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キューバの旅 Cuba Picutre by Masahiro

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Cuba Picutre by Masahiro




2018年 キューバで絶対外さない観光スポット 10選 【定番 …

キューバ(カリブ諸島)で観光するならトリップアドバイザーで口コミ、写真、ランキングをチェック!キューバにある630 件の観光名所を、213,427 件の口コミ、写真を地図と共にご紹介しています。

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キューバ   

キューバ共和国
República de Cuba
キューバの国旗キューバの国章
国旗国章
国の標語:Patria y Libertad
(スペイン語:祖国と自由)
国歌バヤモの歌
キューバの位置
公用語首都最大の都市独立
 - 日付通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
スペイン語
ハバナ
ハバナ
政府
党第一書記国家評議会議長閣僚評議会議長評議会第一副議長国会議長
ラウル・カストロ
ラウル・カストロ
国家評議会議長が兼務
ミゲル・ディアス=カネル
エステバン・ラソ・エルナンデス
面積
総計 水面積率
110,860km2103位
極僅か
人口
総計(2009年人口密度
11,239,363人(75位
102人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年
xxx,xxxキューバ・ペソ
GDP (MER)
合計(2008年
551億[1]ドル(69位
GDP (PPP)
合計(2008年) 1人あたり
1,082億[1]ドル(62位
9,500[1]ドル
アメリカ軍軍政より
1902年
キューバ・ペソ
UTC -5(DST:-4)
CU / CUB
.cu
53
キューバ共和国(キューバきょうわこく、西: República de Cuba)、カリブ海大アンティル諸島西インド諸島の一部)に位置する、ラテンアメリカ共和制国家である。首都はハバナ

キューバ本島とその周辺の島嶼からなる島国ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島ハイチドミニカ共和国が、南には英領ケイマン諸島ジャマイカが存在する。西はユカタン海峡を挟んでメキシコユカタン半島と、北はフロリダ海峡を隔てて北に145km先のアメリカ合衆国フロリダ州フロリダ半島)と向かい合う。北東にはバハマや英領タークス・カイコス諸島が存在する。

フィリピンルソン島ほどの面積を持つ島国で、地理的には北アメリカに含まれ、広義の中央アメリカにも含まれる。南北アメリカ大陸間、及びラテンアメリカとヨーロッパを結ぶ要路に位置している。アメリカ合衆国とは「アメリカ合衆国の裏庭」とも呼ばれるほど関りが深かったが、キューバ革命により、南北アメリカ大陸で初めて反米・親ソ連社会主義政権が1959年に成立。その後は「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。

歴史

先コロンブス期

ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。

スペイン植民地時代

1591年のキューバとフロリダ半島の地図。

1492年10月27日、キューバ島はクリストファー・コロンブスの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンブスによって「インディオ」(インド人)と呼ばれた。インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。

スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにした。インディオの悲劇とは別に、キューバはスペイン中南米の中継地点として著しく発展を遂げた。ハバナは、メキシコ市リマに続くスペイン領アメリカ植民地第三の都市となり、大学要塞が建設された。

19世紀初め、シモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピンプエルトリコなどと共にわずかに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、キューバの駐留スペイン軍を強化した。

また、隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、ひどい混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。

その後、サン=ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると、砂糖に加えて葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルドミニカ共和国にもあった)。

独立戦争(1868年 - 1902年)

「青銅の巨人」アントニオ・マセオ将軍。マセオ将軍はムラートだったが、巧みな戦術により白人も含めた多くのキューバ人の指導者となった
19世紀のラテンアメリカが生んだ人物の中で最も優れた人物の一人として知られる、キューバ独立の父ホセ・マルティ
キューバ独立の父ホセ・マルティ。

最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年余りにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。しかし、ムラートアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。

1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。

旧共和政時代(1902年 - 1959年)

1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピングアムプエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。 

1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成した。400年に及ぶスペイン支配から解放されかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法の制定に際して、アメリカ合衆国議会プラット修正条項(Platt Amendment)を要求した。これにより、キューバはアメリカの内政干渉権を認め、グァンタナモバイア・オンダの2カ所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となった。なおアメリカは1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍基地を置き続けている。

「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、早くも1906年に反乱として表面化し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に置かれた。反乱は1912年、1916年にも発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。



[転載]福島県大熊町の「農業用ため池」で最高105万ベクレルの放射性セシウム汚染!

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 この数字に唖然としました!
もう、未知の世界です。
 
ベストアンドワーストから転載です。
 
■環境省の調査で判明
2013年1月10日、環境省は「福島県内の公共用水域における放射性物質モニタリングの測定結果」を発表した。



調査は福島県内の公共用水域における環境基準点等217地点(河川:123地点、湖沼・水源地:82地点、沿岸:12地点) を対象に放射性セシウム濃度を調査したものである。



1キログラム当たり1000ベクレルを超える時点は前回に比べ減少していることが判明した。

しかし、まだまだ放射性セシウム濃度の高い地点は存在する。

■最高105万ベクレルの放射性セシウム汚染
今回の調査で最高の放射性セシウム濃度を記録したのは、福島県大熊町の「鈴内4(農業用ため池)」周辺土壌から検出された1キログラム当たり105万ベクレルとなっている。



各地点の放射性セシウムの最高値は以下のようになる。

水質からは河川、湖沼・水源地とも放射性セシウムは検出されていない。

底質」については以下の順位となる。
河川
1位:高瀬川・慶応橋(浪江町)17,400ベクレル
2位:前田川・中浜橋(浪江町)13,100ベクレル
3位:太田川・益田橋(南相馬市)12,500ベクレル


湖沼・水源地
1位:沢入第1(農業用ため池)(双葉町)780,000ベクレル
2位:横川ダム貯水池(南相馬市)125,000ベクレル
3位:岩部ダム貯水池(飯舘村)123,000ベクレル


周辺環境」については以下の順位となる。
河川
1位:熊川・三熊橋右岸(大熊町)151,000ベクレル
2位:請戸川・室原橋左岸(浪江町)78,000ベクレル
3位:前田川・国道6号線西側左岸(双葉町)52,000ベクレル


湖沼・水源地
1位:鈴内4(農業用ため池)(大熊町)1,050,000ベクレル
2位:沢入第1(農業用ため池)(双葉町)193,000ベクレル
3位:大柿ダム(浪江町)145,000ベクレル



同じ場所でも採取日によって放射性セシウム濃度は若干のバラつきが見られている。

尚、環境省では今後も調査を継続していくとしている。

naka773

http://www.best-worst.net/images/bar_link.png

環境省 報道発表資料-平成25年1月10日-福島県内の公共用水域における放射性物質モニタリングの測定結果について
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=16176

転載元: 北区子どもを放射線から守る会のブログ

[転載]福島原発周辺のダム底に高濃度セシウム──国土と郷土の将来、子どもたちの未来を考えたら「そっとしておく」と放置したままにすることは許されない

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引き続き福島第一原発事故による放射能汚染に関して。
 
「毎日新聞」25日付の1面トップに「ダム底 高濃度セシウム 福島第1周辺 10ヵ所8000ベクレル超」と題した記事があった。
 
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福島第1原発周辺の飲料用や農業用の大規模ダムの底に、森林から川を伝って流入した放射性セシウムが濃縮され、高濃度でたまり続けていることが環境省の調査で分かったという。
 
同省は原発事故半年後の2011年9月から、除染されない森林からの放射性物質の移動を把握するためダムや下流の河川などのモニタリング調査を開始し、岩手から東京までの9都県のダム73カ所で1カ所ずつ数カ月に1回程度、観測しているそうだ。

このうち50キロ圏内の10カ所のダムで指定廃棄物となる基準(1キロ当たり8000ベクレル超)を超えている。
底土表層濃度の11~15年度の平均値が指定廃棄物の基準を超えるダムは、いずれも福島県内の10カ所で、高い順に次のようになる。
 
◆岩部(がんべ)ダム(飯舘村)1キロ当たり6万4439ベクレル
◆横川ダム(南相馬市)同2万7533ベクレル
◆真野ダム(飯舘村)同2万6859ベクレル
──など。ただ、表層の水は各ダムとも1リットル当たり1~2ベクレルで、飲料水基準の同10ベクレルを下回る。
 
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なお、同省の調査ではダム底に堆積(たいせき)したセシウム総量は不明だが、10ダムのうち福島県浪江町の農業用「大柿ダム」で、農林水産省東北農政局が13年12月、総量を独自調査。ダム底の110カ所から抜き取った堆積土の数値をもとに10メートル四方ごとの堆積量を試算したところ、セシウム134と137の総量は推定値で約8兆ベクレルになったという。
 
同省によれば、ダムの水の放射線量は「人の健康に影響を与えるレベルではない」と、またも従来の答弁を繰り返している。同省は「ダムに閉じ込めておくのが現時点の最善策。しゅんせつすれば巻き上がって下流を汚染する恐れがある」として、除染せずに監視を続ける方針だという。
しかし、専門家からは「将来のリスクに備えて対策を検討すべきだ」と指摘する声もある。
 
さらに同「毎日」の3面「クローズアップ2016」の特集。
 
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「ダム底 高濃度セシウムたまる汚染 募る不安  国『放置が最善』/地元『決壊したらどうする』」と題して、リードで「東京電力福島第1原発周辺のダムに放射性セシウムがたまり続け、実質的に『濃縮貯蔵施設』となっている。有効な手立ては見当たらず、国は『水は安全』と静観の構えだ。だが、福島県の被災地住民には問題の先送りとしか映らない。原発事故がもたらした先の見えない課題がまた一つ明らかになった。」と書いている。
 
そして「このままそっとしておく方がいいのです」という環境省の担当者の言葉を、はたしてそうなのか検証している。
 
国が除染などを行うことを定めた「放射性物質汚染対処特別措置法」(2011年8月成立)に基づく基本方針では「人の健康の保護の観点から」必要な地域を除染すると規定しているが、ダムに高濃度のセシウムがたまっていても健康被害の恐れが差し迫っていない限り、「法的に問題ない」というのが環境省の見解だという。さらに、なんと、「ダムが水不足で干上がった場合は周囲に人が近づかないようにすればいい。もし除染するとなったら作業期間中の代替の水源の確保はどうするのか。現状では除染する方が影響が大きい」と担当者は説明しているのだそうだ。
こうした国の姿勢に地元からは、反発の声があがる。
 
政府が来年春に避難指示区域の一部を解除する浪江町のふるさと再生課の男性職員は「環境省はダムの水や周囲をモニタリングして監視するとしか言わない。『何かあれば対応します』と言うが、ダムが壊れたらどうするのかと聞いても答えはない。町民に対して環境省と同じ回答しかできないのがつらい」とため息をつく。
 
農業用ダム「大柿ダム」では農水省の調査でセシウムの堆積総量が約8兆ベクレルと推定(13年12月時点)されているが、町の男性職員は「いくら水が安全だと言われても、ダム底にセシウムがたまったままで消費者が浪江産の農産物を手に取るだろうか」と風評被害への懸念を口にする。
 
同町から福島県いわき市に避難中の野菜農家の男性(57)は「国は安全だと強調するばかりで抜本的な解決策を検討する姿勢が見えない。これでは安心して帰還できないし、農業の再開も難しい」と憤りを隠さない。
 
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ここからは私見。
 
セシウムは、種類にもよるが、一般的にナトリウム・カリウムの仲間(アルカリ金属)で、水に溶けやすい性質があり、ダム底の泥によっても、放射性セシウムは、砂よりも粒径の小さい泥(シルトや粘土)に吸着し高濃度を呈する性質があるという。また、その蓄積の深さ、湖への流入部か、湖心か、下流域かという水の流れによっても蓄積する量が大きく変わるという。それらの関係でどうなのか。
 
湖底に泥と一緒にたまっている放射性セシウムが、どのように作用するのか。プランクトンや、それを食べる魚やダム湖の生物たち、そしてそれを食べる鳥など、生態系にどんな影響を及ぼすのか。環境省は「ダムに閉じ込めておくのが現時点の最善策」しているが、閉じ込められた中には生物はいないのか。
 
また、各地で巨大台風や記録的豪雨が当たり前のように襲う昨今、ダムの放流などで、攪拌されたり、下流に流れたりすることでの危険性はないのか。
 
すでにダムの水が、湖水表面の水とはいえ、農業用水として日常的に使われているところもある。放射性物質の検査をしているとはいえ問題は本当になのか。


この記事の前に書いた甲状腺検査でもそうだが、政府とその関係機関は、難しい問題になると、特に先の見えない放射能汚染問題については、自分たちがやっているうちは頭の上を通り過ぎてくれるのを待って、なるべく「表に出ないように」「騒ぎにならないように」ということばかり考えていて、将来に向けての抜本的対策を避けている気がしてならない。
この人たちの頭には「今の自分」しかなく、日本の国土、郷土の将来、とりわけ、放射能汚染の影響をもっとも受けやすい子どもたちの将来・未来のことを第一に考える思考、想像力がないのではないだろうか。
 
記事の中で、山田国広・京都精華大学名誉教授(環境学)は次のように指摘したいる。
「ダムは放射性物質を厳重に保管する構造物ではない。国は底にたまったセシウムの全体像を把握し、示すべきだ」
 
正論だと思う。
子どもたちの将来のためにも、「そっとしておく」と放置するのでなく、今後、国の責任でしっかりと調査してもらいたい
 
 
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転載元: TABIBITO

子供・家族写真

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【大阪】家族写真と和装前撮りの撮影! | 結婚式の写真撮影 ウェディング ...

https://www.ms-pix.com› 結婚式カメラマン寺川昌宏のブログ
大阪で結婚式の和装前撮りと長崎からお越しのご家族と一緒に家族写真の撮影をしたカメラマンのブログ。結婚式より簡単でお手軽な前撮りの流れをご紹介。結婚準備中のプレ花嫁の方々必見の記事です。

子供・家族写真フォトグラファーへ | 結婚式・前撮りの写真撮影 ウェディング ...

結婚式カメラマンとして任命くださった皆様へ. こんにちは。カメラマンの寺川昌宏です。 ようやく、MS Photographyとして屋号を立ち上げて日本全国、沢山の結婚式を担当させていただきました。 思い返せば、どの結婚式も素晴らしく、またカメラマンとしてMS Photography寺川昌宏を信じ切ってくださる方々に本当に感謝です。 gallery-93. 撮影をさせていただいた本当の恩返しがしたい. この感謝を、また違った気持ちでお返しできないだろうか?と考えます。 カメラマンや写真家というのは、やはり被写体の方、あるいは撮影 ...

淡路島 子供写真・家族写真のロケーションフォト | ウェディングカメラマン ...

淡路島 子供写真・家族写真のロケーションフォト | ウェディングカメラマン 寺川昌宏 結婚式・前撮りの写真撮影(ブライダルフォト)

カメラマン 寺川 昌宏 on Twitter: "【お知らせ】 「家族写真はじめました ...

2016/10/05 - カメラマン 寺川昌宏 · @masahiropicture. 日々の暮らしや節目を綴る写真家です。日本全国で結婚式・前撮り・家族写真の撮影をしています。音楽と旅が大好きです。撮影のご依頼はお気軽にWebサイトまで(^^)b. 日本 大阪. ms-pix.com. Joined March 2012 ...

カメラマン 寺川 昌宏 on Twitter: "2017_0814 和歌山県にて 家族写真 ...

2017/08/14 - カメラマン 寺川昌宏 · @masahiropicture. 日本全国で結婚式・前撮り・家族写真の撮影をしています。世界中を旅しながら人物写真を撮ったり、アーティスト写真まで。撮影のご依頼・ご相談はWebサイトまで(^^)b お気軽にフォロー、ご連絡くださいね♪. 日本 大阪. ms-pix.com. Joined March 2012 ...

カメラマン 寺川 昌宏 on Twitter: "2017_0806 大阪 堺市で家族写真の撮影 ...

2017/08/06 - カメラマン 寺川昌宏 · @masahiropicture. 日本全国で結婚式・前撮り・家族写真の撮影をしています。世界中を旅しながら人物写真を撮ったり、アーティスト写真まで。撮影のご依頼・ご相談はWebサイトまで(^^)b お気軽にフォロー、ご連絡くださいね♪. 日本 大阪. ms-pix.com. Joined March 2012 ...

【大阪】家族写真と和装前撮りの撮影! | 結婚式の写真撮影 ... - Pinterest

ぜひ、寺川さんに写真を撮っていただきたく、ご連絡致しました。 式を挙げることが決まったところなので、大まかな流れしか決まっておりませんが、今から決めていくつもりです。 愛知県と、遠方ですが、寺川さんのご予定など伺いたいと思います。 どうぞ、よろしくお願いいたします。 昨年撮影の新郎さまのお姉さまからのご依頼でした! そういえば昨年、大阪で結婚式と前撮りを両方撮影させていただいたカップルのお姉さまが今回ご結婚とのこと。 カメラマンとしてご家族に携わりつづけていること、ほんと今回たまたま ...

ご家族と子供写真の撮影はじめました | 結婚式の写真撮影 ウェディング ...

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大阪のドッグカフェで家族写真のプライベート撮影 | 結婚式の写真撮影 ...

大阪のドッグカフェで家族写真のプライベート撮影 | 結婚式の写真撮影 ウェディングカメラマン寺川昌宏(ブライダルフォト)

[転載]隠岐郷土館で竹島の石をみることができます 隠岐から竹島を見る

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隠岐の島町紹介ビデオ




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竹島の石

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竹島の石説明書


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海驢(アシカ)漁業許可証



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写真がたくさんあります



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仮設住宅も建てていました

皆様の話題つくりや竹島応援にお菓子を食べちゃおうっ!

2月22日は #竹島の日であるが竹島の行政区である島根県隠岐の島町に12個入り840円の「竹島ものがたり」という竹島の形をしたまんじゅうが販売されている。ミニ日の丸付が1本入っており、観光協会で売れ行きNO1とのこと。美味しかった。



先日は,隠岐自然館にお立ち寄りいただきまして
ありがとうございました。
大変遅くなりましたが、ご質問の件についてお調べ致しましたのでお答えします。

①黒曜石の分布(特に朝鮮半島)について
佐賀県伊万里越岳の黒曜石が朝鮮半島に運ばれています。

朝鮮半島から出たヒスイの勾玉を蛍光ⅹ線で分析すると日本産のもので作ったことが分かるそうです。ヒスイの勾玉を日本産のもので作っているということは、日本の文化が朝鮮半島にも流れていたことがうかがえます。

前方後円墳は、朝鮮半島の南部で多数見つかっています。
前方後円墳は、大和を象徴する古墳です。
よって朝鮮半島には、弥生、古墳時代の日本人が多数移り住んでいたと思われます。

②隠岐の火山灰の分布について
鹿児島の姶良火山の火山灰は隠岐でも多数確認されています。

以上です。
参考になれば幸いです。

隠岐自然館

転載元: 島根県竹島の真実を学ぶ

[転載]隠岐 郷土館 竹島資料 写真

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大正時代:隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎の後継者である橋岡忠重は、伯父の八幡長四郎、従兄の池田幸一と竹島出漁を毎年繰り返している[125]
1935年昭和10年):隠岐五箇村の橋岡忠重が竹島の石を持ち帰り、義甥の脇田茂氏に贈る[126]
1939年昭和14年)4月24日:行政区画につき五箇村議会が竹島を同村へ編入することを決議。


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転載元: 韓国に行くかもしれません

[転載]隠岐郷土館で隠岐の歴史年表を学びましょう

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隠岐の歴史・文化に触れる=後鳥羽上皇ゆかりの地、由緒ある神社、竹島の記録


独自の生態系などが評価され2013年9月、国内では6件目となる世界ジオパークに認定された隠岐諸島。かつては山陰道に属した令制国、隠岐国(おきのくに)が置かれ、鎌倉時代には後鳥羽上皇が配流された歴史を持つ。同諸島の一つである竹島は、韓国が実効支配する前、隠岐漁師の豊かな漁場であった。数々の由緒ある神社、国の重要文化財などが存在し、この地特有の歴史や文化に各所で触れることができる。
 隠岐諸島で最大の島である島後の「水若酢神社」は、隠岐国で最も社格の高い一ノ宮。強い力を持つ神を祭る神社「名神大」とされている。国の重要文化財に指定されている本殿は隠岐地方独特の建築様式「隠岐造り」。入り口が屋根の棟と直角に面した妻入りで、正面にだけ設けられたひさしに特徴がある。同神社のそばには、明治時代の郡役所を移築し活用した博物館「隠岐郷土館」が設けられ、かつて使用されていた土器、農耕器具など県の民俗文化財が展示されている。郷土館には、隠岐諸島の一つ、竹島に関するコーナーも設置され、隠岐の漁師が海産物を取っていたころに撮影した島の写真や持ち帰った石など貴重な資料、記録が並んでいる。
 水若酢神社から車で20分ほど行くと、隠岐国の神々を祭る総社「玉若酢命神社」がある。境内には、樹齢二千年を超える「八百杉」がそびえ立つ。同神社に隣接する「億家住宅」は、隠岐地方の代表的な古民家で、国の重要文化財となっている。1801年に建てられ、今も億家の人が暮らし、一部は神社の社務所として使用。敷地内の宝物殿には、奈良時代の役人が身分を証明するために用いた「駅鈴」など数々の重要文化財が展示されている。
 配流の島として長い歴史を持つ隠岐諸島。承久の乱で敗北した後鳥羽上皇、元弘の乱で捕らえられた後醍醐天皇など、謀反人、政治犯などが明治の流刑が終わるまでに2000人以上が流されてきたという。島前・中ノ島の勝田山は、後鳥羽上皇が60歳で崩御するまで19年間過ごしたとされる源福寺の跡地、遺灰を納めた「後鳥羽上皇御火葬塚」、上皇を祭る「隠岐神社」などがあり、上皇ゆかり地となっている。

映像素材の購入はこちらから https://www2.jiji.com/f/enq/form.php?...




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隠岐の歴史

   
隠岐の歴史(おきのれきし)。日本海に浮かぶ隠岐諸島は古代には隠岐国として自立的な地域を形成し、また遠流の国としても知られた。近代には島根県隠岐郡となったが、戦後は過疎化が進んでいる。佐々木家住宅や隠岐郷土館には、隠岐の歴史に関する展示物を見ることができる。


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先史・古代

隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が[1]、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。

サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。

大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた[2]。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。

 隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。億岐家宝物館には国の重要文化財に指定されている駅鈴が展示されている。

億岐家宝物館の駅鈴
日本海の離島隠岐は古代から渤海新羅との交渉も記録されている。763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。

日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。

『和名類聚抄』の郡郷

和名類聚抄』によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
  • 知夫郡知夫里島及び西ノ島
    • 宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷
  • 海部郡 中ノ島
    • 布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷
  • 周吉郡 隠岐島後(どうご)南部
    • 賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
  • 穏地郡 隠岐島後北部
    • 都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷
の各郷である。穏地郡は古い時代には役道郡と呼ばれていた。

延喜式内社

延喜式神名帳』に見える隠岐国式内社は16座15社あり、名神大社は以下の4社。
僻遠の地にもかかわらず名神大社が多いのは新羅に近いため、国防上の見地から朝廷の尊崇を受けたためとされる。 このほか周吉郡(隠岐の島町西郷地区下西)の式内社玉若酢命神社は国府所在地にあり、隠岐惣社とされる。




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中世

建久4年(1193年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久3年(1221年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、19年間配所で過ごし、元弘2年(1332年)には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する。

国府尾城
(甲ノ尾城、隠岐の島町)
室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。


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近世

慶長5年(1600年)、堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となるが、寛永11年(1634年)から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高に替わる。寛永15年(1638年)には松平直政が出雲に入り、以後の隠岐は幕府の天領(松江藩の預かり地)となった。幕府から統治を委託された松江藩は西郷に陣屋を置き、郡代に総括させ、島前と島後にそれぞれ代官を派遣して行政に当たらせた。隠岐の総石高は1万8000石とされたが、実高は1万2000石ほどであった。

島後の西郷港は18世紀から北前船の風待ち、補給港として賑わうようになった。これは隠岐島後が能登から下関あるいは博多に直行する沖乗りのコースに当たったためである。西郷港には船宿を兼ねた問屋が置かれ、自ら回船業を営む者もあった。この頃、西ノ島の焼火神社が海上安全の神様として北前船の信仰を集めた。北前船は安来の鉄や米を日本海一帯に供給する機能があったため、その後も隠岐~美保関~安来間の航路が存在し、航路廃止になった現在でも安来市には北前船の流れを汲む隠岐汽船の支社が存在する。

1836年(天保7年)に建てられた代々庄屋職である佐々木家の住宅が、現隠岐の島町東郷に建てられた。

隠岐の佐々木家住宅

明治元年(1868年)、隠岐騒動が起こり、神官と庄屋の正義党が松江藩隠岐郡代を追放し、王政復古で隠岐は朝廷御料になったと宣言して自治を行った。松江藩は隠岐に出兵して一時隠岐を奪回するが、まもなく鳥取藩が仲介して松江藩兵は撤退、自治が復活した。明治新政府は一時隠岐を鳥取藩に預ける。




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隠岐騒動(おきそうどう)は、明治元年(1868年)に江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった、松江藩と隠岐島住民の一連の騒動。雲藩騒動ともいわれる。

騒動までの経緯

寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、隠岐は松江藩の預かり地となっていた。江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが、松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。
嘉永5年(1853年)の黒船来航以来、黒船日本近海への出没が頻繁に発生し、松江藩は幕府から隠岐国の防御を命ぜられ、文久2年(1862年)にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。さらに松江藩は文久3年(1863年)に、隠岐の軍備増強のため、当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し、藩士・錦織録蔵がこれを指導した。元治元年(1864年)には、隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた鳥取藩から、景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は西郷港に入港した船に立ち入った際、帯刀を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより、島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。慶応2年(1866年)、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟30人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。次いで翌年には武芸差留を布告し、事実上農兵は廃止された。

騒動の概要

隠岐の住民たちは、従来より尊王攘夷志向が強かった。同様に尊王志向の強い十津川では「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)が儒者中沼了三により設立されていた。これを知った中沼の弟子の中西毅男は、同名の学校設立の嘆願書を同士73名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが、取り下げられた。慶応4年(1868年)2月、神官庄屋ら島民有志が徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、本州に上陸後に長州藩の取り調べを受け、王政復古がなったことを知り、退却した。また、山陰道鎮撫使総監の西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。これらを受けて3月15日、島後の庄屋職の会合が郡代追放でまとまると、島前の庄屋らにも参加を求めた。そして3月19日早朝、島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始された。

騒動のその後

4月1日、中西毅男は明治政府から、隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。
閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩長州藩鳥取藩が仲介し、5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれることとなり、自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。
明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。



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明治2年(1869年)2月から8月まで隠岐国に隠岐県を設置して独立させるが、その後幕府の石見銀山領を前身とする大森県に統合された。新政府の方針は決まらず、隠岐地域の所属は島根県と鳥取県の間で移管を繰り返し、明治9年(1876年)ようやく島根県への所属に落ち着いた。


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近現代

島根県に編入された隠岐地域は古代以来の海士、知夫、周吉、穏地の4郡に分かれていたが、明治21年(1888年)になって島根県庁は郡を廃止して隠岐島庁を設置、島司が行政に当たった。明治37年(1904年)に西郷町、五箇村などの町村が設置されている。翌38年(1905年2月15日、竹島が日本の領土として確認され、後に五箇村の所属とされた。これは西郷町の中井養三郎がアザラシ・アシカ漁のためにリャンコ島の賃貸を政府に求め、政府が島の所属について確証がないことに気付いたためである。リャンコ島は竹島と名付けられ、隠岐島司の所管となった。隠岐島庁は大正14年(1925年)に隠岐支庁となっている。

第二次世界大戦中は軍事基地もなかったため戦災も受けず、かえって疎開者が来島し、終戦後は外地からの引揚者で人口が増えた。しかし、日本経済の高度成長が始まると、都会への移住者が増え、島では次第に過疎化が進行した。昭和28年(1953年)に離島振興法、昭和45年(1970年)には過疎地域対策緊急措置法などが適用され、基盤整備が進められた。昭和38年(1963年)には国立公園の指定を受けて隠岐空港も建設され、西郷町が隠岐観光の基地となった。現在は海洋レジャーの島として振興されている。平成16年(2004年10月1日、西郷町、布施村、五箇村、都万村が合併して隠岐島後全島をカバーする隠岐の島町が誕生した。



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昭和44年(1969年)に旧隠岐国の4郡は隠岐郡に統一されており、現在は隠岐郡の下に島後の隠岐の島町のほか、島前の海士町西ノ島町知夫村の自治体が存在している。島根県庁は現在でも隠岐の島町(西郷地区)港町に隠岐支庁を置き、県民局、農林局、水産局、県土整備局を設置し、西ノ島にも隠岐支庁島前集合庁舎を置いている。また島根県警も島後の旧西郷地区に隠岐の島警察署、島前の西ノ島に浦郷警察署を設置する。隠岐郡の住民は全部で約24,000人である。

なお、竹島は隠岐島の北西約157キロに位置する岩礁(総面積、230,967平方メートル)で、明治38年(1905年)2月22日閣議で島根県隠岐島司の所管とされ、同年5月17日に島根県の官有台帳に記載されている。戦時中は海軍用地として舞鶴鎮守府の所管となる。昭和28年(1953年)以来大韓民国実効支配下にあるが、日本政府の見解では日本国の国有財産として財務省理財局の所管となっている。海上保安庁は隠岐の島町に隠岐海上保安署を置いて周辺海域警備に当たっている。

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「歴史と自然」そして感動のロマン 隠岐の島町
隠岐の島町は歴史と自然の宝庫。島を、隠岐の島町役場観光商工係主幹上川清さんに案内していただきました。「壇鏡(だんきょう)の滝」、樹齢600年と言われる「かぶら杉」、「玉若酢命神社」や「白島海岸」とみて歩き、壮大な自然や歴史を堪能しました。
そしてお目当ての「八朔(はっさく)牛突き大会」。島内だけでなく出雲や松江、関西方面からのお客様で会場は熱気に溢れていました。
子供達の踊りや、牛を引く人たちの甚句の声が会場を盛り上げ、牛たちの闘いが始まりました。その迫力は凄い物でした。
そして夕刻にはローソク岩を遊覧するという贅沢なコース。揺れる船の上から見る奇岩は乗り合わせた観光客の間から大きなため息と歓声が聞こえ、しばしの間幻想的な世界に。
「隠岐は絵の島花の島。里にゃ人情の花が咲く」(しげさ節)まさにその通りの隠岐の島町でした。

転載元: 隠岐に豊かな生物多様性と、経済の発展を 竹島の住所隠岐です

[転載]隠岐漁民、竹島の岩ノリ製造…不法占拠前から

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http://www.yomiuri.co.jp/photo/20160208/20160208-OYT1I50037-N.jpg
竹島産のノリ1俵を入荷したことが記載されている「竹島漁猟合資会社」の「生産品勘定帳」の写し

隠岐漁民、竹島の岩ノリ製造…不法占拠前から


2016年02月09日 07時48分

韓国が1952年に李承晩ラインを一方的に設定し、竹島(島根県)の不法占拠を開始するより以前の明治後期から大正期にかけて、隠岐諸島の漁民が竹島で岩ノリを摘み取り、製品化していたことが、島根県竹島資料室の調査でわかった。
 同室は「竹島が隠岐漁民の生活拠点の一つとなっていたことが改めて裏付けられた」としている。
 同室が昨年10、12月に隠岐の島町久見地区で聞き取り調査し、夫の母親から竹島産の岩ノリ製造の話を聞いたという作田アイコさん(83)や、作田さんの息子2人の証言を得た。
 作田さんは「夫の祖父(作田芳吉さん、1878~1955年)が竹島に行き、岩ノリを摘んだことがある。竹島の岩ノリは大きくて長いので、久見では縄のひもに引っかけて干した」などと証言した。
 また、アシカ漁などを行うために島後に設立された「竹島漁猟合資会社」の「生産品勘定帳」(1911年5月4日)を、元県職員が53年に筆写した写し(県立図書館所蔵)には、竹島からノリ1俵を入荷したことが記載されていた。
 県内は「 十六島うっぷるい海苔のり」など、岩ノリの主要産地。なかでも隠岐諸島は高品質な岩ノリで知られ、竹島産もそれらと一緒に、長崎や大阪に出荷されていたという。
 県竹島問題研究顧問の下條正男・拓殖大教授は「日本が竹島を持続的に実効支配していた明確な証拠で、我が国固有の領土であることをさらに補強することになった」と話している。
2016年02月09日 07時48分Copyright © The Yomiuri Shimbun

転載元: 強い日本 優しい日本 賢明な日本


[転載]古地図が語る「竹島は日本のもの」…貴重な〝物証〟、「隠岐」との関わり明確に

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 日本固有の領土にもかかわらず韓国の不法占拠が続く島根県隠岐の島町の「竹島」。
県は竹島と隠岐諸島の深い関係を国内外に伝えるため、入念に資料収集を続け、今年に入って昭和初期の地図が相次いで見つかった。韓国の不法占拠から約60年が経過し、竹島の様子を直接見聞きした人が少なくなる中、地図は竹島と隠岐の人々の歴史的な歩みを示す貴重な“証人”と注目を浴びている。(坂田弘幸)
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 竹島は隠岐諸島の北西約157キロ沖の日本海上に位置し、2つの小島と周辺の数十の岩礁から成る。
総面積(約0・21平方キロメートル)は日比谷公園(東京都)の1・4倍、東京ドーム5つ分の大きさで、アワビなどの水産資源が豊富だ。
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 サンフランシスコ講和条約が発効する3カ月前の昭和27年1月、韓国の李承晩大統領は竹島を韓国領とする「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定。竹島周辺で操業をしていた漁船約300隻が拿(だ)捕(ほ)され、44人が死傷し、漁師約4千人が抑留された。
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 島根県によると、日本の竹島での漁は、韓国の沿岸警備隊が竹島を不法占拠する直前の29年5月に、隠岐島の漁民らが周辺海域でアワビやサザエを捕ったのが最後。周辺海域は日韓の漁船が操業できる暫定水域内にもかかわらず、現在も日本漁船がまったく近づくことができない。
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 一方で島根県は領土問題が解決されれば、竹島周辺ですぐに漁を再開できるよう昭和28年に漁業権を設定し、10年ごとに切り替えてきた。
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 漁業権は漁協などの漁を認める権利。現行の漁業権の期限は平成25年8月31日までで、地元漁協による隠岐島漁業協同組合連合会が取得している。
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 県は4月23日、今年9月以降の10年も現行の内容で切り替える方針を決めた。漁場は竹島の岸から500メートルの範囲で、対象はアワビ、サザエ、ワカメ、イワノリ、テングサ。同漁連が継続して交付を受ける見通しだ。
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男島と女島の表記
 新たに見つかったのは、昭和初期に漁師らが竹島に滞在した際の状況を示したとみられる地図「竹島略図」。手書きのもので、西島を「男(お)島(しま)」、東島を「女(め)島(しま)」と記載。当時の島の様子を知る手掛かりになると注目されている。
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 地図は、県文書「渉外関係綴」に収録されているのを県が見つけた。昭和3年9月27日から10月20日まで漁師らが竹島に滞在した際の状況を記したものとみられている。「男島」と「女島」の呼称は隠岐の島の住民への聞き取り調査とも一致する。
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 洞窟で水が湧いた場所をさすとみられる「水」や火山の噴火口とみられる「穴」のほか、「トド狩場」の表記もあった。西島の北側付近でアシカを頻繁に目撃したという話があり、「トド狩場」はそれと符合する。
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ダイコン栽培
 竹島略図の東島には耕地の跡を示す「畑跡」と記された場所もあった。昭和初期に竹島での漁に関わった隠岐の島町の男性は生前、「竹島渡航の際には植え付けのよい葉ネギを1束持っていき、東島の畑に植えた。ダイコン、ハクサイの種も畑に植えた」と語っている。
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 「20~30日もするとダイコンやハクサイも葉っぱが出始めるので食べることができた。竹島の畑で育った青物はみそ汁の具として食べた」と証言している。
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 県は「昭和初期に隠岐の漁民に竹島が経済的に利用されていた。わが国が実効支配していた具体的な実態を改めて確認できる」としている。
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 竹島は江戸時代以降、近くにある鬱陵島(韓国)への寄港地としても利用されてきた。島根県は、今年に入って竹島と隠岐の人々とのつながりを知る資料を相次いで確認した。
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 隠岐汽船(隠岐の島町)が昭和15年に発行した隠岐諸島の観光パンフレット(縦38センチ、横53センチ)もその一つ。カラー刷りで折りたため、竹島を名所として取り上げており、隠岐汽船の寄港地や後鳥羽上皇行在所跡など隠岐の名所、牛突きなどの名物を写真とともに紹介している。
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 竹島については「西郷港より百浬(かいり)、島後の西北海中に吃立する2個の大岩嶼(しょ)と多数の小岩とより成る無人の島嶼であり、海(あし)驢(か)の生息地である」と解説。 
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 裏表紙の隠岐諸島の地図「隠岐國略図」は、左上に竹島が記され、そばにアシカとクジラのイラストが描かれている。
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 竹島関係の公文書や資料などを公開している竹島資料室は「隠岐の名所とともに竹島も紹介されている。竹島が隠岐の住民によく知られていたことの証明」としている。
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船舶の航路にも
 さらに、竹島付近を通る船舶の航路が書かれた戦時中の地図2点も見つかった。島根県は「竹島が近代以降も日本の船舶の目印になっていたことが分かる」と強調する。
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 地図は、昭和17年発行の「太平洋素図」と18年の「太平洋全図」。国土地理院の前身にあたる大日本帝国陸地測量部が発行した。
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 地図には、2点とも左上に「竹島」とあり、鬱陵島は「欝陵島(松島)」と書かれていた。
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 太平洋素図には航路上に「小樽-大連」の表記があり、昭和元年に開設された航路「大連・朝鮮・北海道線」とみられる。
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 地図は、宮崎市の男性が島根県が資料提供を呼び掛けているのを知り、提供した。県の調べで、同じ地図が国会図書館や東北大学に所蔵されていることも分かった。 
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 県は「陸地測量部が発行した地図は明治38年の竹島の島根県編入後、明確に島根県所属と記載している」とした上で、「近代に入っても竹島が日本海を通る日本船舶の目印となっていたのが確認されたのは重要な発見」と説明している。
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日本固有の領土
 領土問題をめぐっては、産経新聞が創刊80周年と「正論」40周年の記念事業として発表した「国民の憲法」要綱で、現行憲法にない「領土規定」を提唱。「日本固有の領土である北方領土と竹島は、ロシアと韓国に不法占拠されたまま。日本が実効統治している尖閣諸島周辺では中国公船が領海侵犯を繰り返し、奪取を狙っている」と指摘したうえで、日本の主権が及ぶ領土(領海、領空を含む)の範囲を内外に明確に知らしめるべきとしている。
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 また、橋下徹大阪市長、石原慎太郎氏が共同代表を務める「日本維新の会」のロゴマークには竹島と尖閣諸島を入れた日本地図が記されている。橋下氏は「日本地図にこだわり、全国政党なので竹島も尖閣諸島も入れた」などと説明している。
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 竹島をめぐっては、今年2月、島根県で開催の「竹島の日」式典に抗議するため関西国際空港から入国しようとした韓国の市民団体が入国審査で7時間足止めになるなどして話題となり、日本、韓国両国内での関心は高まっている。
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 竹島は明治38年に島根県編入され、昭和初期の地図では当時の島の様子や隠岐の人々との関わりが具体的に記載され、竹島と隠岐の人々の歩みを知るうえで貴重な証左ともいえる。
 
 
 
 

転載元: 真実を追究するXX

[転載]竹島は日本の領土です

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19世紀の独製地図にも明記 「竹島は日本領」 独製地図複数現存
1月20日15時35分配信 産経新聞

 竹島(島根県)と朝鮮半島の間に境界線を引き、日本領とした19世紀後期のドイツ製の地図が複数現存していることが20日、島根県竹島資料室の調べで分かった。大阪大付属図書館ではこのうち最も古い1870年製の地図を所蔵。これまでにも竹島を日本領とする19世紀の西洋製地図は見つかっているが、さらに複数の地図が確認されたことで、日本の領有権確立を補強するとともに、韓国側の主張への反論材料になるという。
竹島資料室によると、大阪大のほか、海外の大学や古書店などへの調査で印刷時期の違うドイツの「シュティーラー地図」の所蔵を確認。1870~99年の間に作製された約10枚で、竹島が日本領とされていた。
竹島資料室では、これまでに島根県隠岐の島町の男性が所蔵する1872年のシュティーラー地図を確認。この地図上で、西洋名で書かれた竹島と朝鮮半島の間に境界線が引かれていた。
シュティーラー地図は、日清戦争後の1896年版では、台湾と中国大陸の間に境界線を引くなど、当時の国際情勢を反映。だが、現在は韓国領の鬱陵島を日本側に含むのは、日本人が同島に渡り活動していた影響とみられ、その経緯を詳しく検証する必要があるという。
韓国側研究者は「1920年代まで西洋地図では独島(竹島の韓国名)を韓国領に属すると分類していた」と主張している。
竹島資料室の杉原隆竹島研究顧問は「国際的に認められてこの内容で発行が続いたとみられ、さらに分析を進めたい」としている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100120-00000069-san-pol

<引用終了>


韓国の「争議解決方法」を端的に顕しているのがこの竹島問題だと考えています。
基本的に、「既成事実化(軍事占領、住民移動)」と「韓国民の反日誘導の道具(教科書への記載など)」としてこの「竹島」が位置づけられていることは、歴史(戦後史)を紐解けば明らかであり、この近代国家としては稚拙な方法が、日本国民の疑心を招いていることは疑いようがないのですね。
領土問題というのは国家にとってはどこまでもリアルな問題であると言えます。それは国家の構成要素に「領土」が含まれているという基本的なことからもわかると思うのですが、歴史においてしばしば「紛争」の直接的原因にもなっていることから、韓国が慣例的に取り続けている上記方法がいかにも危険性の高い手段であることは、衆論の余地がないことであるとも考えています。

さて、今回冒頭記事にもあるように、1870年頃のドイツ地図で、竹島が日本の領土であることが明記されていたらしいですね。これは当時(19世紀)の国際社会が日本の領海をどう認識していたかを考える上で、非常に価値のある発見であり、加えて「1920年代まで西洋地図では独島(竹島の韓国名)を韓国領に属すると分類していた」と主張している韓国に対する反論の材料となるものです。

確かに、この記事は間違ってはいないとは思います。
日韓の「領土問題」において、歴史事実からの検証というものは不可欠であり、それに見合う発見や当時の国際的な認知などは国際司法での判断においても必要です。
ただ、問題はそこなのか?と私はいつも思ってしまうんですね。「現状」日本固有の領土といわれている「竹島」は、韓国政府に「無断占拠」され、日本政府は「協議」さえできない。問題の根本的所在はそこなんじゃないでしょうか。

「既成事実化」がまかり通るなら、法も何もいらないわけですし、韓国が「当然」独島(竹島)は韓国領だというなら、軍事占拠、日本漁民殺害、加えて「独島は韓国固有の領土」など、教科書に載せないでしょう。つまり竹島を巡る韓国政府の態度は、「それを当然である」として国際司法の場での判断に委ねるいう「日韓交渉」さえまともに出来ずに、一方で「当然でない者がそうするように」居座り、日本人を殺傷し、国民教育を徹底させているのですね。
こういった既成事実化が進む一方で、「相手が話し合いのテーブルにさえついていない」というのがいわゆる「竹島問題」なのです。

従ってこの場合は、歴史事実からの検証は「次のステップ」であり、まずは「まともな政府間の協議」が必要になるのです。「国際司法の判断」でもそうですが、韓国政府を国際世論など使って「話のテーブルにつける」ことが問題解決の必須要件じゃないでしょうか。
で、ここまで書いていて気づいたのですが、これって「六カ国協議」を巡る北朝鮮の扱い方と同じだったりするんですよね。日本も外交下手だと言われているのですが、韓国も国際的な信用を無くす意味で、外交下手だと考えています。

「竹島問題」の歴史をみていると興味深いことに、日韓両国から「紛争の原因になるようなら竹島を破壊したらいい」という意見が出されたことがあるらしいですね。そういった近代法無視の発言の共通性は、やはり隣国同士なのかもとは思います。
何にしても、いかなる政権であれ竹島問題は「日本国家の主張」を堅持した形で解決を目指してもらいたいものです。

転載元: 白うさぎを追って

マラッカ王国は、ポルトガルやオランダさらにイギリスの植民地支配を受けていましたが、日本🇯🇵が白人を追い出しました

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マラッカ王国は、ポルトガルやオランダさらにイギリスの植民地支配を受けていましたが、日本🇯🇵が白人を追い出しました


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[転載]毛沢東はなぜ南京から北京に遷都したのか?―中国

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毛沢東はなぜ南京から北京に遷都したのか?―中国

2009年1月28日、中国は現在の共産党政権発足後、南京から北京に遷都した。その背景には「建国の父」毛沢東の深い戦略があったと言われている。中評社が伝えた。

毛沢東は新中国を建設する上で、首都選びを非常に重視していた。蒋介石率いる国民党政権時代の首都は南京市。毛は当時、「人民主体の新中国と蒋介石の独裁政権との違い」を明確にするため、「南の京」に対抗して「北の京」である北京を選んだ。19年の反帝国主義を掲げる大衆運動「五四運動」が起きたのも北京。湖南省出身の毛だが北京での滞在経験もあり、個人的にも古都の美しい文化や景色が気に入っていた。

首都を北京に選んだ理由がもう1つある。当時の中国を全面的にバックアップした旧ソ連や同じ社会主義国であるモンゴルに近かったことだ。50年1月1日に予定していた建国の日を「もっと早めるよう」助言したのも当時の最高指導者、スターリン。こうして中華人民共和国は49年10月1日、毛沢東によって天安門楼上から建国が宣言された。今年はちょうど60周年に当たる。

転載元: ★カントンキ★の「今日のブログⅡ」 in JAPAN

[転載]南京の虐殺の記憶

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南京の虐殺の記憶をとどめた雨花台公園には、「人民英雄碑」が建てられており、そこには毛沢東の揮毫により「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」(国民党政府は雨花台においてかつて30万人の共産党烈士を殺した)と書かれているのです。
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これは日本に帰化した元中国人(満州民族)の鳴霞さん他、多数の中国人からも聞いていますし、またこの石碑に関する情報に関しては、日本側のサイトだけでなく中国側で書かれたブログも存在しています。

転載元: おばぁーのゆんたくひんたく

[転載]上海事変は中国(蒋介石)が仕掛けた侵略行為

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「日華事変の時、日本軍はシナにいたではないか。すでに侵略行為を行っていた」と言うが…
日本軍がいたのは、中国が外国人を誘致するかのように設けた共同租界という地区。つまり侵略でも占領でもなく、日本企業と日本人を警護するために、8ヵ国のうちの1国として中国の了承の下で駐屯させていたのだ。 
   
   《谷沢永一 渡部昇一
         「日本に『戦争責任』なしhttp://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kenjya07-22&l=as2&o=9&a=4334971555」》



当時の上海は、支那随一の大都会にして国際都市であった。40余ヵ国の人々が租界(外国人が警察権と行政権を有する)に住んでいた。日本20,522人、ロシア11,279人、英国9,243人、米国3,809人、フランス1,647人、ドイツ1,838人(これらの国は上海に軍隊を駐留させていた) 
このように日本人ビジネスマンが多くの欧米人に交じって商業活動を行っていた。さらに蘆溝橋事件の勃発により、揚子江上流から上海に引き揚げてきた日本人の数は、2万2千人にのぼった。


そうした中、蒋介石は上海の非武装地帯に、コンクリートで強固に構築したトーチカを網の目のように築いていった。その上、7月12日に広汎な動員令を発令した蒋は、上海に10個師団を急派し、3万の中央軍が日本人を取り囲んでいた。

そのため、日本は上海で衝突が起こることを危惧していた。エルセイも言うように「当初は日本の政府も軍部も交戦を回避していた」のである。
しかし上海の日本人は、いまや4万人以上にふくらんでいた。その日本人を保護する海軍陸戦隊は、わずか2,800人。このため8月11日、1,200人の陸戦隊が日本から急派された。


日本租界を取り巻いて待機中だった支那便衣隊が、8月13日、15時55分射撃を開始した。その便衣隊に次いで正規軍も発砲してきたため、日本軍も応戦の火ぶたを切った。
8月14日にも支那空軍機が日本の領事館・陸戦隊本部・待機中の軍艦「出雲」を爆撃。また同日、国際租界にも爆弾を投下して、キャセイホテルとパレスホテルの間で死者729人、負傷者861人、交差点での死者1,012人、負傷者1,007人を出した。

中国軍はアメリカ製の十数機の爆撃機で、日本の繊維工業を狙ったが失敗。停泊していた旗艦・出雲に投下して離れたが、そのうち編隊から離れた4機が上海の租界を爆撃し、千人以上のヨーロッパ人が殺された。

…こうして日本は「支那における外国権益を渦中に引き込むを企図したる支那人に依りて、文字通り戦争に押し込まれた」(ニューヨーク・タイムズ上海駐在・アーベント特派員)のである。

当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は、多めにみても5千人。対する国民党軍は、すでに無錫・蘇州などに25万人以上が待機していた。(7月7日の「蘆溝橋事件」は、いわば街頭の喧嘩にすぎない。ヤクザの銃撃抗争と国家間の戦争を一緒にするな、との立場)
       《兵頭二十八 正論2005/8月号》

上海での戦闘で日本軍は、クリークによって攻撃を仕掛ける中国軍に手を焼き、多大なる犠牲を出した。こうして戦闘が膠着状態に陥ったため、日本軍第十軍は11月5日、杭州湾上陸を行い、上海派遣軍と合わせて中支派遣軍を編成した。 
そして11月20日、日本はここに至ってようやく大本営を設置した。中支派遣軍は敗走する中国軍を追い首都南京まで攻め込み、12月13日ここを占領した。
      《黄文雄 「日中戦争真実の歴史」》

●きわめて反日的であったニューヨーク・タイムズですら、上海事変勃発の1937年8月の紙面で次のように述べている…(HALLETT ABEND上海特派員の8/31付署名記事・8/31掲載)

外国人は日本を支持
上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。
日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかったのである。
8/13以前に上海で開催された会議に参加したある使節はこうみている。
「7月初めに北京郊外で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、
上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた」
 《茂木弘道
  「「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか」》

より一部抜粋ですので
転載元へお寄りください。


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いかづち国防軍 赤とんぼ






転載元: 雷丸構築的心情世界

[転載]戦前の戦争資料 1 「上海事変記念大写真集」

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古書店や骨董市で見つける、1930年代頃の主に日中戦争状況を描いた写真(時代の新技術)を使用した写真集や雑誌は、朝日、讀賣、東京日日、同盟、電通などの通信社などにから多くが出版された。10数年前、電通の資料写真はないか、と同社に聞いたが、電通の多量の陸軍系写真は共同か時事に委譲してしまったとのことだった。
(日露戦争のものは欧米の資料に頼らざるを得ない。写真の品質が悪すぎるからだ。)

各社は記者、カメラマン、映画スタッフを戦場におくり、かなり真追した写真を得てそれらを編集した資料が多く存在し、一部は中国や米国の合成写真の元になったりした。
しかし日本の武器、兵器、軍装の研究者には貴重なる資料であることは疑う余地はない。

この「上海事変記念大写真集」は出版社不明であるが、良い写真が数多く収納されている。
横版で横26cm、縦18cm、写真ページ88ページ(ページ数字がないので数えた)戦闘写真はかなり多い。紐とじである。「日本の機関銃」には同書から、整備の写真を借用した。
第一次上海事変は1932年の1月末から、上海の日本租界(条約により日本が清国から租借した地域)を国民政府第19路軍3万人が取り囲み、撤兵要求に応じなかったことにより発生した衝突である。
戦争に近い大規模な衝突で、3月初頭の停戦までに日本軍は769名が戦死し、2322名の負傷者を出した。
日本帝国と中国国民政府に次の1937年7月の衝突までのしこりを残した歴史上重要な紛争だった。

日本の上海警備は海軍陸戦隊が担当していたが、事変の拡大とともに各艦艇の陸戦隊が応援上陸し、さらに2月初頭帝国陸軍が派遣され、国民政府軍の背後に回ったので、停戦となり、欧米諸国もこの協定に署名した。

写真集の表紙は日本の砲艦であり、最初の画像は中国軍(支那軍)兵士の戦闘風景である。
陸海軍の兵力、航空機、艦船、車両は元より、在留の日本人の写真も多くある。三年式機関銃の航空機搭載の形式、弾倉なども貴重な記録だ。

画像は表紙と、後方に搬送される日本軍戦死者、そして支那軍の戦闘の様子である。日本軍が戦死者の
写真を公開したのはとても珍しい。
国民政府軍の写真は後に中国人から入手したのであろう。
国民政府軍は諸外国から多種多量の兵器を購入しその装備は近代的だったとこの資料も記していた。
この写真にもあるとおり、対空機銃としてビッカース13.2mmを使用してた。
説明文にも中国軍は近代兵器を多量に装備していたとある。

転載元: 日本の武器兵器


ジャップ!1937年(昭和12年)の日中戦争、北京から上海を経て南京陥落まで。

ジャップ!1937年(昭和12年)の日中戦争、北京から上海を経て南京陥落まで。

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日本の戦争が「侵略戦争」だったか、「自衛戦争」だったかのもっとも難しいのは、1932年以後の中国南部との戦いである。でも、中国との戦いは明治以来、日本が戦った戦争の一部であることも事実である(ノモンハン事件のように軍事的意味は大きいものは除いてある)。

(1) 薩英戦争、四国戦争(明治維新直後の白人との戦い)
(2) 台湾事変(50人ほどの一般日本人が台湾に漂着して殺されたことに対して日本軍が出動した事件)
(3) 日清戦争(朝鮮の独立のために日本と清が代理戦争を行った)
(4) 日露戦争(ロシアの南下に対して自衛した戦争)
(5) 第一次世界大戦の参戦(イギリス側)
(6) 満州事変(清が放棄していた地域)
(7) 上海事変からの中国南部戦線(見かけは中国との戦い)
(8) 大東亜戦争、太平洋戦争(白人との戦い)



日中戦争 上海事変―南京戦

これが日中戦争 第二次上海事変    歴史教科書にだまされるな

国士舘大学講師の倉山満氏をお迎えし、『歴史通』3月号の特集「『日中戦争』は侵略ではない!」にて執筆されている論文「国際法にてらして正義は我にあり」をご紹介いただきながら、「支那事変」が「戦争」とは言え

[転載]南京大虐殺?・・・ねぇよ!

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その後、この件の報道がありません。河村氏が民主党で名古屋市長に当選した時、大喝采したマスゴミがこの発言に批判的です。サヨクな意識をもつ報道機関は自分たちの都合で記事の操作をしていいものでしょうか?


おもしろい本をみつけました!マンガですが真実をわかりやすく簡潔に表現しています。



南京については沢山の本が出版されていて

大部分は読んで頭に入ってるつもりですが

マンガですと より一層わかりやすく 知りたい項目も一発で探し出せます!

マンガとはいえ あなどれません!!


河村たかし市長、がんばれ!!







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転載元: ふてくされ日記

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