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[転載]野口 英世1876年(明治9年) - 1928年(昭和3年))は、耶麻郡猪苗代町出身。

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野口英世

   
野口 英世生誕 死没 国籍 研究分野 研究機関 出身校 主な業績 主な受賞歴
野口 英世(のぐち ひでよ、1876年明治9年)11月9日[1] - 1928年昭和3年)5月21日)は、日本細菌学者福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町[1][2]出身。

猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学研究に主に従事し、黄熱病梅毒等の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。



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年譜

野口英世と母シカ
(野口英世記念館蔵)
1876年明治9年)
11月9日 - 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作(せいさく)と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名した)[注 1]


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1877年(明治10年)4月
清作は1歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負う[注 2]
1883年(明治16年)
三ッ和小学校に入学[注 3]。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される[注 4]
1889年(明治22年)
猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する[注 5]
1891年(明治24年)
左手の障害を嘆く清作の作文が小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、清作の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。清作はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなった。
1893年(明治26年)
清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。細菌学を知ったのもこの頃であったという。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。
1896年(明治29年)
清作は小林らから40円もの大金を借りて上京し、医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格する

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評価

英世は細菌学の研究者として著名であるが、研究スタイルは膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。想定される実験パターンを全て完璧に実行し、なおかつその作業は驚異的なスピードと正確さをもって行われた。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では英世を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。

この評価は英世本人も少なからず気にしていたようで、英世は晩年になってから同僚に「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」と語っていたと伝えられている。1919年春、訪米した知人の医師・畑嘉聞に「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしている。現在でも評価が高い研究は、顕微鏡観察による病理学血清学的研究である。

英世の最初の業績は蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので、血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構についての最初の詳細な病理学的記述である。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。

細菌学の分野では、梅毒スピロヘータを運動失調症関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄癆)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり、多発性硬化症脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので、神経性疾患感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い[5]。1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。

また、サシチョウバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達するができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じカリオン氏病(バルトネラ症)であることを証明した[6]。これについては1885年ペルーの医学生カリオンが、それまでペルーの医師の間で唱えられてきた説を自らの身体を実験体として示したものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。英世の業績はカリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論を経た後に英世の成果が正しいとされた。このため南アメリカでの英世の評価は高く、同地域の後進の医学研究者への影響は大きい。

他には、血清学的ヘルペドモナド HERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。

一方で、のちに否定された研究業績として挙げられるのが病原性梅毒スピロヘータの純粋培養[注 13]と黄熱病の研究[注 15]である。急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の業績に関しても、のちにウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、英世の研究時期において、濾過性病原体としてのウイルスの存在はすでに示唆されており、光学顕微鏡下で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったことが考えられる。また、発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備も指摘されている[7]

前記の通り、英世はノーベル賞に何度も推薦を受けているが、英世自身は1926年のノーベル医学・生理学賞に、バクテリオファージ研究者であるフェリックス・デレーユを推薦している[8][注 16]





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野口英世記念館交通案内

福島県耶麻郡猪苗代町大字三ツ和字前田81

電車をご利用の場合

最寄駅JR磐越西線猪苗代駅からタクシー6分、バス10分

バス利用のご案内

磐梯東都バス「金の橋・会津レクリエーション公園行き」野口英世記念館前下車徒歩1分
磐梯東都バスのHPへ
http://www.totobus.co.jp/bandai/timetable.html

お車をご利用の場合

磐越自動車道・猪苗代磐梯高原ICより国道49号線を会津若松方面へ約5分
無料駐車場完備(バス30台、乗用車300台)

転載元: 日本負けるなガンバレ 多様な人が住む国には愛国心が必要


[転載]宮崎県は、JISの本からグリーンサンドすべてがJIS製品と思い込んで、判断をしている。フェロニッケルスラグとグリーンサンドの区別や骨材と砂の区別が分かっていない。また、jis認定以外の粉砕品は、jis

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@seigok0026@8423Taka新居浜の漁民は、住友の埋立や公害により、漁業権を奪われた。昭和47年9月燧灘海域海岸線約65㎞にわたる広範囲で、沿岸性のチヌ・カレイなどの魚類、アサリが一時に大量へい死する事態が発生した。
blogs.yahoo.co.jp/ne_koutokusin/…
@seigok0026 への返信
16:34:59

miyaNamonakui
新居浜『あかがねミュージアム』の土壌汚染調査報告書を読んでみたい。 twitter.com/50Rittlerilax/…
16:29:34

miyaNamonakui
宮崎県は、JISの本からグリーンサンドすべてがJIS製品と思い込んで、判断をしている。フグリーンサンド粉砕品(jis製品)と言う記載はあり得ない表現である。 twitter.com/totitorihiki/s…
16:24:03

miyaNamonakui
宮崎県は、JISの本からグリーンサンドすべてがJIS製品と思い込んで、判断をしている。フェロニッケルスラグとグリーンサンドの区別や骨材と砂の区別が分かっていない。また、jis認定以外の粉砕品は、jis製品で無いことも分かっていない。 twitter.com/onigumoobasan/…
16:22:15

miyaNamonakui
現状有姿
あるがままの状態。製品の性能・品質を保証せずに提供する場合に用いられる語。
何人もJISと紛らわしい表記をしてはならない。#工業標準化法違反 twitter.com/onigumoobasan/…
16:18:29

miyaNamonakui
#日向精錬所産廃問題
現状有姿
あるがままの状態。製品の性能・品質を保証せずに提供する場合に用いられる語。
何人もJISと紛らわしい表記をしてはならない twitter.com/totitorihiki/s…
16:17:39

miyaNamonakui
グリーンサンド:コンクリート用スラグ骨材JIS A5011-2
上記製品の他、有姿品・粉砕品がある
現状有姿
あるがままの状態。製品の性能・品質を保証せずに提供する場合に用いられる語。
何人もJISと紛らわしい表記をしてはならない twitter.com/nails_intheroa…
16:16:56

miyaNamonakui
韓国の干ばつ被害深刻、100カ所で給水制限、水力発電停止も=...:レコードチャイナ 「『王に徳がなければ国に干ばつが訪れる』、ご先祖たちの言葉は正しかったようだ」 ln.is/recordchina.co…


錦の御旗(捨てると犯罪者!)@miyaNamonakui
日向製錬所越しにマスクを着用している情報はインターネットでは見当たりませんでした。
日向製錬所のフェンス沿いに、カメラでも持ってウロウロしていると、上等のマスクをした従業員が、人払いにきます。 twitter.com/honest_kuroki/…
16:50:10
miyaNamonakui
やまもといちろう  も 悪魔に魂を売ったように思うのは、私だけでしょうか? twitter.com/tsukiko0000/st…
05:31:08
totitorihiki
宮崎県の廃棄物行政は違法です。
多量排出事業者の産業廃棄物処理計画の実施状況等報告を廃棄物処理法の規定に反しホームページ4年以上公開しない違法な行政なので環境省が動きました - 不法投棄はやめましょう ブログ
blogs.yahoo.co.jp/hrzatc/1371318…
@totitorihiki をリツイートしました
05:30:13
ekaimami
宮崎県 多量排出事業者の産業廃棄物処理計画及び産業廃棄物処理計画実施状況報告の公表は4年以上違法に遅れていました。
以前の情報を早く、公開しないと違法です。 pref.miyazaki.lg.jp/junkansuishin/…
@ekaimami をリツイートしました
05:29:42
totitorihiki
@ene_gomi3R「フェロニッケルスラグを以前は廃棄物として処理していた」と、宮崎県知事が名言した。
フェロニッケルスラグとグリーンサンドを混同している
JIS規格製品と、JIS外有姿品の表現が紛らわしく工業標準化法違反 pic.twitter.com/32qenYRfiy
@totitorihiki をリツイートしました
05:29:35
teisitu
@ubaratter以前、産廃として埋めていたフェロニッケルスラグについて、廃棄物で無いと言う理由を公表すると、全国で不法投棄が増えるので公表しないとのこと。宮崎県知事。 pic.twitter.com/qbFz6G6cxo
@teisitu をリツイートしました
05:29:24
http://pbs.twimg.com/profile_images/752218791820439552/hAK_C-2n_normal.jpg
宮崎県の産業廃棄物多量排出事業者の報告書は、2015年12月1日に1年分だけ公開されました。過去に公開してなかったものも含めて3年分公開すると電話で聞いてたのだけどなあ。

twitter.com/azia_heiwa/sta…
@ene_gomi3R をリツイートしました
05:28:59
http://pbs.twimg.com/profile_images/596930542978797568/DER8Yztf_normal.jpg
逆止弁ボルト腐食 住化工場硝酸漏れ原因断定 (愛媛新聞): 【写真】事故が起きた硝酸プラントに実況見分に入る新居浜市消防本部の職員ら=2日午後、同市惣開町 9月28日夕、愛媛県新居浜市惣開町の住友化学愛媛工場新居浜地区の硝酸... bit.ly/WgrEG2
@ketsuaru をリツイートしました
05:28:20
http://pbs.twimg.com/profile_images/752016493542379522/cPUrCMsr_normal.jpg
「住友化学新居浜工場で爆発火災事故か-新居浜市惣開町 | 犯罪事件まとめ keimusho.net/crime/news/201…
@simanekomama をリツイートしました
05:27:46
http://pbs.twimg.com/profile_images/797007511668674560/HHOmgScf_normal.jpg
【 。∀ ゚】廃線反対!廃線跡地万歳!
youtu.be/6TyG0JckTLg
【1】出発!星越→新居浜港駅~惣開駅:住友別子鉱山鉄道 下部線廃線跡地を行く
( ´∀`) 新居浜大丸について説明してます。懐かしい人どうぞ。
@TRGN909 をリツイートしました
05:27:32
http://pbs.twimg.com/profile_images/797007511668674560/HHOmgScf_normal.jpg
【 。∀ ゚】廃線反対!廃線跡地万歳!
youtu.be/2QjzGukNl1E
住友別子鉱山鉄道 下部線廃線跡地を行く【2】
惣開駅~連絡線新居浜駅
・・・( ´―`) 廃線跡地らしい景色になってきました。
@TRGN909 をリツイートしました
05:27:07
mdkatc
新居浜市の環境(公害)事例と対策 住友金属鉱山 惣開小学校 新居浜市立惣開国民学校と改称 1947年新居浜市立惣開小学校となる 1979年(昭和54年)3月 床下に住友金属鉱山のスラグによるカドミウムが含まれる結晶物が隆起した。ブログ blogs.yahoo.co.jp/setouti_atc/32…
@mdkatc をリツイートしました
05:25:28
azia_heiwa
住友金属鉱山の土壌汚染を考えるかい。新居浜の公害の歴史
新居浜の住友ゆかりの地である惣開小学校からカドミウムなどの発がん性物質が検出されています。
原因は住友金属鉱山の製錬スラグです。
blogs.yahoo.co.jp/maruhuseikokuh…#住友土壌汚染
@azia_heiwa をリツイートしました
05:25:15
azia_heiwa
@izumiyouchien昭和54年3月 惣開小学校床下に結晶物が隆起、結晶中にはカドミウム等が含まれており、住友金属鉱山が埋めた尾鉱が原因 pic.twitter.com/QsgNinvgUT
@azia_heiwa をリツイートしました
05:25:08
http://pbs.twimg.com/profile_images/3470011855/6068a12054ce8b41a6b0bd8a7ae1ce69_normal.jpeg
日刊建設通信新聞 (会員登録) 住友別子病院/免震2.5万の新病院は約89億で鹿島JV 日刊建設通信新聞 (会員登録) 住友別子病院/免震2.5万㎡の新病院は約89億で鹿島JV. 住友別子… 2bit.tk/xMHp4
@mitsuisumitomok をリツイートしました


転載元: フクロウとやまんばの眼差し、天網恢恢疎にして漏らさず

[転載]南京大虐殺はなかった!松井石根大将、その生涯~天地も人もうらみず

[転載]北岳は、富士山に次ぐ日本第二の高峰であり、火山でない山としては日本で最も高い。日本百名山[3]、新・花の百名山[4]及び山梨百名山[5]に選定されており、同じく日本百名山の一峰の間ノ岳、日本二百名山の

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北岳   

北岳標高所在地位置山系種類初登頂
Mt.Kitadake.jpg
間ノ岳方面から望む北岳
3,193[1]m
日本の旗日本
山梨県南アルプス市
北緯35度40分28秒
東経138度14分20秒
座標: 北緯35度40分28秒 東経138度14分20秒[1]
赤石山脈
隆起
1871年名取直江[2]
北岳の位置
Project.svgプロジェクト 山
テンプレートを表示
北岳(きただけ)は、山梨県南アルプス市にある標高3,193m[1]の山。日本第二の高峰である[1]

概要

富士山に次ぐ日本第二の高峰であり、火山でない山としては日本で最も高い。日本百名山[3]新・花の百名山[4]及び山梨百名山[5]に選定されており、同じく日本百名山の一峰の間ノ岳日本二百名山農鳥岳とともに白峰三山を構成する[6]。「南アルプスの盟主」とも呼ばれる[7]。野呂川 (早川支流) の源流の山であり、山体は他の県と接しておらず山梨県内に含まれる。全山古生層の堆積岩から成る[8]。山体の東側斜面は北岳バットレスと呼ばれる岩壁があり、登攀対象ともなっている。

歴史

毛無山より白峰三山を望む
左から農鳥岳間ノ岳、北岳
古くから、北岳、間ノ岳農鳥岳一帯の山体は、「白い雪をかむった山」という意味で白根山または白峰山と呼ばれた。平安時代前期の和歌集『古今和歌集』では「君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは」と詠われ、平安期の『後拾遺和歌集』では、「いづかたと甲斐の白ねは知らねども、雪降るごとに思ひこそすれ」と詠まれた。鎌倉時代に成立した軍記文学平家物語』では「北に遠ざかりて雪白き山あり、問へば甲斐の白嶺といふ」と記された[9]
江戸時代後期に成立下甲斐国地誌甲斐国志』では、「南北に連なりて三峯あり、其北の方最も高き者を指して今専ら白峯と称す」と記された。南北に連なる白峰山の、一番北にあることから北岳と呼ばれるようになった[8][10]。現在では三つの峰それぞれを1つの山として取り扱っているが、これらの山々を合わせて白峰三山(しらねさんざん)と呼ぶこともある[6]
また、江戸時代に制作された甲斐国絵図類においても白根岳は富士山八ヶ岳とともに冠雪や雲上表現、登山道の省略など神格表現で描写されており、甲府盆地を抱く特殊な霊山として認識されていたと考えられている[11]
1964年(昭和39年)6月1日には、赤石山脈の多くの山域が南アルプス国立公園に指定され、山の上部はその特別保護地区、山腹は特別地域となっている[12]1980年(昭和55年)には北沢峠を越える南アルプススーパー林道が開通[13]し、その後長野県と山梨県の両方向から、登山及び観光用のバスが運行されるようになった。
2004年(平成16年)10月15日には国土地理院が最高点の標高を3,193mに改定[14]。それ以前標高3,192mと公表されていたが、山頂の三等三角点 (3,192.18m)[15]より南の岩盤の方が約80cm高いことが確認されたためである[14]

登山史・登攀史

1871年(明治4年)に、巨摩郡芦安村南アルプス市芦安)の修験者である名取直江が、広河原から白根御池を経由して登頂し、里宮・中宮・奥宮を造り開山したとされる[2][16]。これ以後、北岳登頂が多くの人物によってなされてゆく。
1902年(明治35年)8月23日には、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンが登頂し、1904年(明治37年)に日本を再訪問した際に再登頂した。この時、間ノ岳と仙丈ヶ岳にも登頂した[17]1905年(明治38年)には伊達九郎らが、白根御池から稜線ルートにて登頂[18]。日本山岳会初代会長である小島烏水1908年(明治41年)7月に登頂し、山頂に寛政7年(1795年)の年号が彫られた石祠を確認した[2]。積雪期に初登頂が成されたのは1925年(大正14年)3月22日のことである[9]。 当時京都三高山岳部であった西堀栄三郎桑原武夫ら4人が成し遂げた[9]
北岳バットレス登攀の動きも積雪期初登頂から少しして見られるようになる。初登攀は1927年(昭和2年)の7月18日[19]京都大学の高橋健治ら4人が第5尾根より無雪期に初めて登攀した[19]。初登攀から7年後の1934年(昭和9年)12月27日には、立教大学の浜野正男、榎本忠亮が東北尾根より積雪期の初登攀をした[19]。7つの岩稜の中で最後まで残されたのが積雪期中央稜である。この登攀が行われたのは戦後になってからで、1958年(昭和33年)に奥山章、芳野満彦らが積雪期初登攀を成した[19]。中央稜の初登攀は松濤明によって1942年7月30日に成された[19]。松濤はこの時20歳、飛騨山脈南部の槍ヶ岳北鎌尾根にて死亡する7年前だった。
1962年(昭和37年)、野呂川林道(後の南アルプススーパー林道の一部)開通により、山麓の広河原までのアクセスが向上。登山客が増加するきっかけとなった。
登頂を目指して活発に登山が行われた明治大正時代、1924年(大正13年)に登山者のための山小屋が造られた[18]。それから54年後の1978年(昭和53年)7月には、山梨県北岳山荘を建造した[20]
登山を趣味とする皇太子浩宮徳仁親王は国内の多くの山へ登っているが、北岳には1987年(昭和62年)8月11日に登頂した。白峰三山縦走の際にこれを果たした。また、浩宮徳仁親王はこの年の7月に日本山岳会に入会した[21]

地理

赤石山脈の北部に位置し、白根山系の北端となっている[22]。山脈の主要山系である赤石山系とは野呂川を挟んで隔たっている[22]。北岳の南方の稜線上には同じ白根山系に属する間ノ岳農鳥岳白峰南嶺の山々が連なっている[22]。東側には池山吊尾根[23]、北側には小太郎山のある小太郎尾根が延びる。北岳を含む白峰三山の稜線は赤石山脈の主稜線からは外れており、間ノ岳の西に位置する三峰岳で派生した支脈である。また北岳は野呂川の源流となっており、周囲を取り囲むように流れている。
山体は中生代の地層の堆積岩から構成される四万十層群に属する[24]。赤石山脈自体がこの四万十層群に属するという傾向がある[24]。北岳山頂部はやや険しい山容を示すが、これは石灰岩チャート、海洋玄武岩などの岩石が構成するメランジュとなっているためである[25][26]。これらの岩石は硬く侵食を受けにくく、よって赤石山脈ではあまり見られない鋭い峰を造る[26]。後述の北岳バットレスも石灰岩とチャートで構成され、なだらかな尾根の続く赤石山脈において、周囲とは異なった岩石が構成要素となっている[25]。また、北岳バットレスの岩石は海洋性のものであり、隆起前に堆積した海洋生物の化石が観察される[27]。一方、小太郎尾根はなだらかな山容を示し、これは泥岩や砂岩などの岩石が構成要素となっているからである[25]
地形には、褶曲構造が多く見られることが特徴として挙げられる[6]。褶曲構造は内的営力による造山運動が形成の原因である。一方3kmほどしか離れていない間ノ岳では圏谷(カール)が見られる。これは、外的営力による侵食運動が形成した氷河地形の一つである。他にも小太郎尾根には二重山稜が見られる[28]


北岳バットレス

北岳バットレスとは、北岳の東側斜面にある高さ約600メートル[19]の岩壁である。命名は20世紀初頭の人である小島烏水によるとされており[29]、戦前から攀じられてきたアルパイン・クライミングのクラシックルートである[30]。主に石灰岩やチャートから構成されていて[25]、大樺沢二俣から眺めることが出来る[31]。2010年10月10日未明[32]、第4尾根で大規模な崩落が発生し、登攀は禁止となった[33]

源流の河川

北岳を源流する河川は、富士川水系早川支流である野呂川。北岳を取り囲むように流れており、北岳の山体を西側から左俣沢、東側から大樺沢として削っている。左俣沢沢の上流部には落差10m程の左俣大がある[34]。また、同じく早川の支流である荒川も北岳を源流としているといえる[35]。荒川の源流は西農鳥岳が主であるが、北岳南側にある北沢も荒川に流れ込んでいるためである。山梨県道37号南アルプス公園線は、奈良田温泉方面から野呂川に沿って広河原まで延び、広河原から北沢峠方面に南アルプス林道が延び、この林道は南アルプス市の登山観光用バスに利用されている。北沢峠は野呂川の支流である北沢峠と天竜川水系の三峰川支流の戸台川との分水嶺である。北岳の山頂付近から延びる池山吊尾根、小太郎尾根、西尾根は野呂川で終端となる。

動植物

タカネマンテマ。北岳南稜頂上付近の登山道にて。2009年8月8日撮影。
草すべりの高山植物の群生地

北岳の植物

北岳を含む赤石山脈は、夏に降雨量が多いため、上部の森林限界ハイマツコケモモを除いて、コメツガシラビソなどの針葉樹林に覆い尽くされている[13]。森林限界の下部には、ダケカンバカラマツが多い。残雪が消えた山頂直下南東斜面の石灰岩質の場所では、北岳の固有種であるキタダケソウが咲き始める[36]。キタダケソウが世の中に紹介されるようになったのは1934年からである[29]。他に、高山植物の代表的な固有種であるキタダケトリカブトキタダケキンポウゲキタダケナズナキタダケヨモギなどが自生する。 キタダケソウ(環境省の絶滅危惧Ⅱ類)と共に、絶滅が危惧されている高山植物にタカネマンテマ(環境省の絶滅危惧ⅠA類)がある[37]。北岳の名を冠し保護が盛んに叫ばれているキタダケソウよりも深刻な状態にあり、盗掘などが原因で個体数が減少している[37]。2010年では100株以下に数を減らしていると考えられている[37]

登山道周辺の高山植物

各登山道周辺では以下の種が分布している[38][39]


北岳が取り扱われた作品

芸術・文学

転載元: フクロウとやまんばの眼差し、天網恢恢疎にして漏らさず

大阪から名古屋へ甲南チケット自販機で3250円也。新幹線の半額

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大阪上本町ハイハイタウン甲南チケット

蒲郡の歴史と文化財 藤原俊成と平忠度 蒲郡市博物

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蒲郡の歴史と文化財 藤原俊成と平忠度



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藤原俊成と平忠度

2012年度のNHK大河ドラマは『平清盛』でした。
後白河天皇と崇徳上皇が対立して戦った「保元の乱」(1156)が終結し、その3年後に起きた「平治の乱」で源氏は大敗、平家一門が台頭して、『平家物語』の有名な一節「平家にあらずんば人にあらず」の時代を迎えます。
しかし、おごれるものは久しからず。
治承4年(1180)に以仁王が発した平家討伐の命令によって全国の源氏が挙兵し、やがて「壇ノ浦の戦い」(1185)で平家は滅亡の憂き目をみます。
彼らの栄枯盛衰は『平家物語』として琵琶法師に語られたり読み物になったりしています。
数多くの人物が登場しますが、その中で、藤原俊成と平忠度は、蒲郡とゆかりのある人物です。
鎌倉時代に編さんされた歴史書『吾妻鏡』には、藤原俊成が開発した竹谷・蒲形荘についての記述が出てきます。
俊成から熊野社に寄進された領地は、熊野別当の湛快からその娘へ、娘から最初の夫行快(熊野別当)へ、
次いで娘の再婚相手の平忠度(清盛の異母弟、薩摩守)へと譲られました。
しかし平家が朝廷の敵となって敗れ、領地を没収されてしまいました。
湛快の娘は元の夫である行快に頼み、いずれは自分と行快との間の子に譲るという条件で協力を得て、領地を返してもらえました。
平忠度は、歌人としても優れた人で、藤原俊成から和歌を学んでいました。
寿永2年(1183)木曽の源義仲に追われて平氏一門が京都を離れて落ちのびる折、忠度は藤原俊成の屋敷に立ち寄り、
自分で詠んだ歌を書いた巻物を師に託しました。
俊成は後年その中から一首を選び「よみびとしらず」として歌集に載せています。
歴史展示室には、藤原俊成や、熊野と源平勢力関係の説明パネルもあります。


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藤原俊成

   
 
藤原俊成 時代 生誕 死没 改名 別名 墓所 官位 氏族 父母 兄弟 妻 子
Fujiwara no Shunzei.jpg
藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)
平安時代後期 - 鎌倉時代初期
永久2年(1114年
元久元年11月30日1204年12月22日
藤原顕広 → 俊成 → 釈阿
五条三位五条三位入道
京都府京都市伏見区深草願成町39周辺
正三位皇太后宮大夫
藤原氏北家御子左流→ 同勧修寺流→ 御子左流)
父:藤原俊忠、母:藤原敦家
養父:藤原顕頼
藤原俊忠#系譜参照
美福門院加賀ほか
藤原成家藤原定家建春門院中納言後白河院京極局ほか
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藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市)
愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある[1][2]


藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流権中納言藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流藤原顕頼猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名釈阿。最終官位正三位皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。


10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄の藤原顕頼の後見を得て国司を歴任するも位階は停滞。岳父である藤原為忠の「為忠家百首」への2度の出詠など、天承長承期(113135年)より詠作を本格的に始め、保延4年(1138年藤原基俊に師事。保延6・7年(114041年)自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを「述懐百首」に詠い上げる[3]崇徳天皇の歌壇の一員となり、「久安百首」を詠進する14名の歌人に加えられるなどの知遇を得る一方、美福門院加賀と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給で昇叙を果す[3]

保元元年(1156年)7月の保元の乱により崇徳院歌壇が崩壊。保元4年(1159年内裏歌会が再開されたが、二条天皇の歌壇では当時の歌の家であった六条藤家藤原清輔が重用された[4]仁安元年(1167年)俊成は念願の公卿非参議)となり、翌年御子左流に復す[5]。その後「住吉社歌合」「廣田社歌合」などの社頭歌合の判者を務めるが[3]安元2年(1176年)9月咳病悪化により出家する[6]

安元3年(1177年)に清輔が没し、治承2年(1178年九条兼実と初めて会談[6]、九条家歌壇に師として迎えられ「右大臣家百首」などを詠進する。寿永2年(1183年後白河院院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進[3]、名実ともに歌壇の第一人者となった。文治5・6年(118990年)には皇大神宮春日賀茂・住吉・日吉の5社に百首歌を奉納(「五社百首」)[7]建久4・5年(119394年)頃成立した「六百番歌合」(九条良経主催、俊成加判)では、六条藤家と御子左家の歌人たちがその威信をかけて激突した[7]

正治2年(1200年)以降歌壇を形成した後鳥羽院の命により「正治初度百首」「千五百番歌合百首」等を詠進。建仁元年(1201年)和歌所寄人、建仁2年(1202年)「千五百番歌合」の春歌第三・四巻の判者を務める。建仁3年(1203年)後鳥羽院より九十賀宴を賜り、鳩杖法服等を贈られる。元久元年(1204年)秋「祇園社百首」、11月10日「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年11月30日91歳で生涯を閉じた。

家集に『長秋詠藻』『俊成家集(長秋草)』等があり、『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。『詞花和歌集』以下の勅撰集に414首[8]が採録され、その数は貫之・定家に次いで歴代歌人3位である[9]。歌学書・秀歌撰に『古来風躰抄』『古今問答』『万葉集時代考』『正治奏状』『三十六人歌合』等がある。

歌風は「たかくすみたるを先として艶なるさまもあり」[10]、「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」[11]と評されたように格調高く深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景・心情を歌に映し奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立した。歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は、歌道から能楽茶道をはじめとする日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となった[12]。指導者としても、息子・定家をはじめとして、寂蓮藤原家隆後鳥羽院九条良経式子内親王など優秀な歌人を多数輩出し、新古今歌風形成に大きな役割を果たした。



平忠度

   
 
平忠度 時代 生誕 死没 墓所 官位 氏族 父母 兄弟 妻 子
Taira Tadanori.JPG
平忠度/右田年英画([[明治 時代]])
平安時代末期
天養元年(1144年
元暦元年2月7日1184年3月20日
兵庫県明石市忠度塚
神戸市長田区腕塚堂・胴塚
埼玉県深谷市清心寺
右衛門佐従四位上伯耆守
正四位下薩摩守
桓武平氏維衡流(伊勢平氏
平忠盛藤原為忠の娘
清盛家盛経盛教盛頼盛忠度、その他[1]
熊野別当湛快の娘
忠行
平忠度(小林清親画)
平忠度(菊池容斎画)
平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代平家一門の武将平忠盛の六男[1]平清盛の異母弟。


天養元年(1144年伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも[2])。紀伊国熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。
治承2年(1178年従四位上。治承3年(1179年伯耆守。治承4年(1180年正四位下薩摩守
歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した。『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している[3]
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
千載集六十六
『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集[4]。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。 源頼朝討伐の富士川の戦い源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。平家物語によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られて討たれた。その時箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。
行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし
彼が討たれた際、文武に優れた人物を…と敵味方に惜しまれたという。戦の後、忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市清心寺に供養塔を建立している。 兵庫県明石市には、忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。また忠度公園という小さな公園もある。神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚(地図)と胴塚(地図)がある(神戸市認定地域文化財)。
唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)の二番は、平家物語巻七「忠度都落ち」と巻九「忠度最期」の二場面を、続けて歌っている。即ち一度都落ちした忠度が京に取って返して歌の師・藤原俊成に、近々編纂される勅撰和歌集の為に自分の歌を託した事と、一の谷で忠度が討たれた時(「今はの際間」)に箙の中に残っていた歌が、「花や今宵の主ならまし」であった事を歌っている。
更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や 今宵」の歌

蒲郡市博物館博物館への交通アクセス

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年7月27日更新

鉄道でお越しの場合

JR東海道本線蒲郡駅もしくは名鉄蒲郡線蒲郡駅で下車。
南出口(海側)を出て、正面の「港町3番」交差点を渡り、突き当たりの広い道路まで直進後、「郵便局前」交差点を右折。
ガラス張りの建物(商工会議所)と海を左手に見ながら舗道を進み、「市民会館東」交差点を横断。
白い建物(蒲郡市民会館)と駐車場を抜けた先にあるグレーの建物が博物館です。
駅から徒歩で約10分
※博物館行きのバス路線はありませんので、蒲郡駅南口からタクシーをご利用下さい。

車でお越しの場合

高速道路音羽・蒲郡インターチェンジよりオレンジロードを南下。
東海道新幹線・JR線高架を通過後、「竹島入口」交差点を直進、「竹島園地」交差点を右折。
竹島水族館を過ぎ、道なりに進み、「郵便局前」交差点を通過。
「市民会館東」交差点を通過。
道路前方の白い建物(蒲郡市民会館)を過ぎると、駐車場の入口があります。
その向こうに見えるグレーの建物が博物館です。
無料駐車場 約300台分(蒲郡市民会館と共有)
  http://www.city.gamagori.lg.jp/uploaded/image/10939.gif

宇宙 から 見た 地球 蒲郡の科学館にて

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明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引

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明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛(現在の浜松市西区村櫛町)という地名が付くほどであった。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた(元は新居の神様)など、記録や伝承が残る。
この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになった。今切は文字通り「今切れた」という意味である。

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静岡県 蒲郡~豊橋~新井関~浜松~

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遠江

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
焼津上空から御前崎方面を望む。画面中央が大井川河口で、上半分が遠江。
遠江(とおとうみ)とは、かつての令制国の遠江国および、その領域にほぼ相当する現在の静岡県西部地方を指す時の呼称である。遠州(えんしゅう)とも呼ばれる。この記事では現在の行政区間である静岡県のうちの西部地方について述べる。

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遠江八景(とおとうみはっけい)は、浜名湖周辺にある八ヶ所の景勝地の総称である。歴史的・文学的・美術的な背景があることを基準として、2014年に静岡県が発表した[1]
短歌、俳句、浮世絵、詩歌などの題材になり、かつ、美しい景色が今もなお残っている場所を対象に[2]有馬朗人を始めとする遠江八景選定委員会が選定した[1]。八景それぞれの命名は瀟湘八景に則っている。つまり、先に地名二文字、後に季節や時間や天候を表す二文字、で構成されている[2]

[1][3]所在地 イメージ  備考 舘山秋月(たてやまのしゅうげつ) 浜松市西区Kanzanji-hotspring.jpg舘山寺(かんざんじ)周辺 弁天夕照(べんてんのせきしょう) 浜松市西区Bentenjinja Hamamatsu -03.jpg弁天島舞阪宿周辺 浜名暮雪(はまなのぼせつ) 湖西市Hamana Bridge01.jpg浜名大橋新居宿周辺 潮見晴嵐(しおみのせいらん) 湖西市Tokaido32 Shirasuka.jpg潮見坂白須賀宿周辺 瀬戸夜雨(せとのやう) 浜松市北区猪鼻湖周辺 五山晩鐘(ござんのばんしょう) 浜松市北区龍潭寺の山門方広寺龍潭寺大福寺
初山宝林寺、摩訶耶寺 寸座落雁(すんざのらくがん) 浜松市北区HamanakoSA-enchi.jpg浜名湖サービスエリア周辺 細江帰帆(ほそえのきはん) 浜松市北区細江町引佐町周辺
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『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。

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『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによると
試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。
待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。
武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。

[転載]マレーシアの歴史教科書

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中村信一
マレーシアの国定歴史教科書のタイトルが 「日本とのフレンドシップ・メモリアル」 であり、1ページ目が 「日本軍のコタバル上陸」 から始まる事実を、日本の多くの人々に知っていただきたい。
マレーシア・ペナン在住のイスマイル・ビン・ラザク氏を訪問した。
その時に、ペナン中学3年生お嬢様アイーシャさんより頂いたのが下記の教科書である。
現在使用されている、マレーシアの国定の中学歴史教科書である。  
マレーシアの歴史は日本軍のコタバル上陸から始まる。はっ、と驚いた。
国史の1ページ・・・それが・・・。 「それ以前の、数百年数千年の歴史はないのですか」とアイーシャさんに聞いた。
愚問だった。マレーシアは52年の歴史しかなかった。  
ブリッティッシュの老獪そして狡猾な植民地政策。
略奪を正当化するための愚民政策、人種を多層支配する分割統治。  
宗教は消され、歴史は消され、言葉は消され、文字を消される。
教育はない、自由もない、生きている意味さえ見出すことがむずかしかった。
この地で生まれたプライドさえ・・・。  
マレーシアのこの国定教科書に感謝したい。
事実を伝えることがどんなに大変なことか。  
アイーシャさんにもう一度尋ねた・・・。
「日本がコタバル上陸しなければどうでしたか」  
「マレーシアという国はなかったでしょう。今もブリティッシュの植民地のままでしょう」
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画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる

転載元: おばぁーのゆんたくひんたく

[転載]Day 33 ! :チョコレートの噴水に続く靖国・教科書問題

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とうとう靖国問題・教科書問題が話題に上った。
意識的に避けてきたわけでなくフラットメイト間での暗黙の了解「歴史問題はタブー!」


きっかけは、ワタクシの発言。
「チンギスハンの時代の日本との戦争ってさぁ~」
「えぇぇ??なんでそのこと知ってるの???!」
「えっ・・だって、歴史の教科書に・・」
「それそれそれそれ!それをずっと聞きたかったの!」
「日本の歴史の教科書にそんなこと書いてあるの?」


その場にいたのは、私(日本人)、中国人のフラットメイト二人、
日本と中国のナショナリズムと両国の関係について研究しているマレーシア人。


結局は、お互いに情報不足による誤解が根本にあるのではと思った。
中国人のフラットメイトは、日本の全ての学校でその問題になった教科書が使われ、
その教科書は戦時中日本が中国で何をしたかを一切記載していないと思っていた。
教科書ではネガティブな意味を持つ言葉は使われず、南京大虐殺Nanking Massacreが
南京問題Nanking Issueになっていることも知らなかった。

彼らは、ワタクシが南京大虐殺のことも731部隊のことも知っていると知ると、驚愕した。
「なんで知ってるの??!あなたはもう私の友達よ!」
↑歴史上の事実を知っていたら、友達になれるのか・・・。
反対に、今までは知らないと思われていたってことは、お友達じゃなかったのね・・・くすん・・・

靖国問題に関しては、「A級戦犯」が祀られていなければ、特に問題はないという。


日本人と中国人とそしてそれを専門に研究している第三者のマレーシア人がいてよかった。
冷静に両国からの視点の歴史と事実に関するプロフェッショナルでアカデミックな意見は貴重だった。


また、日本に住む日本人と地球上の六分の一の人口が住む中国の中国人だけの問題ではない。
両国外にいる両国からの留学生だって、リアルタイムでニュースを手にする。
ニュースで報道されるのは、ネガティブな面である。ある意味、それがニュースだから。
その問題が表面的なトラブルを引き起こすことはまだないけれど、雰囲気が硬くなったのは確か。
世界中にいる凄まじい数の、中国に住まない中国系の中には、未だ「中国人」としての
アイデンティティーを持ち続けている人もたくさんいる。
そういう人たちの存在も無視してはいけないのでは?

その中国人の一人は、愛国教育は問題だという。もう一人は愛国教育は素敵じゃない!という。
自国に対する愛情を深める愛国教育は素敵。
ただ、中国の愛国教育はクセがある。。。
広大な国土に凄まじい数の人口を抱えた国が国民をまとめるためには効果的な教育だけど。


基本的には靖国問題も教科書問題も日本の内政問題である。
隣国に文句言われたから、じゃ、やっぱやめましょ!とコソコソと退散しろというのではない。
オレ様はオレ様がしたいことをするんだい!文句あっか!?という行為によりもたらされる、
将来の日本の国益に対する影響を少しは考えたほうがいいのでは?
ジャイアンはそのわがままにより、最後にいつも泣くし。
本当に、真の意味で、日本と日本国民のためになることをしている?


中国と日本の地図を書いて話してくれた。
「戦前、日本は蚕(の形)で、中国は桑の葉(の形)。戦中、蚕に桑を食べられて、
戦後、中国は鶏(の形)になり、蚕を食べちゃった!」

う~ん・・・
食べられないようにしようね、日本よ・・・



その話題の前は、マレーシア人と中華料理屋でマレーシアの民族問題について討論。
せっかく、勉学から離れて、食べることだけに集中しようと思ったのに・・・
何をしていても、考えるのは「民族関係」。。。。病気だな。

このレストラン、なんと、チョコレートの噴水がある!!
要するに、チョコレートが噴水から湧き出ていて、チョコレートフォンデュの要領で
フルーツやクッキーをチョコレートでコーティングして食べる!というもの!!
楽しかった~!! おとぎの国に来たみたいだった!!


本日の歩数:午前3時現在 11,306歩

本日の写真:嬉々としてチョコレートの噴水で遊ぶワタクシの右腕。

転載元: トリニダードに暮らす。

マレーシアの教科書では、マレーシアの歴史は日本軍の進軍から歴史が始まったと記述されている。

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マレーシア国定中学校歴史教科書
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page...

マレーシア国定中学校歴史教科書
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-ent...

日本軍のコタバル上陸から始まるマレーシア歴史教科書
http://www.nipponnosekaiichi.com/mind...

マレーシアの歴史は日本陸軍コタバル上陸から始まる・・・マレーシアの国定教科書
http://ameblo.jp/tosyusai-syaraku/ent...

マレーシア人はなぜ親日家が多いのか
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/...
KSM最近の動画
【KSM】日本はアジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。元アムステルダム市長 エドゥアルド・ヴァン・ティン
https://www.youtube.com/watch?v=Eas0B...
【KSM】日本を分割占領案から守ってくれたセイロン(現スリランカ)代表ジャヤワルダナ氏の名演説
https://www.youtube.com/watch?v=DxvjV...



マレーシアの歴史   

マレーシアの歴史先史時代初期の王国 イスラム王国の勃興 ヨーロッパ植民地 第二次世界大戦 マレーシアの変遷期
History of Malaysia
この記事はシリーズの一部です。
ランカスカ (2c–14c)
盤盤 (3c–5c)
シュリーヴィジャヤ王国 (7c–13c)
クダ王国マレー語版英語版 (630-1136)
クダ・スルタン国英語版 (1136–現在)
マラッカ王国 (1402–1511)
スールー王国 (1450–1899)
ジョホール王国 (1528–現在)
ポルトガル領マラッカポルトガル語版英語版 (1511-1641)
オランダ領マラッカオランダ語版英語版 (1641-1824)
海峡植民地 (1826–1946)
イギリス領マラヤ (1874–1946)
マレー連合州英語版 (1895–1946)
マレー非連合州英語版 (1909–1946)
サラワク王国 (1841–1946)
北ボルネオ英語版 (1882–1963)
日本占領下 (1941–1945)
マラヤ連合 (1946–1948)
マラヤ連邦 (1948–1963)
独立 (1957)
マレーシア連邦 (1963–現在)

マレーシア ポータル
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中世

  • 13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
  • 1400年マラッカ王国成立。1408年マラッカ王国の独立を当時のが承認。

近世

近代

イギリスによる植民地統治時代

戦争とマラヤ危機

「マレーシア」の成立








コタバル

   
コタ・バル座標 : 北緯6度08分00秒東経102度15分00秒 / 北緯6.13333度 東経102.25000度 / 6.13333; 102.25000行政 州 地理   域 人口人口  域
Jalan Temenggong, Kota Bharu.jpg
マレーシアの旗マレーシア
クランタン州の旗クランタン州
コタ・バル
面積 
394 km2 (152.1 mi2)
(2011年現在)
491,237人
公式ウェブサイト : http://www.mpkb.gov.my/

マレー作戦(マレーさくせん、馬来作戦、日本側作戦名「E作戦」)は、太平洋戦争(大東亜戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。

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マレー作戦

   
マレー作戦 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
Japanese troops mopping up in Kuala Lumpur.jpg
イギリスマレークアラルンプールに突入する日本軍部隊
戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日1941年12月8日 - 1942年1月31日
場所マレー半島
結果:日本軍の勝利
大日本帝国の旗大日本帝国イギリスの旗イギリス
オーストラリアの旗オーストラリア
イギリス領インド帝国の旗イギリス領インド帝国
War flag of the Imperial Japanese Army.svg山下奉文Flag of the United Kingdom.svgアーサー・パーシヴァル
35,000[1]88,600[2]
戦死1,793、戦傷2,772損害約25,000
うち遺棄死体約5,000、捕虜約8,000[3]
南方作戦
マレー作戦(マレーさくせん、馬来作戦、日本側作戦名「E作戦」)は、太平洋戦争大東亜戦争)序盤における日本軍イギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。

太平洋戦争(大東亜戦争)における最初の作戦である(つまり、「真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった」という一部の記事にある記述は誤りである)。世界史的には、本攻撃によって第二次世界大戦ヨーロッパアフリカのみならずアジア太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

1941年12月8日マレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。


背景

開戦時における日本軍の戦略目標は、石油天然ガスゴムなどの豊富な天然資源を持つオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるイギリスの植民地であるマレー半島およびシンガポールを攻略する必要があった。

当時シンガポールは、新造戦艦プリンス・オブ・ウェールズレパルスを基幹としてアジア太平洋地域とインド洋一帯を確保せんとしたイギリス東洋艦隊の根拠地であった。またイギリスの東南アジアにおける植民地支配の中心拠点でもあった。そのため、ヨーロッパやアフリカ戦線においてイギリスの抵抗に手を焼くドイツにとってもイギリスの資源補給線であるインド洋を抑える意味から日本軍による攻略を切望するところであった。

長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールは、日英同盟の破棄以降イギリス軍によって防御設備の強化が進められ「東洋のジブラルタル」とも称されていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ(38センチ)砲をはじめとする重砲群とトーチカ群が構築され、さらに多数の戦闘機群が配備されて難攻不落の要塞と言われていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島におけるイギリス軍の防備は手薄であったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となると考えられていた。

上陸可能地点であるタイ領内のシンゴラ(ソンクラ)からシンガポールまでは1,100キロの距離があり、マレー半島を縦断する道路は一本道で両側には鬱蒼たるジャングルとゴム林が広がっていた。さらに半島には大小約250本の河川が流れ、南に撤退するイギリス軍が橋梁を破壊すれば容易に日本軍の進撃を阻止できると考えられた。その間にイギリス軍はシンガポール北側の防備を強化することができると考えていた。

日本軍が持つことのできる時間的余裕は長くはなかった。大本営は、「(マレー半島内のイギリス軍を放逐しつつ)マレー半島を70日以内で縦断してシンガポールを攻略する」という目標を立て、作戦準備を開始した。

経過

コタバル強襲上陸

マレー作戦の推移

マレー半島東岸は断崖地形が続き、上陸作戦が可能な海浜はイギリス領東北端のコタバル(コタ・バル)か、数少ないアジアにおける独立国であるタイ王国領内のみであった。イギリス軍はコタバルに1個旅団を配置しトーチカ陣地を構築していた。コタバルへの上陸作戦の方法としては、制空権を奪取した上で敵陣へ準備砲爆撃を加えるという正攻法も検討されたが、マレー作戦全体の所要日数を考えればそのような時間の余裕はなかった。かくして準備砲爆撃なしにいきなり敵前への上陸を敢行するという強襲上陸が決行された。

第18師団歩兵第56連隊を基幹とする佗美支隊5,300名は、淡路山丸綾戸山丸、佐倉丸の3隻と護衛艦隊(軽巡川内基幹の第3水雷戦隊)に分乗し、加藤隼戦闘隊による一式戦闘機7機の護衛の下、12月8日未明(日本時間)にコタバルへ接近した。波高は2メートルを超え上陸用舟艇への移乗は困難を極めた。午前1時30分、コタバルの海岸線で英印軍第8旅団6,000名との交戦が始まった。

第1次上陸部隊の松岡大隊、数井大隊と那須連隊長は予想外の激しい抵抗を受け両大隊長とも負傷し、中隊長以下多数の死傷者を出した。第2次上陸部隊の中村大隊と佗美支隊長は運悪くトーチカ正面に突き当たり中村大隊長は上陸と同時に戦死した。イギリス空軍も出撃し、淡路山丸は多数の命中弾を受け炎上沈没、太平洋戦争に於ける被撃沈第1号となった。綾戸山丸、佐倉丸も被弾し、船団は一時退避を余儀なくされた。

佗美支隊は苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保し、8日夜には大雷雨を衝いて夜襲により飛行場を制圧。9日昼にコタバル市内を占領した。上陸作戦によって戦死320、負傷者538の損害を受け、舟艇も多数を失ったものの作戦は成功した。佗美支隊はその後、1月3日までに東海岸の要衝クアンタンを制圧し、第25軍主力と合流した。

マレー沖海戦

マレー沖海戦におけるプリンス・オブ・ウェールズとレパルス
スクランブルを受けてF2A バッファローに乗り込むパイロット

イギリス海軍の最新艦であったプリンス・オブ・ウェールズレパルスは、12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着したばかりであった。12月8日に、日本軍がマレー半島に侵攻した(en:Bombing of Singapore (1941))との報を受け、両戦艦は上陸部隊を撃滅すべくシンガポールを出撃した。

しかし、イギリス海軍は航空機による戦艦に対する攻撃能力を甘く見ただけでなく、両戦艦に直掩機をつける余裕がなかったため、両戦艦は10日にマレー半島東方沖で九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機による雷撃と爆撃を受け、撃沈された。これによりイギリスの東洋艦隊主力が壊滅してしまったため、マレー半島東岸の制海権が日本軍の手に帰したのみならず、後のインド洋におけるイギリス海軍の敗北の序章となってしまう。

なお両艦の撃沈は、「行動中」の戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された世界初のケースであった。また、当時イギリスの首相であるウィンストン・チャーチルは「あの艦が」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と後に回顧録の中に記している。

ジットラ・ライン突破

第5師団は、マレー半島北端のタイ王国の領内のシンゴラおよびパタニに上陸した(陸軍船舶部隊特種船こと揚陸艦神州丸に座乗の山下中将以下、第25軍司令部もシンゴラに上陸)。

日本軍は、当時の東南アジアにおける唯一の独立国であり、親日的なタイに対する攻撃意図は全くなく通過を申し入れるのみであったが、中立を守ろうとするタイ軍との間で一部で小競り合いも起きた(日本・タイ双方で少なくとも約270名が戦死している[5])。プレーク・ピブーンソンクラーム首相と坪上貞二駐タイ大使との間で、12月に日泰攻守同盟条約が締結され、日本軍はタイ領を通過した(en:Operation Krohcol)。第5師団の先頭を突き進むのは佐伯静雄中佐率いる捜索第5連隊(騎兵部隊から改編された機械化部隊)に砲兵・工兵を加えた佐伯挺進隊581名であった。

対するイギリス軍はタイ経由の日本軍侵攻を警戒しており、対日開戦直後にタイ領南部へと侵略を行い、タイ警察の抵抗を排除して防衛線を築いていた。しかし、進撃してきた佐伯挺進隊により、短時間で突破されてしまった。

イギリス軍は、タイとイギリス領マレーの国境近くのジットラ英語版には、ジットラ・ライン(ジットラ陣地)と呼ばれる防御陣地を構築していた。狭隘な地形を利用しており、英印軍第6、第15旅団からなる兵力6,000、装甲車90両が展開、強固さは「小マジノ線」とも称され、イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語していた。

だが、本来ジットラは湿地帯であり構築段階での工事は難航、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていた。そこに目をつけた日本軍は、「マレーのハリマオ」として現地で名をはせていた盗賊・谷豊と彼を引き入れた諜報員・神本利男をジットラ・ラインに潜入させた。 まず谷が仲間とともに陣地の測量を行い、神本がそのデータをタイ王国公使館附武官の田村浩大佐を通じ本国へと送った。第5師団はこのデータを基にして、半年にわたって演習を重ねた。

続いて一党は二人一組に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入った。この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れた。

12月10日、佐伯挺進隊は九七式軽装甲車を先頭にタイ・イギリス領マレー国境を通過。さらに11日にアースンの国境陣地を突破したため、九七式中戦車10両・九五式軽戦車2両を装備する戦車第1連隊第3中隊等が佐伯中佐の指揮下に入り特別挺進隊を編成、ジットラ・ライン突破に当たった(en:Battle of Jitra)。12日未明予期せず砲撃を受け、特別挺進隊は東側の敵陣地に戦車で夜襲をかけ一角を占領、夜が明けるとその場所こそがジットラ・ラインであった。12日昼間は猛烈な砲撃を受けるが午後には歩兵部隊も到着。その夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、午後5時に英印軍はジットラ・ラインから全面退却した。

ジットラ・ラインをわずか1日で、しかも581名の佐伯挺進隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利であった。佐伯挺進隊の戦死27、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上。この勝利により山下中将は作戦のスケジュールを繰り上げた。


マレー半島進撃

マレー半島の橋梁を破壊するため爆薬を設置するイギリス軍工兵
イギリス軍により交通路を遮断されたジョホール海峡
降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将

マレー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。

馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。この作業には各師団の工兵隊と独立工兵連隊とが文字通り不眠不休であたった。西海岸では舟艇機動も効果を発揮した。20人乗りの舟艇30隻を用意して運び込み、十数回にわたって海上をつたってイギリス軍の背後を奇襲した。マレー半島西岸の制海権はいまだイギリス側にあったが、イギリス海軍はこれに対して何の手も打てなかった。

年が明けて1月6日、日本軍はスリム(en)でイギリス軍の堅陣にぶつかった(en:Battle of Slim River)。ここで戦車第6連隊の島田豊作少佐は戦車の機動力を頼りとする戦車夜襲を決行する。島田は7日午後11時から、九七式中戦車九五式軽戦車が中核となった夜間突撃を敢行した。これにより1日で全縦深を突破し、逃げ遅れた英印軍1個師団を包囲し壊滅させた[6]。イギリス軍によるマレー半島有数の都市であるクアラルンプールの防衛計画は崩壊し、12日に同市は放棄された。

1月14日にはイギリス軍を追撃中の向田支隊(戦車第1連隊基幹)がゲマス英語版でオーストラリア第8師団の逆襲を受け壊滅するという一戦もあった(en:Battle of Gemas)。1月中旬、近衛師団が前線に到着し、疲労した第5師団に代わって第一線に立った。19日、近衛歩兵第5連隊第2大隊はバクリen)で英印軍第45旅団と対戦し、大柿大隊長以下6割の死傷者を出しながらも英印軍を殲滅、第45旅団長を戦死させた(en:Battle of Muar)。


ジョホール・バル到達

1月末、日本軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、イギリス軍はマレー半島内での抗戦をあきらめシンガポール島内へ退却した。1月31日、最後の部隊がジョホール・バルを脱出し、工兵隊がマレー半島とシンガポール島とを結ぶ土手道(コーズウェー)を爆破した。同日、第5師団と近衛師団の先頭部隊は相次いでジョホール・バルに突入、ここにマレー半島での戦闘は終結した。

日本軍は12月8日の上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。海上機動も650キロに及んだ。日本軍の損害は戦死者1,793名、戦傷者2,772名。イギリス軍は遺棄死体5,000名、捕虜8,000名を数えた。

シンガポール攻略


2月8日に、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸した。主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入するが、そこでイギリス軍の強力な砲火を受け動けなくなった。その後は日英軍ともに消耗戦が続き、15日には日本軍の砲弾も底をつき一時的な攻撃中止もやむなしと考えられていたとき、イギリス軍の降伏の使者が到着した。水源が日本軍により破壊され、上下水ともに給水が停止したことが抗戦を断念した最大の理由であった。

シンガポール攻略戦での日本軍の戦死者は1,713名、戦傷者3,378名。イギリス軍は約5,000名が戦死し、同数が戦傷したと言われ、さらに10万人が捕虜[7]となった。これはアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来のイギリス軍史上最大規模の降伏であり、近代のイギリスにおいて最大かつ歴史的な屈辱であった。


影響

降伏するイギリス軍
シンガポール市内を行進する日本軍

日本軍は驚異的な速度でマレー半島を進軍し、イギリス軍を急追して開戦以来70日でマレー半島およびシンガポールを陥落させた。日本軍は戦前から周到な準備を重ね、陸軍の進撃を海軍と航空部隊が支援し(ただし第3飛行集団は作戦後半になって蘭印方面へ転用された)、また歩兵、工兵、戦車がよく協力しあった。日本軍の南方作戦は順調なスタートを切り、その後3月にはオランダの植民地のジャワ島、5月にはイギリスの植民地の現ミャンマーを制圧して、開戦時に於ける作戦目標を達成した。

一方、イギリス軍は本土防衛に注力せざるを得ない状況であったうえに、情報不足ということもあり敵の戦力を過小評価して準備不足のまま戦争に突入した。植民地から調達した多民族からなる軍隊はまとまりを欠き、陸海空相互の協力も不十分であった。


[転載]マレ-・コタバル上陸は真珠湾攻撃より早やかつた!

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第5師団は1941年12月8日0410シンゴラに、0430パタ二-に奇襲上陸に成功し、タイ国軍と軽戦の後、進駐交渉が完了して停戦しました。
一方の、たく美支隊は8日0215上陸に成功しましたが、それは実に真珠湾攻撃に先立つこと1時間余りでした。真珠湾ばかり有名になりましたが・・・。
が、同支隊は水際の英国軍陣地から猛烈な砲火を浴びて損害が続出し、次いで0330頃から英国軍機の攻撃を受けて淡路山丸を失いました。
大東亜戦争第1号の海没輸送船になりました。同輸送船の多くは民間人でしょう!
イメージ
マレ-半島とシンガポ-ル、上陸地点から約1000キロを50日で占領が目標でしたから1日平均20キロの前進が必要でした。第25軍司令官の頭には「奇襲と突進」の2つの事しかありませんでした。
イメージ
第3飛行集団は8日未明、航空撃滅戦を開始し、北部マレ-の英国軍機を圧倒し、シンガポ-ル方面に退避させ、8日11時占領したばかりのシンゴラ飛行場に戦闘機部隊が進出しました。かの有名な加藤隼戦闘機部隊ですよ!
また、海軍航空部隊も8日未明、長駆、シンガポ-ルを攻撃し引き続き南部マレ-の航空撃滅戦を続行して開戦2日で早くも大勢が決まりました。



https://history.blogmura.com/ *大東亜戦争ブログ村のクリツクに感謝します!

転載元: パプアの戦いのブログ


Japanese occupation of Malaya

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完全再現!史上最強の軍隊 日本vsイギリス マレーの虎  

Japanese occupation of Malaya

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Japanese-occupied Malaya
Malai (マライ,Marai)
Military occupation by the Empire of Japan
1941–1945
Japanese possessions in British Malaya on 1942.
CapitalKuala Lumpur(de facto)
GovernmentMilitary occupation
Historical eraWorld War II
 • Pacific War begins8 December 1941a
 • Japanese troops land on Kota Bharu
8 December 1941
 • British troops retreat to Singapore31 January 1942
 • Surrender of Japan15 August 1945
 • British Military Administration set up
12 September 1945
 • Formation of Malayan Union
1 April 1946
CurrencyJapanese-issued dollar ("Banana money")
Preceded by
Succeeded by
Federated Malay States
Straits Settlements
Perlis
Kedah
Kelantan
Terengganu
Johor
British Military Administration (Malaya)
Today part of Malaysia
a.The Pacific War started on 8 December 1941 in Asian time zones, but is often referred to as starting on 7 December, as that was the date in European and American time zones (such as for the attack on Pearl Harbor in the United States' Territory of Hawaii).
Part of a series on the
History of Malaysia
The independence of Malaya and the merger proclamation of North Borneo and Sarawak to formed Malaysia.
Flag of Malaysia.svgMalaysia portal
Malaya was gradually occupied by the Japanese between 8 December 1941 and the Allied surrender at Singapore on 16 February 1942. The Japanese remained in occupation until their surrender to the Allies in 1945. The first Japanese garrison in Malaya to lay down their arms was in Penang on 2 September 1945 aboard HMS Nelson







Conquest[edit source]

HMS Prince of Wales sinking after being hit by Japanese bombs and torpedoes on 10 December 1941.
Japanese troops take cover behind steam engines at the Johor railway station in January 1942
The occupation commenced with Imperial Japanese Army landings at Padang Pak Amat beach Kota Bharu just after midnight on 8 December 1941, triggering a ferocious battle with the British Indian Army an hour before the attack on Pearl Harbor. This battle marked the official start of the Pacific War and the start of the Japanese occupation of Malaya. Kota Bharu airport was occupied in the morning. Sungai Patani, Butterworth, and Alor Star airports were captured on 9 December 1941. Japanese soldiers landing at Kota Bharu divided into two separate forces, with one moving down the east coast towards Kuantan, and the other southwards towards the Perak River. On 11 December 1941, the Japanese started bombing Penang. Jitra and then Alor Star fell into Japanese hands on 12 December 1941. The British had to retreat to the south. On 16 December 1941, the British left Penang to the Japanese, who occupied it on 19 December.
The Japanese continued to advance southwards, capturing Ipoh on 26 December. Fierce resistance to Japanese progress in the Battle of Kampar lasted three days and three nights between 30 December 1941 and 2 January 1942, before the British had to retreat once again. On 7 January 1942, two brigades of the 11th Indian Infantry Division were defeated in the Battle of Slim River, giving the Japanese army easy passage to Kuala Lumpur, the capital of Malaya. On 9 January, the British position was becoming more desperate and the ABDACOM Supreme Commander, General Wavell, decided to withdraw all the British and Commonwealth forces south to Johor, thus abandoning Kuala Lumpur (which was captured by the Japanese on 13 January).


Japanese policy

Japanese policy for the administration of occupied territories was developed in February 1941 by Colonel Obata Nobuyoshi (Sectio


シンガポールの戦い(シンガポールのたたかい、英: Battle of Singapore)は、第二次世界大戦の東南アジア戦域で、1942年2月7日から2月15日にかけて行われた戦闘である。2倍を超える

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Malay Tamils working on the Thai-Burma railway

シンガポールの戦い

   
第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 南方作戦 > シンガポールの戦い
シンガポールの戦い 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
Surrender Singapore.jpg
降伏交渉へ赴くアーサー・パーシヴァル中将の一行
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1942年1月31日から2月15日
場所Flag of the British Straits Settlements (1874-1925).svgシンガポール(海峡植民地)
結果:日本軍の決定的勝利
日本によるシンガポールの占領
大日本帝国の旗大日本帝国イギリスの旗イギリス
Flag of the Federated Malay States (1895 - 1946).svgイギリス領マラヤ
イギリス領インド帝国の旗イギリス領インド帝国
オーストラリアの旗オーストラリア
War flag of the Imperial Japanese Army.svg山下奉文Flag of the United Kingdom.svgアーサー・パーシヴァルWhite flag icon.svg
36,00085,000
戦死 1,715
戦傷 3,378
戦死 約5,000
捕虜 約80,000
南方作戦
シンガポールの戦い(シンガポールのたたかい、: Battle of Singapore)は、第二次世界大戦東南アジア戦域で、1942年2月7日から2月15日にかけて行われた戦闘である。2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した結果、英国が率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。当時の英国首相であったウィンストン・チャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と評している。[1]

背景

1941年12月に、大日本帝国陸軍第25軍マレー半島に上陸した時、英領インド軍第3軍団(オーストラリア第27旅団および幾つかの英本国軍大隊を含む)がこれに立ち向かった。北部マレー半島で日本軍は数的にはわずかに優勢であるにすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘経験において優越していた。
日本軍に航空優勢をとられたため、連合軍は切り札として期待していたイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを出撃させたが、大日本帝国海軍の陸攻隊に撃沈されてしまった(マレー沖海戦)。日本軍は難攻不落の要塞と考えられていたシンガポール島にむけ、マレー半島を着実に進撃した。シンガポールは第二次世界大戦における連合軍初の合同司令部である、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合司令部(ABDA司令部, ABDACOM)の結節点であった。
1月31日、最後の連合軍部隊がマレー半島から撤退し、工兵隊がジョホール・バルとシンガポールを結ぶジョホール・シンガポール・コーズウェイを爆破して約20mの穴をあけた。しかし、その直後には日本軍の襲撃部隊や浸透部隊がゴムボートを用いてジョホール海峡を渡り始めていた。

作戦準備

連合軍司令官のアーサー・パーシヴァル中将の指揮下には、(書類上では)4個師団強に相当する8万5千の兵力があった。うち約7万人の戦闘部隊は38個歩兵大隊(英印軍17個大隊、英本国軍13個大隊、オーストラリア軍6個大隊、マレー人・シンガポール人の2個大隊)と3個機関銃大隊を基幹としていた。このうち2個師団は1月以降に護送船団で到着したばかりで、海上輸送中の損害は少なかったが、2月5日到着の最後の船団で客船「エンプレス・オブ・エイジア」が撃沈されて搭載物資を全損していた。新着のイギリス軍第18師団(師団長M. ベックワース=スミス少将)は、完全編成部隊ではあったが、戦闘経験と適切な訓練を欠いていた。その他の部隊のほとんどはマレー半島での損害から回復する時間はなく、定数を割り込んだ状態であった。現地人大隊はやはり戦闘経験が無く、いくつかの部隊は戦闘訓練すら未了であった。
パーシヴァルはG.ベネット少将指揮下の第8オーストラリア師団から抽出した2個旅団に西地区防衛の任務を与えた。この地域には主要な侵攻が行われたシンガポール島の北西部が含まれていた。この地域の主な地形は川や小川で区切られたマングローブが生い茂る湿地やジャングルであった。戦闘経験のない第22旅団は西側の約16kmの区域を担当し、第27旅団(マレー半島での後退戦でほぼ1個大隊の損害を受けていた)が北側の約3.6kmの区域を守った。到着したばかりのオーストラリア第2/4機関銃連隊が歩兵の支援にあたった。また、第44インド旅団がベネット少将の指揮下におかれた。
サー・ルイス・ハート中将指揮下の第3インド軍団は、第11インド師団(師団長B.W.ケイ少将)、第18師団、第15インド歩兵旅団からなり、北地区の防衛を担当した。市街地の主要部を含む南東部のシンガポール要塞はF.K.シモンズ少将が指揮した。シモンズ少将の指揮下には、書類上では18個大隊があり、その中には第1マレー歩兵旅団、海峡植民地義勇兵旅団、第12インド歩兵旅団が含まれていた。
第25軍司令官 山下奉文中将とその参謀たちは、航空偵察・地上偵察・侵入偵察、海峡近くの制瞰高地(たとえばジョホール・スルタンの宮殿)を占領したことなどから、連合軍の配置に関する情報は十分に得ていた。2月3日に日本軍の準備砲撃が始まった。英国空軍が10機のホーカー ハリケーン戦闘機を増派したが、この後5日間、日本軍の爆撃が強化されることを阻止することはできなかった。砲爆撃の激しさは第1次世界大戦での恐ろしい砲撃に比較されたほどであった。この準備攻撃によって連合軍部隊と上級司令部との連絡が混乱した。また防衛準備の行動も影響を受けた。連合軍には爆撃機戦力がなく砲兵戦力も不足していたため、この日本軍の攻撃に反撃することはできなかった。
シンガポールには、名高い大口径要塞砲として、3門の15インチ砲をもつ1個砲兵中隊と15インチ砲2門をもつ別の1個中隊が含まれていた。これらの要塞砲は東方海上からの攻撃に備えて配置されていたため、一部は全周旋回できない設計であった[2]。そのため、日本軍の侵攻ルートであるマレー半島側を砲撃できないものがあり、海を向いて配備された要塞砲は日本軍による再利用を防ぐためにあらかじめ解体処分された[3]。また、要塞砲には主に対艦砲撃用の徹甲弾が配備され、対人殺傷効率の高い榴弾が配備されていなかったため、陸上部隊に対する砲撃の効果は少なかった[2]。戦前に構築されたトーチカ鉄条網、対戦車障害物なども東海岸を中心に配置されていたため、マレー半島側からの侵攻には無防備だった。ウェーベル大将は日本軍侵攻の数週間前から、マレー半島に面した島の北側・西側の防備強化を指示していたが、空襲により民間労働者の規律が乱れたことによる労働力不足や、配備する兵力不足のため、防備強化は進まなかった[2]
山下中将の指揮下には、近衛師団(師団長・西村琢磨中将)、第5師団(師団長・松井太久郎中将)、第18師団(師団長・牟田口廉也中将)の3個師団からなる3万強の戦闘部隊があった。また、近衛師団には軽戦車旅団が配属されていた。

戦闘経過

日本軍の侵攻

マレー半島とシンガポールをつないでいたジョホール・シンガポール・コーズウェイの爆破によって、日本軍の攻撃は1週間遅れることになったが、これによって侵攻が不可能となったわけではなかった。2月8日午後8時30分、オーストラリア機関銃兵が第5、第18師団のシンガポール侵攻第1波4000名の将兵を搭載した舟艇に砲火を開いた。 激しい戦闘が終日続いたが、次第に日本軍兵力の増加が、砲兵・航空戦力・情報での優越と相まって、物を言い始めた。北西部では、日本軍が薄く広がった連合軍の防衛戦のそこかしこに、まるでそのあたりのあちらこちらにある小川のように小さな裂け目をうがち始めた。真夜中までに、オーストラリア軍の2個旅団は互いに連絡することが出来なくなり、第22旅団は後退を強いられた。翌日の午前1時には日本軍の増援が北西地区に上陸し、オーストラリア軍は最後の予備隊を戦闘に投入した。
2月9日の夜明けまでに第22旅団の一部は蹂躙され、あるいは孤立したり降伏したりしていた。オーストラリア軍第2/18大隊は兵力の50%以上の損害を受けていた。パーシヴァル中将は北東地区で第2次上陸が行われるであろうと考え、苦戦している第22旅団を増援しなかった。日本軍の上陸作戦の重点は第44旅団が守る南西地区に移った。この日の残りには、西地区の連合軍部隊はさらに東への後退を強いられた。ベネット少将は第二次防衛線の構築を決意した。
北地区の第27旅団は2月9日午後10時の近衛師団の上陸まで戦闘にさらされていなかった。この上陸作戦は日本軍に不利なものとなった。日本軍はオーストラリア軍の迫撃砲と機関銃の射撃によってかなりの損害を受け、海水に流出させた重油への放火による重油戦術による損害のほか[4]、溺死者も発生した。少数の近衛兵たちが海岸に到達し、貧弱な海岸堡を確保した。
指揮通信上の問題と前線部隊へ適切に増援を送れなかったことから、連合軍の防衛戦にはさらに穴があいてしまった。致命的な錯誤が生じて、防衛戦に成功していたにもかかわらず、第27旅団は北地区中央のクランジから撤退してしまった。このため、連合軍は島の西部を通る重要なクランジ-ジュロン尾根の支配権を失ってしまった。

日本軍の突破

山下・パーシバル両司令官会見
シンガポール市街を行進する日本軍
クランジを占領したことで、近衛師団は戦車の揚陸と第18英本国師団を迂回して急速に南方へ前進することが可能となった。しかし日本軍戦車部隊は、シンガポール市街の中心部へ進出するチャンスをつかむことには失敗した。
2月11日、自軍の補給物資が危険なほど減少したことを知り、山下司令官はパーシヴァル中将に「無意味で絶望的な抵抗を中止するよう」呼びかけた。この時点で、日本軍の猛攻に耐えてきた第22旅団の戦力は数百名に低下しており、事実上全滅状態であった。日本軍はブキッ・ティマ地区を、連合軍の弾薬・燃料の貯蔵のほとんどとともに占領しており、またこの地区を占領したことで主要な水の供給源の支配権も得ていた。
翌日には連合軍は、島の南東部の狭い地域に防衛線を構築し、日本軍の総攻撃を撃退することが出来た。第1マレー歩兵旅団を含む他の部隊もすでに戦闘に参加していた。パシー・パンジャンの戦闘では、マレー人連隊はシンガポール人将校のアドナン・ビン・サイディ少尉の指揮下で激しい白兵戦を激しい損害にたえて戦い抜き、ラーラドーとケント・リッジを通過して前進しようとする日本軍を2日間食い止めた。しかし、2月13日には連合軍はさらに地歩を失い、上級司令部はパーシヴァルに非戦闘員の被害を最小限度に食い止めるため降伏するよう指示した。パーシヴァルは最初この指示に抵抗したが、結局上官の権威に屈した。
翌日も、残存する連合軍部隊は戦闘を続け、非戦闘員の被害は100万もの市民が避難していた連合軍が確保する地域が砲爆撃にさらされているため増加し続けた。市の幹部たちはまもなく水の供給が絶たれるのではないかと惧れ始めていた。2月15日の朝、日本軍は連合軍の最終防衛線を突破した。
米英による連合軍の食料と何種類かの弾薬は、既に底をつき始めていた。パーシヴァルは指揮下部隊の司令官たちと協議したあと日本軍と連絡し、午後5時15分を少しすぎたころフォード自動車工場において正式に山下司令官に降伏した(この時山下がパーシヴァルに「イエスかノーか」と迫ったというエピソードは有名である。山下は乃木将軍の水師営の会見のように穏やかにするつもりであったが、あまりにいろいろと言うので、ついこの言葉が出てしまったということである。)。
戦後に山下が戦犯として絞首刑に処せられる際、米軍はパーシヴァルを呼び寄せて死刑執行に立ち合わせている。

日本軍による占領

日本占領下のシンガポールは昭南島と改名され、日本によるシンガポール統治が始まった。その後シンガポールが戦禍に巻き込まれることもなかったため、軍政は大きな支障もなく進められ、官民を問わず多くの日本人がシンガポールに渡った。その後日本人向けの食堂や料亭も作られ、また日本軍は昭南神社忠魂碑を建立した。

記念イベント等

陥落記念切手

シンガポール陥落記念切手(1942年発行)
元となった2銭切手
シンガポール陥落を予想していた日本の逓信省は、当時の2銭と4銭の普通切手(乃木希典東郷平八郎)に「シンガポール陥落」の文字と軍事費募金のための額面(寄附金付切手)の版を加えた印刷(既存切手の版に文字の版を加えた添刷で、印刷済みの切手に施すいわゆる加刷ではない)をした記念切手を陥落直後の1942年2月16日に発行した。この切手は2月11日の紀元節に作戦が成功することを前提に製造から郵便局への発送まで既に完了していたという。また同年3月1日に満州国は普通切手に加刷した記念切手を発行している。

戦勝記念式典

1942年2月18日、大東亜戦争戦捷第1次祝賀国民大会が日比谷公園で開催された[5]

影響

イギリス陸軍は敗北し、シンガポールが陥落したため、約8万人の英本国兵や英領インド兵や英領オーストラリア兵が捕虜となり、マレー半島の戦争で投降した5万人に加わった。植民地大国だったイギリスにとって、シンガポールは、インド洋と太平洋を結ぶチョークポイントであり「東洋のジブラルタル」とも呼ばれた。それゆえ、シンガポールの陥落と二隻のイギリス海軍の有力戦艦が日本軍に撃沈された事実は、イギリスには大きな痛手であり、植民地大国のひとつの転換点であった。その後、シンガポールは、日本の占領を経て、第二次大戦後に再びイギリスの統治となったものの、そのときはすでに、アジアの独立運動の進展と植民地主義の後退の時代となっていた。イギリスは、植民地支配の政策を変更し、シンガポールは1959年にイギリスの自治領となり、その後は独立への道を進む。
イギリスから独立したばかりの隣国アイルランドでは長年にわたる支配への恨みから反英感情が強く、特に独立運動を弾圧してきたパーシヴァルが降伏したことで、元アイルランド共和軍(IRA)幹部らがダブリン駐在日本領事を囲んで祝賀会を開いたという[6]

シンガポールの歴史

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シンガポールの歴史

歴史

テマセック

シンガポールに関する歴史的な記述で最も古いものは3世紀の中国の文献における、Pu-luo-chung[1]であるという[2]シュリーヴィジャヤ王国の勢力下、その後7世紀頃には漁村テマセック[3]として知られ[4]、複数の航路が合流するマレー半島の先端に位置するという地理的条件も加わり、様々な国の船舶が寄港していたという。諸説あり。
マジャパヒト王国の宮廷詩人であったプラパンチャが14世紀に書いた『王朝栄華物語』にマジャパヒト王国の服属国としテマセックの名は見られ、少なくとも14世紀まではこの名で呼称されていた事が伺える。また、同時期に書かれた中国の旅行家汪大淵による旅行記『島夷誌略』にも「海賊を生業とする住民が住み、外国船も寄港していた」ことなどが記されている[5]

シンガプーラ

その後、14世紀末にはサンスクリット語で「ライオンの町」を意味するシンガプーラという名称が定着し、現在の「シンガポール」の由来となっている。何故名称の変更が発生したかについては諸説あり、マジャパヒト王国の属国地の通称である説、「シンガ」は寄港を意味し、単に寄港地という一般名称であったとする説、シュリーヴィジャヤ王国の王子が動物をライオンと見間違えてつけたとする説などがあるが、シンガポールではスマトラより来訪したサン・ニラ・ウタマによって建設され、この名がつけられたとする説を通説としている。

アユタヤ朝との対立

マジャパヒト王国で内戦(パルグルグ戦争インドネシア語版)(英語:Paregreg war)が起き、パレンバンの王子パレメスワラ英語版が内戦を逃れる為マレー半島を転々としていた。パラメスワラがシンガプーラに逃れた時、アユタヤ王の女婿であるシンガプーラ王を殺害した事件をきっかけに、シンガプーラを含めたマレー半島の覇権を巡るマジャパヒト王国シャムの間の争いが激化した。パレメスワラは1402年マラッカ王国を建国しシンガプーラをその支配下に治めた。

ポルトガルによる侵略

マラッカ王国は1511年ポルトガルの侵攻を受け滅亡しポルトガル領マラッカ英語版が成立し、マラッカ王国の一部の商人や王族はシンガプーラへと移っていった。しかしシンガプーラ自体も1513年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、マラッカ王国からの移住者を含む現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となった。生き残ったマラッカ王国の王族は、ジョホール王国を建国した。ポルトガルの侵略により壊滅しその後荒廃したシンガプーラは、その後300年以上もの間歴史の表舞台から姿を消し、再び漁民と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となった。

1641年、オランダとジョホール王国が協力してポルトガル領マラッカを攻撃し、オランダ領マラッカ英語版が成立し、マラッカ海峡の香辛料貿易オランダが独占することになり、ポルトガルの覇権は終わった。

イギリスによる植民地支配


1819年1月、人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たす。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けた。名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進めた。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなった。

無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していった。既に所持していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに、1826年にシンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められた。

イギリスによる植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンなどの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割にとどまらず、背後に存在する同じくヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムすずの積み出し港としても発展する。この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部)、インド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。1869年スエズ運河が開通することにつれて、シンガポールはだんだん東アジアとヨーロッパの貿易通路の中継港となった。
この優れた地理位置は、シンガポールに未曾有の繁栄をもたらした。1873年から1930年までの40年間にわたって、シンガポールの貿易額は八倍も増えた。なお、1873年に日本の岩倉使節団がシンガポールに寄港しており、当時の様子が「米欧回覧実記」に記されている[6]

海峡植民地政庁が郵便局業へ干渉したことに反発して、1876年シンガポール華僑が暴動を起こしている[7]。シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続いた。

20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなった。 イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まりや弾圧を行う。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、のちの初代首相リー・クアンユーである。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布。1948年3月20日、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加した。

日本による占領と軍政

降伏交渉を行う大日本帝国陸軍の山下奉文大将と駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将

またイギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していた。このため1941年12月8日太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けた。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わった(シンガポールの戦い)。

その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置され、初代市長には、日本人内務官僚の大達茂雄が任命された。その後日本から多くの官民が送られ、過酷な軍政が敷かれた。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために強制徴用された[8]

また当時は日中戦争の最中でもあったため、中華系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の「布告」を発行し、抗日独立運動家やその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害した(シンガポール華僑粛清事件)。

この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成した。犠牲者数は、日本政府の調査では6000人、華僑側では4万人であり、桜本富雄は10万人説を唱えている[9]秦郁彦は、日本側では約5000人という説が多いとしている。シンガポール側では、許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では8600人余りとなっている[10]

またフランスボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだイタリア海軍が、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。しかし、同年9月にイタリアが連合国に対して降伏したため、シンガポールに派遣されたイタリア海軍の潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ」と「ルイジ・トレッリ」が、大日本帝国海軍を経由してドイツ海軍に接収された。さらに1945年5月にドイツが降伏した後は大日本帝国海軍に接収され「伊号第五〇三潜水艦」、「伊号第五〇四潜水艦」として終戦を迎えている[11]

イギリスによる植民地支配の回復

1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなった。

しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国のイギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになった。また、第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれた。

1955年、リンデル委員会のシンガポール自治についての勧告に基づいて、立法議会25議席の選挙が行われ、10議席をとった労働戦線のデヴィッド・マーシャルが、シンガポール連盟党と連立し首席大臣に就任する。

1956年、ロンドンに赴き自治権獲得の交渉し不調に終わるが、1958年には外交と国防を除く自治権が与えられる。

マレーシア連邦

マラヤ連邦の独立を宣言するトゥンク・アブドゥル・ラーマン

その結果1957年マラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任する。その後の1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦(Malaysia)を結成する。

しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化。1964年7月21日には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)英語版が発生、死傷者が生じる。

分離独立

さらに、1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより、関係が悪化してしまう。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立した。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流した。

5月13日事件

知識集約国家志向と問題点

昨今のシンガポール[いつ?]ITを利用した知識集約国家の道を追求しているが、一党独裁体制下の言論弾圧、管理社会、厳罰主義のストレス、女性の高学歴化・晩婚化からの超少子化など、抱えている問題も少なくない。反マレー(=反イスラム)的指向を持つとして投票ではパキスタンに反対はされたものの、イギリス連邦のメンバーとなっている。

インド人街暴動

建国の父リー・クアンユー死去

2015年3月17日、肺炎のため入院したが、3月23日未明、シンガポール総合病院(Singapore General Hospital)で死去。91歳。

日本占領時期のシンガポールでは、第二次世界大戦中の大日本帝国によるシンガポール統治について述べる。大英帝国による植民地支配がシンガポールの戦い(1942年2月15日)により終了し、代わって日本軍による

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日本占領時期のシンガポール

   
日本占領時期のシンガポール
昭南島
大日本帝国による軍事的統治

1942年–1945年
国旗旭日旗
イギリス軍の降伏
山下奉文(左から3番目)が
パーシヴァル(カメラに背を向け右から2番目)に面会している様子
首都シンガポール
政府軍事的統治
歴史・時代第二次世界大戦
 • 太平洋戦争勃発1941年12月8日
 • シンガポールにおいて大英帝国大日本帝国に降伏1942年
2月15日
 • シンガポール空襲1944年11月 - 1945年5月
 • 大日本帝国の降伏1945年8月15日
 • シンガポールの日本軍が連合国に降伏1945年
9月12日
 • シンガポール、直轄の植民地となる
1946年4月1日
通貨大日本帝国政庁発行のドル(俗称バナナマネー
現在シンガポールの旗 シンガポール

日本占領時期のシンガポール(にほんせんりょうじきのシンガポール)では、第二次世界大戦中の大日本帝国によるシンガポール統治について述べる。大英帝国による植民地支配シンガポールの戦い1942年2月15日)により終了し、代わって日本軍による統治が始まった。
この統治は東南アジア・大英帝国・大日本帝国・シンガポールにとって重要な転換点となり、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」とその名を改められた[1][2]
1945年9月12日シティホール英語版にて日本軍は降伏文書に調印し、これによってシンガポールは公式に返還された。

統治までの経

日本軍はイギリス領マラヤ全域を2ヶ月で攻め落とし、イギリスの指揮官・パーシヴァルはシンガポール侵攻が始まって僅か1週間を経た1942年2月15日に降伏し、これを英国首相・チャーチルは「イギリス史上最悪の惨事であり、最大の降伏だ」と発言した[3]

統治下の生活

抗日華僑の摘発

日本軍は占領後の1942年2月から3月末にかけて抗日華僑の摘発を行った。これは、華僑の反日意識が強烈でこの華僑により組織された抗日華僑連合会(ダル・フォース)が、マレー戦、シンガポール戦において英軍にみられない戦意を示し、シンガポール陥落直前に解体されたものの、大量の武器弾薬を与えられてシンガポール市内、マレー半島においてゲリラ活動に従事し、日本軍入城前後に市内で略奪、暴行を働いたためだった[4]

日本軍は、イポー進撃の際に同地で発見した「抗日華僑名簿」及び、探偵局、警察署の記録、救出した邦人の進言などを基に「反抗華僑容疑者名簿」を作成して、主に抗日団体の指導者、抗日義勇軍人、共産党員などの抗日華僑の摘発を行ったが、短期間ということもあり調査は粗雑で関係の無い者も摘発された。こうして多数の華僑が処刑されたが、この事件によって華僑はますます反日態度を固め、市内、マレー半島における反日ゲリラ活動はその後も継続された[5][6]

生活必需品の不足

戦時中に発行されたバナナマネー

日本軍の統治中は一貫して資源に乏しく、生活必需品の値段がうなぎ登りになるハイパーインフレーションに陥った。例として、の値段は100カティ(約60kg)につき5ドルほどであったが、のちには5,000ドルにもなった。日本軍は食券制度を導入して人々の食物入手量に制限をかけた。1ヵ月に一度、大人は4.8キログラム、子供は2.4キログラムの米を購入できたが、戦争が継続するにつれ大人の米の量は25パーセント削減された[7]

ドル札が不足したため、日本政庁は新たにドル札(俗称「バナナマネー」)を発行し、計画経済を実行して資源の需要と供給を制限した。これにより闇市が流行する。

「バナナマネー」の効果は薄く、増刷する時期が不適当であったことや、闇市ではドル札が主流であったことから極度のインフレーションと通貨価値の暴落を引き起こした。

食品の品質は急激に落ち、サツマイモヤムイモは米より安く、庭のでもよく育ったため、これらが米に代わって食卓に並んだ。ヤムイモ・サツマイモからは様々な料理・デザートが作られ、1日3食全てを担った。
これらイモ類の栄養分は飢餓の減少に一役を買い、単調さを和らげるためにタピオカをその他の作物と組み合わせて食する新たな方法がいくつも発明された。イギリス当局、日本当局ともに、住民に対してわずかでも土地を持っていれば農耕による自給自足を推奨した。この農耕推奨は戦時中の西洋で実施されたヴィクトリーガーデンと似たものである[8]

教育

日本軍はシンガポールを切り取ったのち、日本語で現地の人々を教育するために昭南日本学園を設立した。Faye Yuan Kleemanは、自著『Under an Imperial Sun: Japanese Colonial Literature of Taiwan and the South』の中で「この学校は南アジアで最も成功した」と綴っている[9]。また、日本軍は「昭南第一日本人学校」を設立した[10](現・シンガポール日本人学校)。

連合軍の反撃

昭南港爆破事件における作戦成功を祝うイバン・ライアン英語版(中央)とその他Z特殊部隊のメンバー達

シンガポールは、大日本帝国による統治を切り崩すために連合軍により画策された数多の作戦の標的となり、1943年9月26日にはイバン・ライアン英語版率いる奇襲部隊・Z特殊部隊英語版シンガポール湾に侵攻し、7隻の日本の船舶を撃沈し、その総重量は39,000トンに及んだ(ジェイウィック作戦)。ライアンは他の作戦も指揮しており、リマウ作戦では足掛け1年にわたって3隻の日本船を撃沈した。しかし、彼はのちに13人の仲間と共に捕えられて殺害され、その他の作戦に参加した10人は日本軍の秘密裁判に掛けられ処刑された。

また、イギリス軍は、マラヤからシンガポールまでに至る地域の諜報網を敷いて、日本軍が持つ連合軍の情報を探るために、136部隊英語版という秘密組織をカルカッタに組織した[11]。しかしながら白人コーカソイドがマラヤの民衆に混じって作戦を遂行することは難しいので、潜入部隊のリーダーとして、当時重慶にいたマラヤ系中国人の林謀盛英語版(リム・ボー・セン)がリクルートされた[11]。林は同様に中国大陸にいたマラヤ系中国人から人員を募り、陳崇智英語版らの同志を得た[11]。彼らは皆、国民党の政治組織の一員であり、無線通信技術や情報収集の訓練を受けていた[11]。潜入部隊はセイロンからオランダの潜水艦に乗り、1943年5月23日にペラ沿岸のパンコール島に上陸した[11]

この潜入部隊は「グスタフス[注釈 1]」というコードネームで呼ばれた[11]。彼らはその後、ペラを中心に活動し、サボタージュにより経済活動を停滞させ、反日感情を巻き起こすといった作戦を実行に移した[11]。また、共産主義系のマラヤ人民反日軍との接触も果たした[11]。グスタフスは1944年3月まで、表向きはまっとうな商売を営んでいるように見せかけて、実際は諜報を行う地下組織を確立していた[11]。しかしながら、組織の一員が日本の潜水艦をうっかり友軍と誤認したことから計画が露見した[11]
仲間の裏切りだったという説もある[12]。林謀盛と陳崇智を含む組織のメンバーは逮捕され、イポー近くのバトゥ・ガジャ英語版刑務所へ連行された[11]。戦後、陳崇智が語ったところによれば、林謀盛は憲兵隊に協力するよう強いられたが拒絶したという[12]。そして、食事に配られたサツマイモを逮捕されている仲間に与えるよう見張り番に頼み、絶食した[12]。そして、赤痢に罹患したが治療を拒み[12]、6月29日に死亡したという。陳崇智が1995年に公刊した回顧録に依拠する文献では、林謀盛、陳崇智らは赤痢に罹患すると、林謀盛が死亡するまで適切な治療や食事が与えられなかったとしている[13]。136部隊は戦後解体された。解体前の最後の任務は、かつての盟友だったマラヤ人民反日軍の武装解除であった[11]

1945年8月には、イギリス海軍から2隻のX艇が「ストラグル作戦」に参加した(シンガポール港への攻撃、日本の巡洋艦高雄妙高リムペットマインを用いて破壊することを目的としていた)。この作戦により高雄は甚大な被害を受け、この功績を称えてイアン・エドワード・フレイザー英語版にはヴィクトリア十字章が授与された。1944年11月から1945年5月にかけてはイギリス・アメリカ連合軍が空爆を行った。

統治の終焉

戦勝パレードの後に市庁舎を退去する日本兵たち
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1945年8月6日9日広島長崎エノラ・ゲイボックスカー(いずれもB-29爆撃機)によって原子爆弾が投下された。同時期にはソビエト連邦大日本帝国に対して宣戦布告、満州へ攻め込んだ。ここに日本軍による南方統治は終焉を迎え、連合軍からは兵隊や物資が送られ、捕虜となっていた人々は健康診断を受けた後に故郷へ帰って行った。
同年8月15日、大日本帝国は連合国に降伏し、在シンガポール日本軍も9月12日市役所(シティホール)にて降伏文書に調印した。これを受けて、パダンでは戦勝記念のパレードが行われた。イギリス王族で東南方の総指揮官・ルイス・マウントバッテンがシンガポールを訪れ、寺内寿一に代わって板垣征四郎から正式に降伏申請を受理した。1946年3月頃までは降伏した日本兵を治安維持部隊として駐留させた。


マレーシアで日本人と韓国人の民度の差が報道されるwww 事実が拡散し世界が騒然

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