奄美の歴史概要<説明>
先史時代

大和朝廷時代
遣唐使
木簡

小湊・フワガネク(外金久)遺跡
グスク時代(按司の割拠時代)
類須恵器(カムイヤキ)窯跡群


平家伝説
琉球王朝時代
ノロ制度の導入


ゴホウラゴホウラ分類学名シノニム
ゴホウラ(護法螺、Strombus latissimus)はソデボラ科(スイショウガイ科)に分類される巻貝の一種。 特徴太平洋の熱帯・亜熱帯海域、日本では奄美大島以南の、水深10m程度の珊瑚礁に生息する。 殻高約18cm、殻質は重厚。殻口は非常に大きく、その上方が螺塔より高いことが特徴である。外唇縁は肥厚し、上縁は丸く張り出し、下縁には深い切れ込みがある。[1][2] 文化弥生時代初期から九州北部などでゴホウラの殻を縦切りにして製作した貝輪が盛行し、当時の権力者(主に男性)のステータスシンボルであったと考えられる。また生息地近くの沖縄本島などでこの貝輪を生産したと考えられる遺跡が多数知られており、ここで粗加工され交易されていたと考えられる。[3][4] | |||||||||||||||||||||||||||||||
南島と大和朝廷との交流 奄美はヤマト王権(大和朝廷)に方物を献上した独自の国であったが 奄美市名瀬小湊で発見された7世紀前半の貝製品の生産集落遺跡。2010年8月に国指定史跡に。 掘立柱建物跡・墓・動物の骨などの他、ヤコウガイの貝匙・イモガイの貝符など貝製品が大量に出土。また、大量の兼久式土器の他、鉄器も出土している。 当時の奄美の生活を知る上で貴重な遺跡であることは間違いない。また、鉄器が琉球弧で最も早い時期に使用されていた可能性も否定できず、今後の調査・研究が待たれる。 (写真下左:貝符 写真下右:貝匙) http://www.fnet.ne.jp/amami/history/place/img/kaisaji.jpg http://www.fnet.ne.jp/amami/history/place/img/kaifu.jpg 「小湊フワガネク遺跡出土品」国重要文化財指定に!http://bunkaisan-amami-city.com/wp-content/themes/fsv002wp-gallery-e01/images/arrow-pagenation-01l.png http://bunkaisan-amami-city.com/wp-content/themes/fsv002wp-gallery-e01/images/arrow-pagenation-01r.png 国の文化審議会(宮田亮平会長)は、平成28年3月11日(金)に開催された会議の審議・議決を経て、4件の美術工芸品を国宝に、46件の美術工芸品を重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申しました。 今回、重要文化財の指定が決定した46件の中に、奄美市名瀬小湊に所在する国史跡「小湊フワガネク遺跡」から発見された夜光貝匙をはじめとする1898点の出土品(考古資料)が含まれています。鹿児島県内の国重要文化財としては38件目になりますが、奄美群島で遺跡出土品(考古資料)が国重要文化財になるのは初めてです。 報道発表(文化庁) 文化審議会答申~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について~ 報道発表資料に記載されている解説は、以下のとおりです。 「本件は、奄美大島の中部、太平洋に面した砂丘上の遺跡から出土した資料の一括である。遺跡からは、大量の夜光貝と、それを加工して貝匙を製作する各工程の資料が出土しており、6~7世紀頃にこの地で集中的な貝匙生産が行われていたことが窺える。これに加えて、貝札・貝玉等の多種多様な貝製品や、多数の貝玉とガラス小玉が副葬された5世紀頃の墓坑も発見されている。 これらは、南島地域において集中的な貝製品生産を行った工房的性格の強い遺跡の出土品として、当時の交易を考える上でも貴重である。(古墳時代)」 夜光貝匙(6~7世紀頃)参考までに、上の貝匙の復元製作品を紹介しておきます(池村 茂氏製作)貝玉・ガラス小玉(5世紀頃)兼久式土器(6~7世紀頃)
小湊フワガネク遺跡とその出土遺物については、下記のまとめた資料がありますので、ご参照ください。 国重要文化財指定を受ける出土品については、あらためて解説していきたいと思います。 奄美市教育委員会『国指定史跡小湊フワガネク遺跡 解説資料』2012年 | |||||||||||||||||||||||||||||||
グスク時代 (按司の割拠時代) 奄美 大島奉行所跡 辺留城古墓 大島奉行所跡のすぐ近くにあった入り口。辺留城古墳が近くにあるらしい。とりあえず入り口から入り坂を登って丘の上に出たが、サトウキビ畑が広がるだけでそれらしいものは見つからなかった。 この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。 奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。 その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国産陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。 鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏の惣領・嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。 琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年(文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。 奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。 按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。 奄美徳之島方言での発音を表記すればやはり「カムィ」となる(カメとカムイの中間というわけでもない)。名称として「カムイ」と発音しても問題は無い。 材質は硬く、表面は青灰色、陶土は赤褐色を呈する。器種は壺を中心として甕、鉢、碗、水注が見られ、ヘラ描波状文が施されているのが特徴である。器種や形は本土の陶器と同様であるが、こうした製作技法は朝鮮半島系無釉陶器に類似し、その関連と伝播が推測されている。
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![]() 平資盛像/赤間神宮所蔵 | |
平安時代末期 | |
保元3年(1158年)もしくは応保元年(1161年) | |
寿永4年3月24日(1185年4月25日) 享年25、または28 | |
小松新三位中将、持明院三位中将 | |
赤間神宮の七盛塚 | |
右近衛権中将、蔵人頭、従三位 | |
安徳天皇 | |
桓武平氏維衡流(伊勢平氏) | |
父:平重盛、母:藤原親盛の娘(二条院の内侍) | |
維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実、その他 | |
正室:藤原基家の娘 妾:建礼門院右京大夫 | |
織田親真[異説あり]、盛綱? |
「あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」
(生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです)
ハジチ彫りを生業とする針突師(ハジチャー)が居て、各地を廻り、「首里那覇では今、菱形模様が流行っている」などと、情報を提供してハジチ商売をしていたようだ。
場所によっては、心得のある者が、その地域のハジチを一手に引き受けていた…地方の女子たちは、1〜2年に一度やって来る針突師を心待ちにしていたんだって。
…親たちも、この針突費用稼ぎだけは、大目にみていたようだ。むしろ、奨励していたような節がある。
初めて針突をする手を「サラ手。サラてぃー」と言い「まっさらな手」を意味する。奇数年齢の年の吉日を選び、そのサラ手に「ハジチ」が施されると、家族はもちろん、友人知人が集まり、祝いの座が設けられた。美風だったのである。
針突の所要時間は存外に短く、3、4時間。術後はトーヌカシー(おから)で突き跡を洗い、痛さと腫れを引かせたようだ。
トーヌカシーには民間療法の特効があったのだろうか。神経が細やかな指や手の甲を針で突くのだから、痛くないわけがない。
ハジチセーク(針突き職人、ハジチャーとも)とよばれる専門の女性があたったという。
泡盛で墨をすり、それを手の甲に模様を描いてから針に墨をつけ、上から縫い針を束ねて突くやり方と、針で突きながら模様をつくっていくやり方があったという。針で突く痛みをこらえるために、大豆を煎って黒砂糖でまぶしたものを食べたようだ。
始めて7歳前後の少女の中指と無名指とに豆大の點を黥し,人妻となり出産前後又は24~5歳に至りて手背に黥するのを通例
十文宇形の紋様臓物の上達せんが爲めの黥…
カシキと稱し絲巻を示した紋様であつて,意味は前掲のものと同じく織物の巧みならんが爲めの黥…
鋏を示した紋様であつて,機又は縫物の上手ならんが爲めの黥
繊維工業学会誌
Vol. 6 (1940) No. 4 P 149-167
JST.Journalarchive/fiber1935/6.149
作詞・作曲 荒井由実(松任谷由実)
| http://www.news.ed.jp/naru-h/kahi2.jpg |
昭和40年、長崎県立五島高等学校奈留分校として発足した本校の校歌は五島高校のものであり、歌詞が奈留島との縁が薄く、なじみにくいものでした。
昭和49年、当時在学中だった藤原あつみさんがラジオの深夜番組に「私たちの校歌を作ってください。」と投書しました。
それに応えて荒井(松任谷)由実さんから、奈留島の海や山のイメージを詩に託した「瞳を閉じて」という曲が贈られたのです。島を離れて暮らす友を思って歌われるこの歌は、校歌としては採用されなかったものの、NHKテレビ「新日本紀行」で奈留島の風物・生活とともに紹介され“幻の校歌”として反響を呼びました。
なお、現在の校歌は、この「新日本紀行」を見て感動した作詞家の石本美由起氏が作詞し、作曲においては長崎の音楽家深町一朗氏の協力を得て、本校に送ってくださったものです。
昭和51年に本校は長崎県立奈留高等学校として独立し、「瞳を閉じて」は愛唱歌として今も歌い継がれています。
昭和63年8月14日、荒井(松任谷)由実氏直筆の文字で刻まれた「瞳を閉じて」の歌碑が、同窓生の手により、奈留高校の庭園に建立されました。除幕式には荒井(松任谷)由実氏本人も参加し、感動的な除幕式となりました。
就職や進学で卒業生が島を離れるとき、港では「蛍の光」とともに、この「瞳を閉じて」が卒業生を見送ります。今では「瞳を閉じて」は、奈留島の愛唱歌として定着しています。
荒井由実☆Live in SUNPLAZA「あの日にかえりたい」~「春よ、来い」
五輪港(重要文化的景観) | |
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37.35 km² | |
(番屋岳)340 m | |
五島灘 | |
五島列島 | |
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