が揺れたので
 「あっ、地震だ・・・」と。
  ☆☆☆
 阪神淡路のアレ以来、私は地震に
 過敏になってしまった。
  ☆☆☆
 今回の地震・・人命被害は不幸中の
 幸いか、大きくはなかったようだが
 阪神淡路の経験より、これからの方が
 大変だと・・・本当に気の毒だ。

 「復興」と「対策」・・・これがもう無茶苦茶大変だ。
 日本は地震列島なのだから、もっと地震に対して備えがあって然るべきなのだが
 実際に起こってみないと、「まさかこの辺りが!?」ってみなそう思う。
 正直、阪神淡路の時でも、関東は地震が怖かろうと思っていたが、まさか関西が
 あれほどでかいのに見舞われるとは思いもしなかった。
 新潟や秋田は何度も地震の被害にあっているが、まさか石川が・・・と私も思う。

 大陸からのユーラシアプレートが日本海に入り込むので、日本海側北部は地震が
 多くなってしまう・・・これは理屈ではわかるが、被害は理屈では割り切れない。
 ちょうど日本の位置は太平洋プレートや南北からのプレートの交差点というか
 集中点になっているので、地震が発生しやすい。
 「日本沈没」も嘘ではなく、あと何万年かすればいずれ日本はああなってしまう。

 食料、水などの支援物資、仮設住宅などの居住施設・・・地震は地震そのものも
 そうだが、その後のフォローをいかにスムーズに行うか・・そこが大変。
 石川県の方々、何か応援できるように私もさせて頂くつもりです。

転載元: 愚者の惰眠

真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。

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真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。


概要

真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。用水路工事に伴う1982 - 1983年にかけて行われた発掘調査により発見された。遺跡は入江奥の沖積低地の遺物包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした土層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期 - 中期にかけて多く見られる)。イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。

遺跡最晩期の土層からは円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。その太さは直径80 - 96センチもある。小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

遺跡は、1989年に国の史跡に指定された。また出土品のうち保存状態の良好なもの219点が1991年に国の重要文化財(考古資料)に指定された。

2000年の発掘

2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし墓を造っている。盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。また、中期中葉に属する板敷き土壙墓が発見された。そのうち1基から、仰臥屈葬による人骨が発見された。

関連項目

外部リンク


www.mawakiiseki.jp/ - キャッシュ
石川県能登町 国指定史跡真脇遺跡. ... 石川県能登町 国指定史跡 真脇遺跡. ようこそ、国指定史跡真脇遺跡のホームページへ。 informationお知らせ. 2018.6.23更新 真脇遺跡の最新情報. 6月の休館日. 25日、26日 なお、休館日に見学を希望の方は電話で ...
www.notocho.jp/experience/237/ - キャッシュ
遺跡公園の中には、アンモナイトの形をした「ポーレポーレ」があり宿泊、お食事ができます。高台から見える海岸は、運がよければ遥か彼方の立山連峰を望むこともできます。静かな森の遺跡に触れてみませんか?パワースポットの環状木柱列で古代歴史に思い ...
mainichi.jp/articles/20171125/k00/00e/040/324000c
2017年11月25日 - 能登半島北部、石川県能登町にある縄文時代の真脇遺跡。復元された巨大な10本の柱の列「環状木柱列」は、直立の巨石が円形に並ぶ英国のストーンヘンジを思わせる。 1982年の調査で柱の根元が見つかった。丈夫で腐りにくいクリの木 ...
www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1121166-d780... - キャッシュ
評価(評価: 4)評価:4-10件のレビュー
真脇遺跡縄文館(能登町)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(10件)、写真(13枚)、 地図をチェック!真脇遺跡縄文館は能登町で3位(21件中)の観光名所です。
www.travel.co.jp > ... > 北陸地方 > 石川県 > 能登・鳳珠・穴水 - キャッシュ
石川県能登半島の「奥能登」に位置する能登町真脇地区に、約6000年の時を超えて発掘された縄文遺跡があることをご存知でしょうか。その規模は北陸最大級。真脇遺跡と称され、平成元年に国指定史跡に指定されました。縄文時代の遺跡を ...
www.town.noto.lg.jp > ホーム > お知らせ - キャッシュ
真脇遺跡の背後に広がる、縄文文化をテーマにした歴史体験公園。野外劇場などもあり、各設備は遺跡の出土品をモチーフにするなど、細部にも凝っている。 また、隣接施設には、真脇遺跡縄文館、真脇遺跡体験村、縄文真脇温泉、公共宿泊施設真脇 ...
www.jalan.net > ... > 輪島・能登の観光 > 能登町(鳳珠郡)の観光 - キャッシュ
評価(評価: 4)評価:4-5件のレビュー
真脇遺跡縄文館の観光情報 営業期間:開館:9:00~17:00、交通アクセス:(1)能越自動車道 のと里山空港ICから車で40分。真脇遺跡縄文館周辺情報も充実しています。 石川の観光情報ならじゃらんnet 縄文時代前期初頭(約6千年前)から約.


[転載]花嫁のれん館に行こう!花嫁のれんとは、日本の石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。

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www.jr-odekake.net/navi/kankou/hanayomenoren/ - キャッシュ
2号車は、通路は流水のイメージ、いすは紅色の生地と背面の木の格子が特徴的なオリジナル回転いすとしました。内装は、伝統的によく使用される輪島塗の図柄を表現しています。 「花嫁のれん」は、車両全体で北陸の和と美を感じ、満喫できる列車となってい ...



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tokai-tv.com/hanayome/ - キャッシュ
東海テレビ昼ドラ「花嫁のれん」公式サイト. ... 昼ドラで人気を博した、 あの花嫁のれんがFODで帰ってき. 百年の伝統とアラフォーの意地。 花嫁のれん. 毎週月〜金曜日 ひる1時30分. 羽田美智子 野際 陽子・里久鳴祐果 内田 朝陽 烏丸せつこ 小林すすむ.


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ja.wikipedia.org/.../花嫁のれん_(2010年のテレビドラマ... - キャッシュ
花嫁のれん』(はなよめのれん)とは、東海テレビ放送の制作により、フジテレビ系列で2010年から断続的に放送されている、昼の帯ドラマ。フジテレビ系列で1971年4月1日から同年9月30日まで放送された木曜21時枠のドラマとは直接の関連はない。
サイト内リンク:
出演 - 主人公 - アトリエ禅 - その他

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ja.wikipedia.org/wiki/花嫁のれん - キャッシュ

花嫁のれん

花嫁のれん(はなよめのれん)とは、日本石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。
幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀能登越中の地域で行われた[1]平成時代に入っては石川県能登地方観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ[2]、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている(第5353935号)[3]
これに使用されるのれんは、多くは加賀友禅で仕立てられ、上部には新婦実家の家紋が染め抜かれている[1]。代表的な図柄に「鶴亀」が用いられる。のれん婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り(婚家系譜に入るこを先祖へ報告)」をした後、結婚式に臨む[1]。式から1週間、仏間の入口にそのまま掛けられ(或いは仏間内に移さたうえで衣桁に飾られ)、仏間に在するとされる婚家先祖の霊(及び現代では祝賀に訪れた近隣住民)に対し新婦実家の系譜をその家紋に依って明示し、同時に、婚家当主の立場から祖先へ婚礼事実の報告を行う。花嫁のれんは、婚礼当日(および、僅か1週間の披露期間)のためだけに個別制作すなわち新婦実家によって発注され、新婦実家から婚家へ嫁入り道具の一環として贈られる。使用期間が短いにも関わらず高価かつ非実用品であるため、現代においては(西洋のウェディングドレス同様に)母親が嫁ぐ娘へ自身の花嫁のれんを譲る例がある。

関連する婚姻風習

花嫁が結家の敷居を跨ぐ際、玄関で「合わせ水」がある。花嫁の家の水を竹筒に入れて持参し、嫁ぎ先の水と実家の水をカワラケに同時に注いだ「合わせ水」を花嫁が一口飲む。すると媒酌人夫人が「両家の水に合いますように」と願いを込めて、カワラケを玄関の地面に打ち付けて割る(割らなければいけない。粉々に割れるほど上等とされる。元に戻れない、すなわち「離婚して実家に戻る」などの事態を否定する、『新婦の退路を断つ』象徴的な行為)。富山、福井では、これを「一生水」と呼ぶこともあり、嫁ぎ先の水だけを飲み、「一生この家の水を飲みます」という誓いになる。

脚注

  1. ^ abc花嫁のれんとは?”. 花嫁のれん展公式サイト. 2014年12月29日閲覧。
  2. ^“花嫁道中の「のれんくぐり」再現 七尾で展示始まる”. 北國新聞. http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140430104.htm2014年12月29日閲覧。 
  3. ^「花嫁のれん」の商標登録について”. 能登・七尾 一本杉通り公式ウェブサイト. 2014年12月29日閲覧。

外部リンク




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hanayomenorenkan.jp/ - キャッシュ
花嫁のれんとは、幕末から明治時代から伝わる、加賀藩の能登・加賀・越中で始まった婚礼の風習の一つで、嫁入りの時に嫁ぎ先の仏間に掛けられ、花嫁がくぐるのれんです。
婚礼に使われた後出番がなく、箪笥の肥やしになっていた花嫁のれんを、七尾一本杉通りの女将達が、平成16年からゴールデンウィーク期間中に「花嫁のれん展」の開催を始めました。商店街の各店舗や住宅に展示し、その花嫁のれんの魅力に多くの人が惹き付けられています。
花嫁のれんを常時見られるようにと作られた「花嫁のれん館」は、平成28年春に開館し、常設展示室では明治から平成までの花嫁のれんを見ることが出来ます。
また、地域の婚礼文化を展示する企画展示室や、婚礼衣装をまとい花嫁のれんをくぐる体験のれんくぐり体験、オリジナルグッズを販売するショップ、地域の観光情報を発信する交流スペースも併設されております。


アクセス

●電車で
金沢駅から特急かがり火で七尾駅まで約1時間、七尾駅から徒歩8分
●車で
のと里山海道上棚矢駄ICから約30分、又は能越道七尾ICから約10分
●バスで
新高岡駅から わくライナーで七尾駅まで約90分、
七尾駅から徒歩8分
花嫁のれん館
〒926-0818
石川県七尾市馬出町ツ部49


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www.fujitv.co.jp/b_hp/hanayomenoren/index.html - キャッシュ
花嫁のれん(2010年) - 番組情報。金沢の老舗旅館を舞台にした“ホームドラマ” アラフォー女と最強加賀女の終わりなきバトルが幕を開ける!



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www.nanao-araki.com > HOME > 耳よりコラム - キャッシュ
花嫁のれん」とは加賀・能登の庶民生活の風習の中に生まれた独自ののれんで、 幕末から明治時代初期のころより加賀藩の能登、加賀、越中に見られます。 花嫁が嫁入りの時に「花嫁のれん」を持参し、花婿の家の仏間の入口に掛けます。 結婚式当日玄関先 ...



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twitter.com/hashtag/花嫁のれん - キャッシュ
On 15 Jun 2017 @nikkansports tweeted: "東海テレビが野際さん昼ドラ「花嫁のれん」 再放送 https://t.co/uQc.." - read what others are saying and join the conversation.
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評価(評価: 4.5)評価:4.5-52件のレビュー
七尾線観光列車 花嫁のれん(金沢市)に行くならトリップアドバイザーで口コミ(52件)、 写真(139枚)、地図をチェック!七尾線観光列車 花嫁のれんは金沢市で33位(289件中)の観光名所です。



転載元: ブライダルって・・のブログ

[転載]花嫁のれん館に行こう!花嫁のれんとは、日本の石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。

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www.jr-odekake.net/navi/kankou/hanayomenoren/ - キャッシュ
2号車は、通路は流水のイメージ、いすは紅色の生地と背面の木の格子が特徴的なオリジナル回転いすとしました。内装は、伝統的によく使用される輪島塗の図柄を表現しています。 「花嫁のれん」は、車両全体で北陸の和と美を感じ、満喫できる列車となってい ...



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東海テレビ昼ドラ「花嫁のれん」公式サイト. ... 昼ドラで人気を博した、 あの花嫁のれんがFODで帰ってき. 百年の伝統とアラフォーの意地。 花嫁のれん. 毎週月〜金曜日 ひる1時30分. 羽田美智子 野際 陽子・里久鳴祐果 内田 朝陽 烏丸せつこ 小林すすむ.


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ja.wikipedia.org/.../花嫁のれん_(2010年のテレビドラマ... - キャッシュ
花嫁のれん』(はなよめのれん)とは、東海テレビ放送の制作により、フジテレビ系列で2010年から断続的に放送されている、昼の帯ドラマ。フジテレビ系列で1971年4月1日から同年9月30日まで放送された木曜21時枠のドラマとは直接の関連はない。
サイト内リンク:
出演 - 主人公 - アトリエ禅 - その他

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ja.wikipedia.org/wiki/花嫁のれん - キャッシュ

花嫁のれん

花嫁のれん(はなよめのれん)とは、日本石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。
幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀能登越中の地域で行われた[1]平成時代に入っては石川県能登地方観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ[2]、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている(第5353935号)[3]
これに使用されるのれんは、多くは加賀友禅で仕立てられ、上部には新婦実家の家紋が染め抜かれている[1]。代表的な図柄に「鶴亀」が用いられる。のれん婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り(婚家系譜に入るこを先祖へ報告)」をした後、結婚式に臨む[1]。式から1週間、仏間の入口にそのまま掛けられ(或いは仏間内に移さたうえで衣桁に飾られ)、仏間に在するとされる婚家先祖の霊(及び現代では祝賀に訪れた近隣住民)に対し新婦実家の系譜をその家紋に依って明示し、同時に、婚家当主の立場から祖先へ婚礼事実の報告を行う。花嫁のれんは、婚礼当日(および、僅か1週間の披露期間)のためだけに個別制作すなわち新婦実家によって発注され、新婦実家から婚家へ嫁入り道具の一環として贈られる。使用期間が短いにも関わらず高価かつ非実用品であるため、現代においては(西洋のウェディングドレス同様に)母親が嫁ぐ娘へ自身の花嫁のれんを譲る例がある。

関連する婚姻風習

花嫁が結家の敷居を跨ぐ際、玄関で「合わせ水」がある。花嫁の家の水を竹筒に入れて持参し、嫁ぎ先の水と実家の水をカワラケに同時に注いだ「合わせ水」を花嫁が一口飲む。すると媒酌人夫人が「両家の水に合いますように」と願いを込めて、カワラケを玄関の地面に打ち付けて割る(割らなければいけない。粉々に割れるほど上等とされる。元に戻れない、すなわち「離婚して実家に戻る」などの事態を否定する、『新婦の退路を断つ』象徴的な行為)。富山、福井では、これを「一生水」と呼ぶこともあり、嫁ぎ先の水だけを飲み、「一生この家の水を飲みます」という誓いになる。

脚注

  1. ^ abc花嫁のれんとは?”. 花嫁のれん展公式サイト. 2014年12月29日閲覧。
  2. ^“花嫁道中の「のれんくぐり」再現 七尾で展示始まる”. 北國新聞. http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140430104.htm2014年12月29日閲覧。 
  3. ^「花嫁のれん」の商標登録について”. 能登・七尾 一本杉通り公式ウェブサイト. 2014年12月29日閲覧。

外部リンク




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花嫁のれんとは、幕末から明治時代から伝わる、加賀藩の能登・加賀・越中で始まった婚礼の風習の一つで、嫁入りの時に嫁ぎ先の仏間に掛けられ、花嫁がくぐるのれんです。
婚礼に使われた後出番がなく、箪笥の肥やしになっていた花嫁のれんを、七尾一本杉通りの女将達が、平成16年からゴールデンウィーク期間中に「花嫁のれん展」の開催を始めました。商店街の各店舗や住宅に展示し、その花嫁のれんの魅力に多くの人が惹き付けられています。
花嫁のれんを常時見られるようにと作られた「花嫁のれん館」は、平成28年春に開館し、常設展示室では明治から平成までの花嫁のれんを見ることが出来ます。
また、地域の婚礼文化を展示する企画展示室や、婚礼衣装をまとい花嫁のれんをくぐる体験のれんくぐり体験、オリジナルグッズを販売するショップ、地域の観光情報を発信する交流スペースも併設されております。


アクセス

●電車で
金沢駅から特急かがり火で七尾駅まで約1時間、七尾駅から徒歩8分
●車で
のと里山海道上棚矢駄ICから約30分、又は能越道七尾ICから約10分
●バスで
新高岡駅から わくライナーで七尾駅まで約90分、
七尾駅から徒歩8分
花嫁のれん館
〒926-0818
石川県七尾市馬出町ツ部49


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2号車は、通路は流水のイメージ、いすは紅色の生地と背面の木の格子が特徴的なオリジナル回転いすとしました。内装は、伝統的によく使用される輪島塗の図柄を表現しています。 「花嫁のれん」は、車両全体で北陸の和と美を感じ、満喫できる列車となってい ...



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東海テレビ昼ドラ「花嫁のれん」公式サイト. ... 昼ドラで人気を博した、 あの花嫁のれんがFODで帰ってき. 百年の伝統とアラフォーの意地。 花嫁のれん. 毎週月〜金曜日 ひる1時30分. 羽田美智子 野際 陽子・里久鳴祐果 内田 朝陽 烏丸せつこ 小林すすむ.


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花嫁のれん』(はなよめのれん)とは、東海テレビ放送の制作により、フジテレビ系列で2010年から断続的に放送されている、昼の帯ドラマ。フジテレビ系列で1971年4月1日から同年9月30日まで放送された木曜21時枠のドラマとは直接の関連はない。
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花嫁のれん

花嫁のれん(はなよめのれん)とは、日本石川県を中心に北陸地方各地で見られる、婚礼に用いられる特別な暖簾(のれん)自体、及びそののれんを尊び用いる風習を言う。
幕末から明治時代にかけて、加賀藩の領地である加賀能登越中の地域で行われた[1]平成時代に入っては石川県能登地方観光資源としても扱われており、地域で受け継がれた花嫁のれんの展示会やこれを使用した花嫁道中などの観光イベントが行われ[2]、「花嫁のれん」の語は七尾市の一本杉通り振興会によって商標登録されている(第5353935号)[3]
これに使用されるのれんは、多くは加賀友禅で仕立てられ、上部には新婦実家の家紋が染め抜かれている[1]。代表的な図柄に「鶴亀」が用いられる。のれん婚礼当日、婚家の仏間の入口に掛けられ、花嫁はそれをくぐって「仏壇参り(婚家系譜に入るこを先祖へ報告)」をした後、結婚式に臨む[1]。式から1週間、仏間の入口にそのまま掛けられ(或いは仏間内に移さたうえで衣桁に飾られ)、仏間に在するとされる婚家先祖の霊(及び現代では祝賀に訪れた近隣住民)に対し新婦実家の系譜をその家紋に依って明示し、同時に、婚家当主の立場から祖先へ婚礼事実の報告を行う。花嫁のれんは、婚礼当日(および、僅か1週間の披露期間)のためだけに個別制作すなわち新婦実家によって発注され、新婦実家から婚家へ嫁入り道具の一環として贈られる。使用期間が短いにも関わらず高価かつ非実用品であるため、現代においては(西洋のウェディングドレス同様に)母親が嫁ぐ娘へ自身の花嫁のれんを譲る例がある。

関連する婚姻風習

花嫁が結家の敷居を跨ぐ際、玄関で「合わせ水」がある。花嫁の家の水を竹筒に入れて持参し、嫁ぎ先の水と実家の水をカワラケに同時に注いだ「合わせ水」を花嫁が一口飲む。すると媒酌人夫人が「両家の水に合いますように」と願いを込めて、カワラケを玄関の地面に打ち付けて割る(割らなければいけない。粉々に割れるほど上等とされる。元に戻れない、すなわち「離婚して実家に戻る」などの事態を否定する、『新婦の退路を断つ』象徴的な行為)。富山、福井では、これを「一生水」と呼ぶこともあり、嫁ぎ先の水だけを飲み、「一生この家の水を飲みます」という誓いになる。

脚注

  1. ^ abc花嫁のれんとは?”. 花嫁のれん展公式サイト. 2014年12月29日閲覧。
  2. ^“花嫁道中の「のれんくぐり」再現 七尾で展示始まる”. 北國新聞. http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140430104.htm2014年12月29日閲覧。 
  3. ^「花嫁のれん」の商標登録について”. 能登・七尾 一本杉通り公式ウェブサイト. 2014年12月29日閲覧。

外部リンク




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花嫁のれんとは、幕末から明治時代から伝わる、加賀藩の能登・加賀・越中で始まった婚礼の風習の一つで、嫁入りの時に嫁ぎ先の仏間に掛けられ、花嫁がくぐるのれんです。
婚礼に使われた後出番がなく、箪笥の肥やしになっていた花嫁のれんを、七尾一本杉通りの女将達が、平成16年からゴールデンウィーク期間中に「花嫁のれん展」の開催を始めました。商店街の各店舗や住宅に展示し、その花嫁のれんの魅力に多くの人が惹き付けられています。
花嫁のれんを常時見られるようにと作られた「花嫁のれん館」は、平成28年春に開館し、常設展示室では明治から平成までの花嫁のれんを見ることが出来ます。
また、地域の婚礼文化を展示する企画展示室や、婚礼衣装をまとい花嫁のれんをくぐる体験のれんくぐり体験、オリジナルグッズを販売するショップ、地域の観光情報を発信する交流スペースも併設されております。


アクセス

●電車で
金沢駅から特急かがり火で七尾駅まで約1時間、七尾駅から徒歩8分
●車で
のと里山海道上棚矢駄ICから約30分、又は能越道七尾ICから約10分
●バスで
新高岡駅から わくライナーで七尾駅まで約90分、
七尾駅から徒歩8分
花嫁のれん館
〒926-0818
石川県七尾市馬出町ツ部49


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[転載]◆奇跡の将軍・樋口季一郎

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◆樋口季一郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/樋口季一郎
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
 
◆ヒグチ・ルート
1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連~満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口は直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、季一郎は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右と直談判して了承を受け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[1]。その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、上海まで彼らを乗せる列車を手配した東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、1938年だけで245名だったものが、1939年には551名、1940年には3,574名まで増えている。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。しかし、ドイツへの外交的配慮からか多数の難民の殺到したの具体的な人数に関する公的文書は残されていない
 
◆アッツ島玉砕、キスカ島撤退
1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村昌福少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し無血撤退の成功に貢献した。
終戦後、対ソ連占守島・樺太防衛戦
敗戦、1945年8月18日以降占守島、樺太における対ソビエト軍への戦闘を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した
 
◆アッツ島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い
アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の末に玉砕した。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。
 
◆アッツ島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島
アッツ島(アッツとう、英: Attu Island)はアラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島。東西70km、南北30kmの大きさ。熱田島(あつたとう)とも呼ばれる。2015年現在、厳しい上陸規制があるため無人であり、アメリカ沿岸警備隊の巡回以外に上陸者はいない。
アッツ島の戦い。アッツ島は第二次世界大戦の際には日本軍とアメリカ軍による激戦が展開され日本軍が玉砕して敗れた。
第二次世界大戦で、唯一北米大陸での地上戦が行われた場所として、1985年、アメリカの歴史遺産に指定されている。1987年には、日本政府によりアッツ島の戦いを記念した「北太平洋戦没者の碑」が玉砕の地である雀ケ丘に建てられ、「さきの大戦において北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」との銘が刻まれた。2010年にNHKスペシャル『玉砕 隠された真実』の制作にあたっては、NHKとアメリカ政府との交渉により上陸・撮影の許可が下りている。
 
◆玉砕 隠された真実 - Biglobe
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/attu_gyokusai/attu_gyokusai.htm
2010/08/23
 67年前、日本とアメリカの間で激闘が繰り広げられた地,、アッツ島。アリューシャン列島の西部にある絶海の孤島である。日本軍アッツ島守備隊2600人は全滅。太平洋戦争中始めて、玉砕と発表された。守備隊の死はどのように引き起こされ、利用されたのか。これまで、明らかにされてこなかった玉砕の真実に迫る。
 アッツ島の玉砕以降、戦死者の数は急速に増え、二百数十万人の日本人が命を失っていく。
 
◆NHKスペシャル 玉砕 隠された真実
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h16028AA
死を目的とした攻撃「玉砕」はどのように始まったのか。大本営参謀が残した貴重な資料、奇跡的に生き残った生存者の証言を交え、その過程を明らかにする。
 
◆戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎
視聴回数 210,519 回
https://youtu.be/4caq5e_toz8
HiramekiTV
2015/10/02 に公開
氷点下20度の極寒の地、ナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人難民は満州とソビエトの国境オトポールで立ち往生していました。
満州国外交部はドイツの目を気にして入国を拒否するなか、当時、ハルビン特務機関長であった、樋口季一郎少将は、二万人ともいわれる凍死寸前のユダヤ人難民の命を救ったのです。
「日本はナチス・ドイツの属国ではありません。ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめ-することが、正しいことですか」
当時、関東軍の東条英機参謀長に、樋口季一郎少将は正論をぶつけました。リトアニア領事館で杉原千畝が「命のビザ」を発給する2年前のことでした。
樋口季一郎は、また、米艦隊に包囲され、玉砕必至のキスカ島守備隊520-0人の無血脱出を成功させ、さらに終戦後に北方に侵攻するソ連軍への「断乎反撃」を命じ、ソ連の北海道占領の野望を砕いて、占守(しゅむしゅ)島での日本軍最後の勝利をもたらしています。
これら三つの「奇跡」をもたらしたのは、常に人道に立脚した樋口の決断でした。
現在の日本がおかれている安全保障における危機的状況を打開するためにも、人として正しい道を貫いた樋口季一郎の「志」を学ぶことはとても大切なことだと思います。
樋口季一郎元陸軍中将のお孫さんで、明治学院大学の樋口隆一名誉教授に24歳まで同居していた祖父から学んだことや秘話、思い出を語っていただきながら、決断の人、樋口季一郎元陸軍中将の歴史的偉業に迫っていきます。
英語版「The Miracle of General Kiichiro Higuchi」
https://youtu.be/VYSvrgFWTAQ
「ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝 」
https://www.youtube.com/watch?v=m5_q1...
「 杉原千畝 四男 伸生 父の思い出を語る」
https://youtu.be/70C6W_tjes8
「戦後70周年に向けて 正しい歴史に学ぶ すばらしい国 日本」ダイジェスト版
https://youtu.be/-usWnzcFUhw
もご覧ください。
Hirameki.TV
 
◆占守島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島の戦い
占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄(8月9日)したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、ポツダム宣言受諾に従い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。
 
◆占守島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kuriles_Shumshu.PNG
占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島(о.Шумшу)、英語表記はShumshu。サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある。
元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる。
島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている。
現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。
 
◆日本を救った「占守島」の真実 - iRONNA編集部
https://ironna.jp/theme/435
終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。
1945年、占守島…日本を分断から救った男たち
https://ironna.jp/article/2414
『歴史街道』 2015年12月号
早坂隆(ノンフィクション作家)
 終戦後の「忘れられた戦い」
 日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。
 しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。
 かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。
 樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。
 
◆占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html
前回の記事で、千島列島最北の占守島(しゅむしゅとう)で日本軍とソ連軍との激戦があり、日本軍が良く戦ったことを書いた。
占守島守備隊には停戦命令は出ていたが、ソ連軍の一方的な奇襲の報告を受けて、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が自衛のための戦いを決断し、ソ連軍を撃破した。日本側の死傷者600名に対してソ連軍は3000名以上の死傷者が出たとされ、日本軍が優勢であったのだが、その後日本政府の弱腰な対応で占守島守備隊は8月21日に停戦に追い込まれ、8月23日にソ連軍に武装解除されることとなった。
 
◆占守島の戦い 降伏後の日本に攻め込んできた北方ソ連軍の凶行を迎え撃つ
https://bushoojapan.com/tomorrow/2017/08/21/103392
2017/11/09
時代が変わるということは、あらゆる点で社会の大きな変化を伴います。
 価値観や流行などがよく話題に登りますが、「地理」もその一つではないでしょうか。
 今回はかつて日本の領土だった場所で行われた、熾烈な戦いのお話です。
昭和二十年(1945年)8月21日は、占守島の戦い(しゅむしゅとう)が終結した日です。
何となく聞き慣れない地名ですが、それもそのはず。この島は現在日本の領地ではありません。ロシアの実効支配下にある島です。
まずは”どんな感じの地理的特徴を持ったところなのか”というところからお話していきましょう。
 
◆池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2654
2015/11/20
まさに、教科書に載っていない20世紀の歴史」。
ジャーナリストの池上彰氏がそう指摘するのが、1945年8月17日から起きた占守島(しゅむしゅとう)の戦いだ。
この「知られざる戦い」が、今、注目を集めている。
 
◆日本軍は強かった!占守島の戦いで日本を守った士魂精神を受け継ぐ陸上自衛隊士魂戦車大隊!本当の終戦記念日は8月15日ではなかった
視聴回数 58,243 回
https://youtu.be/3JtND0PUT2s
自衛隊チャンネルJSDF
2016/08/04 に公開
もうまもなく終戦記念日である8月15日を迎えようとしています。日本はポツダム宣言を受諾し、1945年8月15日に第二次世界大戦の無条件降伏をしました。しかし、実は8月15日に争いは終了していなかったのです。1945年8月17日に日本本土で行われた占守島の戦いです。精鋭の戦車第11連隊をはじめとする、日本軍が命を懸けて防波堤となってくれなければ、今頃北海道もあの国の手に落ちていました。あれから約71年が経ちましたが、いまだ北方領土問題は解決していません。この問題を解決するためにも、是非日本国民の皆さんに占守島の戦いについて知っていただきたいです!
 
日本軍は強かった!占守島の戦いで日本を守った士魂精神を受け継ぐ陸上自衛隊士魂戦車大隊!本当の終戦記念日は8月15日ではなかった
https://youtu.be/3JtND0PUT2s
 
◆教科書に無い実話 第3話 キスカ島 の 撤退 作戦【歴史の真実】樋口季一郎
視聴回数 664 回
https://youtu.be/zc9uFBj2nLU
【真理の革命】高橋直矢チャンネル
2017/11/30 に公開
教科書に無い実話 キスカ島 の 撤退 作戦【歴史の真実】樋口季一郎
当時の記録
キスカ島とは、アラスカの近くにある島
アメリカ軍がアッツ島を壊滅してしまった、次はキスカ島に上陸してくるに違いない
樋口季一郎 少将
木村昌福 中将
 
◆キスカ島撤退作戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島撤退作戦
キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。
正式名称はケ号作戦。北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官が総指揮をとる。
5月下旬から実施された潜水艦による第一期撤収作戦は成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられた。
第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した第二期撤収作戦において、同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。 
◆キスカ島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島
キスカ島(キスカとう、英語: Kiska)は、アリューシャン列島西部のラット諸島に位置し、アメリカ合衆国アラスカ州に属する島である。
“キスカ”の名は、この地方に居住していた先住民族であるアレウト族がこの島の呼称として用いていたアレウト語(英字転化:Qisxa)に由来する。
1741年にヴィトゥス・ベーリングによって発見され、1867年のアラスカ購入によってアラスカ本土と共にアメリカ領となった。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)6月7日に日本軍が攻略・占領し、鳴神島(なるかみとう)と命名されたが、その後アメリカ軍により奪還された。
現在は定住者はいない無人島であり、島内には各所に戦時の遺構や兵器が残されている。全域がアラスカ国立海洋野生生物保護区(Alaska Maritime National Wildlife Refuge)に指定されており、また1985年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物(National Historic Landmark)に指定され、自然環境及び歴史遺産保護と安全確保の為に、外来者の立ち入りは制限されている。
座標 北緯51度57分51秒 東経177度27分36秒座標: 北緯51度57分51秒 東経177度27分36秒
面積 277.7 km²
海岸線長 35 km
最高標高 1,220 m
所在海域 -
所属国・地域 アラスカ州,ラット諸島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Western_Aleutians.png
 
◆アッツ島の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、また第二次世界大戦で唯一、北アメリカで行われた地上戦である。
 
◆アッツ島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6
アッツ島(アッツとう、英: Attu Island)はアラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島。東西70km、南北30kmの大きさ。熱田島(あつたとう)とも呼ばれる。2015年現在、厳しい上陸規制があるため無人であり、アメリカ沿岸警備隊の巡回以外に上陸者はいない。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b7/AKMap-doton-AttuStation.PNG

転載元: 志葉楽のブログ

[転載]台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、17世紀頃に福建人が移民して来る以前から居住していた、台湾の先住民族の呼称。

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台湾原住民

   
Formosan Distribution 01.png
台湾原住民の女性と子供(1871年)

 台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、17世紀頃に福建人が移民して来る以前から居住していた、台湾先住民族の呼称。台湾政府(中華民国)の定める中華民国憲法により、「原住民族拼音: yuánzhù mínzú, 英語: Indigenous Taiwanese / Taiwanese aborigine)」の存在が謳われている。現在、彼らは自らのことを台湾に昔から住んでいたという意味で、「原住民」と呼んでいる。漢語で「先住民」と表記すると、「すでに滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この表記は台湾では用いられていない。しかし日本語では「原住民」が差別的な意味合いを含むとして、積極的に「先住民」「先住民族」を使ったほうが良いとする考え方もあり、日本マスコミでは基本的に「原住」を「先住」と言い換えている[要出典]。ただし「現地の呼称や少数民族の意見を尊重」するため、と注釈を付けたうえで「原住民(族)」を使う例もある[1]

 1996年民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されたのを皮切りに、民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年(民国94年)1月「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしている。さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められている。2008年(民国97年)に、台湾政府はセデック族(賽徳克族)を第14の台湾原住民族に認定した。

 2008年(民国97年)6月末高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占める。この10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高い。台湾では現在、平地原住民山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。現在は台湾東部に多く住み、アミ族が最も多く、約18万人である。タイヤル族(泰雅族)とパイワン族(排湾族)の約8万人がこれに次ぐ。このほか、花蓮県に9万人(18.3%)、台東県に7万9,000人(16.1%)、屏東県に5万6,000人(11.4%)の原住民が住む[2]

 日本の台湾領有後、山地原住民は「生蕃」(後述)と呼ばれ、領台40年後の1935年昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請において公式に高砂族(たかさごぞく)と改称された。太平洋戦争大東亜戦争)中には高砂族を中心にした高砂義勇隊が結成され、日本軍の指揮下で戦った。
 戦後、日本政府台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、現在でも一部の人が弔慰金を受け取ったのみで、未払い賃金の問題がある。しかし日本と台湾との国交がないため補償協議は未だに行われていない[3]高砂義勇隊を参照)。





歴史

 台湾の先住民族は、言語・文化・習俗によって細分化されており、多くの民族集団に分かれているとされる。台湾が西欧人によって支配されていた1603年万暦31年)に著された『東蕃記』では、台湾原住民は一括して「東蕃」と呼ばれていた。漢民族人口が増加してきた18世紀から19世紀頃に至って、台湾島の平地に住み漢化が進んだ原住民族を「平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族は「熟番」と呼ばれた。同時期に、漢化が進んでいない原住民族を「生番」または「高山番」と呼ぶようになった。

 1871年明治4年 / 同治10年)に宮古八重山の貢納船が台湾南東海岸に漂着、乗組員69人のうち、3人が溺死、54人が台湾原住民に殺害される事件が発生した(宮古島島民遭難事件)。日本政府は清国に厳重に抗議したが、「台湾原住民は化外の民(国家統治の及ばない者)」と返事され放置されたため、日本政府は台湾出兵を行い、台湾原住民は日本軍に攻撃され降伏した。

 1895年(明治28年)から台湾の領有を始めた日本は当初、清国の分類と名称を引き継いだ(ただし、番は蕃と書くことが多くなった)。やがて日本の学者によって「平埔族」と「高山族」を言語・文化・習俗によって民族集団に分類する試みが行われるようになった。現在行われている分類は、おおむねこの時代の研究を引き継ぐ。領台から40年後の1935年(昭和10年)に、「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」と公式に呼称を改めた(「戸口調査規定」)。1903年(明治36年)、大阪博覧会が開かれた際、民族を紹介する学術人類館に台湾原住民の女性が展示された(人類館事件)。領有当初の1907年(明治40年)には、抗日事件の北埔事件が起きた。1930年(昭和5年)には霧社事件が起こり、多くの死傷者を出した。

 日本統治が確立されると、台湾原住民も漢民族同様に台湾社会に組み込まれていった。学校では公用語として日本語が教えられ、言語が異なる部族間の共通語としても機能した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は高砂義勇隊として多くの若者が日本軍に志願し、南太平洋に広がる密林戦において大きな貢献を果たした。

 第二次世界大戦後、日本に代わって台湾を統治した中華民国政府は、先住民族のうち、日本人によって「高砂族」に分類された諸民族を「高山族」または「山地同胞」「山地人」と呼称して同化政策を進めた。しかし1980年代以降の民主化の流れの中で原住民族が「原住民権利運動」を推進、中華民国政府に対してこれまでの同化政策の変更を迫った結果、中華民国憲法増修条文を始め、政府の公式文書にも「原住民(族)」、「台湾原住民族」という呼称を承認させた。さらに、漢民族(「平地人」)とは別の者として「原住民」籍(身分)を設定した。

政府認定16民族と人口

アミ族 豊年祭の踊り
アミ族の男女
ツォウ族の青年
サオ族の男性(1904年)
タイヤル族
 これらの民族のうち、サキザヤ、クバラン、サオを除く10民族は、民主化以前の中華民国政府により「高山族」「山地同胞(山胞)」とも呼ばれていた(サキザヤは以前は認定されず、クバランとサオは一般的には平埔族に分類された)。「高山族」は、蘭嶼(台湾島東南海上の島)に住むタオ族や東部平原に住むアミ族を除き、基本的に台湾本島の山地や山裾に居住し、人口は計40万人ほどで、台湾の総人口の2%ほどを占める。「台湾の原住民族」という言葉は、狭義には彼ら「高山族」を指す。

 2001年(民国90年)10月にサオ族が10番目の台湾原住民族として承認、2002年(民国91年)12月にはクバラン族の原住民籍保有者が11番目の台湾原住民族に認定された。
 2004年(民国93年)1月には、約10万人いるタイヤル族のうち、花蓮県の立霧渓流域を中心に居住する約3万人について、以前からタイヤル族とは言語・文化を異にするセデック族の一支だとされてきたが、独自の意識が強かったことから、タロコ族として公認された。
 2007年(民国96年)1月17日にはそれまでアミ族に含められていたサキザヤ族が独立した民族と認められた。
 2008年(民国97年)4月に、セデック族が独立した民族と認定された。

 2014年(民国103年)6月26日にはそれまでツォウ族(南鄒)に含められていたカナカナブ族、サアロア族が独立した民族と認められた。
 その結果、狭義の「台湾の原住民族」は前記のように政府に認定された16民族を指す。
一方、政府から未だに「原住民族」として承認されていない、「平埔族」と総称される先住民族は以下の諸民族である。
これに加えて、現在「原住民族」として認定されている
  • サオ族
  • クバラン族
も歴史的には平埔族に分類されていた。

 「平埔族」と総称される諸民族(分類方法により7から15と数えられる)は、台湾島の平地に住み、漢民族と雑居してきた結果、漢民族との同化が進んだ。このことから、台湾に住む漢民族の多くは平埔族の血を受け継いでいるとも言える。

 平埔族のうち、本来の言語や習俗を保存・継承しており、「原住民族」として公的に認定されているのは、サオ族とクバラン族である。
 サオ族は「高山族」のツオウ族と文化が類似しており、かつての中華民国政府の政策もあって、「高山族」に入れられる場合もあった。
 また、クバラン族は今も本来の母語であるクバラン語を話せる人が花蓮県新社に移住した集団の中に存在している。民主化によって正式に民族集団として認定される以前には、人口300人弱のサオ族と1,000人強のクバラン族が「平地山胞」として原住民籍に入れられていた。
他には、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、シラヤ、マカタオ族の末裔の一部が、独自の民族意識と習俗を記憶している(ただし言語を保存しているという意味ではない)以外は、現在では民族としてはほぼ消滅している。

台湾原住民族研究のなりたち

 台湾原住民族に対する研究は日本の台湾統治時代に始まる。台湾が日本領になった直後、日本にない風習を多く持つ台湾原住民に惹かれた多くの民族学者人類学者民俗学者達が台湾に渡った。代表的な人物は鳥居龍蔵(1870年 - 1953年)、伊能嘉矩(1867年 - 1925年)、鹿野忠雄(1906年 - 1945年?)、森丑之助(1877年 - 1926年)、移川子之蔵(1884年 - 1947年)、宮本延人(1901年 - 1987年)、馬淵東一(1909年 - 1988年)、千千岩助太郎(1897年 - 1991年)、小川尚義(1869年 - 1947年)、浅井恵倫(1894年 - 1969年)らである。
 彼らは平埔族の集落を訪ねたほか、山々の村落を巡り、台湾原住民が独自の生活風習を保っていた時代の調査報告や写真を残し、それらは現代においても台湾学術界に引き継がれ、貴重な史料となっている。ただしこの時期の研究には、同時代の欧米の人類学同様人種差別的な要素も少なくなかったとされる。台北帝国大学(現・国立台湾大学)土俗人種学研究室が中心となって研究が行われた。

台湾原住民族の言語

 オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)に属する諸言語を話している。このことから、台湾原住民族はもともとインドネシアフィリピン方面から渡ってきた民族であろうとする説もあるが、台湾原住民諸語がオーストロネシア語族の祖形を保持しており、考古学的にも新石器文化は台湾からフィリピン、インドネシア方面へ拡大しているため、オーストロネシア語族は台湾から南下し、太平洋各地に拡散したとする説が有力である。大西耕二は「オーストロネシア語族語は東南アジアのみならず、ウラル語との類似[5]やアメリカインデアン語、南米先住民[6]の言語との類似も認められ、台湾から拡散したと言う説には疑問が残る。これらの言語は1万5千年前以上前に台湾以外の何処からか拡散したと考えるべき。」としている
大日本帝国時代に行われた理蕃政策によって「高砂族への理解を以て統治する方針」が執られ、明治時代の統治開始直後から既に行われていた様々な原住民へのインタヴュー調査なども、更に本格的に各方面での尽力が為された。

 『原語による台湾高砂族伝説集』(台北帝国大学言語学研究室編/1935(昭和10)年)では、高砂族(台湾原住民)の原語を、なるべくその通りに記録に残す為に、独自の発音記号を用いて、蕃社の人々から聞いた逸話や伝説が記されている。本全体は783ページ以上に渡り、部族集落の場所が記された地図もあり、巻末には簡易版の単語集も編纂添付されている。

 その他、『高砂族慣習法語彙』など、幾つかの言語研究書が残されている。

 部族間で言語が異なるが、近年では初等教育の普及により、中華民国の公用語である国語を話せる人が多い。また日本統治時代には基本的に日本語教育も行われたため、異なる部族の間での共通語として日本語が用いられることもある。





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台湾原住民の遺伝子[編集]

台湾先住民にはY染色体ハプログループO1a系統が66.3%[7]-89.6%[8]の高頻度で観察される。

台湾原住民族の風習

入れ墨

台湾原住民族にとって、入れ墨通過儀礼の一つである。顔面や体に入れ墨を彫ることにより、大人社会への仲間入りを認められる。

出草(首狩り)

 台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。
 漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。ただしこの習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。


 大形太郎『高砂族』(1942年)によると、首狩りと言えばタイヤル族を想起させるほどタイヤル族によるものが多く、続いてブヌン族・パイワン族に多かったようで、ツォウ・アーミー・サイセットの諸族は最も早くからこの慣習を止め、ヤーミー族は古来からこの風習を持った形跡がないと言われていた。いずれの部族も、大日本帝国時代末には同邦への首狩りの慣習は殆ど止めていた。

 出草は史料から見る限りでは、弓矢や鉄砲などによって対象者を背後から襲撃した後に、刀で首の切断に及ぶもので、対象と勇敢に格闘を行った末に首を切り取るというケースはあまり見られない。なお獲得した首は村の一所に集めて首棚などに飾る。
 出草は祖先より伝わる神聖な行為であり、祖先の遺訓を守る行為と見なされ、「武勇を示す」や「不吉を祓う」、もしくは「冤罪を雪ぐ」などの為に行われた。したがって、馘首の対象者は必ずしも仇敵とは限らず、馘首の大半は同族同士によるものであり、被害者が漢民族や日本人である方がむしろ少なかったといわれている。日本統治時代初期には、沖縄からの行商の女性たちが山野にて出草の被害者となるケースが多かった。

 日清戦争後の乙未戦争で日本が清の残党や原住民など日本の領有に不満を持つ台湾の現地勢力を掃討・平定し、領有を確定してからは、台湾総督府による理蕃政策により、首狩りの風習は犯罪行為として厳しく禁じられた。しかし原住民族蜂起の鎮圧に際して、蜂起を起こした原住民に対する出草を容認(黙認)することを見返りに、他の原住民に協力を求めるケースも多かった。特に霧社事件後に行われたセデック族鎮圧の際には、霧社事件で日本人殺害に関わった者の首に高額の懸賞金を懸け、出草を煽った。

 1910年(明治43年)の五箇年計画理蕃事業事施後の1915年大正4年)以降、出草は激減する。これは蕃地平定に伴う警官駐在所設置や銃器押收によるものであるが、公学校や教育所による教化の進展によって、「日本人」「文明人」というアイデンティティを持った原住民らが、出草という風習を放棄したとする説もある。

 台湾総督府史料などを基にした説によると、1896年(明治29年)から1930年(昭和5年)までの間、出草の犠牲者はおよそ7,000人に上るとされている。なおこれらの犠牲者は、原住民同士によるもの(約1000人程)を除くと、多くは漢民族であったようである。

 日本統治時代末期になると出草はほとんど見られなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは中華民国時代になってからである。
 出草を巡る阿里山原住民に関する呉鳳説話は清朝時代末期に作られ、日本統治時代に広められて有名になったが、1980年代以降の原住民族権利運動の過程でその差別性が糾弾され、現在では話題にならなくなりつつある。

出草の動機

大形太郎『高砂族』(1942年)によると、
  • 壮年の班に加わろうとする時
  • 争いの正否を決定しようとする時
  • 悪疫の流行を払おうとする時
  • 嫌疑を解き、または冤罪を濯ごうとする時
  • 娶婦の競い(結婚女性の獲得)に勝とうとする時
  • 自己の武勇を誇ろうとする時
  • 凶兆ある場合、不吉を未然に払おうとする時
  • 自己の恨みを霽〔は〕らそうとする時
  • 死後に楽土に入る資格を得ようとする時
等。
また、大日本帝国時代の調査や現地に居た人達の話によると、部族内では「部族の規律違反による制裁」、それ以外の殆どのケースの対象者は「敵対者」「何ら怨恨の無い関わりのない第三者」で、「異種族」の首を狩る事によって部族内問題とならない様にしていたようである。

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転載元: 海洋文化交流/貿易振興

[転載]第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・伊豆と浜名

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☺☼(○´д`○)☼☺こんにちわぁ♪

創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年

《第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰・》
 
 <伊豆と浜名>

 「久伊豆神社と十戒」で述べた
 埼玉県北埼玉郡騎西町の
 久伊豆神社の鎮座地は
 かっての別当龍花院の
 山名ともなっている。

 「伊豆山」に位置している。

 「イズ」はヘブライ語の「栄光」を表わす
 IZ の音写であり、
 伊豆山はシナイ山を示している。

 出エジプト記第24章15-18

 24:15

  こうしてモーセは山に登ったが、
  雲は山をおおっていた。 

 24:16

  主の栄光がシナイ山の上にとどまり、
  雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、
  七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。

  24:17

  主の栄光は山の頂で、
  燃える火のように
    イスラエルの人々の目に見えたが、

  24:18

  モーセは雲の中にはいって、山に登った。
  そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。 

  静岡県熱海市にその伊豆山の地名と
  伊豆山神社が鎮座している。

 この名称も
 同じ観念に依り付けられたもので、
 伊豆はまさに『出エジプト記』に由来した
 「栄光」を表わしている。

 第17章

 17:1

  イスラエルの人々の全会衆は、
  主の命に従って、
  シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、
  レピデムに宿営したが、
  そこには民の飲む水がなかった。

  17:2

  それで、民はモーセと争って言った、
  「わたしたちに飲む水をください」。

  モーセは彼らに言った、

  「あなたがたはなぜわたしと争うのか、
   なぜ主を試みるのか」。

  17:3

  民はその所で水にかわき、

  モーセにつぶやいて言った、

  「あなたは
      なぜわたしたちをエジプトから導き出して、
   わたしたちを、子供や家畜と一緒に、
   かわきによって死なせようとするのですか」。

  17:4

  このときモーセは主に叫んで言った、

  「わたしは
      この民をどうすればよいのでしょう。
   彼らは、今にも、
   わたしを石で打ち殺そうとしています」。

  17:5

  主はモーセに言われた、

  「あなたは民の前に進み行き、
   イスラエルの長老たちを伴い、
   あなたがナイル川を打った、
   つえを手に取って行きなさい。

  17:6

   見よ、
   わたしはホレブの岩の上で
      あなたの前に立つであろう。
   あなたは岩を打ちなさい。
   水がそれから出て、
      民はそれを飲むことができる」。

  モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、
  そのように行った。 

 17:7

  そして彼はその所の名をマッサ、
  またメリバと呼んだ。

  これはイスラエルの人々が争ったゆえ、
  また彼らが

  「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」

  と言って主を試みたからである。

 17:8

  ときにアマレクがきて、
  イスラエルとレピデムで戦った。

 17:9

  モーセはヨシュアに言った、

  「われわれのために人を選び、
   出てアマレクと戦いなさい。
   わたしはあす神のつえを手に取って、
   丘の頂に立つであろう」。

  17:10

  ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、
  アマレクと戦った。
  モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。

  17:11

  モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、
  手を下げるとアマレクが勝った。

  17:12

  しかしモーセの手が重くなったので、
  アロンとホルが石を取って、
  モーセの足もとに置くと、
    彼はその上に座した。

  そしてひとりはこちらに、
    ひとりはあちらにいて、
  モーセの手をささえたので、
  彼の手は日没までさがらなかった。

  17:13

  ヨシュアは、
  つるぎにかけて
  アマレクとその民を打ち敗った。

 17:14

  主はモーセに言われた、

  「これを書物にしるして記念とし、
   それをヨシュアの耳に入れなさい。

   わたしは天が下からアマレクの記憶を
   完全に消し去るであろう」。

  17:15

  モーセは一つの祭壇を築いてその名を
  「主はわが旗」と呼んだ。

  17:16

  そしてモーセは言った、

  「主の旗にむかって手を上げる、
   主は世々アマレクと戦われる」。

  「あなたの前に立つ」は
  助けることを意味する

  神はイスラエルの人々に
 水を岩から出して与えたのである。

 熱海の伊豆山神社の背後に岩戸山が聳えている。

  「戸」とは「口」の字義であるから
  「岩戸」は「岩山の水」を意味する。
  「水口」は熱海市の町名になっている。

  騎西町のシナイの転訛であるであると説いた
  正能地区の南北に外川(と)川、
  戸崎の地名があるのも
 この事件を題材としたわけである。

  熊谷市が「泉」に係わる地名であることも
  既に述べた。

 熱海市の北、神奈川県足柄下郡真鶴町の

  「マナツル」もこの事件に係わる。

 「マナ」は MIYN(maen) の音写で
  「泉、湧き水」、
 「ツル」は TsVR(tsur) で
  「岩、岩石」を意味し、
  「マナツル」は〔泉-岩〕の字義である。

  因みに MIYM は熱海の「ミ(海)」でもあり、

 「アタ」は「湯気、水蒸気」の意味の
  AD(aed) で、
 「アタミ」は〔湯気-泉〕となる。
   AD はまた伊東市の祖語でもあろう。

 この地域は温泉が盛んに湧き出している。

 熱海市桜町に今宮神社が鎮座しているが、
 「今(こん)」は「湖、池」を意味する
   AGM(agam)の転訛である。

   また西山町の来の宮神社
   伊東市八幡町来宮神社は
  モーセを助けた「神の声」である

 KVL(kol) の音写に依る。

 さらに熱海市和田木、
 そこに鎮座する和田木神社名は
  VT-KVL(vat-kol) で
 「こだま、神の声、天声」の字義である。

  『出エジプト記』第17章では

 このホレブ山での出来事の後
  アマレクという人々と
 戦うことになったが、
  その記述の最後(15・16)は

  17:15

  モーセは一つの祭壇を築いてその名を
  「主はわが旗」と呼んだ。

  17:16

  そしてモーセは言った、

  「主の旗にむかって手を上げる、
   主は世々アマレクと戦われる」。

 この「主の旗」を地名にしているのが
 熱海市の多賀で

 DGL(tegel 旗) の音写である。

 下多賀に鎮座する井下多賀神社は、
 井の下、つまり、
  ホレブ山麓辺りでの事件を覗わせている。

 天城山(高原)名はアマレク
  IMLK の転訛名であろうか。
 このように伊豆半島東部は

 『出エジプト記』第17に係わる
  挿話に満ちている。

 下田(しもだ)市名がその
 『出エジプト記』の
 ヘブライ語名 
 ShMVT(shemot) に
 依ることは間違いないところである。

 湯河原市と小田原市との境界に星ヶ山がある。

 「久伊豆神社と十戒」で紹介したように
 「河原」は「星」の字義である。

 つまり、
  KVKhV(kuhabe) の転訛であるが、
 この名称は小田原市の東、
 神奈川県中郡二宮町山西の
  川匂神社名となっている。

 同社は「延喜式」神名帳の
 相模國餘綾(よろぎ)郡の一座で、
 同國の二の宮の位階にあった。

 その訓を「カワハ」としている。

 同町を葛川が流れ、
  ガド族の存在を覗わせている。

 中里及び中郡の「ナカ」は 
  NGH(nagah)の音写で
 「光、輝き」にして「明星」を意味する。

 そこに明星神社が鎮座し、
 星神信仰があったことを示している。

 その名「明星ヶ岳」が
  小田原市と箱根市の境界宮で
 北方に聳えている。

 箱根の「箱」は
 「契約の箱」の意味に採れるし、
 「根」は後述するように「神」を表すから
 ヤハウェ神と解釈される。

 だが、
  この名称は江戸時代からと新しく、
 同漢字の採用は偶然の妙ともみられる。

 とはいえ、
 この地域名称も
 『出エジプト記』第17章の
 出来事に由来する。

 「ハコネ」は箱根神社元宮の鎮座する
 駒ケ岳(箱根山という)と芦ノ湖名に係わる。

 箱根の諸山は火山であり、
  芦ノ湖は火山湖である。

 駒ケ岳の「コマ」は
  ヘブライ語の「湖、池」を意味する
 AGM の転訛であり、

 ホレブ(シナイ)山の岩間に
 湧いた水の池である。

 ここではガアノ湖を指している。

 この AGM の近似語に 
  AGMVN(agemon) があり、
 「カヤリグサ」つまり、
  「葦、芦」の字義で
 これらが「芦ノ湖」名の祖語である。

 そして「ハコネ」は同語の転訛と考える。

 ヘブライ語が
  ヨーロッパ・インド語系の影響を
 受けると語頭の母韻前に
  "H"が付けられる場合が多い。

 例えば 
  IBRY(iberi)が
 英語になると Hebrew、
 ドイツ語になると Hebräer、
 日本語で「ヘブライ人」 となる。

 第11章の
 「相模:ドィルガー・プージャーの里」

 で箱根町が属する足柄郡が
  サンスクリット語の刀鍛治(刀工)を表わす 
 asi-kāra に依ることを紹介したように、

 この地域には
 ヨーロッパ・インド語の影響があっても
 不思議ではない。

 「八潮市立資料館藤波邸の牛角兜」
 においては
 さらに、具体的に明確になる。

 よって、
 H-age(mo)-n が
 「ハコネ」となったのである。

 中世以降、筥荷とも表記されていたことで、
 本来「箱の神」を
 前提としていたのではないことが解る。

 ヤハゥエ神の
 「岩泉」に対する信仰が
 基本であったのである。

 芦ノ湖の北端から流れ出し
 小田原で箱根湾に入る河名
 早川というが「ハヤ」は
 ヤハゥエ神名を特に言わないための略称
 HI(hei) の音写で、
 本来はハシェムはアドナイと読むが、
 ここでは表記通り読んだものである。

 ところで「浅草と目黒」で
 駒形堂が
 箱根神社を勧請したものであること
 を紹介したが、
 同社は駒ケ岳の南麓
 芦ノ湖岸に鎮座している。

 この鎮座の地勢により
 「コマーガタ」神社となったと考える。

 「駒」は上記の通りの
 「駒」である「湖」を表わすが、
 「ガタ」は
 ヘブライ語の「川岸、土手」を表わす
 GDH(gadah)に依るもので
 「コマガタ」は「湖岸」を意味する。

 箱根神社をそのように別称し、
 浅草へ遷座させたものであろう。

 本来は上野山に象徴させて
 岩泉信仰なのであり、
 「馬頭」とは
 全く縁りの無かったものである。

 それが、
 浅草における「駒形」信仰が中世以降
 盛んとなり、

 各地、
 特に東北地方に広がったものとみられる。

 日本へ来たイスラエル人の信仰に
 星信仰がみられる事情は既に述べた
 天形星に依っても明らかである。

 伊豆の祖語であるヘブライ語の
 IZ が複数形 IZYM(uzin) となると、
 日本では「星」の概念が一層強くなる。

 その「ウツ」を市名としているのが
 栃木県宇都宮市で「星宮」の字義となる。

 県下に数多く鎮座する
 星の宮神社の異称が
 「宇都宮」である。

 ただし、
  その祭神はヤハゥエ神信仰と全く関係なく
 単に地名に取り入れたに過ぎないので
 ここでは深入りしない。

 これに対し静岡県湖西市の
 浜名湖に突き出した岬にある
 宇津山はヤハゥエ神信仰に係わる。

 入出は「イリイデ」で
  ALH-ID(aeloh-ied) で
 「証人の神」となり、
  ガド族の神を表わしている。

 同地区内に西宮神社が鎮座していることや
 隣接して太田地区があることが傍証となる。

 半島の北側の入江、
  松見ヶ浦名は「戒律」を意味する
 MTsVH(mitsevah) の転訛であろう。

 さらに宇津(都)山の周辺が
 「根古屋」と呼ばれることが注目される。

 その語義は
 「ネ・ナ」が「神」、
  「コヤ」が「星」を表し、
 「星神(神-星)」である。

 同語の祖族は倭人(彝属、阿尼族)で、
 彼らが稲作、養蚕と共に
  日本へ移って来た信仰である。

 第10章 天毒とセリカ 

 「朝鮮と姑射」で

 姑射を「コヤ」と読んでいることを
 紹介したが、その用語である。

 同名は騎西町の
 玉敷神社近くにある地名でもある。

 さらに祖語を同じくしている地名に
 愛知県の名古屋(那古野)、
 佐賀県松浦郡鎮西町名護屋、
 新潟県佐渡郡真野町名古屋などがある。

 「コヤ」は、
 鳥居龍蔵が
 明治期に大陸内奥で調査収集した
 彝族(ロロ族)などの言葉の中に
 káb(リス)、
 héa(白ロロ)、
 kéa(Sēpu白ロロ)、
 kam(西蕃:ポップ・寧)、
 kú(西蕃)などと

 ※鳥居龍蔵
    「中国の少数民族地帯をゆく」より抜粋

 「星」の単語があり、これが該当する。

 「ネ、二」にも彝語、阿尼語にあり、
 現代の漢語に尼(ni)、濔(ni)などと
  表記されている。

 そして「ネ」は日本の古典で
  「根」と表記され、
 天津彦根神、天津道根神などと
 採用されている。

 「ネコヤ」が倭語でありながら
 ヤハゥエ神信仰に深く係わっているのは、

 第10章で述べたように
  養蚕業の専門技術は倭族にあり、

 イスラエル人は
  絹の加工とその流通において優れ、
 相互が共働していたからである。

 湖西市の南側は新居町だが、
 その地名内山は
 宇津山を転訛させたものであり、
 町名「アライ」は入出の「入」と同じく
 ALH(elh)の音写でヤハゥエ神を表わしている。

 新居町に湖名でもある浜名地区がある。

 域内に恵比寿神社などが鎮座しており、
 やはりこの地方が
 イスラエル人の影響を受けた様子がみられる。

 吉田東吾は大日本地名辞書で
  『和名類聚抄』の
 猪鼻郷にここを比定している。

 以下の解釈によりそれは妥当と考える。
 「猪鼻」の表記名は、
 「千葉:坂戸神社の人身御供神事」で
 「千葉」がエルサレム市にある丘の名称
 TsYVN に依ると解明した。

 その古名である猪鼻が
 千葉市中央区市場町と並んである。

 猪鼻名は和名類聚抄ばかりでなく、
 現在も浜名湖の北西三ケ日町のうちに
 猪鼻湖として
 「イバナ」の呼称で存在している。

 その湖は宇津山の北方に当たるが、
 同山より松ヶ浦を隔てて、そとに
 知波田あるいは
 大知波と「チバ」という地名があり、

 「イバナ」も 
 TsYVN が祖語であることを示唆している。

 イバナが「ハマ(ヴァ)ナ」と
 転訛されたのである。

 箱根の名称由来で述べたように、
 母韻の語頭に"H"がつけられ、
 H-イバナ:ハヴァナとなり、

 マとヴァとの互換性からか、
 新居町の地勢で猪鼻郷の地が
 砂浜海岸を遠州灘に広げていることからか、
 「浜名」の漢字が当てられたとみられる。

 このような解釈から新居町の浜名が
 『和名類聚抄』の猪鼻郷の遺称地と
 することができる。

 浜名湖または猪鼻湖であったことになる。

 イスラエル人の聖地シオンを
 呼称しているのである。

 猪鼻湖神社(現引佐郡三ケ日町下尾奈)が
 「延喜式」神名帳の遠江國名に載っており、
 「猪鼻」は古代からの名称である。

 新居町の東、遠州灘に沿って舞阪町がある。

 この町名も
 ヘブライ語の「出口」を意味する
 MVTsH が祖語であろう。

 浜名湖の太平洋の出口に位置している。

 同町舞阪には岐佐神社が鎮座し、
 同名は埼玉県の騎西町の元でもある
 島根県安来市吉佐町名と同音であり、
 支布佐神社に由来する名称で、
 本来は「箱」の意味 KPhSH である。

 岐佐神社も
 「延喜式」神名帳の
 敷智郡に掲載されている。

 その「敷智」を「フチ」と訓じているが
 HED(hed) の音写で「こだま」を表す。

 同郡の六座のうちに許部神社が載っており、
 「コベ」は「声」の意味の
 KVLの音写であろう。

 舞阪町の北側は雄踏町となるが、
 「オトウ」は湖西市の宇津山の西方
 太田と同様
 「証人」 ID に依拠した地名である。

 浜名湖の入江の向こう浜松市白洲に
 宇気比神社が鎮座していることに対応する。

 宇気比は「誓約、証し」である。

 「延喜式」神名帳の名郡に載る
 英田神社は
 「エタ」と訓が付されており、 
 ID の音写であることは明白である。

 また敷智郡に載る息神社は
 「オム」と訓まれているが、
 これも「契約」を意味する 
 AMNVH の転訛であろう。

 同社は現在
 雄踏町宇布見に同名で鎮座している。

 舞阪町、雄踏町の奥の浜松市域に
 佐鳴(さなり)湖がある。

 佐鳴は「サメイ」が本当であろう。

 台東区の下谷(したや)を
 「シモヤ」と解釈して、
 その祖語を 
 ShMI で
 シェマアの祈りに係わる用語であると
 「浅草と目黒」で紹介した事情と同じである。

 湖を囲むように入野町が広がる。

 これも台東区の入谷に対応する
  ALH の音写で「神」の字義である。

 域内に
 天白神社、
 三国神社、
 誓約神社が鎮座しており、
 ヤハウェ神信仰関係の祠が顕著である。

 また浜松市内に20社以上散在するなど
 静岡県各地に六所神社が目立つ。

 「六所」は
 「多摩の律法箱」で述べた通り
 「ムショ」
  MShY の音写で、
 「絹、絹織物」を表わす。

 「駿河国の馬鳴神」で述べたように
 この地域は
 養蚕と絹産業の繁栄した地域であり、
 秦氏の足跡が信仰と産業の両面で
 顕著に遺っているのである。

 M.K記(責)
 連絡先:090-2485-7908

転載元: 歴史再考

[転載]千島列島は、1875年(明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約で樺太と交換され日本領となる。

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占守島

   
占守島座標面積最高標高 所在海域 所属国・地域 地図
Shumshu.jpg
北緯50度44分00秒
東経156度19分00秒
388[1][注釈 1]km²
189 m
オホーツク海
帰属未定
実効支配:ロシア)
千島列島における位置
テンプレートを表示

占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島北東端の。ロシア名はシュムシュ島о.Шумшу)、英語表記はShumshuサンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシア実効支配下にある。
元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる。

島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている。

現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。


地理

占守島の地図
放棄された飛行場の鳥瞰図
占守島の海岸と。左奥に幌筵島の柏原付近が見える

  南西から北東へ約 30 キロメートル、幅は最大で 20 キロメートルの大きさで、全体的に楕円形の島である。北東のカムチャツカ半島ロパトカ岬とは千島海峡(ロシア名:第1クリル海峡Первый Курильский пр.)で、西の幌筵島とは幌筵海峡(波羅茂知海峡、ロシア名:第2クリル海峡 Второй Курильский пр.)で隔てられている。

  島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある。海抜 200 メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。草原にはかつて日本人の住居があったが、現在は何も残っていない。島を流れる別飛川(べっとぶがわ)は、カラフトマスが遡上することがある。
高台にある四嶺山(しれいさん、標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。現在では、戦車、砲台、戦闘機、飛行場、格納庫、トーチカなどの残骸や廃墟が残る。また、ロシアは小さいながらも軍事施設を設置している。

 オホーツク海太平洋に囲まれ、夏季でも摂氏 15 度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス 15 度の極寒の上に猛吹雪に襲われることが多い。現在、ロシア名バイコーヴァ (Байково、日本名:片岡) という集落があるのみで、2013年現在、灯台守と家族の4人が定住するのみである。


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歴史

先史時代から幌筵島と共に人が古くから居住していた。海獣や鳥が多く、生活に都合のよい場所だったとされる。



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しかし、この頃になると日露両国の雑居地とされていた樺太に関する問題が深刻化した。
  • 1875年明治8年)5月7日の樺太・千島交換条約で樺太と交換され日本領となる。9月に樺太開拓使とアイヌ人が内地に引き揚げ、10月には日露両国間で譲渡式がおこなわれる。これにより、目前のロシア、後のソビエト連邦と向き合う最前線となり、国境警備の拠点として日本軍が駐屯。
当時の行政区画では北海道千島国占守郡(現在の北海道根室振興局管内)に属し、択捉島以南と異なり町村制は施行されなかった。択捉島以北にはほとんど民間人の定住者はいなかったが、水産缶詰工場などが建設され、多くの漁民や工場労働者が季節的に滞在していた。
  • 1892年(明治25年)7月4日以降、侍従片岡利和が上陸。目的は千島列島の調査で、これ以前に既に他の島を巡っていた。また、後にこの方面への開発が進むきっかけとなった。同年夏、片岡侍従らは海軍の柏原長繁大佐の軍艦「磐城」に便乗して帰るが、片岡調査団の根拠地は「片岡」という地名になる。
  • 1893年(明治26年)8月31日 - 千島報效義会の会員が上陸して越年。
  • 1895年 - 千島報效義会が一時退去するものの翌年、57 名により本格的な入植(片岡)を試みる。
  • 1899年(明治29年)春、報效義会の拓殖事業が本格化、別所佐吉らが入植。
  • 1906年(明治40年)、日露漁業協定により本格的な北洋漁業が開始。
  • 1910年 - 小規模なカニ缶詰工場が発足。1914年に本格操業開始。第二次世界大戦前の最大人口(夏季に約 1,000 人)を数えるようになる。
  • 1940年(昭和15年)9月、陸軍築城部が要塞建設に着手。
  • 1945年(昭和20年)8月18日、日本がポツダム宣言の受諾を宣言した後、ソ連軍が島の北部の竹田浜に上陸し、日本軍と戦闘に突入。占守島は千島列島で唯一のソ連軍との激戦地となった。
同年9月2日、日本政府が降伏文書に調印すると、同日に出された一般命令第1号により、占守島はソ連占領下となった。
  • 1946年(昭和21年)1月29日GHQ指令第677号により、日本政府の行政権が正式に停止させられる。
同年2月2日、ソ連は一方的に自国領土編入を宣言。
  • 1951年(昭和26年)、日本サンフランシスコ講和条約で同島を含む千島列島の領有権を放棄させられた。同条約では、放棄させられた千島列島の帰属が定められていないため、日本政府はこの地域の領有は未定という立場を取っている。
  • 1991年(平成3年)、ソ連崩壊後に成立したロシア連邦実効支配を継承。
現在、日本以外の、いかなる国もロシアの領有に異を唱えていないため、日本を除くすべての国の地図では、ロシアの領土であるとされている。


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占守島の戦い

1945年8月15日(モスクワ時間8月14日)、日本のポツダム宣言受諾通告後、極東ソビエト軍総司令官は、第2極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に対し、カムチャツカ現有勢力により千島列島北部の占領を目的とする作戦の準備及び実施を命令した。なお、千島列島南部は、北千島とは別にサハリン(樺太)からの部隊が攻略する計画だった[注釈 2]

  ソ連軍の占守島上陸はポツダム宣言受諾に伴う日本軍の武装解除の最中、8月18日未明に開始され、急遽、武装解除を取り止めた日本軍守備隊の第91師団などと戦闘になった。
  戦闘は一旦はソ連軍を上陸地点である竹田浜にまで追い落とす状態で推移していたが、日本側は第5方面軍の戦闘停止命令に従い、軍使を派遣して停戦交渉を行い、8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、完全に停戦が成立した。24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は武装解除された。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)。

  その後、新知島までの北部千島の日本軍は、8月27日までに武装解除された。9月初旬までに全千島がソ連軍に占領された。千島列島では占守島以外で戦闘はなかった。降伏後、武装解除された日本兵はシベリアへ抑留された。



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転載元: 北海道は良かったからまた行きたいな!領土を返して日露友好

[転載]人種差別撤廃に全力を注いだ戦前の日本

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