『史記』による記述
司馬遷の『
史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、
秦の
始皇帝に、「東方の三神山に
長生不老(
不老不死)の
霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
五穀の種を持って、東方に船出し、「
平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
東方の三神山とは、
蓬莱・
方丈・
瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『
竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは
神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる
[3]。瀛州はのちに
日本を指す名前となった
[3]。「
東瀛(とうえい)」ともいう。
魏晋南北朝時代の
487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。
同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている
[4]。現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたものである。
出航地
伝承
日本における伝承
徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、
蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。
丹後半島にある
新井崎神社に伝わる『
新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。
徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である
半両銭が発見されている。
波田須駅1.5kmのところに
徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わる
すり鉢をご神体としている。
徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある
[8]。
徐福に関する伝説は、
中国・日本・韓国に散在し
[9]、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『
富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、
漢語と
万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり
[9]、また徐福の来日した年代が、『
海東諸国記』の
孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。
ただし、宮下文書はいわゆる「
古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で
俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。
中国における伝承
北宋の政治家・
詩人である
欧陽脩の『
日本刀歌』には「
其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。
朝鮮における伝承