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[転載]トルデシリャス条約は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約。当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッ

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トルデシリャス条約

   
トルデシリャス条約の条文

トルデシリャス条約(トルデシリャスじょうやく、ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas, スペイン語: Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日スペインポルトガルの間で結ばれた条約。当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。

本条約において西アフリカセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャトルデシリャスの地名からとられている。条約調書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコ記憶遺産に登録された[1]
サラゴサ条約もまた同じ意図によって、1529年に両国の間で批准された条約である。


トルデシリャス条約

1492年クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかしコロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。

すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100リーグの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。[独自研究?]

そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉してこの決定をくつがえし、境界線をさらに西側(結果的には教皇子午線よりさらに270リーグ西側)に移動させようとした。それによって「アジア」におけるスペインの影響力を抑えようとしたのである。こうしてスペイン・トルデシリャスで改めて結ばれたのがトルデシリャス条約であり、この条約を教皇が承認することで1493年の回勅を無効化することができた。トルデシリャス条約は1506年ユリウス2世によって廃止されるまで有効であった。

スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年ペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。[要出典]

フランスイギリスオランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。

サラゴサ条約


   
1494年のトルデシリャス条約で定められた子午線(紫)と1529年のサラゴサ条約で定められた、モルッカ諸島子午線(緑)

サラゴサ条約(サラゴサじょうやく、英語: Treaty of Zaragoza)は1529年4月22日ポルトガル王ジョアン3世神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結された、スペイン帝国ポルトガル海上帝国の間の平和条約。
条約はカスティーリャ(スペイン)とポルトガルのアジアにおける勢力圏を分け、両国が同時に1494年のトルデシリャス条約を根拠にモルッカ諸島の領有を主張したためにおこった「モルッカ問題」を解決する試みとなった。

紛争は1520年に両国の遠征隊が太平洋に到着したときからはじまった。このときには、東方において子午線はまだ定められていなかった。

背景

モルッカ問題

1494年、カスティーリャ王国ポルトガル王国トルデシリャス条約を締結し、世界を探索と植民地化のために両国の間で二分した。条約は大西洋子午線を定め、線の西はカスティーリャに、東はポルトガルに帰属するとした。

1511年、当時アジアでの貿易の中心地だったマラッカがポルトガルのアフォンソ・デ・アルブケルケにより征服された。アルブケルケは続いて、当時秘密とされた香料諸島(モルッカ諸島のうちのバンダ諸島ニクズククローブといった香辛料の唯一の産地だったため、インド洋での航海の主目的である)の位置を知ろうとして、アントニオ・デ・アブレウ英語版にそれを探すよう命じた。1512年の初め、遠征隊は小スンダ列島を通ってバンダ諸島に到着、諸島に上陸したはじめてのヨーロッパ人となった[1]

バンダ島に着く前にはブル島アンボン島セラム島も訪れた。その後、船の難破によりフランシスコ・セラン英語版はアブレウと別れて北上した。セランの船もテルナテ島で難破したが、彼はそこで当局から交易所の建設許可をもらい、フォルテ・デ・サン・ジョアン・バプティスタ・デ・テルナテポルトガル語版を建てた。
テルナテ島ティドレ島の位置を示す、モルッカ諸島の地図

セランは友人のフェルディナンド・マゼラン(二人が親族だった可能性もある)に手紙を書き、香料諸島について記述した。マゼランはこの記述でスペイン王を説得し、世界初の世界周航への出資を勝ち取った[2][3]。1521年11月6日、マゼランの艦隊(マゼランは4月のマクタン島の戦い英語版で死去したため艦隊はフアン・セバスティアン・エルカーノが率いていた)は東からモルッカ諸島に到着した。セランも同じころにテルナテ島で死去しており、マゼランとはついぞ会えなかった[4]

マゼランとエルカーノの1519年から1522年にかけての世界周航の後、カール5世はトルデシリャス条約により香料諸島はカスティーリャに帰属するとして、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ率いるロアイサ遠征隊英語版を派遣、諸島の植民地化を命じた。マゼランの航海に参加したエルカーノはロアイサの遠征にも参加、遠征中に命を落とした。また若いアンドレス・デ・ウルダネータもロアイサの遠征に参加している。1525年から1526年までの困難に満ちた航海の後、遠征隊はティドレ島に着き、そこで港を建設した。これにより、すでにテルナテ島にて交易地を持ったポルトガルとの紛争が生じた。1年間の戦闘の後、スペインは敗北したが、諸島の帰属をめぐる小競り合いはその後10年近く続いた。

バダホス=エルヴァス会議

1524年、スペインとポルトガルはフンタ・デ・バダホス=エルヴァス(Junta de Badajoz-Elvas)を開催、紛争を解決しようとした。両国はそれぞれ天文学者地図学者航海家、数学者を3名ずつ任命し、トルデシリャス条約の子午線の逆側にある子午線の精確な位置を計算し、世界を2つの半球に分けようとした。

ポルトガル王ジョアン3世は全権大使アントニオ・デ・アゼヴェード・コウチーニョ(António de Azevedo Coutinho)、ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ英語版、地図学者と宇宙誌の学者ロポ・オメン英語版シモン・フェルナンデス英語版を会議に派遣した。スペインはメルクリオ・ガティヌ伯爵(Mercurio Gâtine)、オスマ司教フアン・ガルシア・デ・ロアイサ・イ・メンドーサ英語版カラトラバ騎士団団長ガルシア・デ・パディーヤ(García de Padilla)を派遣した。ポルトガルの地図学者ディオゴ・リベイロ英語版はスペイン代表として会議に出席した。

会議はバダホスエルヴァスで何度か開かれたが、合意には至らなかった。というのも、当時の地理の知識は極めて限られたものであり、経度を精確に計算することが難しく、両国の代表はそれぞれ諸島を自国領とした地図で計算を行った。一例としてはカール5世の助言者であったジャン2世・カロンデレ英語版フランキスクス・モナクス英語版が制作した地球儀を所持しており、その地球儀では諸島がスペイン領となっている。ジョアン3世とカール5世はモルッカ諸島の位置が確定するまで、両国とも諸島に遠征隊を派遣しないことに同意した。
1525年から1528年まで、ポルトガルはモルッカ諸島の周辺に遠征隊を派遣した。テルナテ島の総督ジョルジェ・デ・メネゼス英語版ゴメス・デ・セケイラ英語版ディオゴ・ダ・ロシャ英語版をシモン・デ・アブレウが1523年に一度訪れたセレベス島に派遣した。

このときの遠征隊はカロリン諸島に訪れた初のヨーロッパ人であり、このときは諸島を「セケイラ諸島」と名付けた[5]。上陸こそしなかったが、マルティン・アフォンソ・デ・メロ(Martim Afonso de Melo)の1522年から1524年までの遠征、ゴメス・デ・セケイラの1526年から1527年までの遠征ではアルー諸島タニンバル諸島を発見した[6]。また1526年にはジョルジェ・デ・メネゼスがパプアニューギニア北西部に着き、スハウテン諸島ビアク島に上陸した。彼はそこからドベライ半島にあるワイゲオ島へ向かった。

カスティーリャは1525年から1526年までのロアイサの遠征隊のほか、1528年にはアルバロ・デ・サーベドラ・セロン英語版率いる(メキシコにいるエルナン・コルテスが準備した)遠征隊を派遣、ポルトガルと競争した。アルバロ・デ・サーベドラ・セロンはマーシャル諸島に着いた。しかし、この遠征隊はポルトガルに囚われ、西回りの航路でヨーロッパへ送還された。遠征隊はモルッカ諸島から東周りで太平洋を通って帰ることを2度試み、いずれも失敗したが、途中でニューギニア島の西部と北部の一部を探検、スハウテン諸島に到着、ヤーペン島アドミラルティ諸島、カロリン諸島を発見した(上陸はしなかった)。

1525年2月10日、ジョアン3世はカール5世の妹カタリナと結婚した。翌年3月11日に今度はカール5世がジョアン3世の妹イサベルと結婚した。この二重結婚により両国は緊密な関係となり、モルッカ諸島に関する協議を促進した。カール5世も紛争を避けてヨーロッパでの政策の実施に専念したい上、スペインはモルッカ諸島からの香辛料を東回りでヨーロッパに持ち帰る航路を知らなかったことも条約締結の一因となった。東回り航路は1565年にアンドレス・デ・ウルダネータ(Andrés de Urdaneta)がマニラ=アカプルコ航路を確立するまでついぞ見つからなかった。

条約

サラゴサ条約は東方における両国の境界をモルッカ諸島から東へ297.5リーグ(または17度)進んだところに定めた[7]。また、セーフガード条項として、皇帝はポルトガルに賠償金を支払えばいつでも条約を無効化することができるとした。しかし、皇帝はポルトガルの資金で対フランス王フランソワ1世コニャック同盟戦争を戦わなければならなかったため、この条項が使われることはなかった。

条約はトルデシリャス条約で定められた境界を明確化することも、変更することもせず、またスペインからの両国の半球を同じ大きさにする要求も満たさなかった。ポルトガルの半球は約191度でスペインの半球は約169度だった。この2つの数値はトルデシリャス条約での境界が不明確だったため、正負約4度の誤差がある。

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光


[転載]マラッカ海峡は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている

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マラッカ海峡

   
マラッカ海峡近辺の地図
マラッカ海峡・スンダ海峡付近の地勢と主要航路

マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語: Strait of Malaccaマレー語: Selat Melaka)は、マレー半島スマトラ島インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋インド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている[1]。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超え、タンカーコンテナ船など経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交う[2]。経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河パナマ運河ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。

地理・地誌

全長は約900キロメートル、幅は65キロメートルないし70キロメートル(北西側の海峡入口付近では約250キロメートルに広がる)ほどの北西方向から南東方向へとつながる細長い海峡であり、スンダ陸棚上にあるために平均水深は約25メートルと浅く、岩礁や小さな、浅瀬が多い[3]。このため、大型船舶の可航幅がわずか数キロメートルの箇所もある。
世界で最も船舶航行の多い海域の一つであり[4]、太平洋の付属海である南シナ海とインド洋の一部であるアンダマン海を最短距離で結ぶ主要航路となっている。通過する貨物で最も多いのは、中東産の石油および石油製品である[4]。しかし、シンガポール付近のフィリップス水路 (Phillips Channel) は幅が2.8キロメートルと非常に狭く、水深も23メートルしかないため、世界の航路のなかでも有数のボトルネックとなっている。この海峡を通過できる船の最大のサイズはマラッカマックス (Malaccamax) と呼ばれており、大型タンカーの巨大化を制限する要因の一つとなっている[注釈 1]
スマトラ島の都市タンジュンバライ1930年代の航空写真)

ケッペンの気候区分では、海域と両岸のほぼ全域が熱帯雨林気候 (Af) に属する。海流は年間を通して南東から北西へ向かって流れる[3]。通常は波が穏やかであるが、北東季節風が発達する季節には海流が速度を増す[5]。マラッカ海峡に流れ出すおもな河川にはスマトラ島のカンパル川アサハン川がある。

沿岸国は、インドネシア共和国マレーシアおよびシンガポール共和国であり、タイ王国を沿岸国に含める場合もある。海運業界では、この海峡付近を「海峡地」と一括して呼称することがあり、主な貿易港にマレー半島側のペナン(ジョージタウン、ペナン州)、ムラカ(英名マラッカ、ムラカ州)、ポートケラン英語版(旧名ポートスウェッテナム、セランゴール州)、シンガポール、スマトラ島側にドゥマイリアウ州)などがあり、現代における最大の港湾都市はシンガポールである[3]
ペナン島のリゾートエリア
海峡の両岸では、天然ゴムの栽培がさかんであり、世界的な産地となっている[1]。海峡に臨むマレー半島側の主要都市として、上述の諸都市のほかペナン島ジョージタウンペラ州タイピンなどがあり、インドネシア側にはスマトラ島最大の都市メダン北スマトラ州)のほか、ドゥマイ、アチェ州ランサ、北スマトラ州のタンジュンバライなどの諸都市がある。また、マラッカ海峡を臨むタイのプーケット島、マレーシアのペナン島は世界的なリゾート地として知られる。

歴史

西暦166年の「大秦王安敦の使者」[注釈 2]4世紀末から5世紀初頭にかけての東晋(中国南北朝時代)の法顕7世紀後半の義浄14世紀イブン・バットゥータ15世紀鄭和の大遠征など、いずれもこの海峡を利用した。また、13世紀末の『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロもこの海峡を利用し、風待ちのためスマトラ北端のペルラクに5ヶ月間滞在している[7]





シュリービジャヤ王国とマジャパヒト王国

ジャワのボロブドゥール遺跡シャイレーンドラ朝)に刻まれた当時の帆船レリーフ(浮彫彫刻)

ユーラシア大陸の東西をむすぶ「インド洋ネットワーク」は、当初マレー半島をクラ地峡で横断するルートが主流であったため、東南アジアの物産は扶南チャンパ王国を最大の集散地としたが、その後、7世紀から8世紀にかけてムスリム商人が来航するようになると、マラッカ海峡を経由するルートに変わった。西アジアの船は広州泉州など中国南部に訪れ、これらの港町にはアラブ人ペルシャ人居留地があったという。

こうして、マラッカ海峡は太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要路となり、海峡沿岸に興った国家のなかには海峡の両側を領域支配することによって貿易を通じて富強をはかる勢力も、歴史上何度か現れた。7世紀にスマトラ島南部に興った港市国家[注釈 3]シュリーヴィジャヤ王国もそのひとつである。の義浄は、インドへの留学の前に5ヶ月、留学を終えてインドからの帰途には10年もの間シュリーヴィジャヤに滞留し、サンスクリット語仏典の筆写と漢訳を行った[8]

帰国後に彼が著した『南海寄帰内法伝中国語版』には、シュリーヴィジャヤには1,000人余りの仏僧がいて、仏教学のレベルもインドのそれに劣らないと記している[8]。義浄は復路、クダ(マレーシア・クダ州)からシュリーヴィジャヤの首都に入ったが、首都は現在のパレンバン(インドネシア・南スマトラ州)の辺りにあった[8]

シュリーヴィジャヤは、一時、ジャワ島を本拠とするシャイレーンドラ朝の勢力におされて衰退したが、政争に敗れて亡命したシャイレーンドラ王家のパーラプトラを王として迎え、勢力を盛り返した[9]

唐が衰えると、陸上の「オアシスの道」「草原の道」の通行は決して安全なものとはいえなくなったが、そのことは逆に「海の道」への依存を飛躍的に増大させることとなり、シュリーヴィジャヤの隆盛に拍車をかけることとなった。五代十国を経て建国に至る10世紀の前半から中葉にかけては、イブヌル・ファキーフアブー・ザイドなどアラブ人の書いた旅行記にはシュリーヴィジャヤの繁栄が記され、そこでは「ザーパク」と呼称されている[9]

また、宋代には中国人もさかんに南海貿易に進出するようになり、周去非『嶺外代答』や趙汝适『諸蕃志』などのすぐれた書籍も現れた。これらによれば、東はジャワ島、西はアラビア半島や南インドなどの各地から来航する船舶でこの海峡を利用しない船はなく、もし、入港しないで通過しようとする商船があれば、シュリーヴィジャヤの王国は水軍を出して攻撃を加えたこと、またパレンバンの港には鉄鎖があり、海賊の来航には鎖を閉じ、商船の来航にはこれを開いて迎えたことなどを記している[9]

シュリーヴィジャヤは、10世紀から11世紀にかけてジャワに本拠を置くクディリ王国やインド南部のチョーラ朝の攻撃を受けたが、これは、王国がマラッカ海峡の貿易を独占し、それによる富を集積していたためであった。14世紀には、ジャワ島に本拠を置くヒンドゥー教国、マジャパヒト王国からの征服を受けている。マジャパヒト王国は14世紀にガジャ・マダが現れて、一時、マレー半島からスマトラ・ジャワの両島、さらにカリマンタン島の南岸を支配する広大な海洋帝国を建設した。

その一方で、13世紀以降、スマトラ島北部やマレー半島の住民のムスリム化が進行している[7]。13世紀末に当地に滞留したマルコ・ポーロは、北スマトラの人々がさかんにイスラーム教に改宗していることを『東方見聞録』のなかに書き残している[7]

アラブ人の来航やイスラーム教の伝来から数世紀経過した13世紀という時期にムスリム化が急速に進展した理由として、インドでの目覚ましいイスラーム化の進展がみられたのがやはり13世紀であり、インド文化の影響の受けやすい東南アジアへはインド系のムスリム商人がもたらしたと考えられること、また、この時代にさかんだったのはイスラームのなかでも布教に熱心だった神秘主義教団スーフィーだったことなどが挙げられる[7]

そして、14世紀末から15世紀初頭にかけてムスリム政権としてマレー半島北西部にマラッカ王国が成立し、シュリーヴィジャヤとマジャパヒトの両勢力を抑えてマラッカ海峡の両岸を支配し、海洋国家を築いたのである[10]


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井戸

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転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]帆船時代の東西交易とマラッカ海峡、マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出

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帆船時代の東西交易とマラッカ海峡

宋代のジャンク船
帆船の時代にあっては、古代エジプト古代ローマアラビアアフリカトルコペルシャ、インドなど、海峡西方の諸国からの物資を運んできた貿易船は、現在のマレーシア西海岸のクダの港やムラカ(マラッカ)を利用した。古代にあっては、夏季6月-11月)に吹くモンスーン貿易風)に乗って西からの貿易船がクダなどに着き、冬季12月-3月)に反対方向の風を用いて帰航するというケースが一般的であった。
6世紀ころ著名な港湾として繁栄していたクダには、はしけ、人足、ゾウ税関などが整備されており、ここに着いた荷物は一旦陸揚げされて、マレー半島東海岸のクランタン州周辺まで陸上輸送され、中国などの東方へ輸出する場合はさらにクランタンなどの港から荷物を積み出していた。
取引される各地の特産物としては、
などがあり、マラッカ海峡は、中国を起源として南シナ海や東シナ海で用いられたジャンク船とインド洋一帯で広く用いられた1本マストのダウ船とがともに行き交う海域であった[11]
12世紀から13世紀にかけて、東南アジアでは中国とインド・西アジア間の中継貿易のための港市が発達する。これは、モンスーン(季節風)の関係で、インド洋海域と東アジア地域との間を往復するには2年の歳月を必要としたが、東南アジアの港市との間を往復するだけであれば、その半分以下の時間しか掛からなかったからである。



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マラッカ王国の繁栄とヨーロッパ人の進出

復元されたマラッカ王宮
ムラカ(マラッカ)のポルトガル人の要塞サンティアゴ要塞
15世紀における海峡最大の貿易港はムラカ(マラッカ)であり、中継貿易で繁栄した港市国家マラッカ王国の主要港としてにぎわった[3]。ムラカの港務長官は4人おり、第一長官はインド西海岸のグジャラート州、第二長官は南インド、ベンガル州およびビルマ(ミャンマー)、第三長官は東南アジアの島嶼部、第四長官は中国(明)、琉球王国、チャンパーをそれぞれ担当地域とした。ムラカは、商人船員通訳、港湾労働者、人や物流を管理する吏員、船乗りや商人の相手をする遊女などでにぎわった[11]


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16世紀初頭、ポルトガル人トメ・ピレス英語版の『東方諸国記ポルトガル語版』によれば、ムラカの港市には、カイロメッカアデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している[11]。こうした繁栄を知ったポルトガル人は1511年、16隻の軍艦でこの町を攻撃、占領してポルトガル海上帝国の主要拠点のひとつとした。1498年ヴァスコ・ダ・ガマインド航路を「発見」してから15年足らずのことであった[12]






「マラッカ古図」(1726年
その後、マラッカ海峡の両岸は、ポルトガルとスマトラ島北端部のアチェ王国、マレー半島南部とリアウ諸島に基盤を置くジョホール王国の三者が合従連衡を繰り返してマラッカ海峡の交易の利を独占しようとし(「三角戦争」)、17世紀前半にはアチェ王国が優位に立ってアチェ全盛時代を築いたが、最終的には、新規参入者であったオランダとマラッカ王国の末裔であったジョホール王国とが連合し、1641年にポルトガル勢力を駆逐し、ムラカはオランダの占領するところとなった[13]。しかし、ムラカ(マラッカ)は貿易港としては衰退し、17世紀後半には海上民を統制し。オランダ・アチェとも良好な関係を構築したジョホール王国がジャンビ王国と抗争しながらも全盛期をむかえ、東西交易の中継として繁栄した。

海峡地帯にはマレー人はじめスマトラ内陸部ミナンカバウ人スラウェシ島南部のブギス人など東南アジア各地の諸民族、中国人インド人アラビア人ペルシア人ヨーロッパ人日本人など数多くの人種民族が住んだ[3][注釈 4]。ムラカはその後、19世紀初頭のナポレオン戦争の際にはイギリスによって占領された。ムラカはいったんオランダに返還されたが、1824年、イギリスはオランダとのあいだに英蘭協約を結んで、マレー半島側をイギリスの勢力圏、スマトラ島側をオランダの勢力圏とした。
1869年スエズ運河の開通後は、それまでスマトラ島・ジャワ島間のスンダ海峡を利用していた船舶も、その多くがマラッカ海峡を利用するようになり、いっそう重要性を増した[3]。また、特にマレー半島側の鉱業・農業における大規模開発を促し、ペナン、シンガポールの両港の発展がもたらされた[4]
その一方で、オランダ東インド政庁は1871年スマトラ条約によってイギリスの干渉を排除し、1873年、海峡の安全確保を名目にアチェ王国の保護領化を企図して王国への侵攻を開始した[14]。これがアチェ戦争英語版であるが、アチェの人々の頑強な抵抗により、オランダ軍がスマトラ全土を制圧したのは1912年を待たなければならなかった。これにより現在のインドネシア全域がオランダの植民地となった[14]。いっぽう、現在のマレーシアに相当する英領マレー連合州が成立したのは1896年のことである。

第二次世界大戦時にイギリス軍が日本軍に放逐され、終戦に至るまで日本軍の占領下におかれた。終戦後にイギリスやオランダの国力が低下したことを受け、インドネシアはオランダ領、マレー連合州はマラヤ連合(のちマレーシア連邦、現在のマレーシア)としてイギリス領からそれぞれ独立した[注釈 5]。海峡沿岸国の領海は3海里から12海里に拡大され、かつて公海として自由な航行に供されてきた海峡も現在は領海化されている[3]
マラッカ海峡は、1994年に発効した国連海洋法条約における「国際海峡」に該当するとされており[15][注釈 6]、外国の艦船や航空機は、国際法上の取り決めと沿岸国の法令にしたがうことを条件として、海峡通過のための通航権が認められ、沿岸諸国は現在、航路帯および分離通航帯を設定し、通航船舶にその遵守を求めている[3]



1941年12月、日本軍はマレー半島への侵攻を開始しました。それと同時に当時ペナンに住んでいた日本人の人々はイギリス軍に拘束されました。しかし、度重なる空襲と予想以上の速さで進行を見せる日本軍に対し、イギリス軍は16日までにペナンから全軍を撤退させます。
「日本軍の急速な進撃を阻止するためにペナン島の放棄もやむをえなかった」(p.133)
これはイギリス軍パーシバル中将の言葉です。ジョージタウンが受けた空襲は市の機能をストップさせ、警官もほとんどが逃亡。労働力が皆無となる大きな損害を生み住民にもイギリス軍にも大きな心理的不安を与えていたのです。
こうして日本人たちはインド系住民たちの手によってイギリス軍撤退を知らされ、開放されれました。そして半島側の日本軍のもとへこの時開放された日本人のうち二人がペナン島を脱出しイギリス軍撤退を知らせに来たのです。彼らのことは当時日本国内の新聞にも大きく取り上げられ、その勇気と行動を賞賛されました。
住民の知らせを受けた日本軍は急遽第五師団にペナン攻略を命じます。こうして19日に最初の一団がペナンに上陸。無血占領を果たします。


転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]タイ王国は、東南アジアに位置する立憲君主制国家。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク。

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タイ王国

   
タイ王国
ราชอาณาจักรไทย
タイの国旗タイの国章
国旗国章
国の標語:なし
国歌タイ国歌
タイの位置
公用語首都最大の都市 建国
 - 日付通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
タイ語
バンコク都
バンコク
政府
国王首相
ラーマ10世[1]
プラユット・チャンオチャ
面積
総計 水面積率
513,120km250位
0.4%
人口
総計(2014年人口密度
67,176,820人(20位
130.91人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年
11兆8974億[2]バーツ
GDP (MER)
合計(2013年
3,872億[2]ドル(29位
GDP (PPP)
合計(2013年) 1人あたり
6,737億[2]ドル(24位
9,874[2]ドル
スコータイ王朝成立
1238年(伝承)
バーツ (THB)
UTC (+7)(DST:なし)
TH / THA
.th
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タイ王国(タイおうこく、タイ語: ราชอาณาจักรไทยRatcha Anachak Thai[râːt.tɕʰā ʔāːnāːtɕàk tʰāj])、通称タイタイ語: ประเทศไทยPrathet Thai[pràtʰêːt tʰaj] (音声ファイル))は、東南アジアに位置する立憲君主制国家東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6,718万人、首都はバンコク
国土は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマーと国境を接する。マレー半島北部の西はアンダマン海、東はタイランド湾に面する。
2014年プラユット将軍率いる国軍軍事クーデターを起こし、憲法と議会を廃止し実権掌握以降、軍事独裁政権が継続している[3]
2017年4月7日に新憲法が公布され、同日施行された[3]


国名

1686年の古地図、"Siam"・シャムの文字が見える
正式名称は、ราชอาณาจักรไทยタイ語:ラート・チャ・アーナーチャック・タイ)で、ราชは「」、อาณาจักรは「領土」、ไทยは「タイ」を意味する。現地での通称は、เมืองไทยタイ語:ムアンタイ)。
公式の英語表記は、The Kingdom of Thailand、略して Thailand英語発音:[ˈtaɪlənd]イランドゥ) 。日本語表記は、タイ王国、通称はタイタイランドと称される事も多い。漢字(タイ)と表記されることもある。
1939年までの正式国名はSiam[sàˈjǎːm]サヤーム、英語発音:[saiˈæm]サイム、日本語発音:シャム)。この Siamと言う語は古くポーナガルのチャム語碑文(1050年)、バガンビルマ語碑文(1120年)、アンコールワットの刻文(12世紀頃)などに見える Syāmという語に原型を見ることができる。

歴史学者・言語学者のチット・プーミサックはその著書『タイ族の歴史』[4]でこの語がビルマのシャン族のシャン、インドのアッサムアーホーム族のアーホームの語源になったとしている。西洋においては Siamとはポルトガル語Sião, Syãoから来た語とされる[5]。また、1592年ジェームス・ランカスターが最初に Siamと言う語を用いたとされる[6]。この Siamが正式な国号となるのは1855年、英タイ間でボーリング条約が締結された時であった[6]

日本においては『明史』巻三百二十四に見える、暹(せん)という国と羅斛(らこく)という国が合併し暹羅斛となった国名を省略して暹羅と記しているのを用いタイを呼ぶ国名とした。なお、暹という国はスコータイ、羅斛はラウォー(ロッブリー)とするのがポール・ペリオによる研究以来からの定説であったが[7]、『大徳南海誌』の「諸蕃国」に見える一文「暹国管上水速孤底」と言う記述があることを理由に山本達郎は暹とはアユタヤではないかとする見解を発表し[8]、これが2002年に石井米雄によりタイの学会に紹介され新たな定説となった[9]

なお暹羅の読みであるが1712年刊行の『和漢三才図会』ではこの語にしゃむろンロウという読みを与えている。しかし、明治期以降シャムの読みが定着した[5]

この他、タイを示す「シャム」、「暹羅」以外の系統の語として、ビルマ語のヨウダヤーယား)があげられる。この語は元々、シャムを語源とするタイ北方のタイ族を呼ぶ言葉、「シャン」とは別に、チャオプラヤー川流域のタイ族、およびタイ南部のタイ族を指し示す言葉で、語源はタイに過去に存在した王朝の名前アヨータヤー(アユッタヤー)であると考えられている[10]。ただし、この言葉はタイに対する蔑称とされる[11]

一方、20世紀前半までにシャム/ Siamが国名として定着したが、1939年6月24日、時の首相ピブーンは国名をタイに変更する[12]。これはシャムがチャオプラヤー川流域のタイ族を指す外国からの言葉であり、タイ族の自称である「タイ」に変更するのが適切であったと説明されるが、一方でチャオプラヤー川流域以外のタイ族をも取り込もうとしたピブーンの意図も読み取れる[13]

その後、セーニー内閣時の1945年9月17日いったん国名はシャムに戻されたが、返り咲いたピブーンにより1949年5月11日、国名がタイに戻された[14]。時は下ってサリット政権時代に、議会で国名にタイがふさわしいかどうか議論がなされたが、結局は国名を維持することになった[5]。しかし現在でも、タイという名前に反対する知識人が見られる[15]


転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]タイの歴史

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タイの歴史

    
タイの歴史地方の歴史
タイの地勢図
タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国歴史を時代ごとに述べる。





先史時代

東南アジアにおける人類(ホモ・エレクトス)の居住は、50万年以上遡る[1]タイ北部ラムパーン県からは100万年-50万年前とされるホモ・エレクトスの痕跡が認められている[2]。現生の人々がタイの地域に住み始めたのは旧石器時代からである[3]

タイ各地に点在した当時の人々は、移動しながら洞窟や岩陰などに住み、狩猟・採集・漁労で生活をしていた[4]中石器時代となる約1万年前には世界的な気候の温暖化が進み、海面の上昇により地形は大きく変化したが、東南アジアは位置的環境より動植物相はあまり変化しなかったことから、この石器時代の生活形態は長く続いた[5]

1万1000年前から7500年前の年代とされるホアビニアン英語版の中石器文化(ホビアン文化)は東南アジア各地に広く認められ、タイにも分布が見られる[6][7]

東北部

新石器時代には様相が大きく変化し、稲作が認められる文化(新石器文化)が出現する[8]。北部イーサーン地方のバーンチエン遺跡などの研究によると、紀元前2千年紀には[注 1]、タイに初期の青銅器文化をもつ集落があったといわれる[9][10]。この発展に伴って、水稲の耕作が認められ[注 2][11]、同時に社会的な組織構成が進んだ[12]。これらの文化は、中国も含めてタイなど東南アジア全域に拡散していた。

紀元前1000年頃には、イーサーン地方のウボンラーチャターニー県の東端に位置するパーテム英語版 (Pha Taem、タイ語: ผาแต้ม) に岩絵が描かれた[13]。また、ウドーンターニー県プープラバート英語版 (Phu Phra Bat、タイ語: ภูพระบาท) の岩絵は約6000年前のものともいわれる[14]

このほかノーンブワラムプー県の岩絵などは、中国南部の岩絵(花山の岩絵など[注 3])との類似性が指摘される[15]。岩絵はタイ東北部のほか、北部、中部南部にも認められる[15]

民族


東南アジアのネグリトであるマニ族英語版 (Maniq) はタイ南部の先住民としてマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語のような言語を話したとされるが、現在はモン・クメール語派ケンシウ語英語版(マニ語)を話すことから、後に新しい言語を受容したと考えられている[16]

次いで、東南アジアのモン・クメール語派の言語をもつモン族およびクメール族が到達していたとされる[17]。現在のタイに居住するタイ族は、中国の揚子江以南起源の民族であるとされ、6-7世紀に、中国南部から東南アジアへと移住した可能性が大きい[18]。タイ族はその1千年紀中期から13世紀中頃、メコン川北部上流(瀾滄江)に定住していた[19]

古代国家

西暦900年頃の領域図
1000-1100年頃の領域図
  クメール
  ハリプンチャイ
  シュリーヴィジャヤ

ドヴァーラヴァティー王国

6-7世紀から[20][21]11世紀頃まで、モン族のナコーンパトムを中心とした広範囲な連合国家ドヴァーラヴァティー[注 4][22]が東南アジアで繁栄した[23]

紀元前3世紀頃、アショーカ王の遣わした伝道者による上座部仏教が、ドヴァーラヴァティー王国で信仰され始めたともいわれ、それは伝道の地名にあるインド古語サンスクリット)のスヴァルナブーミ(タイ語: スワンナプーム、「黄金の国」)が、ドヴァーラヴァティーと同一の地であるとする説による[24]

また、ナコーンパトム(「最初の町」の意)には、アショーカ王の時代の創建ともいわれるタイで最古のワット・プラパトムチェーディーがあるが[25]、考古学の証拠などによると、4世紀から6世紀の建設とされる[26]

ラヴォ王国

モン族のドヴァーラヴァティー王国の時代の6世紀より[27]ラヴォロッブリーにあったが[28]9世紀頃、クメール王朝の影響を受けてドヴァーラヴァティーから独立し、ラヴォ王国が建国された[29]。その後、クメールの王スーリヤヴァルマン1世英語版(在位1002-1050年)により領有された[30]スーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が死去した後、ラヴォ王国はクメールから離反する動きを見せ、1155年に中国に使節を送っているが[30]、クメールの支配は13世紀まで続いた。

13世紀中頃、タイ族によるスコータイ王朝の成立により[31]、ラヴォ王国のクメール支配は衰退した[29]。タイ族の勢力が強くなると13世紀末、1289年より1299年までに使節を送るなど、独立に動いた。その後、14世紀アユタヤ王朝成立の頃には、同じくかつてドヴァーラヴァティーの都であったスパンブリーとともに重要な位置を占めた[27]

ハリプンチャイ王国

伝説によれば、7世紀にドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォの王が、王女チャマデヴィ英語版(チャーマテーウィー)をハリプンチャイ(ラムプーン)に送ったことによって成立した[28]。ただし11世紀以前の史料はなく[32]、ハリプンチャイの繁栄は11-13世紀とされる[28]12世紀にはクメール王朝のスーリヤヴァルマン2世(在位1113-1150年)が進出している[30]1292年、タイ族のラーンナーの侵入により壊滅した[33]

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]スコータイ王朝、アユタヤ王朝、トンブリー王朝、チャクリー王朝

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スコータイ王朝

1300年頃の領域図
  クメール
クメールの王ジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218/1220年)が死去した後、1240年頃に[57][58]、タイ族の指導者バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)がパームアンとともに、クメールの支配するラヴォ王国からの独立を宣言し、スコータイのクメール領主を追いやりスコータイ王国を建国したとされる[注 5][59]
スコータイ王朝の3代目の王ラームカムヘーン(在位1279-1298年頃)の時代に、統治する領域は大きく広がっていった[60][61]。また、スコータイ王国はラーンナー王国と同盟を結んでいた[62]
ラームカムヘーンは、1292年のタイ語最古のラームカムヘーン大王碑文「スコータイ第一刻文」で知られ、タイ文字を考案したとされる。また、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進した[63]。しかし、ラームカムヘーンが死去すると、各地で離反が相次ぎスコータイ王朝は衰退していった[64]。その後、リタイ(在位1347-1368年頃)が即位し周辺を治めたが、この時代に成立したアユタヤ王朝の圧力が次第に増すと、1378年、王サイルータイ(マハータンマラーチャー2世、在位1368-1398年頃)の時代に属国となった[65]




アユタヤ王朝

1400年頃の領域図
  スコータイ
  クメール
  ラーンナー
  ペグー
1540年頃の領域図
  アユタヤ
  クメール
  ラーンナー
  ラーンサーン

前期

スコータイ王朝の衰退の後、1351年[66]、ウートーン(ラーマーティボーディー1世)がチャオプラヤー川沿いにアユタヤ王朝を開いたとされる[67]。この時代、ウートーンの出身地ともいわれるスパンブリーや[注 6][68][69]ロッブリー(ラヴォ)の存在が大きかったが、ウートーンがラーマーティボーディー1世(在位1351-1369年[70])として即位すると双方を連携させ、スパンブリーを義兄(王妃の兄)パグワに、ロッブリーを王子ラーメースワンに統治させた[67][71][72]
1438年、スコータイ王朝の王マハータンマラーチャー4世が死去し、スコータイの王位継承者が絶えたことで、実質的にアユタヤ王朝がスコータイ王朝を吸収した[64]
1540年、ビルマのタウングー王朝の王タビンシュエーティー(在位1531-1551年)がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた[73]第一次緬泰戦争(1548-1549年)では、タウングー王朝のバインナウンがアユタヤに侵攻し、1549年にアユタヤ王朝の王チャクラパット(在位1548-1569年)が危機に陥った際、王妃シースリヨータイが身を挺して命を助けたといわれる[74]。この戦いでは、アユタヤの王チャクラパットも防衛にポルトガル人の傭兵を雇用して侵攻を阻んでいる[75]
1551年、タウングー王朝の王となったバインナウン(在位1551-1581年)は、現在のシャン州となっている東部のシャン族を制圧すると、1558年にラーンナーに侵攻して征服した[76][77]第二次緬泰戦争英語版(1563-1564年)では、占領したラーンナーの軍を率いたバインナウンがアユタヤ王朝のピッサヌロークを制圧した後、1568年、再びアユタヤに侵攻し[78]、翌年、ビルマに占領された[79]

後期

1581年にタウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、1584年ナレースワン(在位1590-1605年)は機が熟したと見て、アユタヤ王朝の独立を宣言する[80][81]1590年に王位を継いだナレースワンは[82]1594年にタウングー王朝へ侵攻した[83]緬泰戦争〈1594-1605年〉英語版)。1595年ペグーの戦いに勝利し、要衝のマルタバンを奪い返した[84]1598年にラーンナーを属国とすると、1599年には再びペグーからタウングーにかけて侵攻した[85]
1605年にナレースワンが死去し[86]、弟のエーカートッサロット(在位1605-1610/1611年)の時代になると、いっそう対外交易を進展させた[87]イギリスイギリス東インド会社)は1605年パタニ1612年にはアユタヤでの商業活動を許可された[88]
ソンタム(在位1611-1628年)は、日本人約800人を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた[88]1612年頃アユタヤに渡来した山田長政が、津田又左右衛門を筆頭とする日本人義勇兵(クロム・アーサー・イープン[89]、Krom Asa Yipun[90])に入ると頭角を現わし、王ソンタムに殊遇されたが、ソンタム死去による王位継承争いの後プラーサートトーン(在位1629-1656年)が王位に就くと、1630年頃、王の命令で山田長政は暗殺され[91]、アユタヤ日本人町は一時焼き払われた[90]
1661年に王ナーラーイ(在位1656-1688年)がラーンナーに攻め込み、1662年にはビルマのペグーまで侵攻した[92][93]
1663年11月から翌年2月にかけて、オランダ(オランダ東インド会社)が武装した2隻の船でチャオプラヤー川を封鎖し、中国人の船を捕獲するなどして一定の独占貿易を要求した。ナーラーイはこの要求を受け入れ、1664年8月に条約を締結した[94]。このことより王ナーラーイは、1665年、国に大事があった時のためにアユタヤより上流のロッブリーに副都を建設した[29]1685年12月にはチャオプラヤー・コーサーパーンフランスにアユタヤ大使として派遣英語版され、1686年9月、ルイ14世に謁見し、翌年9月に帰国している[95]1688年シャム革命英語版が勃発。最高顧問であったコンスタンティン・フォールコンが6月に処刑され、7月に王ナーラーイが死去するとペートラーチャー(在位1688-1703年)が即位し、フランス勢力を一掃した[96]
アユタヤ王朝は、16世紀1516年にポルトガルとの条約締結から始まって、ヨーロッパと接触をもったが[97][98]中国との関係が最も重要であった[99]。1709年に王位に就いたプーミンタラーチャー(ターイサ〈池の端〉王、在位1709-1733年)の時代、中国を中心にタイ米の輸出が開始され[100][101]、オランダ領ジャワ(オランダ東インド会社)やイギリス領インド(イギリス東インド会社)にも輸出された[102]。また、ベトナムと手を結んだカンボジア内の勢力に対して1720年に派兵し、主権を維持した。しかし、次の王ボーロマコート(在位1733-1758年)の時代も、カンボジアの親タイ派と親ベトナム派の対立が続くと、1749年、再びカンボジアに派兵し属国とした[103]
アユタヤ王朝は、400年間以上の繁栄の後、ビルマに興ったコンバウン王朝との泰緬戦争(1759-1760年)で、テナセリム(タニンダーリ)、マルタバン(モッタマ)、タヴォイ(ダウェイ)を失った[104]1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)で、ついにコンバウン王朝の侵入により、1767年4月、首都アユタヤは攻め落とされ、アユタヤ王朝は破滅した[105][106]

トンブリー王朝

1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり[107][108]華僑の父とタイ人の母をもつタークシンは、華僑の支援のもとに要衝トンブリー(現在のバンコクトンブリー区)を拠点として再統合することに成功し、1768年末にタークシン(在位1768-1782年)は王となった[109]。新首都トンブリーを拠点にトンブリー王朝はアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った[110]。また、カンボジアで始まった王座を巡る争いに介入し[111]1771年からカンボジアに2度侵攻した[112][113]

チャクリー王朝

1809年のラッタナーコーシン王国の領域図
その後、精神的偏重性を示したとされる王タークシンは[114]1782年初頭、クーデターで追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された[109]。チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の最初の王となった[115]。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコクを建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった[116]
ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になって、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国英語版によりケダ・スルタン国英語版を征服し[117][118]、統治を開始するなどの対外拡張政策を推進した[119]。タイのラーマ1世以後の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争英語版によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど[120]、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる[121]ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約英語版)を締結し[122][123]1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした[124]
この時代、ベトナムで1802年に成立した阮朝が強勢になると、タイとベトナムがカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]山田 長政は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門

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山田長政

   
 
山田長政時代生誕死没別名官位主君
YamadaNagamasa.jpg
山田長政(1630年頃)
江戸時代前期
生年不詳
寛永7年(1630年
仁左衛門
オークヤー・セーナーピムック
大久保忠佐ソンタム
タイの歴史地方の歴史
山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。


略歴

出生は駿河国の富厚里とされるが、同じく駿河国の馬場町、伊勢国尾張国とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年朱印船長崎から台湾を経てシャムに渡った[1]。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。その後、アユタヤ国王より高官に任ぜられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、タイ側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。

生涯

スペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも斥けた功績で、アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー・セーナーピムックออกญาเสนาภิมุข)という官位欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た。
ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォーラウォン(エーカートッサロット王の隠し子と云われ、後のプラーサート・トーン王)と共同でチェーター親王を王に即位させた。しかし、チェーター王はシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑された。
その後、チェーターティラートの弟のアーティッタヤウォン王が即位したが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころチャオプラヤー・カラーホームスリヤウォンに昇進していたシーウォーラウォンに王位につくように願った。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買った。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政は六昆(リゴール、ナコーンシータンマラート王国)の防衛を理由にシーウォーラウォンによって左遷された。
長政は1630年パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。毒殺はカラーホーム(シーウォーラウォン)の密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子のクン・セーナーピムックが引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年に、プラーサートトーン(シーウォーラウォン)は「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。
なお、日本の文学では、長政のタイ名を「オーヤー・セナピモック」、シーウォーラウォンあるいはチャオプラヤー・カラーホーム・スリヤウォンを「オーヤー・カラホム」とし、親しまれている。文学上では、長政が南部の王国の王となったとするものと、知事に任命されたとするものがある。 決定的証拠はないが、1770年に上陸したキャプテン・クックよりも先にオーストラリア大陸を発見していたとの説を産経新聞が紹介している[2]。ただし、オーストラリア大陸に初めて到達したヨーロッパ人はクックではなく、1606年に到達したオランダ東インド会社の商人ウィレム・ヤンソン英語版である。
1915年大正4年)11月10日、贈従四位

山田長政関連作品

『戦艦図絵馬』原典は焼失し模写。ガレオン船として描かれている
『日本人義勇軍行進図』ワット・ヨム寺院に描かれたものの模写

小説[ソースを編集]

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]マレーシアの歴史 先史時代 国立博物館に行ってみよう(マレー語と英語)生写真

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マレーシアの歴史年表
前5000~3000 東南アジア島嶼部でオーストロネシア語化が進行。
前1世紀 南インドと中国の間に海上交易が始まる。
1世紀頃 モンスーンを利用した航海術が発達し、アジアの海上交易が活発化する。
4~5世紀 東南アジアの”インド化”(インド文化の受容)が進展。
6世紀 ボルネオ北西部の王族(勃泥、文菜など名称はさまざま)が中国へ朝貢を開始。
7世紀頃 マラッカ海峡経由ルートがアジアの海上交易の主要ルートになる。
670頃 スマトラ南部にシュリーヴィジャヤ王国が成立。
13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わる。
14世紀末 ジャワのマジャパイト王国がパレンバンを占領。パレンバンの王族パラメスワラがマラッカ(ムラカ)王国を創始する。
1400 マラッカ王国成立。
東南アジア諸国の各国の歴史については、以下を参照。
インドネシアの歴史 - カンボジアの歴史 - シンガポールの歴史 - タイの歴史 - フィリピンの歴史 - ブルネイの歴史 - ベトナムの歴史 - マレーシアの歴史 - ミャンマーの歴史 - ラオスの歴史 - 東ティモールの歴史


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東南アジアの原歴史

東南アジアの歴史は、各国の歴史として著述されることが多い。しかし特にマレー半島および島嶼部では、各国の領域は19世紀から20世紀初めにかけて、欧米列強が植民地主義に基づき東南アジアを分割した結果生じたものが後に独立国家として認められたものであり、政治的色彩が非常に濃いといえる。

東南アジアの歴史は、そのような政治的な現代国家の歴史を離れ、伝統的な政治圏、つまり、政治的・文化的中心都市とその周辺の圏的な空間の歴史、別な言葉で言えば歴史圏を対象とするものである。
また、元来この地域は封建主義中央集権皇帝専制とは違った、マンダラ論といった説で解き明かされる重層的な権力構造がみられた地域であることも近年では重要視されている。また日本との関係も、一部の先住民が渡来したことや太平洋戦争において各国に進入し、その後高度経済成長期に多数の企業が進出するなど、非常に深いものがある。

石器時代

東南アジアの人類文化は、2~3万年前の後期旧石器時代から始めることができる。それは、大陸部でも島嶼部でも洞穴や岩陰で人間が生活した痕跡を得られるからである。

大陸部では、ベトナム北部のソンヴィー文化、ホアンビン文化、バクソン文化、ダブート文化とたどることができる。ソンヴィー文化は、礫の周囲を打ち欠いた石器を主とする。旧ヴィンフー省のソンヴィー遺跡で発見され、放射性炭素年代測定では2万~1万2000年前である。

磨製石器を伴わないことから旧石器時代に属する。次にホアビン文化は、ベトナムホアビン省の洞窟・岩陰遺跡群から名づけられた文化。原初的な形態の石器に加えスマトリアスなどの進んだ形態が特徴であり、部分的に磨製した石器も現れる。食料残滓に貝殻(淡水のタニシカタツムリ)、獣骨の層が伴う。

年代測定では、ほぼ1万1000から7500年前で、中石器文化に位置する。この文化は大陸部全域からマレー半島、スマトラ島まで広く分布する。ランソン省バクソン山地に見られるバクソン文化は、刃部磨製石斧が主体である。時によって土器を伴う。タインホア省タブート遺跡は、淡水の大きな貝塚遺跡で、石器の変化はあまり見られないが、重要な変化は土器の出現である。

全体の形が分かるものは少ないが、そこの丸い深鉢形である。厚手軟質で無文様、叩き締め技法で叩く棒に巻いた繊維の跡が全体についている。この技法は中国から南下した。放射線炭素年代では約6000年前である。ゲアン省クインヴァン遺跡は海の貝からなる大きな貝塚で、大きな石を打ち割った石器や少量の全磨製石斧、粗雑な尖底の土器を伴う。放射性炭素年代は4700年前である。

農耕

東南アジアは基本的に多くの民族が農耕民族である。ベトナムでは4000年ほど前から農耕を始め、現在のタイ王国の周辺でも紀元前300年頃には農耕が始まっていた。カンボジアでも4世紀頃にもなると、東南アジア有数の稲作地帯となっていた。現在でも東南アジアは世界有数の農業国家群である。


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マレーシア国立博物館 日本語ガイドグループ - ホーム | Facebook

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好評連載中!週刊「M-town」の「マレーシア国立博物館に行ってみよう!!」の最新記事(2018・2・1発行分)です。 今回は、博物館の屋外にある展示物より紹介します。サワラク州の先住民族が使っていた「クリリエン」と呼ばれる葬柱 ...

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2018年 マレーシア国立博物館へ行く前に!見どころをチェック ...

<無料日本語ガイドツアーのご案内>マレーシア国立博物館ではボランティアガイドが約1時間の無料日本語ガイドツアーを行っています。ガイド日:毎週 火曜・木曜・土曜 午前10時~*事前のご予約は不要です。直接館内にお越しください。

マレーシア国立博物館】National Musium of Malaysia ...

www.malaysia-magazine.com/kl/sightseeing/national-musium...
マレーシア国立博物館】National Musium of Malaysiaについてご紹介。マレー風の宮殿を模して建てられたマレーシア国立博物館KLセントラル駅から徒歩10分程度の位置にあるマレーシア国立博物館。歴史保存の目的で建てられたこちらの ...

日本語ページ – Museum Volunteers, JMM

マレーシア国立博物館無料日本語ガイドツアーのご案内- マレーシア国立博物館ではボランティアガイドが約1時間の無料日本語ガイドツアーを以下の日時に行っています。 毎週月曜日・火曜日・木曜日・金曜日・土曜日 午前10時 ...




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シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のジャンビ、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。
この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドともさかんに通商をおこなった。旅行者の記録ではスマトラの沿岸部では金貨が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。
タイ南部スラーターニー県のチャイヤーがシュリーヴィジャヤの首都だったと主張する歴史家がいて、この説が世界的に受け入れられつつある。
チャイヤーは以前盤盤王国といわれ、唐時代には1,000人の仏僧がおり、10以上の仏教寺院があった。
これは杜祐の『通典』にのベラられている。チャイヤーのボーロマタート寺院にはシュリーヴィジャヤ様式の代表的寺院である。

マレーシアの歴史 先史時代 - Malaysia Life

perakipoh.blogspot.com > Home > マレーシアの歴史 - キャッシュ
Ulu Perakにあるレンゴン渓谷は、その考古遺跡がマレーシア先史時代の多くの形跡をあらわにし、考古学にとってマレー半島で最も重要な地域の一つです。それは半島における人類の最も古い活動と考えられている場所です。今日でもそれはまだ、緑の植物や石灰岩の丘に囲まれた小さなカンポンを持つ田舎の地域です。レンゴンは野外博物館にたとえることができ、伝説、骸骨、洞窟壁画、宝石、陶磁器、武器や石器のような貴重な発見物の原産地です。レンゴン地域の洞窟の多くは、この地域に住ん ...
perakipoh.blogspot.com > Home > マレーシアの歴史 - キャッシュ
先史時代のマレーシア マレーシアは非常に最近の先史学で、考古学的に大変新しい国と考えられています。アフリカでは人類の前の種は約300 - 500万年前に起こりました。 彼らの子孫はアフリカから移住し、彼らの先史時代の遺跡はヨーロッパやアジア各地で発見されています。ジャワ原人や北京原人は両方とも約30万年前に遡ります。 マレーシアで最古の遺跡はサラワク州のNiah洞窟で見つかった人間の頭蓋骨で、約4 万年前に遡ります。マレー半島(Semenanjung)では、話はさらに最近で、 ...
ja.wikipedia.org/wiki/マレーシアの歴史 - キャッシュ

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光


[転載]マレーシアの歴史 先史時代 考古学 国立博物館ギャラリーAに行ってみよう2(マレー語と英語)生写真

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レンゴン渓谷の考古遺産|マレーシア文化遺産|世界遺 …

ペラ州州都・イポーより車で約2時間の場所にあるレンゴン渓谷は、マレーシア考古遺跡としてももっとも重要な遺跡の1つで、東南アジアで最古の完全な人骨(ペラ・マン/約100万年前)が発見されています。現在レンゴン考古学博物館 ...

マレーシアの世界遺産No.2 : レンゴン渓谷考古遺産、 …

マレーシア滞在中の週末、マレーシアの4ヶ所ある世界遺産の内で最も遅く2012年に登録されたレンゴン渓谷の考古遺産を訪れた。クアラルンプールから北へ約2時間でイポ...』イポー(マレーシア)旅行についてハンクさんの旅行記です。

マレーシア世界遺産 - マレーシア政府観光局公式サイト

www.tourismmalaysia.or.jp/unesco-heritage/index.html
ペラ州州都・イポーより車で約2時間の場所にあるレンゴン渓谷は、マレーシア考古遺跡としてももっとも重要な遺跡の1つで、183万年前~1700年前の旧石器~鉄器時代の石器や陶器等が発見されています。また東南アジアで最古の完全な ...

マレーシアの世界遺産ペナンとマラッカ | TRIPPING!

レンゴン渓谷の考古遺跡 先史時代 レンゴン考古学博物館 photo:ひさほ ゆう まず初めにご紹介するのは、マレー半島の緑豊かなレンゴン渓谷で発見された初期人類(猿人や原人)の遺跡です。こちらはアフリカ大陸以外では最も古い初期 ...

マレーシアのレンゴン渓谷でタイムスリップ] - Travel Wire …

travelwireasia.com/2012/08/マレーシアのレンゴン...
2012/08/20 · 同時代から出土された遺跡の数々が展示されているレンゴン考古学博物館も必見だ。博物館は、毎日9〜17時まで開館。入場無料。 この記事を読んでマレーシアへの旅行について更に詳しく知りたい方はマレーシア観光局ウェブ ...

マレーシア : 切手 [テーマ: 考古学 | 年: 2016]

マレーシア : 切手 [テーマ: 考古学 | 年: 2016]. Buy, sell, trade and exchange collectibles easily with Colnect collectors community。 Only Colnect automatically matches collectibles you want with collectables collectors offer for sale or ...

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転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年まで[1]ジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシ

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マジャパヒト王国

   
マジャパヒト王国の最盛期の支配領域
マジャパヒト王国(マジャパヒトおうこく、Kerajaan Majapahit)は、1293年から1478年まで[1]ジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説があるが一方で、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。なお、表記に「マジャパイト」と書くこともある。綴りは"Majapahit"であるが、ジャワ語では、h音を発音しないからである。


成立

シンガサリ=マジャパヒト歴代君主系図
シンガサリ王国クルタナガラ英語版王のもとにモンゴル帝国クビライの使者が来て朝貢を求めたが、その顔に刺青を入れて送り返したので、1293年モンゴルのジャワ遠征英語版が行われたが、クルタナガラ王はクディリ王家の末裔と呼ばれる当地の領主ジャヤカトワン英語版の反乱によって前年1292年に殺されていた。クルタナガラ王の娘婿であったウィジャヤ英語版はジャワ北岸のトゥバン英語版に上陸した元軍と同盟して、ジャヤカトワンが乗っ取ったシンガサリ王国を滅ぼし、さらに元軍をジャワから追い出して、id:Aria Wirarajaと協力してマジャパヒト王国を建国した。ウィジャヤの即位名をクルタラジャサ=ジャヤワルダナ(Kertarajasa Jayawardhana)という。王国の都はジャワ島東部プランタス川流域のマジャパヒト英語版に置かれた。
マジャパヒトと元朝の関係は当然悪化したが、フビライ・ハーンが死去すると大きく好転し、1295年から1332年の間に10回の朝貢が行われた。
1295年、ウィジャヤは、建国時の闘争中の約束を守り、国を二つに分割し、東部はid:Aria Wirarajaが治めるようになった。東部の首都は現在のLumajangにあった。
1316年、ウィジャヤの息子のジャヤナガラ英語版が、Lumajangで現職のPatihNambiによる反乱を鎮圧し、東部と西部は再び統一されたとナーガラクルターガマ英語版の「王統史英語版」に書かれている。
1328年ジャヤナガラ英語版が死去すると後継男子がいなかったので、故クルタナガラ王の末娘ラージャパトニに後を継がせたが、ラージャパトニは熱心な仏教徒で出家していたので、娘のトリブワナー英語版を摂政として政務を取らせた(インドネシアの歴史教科書『インドネシア国史』 (Sejarah Nasional Indonesia) では、トリブワナが王位に登ったとする。)。この頃、親衛隊長から宰相に抜擢されたガジャ・マダがマジャパヒト王国を最盛期に導くことになる。

最盛期

宰相ガジャ・マダは1342年にバリ島に侵攻したのを皮切りに、インドネシア各地に対する遠征を行い、スマトラ島シュリーヴィジャヤ王国を滅ぼして南海の海上交易ルートを掌中に収めた。
最盛期の支配領域はマレー半島のパタニやトゥマシク(シンガポール)、カリマンタン島に及び、東西交通の要衝であるマラッカ海峡スンダ海峡を制圧した。またタイアユタヤ王朝カンボジアベトナムとも友好関係を持った。
1350年、ラージャパトニが死去するとトリブワナーの息子ハヤム・ウルク英語版がラージャサナガラとして即位した。
1357年ブバットの戦い英語版ではスンダ王国英語版を破ったが、両国関係は険悪になった。

衰亡

インドネシアの歴史初期王国イスラーム王朝の勃興ヨーロッパ植民地主義インドネシアの形成インドネシアの独立
王統史英語版」によると、1376年に新しい王国(gunung baru)が誕生した。「明史」によると、1377年にジャワ島の二つの王国から朝貢が行なわれている。西の王が勿労波務、東の王が勿院労網結という名前だったと記録されている。西の王国は、Bhra Prabuハヤム・ウルク英語版)が治めていた。一方、東の王国は、Rajadewiの夫のBhre WengkerWijayarajasa)が治めていた。
1377年ガジャ・マダは既に死んでいたが、マジャパヒト王国はパレンバンに兵を送り、シュリーヴィジャヤ王国を滅亡させた。この時、最後の王子パラメスワラ英語版が脱出してマレー半島に逃れ、後にマラッカ王国を建国する。
1389年ハヤム・ウルク英語版が死んで、ウィクラマワルダナ英語版が跡を継いだ。1398年Wijayarajasaが死ぬと、Bhre Wirabhumiが跡を継いだ。
1404年から1406年にかけて、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦になった(パルグルグ戦争インドネシア語版)。中国王朝は15世紀前半鄭和艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航し、内戦に巻込まれた。鄭和艦隊の保護下にマラッカ王国が成立すると、南海貿易の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。
15世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、マタラム王国がジャワ北岸のトゥバン、グレシク英語版などにもイスラム教国が成立する。
マジャパヒト王国でもクルタウィジャヤインドネシア語版が、息子のブラウィジャヤ5世インドネシア語版(シンハウィクラマワルダナ)の妃にチャンパ王国からムスリムの公主を迎え、内政でもイスラームへの改宗を容認した。
ブラウィジャヤ5世の息子ラデン・パタハインドネシア語版ドゥマク王国を建国し、サムドラ・パサイ王国と友好関係を築き、ワリ・サンガによるイスラム教布教によって急速に国力を増大した。1478年、ドゥマク王国はマジャパヒト王国のブラウィジャヤ5世に宗主権を認めさせた。

遺跡調査その他

  • ジャワ島東部には、マジャパヒト王国の遺跡が見つかっているが、発掘調査は資金や人材不足で進んでいない。遺跡発掘への支援を呼びかけるため、インドネシア政府と日本の民間団体[2]とが当時の技術で木造船を復元した。船は壁画などをもとに、釘を使わず作られた帆船である。2010年7月4日、日本人関係者とインドネシア軍の水兵など14人のせた復元木造船が、アジア各国に向けて出航した[3]
  • マジャパヒト王国は13世紀から16世紀にかけてインドネシアを中心に栄え、琉球王国とも交易を行っていた。

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]御来欧音はじめてのハワイ旅行⑪最終回:近代国家ハワイ王朝の栄華、イオラニ宮殿

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太平洋航空博物館の方はまだまだご紹介しきれない機体がたくさんありますので、後日
改めてご紹介したく思います。
という訳で、ハワイ旅行のトリを飾るのは、ハワイ王朝、栄華の跡であるイオラニ宮殿です。
現在、ハワイはアメリカ合衆国の50番目の州として認知されていますが、かつてはハワイ人
の王が治める独立国家で、我が国を含めた各国から承認を受けていました。
 
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ハワイ諸島を統一したハワイ王朝の初代国王カメハメハ1世から数えて7代目のカラカウア王
が築かせた宮殿がイオラニ宮殿です。
 
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イオラニ宮殿は地上2階、地下1階の王宮です。
この階段は2階に通じていますが、2階は王室のプライベートなスペースでした。
 
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こちらは謁見の間。
 
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地下1階は執事が召使が食事の用意などを整える炊事場や倉庫になっていました。
 
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王宮の秘宝の数々。
しかし、王権にあかせて作らせた宝石というよりも、諸外国から儀礼的に贈られた勲章の
ようなものがほとんどでした。
 
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こちらの玉座はカラカウア王の腰かけたものでしょうか?
 
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カラカウア王即位の際に用いられた戴冠式台も庭園内にありました。
 
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王室に忠節を誓う近衛兵が詰めた兵舎も残っています。
 
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カラカウア王は「陽気な君主」と綽名され、我が国を初めて訪れた国家元首である一方、
イオラニ宮殿建設による負債や、アメリカ人入植者によるクーデターによって国家元首と
しての実権の多くを失い、療養先のサンフランシスコで亡くなりました。
やがて、妹で後継者のリリウオカラニ女王が即位しましたが、アメリカ人入植者による
策動は止まるところを知らず、本国からの艦隊や武器援助を背景にした共和政派
(実質はアメリカ人入植者の覇権を目指すグループ)は王制廃止と臨時政府の樹立を
宣言してイオラニ宮殿を包囲、リリウオカラニ女王は退位を宣言する誓約書にサインさせられ、
ここにハワイ人による立憲王国、ハワイ王朝は滅亡したのでした。
1898年、アメリカは自治領としてハワイを併合、1959年にハワイ州となりました。
イオラニ宮殿はリリウオカラニ女王の幽閉場所として用いられた後、ハワイ州の庁舎
等としても使用され、現在は博物館として公開されています。
(完)

転載元: 御来欧音(おらいおーね)のブログ

[転載]GHQ焚書図書開示(米国のハワイ侵略)#27

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GHQ焚書図書開示(米国のハワイ侵略)#27
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<親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言、その後ハワイ併合が画策されたが、そこまでには至らなかったことを前回述べた。今回はそれからの話である。

現在のアメリカを知るうえで重要な動きを、ハワイ暫定政府樹立からハワイ併合までの過程でアメリカはとっている。暫定政府(仮政府)の行為は暴力であるとう理由で、最初アメリカ政府は仮政府を認めなかった。ところが、その後大統領が変わり、紆余曲折のあと、アメリカの国益を優先して、併合を成し遂げている。

暴力否定がアメリカなのか、暴力を行うのがアメリカなのか。前者に焦点をあわせると親米になり、後者に焦点を合わせると反米になる。一見別々のようであるが、国家という有機組織として考えるとどちらもアメリカの本質である。つまり、アメリカとは善と悪の二律背反を包含しているのである。そのように見ないとアメリカの本質が見えてこない。

このような目で、その後のハワイに対するアメリカの行動を見てもらいたい。木庵>


.好謄ーブンス米国公使は暫定政府を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。
しかし、リリウオカラニの抵抗やアメリカ国内における女王支持派の存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法に対する世論の反発などにより、併合は見送られた。

▲魯錺せ僂忘櫃掘王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を申し出た。日本政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は1893年(明治26年)4月に改正条約を締結した。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約であった。日本政府は、アメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。

E和24代アメリカ合衆国大統領に就任したばかりのグロバー・クリーブランドが政権の座にいた。1890年の「フロンティア消滅」を受けて海外進出は抑制的で、スペインからの独立運動のつづくキューバにも不介入の方針を採った。


ウィキペディアの記事(クリーブランド大統領)

スティーヴン・グロバー・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland,1837年3月18日-1908年6月24日)は、第22代および24代アメリカ合衆国大統領(任期:1885年-1889年、1893年-1897年)(民主党)。歴代大統領で唯一、「連続ではない2期」を務めた大統領である。また、歴代アメリカ大統領の中で唯一、ホワイトハウスで結婚式を行った大統領としても有名である。


ぅリーブランド大統領は、ハワイの状況視察のためジェームズ・ブラントを現地に派遣した。ブラントは、親米派グループが君主制を転覆させるような過激な行動をとるべき口実は何も存在しなかったこと、一外交官が軍隊を上陸させて友好的な政府を倒す手助けをしたことを大統領に報告し、ハワイ政庁の星条旗を下ろし、アメリカ海兵隊を船にもどすよう指示した。クリーブランドはブラントの報告を受け、革命家たちの行動を「ホノルルの無法な占拠」と批判し、スティーブンス公使の更迭を決め、新任公使にアルバート・ウィリスを任命した。これに対し、多くのアメリカ国民は革命家たちやスティーブンスに同情を寄せた。

ゥリーブランドはリリウオカラニが革命家たちを処罰しないことを条件に、暫定政府の取り消しと女王復位の道を模索した。1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との見解を表明した。しかし、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府首脳の死刑を求める」の文字が躍った。この捏造報道はその後訂正がなされ、ウィリスは12月20日、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。しかし現実には、リリウオカラニには死刑であれ恩赦であれ、そうした処分を実行する力がもはやなかった。

Δ海Δ靴申状況から、ドールらはクリーブランド在任中の併合は不可能であると判断し、12月23日、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉にあたる」との声明文を発した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任したが、結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領となった。アメリカ独立記念日に公布されたハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権をあたえず、公職勤務を禁じるいっぽう、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。

1895年1月6日、王政復古を目指し、先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起した。2週間で武装蜂起は鎮圧されたが、政府軍にも死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが反乱を知りながら黙っていたことから問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。この蜂起のなかで多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。1月22日、リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後は共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。こうしてハワイ王国は名実ともに滅亡した。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。

┘リーブランドの次にウィリアム・マッキンレーが25代大統領になった


ウィキペディアの記事(マッキンリー)

第25代アメリカ合衆国大統領。最後の南北戦争従軍経験者の大統領であり、19世紀最後かつ20世紀最初の大統領。
マッキンリーは大不況 (1873年-1896年)特に1893年恐慌後、回復に向けて国を率い、金本位制を導入した。彼はスペインに対し、キューバでの蛮行を止めるように要求した。アメリカ合衆国の世論はスペインに対する憤慨で沸き立っていた。そして1898年、米西戦争が勃発した。戦争はアメリカの勝利で終わった。アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、90日間でキューバとフィリピンを占領した。1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれた。米比戦争そのものに対する支持は広範囲に及んだが、民主党とアメリカ反帝国主義連盟は共和制の価値が失われることを恐れて、激しくフィリピンの併合に反対した。マッキンリーはまた、1898年にハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者がアメリカ国民となった。マッキンリーは1900年の大統領選で再びウィリアム・ジェニングス・ブライアンと争った。ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開したが、マッキンリーは再選を成し遂げた。マッキンリーは1901年、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺された。彼の後任は副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継いだ。


1897年に新しいアメリカ大統領になったウィリアム・マッキンリーは「海のフロンティア」開拓を推進する帝国主義政策を採り、同年、アメリカ合衆国上院にハワイ併合条約を上程した。ハワイ上院はそれに呼応してただちに賛成の意を表明したが、ワシントンD.C.のアメリカ上院では条約の批准には3分の2以上の賛成が必要であり、可決は困難とみられた。ただし、議会の合同決議であれば上下それぞれの院で過半数の支持があれば可決されるという規定になっていたため、1898年3月16日、合同決議案が議会に出された。

それに先だつ1898年1月のスペイン領キューバの首府ハバナで起きた暴動をきっかけとして、同年4月米西戦争が勃発した。ハバナでの2月15日のアメリカ戦艦メイン号爆発事件は、アメリカ国民に反スペイン感情を植え付ける絶大な効果をもち、4月25日にスペインに対して宣戦布告がなされた。アメリカのジョージ・デューイ司令官がフィリピンのマニラ湾でスペイン艦隊に圧倒的な勝利を収めている。

この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、アメリカ国内では、戦争中、そこで戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとの主張が巻き起こった。ホノルルはいまやアメリカ軍をフィリピンに輸送する船舶にとってきわめて重要な寄港地となった。そして、アメリカはすでに真珠湾の独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするため併合が必要であるとの世論が高まった。

こうして米西戦争中の1898年6月15日、先に提出していた合同決議案(ニューランズ決議)はアメリカ下院を通過し、7月6日には上院を通過した。7月7日、マッキンリー大統領は連邦議会におけるハワイ併合決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。8月12日にはアメリカのハワイ編入が宣言され、同日正午少し前にハワイの国旗は下ろされ、星条旗がイオラニ宮殿の上に掲げられた。併合後のハワイはアメリカ合衆国自治領として準州の扱いを受けることとなった。

1900年、ハワイ領土併合法が発布され、同年4月30日、マッキンレー米大統領はハワイがアメリカの一州になるまで効力をもつ基本法(1900年基本法)に署名、6月にはハワイ領土政府が設立された。ハワイ領土(ハワイ準州)の要職にはハワイ共和国下の官僚がつくこととなり、6月14日、初代ハワイ領土知事にサンフォード・ドールが就任した。「1900年基本法」はハワイの法律となり、アメリカの諸法がハワイに適用されることとなった。ハワイの市民は合衆国市民となり、日系移民や中国系移民が事実上ハワイ市民になることができなかったのに対し、先住ハワイ人には投票上の制約が取り除かれ、多くの権限を獲得した。
*<1900年基本法下のハワイは、基本的に他の48州と同様合衆国憲法とそれにもとづいた諸制度によっていたが、いくつかの点で重要な格差が設けられた。
ハワイの住民はアメリカ合衆国大統領選挙・副大統領選挙の際に投票権がなかった。また、連邦議会に対しては、ハワイの利益を代弁するためにみずからの代表を選んで送り込むことはできたが、投票権はあたえられなかった。さらに、ハワイの住民はハワイ準州の立法機関たる議会をつくり、上院議員15人、下院議員30人を選出して法律の制定にあたることができたが、知事や行政各部局の長、重要な法廷の裁判官はすべて合衆国大統領の任命制であり、ハワイ議会のつくった法律は合衆国議会によって修正ないし廃案されうるものであった。>


<ここから、日本人とハワイの関係について書いていく。ハワイとの関係というと移民の歴史である。西尾氏が述べたこととウィキペディアの記事を織り混ぜてまとめてみる。木庵>


1860年(万延元年)、日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託したが、日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。
しかし、その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(明治元年)、サイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなる。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。

1885年(明治18年)1月、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込み、ハワイへと渡った。

*官約移民は「3年間で400円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近かった。労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であった。

1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止され、以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになった。

1894年以降、日本人の手により、日本との移民事業を行う会社が30社以上設立された。一大事業に成長するが、1900年のハワイ併合、1908年の日米紳士協約などによりこれらの会社は全て消滅した。

ゥ魯錺な珊腓砲茲蝓△垢戮討離魯錺ざο孫颪旅駝韻魯▲瓮螢合衆国の国民となった。しかし、先住ハワイ人には市民権があたえられたものの東洋人の権利は制限されていた。中国人に対しては、アメリカ本土の中国人排斥法がハワイにも適用されたため、中国人の移住が事実上不可能となった。
いっぽう、既存の労働契約は併合により無効化され、契約移民としてハワイに多数定住していた日本人労働者は、それまでの過酷な契約から解放された。その結果、多数の日系人はアメリカ本土に渡航し、1908年までに3万を超える人びとが本土へ移住したといわれる。これは結果的にアメリカ本土で日本人に対する排斥運動を招く契機となり、1906年にはサンフランシスコで日本人学童隔離問題が生じた。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領によって翌1907年に撤回されたが、その条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。

κ珊膂聞澆蓮移民の家族や一旦日本へ帰国したが、再度移住を希望する帰米者のみ移住が許可されるようになり、そうした者も1924年の移民法成立により、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となった。

Г修慮緜蟒擦靴親椰涌槎韻了丗垢増加したことから、ハワイの全人口における日本人移民と日系人の割合は増加を続けた。その後勃発した第二次世界大戦下では、アメリカ本土の日本人移民と日系アメリカ人がアメリカ政府により強制収容されたが、ハワイにおいては日系人人口が多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されたことから、アメリカへの帰属心が弱く、しかも影響力が強いと目された一部の日系人しか強制収容の対象とならなかった。


<西尾氏は日本人の移民について述べていたときに、マリア・ルス号事件について触れた。
「この事件に対する明治政府の対応がとても立派だった」ことを力説していた。木庵>


ウィキペディアの記事(マリア・ルス号事件)

マリア・ルス号事件(マリア・ルスごうじけん)とは、明治5年(1872年)に横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして日本政府が解放した事件を言う。また日本が国際裁判の当事者となった初めての事例である。

事件の概要
1872年7月9日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz マリア・ルズと表記する書籍もあり)が横浜港に修理のために入港してきた。同船には清国人(中国人)苦力231名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。

そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。しかしながら日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。

マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、7月19日(8月22日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は7月27日(8月30日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すように訴えた。この訴えに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人のフレデリック・ヴィクター・ディキンズ)が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。裁判により、清国人は解放され清国へ9月13日(10月15日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。しかし問題はこれで終わらなかった。

翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決のために仲裁契約が結ばれ第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。ロシア皇帝・アレクサンドル2世による国際裁判は1875年(明治8年)6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の訴えを退けた。


写真:クリーブランド大統領とマッキンリー大統領。マッキンレー殺害場面の絵。


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転載元: 木庵先生の独り言

[転載]GHQ焚書図書開示(#68ハワイをめぐる日米関係史、尾形さんのコメント)#26

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#69「立ちつくす日本、踏みにじる米国」
 ハワイをめぐる日米関係史

前回、アメリカがハワイを併合しようとする動きがあり、それを避けるためにカラカウア王は明治天皇に彼の姪にあたるカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)を結婚させようとした話を書いた。それに米布互恵条約 (1874年)、「ベイオネット憲法」(1887年)についても触れた。しかし、まだハワイの歴史がよくわからない。そこで、カラカウア王の次の王リリウオカラニ女王即位までの大まかな歴史の流れをまとめてみる。


最後の王リリウオカラニ女王即位までの歴史
1839年にイギリスのマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法を公布して立憲君主政を成立させた。1845年には基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた(カメハメハ3世の時代)
1842年、アメリカはハワイ王国を独立国として承認。
1843年、イギリス、フランスもハワイ王国を独立国として承認。
ぅ魯錺い傍化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた。
1852年、ハワイ王国憲法成立(奴隷禁止条項が含まれている。リンカーンの奴隷解放の前)。
1850年、クレアナ法(土地法)が制定(外国人の土地私有が認められる)→ 対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となった(カメハメハ4世の時代)。
1852年、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだという提案がアメリカ議会に提出された。
この時代、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。
1863年、カメハメハ5世即位。
カメハメハ5世は、1864年8月、新しい憲法を公布した(歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカは、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた)。
1860年代は捕鯨業衰退にむかい、製糖業が発展にむかった。南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土にかわってハワイ諸島においてサトウキビ栽培がおおいに拡大した時期。一方白人がもちこんだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減。サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入。
1871年(明治4年),日布修好通商条約締結。
1872年、カメハメハ5世死去(次の王位継承者を指名していなかったので選挙により親米派のルナリロが王位継承(1873年)。(そこ後ルナリロは肺結核とアルコール依存症によって没した)
1874年、カラカウア即位(「国王選挙」の結果)
案映、アメリカと米布互恵条約を締結。→ハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能。ところ、「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれていた。
1881年、カラカウア国王世界一周旅行。明治天皇に会見。
1887年米布互恵条約の更新(アメリカが真珠湾の独占使用権を獲得する条件で)(カラカウア国王は反対であったが、アメリカ上院の姿勢は強硬→ 7年の期限付きでの独占使用の条件で認めた)
1887年「ベイオネット憲法」に採択。→アジア系移民から一切の投票権を奪った。
1891年1月、カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就いた。

*明治天皇との会見で、カラカウアがカイウラニ王女と山階宮定磨王との結婚を要請しただけでなく、他に日本の協力を要請している。それを付記しておく。
1 日本人移民の実現(ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補うこと)
2 日本・ハワイの合邦(ハワイを日本にしたいとの申し出)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現

リリウオカラニ女王とは
リリウオカラニ(1838年9月2日-1917年11月11日)は、ハワイ王国第8代の女王。最後のハワイ王。在位は1891年1月29日から1893年1月17日まで。1862年にアメリカ人のジョン・オーウェン・ドミニスと結婚。彼は後にオアフ島知事になるが、リリウオカラニが即位した7か月後に死去。
豊かな心をもった女性で、詩や作曲をものとしている。『アロハ・オエ』は彼女の作詞・作曲である。

Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)

Ha'aheo ka ua i na pali
Ke nihi a'ela i ka nahele
E hahai ana paha i ka liko
Pua 'ahihi lehua o uka

Aloha 'oe, aloha 'oe
E ke onaona noho i ka lipo
A fond embrace a ho'i a'e au
Until we meet again

山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば 
もう一度 抱きしめて
さようならふるさと

この詩に対してかの有名なブログ「ねずさんのひとりごと」で、ねずさんは以下のような文章を書いておられる。


<かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。ですからフラダンスの父と呼ばれています。

そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。

とてもやさしい、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」なのです。
名曲アロハオエの美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが隠されています。

このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。

そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。

古来、国王というものの多くは、むしろ逆に、国民の命などどうなっても構わないから、国王だけが生き残る、という選択をしています。
これは世界中がそのような歴史にいろどられています。

けれど、国王がむしろ逆に、「我が身はどうなっても構わない。ひとりでも多くの国民の命を守りたい」とご決断されているわけです。

リリウオカラニ女王は、退位し、ハワイ王国は滅亡しました。

日本も、もしかしたら同じ道をたどったかもしれない。
あるいはいま、たどりつつあるようにさえ見えます。
けれど、日本のポツタム宣言受諾のときの天皇のご聖断と、リリウオカラニ女王のときとの違いは、退位があったかなかったによる違いです。
ハワイは、退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからの文化のすべてが失われてしまいました。

日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
いいかえれば、いま私達がこうして生きているのは、天皇の民として生きた先人達の、まさに血の滲むような努力によるものだし、その努力によって、私たちは私たちの国の文化や伝統を、いまだに(かろうじてかもしれないけれど)保つことができています。
そこが大事なとこなのではないかと思います。>


リリウオカラニ女王時代、ハワイ人による王政の強化を求める王政派と、「砂糖貴族」等を中心に、王政を打倒し米国への併合を目指す共和制派の対立が深まっていた。勿論、リリウオカラニは王政派である。彼女の君主絶対の考えが強すぎたために、逆に共和制派に過激な行動に走らせ、結果として王政を潰してしまうことになったと西尾氏は解説している。

ここからどのようにして王政が崩壊ていったかを西尾氏の説明とウィキペディアの記事を織り交ぜながらまとめてみる。

.螢螢Εカラニの指名した閣僚は再三にわたり入閣を拒否して内閣が機能しないという事態に陥った。1892年11月、ようやく組閣のための閣僚承認がなされて政治危機を脱した。
▲螢螢Εカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制とする政策を打ち出したが、これに対しては、アメリカ系白人勢力より道徳的見地からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる(例えば、上院は国王の承認が必要)新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。また新憲法には民衆に選挙権を与える条項もあった(市民権を持っていない白人は参政権を否定されることになる)。
こうした動きに危機感を抱いたのはアメリカ駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスである。サンフォード・ドールらと接触し、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。

*多国籍農業・食品企業ドール・フード・カンパニーの創立者ジェームズ・ドールはサンフォード・ドールの従兄弟にあたる。

1892年春、親米派は「併合クラブ」と称する秘密結社をつくった。中心メンバーは、サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンであった。
1893年1月14日、サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織がつくられ、翌15日、「公安委員会」はホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部で市民集会を開く旨呼びかけた。これに対し、王党派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるべきとの意見をもつアメリカ系閣僚の声もあり、反対集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。反対集会の目的は「リリウオカラニによる新憲法を公布しない」という声明を発表することによって、これ以上の混乱を防止しようというものであった。
Д螢螢Εカラニは宮殿外で待機する群衆に、しばらく憲法の施行延期を発表した。
翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。
この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。
1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に「公安委員会」一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国の終結および暫定政府の樹立が宣言された。ハワイ王国の政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され、戒厳令が布かれた。
ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。
リリウオカラニはスティーブンスに特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。
軍艦ボストンの主砲の照準はイオラニ宮殿に合わせれれていた。宮殿前には、大勢のハワイ市民が集まっていた。スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達は、この状況で女王の身柄を拘束し、王制打倒のクーデターを強行した。

ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還を企図し、徹底抗戦の構えを見せたが、市民が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくないと、退位を決意した。
退位の決意をドールに次のように伝えた。

<私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。 ……(中略)…… 軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。  紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ>

この瞬間、ハワイ王国は滅亡した。危機感を持ったカラカウア大王の来日から僅か12年後のことであった。
案椶呂海里茲Δ淵魯錺い任瞭阿に迅速に対応している。巡洋艦「浪速」と「金剛」を日本から派遣している。ハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で、2万5千の日本人が入植していて、彼等を守るためである。

ここからねずさんの文章を引用させていただく。


「ねすさんのひとりごと」の記事

<2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。

東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず会話も拒み、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。
もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。
けれど、完全な臨戦態勢です。

ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。
両側の日本の巡洋艦の主砲が、ちょっと横を向いただけで、ボストンは沈没を免れないからです。

東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。>


運栃毒匹砲茲襯魯錺せ団蠕府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国などの国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。
しかし、リリウオカラニの抵抗やアメリカ国内における女王支持派の存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法に対する世論の反発などにより、併合は見送られた。


尾形さんのコメント

木庵様

 大著『GHQ焚書図書開封』の解説、ご苦労様です。西尾先生のこの労作は漸く文庫本になり始めていますが、一人でも多くの学生はじめ国民に読んで貰いたいですね。

欧米列強の侵略のあくどさは高山正之先生が、分かりやすく紹介されていますが、このハワイ強奪も近著『アジアの解放、本当は日本軍のお蔭だった』(WAC)の「パターン死の行進はクサイぞ!」の章にもあります。

1893年1月14日、ハワイ王朝のリリオカラニ女王が、高額納税者に限った選挙権を貧しいハワイ島民にも付与する憲法改正を布告した。彼女の布告に対して、ハワイの政治経済を握っていた米国系市民が反発した。女王は、最後の外交文書となった日本に対する不平等条約解消を承認する文書にサインした後、退位を宣言した。

代わって米国人サンフォード・ドールがハワイ共和国の初代大統領に就任した。彼の一族は王領のラナイ島を接収し、今はパイナップル農場を経営する。
 
この時代、世界は白人の遣りたい放題だった。同じ年、英国はビルマの王様を島流しにして英国の植民地にしている。そんな勝手を認めたのが1885年に結ばれたベルリン条約だ。白人国家が第三世界を植民地にする場合、その所有は早い者勝ちとし、海岸線を取った場合はその奥地も優先所有権を持つ、とした。

だから米国がハワイを取っても国際的には何の問題もなかったはずだが、そこに日本が巡洋艦浪速と金剛を派遣してきた。二隻はリリオカラニを脅した米戦艦ボストンを挟むように投錨した。明らかに独立国ハワイ王朝を近づくで奪った米国への非難を示していた。

日本の巡洋艦は、ハワイ共和国樹立の祝砲をドールから求められると浪速の艦長東郷平八郎は「その要を認めず」と拒絶した。「他国の艦船も東郷に倣い、ホノルル港はハワイ王朝の喪に服するように静寂に包まれた」(ジョン・ワイリー、「盗まれた王朝」)。米国は自分が開国させたアジアの小国に大恥をかかされた。

米国は米西戦争の最中の1898年、ハワイを併合した。「脅威・日本」への布陣だった。

などとあります。ご参考まで。
尾形拝


木庵の反応

それにしても東郷平八郎の行動には胸がすく思いがする。近頃の尖閣での日本の対応とは格段の差がある。当時日本は独立国家としての威厳があった。独立国家とは軍隊がしっかりしていないとなりたたない。戦後の平和憲法では自衛隊は東郷のような威厳ある行動などとれない。
つづく


写真:リリオカラニ女王、米軍艦ボストン、巡洋艦浪速

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転載元: 木庵先生の独り言

[転載]武田邦彦「反日日本人・発生の経過と原因」 (3)明治天皇の嘆き(4)日本人は侵略者の白人だけと戦った 「正しい歴史認識」シリーズ You Tube

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-f5-02/tankou_2008/folder/1203591/49/37582149/img_0?20180311133209

<追記> 6月20日
「反日日本人・発生の経路と原因(4)日本人は侵略者の白人だけと戦った」を追加しました。



「正しい歴史認識」シリーズの続編「反日日本人・発生の経路と原因」がUPされていましたので、更新致します。
10分程の音声動画ですが非常に重要な内容ですのでぜひご覧下さい。

下記サイトより転載致します。
  ↓
武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/
反日日本人・発生の経路と原因(3) 明治天皇の嘆き
http://takedanet.com/2013/06/post_b4a9.html
鎮海湾に軍港を作られると日本は植民地になることが決まるので、日本は戦争を決意します(玄関先でドアを叩く強盗と決死の覚悟で戦う決意をした状態)。当時の日本の主要な人の言葉は・・・

明治天皇:「朕は開戦を望まぬ。が、もはやいかんともしがたい。もし敗北した場合、どのようにして祖先に詫び、国民に説明したら良いのか」(苦悩と絶望の中)

伊藤博文:「もし陸軍、海軍が全滅し、ロシアが九州、山陰に上陸してくることになれば、この伊藤、生命、財産、地位、名誉、すべてなげうって一兵卒として鉄砲を担いで戦う覚悟である。」

井上馨(元老):「万が一、高橋是清(日銀副総裁)の外債募集がうまくいかなかったら・・・おおお・・おお・・・」(言葉がでない・・日本滅亡が頭をよぎった)

こんな中、アメリカに仲介を依頼しに行く金子堅太郎、外債発行の高橋是清は決死の覚悟で渡米、渡欧する。陸軍、海軍、首脳、外交、財政のどの一つでも掛けたら日本は滅亡する運命にあった。

まっても植民地、負けても植民地、日本は2000年の歴史の中で最大の危機にみまわれたのだった。これが日露戦争であり、乃木将軍の二○三高知の奮闘、東郷平八郎司令官の日本海海戦に勝ち、ようやく日本は植民地化を免れたのだった。

このことによって日本はアジア、アフリカ諸国とは全く違う「有色人種として唯一の発展した国」になり、その恩恵を私たちは受けている。これを「侵略戦争」という人はいないだろう。でも歴史的事実を韓国が教えいなていないのは仕方が無いとして、反日・日本人は日露戦争の歴史も学校で教えることに反対している。その理由は、日本が正義であったり、苦心惨憺して勝利した記録などは聞きたくない!!という気分なのだろう。

(平成25年6月16日)  武田邦彦



反日日本人・発生の経路と原因(4) 日本人は侵略者の白人だけと戦った
http://takedanet.com/2013/06/post_af73.html
明治以後の日本は大きな戦争を2つ、小さなものを二つ行った。その大きな戦争は日露戦争と大東亜戦争だった。日本が「侵略戦争」をしたという反日日本人の表現が正しければ、まずはこの2つを検討しなければならない

まず日露戦争だが、この前の記事に書いたように日露戦争はロシアの侵略に対して、中国(清)も朝鮮も戦わなかったので、やむを得ず日本が戦った戦争だった。清は軍隊を持っていたが戦わずに満州をロシアに渡し、朝鮮は戦うだけの軍隊を持っていなかった。

教科書裁判で有名で、本人はともかく反日日本人を育てた家永三郎さんは、その著書の中で、

「(日露開戦を決め)天皇は大奥入御の後も御悲しみのためしばらく御言葉がなく御目には御涙をたたえさせられていたと伝えられる」(家永三郎、『新日本史』(1947冨山房))

と記録している。家永三郎さんはその後、反日側に立ったが、記録自体は否定していない。だから、日露戦争は侵略戦争ではなく、自衛戦争であることで誰も異論が無いだろう。

次に、大東亜戦争(太平洋戦争・・太平洋での戦い、第二次世界大戦・・世界全体の呼び名)は、敵将のマッカーサーが「自衛戦争」であると言っている(このシリーズの記事の最初)ので、日本人としては「自衛戦争」で良いと思うが、それでも反論があるかも知れない。

大東亜戦争で日本が戦ったのは、北の方から地域(相手、元々の国)
ソ連 (ロシア、満州、千島、樺太方面:旧清、旧日本領土)
中国 (中国)
フィリピン (アメリカ:旧スペイン、旧フィリピン人)
インドシナ (フランス:旧安南国、ラオス王国、カンボジア王国)
シンガポール (イギリス:旧マラッカ王国)
マレーシア (イギリス:旧マラッカ領土)
インドネシア (オランダ:旧マタラム王国)
ハワイ (アメリカ、旧ハワイ王国)
である。

中国を別にすると日本が戦ったのは「白人による石油などの資源の禁輸措置」に対して「侵略者の白人」を攻撃したのであり、もともとの国の国民を侵略したのではない。

また、朝鮮、台湾と日本が戦ったことはない。従って、日本が「侵略戦争」をしたとするともしかすると中国だけであり(後に中国に対する戦争を解説する)、その他の戦争は反日日本人でも「侵略戦争」とは呼ばないだろう。

もしこれを侵略戦争と呼ぶとすると「侵略者を攻撃すること」を「侵略戦争」と呼ぶことになるが、これは不適切である。

ということで、日露戦争も大東亜戦争も全体としてみれば侵略戦争ではなく、やや疑いがあるのが日中間の戦争だけということになる。この点ではどんな日本人でも、韓国人でも異議はないだろう。

(平成25年6月16日)  武田邦彦



以前の記事はこちら
  ↓
武田邦彦「正しい歴史認識」(1)~(13)中国は白人側で戦った・戦争への坂道 朝日新聞と法令無視の時代へ
http://blogs.yahoo.co.jp/tankou_2008/37508655.html
武田邦彦「正しい歴史認識」(14)~(17)朝鮮は独立したくなかった・満州は中国ではない
http://blogs.yahoo.co.jp/tankou_2008/37530406.html
武田邦彦「反日日本人・発生の経過と原因」(1)開戦を罵倒する日本人 (2)ロシアの侵略
http://blogs.yahoo.co.jp/tankou_2008/37578262.html

こちらのページも更新しました。
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日本を知るコーナー「正しい歴史認識」(音声) 6月20日更新 「反日日本人・発生の経過と原因」 武田教授
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「青山繁晴が答えて、答えて、答える!!」 (2012年 ~ 2013年)
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転載元: 青山繁晴氏のファンサイト・淡交 ブログ

[転載]「ハワイ移民出発の日」

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今日(1月27日)は「ハワイ移民出発の日」
移民条約によるハワイへの移民第1号の船『シティ・オブ・トーキョー号』がハワイへ向けて横浜港を出航したのが1885(明治18)年の今日(1月27日)だったそうである。
ハワイの移民の歴史は、1778年にジェームス・クックを船長とするイギリス船の来航から始まったといえる。その後、外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は、白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎を築き、その資金をもとに、白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一、ハワイ王国を建国する。
1820年 になると、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。また、アメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪がはじまる。ハワイではじめて「産業」として確立されたのがこのプランテーション業といえる。
これによってハワイには莫大な収入がもたらされが、サトウキビプランテーションには 1:広大な土地と、 2:砂糖1ポンドにつき1トンと言われる膨大な水、それに 3:安い大勢の労働力を必須とした。
ハワイ諸島の一般的な傾向として、諸島の北東側は降水量が多く、南西側は降水量が少ないという自然条件があり、サトウキビプランテーションも、当初は降水量の多い、諸島の北東側の土地に開設されていくが、次第に、降水量の少ない、諸島の南西側にも開設されるようになっていった。そのため、水資源を得る為の用水路造りなどの労働力不足を補うために、中国:福建省と広東省から初の移民受け入れを開始したが、アメリカのカリフォルニアで増えすぎた華系移民 排斥運動などの影響から、1865年ごろより、中国人労働者に代えて日本人労働者を導入しようという動きがハワイ政府の中から起きてきた。
一方、近代日本人の海外移民は、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、1868(明治元)年の所謂「元年者」と呼ばれるものが始めてである。これは、1868(明治元)年4月、アメリカ人で、横浜に在住していた貿易商人ヴァン・リードの世話で、ドイツ商社に雇われた男女42人がグアムに移住し、更に、同月、やはり、ヴァン・リードが141人(120人とも153人とも言われている)をハワイに移住させたものでる(週刊朝日百科「日本の歴史」)。しかし、これは、一応、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)な集団移民第1号と言うことになる。この元年者の移民は正式に明治新政府の認めたものでない上に、現地でも最初からトラブル続きなどで色々問題があったようである。明治政府は、この後、20年近く、海外移住を許可していない。
1881(明治14)年 3月 ハワイ王国のカラカウア王が世界一周旅行の途中に訪日。赤坂離宮で明治天皇に謁見し、山階宮定麿親王と自分の姪の結婚を願い出るが断られる。
但し、このとき、同時に日本政府に公認の移民の実現を申し出たことを契機に、やっとハワイへの移民が再開され、 1885(明治18)年の今日(1月27日)、政府公認の第1回移民船『シティ・オブ・トーキョー号』で940人余(927人の説もある由)が横浜を出発した。
このときの移民は、日本・ハワイ王国の政府間で労働条件などを定めた約定書に基づく移民であることから、この移民は「官約移民」と呼ばれている。以後、日清戦争の前年1893(明治26)年まで、この制度の下で約3万人がハワイに労働者として渡航しているという。
日清戦争開戦の年(1894=明治27年)政府は、移民保護規則を交付、移民事業を政府の手から民間移民会社に移した。翌々年の移民保護法交付もあって、40社にも達する移民会社が出来、約4万人もの人が移住したという。これを「契約移民」と言うが、これは、海外への永住をめざした「移民」ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出稼ぎ労働者であり、この時が、ハワイ移民の全盛時代であった。
しかし、ハワイは、1898(明治31)年、アメリカに合併されてしまい、アメリカの契約移民禁止法がハワイにも適用されて移民が困難となる。
外務省が移民会社にハワイ移民停止を言い渡すのは1908(明治41)年で、その年のハワイ在住日本人は、6万6千人いたという。
ハワイへの移民が困難となった後、移民の本流は、アメリカ、カナダに移るが、1907(明治40)年には、日米戦争の危機さえ憂慮されていた。そのために、林董(ただす)外務大臣と駐日大使オブライエンとの間で、一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によってこの年から翌年にかけて自主的制限がされることとなった。にもかかわらず、アメリカでの排日運動は、収拾せず、日本人は土地所有や家族呼び寄せなどもできなくなり、1924(大正13)年の排日条項を含む新移民法の制定で日本人移民は禁止となる。(排日移民法参照)。アメリカ・カナダへの移民が困難になった時に登場したのが、ブラジル移民と朝鮮・満州への移民である。このように、移民には、19世紀末以降、第二次世界大戦後暫くの間迄日本政府が、積極的に関わって行なわれてきた。
移民ではなかなか成功するのは難しい。皆さん凄い苦労をされているが、その中でも、まだ、ハワイへの移民ではそれ以降の移民に比べて成功者が多い方だろう。
(※ハワイ移民の事については、以下参考の中でも「アロハWebかわら版/ハワイ日系移民の歴史」が特に詳しく書いている。興味のある方は参考にされるとよい。)
1941年12月7日(日本時間12月8日) 真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。
しかし、ハワイの日系人は、日本人会会長や僧侶など、日本人社会を代表する一部の人々を除き収容所に収容されなかったという。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと(1898年米国に併合後、1959年正式に、米50番目のハワイ州となる)、アメリカ本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める(人口動勢参照)日系人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようだといわれている。
そして、戦時に際しては、ハワイで生まれ育ち、合衆国の市民権を持つ日系の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで祖国に対する忠誠心を示そうとした。彼らハワイの日系人だけで組織された陸軍第100大隊は、後に本土の日系人部隊と合流し442連隊となり、欧州戦線において多くの犠牲と引き換えに目覚ましい戦果を上げたという。彼らの献身的で勇敢な戦いはすべてのアメリカ人に深い感銘を与え、ハワイのみならず戦後の米国社会における日系人の地位向上に大きく貢献したそうだ。
晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し
別れテープを 笑顔で切れば 
望みはてない 遥かな潮路
ああ あこがれの ハワイ航路♪
石本美由起:作詞、 江口夜詩:作曲「憧れのハワイ航路」戦後、大ヒットした岡 晴夫の歌である。
ここでは、歌詞を見ながら曲が聴けるよ。↓
http://www.tei3roh.com/akogarenohawaikouro.htm
戦後の日本人にとって、ハワイは、憧れの地となった。
ハワイは日系人が多く住んでおり、3世以降の日系人の殆どは日本語が話せないというが、それでも単語のみを知っていることが多いといい、旅行会社などハワイ在住の日本人駐在員も多く、観光地では、日系人以外でも日本語を理解できるものが多いことから、今でも、日本人にとっては人気の観光地である。私も、1度だけであるが、ハワイの観光をしたが、英語が話せなくてもどこでも日本語が通用し、観光やショッピングなどには殆ど支障がなかった。ガイドに聞くと、ハワイでは、日本語ができないと観光などの仕事には就けないといっていた。
気候風土も良いし何度でも行ってみたいところだよね。
(画像は、ハワイ島 NASA撮影。フリー百科事典Wikipediaより)
移民 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB%E6%B0%91
排日移民法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
海外移住資料館
http://www.jomm.jp/index.html
2006年3月号ミクロネシア博物誌 - 幕末の日本人グアム出稼ぎ
http://www.hafadai.net/2006/03/hakubutusi.html
日本人の海外移住略史、1868年-1998年
http://www.janm.org/projects/inrp/japanese/overview_ja.htm
日清戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
アロハWebかわら版/ハワイ日系移民の歴史
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/031106/
日本ハワイ移民資料館
http://www.town.oshima.yamaguchi.jp/hawaii/
ハワイ州 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%B7%9E
日系移民の歴史
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
第100大隊と第442戦闘部隊
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10060/dainyakudaitai.htm
神戸市文書館 神戸歴史年表
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/year/meizi_23_26.html

ネット仲間よーさんより拝借
広島はハワイへ移民が多いです。
私のお爺さんもハワイへ移民しておりました。

転載元: 風来坊 のブラリ散策


[転載]秘話:ハワイの日本人(6)「元年者の労働」

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元年者の労働

一日12時間にも及ぶ重労働が待っていた。

当時の日本の習慣には無かった厳しい労働に、
元年者たちは当然ながら島の生活を楽しいとは思わなかった。
焼け付くような強い日差しのハワイ風土。
英語が理解できず、命令に従わないとか仕事を途中で中断したなどの事由で
牛のように鞭で叩かれた。

僅か10分程度の遅刻でも日給の1/4が容赦なく差し引かれ、
休んだ場合には2日分の日給が無造作に棒引きされた為に、
重病でも無い限り仕事は休めなかった。

しかも物価は高くて給料は安かった為に貯蓄さえできなかった。


元年者がハワイへ到着した日からおよそ1年が過ぎたある日
、このような日本人虐待のうわさが日本にも伝わって、
実態調査の為に日本政府は上野蔭典をハワイへ派遣しているが、
農園で働く労働者から直接事情聴取した事実はうわさ通りであった。

このために上野は、「元年者たちは明治天皇の許可を得ず不法にハワイに連れて来られている」ので
即刻日本へ帰国させるようにとハワイ王朝へ強く抗議しているが、カメハメハ大王政府はこれに対し、
労働者が逼迫(ひっぱく)していたこともあって、あたふたと日本人労働者への待遇改善を保証し、
150名の元年者のうちハワイで働くことを嫌がった40名の帰国を許可した。


3年間の労働契約期間が過ぎた1871年には、さらに13名以上がハワイを去っていったが、
残りのおよそ90名はハワイ滞在の延長を望み、明治政府にビザの発行を申請している。


日本人を労働者として初めてハワイへ移民させた「元年者」の企画は、農園主も労働者も、
双方が求めていたそれぞれの理想には十分に達しないまま、
次の日本人労働者を乗せた貨物船がハワイに到着するまでに13年間の歳月が流れていた。


「おかげさまで:ハワイの日本人」より

転載元: ブログって、本当にいいですね!『今芽旬』

[転載]クアラルンプールのマレーシア国立博物館へ行ったら白人のアジア侵略が良くわかった。マラッカの建設を学ぶ Bギャラリー

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マラッカの建設

14世紀末から15世紀初頭にかけてマジャパヒト王国で起きた内戦(パルグルグ戦争)に巻き込まれたスマトラ島南部パレンバンのシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが、従者を伴ってマレー半島に逃れたのが王国の起源である[7]

当初一行はトゥマシク(シンガプラ、現在のシンガポール)に逃れたがトゥマシクは海賊たちが跋扈する危険な地であり[5]、またタイのアユタヤ朝からの攻撃に晒されたため[8]にマレー半島を移動し、15世紀初頭にパレンバン、シンガプラなどに居住する「オラン・スラット」(またはバジャウ)と呼ばれる[9]マラッカ海峡の海上民の協力を得て村落を造り[10]、集落を「マラッカ」と名付けてパラメスワラが王となった。

建国の時期は1402年と推定されることが多いが、14世紀末にすでに王国が成立していた可能性を指摘する声もある[11]

マラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始める。パラメスワラの子イスカンダル・シャーはマレー半島におけるマラッカ王国の支配領域を拡大し、マラッカ海峡の交易路を確保するために北スマトラの東海岸に存在するサムドラ・パサイ王国に目を付けるが[12]、当時のマラッカの軍事力はパサイに比べて劣っていた。ピレスによると、イスカンダル・シャーは戦争という手段に訴えず婚姻関係を作る道を選択し[12]、72歳という高齢にもかかわらずパサイの王女を娶った[13][注釈 2][注釈 3]。パサイの仲介によって敵対していたマジャパヒトとの関係が良化し、またパサイに住むイスラム教徒のマラッカへの移住も始まった[16]。イスカンダル・シャーは周辺地域の海賊、漁師にマラッカへの移住を積極的に勧め、彼の治世の3年目(1416年 - 1417年ごろ)には人口は2000から6000人に到達した[17]


マラッカの発展にはパラメスワラが連れてきたシュリーヴィジャヤの貴族と海上民以外に、明が実施した私貿易の禁止によって東南アジア各地に留まらざるを得なくなった中国人のコミュニティも寄与していた[18]。彼らは明への朝貢貿易を組織し、また中国の造船技術と東南アジア島嶼部本来の造船技術が合わさったジャンク船を建造して海洋交易で活躍したのである[19]

繁栄

1445年スリ・パラメスワラ・デワ・シャーが明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服、朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える。

1446年に即位したムザッファル・シャーの治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた[22]。ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった[23]

次のスルタン・マンスールの治世にマラッカ王国は繁栄期を迎える[24]。ムザッファルの遺言でラジャ・プテがマンスールの後見人を任せられるが、成人したマンスールは王と並ぶ権威を持つラジャ・プテを暗殺して統治者としての地位を確立する[25]。ラジャ・プテの殺害を不服として反乱を起こしたパハン、カンパル、インドラギリを再征服し[26]、ロカンを従属させた後[24]、これらの国からを貢納品として受け取り、また婚姻関係を築いて各国間との仲をより緊密にした[27]

第7代スルタン・アラウッディン・リアト・シャーの治世にマラッカの勢力圏にあった港市国家の再独立が始まる。マンスール・シャーの治世以前に従属させた港市国家は交易において自立性を保ちつつもマラッカの支配を受け入れていたが[28]、それらの勢力が王国の従属下から脱していったのである[29]。アラウッディンの治世は短く、彼はメッカ巡礼の準備中に病死した[30]

16世紀のポルトガル人コメンタリオスはアラウッディンの死因について、彼がパハン、インドラギリの王を強引にメッカ巡礼に同行させようとしたために毒殺された説を伝える[30]
その子マームド・シャーは幼くしてスルタンに擁立され、支配領域はマレー半島の一部に限られていたが[29]、叔父であるパハン王やブンダハラら有能な後見人に支えられ[31]、 交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。




14世紀末にマラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島にまたがる地域に成立したイスラーム教国。港市国家としてインド洋・南シナ海の海上交易で栄えた。
マラッカ王国
http://www.y-history.net/map/0503/malacca.gif
マラッカ王国の範囲
<永積昭『アジアの多島海』世界の歴史13 1977 講談社 p.121>
 マラッカはマレー半島マの南西部の海港としてインド洋と南シナ海を結ぶ海の道の要衝であった。建国神話(『マラヤ編年記』)によると、その始祖はアレクサンドロス大王の血を引いており、その国は「黄金の国(スヴァルナプーミ)」といわれ、はじめスマトラ島のパレンバンにあったが、シンガポール島を経てマレー半島のマラッカに移り、14世紀末に王国を築いたという。マラッカ王国はマレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、マラッカ海峡に面した港市国家として繁栄した。
イスラーム化と官僚制国家 マラッカ王国は海洋民族を従えながら、イスラーム教に改宗し、国王はスルタン(サルタン)として統治した。スルタンの下に、世襲の最高司令官(ブンダハラ)と大蔵大臣、侍大将、警察長官にあたる官僚制が形成され、多くの港市の外来商人や原住民の部族村落が管理されていた。
中国への朝貢 マラッカ国王は明に対して朝貢を行い、永楽帝からマラッカ国王に封じられ、印章と勅語を受けている。中国史料には「満刺加」として出てくる。また1405年に始まった、永楽帝による鄭和のインド洋への派遣では、鄭和艦隊はマラッカ海峡を経てインドへの進出をはかり、マラッカに寄港している。マラッカ王国も鄭和の来航を期に急成長し、ジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト朝と対抗してその商業活動を抑え込み、インド洋と南シナ海の中継貿易を行い、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄した。
マラッカ王国の交易品 この地はまたムスリム商人の東アジア進出の拠点として海上貿易で大いに繁栄した。マラッカには三方の地域から物産が集まった。西方インドからは、綿織物・アヘンが、東方中国からは陶磁器・絹織物・武器などがもたらされ、現地東南アジアからは香料・象牙・白檀・獣皮・樹脂・金・スズ・銅・硫黄・真珠母・貝・鼈甲・さんごなどの特産品がインドと中国に輸出された。特にモルッカ諸島の丁子などの香辛料は珍重されていた。また琉球王国の商人も姿を現していた。ポルトガルなどのヨーロッパの商人が登場する以前に、このような広範囲で活発な交易が行われていたことは十分に認識しておく必要がある。

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光

[転載]歴史ある街 マラッカ

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日本で言えば、京都みたいなものでしょうか?!
歴史建造物が立ち並び、地元の人々の観光地でもあります。

マラッカへは、KL(クアラルンプール)から、バスで2~3時間で行けます。
列車は時間がかかる上、タンピン駅でバスかタクシーに乗り継がないといけないので面倒です。

転載元: もっと海外のことを知ろう!

[転載]マラッカ

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4a-b4/naruskywave650/folder/1196236/77/30383777/img_0?20130711153140

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-4a-b4/naruskywave650/folder/1196236/77/30383777/img_1?20130711153140

海のシルクロードを支えた 古都 マラッカ

街は重層的な歴史遺産が残り エキゾチックな雰囲気を醸し出しています

マラッカ海峡に沈む 夕陽が素敵です

プロテスタント教会、そして、セントポール教会の写真です

転載元: ナルちゃんの旅♪

[転載]クタム(カニ島)

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島の名前の通り、カニや海老漁をしている漁師さんたちの島です。

美味しいカニや海老がたっぷり食べれますよ。

日本人はあまり行かないので、街の奥のほうまで行くとジロジロ珍しそうに見られます。

水上住宅なんて日本じゃ見ることできませんので、世界ウルルンのレポーターの気分になれます。

自転車にエンジンを付けた、自家製アシスト自転車がたくさん走ってます。

ただでさえ物価の安いマレーシアですが、ここの島はさらに安く気に入ったものがあればラッキー。

宿泊はしたことありませんが、桟橋を渡った所に旅館があります。

一つ気をつけたいのは、野犬が多いことです。ゴミを餌に増えてるようです。


《行き方》

KTMコミューターでKL駅からポート・クラン駅へ行きます。

駅前の通りを渡れば、港がありますので、クタム島行きの船に乗り込みます。

乗船料金(約RM5.3)は、船の中で支払います。

船のトイレは汚いので着くまで我慢するか、ポート・クラン駅で済ませましょう。

転載元: もっと海外のことを知ろう!

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