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[転載]中国の南京大虐殺(南京事件)が嘘だと一発で理解できるものすごい写真が拡散中www⇒それを中国人が見た結果www (仮想敵国)

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2015/09/02 に公開
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転載元: 日中国交正常化45周年・南京事件80年に学ぶ


国際連合平和維持活動は、国連憲章でうたわれた集団安全保障を実現し、紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に平和的解決を促す国際連合の活動である

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国際連合平和維持活動

   
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1988年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国連の基本的信条の実現に向けての重要な貢献に対して
青色が現在活動中。水色が過去に活動を実施した地域
UNIFILYP-408装甲兵員輸送車。白に塗色されるのが通例である

国際連合平和維持活動(こくさいれんごうへいわいじかつどう、: United Nations Peacekeeping Operations)は、国連憲章でうたわれた集団安全保障を実現し、紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に平和的解決を促す国際連合の活動である。日本ではPKO(ぴーけいおー)と略されることが多い。PKOに基づき派遣される各国軍部隊を、国際連合平和維持軍(こくさいれんごうへいわいじぐん、United Nations Peacekeeping Force)という。日本ではPKF(ぴーけいえふ)とも略されるという。

概要

平和維持活動は、「国際の平和及び安全を維持する」(国際連合憲章第一章)ため、国際連合が小規模の軍隊を現地に派遣して行う活動である。従来は、紛争当事国の同意を前提に派遣されていたが、冷戦後は必ずしも同意を必要とせずに派遣する例もある。平和維持活動については、憲章上に明文の規定はないが、「ある種の国際連合の経費事件」において国際司法裁判所がその合法性を認め、国際連合総会1962年の第17回総会でこれを受諾している(総会決議1854)。

軍事部門に派遣された各国軍隊は、自国の軍服戦闘服)に、水色のベレー帽(国連紋章―オリーブ冠を巻いた地球儀―のバッジ付き)やヘルメットをかぶることから、「ブルーベレー」や「ブルーヘルメット」と通称される。また、派遣車両はPKO部隊であることを明示するため、白に塗色され、「UN」(国際連合の略称)と大書される。参加した軍人には、記念の国際記章が国際連合から授けられる。

活動予算は国連の通常活動のための通常予算とは別に建てられ、基本的に国連加盟国の分担金で賄われる。分担率は通常予算に適用される分担率が基本であるが、途上国に負担軽減を認める一方で安保理常任理事国には加重負担を求めている[2]。2010年の予算総額は96億7070万ドルで、分担金上位は最多のアメリカ合衆国が26億7500万ドル(分担率27.1743%)、次いで日本の12億590万ドル(同12.5300%)、イギリスの7億8310万ドル(同8.1572%)[3]

盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である

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盧溝橋事件


   
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん) 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
盧溝橋付近.jpg
1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[1]
戦争日中戦争
年月日1937年(昭和12年)7月7日
場所盧溝橋付近
結果:日本軍の勝利
Flag of Japan (bordered).svg支那駐屯軍Flag of the Republic of China Army.svg国民革命軍第二十九軍
橋本群(少将, 支那駐屯軍参謀長, 司令官代行)
牟田口廉也(大佐, 支那駐屯歩兵第一連隊長)
森田徹(中佐, 連隊長代理)
一木清直(少佐, 第三大隊長)
宋哲元(二十九軍軍長, 冀察政務委員会委員長)
秦徳純(二十九軍副軍長)
馮治安(三十七師師長)
金振中(三十七師一一旅二一九団三営営長)
兵員:5,600 (支那駐屯軍の総兵力, 7/8の交戦戦力は510)[2]兵員:100 (國防部史政編譯局『抗日戰史』による二十九軍の総兵力、地区には40,000)
戦死10、戦傷30 (7/8)[2]
戦死6、戦傷12 (7/10)[3]
戦死60余、戦傷120余 (7/8)[2]
戦傷死約150 (7/10)[3]
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。英語ではMarco Polo Bridge IncidentBattle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる[6]
この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)が、日中戦争支那事変)の発端となった[7]。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。なお以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。


事件の概要

1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[8]
盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真
宛平県城から出動する中国兵
1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習については日本軍は7月4日夜、中国側に通知済みであった。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射し[要出典]、その前後には宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。そのため清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた[9]

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。[要出典]

午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。[要出典]

11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

事件前の状況

コミンテルンの人民戦線と中国

1935年7月25日から開会された[10]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[11]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[12]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[13]

コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[14]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[15]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[16]

南京政府による中央集権化と抗日の動き

1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった[要出典]1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[17]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[18]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[19]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[20]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[21]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[22]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[23]

また南京政府は山東省政府主席韓復に働きかけ[24]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[25]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[26]


停戦協定と和平条件[ソースを編集]

宋哲元は当初、停戦交渉に積極的であった。しかし7月25日以降に中国兵が暴発した際に、屈辱的条件の受諾よりも抗戦を選ぶとの決意を中央政府に告げて抗戦した。
張自忠は7月11日だけでなく、7月19日にも停戦協定を結び、橋本群と共に戦線拡大を防ごうとした。しかし後に張は宜昌作戦で戦死を遂げる。
支那駐屯軍司令官の香月清司は対中強硬派であったものの、参謀本部に従って戦線は拡大させなかった。しかし中国兵暴発によって拡大する事になる。
石原莞爾は満州事変の首謀者であったが、盧溝橋事件の際に強硬に拡大反対した事で東京裁判で戦犯にされなかった。しかし満州事変で下克上を起こしたために、盧溝橋事件では対中強硬派が下克上の波に乗ってしまう。
盧溝橋事件の停戦協定は、7月17日の陸軍が出した停戦協定は小競り合いであるために、中国軍の陳謝・更迭と北京撤退と言ったそれなりの条件であり、第二次上海事変が勃発する前だったため当然の事ながら非併合・非賠償の条件であった。これらの停戦協定は後の第1次・第2次トラウトマン工作、汪兆銘工作、桐工作で出された日中戦争の和平条件に比べれば遥かに易しい条件であった。陸軍の対中強硬派とされる杉山元陸軍大臣、梅津美治郎陸軍次官なども外交官や現地軍の交渉には反対はしなかった。
しかし同時期の交渉は宋哲元香月清司へ、張自忠橋本群へ、広田弘毅日高信六郎を介して王寵恵へ交渉していた。しかし中国軍兵士の反日感情は暴発しており、日中両国の政府・外務省・軍中央の方針を無視し幾度も日本軍に対して散発的行為を行っていた。7月11日、停戦協定の細目は現地軍が妥協して行った。しかし近衛文麿の派兵発表で現地解決を困難にしてしまう。
: 1.第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、責任をもってこの種の事件の再発を防止する
2.中国軍は盧溝橋付近より撤退し、治安維持は保安隊をもってする
3.中国側は抗日団体の取り締りを徹底させる
増援決定を喜んだ現地の日本軍(支那駐屯軍)は、1937年7月13日段階で中国軍に北京からの撤退を求めた。そして、撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。7月17日、東京では陸相杉山元が中国側との交渉期限を7月19日にしたいと、五相会議で提案した。広田弘毅外相は、北京または天津での「現地交渉」に期限をつけるのはよいが、南京での国民政府あて外交交渉に期限をつけるのはまずいと反対した。海相米内光政、蔵相賀屋興宣も外相に同調し、杉山陸相も同意した。しかし、考えてみれば、広田外相の提案は、意味が不鮮明である。同日陸軍中央部は停戦協定の実施細目として以下を提案。この要求がいれられなければ、現地交渉を打切り「第二十九軍ヲ膺懲ス」との方針を決定した。それは「中国側の謝罪すべき当事者や、その方式を指定せず、又責任者の処罰も特定の人を指名せず、宋哲元の裁量にまかせる」という現地交渉担当者の考え方にくらべると、明らかに過大な要求であり、宋哲元に対し、蒋介石から離れて明確な屈伏の姿勢を示すか否かを迫ろうとするものにほかならなかった。日本側は、抗日的な人物を責任ある地位からしりぞけ、中国軍および国民党関係機関をできるだけ広い地域から排除することをめざしており、塘沽協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定などと同じやり方で、この事件を解決しようとしていたといえる。
: 1.宋哲元の正式陳謝
2.馮治安(第37師長)の罷免
3.盧溝橋北方・北平西方の八宝山附近からの中国軍の撤退(八宝山ノ部隊撤退)
4.7月11日の協定への宋哲元の調印
また、北京や天津では7月11日に調印された停戦協定の実施を日本軍が迫っていた。そのため、冀察政務委員会の指揮下にある第29軍の宋哲元はやむなく共産党の徹底弾圧や排日色の強い人物を冀察政務委員会の各機関から追放すること、蒋介石の秘密機構の冀察かの追放、排日運動・言論の取り締まり等を約束した。宋哲元は、和平を決意した。その夜、第三十八師長兼天津市長張自忠は、支那駐屯軍参謀長橋本群少将に対して、翌日、宋哲元が司令官香月清司中将に「謝罪訪問」をすると、伝えるとともに、次のような「解決案」を提言した。宋哲元の謝罪と合わせ、特に北京からの撤兵も含めて、支那駐屯軍の七項目要求をほぼ全面的に受諾したと言える。
: 1.盧溝橋事件の責任者の営長(第37師第110旅第29団第三営長金振中)を処罰する。
2.将来の保障についでは、宋哲元が北京に帰ってから実行する(以上の二項は文書にする)。
3.排日要人も罷免するが、文書にはしない。
4.北京には宋哲元直系の衛隊だけを駐留させる。
しかしこのような状況の中、7月13日に大紅門事件で日本兵4人が中国兵により爆殺され、14日にも団河付近で日本軍の騎馬兵が中国兵に殺害された。
王寵恵は1935年に訪日して広田弘毅外相と会談しており、7月17日に日高信六郎とも会談を行ってた。しかし8月14日についに王率いる外交部は抗日に転じる。
広田弘毅は7月17日に日高信六郎を介して王寵恵へ現地交渉による解決を目指した[1]。しかしこの事はあまり触れられていない。
7月17日、南京駐在の日高信六郎参事官を通して国民政府外交部長王寵恵に対し次のように要求させた。「帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後二於ケル国民政府ノ態度二鑑ミ左記ヲ要求ス1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止 2. 現地両国間二行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム」。広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた[108]。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。
そしてこれに対して南京政府は、日本側の要求を真向から拒否したのであった。すなわち、7月17日夜、日高が現地協定の実行を阻害しないよう、中央軍の北上を速かに停止して欲しいと申入れたのに対して、後の19日午後、国民政府外交部は「中国側ノ軍事行動八日本軍ノ平津一帯増兵二対スル当然ノ自衛的準備二過キス」と反論すると共に、日本政府に対して「一、期日ヲ定メ同時二軍事行動ヲ停止シ武装部隊ヲ撤回スルコト、二、今回ノ事件二対シテハ誠意ヲ以テ外交手段二依リテ協議スルコト」という2項目の要求を述に申入れてきた。それは日本側の云う現地解決主義を原理的に否定し、正規の外交機関による対等の交渉を要求するものであり、現地協定については「尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之カ解決ヲ

日中戦争は、1937年(民国紀元26年、昭和12年)から1945年まで、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争である。

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日中戦争


   
日中戦争 交戦勢力 指導者・指揮官
Map showing the extent of Japanese control in 1940
戦争日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争(太平洋戦争)の一部[注釈 1]となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中華民国内蒙古華北華中華南)、イギリス領ビルマ
結果:中華民国の勝利、大日本帝国の降伏
大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国の旗満州国(1932-)
蒙古聯合自治政府の旗蒙古聯合自治政府(1939-)
中華民国の旗中華民国汪兆銘政権(1940-)
中華民国の旗中華民国
National Flag of Chinese Soviet Republic.svg中国共産党(1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された)
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国(1941-)
イギリスの旗イギリス帝国(1941-)
ソビエト連邦の旗ソビエト連邦(1945-)
大日本帝国香月清司(1937-38)
大日本帝国松井石根(1937-38)
大日本帝国朝香宮鳩彦王(1937-38)
大日本帝国西尾寿造(1939-41)
大日本帝国畑俊六(1941-44)
大日本帝国岡村寧次(1944-45)
満州国張景恵
Flag of the Mengjiang.svgデムチュクドンロブ(1939-1945)
中華民国の旗汪兆銘(1940-1944)
中華民国の旗陳公博(1944-1945)
中華民国蒋介石
中華民国何応欽
中華民国徐永昌
中華民国陳誠
中華民国李宗仁
中華民国閻錫山
中國工農紅軍軍旗.svg毛沢東
中國工農紅軍軍旗.svg朱徳
アメリカ合衆国の旗ジョセフ・スティルウェル(1941-44)
アメリカ合衆国の旗クレア・リー・シェンノート(1941-44)
アメリカ合衆国の旗アルバート・ウェデマイヤー(1944-45)
イギリスの旗ルイス・マウントバッテン(1941-45)
ソビエト連邦の旗アレクサンドル・ヴァシレフスキー
日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年から1945年まで、中華民国大日本帝国の間で行われた戦争である。日本政府は、勃発当時は支那事変としたが[1]1941年12月の対英米蘭との開戦に伴い、支那事変から対英米蘭戦までを大東亜戦争とした[2]

中国内戦

この時代、中国全土は分裂し軍閥割拠時代となった[24]。 1919年の五・四運動以降、中国では共産主義思想への共感が拡大していく[注釈 7]。1920年にはコミンテルンのボイチンスキーが北京に派遣され[37]、1921年には中国共産党が結成される。
1920年7月14日安直戦争によって段祺瑞の政権は崩壊した。天津攻撃をおそれた日本は鉄道沿線各地に軍兵を配置した[25]10月2日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人13人を殺害、数人を拉致する。 1920年11月張作霖の使者が日本を訪問し、支援を求める。
1922年4月、孫文が北伐を開始する。4月28日には第一次奉直戦争が起こる。10月25日には日本軍が、シベリア撤兵する。1923年6月1日長沙事件
コミンテルンの工作
1923年にはA.A.ヨッフェとミハイル・ボロディン孫文と接触し、孫文はソ連に武器援助を要求した[37]。孫文は野合政党からボルシェビキをモデルとした革命政党への脱皮を決断した[38]。1924年には北京のソ連大使館にソ連軍事センターが設置され、中国の団体への武器供与を監督した[37]1924年1月20日、軍閥および北京政府に対抗する国共合作が成立[39]。 孫文の広東政府はコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンを最高顧問に迎え、ソ連の支援で[37]国民革命軍を組織し、と1924年6月16日に軍官学校を設立した[注釈 8]1924年5月には反日ストライキ暴動事件発生[要出典]。1924年7月1日蒋介石汪兆銘等による広東国民政府が成立。ソ連はボロディンら工作員を派遣し広東などで反英運動を展開し、1925年7月には蒋介石は東シベリア赤軍のブルーシェル最高司令官[誰?]にイギリスとの武力戦争のためにロシア人顧問が必要であると伝えた[37]

1924年9月18日、第二次奉天戦争が起こると、日本は内政不干渉を表明する一方、日本陸軍による張作霖への支援は続け、1925年に郭松齢が奉天に迫ると、満州出兵を行い、張作霖への軍事支援を実施した[39]。 1925年5月30日、上海で数万の反日デモが発生、その後全市規模のストライキコミンテルン中国共産党陳独秀指揮のもとで行われた[40]。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、13人が死亡する五・三〇事件が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した[41]

その後もソ連は多額の資金を提供し、大青年反帝国主義同盟、中国プロレタリアート作家同盟、中国社会科学作家同盟などの組織が設立されていった[40]
蒋介石の北伐と反共政策
翌1926年7月、蒋介石は孫文を継承して、軍閥・北京政府撲滅を目指し北伐を開始する[39]
ソ連とボロディングループの指導のもと中国共産党は党員を組織し、共産主義者を拡大させていったが、蒋介石ら国民党政府は共産党の権力奪取計画を察知し、1927年3月には共産党員を追放した[40]
1927年3月24日、南京に入城した蒋介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)[42]。米英軍は艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った[42]幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蒋介石の説得工作をおこなった[42]。蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた[42]。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が処刑された(上海クーデター)[39]。上海クーデターについては日本政府・幣原外相らによる蒋介石への反共工作に対して蒋介石は日本側の期待に答えたとする見方もある[39]

北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府と汪兆銘等の武漢国民政府に分裂する。
アルコス事件
英国は、ソ連のブハーリンらが広東政府を援助し、ストライキなどの労働運動を指揮していたとして1927年5月12日、ロンドンのソ連ハウス(アルコス株式会社、ソ連貿易代表団)を強制捜索、ソ連が中国など諸外国で工作をおこなっている証拠書類が押収された(アルコス事件[37]。イギリスは南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した
蒋介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する

アルコス事件は、1927年5月12日、ロンドン金融街にある5階建てのソ連ハウスと呼ばれた建物を100人以上の警官が急襲した。

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アルコス事件

1927年5月12日ロンドン金融街にある5階建てのソ連ハウスと呼ばれた建物を100人以上の警官が急襲した。そこにはアルコスとソ連貿易代表団の事務所があり、千人以上のソ連の職員や従業員が常駐していた。この捜索は2昼夜に亘った[1]。そしてボールドウィン政権はソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所においての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難した。この一件はアルコス事件として知られるようになる。ソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、この事件の直後に解消された。英ソの国交断絶は1927年5月26日[2]であった。

事件の背景

ソビエトは国権回復の気運の高い中国南部の新興勢力に加担し、その中でイギリスの名声と利益を損なう反英運動などが激しく行われてから、両国の関係は悪化していた[3]。1927年3月24日に起きた南京事件にはソビエトの関係があるとして行われた同年4月6日の北京のソ連大使館官舎の家宅捜索では、ロシア人・中国人80名以上が検挙されるとともに、北京における工作活動、あるいは暴力に訴えるための4,120名に及ぶ宣伝部員等の名簿並びにイギリス、フランス、日本に対する反抗的策動を目的とする委員会の調印文書など共産化の陰謀を示す書類が見つかり、その内容はイギリス下院においてもチェンバレン外相から発表されていた[4]

イギリス国内に限ってもソビエトの官憲と商務官がイギリスの国家を危うくする宣伝と陰謀を行っていたことはイギリス政府の承知するところであり、このことについてソビエトに対して行った警告も6回に及んでいた。アルコス事件に関してボールドウィン首相自ら行った報告では、アルコス事件の直前にはイギリス空軍の秘密書類がソビエトの工作員の手に入り、別の重要文書もアルコスに渡ったことの確証を得ていたとされた[5]

アルコス本部捜査

1927年5月12日午後4時、私服の捜査員50名がアルコス本部事務所に突如として殺到した。イギリス官憲は最初に外部との連絡を絶つように電話線を切った。表門、裏門とも警官の一部によって厳重に見張られ[6]外部との往来は一切遮断、屋内に居たものの外出は禁止され、郵便配達夫や至急電報の配達も入場を認められなかった。

捜査員は内部に侵入、各室のあらゆる書類の提示を要求した。午後8時には増援隊を加えて捜索が続けられた。押収し検閲を要した文書は2万におよび、ピストル6丁も押収された。この捜索をあらかじめ承知していたイギリス政府の閣僚は、ボールドウィン首相、チェンバレン外相と捜査の責任者であったジョインソン・ヒックス (Sir William Joynson-Hicks) 内相の3人のみであった[7][8]

ソビエトの抗議

ソビエト代理大使ロゼンゴルツは事件の翌朝、イギリス外相チェンバレンを訪問し、アルコス本部の捜索は治外法権の侵害であり、商務官、大使館書記官など多数のロシア官憲の身体検査を行ったことが不都合であるとして、正式に抗議した[8]。5月17日には同様の内容がソビエト代理外務委員長リトヴィノフ名義の抗議書として、モスクワ駐在英国大使に手交された[9]

捜査結果の公表と国交断絶

1927年5月24日、イギリス首相ボールドウィンは、アルコスを捜索した結果を次のように発表している[5]
  • アルコスの地下室には写真部と暗号電信部が存在し、その部屋ではロシア商務官が特権を用いて国際的な共産化の宣伝、加えて政治と軍事上の秘密活動を行っていたことを示す証拠書類を発見した。
  • ソビエト外交官と商務官とアルコスの人員は、互いに連絡を取るため三者の区別がないことが確認された。
  • アルコスの捜索の際に商務官首脳の事務室の隣に秘密の部屋が発見され、そこでは多数の書類が焼却されていたが、諸国の共産党員から通信の名簿が押収された。それによると、ロンドンのアルコスはアメリカ、メキシコ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの共産化宣伝と政治・軍事に関する諜報活動の本部であることが確認された。
  • ソビエトはイギリス船員に対する共産主義の宣伝を大規模に行っていたことが判明した。
  • 押収された多数の暗号電報の中に、ソビエトの外務人民委員チチェーリンから北京大使館に出されたものがあり、それは大使の後継者決定まではボロディンはモスクワより直接指揮命令を受けるという訓電の写しであった[10]。他にも南京事件についてイギリス政府の収集した証拠を覆す宣伝材料を電報で取り寄せ、これをイギリス労働党とその機関紙『デーリーヘラルド』 (Daily Herald) に供給することを指示する訓電、加えて中国問題、イギリスの労働法改正法案などに関する宣伝文書並びにイギリス労働団体との往復文書も見つかった。
ボールドウィンはこのようなソビエト官憲の特権乱用、宣伝、国際的諜報活動はイギリスが見過ごすことのできないものとして、対ソビエト方針としてソビエトとの通商条約を破棄し、ソビエト商務官と外交官のロンドンからの退去とモスクワ駐在のイギリス外交官の召還を要求、5月26日下院において承認された。

国共内戦は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍と共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年

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2016/09/19 に公開
本映像は1966年から始まった文化大革命当時に、中国共産党にスポットを当てて製作されたドキュメントである。
清の弱体化によって起こった義和団の乱、共産党の創出、日中戦争によって始まった共産党と国民党による日本軍に対する共闘、そして戦後国民党勢力を一掃して共産党独裁となるまでの歴史が記録されている。

国共内戦

   
国共内戦 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
ChineseCivilWarCollage.PNG
上から時計回りに:四平戦役における共産党軍、国民革命軍(八路軍)のムスリム戦士たち、1930年代の毛沢東、兵士を視察する蒋介石、孟良崮戦役の直前に前線を調査する粟裕
戦争:国共内戦
年月日
第一次:1927年8月1日 - 1937年1月6日
第二次[注釈 1]:1945年10月11日 - 1950年5月1日[注釈 2]または1979年1月1日[注釈 3]
場所中国
結果
1927–1949年
中華民国の旗中華民国
1927–1949年
Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg共産党
中華民国の旗蒋介石
Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg毛沢東
4,300,000(1946年6月)[3][4]
3,650,000(1948年6月)
1,490,000(1949年6月)
1,200,000(1945年7月)[4]
2,800,000(1948年6月)
4,000,000(1949年6月)
最大150万(1945–1949年)[5]最大25万(1945–1949年)[5]
第二次国共内戦
国共内戦(こっきょうないせん、: 国共内战/國共內戰)は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦1945年 - )とに大別される[6]


内戦までの経緯

五・四運動の影響

1915年第一次世界大戦中の大日本帝国対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」の五・四運動が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[7]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[8]

旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[8]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[8]

第一次国共合作

結成当初の中国国民党中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。両者は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした[9]

この宣言は、コミンテルン中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月の中国共産党も、第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン(本名ヘンドリクス・スネーフリート)指導で、国共合作が方針となった[9]

なお、国民党はコミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを1923年に迎え、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。またその前年の1922年には日本陸軍広東駐在武官佐々木到一を孫文の軍事顧問としている。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。

1924年コミンテルンの仲介で第一次国共合作を行う。国民党は1924年1月20日広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。
1925年孫文が死去。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲は暗殺され[10]蒋介石汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。

蒋介石の上海クーデターと国共合作の崩壊

1926年に中山艦事件蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上において、国民党右派の蒋介石が1927年南京国民政府を成立させ、同年4月12日、上海クーデターを決行する。これにより、国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は対立関係に入った。

黄文雄によると、蒋介石は第一次国共合作の頃は「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、支那事変勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した[11]。またスターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた[12]と言われ、中華民国を赤化させるつもりであったともいわれる。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。

第一次国共内戦

中国共産党の武装蜂起の開始

1927年7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言した。共産党は武力闘争を開始し、同年8月1日南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返すが、国民党軍によって鎮圧された。この時期の共産党が引き起こした武装闘争は、内戦と呼べるほどの規模の戦闘ではなく、局所的であり散発的であった。

中華民国の国民政府主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。1928年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。

他方、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。

掃共戦と中独合作

蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開する。1931年5月、第二次掃共戦。同7月、第三次掃共戦。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしている。9月に満州事変が勃発。日本

「南京事件は4度あった」 小名木善行

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1 第一次南京事件(大正2(1913)年)


  張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して虐殺、強姦、略奪を行った事件

1913年民国2年)4月、張勲は早くも溥儀再擁立を画策したが、事前に計画が漏れたため断念している。袁世凱に反感を抱いた孫文(孫中山)ら革命派が第二革命(二次革命)を起こすと、7月に張勲は袁世凱の命を受け革命派を鎮圧した。9月1日に南京を攻略した際に、3日にわたって放火・略奪・殺戮を縦にしている(1913年南京事件)。鎮圧の軍功により、張勲は江蘇都督に任命され、12月には長江巡閲使に転じて徐州に駐屯した[3]

2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)


  国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京に入り込み、城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。


南京事件 (1927年)

   
南京事件(なんきんじけん)は、1927年昭和2年)3月24日北伐の途上において、蒋介石国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜[1]南京を占領した際に起こした、日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。

蒋介石・国民革命軍

1927年3月21日蒋介石国民革命軍は上海を占領し、南京攻略を目指して3月23日に南京城を包囲した[2]

張宗昌・直魯連合軍

張宗昌ら直魯連合軍8万は戦わずに退却し、市民も逃げ惑い、南京城内は混乱した[2]

南京在留日本

3月22日朝、日本海軍は荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊10人を機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて上陸させた[3]。しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蒋介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した[3]。機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった[3]。荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された[3]

南京在留日本側は、掠奪暴行が予想されたので3月22日に婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、本館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した[4]

事件の発生

1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった[5]。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船警備の海軍兵)[6]イギリス3人[6]アメリカ合衆国1人[6]イタリア1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。

フランス人宣教師が2名殺害された[7]。アメリカ人で金陵大学副校長イーゼーウィリアム博士も殺害された[8]。そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された[8]。また婦人も陵辱された[8]

日本領事館での暴行

日本領事館は蒋介石の軍が入城したとき、国民党軍は規律正しいと聞いていたので安心し、防衛のための土嚢や機関銃を撤去し、開門して国民党軍を受け入れた[9]。また、倉庫には小銃30挺が保管されていたが、それらの上に荷物を山積みしており、準備されてはいなかった[10]。当時の記録では、この時入場した国民党軍は、便衣隊であったかもしれないとも書いている[9]

中国軍一個中隊が正門から闖入すると、歩哨に立っていた西原二等兵曹に銃剣を突き付け、殴りつけられた[9]。中国軍は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた[6]。救援にかけつけた数名の海軍陸戦隊員も銃剣を突き付けられ、時計や財布を掠奪された[9]
その後中国軍は、本館を襲撃して電話機や器物を破壊し、金庫を開けろと木村領事館警察署長に命じたが、署長が応じなかったので発砲し、署長は右腕を負傷した[11]

領事館舎の2階にいた根本博陸軍武官(少佐)に対して、中国兵は室内に入るや否や頭をめがけて発砲したが、それた[12]。しかし腹を撃たれ、1階に飛び降りようとしたところ臀部を銃剣で突き刺され、突き落とされた[12]。室内に残っていた領事夫妻らに向かって中国兵は「金を出せ」「金庫を開けろ」「出さねば殺すぞ」と罵りながら、所持品を奪い、領事夫人は服を脱がされた[13]。寝室の領事専用金庫は破壊され、貴重品はすべて持ち去られた[13]。さらに中国兵に後続して、南京の老若男女の住民、苦力らが押し寄せ、電球、電線、装飾器具、炊事道具、風呂桶、便器まで持ち去った[13]。日本人は衣服を脱がされ、それらの衣服も持ち去られた[14]。強奪は朝7時から午後1時すぎまで打ち通しに行われた[15]

その後、第2軍政治部蒋勁、師長戴岱がやってきて「我が国民軍は外国人に危害は加えない。今日、諸君を苦しめたのは確かに北軍の所為である」と述べた[16]
荒木大尉は反撃すると日本人避難民に危険が及ぶため、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため[3][17]、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。日本側の報道によると、駆逐艦「」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという[6]

領事館外での暴行

領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された[6]
また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった[18]。宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した[19]。中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した[20]。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日)

松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた[7]
事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという[21]


3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)


  南京に陣取った国民党軍が、 日本軍がやってくるからと城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。



蒋介石ら中国首脳部の南京脱出と日本軍南京城攻略要領(12月7日)

1937年12月7日(火曜)
  • 夜明け直前、総統蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した[71]。またファルケンハウゼンドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出した[71]。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難した[21]。中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した[72][73]ニューヨーク・タイムズダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道[74]。中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された[75]。なお11月までの漢奸狩りで嫌疑をかけられた市民2000名、12月初旬には連日殺害された[76]
國民軍軍事委員會第一軍令部徐永昌は下関碼頭一帯で渡河待機避難民は3日も待っているが、まだ渡れぬ者があると日記に書いた[63]
  • 中支那方面軍司令官松井石根南京城攻略要領を示達し、敵兵が抵抗する場合は攻撃し、掃蕩戦を行うことのほか、掠奪などの不法行為が、特に外国人の大使館や安全区(中立地帯)において絶対にないように各部隊に命じ、違反した者は厳罰に処するとした[77]。松井は作成にあたって、国際法顧問斎藤良衛博士の意見を取り入れるように塚田攻参謀に命じ、情報参謀中山寧人が各国総領事を訪ねて改めて位置を確認し、これを各部隊に朱書きして手交した[78]

4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)


  中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪を行った事件。


中華人民共和国の建国

建国宣言を朗読する毛沢東
1949年10月1日には中華人民共和国の建国を北京で宣言した。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党は朝鮮戦争での軍事介入やアジア・アフリカ会議への参加など積極的な外交活動を行った。

[転載]南京事件(なんきんじけん)1927年

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   南京事件(なんきんじけん)1927年
 
1927年(昭和2年)3月
蒋介石の  国民革命軍の第2軍と  第6軍を主力とする
江右軍(総指揮・程潜)が
南京を占領した際に起きた
日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。
共産党が煽動して発生させた。
 
 
 
事件の経過反帝国主義暴動の発生
 
イメージ
 
 
事件で活躍したアメリカ海軍クレムソン級駆逐艦ノアen)」
 
 
イメージ
 
 
 
事件で活躍したイギリス海軍練習艦「ヴィンディクティヴ
 
 
 
1927年(昭和2年)3月24日早朝
国民軍総司令蒋介石北伐南京に入城した。
その軍長は程潜であった。
 
当初は平和裏に入城していたが、まもなく
帝国主義を叫ぶ 軍人や民衆の一部が
外国の領事館や居留地などを襲撃して
暴行・掠奪・破壊などを行い
日本1人(宿泊船en)警備の海軍兵)、イギリス3人
アメリカ合衆国1人、イタリア1人、フランス1人
デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。
 
このうち日本領事館では
警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられていたため
館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。
 
 
駆逐艦「」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は
10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような
民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため
無抵抗が徹底された。
 
 
 
正門で歩哨に就いていた西原二等兵曹
侵入者を制止しようとした際
群衆は「やっつけろ、やっつけろ」と
連呼しながら銃剣で突きまくり
顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた。
 
 
根本博 陸軍武官と木村領事館警察署長は
金庫が開かない腹いせに
銃剣で刺されて負傷、領事夫人も陵辱された。
 
 
 
領事館への襲撃のほか
係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた
後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された。
 
 
 
この事件はあえて外国の干渉をさそって
蒋介石を倒す 
中国共産党の計画的策謀といわれている。
 
 
 
事件のかげには
  ソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて
第6軍政治部主任林祖涵
第2軍政治部主任李富春  共産分子であり
軍長の程潜は彼らにあやつられていた。
 
 
 
事件前夜の3月23日にボロディンが
武漢で招集した中央政治委員会
林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう
提案していたという。
その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。
 
 
 
 アメリカ・イギリス軍の反撃
下関に停泊中のアメリカ軍イギリス軍の艦艇は
25日午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始
 
陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。
 
砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ
日本領事館近傍にも着弾した。
 
多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。
 
日本は、虐殺を誘致するおそれありとして
砲撃には参加しなかったが
 
25日朝に
警備強化のため新たに陸戦隊90人を上陸させた。
 
領事館の避難民らは
イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため
増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。
 
蒋介石は
29日に九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること
上海の治安を確保すること
排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。
 
しかし
 
日英米仏伊五カ国の公使が  関係指揮官及び兵士の厳罰
蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障
人的物的被害の賠償を共同して要求したところ
外交部長・陳友仁は
責任の一部が 不平等条約 の存在にあるとし紛糾した。
 
 
中ソ断交と上海クーデター
南京事件の北京への波及を恐れた列強は
南京事件の背後に  共産党とソ連の策動があるとして
 
日英米仏など七カ国外交団が
厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。
 
その結果、4月6日には
張作霖によりソ連大使館を目的とした
各国公使館区域の捜索が行われ
 
ソ連人23人を含む74人が逮捕された。
 
押収された極秘文書の中に
次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。
 
その内容とは
 
外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令
短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること
 
在留日本人への危害を控えること
 
排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。
 
「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており
「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である。
 
4月9日
ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。
 
4月12日
南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告した。
 
いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。
 
この際、共産党指導者90名余りと
共産主義者とみなされた人々が処刑された。
 
また、英国は
南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして  
関係先を捜索
 
5月26日
ソ連と断交した(アルコス事件)。
 
武漢政府容共政策放棄を声明し
南京に国民統一政府が組織されると
 
1928年4月に
アメリカ合衆国
 
8月にイギリス
 
10月にフランスとイタリア
 
1929年4月に日本と
それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。
 
 
 
事件の影響
 
イメージ
 
海軍陸戦隊を派遣した駆逐艦檜
 
 
日本海軍は
アメリカ・イギリス海軍のように南京市内を砲撃しなかったため
日本側の思惑とは反対に
中国民衆からは日本の軍艦は弾丸がない
案山子張子の虎として嘲笑されるようになった。
 
まもなく
 
漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される
漢口事件が引き起こされることとなった。
 
南京事件中に
日本領事館を守るために
第24駆逐隊駆逐艦檜から派遣された
荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊が
 
中国兵によって武を汚されたことは
第一遣外艦隊司令部において問責され
荒木大尉が自決を図ることとなった。
 
 
この事件は
日本の外交政策を大きく変えるきっかけとなった。
 
1924年
加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎
それまでの対中政策をやや修正し
幣原三原則を基本とした親善政策である
幣原外交」を展開していた。
 
外務省は
事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による
組織的な排外暴動であるとの報告により
 
南京事件が
蒋介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが
列強が強行策をとれば
蒋介石の敵を利するものだとして
 
幣原は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。
 
しかし
 
南京事件や漢口事件などにより
国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。
 
金融恐慌の中
事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると
田中義一が首相と外相を兼任
かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた
外務政務次官森恪
その政策の背後にあり、日本の対中外交は一変することになった。
 
 
 
 

転載元: RCボトル潜水艦/RC潜水艦/RC艦艇/水生ロボット


[転載]【今日は何の日?】1927年:南京事件が起こる

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【今日は何の日?】1927年:南京事件が起こる

1927年3月24日、米英両軍が南京城内を砲撃する「南京事件」が起こった。

  1926年7月、国民革命軍総司令の蒋介石は、軍閥を打倒して中国を統一するため「北伐」を開始。北伐軍は武漢を占領した後、南京に向かったため、長江流域一帯に多くの権益を持つ列強との利害関係が複雑になった。米、英、仏、伊、日など各国は兵力を増強し、長江に軍艦を停泊させた。

  1927年3月24日、国民革命軍第6軍と第2軍が南京を占領。入城そのものは平和裏に行われたが、その後、軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行、掠奪、破壊などを行った。

  このため米英両軍は居留民保護を理由に南京に艦砲射撃を実施、中国側に約2000人の死傷者が出た。その後、米英などは中国に対し暴動の鎮圧や賠償などを要求した。

  一方、日本の幣原喜重郎外務大臣は英米からの共同軍事行動の要請を拒否。蒋介石に対して宥和的な方針を貫いた。大正デモクラシーという思想的背景があった他、満州の特殊権益などを守るためには蒋介石が力を失うと中国が分裂状態になり、交渉そのものが成立しなくなると判断したとされる。

  なお、南京を占領した国民党軍は、政治部主任などに共産党員が就任していた。蒋介石は南京事件の背後には共産党の扇動があったとみなし、4月には「四・一二」反共クーデターに踏み切った。




【今日は何の日】1420年:「仏母」唐賽児の乱

1420年3月24日、唐賽児(とうさいじ)の乱が起こった。

  唐賽児は白蓮教の信者を組織して反乱を起こした明代の女傑で、山東蒲台(現在の山東省博興県)の出身。農民だったが白蓮教の「仏母」と称して布教を始め、益都、諸城、即墨など山東各地に数万の信者を得た。

  1420年に反乱を起こし、益都を占拠。諸城、即墨、寿光などの各地の信者らも相次いで呼応。地形を熟知していたことを利用した夜戦を仕掛けるなどで、政府軍を苦しめた。

  しかし永楽帝が派遣した増援軍に、反乱軍は敗走、2000人が殺され、4000人が捕らえられて処刑された。唐賽児は信者に守られながら逃走した。

  明朝はその後、唐賽児が剃髪して尼もしくは女道士になったという噂をもとに、山東と北京の尼をすべて捕らえるよう命令。次いで「天下の出家した婦女をことごとく捕らえよ」との命を出し、官憲を動員して唐賽児を捜索した。このため数万人の女性が逮捕されたが、唐賽児の足取りをつかむことはできなかったという。




【今日は何の日】1860年:桜田門外の変が起こる

1860年3月24日(安政7年3月3日)、水戸藩の浪士が大老の井伊直弼(いい なおすけ)を暗殺した(桜田門外の変)。

  江戸時代後期、井伊直弼は反対派をおさえてアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと条約を結び、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港を開港、200年以上続いた鎖国に終止符が打った。また、その独裁的な政治に反感が高まると、反対派の大名らを厳しく取り締まった(安政の大獄)。

  これに憤激した水戸藩の浪士らは、江戸城に登城途中の井伊を桜田門外で襲撃して暗殺。井伊以外にも供の者8人が死亡した。この「桜田門外の変」は幕末の尊皇攘夷運動が激化する一つのきっかけとなった。

転載元: ★カントンキ★の「今日のブログⅡ」 in JAPAN

[転載]南京事件70周年――史実を世界へ発信せよ!

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今年は、いわゆる「南京事件」70周年の年で、中国では大規模なデモや暴動が予想されます。そんな中、ハリウッドでは映画「南京」が上映されようとしています。これはアイリス・チャンの悪名高い著書である「レイプ・オブ・南京」を元にして、アメリカの大手インターネット企業のAOLが製作したものです。内容ははっきりとはわかりませんが、「レイプ・オブ・南京」を踏まえているということから、かなり反日的な映画であることがわかります。今まで嘘を見過ごしてきたつけが回ってきました。そもそも、この「レイプ・オブ・南京」は事実誤認や写真の誤りなどが多数指摘され、日本語版の出版は見送られたものです。また、虐殺者の数だって現在中国政府は30万人としていますが、東京裁判時では2万人としていました(数字にこだわらないのは中国の文化)。そして、最近では東中野修道氏をはじめとして、世界各国の研究者が研究して南京事件はなかったという方向に傾き、教科書の本文からこれに関する記述がなくなりました。しかし、「南京事件はプロパガンダである」ということを主張する本は国内ではたくさん出ていますが、海外では全くと言っていいほど出ていません。アメリカでは未だに「レイプ・オブ・南京」が読まれているといいます。今こそ、「レイプ・オブ・南京」の嘘に対抗すべく、東中野修道氏の著書などを英語に翻訳し、世界に発信すべきです。「史実を世界に発信する会」などの団体が熱心に活動していますが、民間の小さな団体であり微力です。日本の名誉のためにも、政府と民間が一体となって史実を世界に発信すべきです。

転載元: Japanese Rainbow

元朝日新聞記者の本多勝一が南京大虐殺の捏造を認める

1938年 東宝文化映画部作品 日中戦争における南京攻略戦終了直後の南京城内外の様子を撮影した日本の記録映画。

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2012/10/16 に公開
1938年 東宝文化映画部作品 日中戦争における南京攻略戦終了直後の南京城内外の様子を撮影した日本の記録映画。
この映画は、遠からず行われると予測された南京攻略戦に備え、『上海』と同時に準備の進められた企画である。撮影班一向は、『上海』の撮影が終わるのを待ってその機材を引き継ぎ、1937年(昭和12年)12月12日未明に南京へ向けて出立。南京陥落の翌日14日に南京に到着し、そのまま年を越えて1月4日まで撮影を続けた。
フィルムは消失したものと長年考えられてきたが、1995年(平成7年)に中国の北京で発見された。ただし10分ほどの欠落があると見られる。

【内容】
南京攻略戦における各戦闘箇所ごとの解説
中国兵捕虜にタバコを渡す日本兵
日本軍による南京入城式
日本軍による戦没者のための合同慰霊祭
南京にいた外国人により組織された国際委員会が設定した南京難民区という安全区域
日本軍や南京市民による城内の復興の始まり
南京の自宅に戻り始めた市民達
赤十字看護婦の活動
良民証という中国人のための身分証明の交付を行う日本軍
日本軍による正月の準備から新年までの様子
正月に爆竹で遊ぶ南京の子供達
南京自治委員会の発会式

◎南京陥落は1937年12月13日だが、当映画撮影班にとってその日は南京に入る前日であり、敗残兵(便衣兵参照)の暴行の話を聞き、器材が掠奪されることを恐れていた。
◎南京に入った翌14日は、南京城北部の掃蕩中であり、撮影班は掃蕩と思しき激しい銃声を聞いている。
◎さらに翌15日から城内の撮影が開始され、訪れた挹江門(ゆうこうもん)の附近ではまだ掃蕩が行われていた。
◎16日には撮影班は紫金山麓、郊外遊園地である中山陵と附近の音楽堂を撮影しているが、その際には犬が悠々と歩いていたことが記録されている。
◎17日には日本軍による南京入城式が撮影された。天覧に供するため、そのフィルムは直ちに空輸されている。
◎撮影班は映像に残されているように南京の避難民が非常に哀れであった状態を目の当たりにし、その場における優しい日本兵の対応も見ている。また、水道設備の建設風景や中国人捕虜に対する施療風景も撮影された。
◎当時の南京には日本の新聞記者やカメラマンが約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていたが、その中で当映画撮影班は軍特務部撮影班であったため新聞社ニュース班の撮れないところでも自由な撮影が許されると製作事務の米沢は撮影日誌に記している。
◎一方、撮影の白井茂は、見たもの全部を撮ったわけではなく、撮ったものにも切られたものがあると回顧録で述べており、南京に到着した12月14日から銃殺のため処刑地の揚子江河畔に連行される長蛇の列を目撃したがカメラは廻せず、その目撃に憔悴し幾晩も悪夢にうなされたとも述べている。
◎産経新聞は、鬼よりも怖いはずの「南京憲兵分隊」の前を平気で歩いている住民や、日本軍の兵士が通っても素知らぬ顔で正月を祝って爆竹に興じる子供たち、そして特に「鑑札を持っておれば日本軍の保護を受けることができる」という「急告」を見て、何千人もの中国人が鑑札を求めて殺到している場面に注目し、もしも南京市内で6週間の間に20万や30万もの中国人を日本軍が虐殺していたら、このような現象は有り得ないという映画評論を載せている。
◎映画監督の水島総は、広い光景を撮った場面が多い映画であり、撮られて都合の悪いものがあればカメラマンは狭い絵のワンショットにするし、住民の恐怖感を持っていない顔が映像で確認でき、住民が整然と並んでいることも日本軍に対する恐怖がないことを示していると述べている。
◎軍事評論家の佐藤守は、この映画には南京大虐殺で30万人が殺されたという中国政府の宣伝とは裏腹な、気抜けするぐらい穏やかで平和な南京市内の状況が写し出されていると述べている。圧倒的な戦力不足の状況下で30万人もの大量虐殺をしたというのであれば、このようなシーンは絶対に撮影できなかっただろうし、正月に爆竹を鳴らして遊ぶ中国人の子供達の表情からも市内の治安が回復されたことが十分伺えるとも述べている。


再審「南京大虐殺」/竹本・大原より

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再審「南京大虐殺」/竹本・大原より
中国軍第八七師二六一旅長の譚道平はその著『南京衛戌戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希簾麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しょうとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」
中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。邑江門の中国兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。

督戦隊(とくせんたい)とは、軍隊において、自軍部隊を後方より監視し、自軍兵士が命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)或いは降伏する様な行動を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊

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督戦隊(とくせんたい)とは、軍隊において、自軍部隊を後方より監視し、自軍兵士命令無しに勝手に戦闘から退却敵前逃亡)或いは降伏する様な行動を採れば攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った部隊のことである。兵士の士気を上げる為の手段であり、司令官が「死守」を命じると兵士は文字通りぬまで戦うことになる。


概要

中国軍(旧奉天派)第15隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲されたもの。
主要各国でも、督戦に充った部隊は散見される。但し、督戦だけを主任務とする特別編成部隊などは一般的に存在しない。現実的にそのような部隊を常に編成して持つことは非効率であり、機動性も悪く反感を買う。あくまで、命令によって臨時的に督戦任務に充てられるものである。
ドイツでは第二次世界大戦末期のナチス武装親衛隊や指導将校(独軍が労農赤軍(赤軍)政治将校であるコミッサールをまねて導入したと言われる)が投降しようとする兵や民間人に対し戦闘継続を強要した例などがある。
赤軍関連でいえば、いわゆるNKVD部隊やスメルシ等が良く引き合いに出されるが、これらは原則として軍とは指揮命令系統が異なる。戦闘時に軍の師団連隊に編入され直接的に督戦にあたるわけではない。(例としては、1942年 - '43年スターリングラード攻防戦の際に渡河の要所をNKVDが管理していた。このような場合は逃亡兵や不審者の逮捕拘束、場合によっては射殺も行う)その任務は非常に幅広いものだった[1]対独戦初期の戦闘時の督戦の任を受ける部隊は、連隊長クラスの判断で隷下の一部部隊を臨時的に督戦任務に充てている場合が一般的であった。ただし、スターリングラード攻防戦時には、国防人民委員ヨシフ・スターリン自身の命令(ソ連国防人民委員令第227号)により、軍レベルで各200人から成る督戦隊が3 - 5個編成された。

歴史

前近代

兵士の逃亡は古代から軍隊には付き物である。とくに精鋭中核軍でない部隊の兵(あるいは水兵)は、多くの場合地域の住民や難民、海軍の場合は寄航中や航行中の船舶や溜まり場の船乗りたちを強制的に徴発した兵であり、そのため別働隊として稼動させれば逃亡したり反乱をおこすなどの問題が頻繁にあった。そこで多くの軍隊では戦闘中での逃亡に対し、厳罰を持って対処し、兵士の逃亡を防ごうとした。

オスマン帝国では皇帝直属のイエニチェリ部隊がしばしば督戦隊として機能した。
絶対王政下のフランス軍では、隊形を組んで前進する部隊を囲むように下級将校が配置された。彼らの第一の任務は逃亡する味方兵士の射殺であった。

近代以降

近代に入り、国民国家が形成され、各国では徴兵制による軍隊が設立された。アメリカでは、1861年から65年の南北戦争の際、督戦部隊を南北両軍とも戦闘時に配置している。一方で、国家の近代化と市民化が進むにつれ強制徴募は衰退し、戦時国際法ハーグ陸戦条約などでは占領地での兵の強制徴募が禁止されることになる。しかしそれ以降も徴兵令による兵士(徴集兵)やゲリラ兵、市民兵、あるいは自国内で不正規に徴発された兵士(強制徴募兵)を督戦するための兵や部隊がしばしば登場した。

第二次世界大戦時、主に独ソ戦ソ連労農赤軍に於けるものや中国軍におけるものが有名である。1937年の南京攻略戦の際にも敗退して潰走する国民党軍将兵を、挹江門(ゆうこうもん)において督戦隊が射殺したユウ江門事件でもその存在が知られている。


中華人民共和国の政治委員 

中国人民解放軍では、紅軍当初からの軍隊として組織された経緯から、一般軍人と政治委員の関係は良好であった。1927年南昌蜂起以来、軍には党代表が置かれていたが、1929年の「古田会議中国語版」において毛沢東の主導により「政治委員」に改称され、強力な政治委員制度が成立した[1]。政治委員にはソビエト軍同様に作戦命令に対する副署権が与えられた。さらに人民解放軍の特徴は、軍内部に共産党支部が設置され、この党支部が作戦事項を決定するとされたことである。これにより共産党自身が作戦の立案をも行うというソビエト軍を遥かに上回る強大な権力が党に与えられたのである。政治委員は軍内党支部の書記(責任者)を兼ねていたため、ソビエト軍では不正行為とされた作戦に対する政治委員の介入が公然と認められた。1930年の「中国工農紅軍政治委員工作暫行条例」において政治委員の職権が明記され、政治面では単独で命令を発することができ、軍事面でも副署権が与えられるとともに、軍指揮官と対立した場合にはその命令を停止させることができた[2]
しかし共産党の基本戦術が中国全土に「解放区」を打ち立て支配する方式であったため、解放区を管理する各地の軍が政治委員(軍委員会書記)の支配下に置かれることになった。これは現在の中国の地方制度支配に連なっていくことになる。
現在でも、政治将校は、部隊長の次席として政治工作を担当し、第二梯隊や予備隊を指揮する職責にある。

[転載]マレーシアの旅

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9月25日から29日にマレーシア旅行に行ってきました。クアラルンプールの観光は王宮・国立のモスク・独立広場・ツインタワーを見学しました。次に歴史の町マラッカはセントポール寺院・サンチャゴ砦 ・チェン・フン・テン寺院(青雲亭)・オランダ坂等を見学しました。

[ ペトロナスツインタワー ] ペトロナスタワーズとも呼ばれる。20ヘクタールの広大な敷地をもつKLLCのシンボル。452mの高さを誇り、41階の渡り廊下は展望フロアとして一般公開されています。タワーの下層階は大型ショッピングモールとなったおります。
今までは、世界一の高さを誇っておりましたが、台北101高さ508m今はドバイに建築された高さ688.1mのブルジュ・ドバイが世界一の高さの建物です。

[ マラッカ・キリスト教会 ] 1753年に建てられたオランダ様式の教会。
壁面は赤い(赤ピンクっぽい色)ですが、かつては白かったそうです。
内部にはタイル画の「最後の晩餐」が飾られています。
そして内部の床の石は墓石です。
この周りには花飾りをつけたド派手なチャリンコタクシーの客引きが激しいです。

[ サルタン・アブドゥル・サマド・ビル ] マレーシアの首都クアラルンプールの独立広場付近 サルタン・アブドゥル・サマド・ビル 独立広場からマレーシアはマレー系、中国系、インド系の多民族国家で、各民族がそれぞれの文化を大切に守り、日本にはないパワーあふれる街を形成されている。

[ フイッシュスパ ]  細長い水槽に小魚と大きい魚と別れて入れられています。そこに足を入れるとすぐに大量に寄ってきます。慣れるまではくすぐったくて大変でした。古い角質を食べてもらい肌がすべすべになり、ヘルシーなつやを与えると説明してありました。

転載元: 国内 https://ssl.4travel.jp/tcs/


[転載]マレーシア旅行

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先週末、連休を利用してマレーシアのペナン島へ行って来た。

昨年末、我が家にショートステイしたカルビンという青年が住む島だ。
夏バカンスは去年のプーケットに続き2回目だが、今回は息抜き+再会が目的となった。

マレーシアは多民族国家というのは、知識としては知っていたが
今回はそれを実感することができた。

マレー人、インド人、華僑によって構成され、宗教もイスラム、ヒンズー教、仏教、キリスト教が
入り混じる移民国家。
街中にはモスクあり寺院あり教会あり。この景観がそれを表している。

ガイドさん曰く、教育も各人種に応じて言語が分けられていると言う。
マレー系にはマレー語、インド系にはヒンドゥ語、華僑には中国語が中心に教えられる。
但しマレー語と英語は必須だそうだ。

こんな感じで書いていると、各人種、宗教が平等に扱われている理想国家の様に思えた。

シンガポールは華僑が多く、彼らが国家や経済の中心を握り、発展を続けている。
これに対し、マレーシアにおいては国家の中枢に入れるのは、イスラム教の人々のみだそうだ。
もちろんマレーシアも発展はしているが、シンガポールのようになっていないのは
こういったところも原因にあるのかもしれないと思った。

もちろん、国の規模、地政学的なこと、歴史背景など多様な原因によって左右されることなので
一概には言えない。
しかし国の発展要因で最も重要な「人」のところで、イスラムしか中枢に行けないことが
活力を多少は削いでいる可能性は高いと思う。

マレー人、インド人、華僑が約1/3ずつといった人口構成では、そうしないと
国が安定しない可能性はあるからかもしれない。

経済は華僑が牛耳っているのは東南アジアでは多いケース。
それで政治なども華僑が牛耳るとその他の人種が社会の不安定要因化してしまうという可能性だ。

この微妙なバランスの上に国家が成り立っている。
日本の状況と対比するとまた色んなことが見えてくる。他国のことを知るのはやはり面白い。

今回の旅では、新渡戸稲造の「武士道」を旅の友としたが、
日本が発展した理由として、武士道がもたらしたものが大きかったと感じた。
忠義や誠実などいくつかの要素があるが、最も発展に対して影響を与え、かつ
他の国の人々と異なったのは「名誉」(=「恥」)の概念だった。

西洋と触れたとき、二流国家の人民と見られることを耐えられない「名誉」の概念。
明治維新のときだけでなく、戦後の発展でも同じような要素が脈々と息づいていると思う。
もちろん、それは今でも。

武士道は、新渡戸曰く1000年のときを経て完成された概念である。
マレーシアはまだ新しい国とはいえ、モザイク国家としての概念をやはり構築している。

表面に現れる違いのみを捉えるのではなく、長期的な視点で本質を捉える。
本質を理解すれば、より多くのものが見えてくる。

そんなことをヤシの木の下で、きれいな海を見ながら思ったマレーシアの旅でした。

転載元: キタバノコトバ

[転載]マレーシア旅行

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マレーシアに旅行に行こうと友達二人と決めてから、
手作り旅行が始まった。

最初は、東南旅行社に行き、話を聞いてみたが、勉強不足で、
何をみたいのか、どこに行きたいのかもわからず、日本のように
どこに行くにも見所満載の写真付きパンフレットから自分の希望に
一番あったものを探す、今までの旅行スタイルとはちょっと違うぞと感じた。

HPで格安チケット探しから始まった。あちこち見比べ、購入を検討したが、
結局エヴァエアという航空会社の往復チケットにホテルがセットになっているものが
安かったので、これを購入予定。(まだ、お金払っていないし、ホテルのコンファー
メーションが来ていない。

さて、悩んだのが内容だ。
本当は、クアラルンプールの大都市をちょっと、歴史ある街マラッカを少し、
そして、ジャングルやら、山やら、海の自然いっぱいをマレーシア鉄道に
乗って、体験しようと思った。

だが、3泊4日の短期滞在ではそれは、無理と、各方面から言われ、
ならば、市内観光、文化(鍾乳洞、染物、錫細工工場の見学)、
マレーシアの踊り、そして、食べ歩きを!!
ということで意見がまとまりました。

台湾から国際電話でレストランの予約を取ろうと思っているんだけど、
いつも話中の「スリ・ムラユ」レストラン。 頼むよ~

初めて、主人、こどもを置いて、友達だけで企画する旅行。
ドッキ、ドッキ。 だが、本当に楽しみだ。
マレーシア、クアラルンプール、マラッカよ待っててね!!

転載元: 題名チェンジ: テニス、そしてテニス。

[転載]マレーシア対日本

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マレーシア人の日本人に対する国民感情はどんな感じなのだろうか…?

太平洋戦争敗戦後、現在に至るまで、露骨な反日感情を表す国に関する報道に偏りを感じる

正直な話し、どのように戦争が始まり、何が行われ、どのように敗戦したのか…自分の国の歴史が曖昧である…

自分で勉強するしかないね

与えられた歴史認識が疑わしい…

サッカーを観ながらそんなことを考えてしまいました

スポーツってイイですな

ムムっ!

イイーんですっ

クーーーっ!

転載元: サモハンの暇つぶし

[転載]ゆっくりとマラッカ(マレーシア)

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5a-cb/caipirinha_scuba/folder/121479/24/2251124/img_0?20050505113627

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5a-cb/caipirinha_scuba/folder/121479/24/2251124/img_1?20050505113627

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5a-cb/caipirinha_scuba/folder/121479/24/2251124/img_2?20050505113627

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5a-cb/caipirinha_scuba/folder/121479/24/2251124/img_3?20050505113627

当地にGWはないが、メーデーの振り替え休日で4月30日から5月2日まで3連休だった。ので、お気に入りの小旅行地、マラッカへ行ってきた。

マラッカは、当地から2時間ほどのドライブ。車があると簡単に行ける。詳しい歴史については長々と書けないけど、600年ほどの歴史のある古くて、静かな町。

マラッカ海峡を利用した海上貿易で栄えたこの町は、ポルトガル、オランダに征服・統治された歴史を持つ。もともとのマレーシアの文化に、ちょこちょこと古いヨーロッパの爪あとが残る。丘の上の朽ちかけた教会、St. Paul's Churchには、歴史の教科書でおなじみのフランシスコ・ザビエルが、1553年に一時埋葬されていたという、驚くような歴史もある。(その後、インドのゴアに埋葬された。)一番上の写真は、ポルトガル統治時代の砦「A Famosa」。オランダの侵略時にダメージを受けたが、今もひっそりと残って、マラッカの歴史を物語っている。

教会、A Famosaと並んで有名なのは、Jonker Streetと呼ばれる通り。(写真2番目)アンティーク、ガラクタショップが並ぶこの通りは、一件中華風。中国からの移民がマレー文化を取り入れ、独自の文化(Baba & Nyonya)を展開したのだが、この通りはその象徴。アンティークショップを冷やかしながら、陶器工房で買い物、通りにあるカフェを梯子して、わき道に入ったところにあるレストランでランチをするのが、お気に入りの歩き方。だけど、今回は現地の連休と、日本のGWも重なったのか、すごい人出。Jonker Streetも混んでいたし、行きたかったローカルのレストランも午後2時を過ぎても大勢が行列。しかたないので、有名なブティックホテルのカフェでランチ。外の喧騒とは裏腹に、貸切状態でゆっくりとおいしいランチを食べた。

Jonker Streetは余りにも混雑していたが、少し離れたところは、いつもの通りの静かなマラッカ。ホテルへは町の中心を流れる川を渡るのだけど、川沿いは綺麗に整備されたところもある。(写真3番目)ホテルまでもう少しというところで、古い建物やインテリアをディスプレイした、まったりできるカフェがあったので、そこでビールを。暑い午後、ちょっと歩いて咽喉が渇いていたので、最高。だんなとゆっくりと咽喉を潤しながら、おしゃべりし、ほろ酔い気分でホテルに帰る。ホテルのプールで泳いで、身体を冷やした後は、夕食にちょっと離れたところへ出かけた。

次の日は、だんなの誕生日。プレゼントとして18ホールのゴルフラウンド。マラッカはゴルフコースもたくさんあるのだ。ゴルフ終了後、帰宅の途に。やはり2時間半ほどで、家に着いた。やはり小旅行にはもってこいの距離。

友人に言わせると、「眠っているような小さな町」のマラッカ。近いところにあるけど、異国情緒がたっぷりあると思う。気分転換に、ゆったりしに行くのには最高。ますますマラッカがお気に入りになった。

転載元: マンボウの「浦島花子」な日々~7年ぶりの日本~

マレーシアってどんな国?

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マレーシアってどんな国?


マレーシア

   
マレーシア
مليسيا
Malaysia
マレーシアの国旗マレーシアの国章
国旗国章
国の標語:Bersekutu Bertambah Mutu
Unity Is Strength
(マレー語: 団結は力なり)
国歌ヌガラク(Negaraku) (我が国)
マレーシアの位置
公用語首都最大の都市通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
マレーシア語注1英語
クアラルンプール注2
クアラルンプール
政府
国王首相
ムハンマド5世英語版
ナジブ・ラザク
面積
総計 水面積率
329,847km266位
0.3%
人口
総計(2012年人口密度
29,330,000人(???位
84人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年
9,845億[1]リンギット
GDP (MER)
合計(2013年
3,124億[1]ドル(35位
GDP (PPP)
合計(2013年) 1人あたり
5,257億[1]ドル(29位
17,747[1]ドル
成立
イギリスより独立マレーシア成立
1957年8月31日[2]
1963年9月16日[3]
リンギット (MYR)
UTC+8DST:なし)
MY / MYS
.my
60
注1: 2007年よりマレー語 (Bahasa Melayu) からマレーシア語 (Bahasa Malaysia) に変更された。
注2: 連邦政府各庁舎および連邦裁判所はプトラジャヤへ移転。連邦議会議事堂は移転せず、法律上の首都はクアラルンプールのままである。
英領北ボルネオ、サラワク、およびシンガポールのマラヤ連邦との統合を定めた英国・マレーシア関係合意文書
マレーシア法1963(文書)
マレーシアジャウィ語: مليسيا マレー語: Malaysia英語: Malaysia)は、東南アジアマレー半島南部とボルネオ島北部を領域とする連邦立憲君主制国家で、イギリス連邦加盟国である。タイインドネシアブルネイと陸上の国境線で接しており、シンガポールフィリピンと海を隔てて近接する。ASEANの一員。

歴史[ソースを編集]


マレーシアの歴史

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