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[転載]日本史は明治維新から始めるべし。

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そもそも明治維新て何なのかを知ろうとしなかったから、あの戦争で「勝って来るぞと勇ましく」で死んじゃったんだ。ぞ!
東京新聞「こちら特報部」より。
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政府は来年を「明治百五十年」と喧伝するが、明治政府により「賊軍」とされた側には「戊辰戦争百五十年」の節目にあたる。
東北各地では苦難に満ちた歴史を振り返り、名誉回復を目指す動きが活発化している。

蝦夷地から改名して来年で百五十年目の北海道が進める記念事業も、アイヌ民族との共生を前面に打ち出し、「開拓」などの官軍史観から距離を置く。
歴史再考の動きから見えるものは-。(池田悌一、佐藤大、中山洋子)

福島県会津若松市の鶴ヶ城から南西に約一㌔。
蔵造りの商家などが並ぶレトロな通りの一角にある阿弥陀寺は、新選組の人気隊士の斎藤一の墓があることで知られる。

だが、地元の郷土史家簗田直幸さん(64)がそっと手を合わせた墓所は斎藤のものではない。

「ここは東軍の戦死者約千三百人が埋葬されている聖地なんです」
簗田さんら地元有志は二年前に「会津戊辰戦争百五十聞年事業実行委員会」(阿部隆一会長)を設立。

戊辰戦争を捉え直す活動に取り組んでいる。
激戦による犠牲や長らく埋葬を許されなかった「非道」は地域に大きな遺恨を残したが、その後の歩みも苦難に満ちたものだった。

境内にある「復禄記念」は、そうした旧会津藩士の名誉回復運動の象徴の一つという。

明治政府は武士への俸禄を廃止、代償として士族に金禄公債を交付したが、廃藩置県のときに会津藩はない。
青森県の斗南藩に転封されていた旧会津藩士たちは、存在そのものが否定され、交付の対象外とされた。

明治四十二年に集団提訴し、十年がかりの粘り強い交渉で勝利した旧藩士らの喜びと誇りが記念樽に刻まれた。

梁田さんは「戊辰戦争に勝った人たちによる歴史が今も続いている。今こそ原点に立ち返って考える必要がある」と力を込める。

東日本大震災について今村雅弘元復興相が今年四月に「まだ東北であっちの方でよかった」と発言し、被災地の怒りを買ったが、梁田さんらは、こうした東北軽視は明治政府から続く歴史とみる。

「3.11の被害も戊辰の敗戦に重なる。目に見える被害はなくとも、
原発事故の風評被害で真綿で首をしめるようにじわじわと追い詰められている」との危機感を吐露。

実行委のメンバーで市民団体「幕末史を見直す会」の鈴木ひろみさん(69)が不安視するのは、教育勅語の称揚など、最近の「明治」
回帰の動きだ。

「歴史を学ぶのは同じ過ちを繰り返さないため。いいことも悪い
ことも包み隠さずに国民に伝えることからしか始まらない」と訴えた。

歴史再考の動きは民間だは民間だけではない。
会津若松市も昨年十月、「新しい時代を誇り高く生きた会津人の功績とその思いに光を当てる」ため、「戊辰150周年記念事業実行委員会」を立ち上げた。

商工や文化関係など百三十七団体が名を連ねる。
今秋にはプレイベントとして、奥羽越列藩同盟に参加した東北や新潟の首長らを招いたシンポジウムの開催を予定。

来年は記念式典や白虎隊をテーマにしたオペラの上演を企画する。
政府は来年を明治百五十年と位置付けするが、実行委事務局を兼ねる市観光課の担当者は「会津は旧体制側なのiで、歴史を踏まえると
やはり戊辰百五十年になる。いまさら正当性を主張
するつもりはありませんが」と話した。

戊辰戦争を見直す動きは、「奥羽越列藩同盟」に名を連ねた東北や新潟の各地でみられる。

秋田藩は奥羽越列藩同盟で寝返って官軍に付いたため、今でも仙台の知り合いは、秋田の人間は信用できないと言っていますが、あの法務大臣の金田勝年のところですから頷けます。

私見。


福島県白河市は、激戦地の一つ「白河口の戦い」の舞台だ。

「白河戊辰150周年記念事業実行委員会」は八月から、ゆかりの地を市民らと巡るミニツアーを企画。

来年七月には、この地で戦った薩長を含む旧二十数藩の自治体関係者と合同慰霊祭を開く。

仙台市博物館は来年秋、特別展を催す予定だ。
具体的な展示内容は未定だが、担当学芸員は「奥羽越列藩同盟を中心とした東北側の視点で描きたい」と話す。

五十嵐川を挟んで激戦が繰り広げられた新潟県三条市の教育委員会は先月、約二十年前に市民有志が制作した「まんが戊辰戦役」を復刻し、市内の小学六年と中学二年全員に配った。
市教委の担当者は「もうすぐ百五十年。地域史に興味を持ってほしい」と願う。

「明治」の歴史観に距離を置くのは北海道も同じだ。

道では同じ一八年に「北海道百五十年」事業を計画している。
一八六九(明治二)年に開拓使が設置され、政府が蝦夷地の名称を
北海道と定めてから百五十年目の節目になるためだ。

高橋はるみ知事の四期目の公約でもある。
その記念事業で道は「開拓」や「明治」の言葉を慎重に避けている(何故だ?)

実は一九六八年の「開通百年」事業では「北海道百年記念塔」や「北海道開拓記念館」を建設するなど大々的に執り行われたが、
「開拓使設置を起点とする史観であり、アイヌ民族の歴史を軽視している」と厳しい批判にさらされたためだ。

そのため今回は「命名百五十年」にスポットを当てたという。
一方、四月に高橋知事は明治維新百五十年事業を進める
佐賀県などと連携、道内で議論を呼んでいる。(あっちで良かったの佐賀だぞ)

北海道庁の「北海道百五十年事業室」は「連携は道外にもPRするため。アイヌ文化も含めて発信する」と説明する。
(言い訳が安倍晋三だな)

アイヌ民族の遺骨返還に取り組む「コタンの会」の清水裕二代表は「明治政府を礼賛する事業と連携するのは、とんでもない。すべては『和人』の立場で考えているのでは」と懸念する。
そもそも清水氏は「百五十年」の区切りには否定的だ。

「アイヌの生活圏をすべて奪い尽くした後に、『北海道旧土人保護法』というとんでもない法律をつくったのが明治政府。イベントを開くにしても、アイヌに対する卑劣な行いへの反省が先ではないか。アイヌが大きな犠牲を払った歴史を前面に打ち出してほしい」と切望する。

桑原真人・札幌大前学長(近代北海通史)も道の百五十年事業を「『和人ファースト』の歴史を見直す機会にするべきだ」と訴える。

「明治政府や開拓使が中心になり、北海道で同化政策を徹底的にやった。その完成形が『北海道旧土人保護法』。

しかし、『百年』の時には開発そのものが肯定的にとらえられ、アイヌ問題をどうとらえるか、という視点は希薄だった。

最近流行の言葉でいうと、『和人ファースト』の歴史観だった。『百五十年』ではそれを見直す絶好の機会になる」

放送大学の原武史教授(政治思想史)は「歴史は制服する側、つまり勝者の目線で語られるが、もちろん見方は一つではない。
その裏には傷を負った勢力があるわけで、東北や北海道の人たちの語りのなかにもう一つの歴史が見える」と評価する。

一方、政府が推す「明治」事業には「昭和に改元された直後、政府は明治天皇の誕生日を『明治館』という祝日にするなどの戦略に打
って出た。

来年の明治百五十年は、次の改元のタイミングと一致する。
明治ブームを推し進めようとする政府の姿勢は昭和初期に通じる」と危ぶむ。

原教授は「今は、異議申し立てができる時代だ。近代化の過程
で征服された地域が国内にもあったと思い起こすことは大切だ」と強調した。

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そもそも縄文時代、弥生時代などは最初からやらなくても十分に解るし、それが解らないと何か日本では無くなるのか?

徳川幕府の時代が250年も続いて、それが崩壊した。
徳川幕府と朝廷(天皇・公家)との関係を明治から遡った方が時代背景が解るし、その天皇を略奪し天皇の名の元に、実権を握ろうとした「長州」のテロ行為が「蛤御門の変」だということ。

それが失敗して長州は朝敵となった。
その辺から、ジックリ時間をかけ、史実を元に日本史の勉強をすれば、如何に明治維新は長州が作り上げた政権だったかが分るはず。

安倍政権が目論む明治に戻すというのは、嘘の日本であり、それは明治ではなく、江戸時代の日本を顧みることで、そこに「美しい日本」があるのです。

長州「田布施一族」の朝鮮民族ではなく、天皇と百済に日本を求めれば必然的に日本は美しいのです。

明治という史実が解れば、飛鳥も奈良も平安も鎌倉も室町も安土桃山もそして江戸時代も朝廷が直接政治を行って世が乱れた一時期を除けば、政治は謙虚であったわけです。

「日本史」は明治から
   始めるべし。

余談ですが20年ほど前、山口県・田布施出身の知人が新宿でふぐ料理屋をやっていたのですが、これを東北の人たちに食べてもらえば儲かると考え、会津に出掛けたのです。
各地でふぐ料理の講習を行い、買ってもらおうとしたのですがサッパリ売れない。
意気消沈して東京に帰り、いろいろな人に理由を聞いたら、ある人に「お前は馬鹿だな、戊辰戦争のことを知らないのか」と言われた。

本人は戊辰戦争のことは大雑把だが知っている。
でもそれは100年以上も昔の話であり、料理に影響するとは思わなかった。
会津の人々はあの時の屈辱は孫子の代でも忘れないのである。
山口のふぐなど食べるかが、今の時代でも引き継がれているのです。

大手の食料品メーカー味〇素に勤めていた会津出身の人にその話をしたら、大笑いしながら「私は今でも長州・山口は許しません」と言っていた。

田布施出身の知人と安倍晋三は発想が稚拙で似ているなと思うのです。

転載元: country-gentleman


現在のフクシマが動物の楽園になっているらしい。

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福島双葉郡の現在の風景 2016年春




2016/06/29 に公開
あれから五年。2016年春現在の風景です。
福島第一原発から半径20キロ圏内ではまだ基準値を上回っている場所が多い状態です。
しかし少し離れた場所では普通に生活が営まれていました。
風で汚染物質を大量に含んだ蒸気が運ばれたり、原発から地中に染み込み地下水を通って海に出たものが海岸線を汚染したり、高濃度な放射線量が発せられる食物を知らず知らず口にしたり、様々な事が考えられます。
非常に危険な状態にあり、特に半径10キロ圏内は復興が厳しいといった感じがしました。

自分がよければ他人はどうなってもいい、今がよければ未来はどうなってもいい、と考える普通に誰しもが持っている性質が連鎖的に広がって引き起こした事故な気がします。

やっぱり危険なものは危険で、事故は予測出来ず起きるものであり、信憑性がないものを、原子力は安全です!なんて言って騙すのは深い罪であります。
地球は絶えず動いていて人間が操れるものではありません。

ここで学んだ事を次に生かす事が大切になってくると思います。





福島原発事故後の動物・家畜の様子 ゴーストタウン化した双葉郡浪江町・双葉町


2015/02/06 に公開
福島の警戒区域のゴーストタウン化した町の様子です。

2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故発生から、既に3年が経過した。東日本大震災による死者・行方不明者は1万8500人、震災関連死として認定された死者は2900人をそれぞれ超え、全半壊した建物は40万棟以上に達し、避難生活者は現在もなお数十万人いる。


二度と引き起こしてはいけないこの事故を、風化させない為に・・・

1日も早い復興と、明るい未来を祈っています。

2011年3月11日 東日本大震災


参考URL:
http://matome.naver.jp/odai/213805332...
http://blog.livedoor.jp/sekaiminzoku/...
http://news020.blog13.fc2.com/blog-en...
BGMフリー素材:http://dova-s.jp/bgm/


現在のフクシマが動物の楽園になっているらしい。

飯坂温泉(いいざかおんせん)は、福島県福島市飯坂地域(旧国:陸奥国、明治以降は岩代国)にある温泉。歴史・規模ともに東北を代表する名泉の一つである。

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飯坂温泉散策の旅


飯坂温泉

   
Hot springs 001.svg飯坂温泉 温泉情報 所在地座標交通泉質
Iizaka-Onsen1.jpg
旅館風景
福島県福島市飯坂町飯坂町湯野
北緯37度49分55.0秒
東経140度27分16.0秒
座標: 北緯37度49分55.0秒 東経140度27分16.0秒
鉄道 : 福島交通飯坂線飯坂温泉駅
車 : 東北自動車道福島飯坂ICから15分
単純温泉
テンプレートを表示
十綱橋と摺上川
飯坂温泉の位置
飯坂温泉の位置
飯坂温泉
飯坂温泉の位置
飯坂温泉(いいざかおんせん)は、福島県福島市飯坂地域(旧国:陸奥国明治以降は岩代国)にある温泉。歴史・規模ともに東北を代表する名泉の一つである。


概要

福島市郊外北西(飯坂地域)の栗子連峰の麓に位置する温泉街。「福島の奥座敷」の異名を持つ温泉一色の街。ヤマトタケル伝説にも登場する古湯で2世紀頃からの歴史を有する。
宮城県の鳴子温泉秋保温泉と共に奥州三名湯に数えられる。

飯坂町を流れる摺上川を挟んで60棟以上の旅館が立ち並んでいる。東北新幹線福島駅から私鉄飯坂電車に乗り換え飯坂温泉駅まで主要時間20分程度と非常に交通の便が良い。東北自動車道福島飯坂インターチェンジからも10分程度でたどり着ける。

古くから歓楽街温泉として花柳界が存在したものの、温泉情趣に則った木造旅館が多く見られた。東北自動車道の整備や東北新幹線の敷設などによって首都圏などから団体旅行客が多数流入したことによって開発や投資が進んだ。観光客数のピークは1973年で約177万人にのぼったが、2009年には約81万人と半分以下にまで減っているものの[1]、現代の需要に合わせて日帰り浴場や足湯なども充実している。

飯坂温泉街の近隣を通る福島県道5号上名倉飯坂伊達線(フルーツライン)沿いには福島を代表する観光スポットのくだもの狩りや直売所が立ち並ぶ場所が近くにあり、福島特産のモモナシリンゴサクランボと言ったくだもの全般を取り扱っている。

飯坂八幡神社例大祭の飯坂けんか祭りは福島市エリア随一の激しさの祭事であり、日本三大けんか祭りに数えられる。西根神社境内に祭られる高畑天満宮のうそかえ祭は東北・北海道地方では唯一この神社のみで行われており、うそかえ祭開催時には平日でありながら数万人、一日中行列が絶えない程の観光スポットである。



歴史

飯坂温泉は奥羽地方有数の古湯であり、古くは「鯖湖の湯」と呼ばれた。伝説によると、日本武尊の東征にまで遡るといわれ、この地で湯治したといういわれが残る。また、西行法師もこの湯を訪れ、ここで「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さばこ)の見ゆる 山の彼方か」と読み、そこから「鯖湖の湯」という名が定着した。源泉は至る所に点在し、農民、庶民などに重宝されていた。

1689年元禄2年)5月2日、江戸から下って来た松尾芭蕉と弟子の河合曾良が泊まり、翌日に発った[2]。雨に降られた芭蕉らは、温泉に入って貧家に宿をとった。『おくのほそ道』によれば、土間に莚を敷き、囲炉裏のそばで寝たが、雨漏りがあり、蚤と蚊に悩まされ、芭蕉の持病が再発するなど散々であった[3]山中温泉の好印象とは対照的である。この温泉を、曾良は飯坂、芭蕉は飯塚と日記には違う字で書いた。飯塚の例は他の文書にもあるという[4]
尤も、この頃には既に温泉地としての体裁が整ってきたものの内湯はあまり見られなく、思い思いに宿を選んで、点在する外湯で湯治を施すようなスタイルであったといわれる。尚、飯坂という地名は、1300年頃、伊達家の分家(伊達政信)が飯坂姓を名乗り、一帯を開墾したことに因む。これがいつしか飯坂村の温泉、すなわち飯坂温泉と呼ばれるようになった。伊達政信は、1300年頃、古舘に「湯山城」を築き、飯坂氏を称したとされる。そのため、摺上川べりから同城に通じる坂道は「飯坂」と呼ばれた。1300年以前の地名は、石那坂と呼ばれていたと考えられている。
飯坂温泉が、世に遍く知れ渡るようになったのは、江戸時代中期の享保年間の頃からで、各街道が整備されたことにより、周辺の庶民に加え、多くの旅人も訪れるようになった。
俳人歌人としては芭蕉の他、正岡子規与謝野晶子らも訪れており、飯坂を詠んだ句碑等が建てられている。近世ではヘレン・ケラーが2度訪れたこともある。
戦前には、ボーリングによる源泉の乱開発によって枯渇の危機を迎えたことがあったが、その後の規制によって源泉保護が行われている。


[転載]飯坂温泉にて

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 家族でゆっくりしてきました(^_^)
 飯坂温泉は昔ながらの温泉町で、ただただくつろいだ2日間でした。宿泊は「小瀧館 花静」という宿です。

 お抹茶でのおもてなし、お腹一杯の夕食、朝食。そして風情ある露天風呂。雨模様でしたが、そんなことは関係なく、本当にゆっくりできました。

 これで今年も終わりかな、なんてしんみりした気持ちになりました。

転載元: なんぼ堂 営業日誌

[転載]飯坂温泉

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福島県飯坂温泉の共同浴場「鯖湖湯」
30年以上前に入浴したことがあり、懐かしくて再訪しました。
入湯料200円。お湯は熱くて45度はあります。
地元の長老が「よく洗ってから入れ」と一言。
観光客のマナー違反に辟易しているのでしょう。
熱すぎてすぐに退散。
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転載元: TOSHI-BOのさっぽろ日記

[転載]飯坂温泉

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飯坂温泉駅(福島交通飯坂線)のピンぼけ写真
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飯坂温泉駅で買った幻の桃・黄貴妃。
売店の人が「飯坂町の人が品種登録した地元の桃」と言っていた。イメージ黄貴妃 http://www.weblio.jp/content/%E9%BB%84%E8%B2%B4%E5%A6%83
幻かどうかはよく判らない。


仙臺屋(福島市飯坂町十綱町3-2)の「なめこそば」800円
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飯坂温泉案内所
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入らなかった波来湯
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あづま荘
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転載元: 秋田の平凡な日々

[転載]2017/6/28更新 「福島第一原子力発電所は、今」 ~あの日から、明日へ~(ver.2017.6)

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2011年の事故によって、燃料の大半が溶け落ちてしまったと推定される福島第一原子力発電所1号機。先日、調査用ロボット 通称:ピーモルフが原子炉格納容器内部の映像をとらえました。
2017/03/29 【福島廃炉】 調査用ロボットがとらえた1号機の内部          





 ふくしまの今 復興・創生の未来へ 2017
2017/03/31 に公開
東日本大震災から6年。福島は、復興、そして新たな創生のステージへと進んでいます。
県民一人ひとりが「誇り」と「輝き」を持ち、新しい未来へと歩み出している福島県。
環境回復、インフラ整備、食の安全への取組など、復興への堅実な歩みに加え、新しい創生への取組みが次々とスタートし、
「挑戦県」として前進する、ふくしまの今と未来の姿を紹介します。

【使用音源】
Holiday Going Out / 佐久間ユウキ
XENO / ポリスピカデリー
歯切れのよいギターストロークの曲 / Studioむささび
Nature / 佐久間ユウキ
休日のドライブ / 佐久間ユウキ
http://dova-s.jp/

雲のかなた(伴奏) / 作詞作曲:谷村新司 編曲:石坂慶彦
http://ch.pref.fukushima.lg.jp/kumono...

★福島県公式チャンネルでは、福島県の四季の魅力や、さまざまな最新情報、楽しい動画を続々公開していきます。
チャンネル登録よろしくお願いします!→https://www.youtube.com/user/PrefFuku...




2017/6/28更新 「福島第一原子力発電所は、今」 ~あの日から、明日へ~(ver.2017.6)

転載元: 綺麗な水と大地が好きです

[転載]紅葉狩りに行ってきました

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今日は、曇りがちではありましたが、午後から晴れ間も見えたので、日本の滝百選に選ばれた、鈴が滝を見に行ってきました。
紅葉が、どうなっているか見に出かけました。
そして、鈴が滝近くの滝探しをしました。
途中、猿の群れに出会ったりもして、とても楽しかったです。
帰りは、平床林道から、朝日スパー林道にでて、猿田ダムをへて、三面側ダムに降りてきました。
山の上は、紅葉の盛りでした。

写真一番下は、鈴が滝の落ち口です。

転載元: 新潟の野鳥、新潟の自然徒然日記


[転載]刈り取り間近!旧新潟市ないで、蕎麦畑

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我家の近くを、朝夕、鳴きながら白鳥が通過していく。
鳥屋野潟から来たのであろうか?
日増しに、その鳴き声は、数を増しているように思います。
そろそろ、新蕎麦の時期ですね。
写真の、蕎麦畑は、ビッグスワン近くの、減反した田圃に作られた蕎麦畑です。
新潟駅からわずかなところに、こんなに沢山の蕎麦畑があります。
旧新潟市内に、こんなに沢山の蕎麦畑があるなんってビックリですよね
刈り取り間近と思いますので、ちょいちょい通い、刈り取り風景も撮りたいものです。

転載元: 新潟の野鳥、新潟の自然徒然日記

[転載]冬に備えて、みんな必死です

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冬になる前に、栄養を蓄えようと、みんな必死です。
ヤマガラは、入れ替わり立ち代り、餌台にやってきて、麻の実、松の実を食べるのに必死でした。
また、猿は、稲刈りの終わった田圃で、落穂を食べるのに必死です。
ヤマガラは、可愛いですみますが、猿は、嫌われ者です。
畑を荒らしたり、本当に、悪い事ばかりしているようです。
今年は、山に餌が少ない為か、クマも沢山下りているようですし、猿も多いようです。
でも、猿も、見ていると、とても可愛いのですが。
でも、悪者なんです。
これも仕方が無い事ですね。
よって、猿は、私が近づいたら、私を威嚇している時の写真です。

このとき、ビックリ写真が撮れましたが、それは、またの機会にいたします。

転載元: 新潟の野鳥、新潟の自然徒然日記

[転載]復興の形考える 南相馬市博物館フォーラム

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復興の形考える 南相馬市博物館フォーラム

福島民報 11月30日(月)11時38分配信
 福島県南相馬市博物館で開催中の特別展「Sacrifice 眠る地層にささげる花」に合わせたフォーラム「希望としてのRewilding(再野生化)」が29日、同博物館で開かれた。復興の一つの形としての被災地の再野生化の可能性について意見を交わした。
 同市や浪江町で生けた花の写真などで特別展を構成した華道家の片桐功敦(あつのぶ)さん、県立博物館長の赤坂憲雄さん、詩人で明治大教授の管啓次郎さんがパネリストを務めた。
 片桐さんは東日本大震災の津波によって復活したミズアオイに導かれて同市を訪れ、四季の花を生ける経験から土地の人の思いを感じたことなどを説明。管さんは耕作放棄によって自然が復活したオランダの事例などを紹介して、人間と自然の本来の関係性を問い掛けた。
 赤坂さんは沼地となった被災地の光景に干拓前の潟を感じた経験から「未来を考え、土地とつながり続けるために、一つの可能性として被災地の一部を潟として残すことを考えられないか」と訴えた。
 約80人の来場者が上映される片桐さんの作品を鑑賞しながら3人の話に耳を傾けた。特別展は12月6日まで開かれている。
福島民報社
最終更新:11月30日(月)11時41分
福島民報

転載元: nk8**6eのブログ

[転載]ニホンザル、イノシシ被害深刻化 南相馬の避難区域

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http://www.minpo.jp/news/detail/2014071616908

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 東京電力福島第一原発事故に伴う南相馬市の避難区域でニホンザル、イノシシなどが生活圏に入り込み、人家が荒らされたり、農作物や果樹などが食べられるなどの鳥獣被害が深刻化している。避難区域では19日から特例宿泊が始まるが、「怖くて泊まる気持ちになれない」と住民から不安の声が出ている。
有害鳥獣が人里に出没するようになった理由について、南相馬市博物館の稲葉修学芸員(47)は「避難区域に住民が住んでいない。さらに震災前に比べ狩猟が少なくなった。人を恐れなくなったのではないか」と分析している。市農政課によると、平成25年度の農地の被害面積は158アール。宅地なども被害を受けているほか、多くの目撃情報が寄せられている。
同市原町区の避難指示解除準備区域から鹿島区の仮設住宅に避難している主婦下浦恵子さん(65)は「サルが家の屋根にまで登ってきた。大きい音で驚かせても逃げない。(長期特例宿泊が始まっても)とても戻る気持ちにはなれない」と語る。
市は有害鳥獣捕獲隊を委嘱しているが、全域が避難区域となっている小高区では例年の15人に対し今年度は9人と手薄な状況だ。市農政課は「住民が心配している以上、わなの設置数を増やすなどの対策を検討していきたい」としている。
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そんな事より、ニホンザル、イノシシの被爆を心配したら?

転載元: ニュース、からみ隊

[転載]富岡町民に一律賠償を 司法書士渡辺さん、町長に署名簿提出

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http://www.minpo.jp/news/detail/2014071616900

富岡町の司法書士の渡辺和則さん(40)は15日、東京電力福島第一原発事故に伴う東電の損害賠償を、町民全員に一律で支払うよう求める町民の署名簿を宮本皓一町長に提出した。これを受け、宮本町長は18日、文部科学省に一律賠償の実施を同省の原子力損害賠償紛争審査会の中間指針に盛り込むよう要望する。
渡辺さんは3月から署名活動を進め、15日現在で2925人分を集めた。郡山市の富岡町役場郡山事務所で宮本町長に署名簿を手渡し、「道1本隔てているだけで、賠償額が1人700万円も違うのは不平等。町民の声を国に届けてほしい」と訴えた。宮本町長は「一律賠償を(紛争審査会の)中間指針に盛り込むよう文科省に求めていきたい」と語った。
富岡町は原発事故による避難区域再編で、避難指示解除準備、居住制限、帰還困難の3区域に分けられた。昨年末に示された中間指針第4次追補では、帰還困難区域のみ700万円の精神的賠償が追加された。

転載元: ニュース、からみ隊

[転載]◆坂下ダム

[転載]日隠山(福島県大熊町)1

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先日、花園山などでは3時間歩きましたが、
もう少し時間を歩きたいなぁ~と思いました。
というのは、
今年か、来年、往復8時間程度の山にチャレンジする予定だからであります。
(優柔不断なので確固たる予定ではありません(笑))

んなとこで、福島県大熊町の日隠山へ。
このブログの始まりの頃、
坂下ダム周辺のことを書きましたが、
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0d-6c/yoshi1692000/folder/1333833/81/36532881/img_0?20170701160436
ダムの脇に、登山口はしっかり整備されております。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0d-6c/yoshi1692000/folder/1333833/81/36532881/img_1?20170701160436
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0d-6c/yoshi1692000/folder/1333833/81/36532881/img_2?20170701160436
往復約3時間とあります。
以前は3時間以上も歩くなんて想像もできませんでした。
(膝、腰も悪かったので、正直、もはや無理と諦めてました)
それから5、6年経ちましたが、
さぁ~て、出発です。

転載元: いわきK-3☆おろろん亭Co.,Ltd.


[転載]滝川ダム

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ちょっと車で仕事にでたので寄り道をしてきました。山の中にある滝川ダムに行ってきました。
人は誰もいなくて私1人、ちょっと怖かったです。
でも山は紅葉で綺麗でした。もう少し奥の方まで行こうかと思いましたが怖かったのでやめておきました。

転載元: 私の趣味

[転載]かわうちの湯

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福島県の川内村にある温泉施設です。なにもない静かな山のなかにあるりっぱな温泉です。食事もできて一日500円、遠いけどお勧めです。
 富岡町に進んで行くとダムが建設中でした。滝川ダムです。紅葉がまだきれいでした。

転載元: 猪苗代湖で遊ぶ

[転載]朝鮮戦争で活躍したのは旧日本軍将兵

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大東亜戦争が終わった後に本来であれば「朝鮮人民共和国」が誕生していたはず。
愚かな李承晩のせいで南北朝鮮に分断し、南北で戦いを始めたのが朝鮮戦争。

北の侵攻はわずか3日で首都を陥落させ大統領は真っ先に逃げ出す。
北の侵攻を遅らせるため韓江に係る橋を非難する市民もろとも爆破、孤立したソウルは北朝鮮が粛清、皆殺し。南の敗走はソウルまで続き大統領は日本に亡命まで考えるけれどこの窮地を救ったのは旧日本軍の将軍と将兵たち。装備はアメリカ軍でも元日本軍がいなければ今の韓国はなかった。

バカだね~中央日報。
そんな事実も知らないのか。
朝鮮戦争は裏を返せば第二次日清戦争・日露戦争みたいなもの。

今度北朝鮮が再度侵攻してきても、旧日本軍経験者は韓国軍にはいないし、自衛隊はもう韓国を助ける必要はない。もう日本は朝鮮半島と縁を切りたいので自分たちで打ち勝ってほしいと思うだけです。

今度は何日で
首都ソウルが陥落か?
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★中央日報
韓国戦争当時に旧日本軍が韓半島に投入されていた
http://japanese.joins.com/article/254/206254.html?servcode=A00&sectcode=A10&cloc=jp|main|top_news

韓半島(朝鮮半島)有事の際に日本の自衛隊は米軍の要請で韓半島に進入することができるだろうか。日本の集団的自衛権行使範囲が米軍の戦時作戦統制権と続いて議論を呼んでいる。

 韓国政府は「韓国側の要請または同意がない限り容認できない」という立場で、日本もこれを認めた状態だ。国防部の韓民求(ハン・ミング)長官は21日に国会法制司法委員会で「北朝鮮が戦争を起こせば戦時作戦統制権を持つ米軍が自衛隊に(韓半島に)入って来いと言えば拒絶できるか」という質問に「できる」と答えた。

 それでも議論が完全に鎮まらないのは米軍の指揮または要請で日本が事実上の兵力に相当する作戦要員を韓国に送った前例があるためだ。中央SUNDAYが韓国、米国、日本などの各種記録と証言を分析した結果、米軍は韓国戦争(朝鮮戦争)当時に韓国政府の同意なく第2次世界大戦参戦経験がある旧日本軍と多数の民間人を韓半島に呼び入れていたことがわかった。

 国防部軍事編纂研究所のヤン・ヨンジョ部長は米国立文書記録管理局(NARA)の記録を引用し「1950年7月20日の大田(テジョン)戦闘に参戦した在日米軍24師団に付いてきた日本人軍労務者に小銃が支給された。彼らは北朝鮮4師団精鋭部隊の奇襲攻撃を受け数人が死亡した」と話した。当時ロイター通信の従軍記者として活動したチ・ガプチョン国連韓国参戦軍協会長(88)も、「米軍は日帝時代に韓半島で列車の機関士として働いていた本土の日本人を招集し米軍輸送列車を運転させた」と証言した。

 1950年に主に退役軍人で構成された日本の海上保安庁隊員1200人余りが54隻の掃海艇に乗り元山(ウォンサン)上陸作戦と鎮南浦(チンナンポ)、海州(ヘジュ)、群山(クンサン)近海の機雷除去作戦に投入された事実はすでに学界で確認されている。また、2000年7月8日付の朝日新聞によると韓国戦争参戦中だった日本人船員が51年9月6日に米軍の揚陸艦(LST)に乗船し事故で死亡した。在日国連軍総司令部はこの事実を51年9月13日に日本の外務省に通知した。
(中央SUNDAY第446号)

【朝鮮戦争】国民を虐殺しながら逃げた李承晩と釜山で南鮮陥落を防いだ元日本軍将校と兵士達
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/33691609.html

転載元: おやぢのGadget Diary!

[転載]朝鮮学校の無償化

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7f-73/bonbori098/folder/441896/23/24435423/img_0?20170829072036

鳩山政権が4月からの導入を目指している高校授業料無償化。
3月3日には衆院文部科学委員会の委員らが朝鮮学校を視察しました。
授業は朝鮮語で行われ、各教室には故金日成、金正日の肖像画が掲げられ、
構内には朝鮮学校を高校無償化の対象から除外することに反対する壁新聞が張られていたという。
・・・・・・


「朝鮮学校閉鎖令の撤回」
「朝鮮人学校存続の承認」
「逮捕された朝鮮人の釈放」
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7f-73/bonbori098/folder/441896/23/24435423/img_1?20170829072036
米国占領下の日本でこのような事件が起きました。
昭和23年4月23日、大阪城近くの大手前公園に朝鮮人7000人以上が集結しました。
朝鮮人の代表団は大阪府知事室に乗り込んで直談判したが合意せず。
その直後に朝鮮人たちは府庁舎に乱入し破壊活動を行いました。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7f-73/bonbori098/folder/441896/23/24435423/img_2?20170829072036
翌日、神戸市内で2万人規模の朝鮮人集会が開かれました。
朝鮮人たちは県庁舎に乗り込んで、知事を監禁し、ここでも破壊活動を行いました。

深夜になってGHQは「非常事態宣言」を発令し、
兵庫県警の全警察官は米軍憲兵司令部の指揮下に組み込まれました。
強硬措置により1,500人以上が検挙されて事態は鎮静化されていきました。

朝鮮人による大規模暴動の発端はGHQ指令に基づく「朝鮮学校閉鎖命令」でした。
マッカーサーは朝鮮学校を共産主義思想の普及拠点だとして日本の文部省統制下に置こうとします。
文部省は朝鮮語による授業の禁止などを通達しましたが朝鮮学校側は完全拒否。
その為、昭和23年3月に再び通達を出し指示に従わない朝鮮学校の閉鎖を警告しました。

事態が複雑になる事を恐れた米国は一転し、日本側に妥協を求めました。
その結果、翌年5月、朝連(総連の前身)代表と森戸辰男文部相との間で、
「教育基本法と学校教育法を遵守する」
「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認め、朝鮮人学校を私立学校として認可する」
という覚書が交わされました。

朝鮮学校というのは日本の国家意思の及ばない米国占領下の日本で認可されて、今もそのまま続いています。
(日本共産党も関与した阪神教育事件)


朝鮮総連はHPで、朝鮮学校は総連の指導下にあるとしています。
その総連は朝鮮労働党から指導を受ける下部組織です。

現在、各地にある朝鮮学校のうち、高校に相当する高級学校は全10校。
中高級学校を含めると12校。生徒数は推定2,000人という。
無償化の対象になれば2億5,000万円前後の国民のお金が使われます。
しかし各地の朝鮮学校は既に教育費助成の名目で補助金を獲得しています。
川崎市など1人当たり10万円を超すケースもあります。

朝鮮学校のはじまりは、終戦後に各地で朝鮮語が話せない在日朝鮮人が帰国に向けて学ぶ教室でした。
それがやがて政治的な色彩を濃くし、最近では北朝鮮本国から総額で460億円の裏資金援助を受け、
昨年度も2億円の資金提供があったといいます。

朝鮮学校は朝鮮労働党の党是に基づく金日成、金正日親子の礼賛と反日偏向教育だと言われています。
総連のHPにはこうあります。
「民族教育の基本内容は、なによりも教育でチュチェをうち立て、
同胞子女が祖国と民族にたいする正しい知識をもち、民族自主意識を育むところにある」
チュチェとは金正日の「主体思想」のことです。

北朝鮮の教科書を書いた「北朝鮮・驚愕の教科書」という本があります。
日本のことを「日帝野郎」と呼び、天皇陛下を「天皇野郎」と呼びつけています。

この中には朝鮮独立運動当時の子供たちが「日帝巡査野郎」を卑怯な手を使ってやっつける話があります。
「自分たちも大人に負けずに戦うことが出来るんだ」と当時の子供たちが立派な任務を果たしたと教えています。

また、
「天皇野郎が朝鮮に来て身体をブルブルふるわせて悲鳴を上げた。
それは、我が偉大なる領導者金正日元帥様が地図に触るとこの地が揺れて日本野郎は滅びてしまった」
とも教えています。

このように日本を敵国として教育しているのが北朝鮮です。

朝鮮学校は総連を通して朝鮮労働党とつながりあることは間違いありません。
そして我が国とは国交のない北朝鮮は多くの日本人を拉致し、日本に向けミサイルを発する国です。
我が国の主権を蹂躙し、安全保障を脅かす国・北朝鮮。 その配下である朝鮮学校。

日本の国家・国民に何も寄与しないどころか日本にはなくてもいい朝鮮学校に
日本国民の税金をつぎ込む必要性や妥当性は全く見つかりません。

3月3日、国連人権理事会で日本と北朝鮮は日本人拉致問題で激しい応酬をしました。
北朝鮮側は
「完全に解決済みだ。根拠のない日本の主張を受け入れることは断固拒否する。
もはや拉致被害者などは存在せず、この問題で議論することは何もない」 と強調しました。

転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

[転載]奄美群島の先史時代:奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時

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先史時代

奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラ火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。
日本本土沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島屋久島口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。

また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。

ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。

ヤコウガイなどは、螺鈿の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。



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対馬峰町歴史資料館

貝輪(かいわ)とは、貝殻で作られた腕輪のことで、特に古代日本で使われたものを指す。

貝輪は縄文時代からあり、サルボウなど大型二枚貝に穴を開けたものが広く見つかっている。弥生時代になると、九州北部などで巻貝類のカサガイオオツタノハなどに穴を開けたものや、イモガイゴホウラスイジガイなどを切って作った貝輪が盛行し、当時の支配階級を表すものであったと見られる。

これらの貝の多くは奄美群島以南に産するもので、沖縄諸島などではこれらを大量に加工したとみられる遺跡も見つかっており、九州との間で盛んに取引されたと見られる。山口県の土井ケ浜人類学ミュージアムや、種子島薩摩半島対馬における歴史民俗資料館などで多数保管展示されている。例外的に北海道でも有珠モシリ遺跡続縄文時代)でイモガイ製腕輪が見つかっている。

弥生時代末期頃からは青銅や石(碧玉など)を用いて貝輪に似せたと見られるデザインの腕輪や装飾品が作られるようになった。これらにはゴホウラに似た鍬形石(くわがたいし)や銅釧(どうくしろ)、カサガイに似た車輪石、イモガイに似た石釧、さらに輪ではないがスイジガイに似せたともいわれる盾などの飾りである巴型銅器(ともえがたどうき)があり、古墳時代には西日本一帯で用いられた。


開元通宝

  
開通元寳(開元通寳)
開元通寳(開通元寳)

開元通宝(かいげんつうほう)は、代において武徳4年(621年)に初鋳され、唐代のみならず五代十国時代まで約300年にわたって流通した貨幣。
開元通宝は半両銭五銖銭の形態を継承し[1]、直径は8分(約24mm)である。この銭貨1枚の質量は2銖4絫、すなわち1両(大両)の1/10(約3.73g)であり、ここから質量の単位である「銭」が生まれた。「1斤=16両、1両=24銖、1銖=10絫(るい)」という従来の複雑な体系にかわり、「1斤=16両」はそのままだが、それ以下は「1両=10銭、1銭=10分、1分=10厘、1厘=10毫」という10進法の体系が使われるようになった。重量単位の銭は日本に伝来すると1と呼ばれるようになった。


名称

この銭貨の読み方は「上・下・右・左」の順である対読では「開元通寳」となり、「上・右・下・左」である廻読では「開通元寳」となり、どちらであっても意味が通じるため、古くからこの2説が並行し、論争の的となり、現在でも結論は出ていない。

唐代の開元26年(738年)に出版された『唐六典』には「武徳中、悉く五銖を除き、再ためて開通元寳を鋳る」と記述しており 一方で詔勅文としては『旧唐書』の中で「仍令天下置鑪之処並鋳開元通寳銭」と記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約100年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない。

唐代の他の銅銭を見ると、史思明が作ったという「順天元宝・得一元宝」や8世紀後半の「大暦元宝」では「元宝」が、8世紀後半の「建中通宝」では「通宝」が使われている。唐代以降も「元宝」・「通宝」の両方の例がある。

影響

この円形方孔の形式は末まで続き、日本など周辺国の銅銭の模範にもなった。

種類

  • 開元高祖の武徳4年(621年)初鋳。書は欧陽詢による。
  • 会昌開元武宗会昌5年(845年)に鋳造された開元通宝。会昌の廃仏で徴発された仏像仏具から鋳造されたとされる。裏面に鋳造地を表す文字が鋳出されている。
    例:昌(「会昌」の昌、鋳地は揚州と言われている)、京(京兆府=長安)、洛(河南府=洛陽)、益(益州=成都)、藍(藍田県)、襄(襄州=襄陽)、荊(荊州)、越(越州)、宣(宣州=宣城)、洪(洪州)、潭(潭州)、兗(兗州)、梁(梁州)、潤(潤州)、鄂(鄂州)、平(平州)、興(興元府=漢中)、廣(廣州)、梓(梓州)、福(福州)、丹(丹州)、桂(桂陽監)等。
  • 唐以外にも南唐南漢呉越でも鋳造されている。南唐発行のものは銭銘が篆書体であることが特徴である。
  • 直径が小さいものも見られるが、多くは私鋳銭である。


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転載元: 奄美大島にいきたいな日本人の絆

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