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郡上一揆(ぐじょういっき)は、江戸時代に美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが

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郡上一揆 - Wikipedia



    

  
郡上八幡城内にある郡上義民顕彰碑。碑の形状は傘連判状をモデルにしている。

郡上一揆(ぐじょういっき)は、江戸時代美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で宝暦年間に発生した大規模な一揆のことである。郡上藩では延宝年間にも年貢引き上げに藩内部の路線対立が絡んだ一揆が発生したが、一般的には郡上藩主金森氏が改易され、老中若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦期の一揆を指す。



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概要

郡上一揆は、郡上藩がこれまでの年貢徴収法であった定免法から検見法に改め、更に農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を行うことにより増税を行うことを決定し、それをきっかけとして発生した[1]。極度の財政難に悩まされていた郡上藩では、一揆開始前から各種の賦課が増大しており、一揆開始当初は豪農層や庄屋など豊かな農民や、郡上郡内でも比較的豊かであった、郡上八幡中心部よりも長良川の下流域にあった村々が一揆を主導していた[2]

農民らの激しい抵抗に直面した郡上藩側はいったん検見法採用を引っ込めたものの、藩主金森頼錦の縁戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上藩の検見法採用を命じたことにより一揆が再燃した[3]

しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる[4]。一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された[5]。また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至る[6]

老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した[7]。しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化する[8]。そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく[9]

また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った[10]

最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった[11]

裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない[12]。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった[13]

一揆の発生

宝暦4年8月2日(1754年9月18日)に郡上郡内の惣代寄合が行われ、年貢徴収法改正反対の結束を固めた南宮神社。

年貢徴収法改正の申し渡しと一揆の発生

宝暦4年7月20日(1754年9月6日)、郡上郡全域の庄屋を郡上藩庁に呼び出した上で、代官猪子庄九郎、別府弥格の名で年貢の徴収法を元禄12年(1699年)に定めた定免法から検見法に変えることを申し渡した。

申し渡しの趣旨としては、現行の年貢徴収法である定免法は元禄12年(1699年)に定められたもので、幕領ではすでに年貢徴収法が改正されており、現在の年貢徴収法は定法と異なっているため改正が必要であり[† 3]、豊作年には多くの年貢を納め、凶作時には減免を行う検見法によって年貢を納めることは農民にとっても利益になるという内容であった[52]

申し渡しを受けた庄屋らは、その内容が重大であるため農民たちと相談の上で回答する旨を回答した。庄屋が郡上藩庁に呼び出された時点で、危機感を強めていた農民らは八幡榎河原に集結し始めていた。このような情勢下で帰村した庄屋は、各村で行われた寄合で農民の年貢徴収法改正への激しい反発に直面することになる[53]

各村はそれぞれ惣代を選び、宝暦4年8月2日(1754年9月18日)、郡上郡内の約120名の庄屋ら各村の惣代が郡上南宮神社に集まって惣代寄合を行い、神社の神前で一味同心の誓いを立てた上で傘連判状を作成し、年貢徴収法改正お断りの嘆願書を作成した[54]

しかし嘆願書は藩側に手渡されたものの、藩側からきちんとした年貢徴収法改正断念の返事はなかった、結局、庄屋たち中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決は断念され、農民らが直接藩に嘆願する方針に変更された[55]




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郡上郡内の庄屋の代官所呼び出し

笠松陣屋跡

宝暦5年7月16日(1755年8月23日)、郡上郡内36ヵ村[† 6]の庄屋、組頭が郡上藩側から呼び出され、笠松陣屋に出頭するように命じられた。庄屋らは郡上藩の役人らに引率され笠松陣屋へ向かった。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)、笠松陣屋で庄屋らは美濃郡代代官の青木次郎九郎から、昨年、領主から検見法の採用を言い渡されたが、検見法は土地の善し悪し、収穫の多少によって年貢高の変更がなされるため、農民にとって不都合な点はない。

また郡上藩領でいまだに定免法が採用されているのは地方役人の怠慢と言え、幕府の定めた年貢徴収法である検見法を説明し、受け入れるように言い渡すものである。また十六か条の願書は検見法の受け入れ反対に乗じて強訴を行ったものであるため認め難いものではあるが、検見法を受け入れるのならば十六か条で取り上げられた課税について考慮することにするとの内容の申し渡しがなされた[68]

その上で昨年手渡された農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状も提出せよと命じられ、もし承知しなければ重い罪科に問われると脅された。また笠松陣屋の元締めからは郡上藩主の金森頼錦が昨年は病気であったこともあって、美濃郡代に検見法の言い渡しを頼まれたものであるとの説明があった[69]

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庄屋帰還阻止運動の終結と関寄合所の開設

郡上藩側の弾圧を避けるため、一揆勢は関の新長谷寺近くに拠点である関寄合所を設けた。

宝暦5年10月1日(1755年11月4日)、郡上藩の役人らが郡上藩境の母野で庄屋の帰還阻止活動をしている農民たちのところに現れ、農民らに宗門改めを行わねばならぬ時期に、宗門改めの実務を行う庄屋の帰還を阻止しているのは不届きであると通告した。

同日、郡上藩の寺社奉行である根尾甚左衛門からも母野に集結していた農民らに騒動を止めるよう書状が送られたが、農民たちは那留村丹右衛門家来文六を使いに出して書状を寺社奉行に送り返した。使いとなった文六は縄手錠をかけられ、那留村丹右衛門家預けの処分となった[87]

宝暦5年10月7日(1755年11月10日)、寺社奉行根尾甚左衛門は各村に宗門改めの実施を正式に通知した。そして根尾寺社奉行は各村の寺院に対し、宗門改めの実施のため農民らに庄屋帰還阻止運動を止めるように説得するよう伝えた。

宝暦5年10月15日(1755年11月18日)、庄屋約120名が母野にやって来て、宗門改め実施のために郡上郡内に戻れるよう、農民らに説得を行ったが、この時は3000人と伝えられる農民らが庄屋たちの郡上帰還を阻止した。

翌16、17日も5、6000人と伝えられる農民が母野に集結して庄屋帰還を阻止しようとしたが、宝暦5年10月23日(1755年11月26日)には、郡上郡の南部である下川筋の庄屋はひそかに帰還して宗門改めを行った。その後母野の農民たちの間で、庄屋の不在によって宗門改めを実施できないのはやはりまずいとの判断がなされ、約2ヵ月半に及んだ庄屋帰還阻止運動は終結した[88]

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駕籠訴決行[ソースを編集]

駕籠訴人であり、一揆勢指導者の1人として活躍した前谷村定次郎の顕彰碑。

宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に高原村弁次郎を加えた6名は、駕籠訴を決行するために老中酒井忠寄の江戸城登城の行列を待った。酒井老中の行列が現れると、訴状を提出しようと老中が乗った駕籠に駆け寄った。供の侍らに蹴散らされながらも、大声で泣きながら訴える声を聞きつけた酒井老中から声を掛けられたため、「美濃国郡上の百姓で、御訴訟願い奉る」と訴状を差し出した。酒井老中は駕籠訴人らの宿所を尋ね、自らの邸に連れて行くよう命じた[100]

老中酒井忠寄の邸で帰宅を待っていた駕籠訴人は、夕刻の老中帰宅後に訴状が受理され、明日宿の主人とともに出頭するように伝えられた。宝暦5年11月27日(1755年12月29日)、宿の主人である秩父屋半七とともに出頭した駕籠訴人は、老中酒井忠寄から事情聴取を受けたあと、遠いところからやってきたので宿でしばらく休息するようにとの言葉をかけられた[101]

歩岐島騒動

郡上市歩岐島にある、郡上一揆帳元の中核を務めた歩岐島村四郎左衛門の顕彰碑。
郡上藩用人の大野舎人は、駕籠訴人5名と30名の村方三役代表を対決させて、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗した後も、一揆勢の弱体化を狙った画策を続けていた。大野は一揆勢の組織を切り崩すために資金と帳面を押収することとした。そこで一揆勢の司令塔である帳元について郡上郡内を徹底的に捜索した結果、宝暦8年(1758年)2月上旬には歩岐島村四郎左衛門が帳元の中核であると判明した[158]。藩側はまず歩岐島村四郎左衛門を呼び出してみたが呼び出しに応じなかったため、四郎左衛門と同じ歩岐島村に住む寝者である歩岐島村久右衛門を呼び出し、四郎左衛門の様子について尋ねてみると、家に隠れて外出していないことが報告された。そこで藩側は久右衛門に対し、四郎左衛門宅から帳面と金銭を奪い取るよう指示した[159]
宝暦8年2月24日(1758年4月2日)[† 15]、郡上藩の足軽4名と歩岐島村久右衛門を始め十数人の寝者農民が、歩岐島村久右衛門の家に押し入り、帳面、金銭などを奪った。歩岐島村四郎左衛門はからくも逃げることに成功し、隣家に匿われた。帳元元締めの歩岐島村四郎左衛門の家が藩足軽、寝者に押し入られ、金銭や帳面を奪い取ったことを聞きつけた近隣の一揆勢は、さっそく大挙して駆けつけ、久右衛門ら四郎左衛門の家に押し入った寝者を捕え、逆に四郎左衛門宅に監禁した[160]

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一揆の影響でずたずたとなった藩内の融和のため、盆踊りを奨励したことが郡上おどりの起源であるとの説がある。


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郡上一揆は田沼意次台頭のきっかけとなった。

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castle.gujohachiman.com/archives/tag/宝暦騒動 - キャッシュ
頼錦は学識にすぐれ文学書画をよくし、先人の遺業を顕彰するなど、文化的な城主で あったが、晩年幕府の奏者役という重職から出費が多くなり国家老の年貢増徴の 苦肉の策が嵩じ、ついに宝暦4年(1754)、領内の農民が蹶起して世に云う宝暦騒動( 郡上一揆) ...
roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-hourekigujyo.html - キャッシュ
郡上藩金森家の財政難 金森氏は織田信長、豊臣秀吉に仕えた金森長近が、飛騨国 平定の功によって飛騨一国3万8千石の大名となり、高山に築城し六代に渡り100年余り 在封した。 六代頼時は元禄5年(1692年)7月に出羽上山に転封となっ ...



宗祇水(そうぎすい)は岐阜県郡上市八幡町本町にある湧水である。

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宗祇水

   
宗祇水
郡上おどり期間で賑わう宗祇水


祇水(そうぎすい)は岐阜県郡上市八幡町本町にある湧水である。白雲水(はくうんすい)とも言われ、1985年昭和60年)宗祇水(白雲水)として名水百選[1]第1号に指定されている。また、岐阜県指定の史跡にも指定されている[2]。また郡上市の旧八幡町人と自然が調和した交流文化のまちとして水の郷百選[3]に選定されていて、宗祇水は名水スポットの一つになっている。



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概要

郡上八幡地域は年間2,800mmの降雨量がある豊かな水源林に涵養され、縄文鍾乳洞に代表されるカルスト地形石灰岩に浸透し、八幡市街に数多く湧出する。

由緒

1471年(文明3年)篠脇城東常縁宗祇古今伝授を終え、宗祇が帰京する際にこの泉水で東常縁が宗祇に
もみじ葉の流るる竜田白雲の花のみよしの思ひ忘るな
の一首を、はなむけに詠ったと伝えられている。
江戸時代には、郡上藩金森頼錦遠藤常友等らによって泉の保存と古今伝授が顕彰され、石の水場が整備された。水場は湧口から水源飲料水食糧洗浄水、さらし場(食器等洗浄場)と取り決めがある。また1917年大正6年)9月有志が集まり宗祇水奉賛会を結成して史跡保存に努めている。

交通

関連項目

外部リンク

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川掃除当番


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「郡
ぐじょうはちまん
上八幡」と呼び親しまれているが、正式名称は郡上市八はちまんちょう幡町である。郡上市は、岐阜県のほぼ中央部に位置し、東は下げろ呂市、北は高山市、西は関市、福井県大野市、南は美みの濃市、関市に面している。平成16 年3 月1 日、郡山市は旧郡上郡7 町村(八はちまん幡町、大やまと和町、白しろとり鳥町、高たかす
鷲村、美みなみ並村、明めいほう宝村、和わら良村)が合併し、岐阜県で19 番目の市として誕生した。

永禄2 年(1559 年)、東とうどやま殿山の戦いで東とうし氏を滅ぼした遠藤盛もりかず数が八幡山に城を築き、その城下町として郡上八幡がつくられた。

承応元年(1652 年)の大火をきっかけに築かれた水路は、防火用水だけでなく生活用水としても利用され、独特の水利用システムが築き上げられた。

特産物としては、郡上本染、郡上鮎、郡上紬などがあげられる。



自然
郡上市内には、長良川や吉田川など24 本の一級河川が流れている。特に長良川は、郡上市高鷲町の大
だいにうちがたけ日ヶ岳を源流として山間部を南流し、支流である白鳥町の曽ぞべち部地川や牛うしみち
道川など、また八幡町の吉田川や亀きびしま尾島川などと合流する。白鳥町から八幡町までの流れは比較的緩やかで、河川平野が広がっている。

八幡町から美濃市までは郡上川とも呼ばれ、川は峡谷状になっている。特に八幡町中山や美並町三
みと戸などの付近は郡上峡谷ともいわれ、長い年月の浸食によって深いV 字形の谷になっている。

郡上市内の約9 割は森林(92,692ha)に覆われ、そのほとんどが民有林(90,176ha)である。

白山国立公園には、国の特別天然記念物に指定された樹齢約1,800 年の「いとしろ大杉」があり、また郡上市高鷲町のひるがの高原には、ミズバショウ群生地が広がり貴重な植生が見られる。

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気候
郡上市は、最も海抜の低い美並町木こんの尾が110m、最も高い白鳥町銚ちょうしがみね子ヶ峰が1,810m と高低差が大きい地勢であることから、気候にもその影響が大きく表れる。北部の気候は、白山山系に連なる寒冷
地域に属するため気温が低く降雪量も多いが、南部の気候は温和で降雪量も少ない。

気候は、年平均気温が12.3℃と穏やかであるが、湿気を含んだ南東の季節風が越えつみ美山脈に吹きつけ
るため、降水量が年間2,682.2 ㎜と多雨である。特に八幡町は、明治26 年(1893 年)8 月22 日に日最大雨量607.3 ㎜の記録を残している。


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風土
郡上八幡には、室町時代の領主東とうのつねより常縁が古今和歌集の奥義を連歌師の宗そうぎ祇に伝えるため、歌を詠み合ったと伝えられる泉は、「宗そうぎすい祇水」と呼ばれ、「名水百選」に指定されている。また
町の中央を流れる吉田川では、子ども達が飛び込んだり、泳いだりする川遊びが、「残したい“日本の音風景100 選”」に選ばれている。

郡上八幡には、独特の水の文化として創りあげられた水舟、堰せぎいた板、カワドと呼ばれる水利用
システムが、今でも大切に受け継がれている。


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文化
毎年1 月6 日、白鳥地域の長ながたきはくさん滝白山神社で行われる「六むいか日祭」では、国の重要無形民俗文化財に指定されている遊宴芸能の「長滝の延えんねん年」が奉納される。寿命を延ばすという意味を持つ「延年」は、長滝一山の人々によって受け継がれている「長滝の延年」であり、平泉の「毛もうつうじ越寺の延年」と並んで貴重とされている。

7 月に約30 夜にわたって踊り続けられる「郡上おどり」は、400 余年の伝統を持つおどり文化であり、そのルーツは白山信仰の神事芸能の「ばしょ踊り」といわれている。この「郡上おどり」は、日本三大民踊の一つとして、国の重要無形民族文化財に指定されている。


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[転載]エクシブ浜名湖

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土曜日日曜日は、浜名湖に泊まりに行ってきました。1昨年行われた浜名湖花博の隣にできたエクシブ浜名湖というところに泊まりました。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5d-1f/xkqbp332/folder/1347593/31/35983931/img_0?20060515120542

ホテルは宮殿みたいで、ゴージャスな作りでした。何か会員制のホテルらしいのですが、知り合いのお坊さんが、会員になっていてに安く泊まれるということでした。
部屋はスイートルームで、ジャグジーまでついてました。もちろん風呂には入れませんが、代わりに頭洗ってもらいました。

なんだか人の会員権でちょっとセレブな気分です。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5d-1f/xkqbp332/folder/1347593/31/35983931/img_1?20060515120542

日曜日は、浜名湖花博の跡地にできた公園に、行ってきました。風が強くちょっと寒かったですが、たくさんの人が来ていました。でも園内はほとんど手入れされていなく各国の展示場内は荒れ放題でした。手入れもしないなら、取り壊して何もない方が良いと思いました。

モネの庭だけはそのまま残されているというので見に行ってきましたが一番奥にあったため行くまでにみんなバテテしまいました。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-5d-1f/xkqbp332/folder/1347593/31/35983931/img_2?20060515120542

モネの庭には色々咲いていてきれいでしたがみなさんお疲れの様子で、何が何だかわからないとか、においが混ざって気持ち悪い。とか文句ばっかり言ってました。

展望台にも上りましたが、ここは綺麗で、眼が1望でき、とても良かったです。

転載元: おせつとピー

[転載]浜名湖エクシブ にて年末

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とってもラッキーな事に、友人T夫妻のお陰で
30・31日と浜名湖エクシブで過ごす事が出来ました♪
ガーデンパークの近くにあって、大きな建物が気になる存在。
琵琶湖や鳥羽など他の施設の評判も良くって、楽しみ~☆

自宅から約20分程で、到着。
大きな白い建物の玄関で車を横付けすると、笑顔と温かい出迎え。
重いドアの向こうには、大きな正月をあしらった生け花と
その奥に広がる日差しの大きく入ったラウンジ。
別世界だよォ。

キャンセル20組以上だったという中、部屋も
大人4人と2歳児には充分過ぎる大きさで、何よりキレイ☆
温泉の大浴場に入り、ラウンジでキールを飲み、
(ハッピーアワーで半額だったの。今年もセコク行きます)
19:30から、イタリアンレストラン『ルッチコーレ」でディナー。
その間、T夫妻のRちゃんはキッズルームにて預かってもらいましたぁ。
イタリア産赤ワインを一本空け、海の幸・山の幸をふんだんに
使ったコース料理を満喫。
帆立が大きくって厚みがあって、チョイス正解! むふっ

他、2回温泉に入り、お肌トゥルトゥル。
朝は、和洋中のビュッフェを、お約束でたらふく食べ、散策。
中央にあるプールはタイルで作られてて、
プールサイドとの感覚もステキ。夏もいいだろうなぁ~!

エクシブは噂どおりリゾート感たっぷりで、
高級感ある施設でした。他も行ってみたいなぁ☆

ついでに今年も、『うなぎパイ工場』へ。
去年も彼の後輩ちゃん達と行ったから2年連続。
年中無休、助かってます!
またカフェで、蒸篭のまま出てくる抹茶蒸しパンや
自分で七輪で焼くみたらし団子などを食したのでした。

転載元: うしくんとうさちゃんの日記!

[転載]旧高鷲村民の開拓史証言 「記念館」きょう郡上市に開館

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旧高鷲村民の開拓史証言 「記念館」きょう郡上市に開館

岐阜新聞Web 4月24日(日)8時42分配信
 岐阜県郡上市高鷲町大鷲のたかす町民センター内に「たかす開拓記念館」が24日開館する。旧高鷲村は、明治期は北海道、昭和初期は旧満州(中国東北部)へ移民を送り出し、終戦前後は村内で開拓を進めてきた歴史がある。展示では、写真や資料と旧村民の証言をもとに一連の歴史を伝える。
 昭和初期の農村は貧しく、国策として分村・分郷計画が進められた。旧高鷲村も旧満州への分村計画を立て、1940年以降「琿春(こんしゅん)高鷲開拓団」を組織。123戸646人が渡った記録がある。
 旧満州に関する展示では、現地の居住環境や農作業など暮らしぶりが分かる写真のほか、6人の証言もまとめた。終戦直前、旧ソ連の侵攻で状況が一変し、多くの犠牲者が出たことなどを伝える。
 14歳で旧満州に渡った麦島博昭さん(88)は「私は4カ月で戻ったが、戦後に引き揚げた母親はいつも泣きながら苦労を語っていた」と振り返り、「亡くなった父も旧満州の生活を熱心に記録していた。記念館を喜んでいるだろう」と語った。
 ほかに、郡上村満州開拓団や旧郡上郡の他の他の地域で組織された開拓団の概要も紹介。展示に関わった高鷲文化財保護協会の馬渕旻修(あきのぶ)会長(69)は「満州開拓は遠い話ではない。今ある平和は先人たちのおかげだということを考える場所になれば」と語る。
 記念館は市が整備し、総事業費は約2700万円。24日は午後2時から記念式典がある。
岐阜新聞社
最終更新:4月24日(日)8時42分
岐阜新聞Web

転載元: nk8**6eのブログ

ひるがの湿地公園 分水嶺公園

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ひるがの高原

   
ひるがの高原 標高所在地位置種類
ひるがの高原(ひるがのこうげん)は岐阜県郡上市高鷲町にある高原。主に、同市高鷲町蛭ヶ野地内にある「蛭ヶ野高原」と鷲見地内にある「上野高原」のことを指すが、現在では、切立地内にある「明野高原」も含めて、高鷲町にある高原を総称して平仮名で表して呼ぶことがある。
同市高鷲町にある各高原名は地名では無いため、位置や範囲は明確にされておらず、ひらがなで表した「ひるがの高原」に明確な定義はない。


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A地区
泥炭層が発展した湿原であり、その中を水路が通っている。流水沿いにはミズバショウ、サワギキョウ、カキツバタ、ノハナショウブ、コパイケイソウ、クサレダマ、イヌゴマなどの群落が見られる。泥炭層の発達している所には、南限のワタスゲが大きな群落を作っている。その他、ミズチドリ、ウメバチソウ、イワショウブ、トキソウ、コバノトンボソウ、カキラン、ヒダキセルアザミ、コバギボウシなども多く見られる。

B地区
他の地区に比べて規模は小さいが、泥炭湿原、沼地様の湿地、水路、湿った草地など様々な生育環境があり、それを反映して生育している植物の種類も多い。ミズバショウ、ザゼンソウ、カキツバタ、クサレダマ、ワタスゲ、レンゲツツジ、ハイイヌツゲ、ナカボノアカワレモコウが比較的まとまって見られ、コパイケイソウ、ノカンゾウ、サワシロギク、シュロソウも多い。他に、トキソウ、コバノトンボソウ、サワギキョウ、ミズオトギリ、コバギボウシ、ヤマラッキョウ、アブラガヤ、ガマ、ヤマドリゼンマイなどが見られる。

C地区
川沿いに発達した湿地で、樹木の下にミズバショウが多く群生している。ヒメザゼンソウやミズオトギリも見られる。高木にはコブシの木が多く、低木にはノリウツギ、ミヤマウメモドキ、ハイイヌツゲなどがある。



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蛭ヶ野高原は「ひるがの高原」と、「蛭ヶ野」を平仮名にして表記されることが多く、地図にはこのように書かれていることが多い。キャンプ場やスキー場の名前は「ひるがの高原」と平仮名で書かれているが、「蛭ヶ野簡易郵便局」のように漢字表記の施設もある。
また、鷲見地内にある東海北陸自動車道サービスエリアは上野高原にあるが「ひるがの高原」と平仮名で名前が付けられている。上野高原や明野高原で採れる夏大根は、「ひるがの高原だいこん」と呼ばれ、平仮名で商標登録がされている。
蛭ヶ野地内にある蛭ヶ野高層湿原植物群落では、岐阜県の天然記念物の指定を受けていて[1]、その周辺にはひるがの湿原植物園がある。夏は避暑地として、秋は紅葉狩り、スキー場があり、冬はスキーが楽しめる。アクセスは東海北陸自動車道高鷲IC荘川ICひるがの高原サービスエリアスマートICが至近。


ひるがの高原分水嶺
国道156号沿いに中央分水嶺と分水嶺公園があり、この分水嶺から北へ流れる水は庄川、南へ流れる水は長良川となる。

脚注

[ヘルプ]
  1. ^蛭ヶ野高層湿原植物群落”. 岐阜県教育委員会社会教育文化課. 2016年3月23日閲覧。

関連項目

外部リンク


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白山信仰 カタログ

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白山信仰泉野櫻木神社(石川県金沢市) 大谷寺(福井県越前町) 中山寺(福井県高浜町) 月輪寺(京都市右京区) 豊原寺平泉寺栢野寺栢野大杉神童寺法師 (旅館)


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白山信仰

   
室堂から望む白山奥宮と御前峰
神道基礎 資料 神社 祭祀と祭礼 関連用語
白山信仰(はくさんしんこう)は、加賀国越前国美濃国(現石川県福井県岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰



成立

古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川手取川長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。




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歴史

白山の三馬場と禅定道


崇神天皇7年に、白山を仰ぎみる遥拝所が創建されたと伝えられる。祭神は菊理媛尊(白山比大神)、伊邪那岐尊(伊弉諾命)、伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱であった。
その後、717年養老元年)に、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ[1][2][3][4]、以後の白山信仰の基となった。

718年(養老2年)に、泰澄は御前峰に社を築き、白山妙理大権現を奉祀した。
平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、「三箇の馬場(ばんば)は、加賀の馬場、越前の馬場、美乃の馬場也」(三馬場)と呼ばれた[5]。そして、神仏習合により、820年天長9年)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立された。
延暦寺末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けたが、寛文8年(1668年)白山麓は江戸幕府公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した。

白山修験

白山修験は、白山頂上本社、中宮八院(護国寺、昌隆寺、松谷寺、蓮花寺、善興寺、長寛寺、涌泉寺、隆明寺)、下山七社(白山寺白山本宮、金剱宮、三宮、岩本宮、中宮、佐羅宮、別宮)で一山組織を成し、「白山衆徒三千を数う」「馬の鼻も向かぬ白山権現」といわれるほど、中世には加賀国を中心に宗教的にも政治的にも隆盛を極めた。
白山修験は熊野修験に次ぐ勢力だったといい、特に南北朝時代北朝方の高師直吉野一山を攻めて南朝の敗勢が決定的となった際には、吉野熊野三山間の入峯が途絶したため、白山修験が勢力を伸ばし、日本全国に白山信仰が広まった[6]
源平盛衰記』や『平家物語』に記された白山衆徒(僧兵)が、対立した加賀国守を追放した安元事件に代表されるように、加賀国では白山修験は一向宗加賀一向一揆)と並んで強大な軍事力を有する教団勢力として恐れられた。しかし、戦国時代には一向宗門徒によって焼き討ちにされて加賀国では教団勢力は衰退したが、江戸時代になると加賀藩主前田家の支援により復興された。
白山修験の僧兵は山門(延暦寺)の僧兵と結びつき、特に霊応山平泉寺は最盛期には8千人の僧兵を擁したと伝わる。

神仏分離・廃仏毀釈

明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった。しかし、銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市)の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の「白山本地堂」に安置されている。

曹洞宗

日本曹洞宗道元禅師(高祖承陽大師)がから帰国する前夜に、白山権現が碧巌録の写本を助けたとの伝承がある[7]。このことから曹洞宗大本山永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経読誦する。
『洞谷記』には太祖瑩山禅師が白山氏子と記されている。


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泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日767年4月20日))は、奈良時代修験道加賀国(当時越前国白山を開山したと伝えられる。越の大徳と称された。


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越前国麻生津(福井市南部)にて、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれる[1]。14歳の時出家し、法澄と名乗る[1]。越智山にのぼり、十一面観音を念じて修行を積んだ[1]大宝2年(702年文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、豊原寺を建立する。その後養老元年(717年)越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した[1]

同年、平泉寺を建立する。養老3年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行う[1]。養老6年元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った[1]天平9年(737年)に流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞重祚により称徳天皇に即位の折り、正一位大僧正位を賜り泰澄に改名した[2]と伝えられる。


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白山文化博物館には売店もあります。

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白山信仰を表し加賀国白山比神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神菊理媛神(白山比神)・伊弉諾尊伊弉冉尊の3柱としている。
白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡愛知の各県に多く分布する。東日本被差別部落に白山神社が多く祀られており、その理由については諸説あり未詳であるが、一説には江戸浅草新町矢野弾左衛門が信仰したことで広がったという[8]。 中世には加賀白山比神社の前身である白山寺白山本宮や、美濃国の白山中宮長滝寺(現長滝白山神社)、越前国の霊応山平泉寺(現平泉寺白山神社)が延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請された。勧請元としては白山寺白山本宮(白山比神社)、白山中宮長滝寺、霊応山平泉寺が主で、長滝寺より勧請したものが最も多く、現在でも白山神社が最も多くあるのは岐阜県である。しかし、この3社のうち『延喜式神名帳』に記載されているのは白山比神社だけであるため、明治時代に白山比神社が「日本全国の白山神社の総本社」と認定され、各地の白山神社の多くは「白山比神社から勧請を受けた」というように由諸を書き換えた[要出典]

浜松・浜名湖の観光スポット 浜名湖は明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。

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浜名湖

   
浜名湖 所在地 位置面積周囲長最大水深 平均水深貯水量水面の標高成因 淡水・汽水湖沼型透明度
Lake hamana landsat.jpg
衛星写真
日本の旗日本
静岡県浜松市湖西市
64.91[1]km2
114 km
16.6 m
4.8 m
0.35 km3
0 m
海跡湖
汽水
中栄養湖
1.3 m
Project.svgプロジェクト 地形
テンプレートを表示
浜名湖
明応地震により消滅した浜名湖の陸地[2]
浜名湖の各水域と周辺地形の名称
浜名湖と富士山
浜名湖(はまなこ)は、静岡県浜松市湖西市にまたがる




地理

静岡県西部に位置しており、南部は遠州灘に通じている。もとは砂州によって境される淡水湖が1498年の大地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じ、汽水湖となった。汽水湖には海水と淡水の栄養素が集まるため、魚などの生物が非常に豊富で魚類338種、甲殻類59種、軟体動物84種と全国一の生物が生息しているとの調査報告がある。面積としては日本で10番目の大きさである[3]。形は複雑で、細江湖(引佐細江)猪鼻湖松見ヶ浦庄内湖と4つの枝湾(水域)を持ち、これらの面積は湖全体の面積の4割に達する。このため、湖の周囲長は日本では3番目の長さとなる。また、汽水湖としては日本一長い。湖の北側と南側で水深は大きく異なり、北側は深く、南側は比較的浅い。
近くに存在する佐鳴湖とは、1つの川(新川)を通して繋がっている。なお、河川法上は、浜名湖は二級河川都田川水系都田川として河川指定がなされており、浜名湖に注ぐ全ての河川も、水系では都田川水系として扱われる。
湖内南端付近に弁天島があり、湖内北部に面積20アールほどの松に覆われた礫島(つぶてじま)がある[4]

歴史

浜名湖の歴史はおおよそ、40~50万年前の海侵期、天竜川の堆積により台地が形成される。次の海退期に現浜名湖付近に、谷を形成、38万年前、第二海侵期に入り江となる。このとき三方原台地が堆積する。この海退期には天竜川は三方原、磐田台地に分裂させ、第三海侵期に浜名湖付近の沈降と海面上昇で、現浜名湖に近い入り江が出来る。第四海退期(約2万年前)それに続く沖積世の海面上昇により沿岸流が運ぶ土砂で入口をふさがれ、現在の浜名湖を形成した[5]

沖積世の海面上昇は縄文海侵(海進)とよばれ、このあと+3mから-2mほどに渡る海侵・海退が数度おとずれた。これにより低地には海岸線に平行な砂堤を複数残している。その最大は雄踏で高さ10mである。縄文中期~後期以降、浜名湖は庄内半島から日ノ岡より北にあり、その南は平野となっていて川として現在の弁天島駅付近で海に注いでいた。その後この大平野が消滅、平安時代には浜名湖の出口は現在の湖西市新居町大倉戸に流れていて橋が掛けられた。この川を浜名川と呼び、ここを東海道が通っていた。

一般的に古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。ただし、国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。浜名湖は海に近い湖であったが、湖面の方が海面より高く、浜名湖より流れ出る川を海水が逆流するようなことは無かった。

しかし、明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛(現在の浜松市西区村櫛町)という地名が付くほどであった。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた(元は新居の神様)など、記録や伝承が残る。

この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになった。今切は文字通り「今切れた」という意味である。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで、佐久間信盛武田信玄率いる武田軍団に恐怖感を抱いて、戦わずしてこの今切まで撤退している。
近代での今切の渡し(いまぎれのわたし)は東西交通の難所として広く知られたが、現在では鉄橋や道路なども通り安全に往来できるようになっている。


観光地・施設


浜松・浜名湖観光スポットランキングTOP10 - じゃらんnet

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浜松市・浜名湖周辺のおすすめ観光スポット

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浜松市(はままつし)は、戦国時代には浜松城の城下町、江戸時代には東海道の宿場町として栄えた。

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浜松市

   
はままつし
浜松市 国 地方 都道府県団体コード法人番号面積 総人口人口密度隣接自治体 市の木 市の花 市の鳥浜松市役所市長 所在地 外部リンク
Hamamatsu montage.jpg
浜松市旗浜松市章
浜松市旗・浜松市章
市旗・市章、共に2005年平成17年)6月28日制定
日本の旗日本
中部地方東海地方
静岡県
22130-9
3000020221309
1,558.06km2
(境界未定部分あり)
796,114
推計人口、2017年10月1日)
511人/km2
磐田市湖西市島田市
周智郡森町榛原郡川根本町
愛知県豊橋市新城市
北設楽郡東栄町豊根村
長野県飯田市下伊那郡天龍村
マツ
ミカン
ウグイス
鈴木康友
430-0946
静岡県浜松市中区元城町103番地の2
北緯34度42分39秒東経137度43分39秒
浜松市役所・中区役所
浜松市Webサイト
浜松市位置図
― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町
浜松市行政区画図
 表示 ウィキプロジェクト
浜松市都心部
愛知県田原市から望む遠州灘と浜松市街
浜松のスカイライン
浜松市(はままつし)は、静岡県西部にある政令指定都市。面積と人口は浜松市が同県最大である[1]
戦国時代には浜松城城下町江戸時代には東海道宿場町として栄えた。


歴史

地名の由来

旧い文献に依ると、12世紀頃に北海道を除く全国各地で荘園が整備され、旧敷知郡濱松町域に濱松荘が配置された。中世以前の天龍川は、度々氾濫する川(暴れ天龍)として知られ、現在の市域には幾つかの天龍川支流が流れており、河川で濱松荘と引間とは、地域がそれぞれ独立していた。時代を経て中世に移行すると、濱松(現在の浜松)と呼称されるようになったことが史書に記されている。

「引間」が「曳馬」に転じた地名と推測され、近世以前は「引馬」と表記される文献も存在している。この引間において、瀬名姫の先祖である今川貞相によって引間城が築城された。これを徳川家康が濱松城と改めた事で、以後濱松(現在の浜松)として定着する(元来、引間城の近郊に濱松という町があった。家康が引間城を元に増築した城を名付ける際、町の呼び名に因んで濱松城とした)。

古代

蜆塚遺跡

中世

鎌倉時代から室町時代まで
三方ヶ原の戦い
戦国時代

近世

江戸時代

明治から第二次大戦まで

山葉楽器製造所製作 オルガン
初代の浜松市章
1911年7月1日制定
浜松市街

観光地

弁天島海浜公園
中区
  • 浜松城 - 戦国時代末期は徳川家康の居城で、以後、譜代大名が浜松城を居城としたことから、出世城とも呼ばれる。1958年に鉄筋コンクリート製の天守閣(近世には天守は存在しなかったようで絵図にも天守は記載がない)が再建された。
  • 浜松城公園 - 浜松城周辺の公園で、浜松市役所本庁舎の北側にある。春は桜の名所としても有名。
  • 浜松市美術館
  • 五社神社・諏訪神社 - 江戸幕府二代将軍徳川秀忠の産土神である。初詣では人気のスポットとなっている。はまホールに隣接している。第二次世界大戦で焼失するまで国宝であった。
  • アクトシティ浜松アクトタワー) - 浜松駅前にそびえる45階建てのアクトタワーを中心に、会議場やコンサートホール、展示場などからなる。外観は、ハーモニカをモチーフとしている。
  • 浜松市楽器博物館 - 1995年に日本初の公共楽器博物館として開館。浜松駅前の複合施設。アクトシティの中にある。
  • 蜆塚遺跡 - 縄文時代後期から晩期頃の集落遺跡。国の史跡に指定されている。
東区
西区
南区
北区

【浜名湖おすすめ観光スポット】「舘山寺周辺」浜名湖を見て、遊んで、楽しむ。 @

静岡県浜松市中区の観光スポットをご紹介します。

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静岡県浜松市中区の観光スポットをご紹介します。

静岡県浜松市中区の多くの素晴らしい観光スポットの中から、独断と偏見で選んだ15ヶ所を、音楽と共に5分間の旅をお楽しみください!!

①浜松駅
②浜松広報館(エアーパーク)
③浜松城
④浜松城公園
⑤浜松市楽器博物館
⑥ザザシティ 浜松




⑦浜松科学館
⑧浜松八幡宮
⑨浜松アクトタワー
⑩蜆塚遺跡(蜆塚公園)



蜆塚遺跡

   
蜆塚遺跡(静岡県浜松市)
蜆塚遺跡(しじみづかいせき)は、静岡県浜松市中区蜆塚にある縄文時代後期から晩期(約3~4千年前)頃の集落遺跡。国の史跡に指定されている(1959年指定)。

概要

蜆塚遺跡は明治時代から学界では知られていたが、遺跡の存在自体は江戸時代から知られていたとされている。調査は数度にわたって実施され、円環状に平地式の住居跡が20数戸、墓地などの存在が明らかになり、首飾りや貝製腕輪を身につけた人骨なども出土した。20世紀末の1983年に発掘調査が行われ、勾玉土器鉄鏃などが出土しているが、これらは縄文時代後期から晩期のものである。これらの出土品の多くは遺跡南側に併設されている浜松市博物館(中区蜆塚四丁目)に展示されている。
第一貝塚

比較的規模の大きい貝塚があることで有名な遺跡でもあり、その多くが淡水性で二枚貝の蜆(シジミ)で構成されていたことが遺跡周辺の地域名「蜆塚」の由来である。この貝塚は大きく分けて4つ存在し、その内の一つは専用施設により発掘調査当時のまま保存されている。この貝塚は幾重もの層が存在し、およそ千年分のものが積み重なっているとされており、その堆積は1.5メートルほどに達する個所もある。

貝類だけではなく、土器の破片や海水性の魚類であるマフグスズキクロダイアカエイ・獣の骨なども混在している。また、この貝塚の存在により、遺跡の西にある佐鳴湖が当時は遺跡付近にまで達していたことがうかがえ、水産資源も豊富であったことを物語っている。

現在、遺跡は史跡公園として無料で解放されており、駐車場も整備されている。また、当時の住居が復元されており、その様子を見ることも可能である。

アクセス

  • バス:JR浜松駅から遠鉄バス「蜆塚・佐鳴台」行で「博物館」下車、徒歩1分。

関連項目

蜆塚遺跡の沿革

浜松市蜆塚遺跡の調査履歴

調査の歴史




1713年(正徳3年)国学者杉浦国頭が、著書『曳馬拾遺』に「蜆塚という場所で土を掘るとシジミの貝殻ばかり出て不思議だ」と記す。
(天保10年)入野村の竹村広蔭が、著書『変化抄』に「蜆塚の貝殻を畑の肥料として掘り出すことがさかんになり貝の山が失われた。地名の由来なので庄屋が運び出しをやめるよう願い出た」と記す。
(明治10年)東京大学のエドワード・モースが東京都大森貝塚で、日本で初めての縄文時代貝塚発掘調査をする。
(明治22年)東京理科大学人類学教室の若林勝邦が蜆塚遺跡で土器や石器を採集し、学会に報告。
土屋彦六が『東京人類学雑誌』で蜆塚遺跡採集品を報告。
足立文太郎が、蜆塚遺跡で土器や石器とともに、貝塚から人骨を発見し貝塚内に当時の墓地があることを報告する。
(大正4年)本山彦一がイノシシやシカの骨を採集し、当時は、森がひろがり、また入り江が近くにあった環境を想定する。
京都大学考古学研究室の榊原政職が貝塚の一部を発掘。石積みの下から女性の屈葬人骨を発見する。
京都大学の清野謙次・浜田耕作らが貝塚の一部を発掘。人骨2体と土器などを発見。縄文時代後期のものと発表。
(昭和5年)早稲田大学の松本吉治が『史前学雑誌』に、蜆塚貝塚の獣骨や貝の種類と比率を発表。
『静岡県史』が刊行され、蜆塚貝塚の調査成果も掲載。
静岡大学教育学部浜松教場が蜆塚遺跡の一部を発掘し、貝塚が良好に保存されていることがわかる。この発掘を契機として「蜆塚遺跡保存会」が結成され、学術的な発掘の機運が高まる。
浜松市による蜆塚遺跡の発掘調査が開始される。全国の学者や市内の学生体が参加した本格的な調査。以後第四次調査までつづく。
浜松城天守閣が再建され、浜松市立郷土博物館が開館
蜆塚遺跡が、国指定史跡となる。
蜆塚遺跡見学のための整備、保存施設が完成する。
蜆塚遺跡出土品収蔵庫が完成し、一般に公開される。
浜松市立郷土博物館が、静岡県登録博物館第2号となる。
蜆塚遺跡に陳列館が完成し、郷土博物館蜆塚分館とする。
伊場遺跡資料館開館、郷土博物館伊場分館とする。
浜松市博物館が開館する。
旧高山家住宅を蜆塚公園に移築、公開する。
園路建設にともなう蜆塚遺跡一部発掘調査。
貝塚の東限を確認するための一部発掘調査。
2004年公園駐車場の再整備、遺跡有無の確認。



⑪浜松市博物館


www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/ - キャッシュ
2017年11月1日 - 浜松市博物館は、静岡県西部の浜松市にある、市立の歴史系博物館です。原始から 近代まで、浜松地域の歴史資料を紹介しており、縄文時代の貝塚、国指定史跡「蜆塚 遺跡(しじみづかいせき)」に隣接しています。 〒432-8018浜松市中区 ...
www.jalan.net > ... > 静岡の観光 > 浜松・浜名湖の観光 > 浜松市中区の観光 - キャッシュ
評価(評価: 4)評価:4-19件のレビュー
浜松市博物館の観光情報 営業期間:開館:9:00~17:00、交通アクセス:(1)浜松駅から バスで(博物館)。浜松市博物館周辺情報も充実しています。静岡の観光情報なら じゃらんnet 3千年前の生活をしのぶ繩文式住居が復元され、隣接の博物館に.
www.hamamatsu-pippi.net/docs/2014031500079/ - キャッシュ
ナウマン象の骨格標本など、浜松地域の原始から近代まで数万年にわたる歴史資料を 紹介する、歴史系博物館です。隣接する国指定史跡「蜆塚遺跡(しじみづかいせき)」は、 縄文時代後期~晩期のムラの跡。現在は蜆塚公園として整備され、 ...
ja.wikipedia.org/wiki/浜松市博物館 - キャッシュ
浜松市博物館(はままつしはくぶつかん、Hamamatsu City Museum)は、静岡県浜松 市にある市立博物館である。原始から近代まで、浜松地域の歴史資料を紹介しており、 縄文時代の貝塚である蜆塚遺跡(国の史跡)に隣接している。 開設は1958年(昭和33 ...

浜松市博物館(はままつしはくぶつかん、Hamamatsu City Museum)は、静岡県浜松市にある市立博物館である。原始から近代まで、浜松地域の歴史資料を紹介しており、縄文時代の貝塚である蜆塚遺跡(国の史跡)に隣接している。
開設は1958年昭和33年)で、当初は浜松城天守閣内にあり、浜松市立郷土博物館と称していた。1979年(昭和54年)に現在地に移転して浜松市博物館となり、2011年平成23年)にリニューアルオープンした。常設展示は「はままつの歴史・文化展示室」と称し、原始から近代までの浜松地域の歴史を紹介している。他に特別展示室、講座室などがある。[1][2]

www.tripadvisor.jp > ... > 日本 > 中部地方 > 静岡県 > 浜松 > 浜松市 観光 - キャッシュ
浜松博物館: トリップアドバイザーで浜松, 静岡県の 10 件の博物館の口コミや写真を 表示します。


⑫五社神社・諏訪神社
⑬浜松ジオラマファクトリー
⑭浜松市美術館
⑮西来院


特色ある博物館、資料館

地区館独自の展示のほか、巡回展を開催しています。

[転載]private hotel~ Nasu. 福島復興支援 那須白河エクシブ美術館に行こう

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ふくしまの旅-福島観光情報サイト- 新規ウインドウアイコン 福島県が提供する県の 観光情報総合サイトです。ニュース、観光スポット、グルメ、アクセス情報を提供してい ます。修学旅行などの団体旅行専用のコーナーも設けています。




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www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/list277.html - キャッシュ
地域経済の担い手である商工業・観光の状況など、復興・再生のための福島県の積極 的な取組をご紹介します。 商工業の復興状況画像. 商工業の復興に向けた取組 「 東日本大震災で事務所・工場が被災し事業の継続が困難となった」、「原子力災害に 伴う ...





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rt-clubnet.jp/hotels/xiv/nasu/restaurant/ - キャッシュ
会員制リゾートホテル、エクシブ那須白河ではリゾートウエディング・エクシブ ウエディング、ゴルフクラブ グランディ那須白河・グランディ那須白河、エステティック・ アロマハウス、リゾートスキー・グランディ羽鳥湖の他、日本料理、フランス料理などの グルメも


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travel.rakuten.co.jp > 全国 > 福島県 > 白河・須賀川 - キャッシュ
評価(評価: 4.2)評価:4.2-234件のレビュー
2017年10月18日 - グランドエクシブ那須白河ザ・ロッジ、東北新幹線新白河駅・東北道白河ICが8分と至近 にありながら豊かな緑に囲まれた贅沢な高原リゾート、鉄道:新白河駅から車で約8分。 無料シャトルバス(時刻表有


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www.jalan.net/yad354383/ - キャッシュ
評価(評価: 4.5)評価:4.5-327件のレビュー
グランドエクシブ那須白河ザ・ロッジ【非日常の癒し空間の宿】の宿泊・予約情報。 クチコミ夕食4.7点☆福島・那須の観光に最適 那須まで約30分 /じゃらんならお得な 期間限定プランや直前割引情報が満載。当日/直前のオンライン予約もOK。



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www.jalan.net/yad354383/kuchikomi/ - キャッシュ
評価(評価: 4.5)評価:4.5-327件のレビュー
グランドエクシブ那須白河ザ・ロッジ【非日常の癒し空間の宿】の口コミ・評判。クチコミ 夕食4.7点☆福島・那須の観光に最適 那須まで約30分 /じゃらんならお得な期間限定 プランや直前割引情報が満載。当日/直前のオンライン予約もOK。


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xiv.e-asre.com > トップページ > エクシブの施設 - キャッシュ
さらに同社初のペット対応施設ドギーヴィラを併設しているグランドエクシブ。 経営破綻 したザ・グリーンブライヤーウェストヴィレッジをリゾートトラストが見事に再生。 既存の ホテルにエクシブ宿泊棟を増築させる形でエクシブ那須白河を建設。


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www.ikyu.com > 宿泊トップ > 北関東 > 栃木(那須・塩原) - キャッシュ
評価(評価: 4.7)評価:4.7-25件のレビュー
グランドエクシブ那須白河ザ・ロッジ 宿泊予約は[一休.com] 那須連山を望み80万坪の 広大な敷地の中にあるグランディ那須白河。首都圏からお車で約2時間半のアメリカン トラディショナルな本格リゾートホテル。




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www2.wondernet.ne.jp/top/hotelinfo/disp.php?...xiv - キャッシュ
Type① 家族や友人と、カジュアル&リーズナブルな洋食を楽しみたい! ⇒そんな お客様にはプチパーティコースがオススメ。 Type② 上質なお肉を心行くまで堪能したい ! ⇒そんなお客様には黒毛和牛食べ放題コースがオススメ。



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www.jtb.co.jp > ... > エリア一覧 > 東北 > 福島県 > 白河・甲子 > 白河
グランドエクシブ那須白河ザ・ロッジの宿泊プラン一覧・予約ページ。オンライン予約も 可能です。アメリカン・トラディショナルが息づく、気品と格調の高原リゾート。スパ& エステ・ゴルフクラブ・スキーリゾートなど多彩な施設が休日を彩ります。 旅館・ホテルの 予約 ...


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転載元: 大企業グループや富豪の脱税情報募集のブログ

[転載]浜名湖

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今日は、浜名湖周辺に遊びに行きました!
本当は山登りのはずしたが、ETCの準備ができたので、急遽予定変更。
9時までに高速道路に乗れば、安くなるので早起きをがんばりました。

最初に浜名湖SAに行きました。
浜名湖の風景はいいですね~。
いちごこっことうなぎを購入。
自然も食も満喫♪
次は、いちご狩りに行きました。
「アグリス浜名湖」といういちご狩り農場で大粒のいちごをおいしくいただきました。
そこで、オルゴールミュージアムの割引券をゲット。
その足で、オルゴールミュージアムへ。
ここへは何度か来たことがあります。
癒されますね~、音楽はいいですね。
あとは、近くのイオンまで足を伸ばしました。

朝、ウォーキングしておいたのでさほど運動不足にはなりませんでした。
道中でも、ウォーキングを楽しめるといいですね!

Walk 3.5
1月 94.3

※浜名湖SAからの写真、オルゴールミュージアムからの写真、アグリス浜名湖(いちご狩り)の写真を掲載しています。

転載元: ランニング日記&つれづれ。フル2回目のサブ3達成するぞ!

[転載]瀧峯不動尊

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遠江の神々 初夏特別編 瀧峯不動尊



    今日は月曜日で休日です ここ数カ月続いている浜名湖周辺の神社巡りに今日も
    行ってきました
    朝は少しどんよりしていて涼しい天候でしたが二社巡っているうちに真夏の日差しに
    なってきました
  
    浜松の湧水を巡って、湧き出でる湧水の力を生活の活力にしている「水神さん」のよう
    な方のお勧めもあり、涼を求めて「瀧峯不動尊」に寄りました


https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_0?20171111082513


瀧峯不動尊の場所は浜松市北区にある聖隷三方原病院の北に有ります

      http://www.mapion.co.jp/m/34.7927138888889_137.691998333333_8/


     ナビ設定が上手くイカズ少し迷いました 
     30年程前に聖隷高校のサッカーグランドに来た時、不動尊の近くを通った
     記憶を甦らせ何とか着きました

不動尊前に有る由緒
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_1?20171111082513


瀧峯不動尊は三方原台地の北端に位置する。入り口は台地の上にあり、下に向かって社殿や
禊場が見えてきます
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_2?20171111082513


不動明王が祀られています 神仏習合のようですね
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_3?20171111082513


社殿の横の山肌から湧き出す水が一つにまとめられ、コンクリートの樋を伝って滝となって禊場に落ています
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_4?20171111082513


梅雨の時期ですから湧水の水量は多いようです
この滝で禊ぎの修業をする人もいるようです
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_5?20171111082513


社殿の横の台地から湧き出る水のそばには「瀧峯龍神大神」「水神大神」の石碑が建てられ祀られている
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_6?20171111082513


禊ぎ場に落ちた水は、小さな小川となって流れていきますが、その途中に鏡のように水面が輝いている池もあります
 水神様が金の斧を持って出て来そうです
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_7?20171111082513


高校生らしきカップルが禊ぎ場で誓い合っているようでしたよ
初々しくて羨ましいな
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_8?20171111082513


境内は杉の木立に包まれ、お昼少し前ですが薄暗く霊気が漂っているようです
たくさんの霊気を吸い込んで 火照った体も治まり元気が戻ってきました
瀧の水で顔を洗い、又寄るかもしれないなと思いながら帰路につきました
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-dc-48/pineroad184/folder/1579766/02/48688502/img_9?20171111082513


           瀧峯不動尊祭典
    平成21年8月2日 日曜日   午後2時から  甘酒 餅投げなど
 

転載元: 七里四方

[転載]互恵名水

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互恵名水

よみ ごけいめいすい

場所 静岡県浜松市北区三ヶ日町平山

N  34°50'01.69" E 137°31'26.75"


互恵名水

奥平山の庚申塔を探していたら、こんな所にきてしまった。

以前どこかのブログで見た石碑(互恵名水)だった。


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雨が降っていたので写真はボケボケ。


横には平山凌苔庵遺蹟跡(ひらやまりょうたいあんいせきあと)の案内板があり、流しそうめん場があった。

そうめんを名水でながすのか?


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この近くには別の湧水もあった。(洞窟よりの湧水)



転載元: きたかぜのブログ


磐田市・浜松市の湧水

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磐田市ひょうたん池ひょうたんいけ西貝塚湧水起源の池に多数の動植物が生息する。
地域住民の保護活動がなされている池。
地元住民により水質・水量調査、魚類・水生生物調査、清掃活動を実施している。 
磐田市鷹ノ水スイたかのみずすい敷地小国神社奥の院の北にあり、猟師に射止められた鷹が苦しさのあまりこの泉の水を求めたといわれる湧水。
  
磐田市虫生の冷泉むしゅうのれいせん虫生明治の終わり頃までは湯治場としてにぎわい秋葉山参詣の旅人も訪れた湧水。
  
磐田市湯沢の冷泉ゆざわのれいせん大平以前は御湯平村とよばれ、多数の冷泉が存在していたと推測される地域に残っている湧水。
  
磐田市虫生湯沢の冷泉むしゅうゆざわのれいせん虫生目の神様祠の前の沢にあり、大平湯沢の冷泉に通じるとされる冷泉。
 


浜松市うなぎ井戸の湧水うなぎいどのゆうすい北区
引佐町白岩
白岩水神社脇にある「うなぎ井戸」の一段下がったところに「泉の池」があり、池底から水が湧き出て清流をなし、神宮寺川に注いでいる。
昔、川の源である「泉の池」までうなぎが上がって来て、巨大うなぎに成長したことからうなぎ井戸と呼ぶようになった。
私有地に所在するため、地主が清掃等の管理を行なっている。写真
浜松市鷲沢風穴わしざわふうけつ北区
鷲沢町
鷲沢風穴は水平天井があることで知られる石灰岩の洞窟である。
風穴の奥深くで湧き出した水を入り口まで引いている。
  
浜松市竜ヶ岩洞りゅうがしどう北区
引佐町田畑
竜ヶ岩洞は総延長1000メートルの鍾乳洞であり、その深遠部には「天恵の泉」「黄金の大滝」など幻想的な景観が展開される。
2億5千万年前の地層から湧き出るミネラルを多く含んだ天然水である。
  
浜松市足神神社あしがみじんじゃ天竜区
水窪町奥領家
昔、遠州で作られた塩を信州へ運んだ「塩の道」沿いにある湧き水。
足の病に効くとの言い伝えがある足神神社の銘水
足神神社の神主が清掃等の湧水保全活動を行っている。写真
浜松市八幡神社はちまんじんじゃ天竜区
二俣町鹿島
遠州鉄道西鹿島駅から約300メートルのところにある八幡神社社殿脇にある大クスノキの根元から湧き出す。
湧水源の下流は4段に仕切られており、上から順に飲み水→お米洗い→野菜洗い→汚れ物洗いというように用途に応じた使われ方がされ、簡易水道が引かれるまでは近隣の生活用水として利用されてきた。
地元住民が定期的に清掃等の湧水保全活動を行っている。写真
浜松市新宮池しんぐういけ天竜区
春野町和泉平
標高約500mの場所になぜか存在する湧水の池。
池の周囲も約500mあり、東海自然歩道のルート上にある。
諏訪湖とつながっている伝説も。
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浜松市長寿の水ちょうじゅのみず天竜区
龍山町白倉
白倉川源流部に湧き出る水。
付近の白倉峡は紅葉や森林浴で有名な観光スポット。
 写真
浜松市滝峯不動尊たきみねふどうそん北区
細江町中川
三方原台地と細江町中川の間は森となっており、その一帯を滝峯と呼ぶ。
古より人々に親しまれており、夕涼みや園児たちの学習の場などとして利用されている。
 写真
浜松市水出観音みずでかんのん西区
深萩町

舘山寺の内浦湾に注ぐ呉松川の水源地。
眼病治癒、重病治癒などの霊験あらたかな話や、深萩の仇討ちとして有名な水出観音仇討記などの言い伝えがある。

[転載]弥三吉水~銀冷水

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https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_0?20160715232829
弥三吉水を出発。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_1?20160715232829
ウコンウツギ
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樹木越しに羅臼岳の姿。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_3?20160715232829
平坦な道を歩いていきます。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_4?20160715232829
7時09分、極楽平に到着。
暑くて全然、極楽じゃない。笑
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_5?20160715232829
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_6?20160715232829
途中、上部に残雪がある場所は自然のクーラー。
涼しい風が入ってきます。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_7?20160715232829
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_8?20160715232829
7時43分、仙人坂。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_9?20160715232829
ジグザグの急坂が始まります。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_10?20160715232829
う~ん、名前がわからない。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_11?20160715232829
ちょっとした雪渓がありますが、わずか数10mなので問題ありません。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-64-1e/dachshund_taro/folder/1605007/00/55957500/img_12?20160715232829
8時10分、第2の給水ポイント、銀冷水に到着です。

転載元: M.ダックス太郎の「情熱大陸」

[転載]「町民の森」(森町)散策  (浜松発!)

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「八形山」周回の下調べ 

2016年10月16日(日)
場所:北区三ヶ日町只木地区
移動:自動車、徒歩
ドリンク:中遠広域農道から新東名の遠州森町PA(上下線)を利用
トイレ:同上または「町民の森」南ゲート側公衆トイレ

キー・ワード(順不同) 町民の森、中遠広域農道、八形山
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  ”ええら森町、よんない「町民の森」”と誘われる同園地の南口は「中遠広域農道」に面している。
 その、全線舗装の「中遠広域農道」の森町区間には信号が無い。本線への中途からの合流は全て一時停止の自己責任となる。
 速度規制には変遷があるが、森町区間は現在時速40kmだから、速度超過には気を付けよう。遠州森町PA・スマートICができたので、舗装をやり直してとても走り易くなっている。二輪の人は一度は走ってみてください。

 では「町民の森」へ入りましょう。
 ちなみに、「町民の森」は天浜路ウォーキングの常設の「小國神社コース」の一部分であり、同コースの延長は11.7kmとなっている。

●森町「町民の森」管理車道
南口:中遠広域農道分岐接続
北口:町道分岐接続
延長:約2600m
備考:ほぼ全線ダート(舗装部分:南口80m、北口10m)

●森町「町民の森」遊歩道
南端:町道接続
北端:管理車道接続
延長:約3800m
備考:山道
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                       (遊歩道は大雑把です)

 「中遠広域農道」の遠州森町PA・スマートIC出入口の北側にある二輪パーツの「デイトナ」の800mほど先(北東側)に「町民の森」南口がある。

   ↓「中遠広域農道」に面した森町「町民の森」南口分岐(A分岐)
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 上段手前から右奥へと「中遠広域農道」。手前方向が南となり、「デイトナ」がある。左へと「町民の森」への分岐があり、看板も立っている。
 下段は北側からの振り返りで、北から来ても看板が立っている。車道に横断歩道があるのは、対面の授産所「もみの木」の両脇を通って遊歩道が町道まで続いているからだ(未確認)。
 南口から入るとすぐに園地設備がある。

   ↓南ゲート前の園地設備の様子(B地点手前)
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 上段手前から奥へ進む。左手に東屋があり、その奥に駐車場、右手にトイレ、中央に南ゲートがある。浜松市浜北区の森林公園と似たような地質・地形の雑木林で、落葉樹の紅葉は茶系が多くてきれいではない。

 東屋のテーブルの上にはレターケースが置いてあり、引き出しの中に「町民の森」のパンフレットがたくさん入っているのでありがたく頂戴する。
 別の引き出しには訪問帳があるので、ブログ名で記帳しておいた。
 周囲はつい最近除草した形跡があり、ここからの遊歩道への入口もスッキリしている。
トイレを借りて、南ゲート前でストレッチ。

   ↓「町民の森」の南ゲート(B地点)
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 「町民の森」の南口から北口までは幅員充分な管理車道(以下本線)が貫通しており、延長約2600mうち、ゲート間は約1600mとなる。ゲート間はダートで、路面は主にコンクリート砕石となる。転圧用の青崩砕石などと比べると、固くて地面に馴染まず、粒径もやや大きいのでスニーカーでは歩きづらいだろう。足裏のツボ押しにはなる(笑

 南ゲートはコンクリート擬木で、左側の歩行者用の小門扉が開放されているので、ハイカーはそこから入る。画像の左端には本線のゲート間のキロポスト
が写っている。これも擬木だ。本線のポストは看板式のものもあるのだが、擬木ポストとの整合性に欠けており、どちらを信用してよいのか判らない。
 ゲートから入り、見える距離(50m)で遊歩道の辻分岐に出る。

   ↓本線から上・下する遊歩道分岐(C分岐)
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 本線を挟んだ両側に遊歩道分岐がある。本線は、上段は左から右へ、下段は手前から左へと延びている。
 上段の遊歩道は本線より南側へ下り、下段の遊歩道は北側へと登る。本線より北側の遊歩道は、「八形山」登山や「大洞院-蓮華寺」の「歴史の散歩道ハイキングコース」としていずれ紹介する。但し、下段から行ける「やすらぎの丘」は行止りコースのようだ。

 上段の「木漏れ日の小道」への看板は、「木漏れ日の道」と同じだから、統一して欲しい。小心者にはドキドキだ。
 本線を1分、約100m進むと、もう一度「木漏れ日の道」への分岐に出る。

   ↓本線と2つ目の「木漏れ日の道」への分岐(D分岐)
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 カーブの頭が小さな切通しになっており、本線は左から右へ抜ける。「木漏れ日の道」への案内は複数有るので最初は戸惑うが、東屋に用意してあるパンフを見れば判り易い。
 ここは南ゲートから約150mの位置になるが、同所にある看板式のキロポストでは350m表示となっている。管理車道は一本道だから支障は無いが、さすがに誤差が大きい。
 ここから4分半、約350m進んだE地点に擬木のキロポストが立っており、そこの””南ゲート0.5km”表示は正しい。
 キロポストから見える距離(約30m)に遊歩道の辻分岐がある。

   ↓本線から上・下する遊歩道分岐(F分岐)
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 どちらも振り返りショット。上段の「グリーンガーデン」は「中遠広域農道」の南口よりもっと北側の部分に接続している。
 下段の「木漏れ日の小道」はC分岐と同様、「木漏れ日の道」の事である。
 この辻分岐には看板ポストもあり、南ゲート0.8km表示で、やはりおかしい。南ゲートではなく、南口からの間違いだろうとは思う。

 すでにここら辺でログ取りがイヤになってきた(笑。 読んでくれている人も飽きてきただろうが、この先、歩道分岐はまだまだあるので辛抱ください。
 この辻分岐から1分、約100mで「つづら坂」と言う標識に出る。

   ↓本線の歩道分岐と「つづら坂」の標識(G分岐)
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 本線は手前から奥へ抜ける。左下へ戻る感じで下る遊歩道分岐がある。この遊歩道は「木漏れ日の道」に向かって錯綜しており、説明しにくい状況となるので、今回は寄らなかった。

 分岐に立っている「つづら坂」の標識は向きが微妙だが、パンフレットでは本線のこの先(奥方向)を表しているようだ。”つづら”が何を意味しているのか歩いてみても判らなかったが、少なくとも本線は”つづら折れ”の坂道にはなっていない。ツヅラフジが生えているのだろうか?
 「つづら坂」の本線を進んで1分半、約150mでベンチのある見晴台に出る。

   ↓ベンチと岩石露頭のある「夕日の見える丘」(H地点)
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 上段手前から奥へと本線。左側(西側)が開けており、当然夕日が見えるだろう。
 下段は岩石の露頭と南西方向の「中遠広域農道」に面した二輪の「デイトナ」の社屋。この社屋はどこから見ても目立つ・・って言うか西方向にはこれしか無い。社屋のこちら側にテストコースがあるはずだが、ここからは見えない。
 下段の岩石の露頭はいかにも土地がやせている感じを醸し出し、マツや丈夫な灌木しか生えてない雰囲気。浜北森林公園のようにマツタケを産出するのだろうか。アカマツがあればの話だが。
 ここから50mほど先に遊歩道分岐がある。

   ↓本線の遊歩道分岐(J分岐)
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 本線は手前から奥へ進む。左へ降りる木の階段のある遊歩道分岐があり、こ
れは「木漏れ日の道」へ降りる分岐としては最北端となる。帰りはここから下って南ゲートの東屋の横に出る。とにかく、
幾つもある「木漏れ日の道」の呪縛からやっとおさらばできた。

 本線のガードレールは、そこに沢筋がある。先へ進んで3分、約200mでキロポストのある「森の泉」に出る。

   ↓本線の1.0kmポストと「森の泉」付近(K地点)
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 擬木の正確なキロポストがある。この一帯は丘とも呼べるような低山だが、この場所は湿潤で水がある。
 上段のガードレールの奥が窪地になっていて、下段のように階段で降りられる。地面が見えるので、水は溜まっていない。湧水がホースから出ているが、イノシシが生息しているような環境なので、飲用不可の表示がある。
 「森の泉」から4分半、約310mで遊歩道分岐に出る。

   ↓本線の遊歩道分岐(L分岐)
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 本線のカーブの頭の右側、つまり山側に沢筋に沿う分岐がある。これは「歴史の散歩道ハイキングコース」へ登る遊歩道で、そのコースは今回の「町民の森」とは別の、「大洞院-八形山-蓮華寺」を巡る設定となっている。

 遊歩道は上段の本線のガードレール脇を沢筋に少し降りてから「八形山」の北尾根へ向けて登って行く。入口が画像のように少しヤブっぽい(除草のし忘れ?)が、数m入ると下段のように良い状態となる。だが、この道は実は尾根への本筋ではない。本筋はあとで出てくる。
 この分岐から30秒(50mほど)で遊歩道の辻分岐に出る。

   ↓本線から上・下する遊歩道分岐(M分岐)
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 上段はベンチの奥を左に下れば「せせらぎと水性植物の世界」へ行ける。一般的には”水生植物”または”水棲植物”だと思うが、標識には”水性”と書いてある。
 この道は「町民の森」の北ブロックの遊歩道としては一番長い設定となり、後述する「町民の森遊歩道」と併せると本線の北口に近い所まで抜けている。

 下段は擬木の階段を登れば「ロマンの丘」まで行ける。同丘はL分岐で紹介した「歴史の散歩道ハイキングコース」の一部で、このM分岐からの遊歩道が本筋となる。
 今回は「八形山」に行くために、この登り口を確認しに来たわけだから、もう用は済んだ(笑。 「八形山」はこの冬に紹介しましょう。
 この辻分岐から2分、約190mで本線の北ゲートに出る。

   ↓「町民の森」の北ゲート(N地点)
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 上段の手前から来て、カーブの頭に北ゲートがある。ゲート脇に擬木のキロポストが立っており、南ゲートまで1.6kmの表示は正しい。
 下段が北ゲートにある駐車場で、こちらは未舗装だ。南ゲートにあるようなトイレも東屋も無い。腰を下ろして休める休憩所が下段の画像の奥(O地点)にあるが、日差しを遮るものが無いので夏はさぞかし暑いだろう。

 ふふふ、これで終わったと思ってはいけない。冒頭の諸元から判るが、本線のダート部分は約2520mあり、ゲート間のダートは1600mなのだ。
 さあ、残りのダート920mを見に行きましょう。
北ゲートから1分半、約140mで遊歩道分岐に出る。

   ↓本線の遊歩道分岐(P分岐)
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 本線は手前から奥へ抜ける。左へ降りる分岐があり「せせらぎと水性植物の世界」へ行ける。これは、M分岐から降りた遊歩道と接続している。
 この分岐から30秒(50m)で次の分岐に出る。

   ↓本線の遊歩道分岐(R分岐)
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 前出のP分岐と同様に「せせらぎと水生生物の世界」へ下る遊歩道で、途中の分岐を南へ行くと「見晴らしの丘」へ出る。「見晴らしの丘」は気持ちの良い場所だが、やはり日差しを遮る方法が無い。
 この分岐から2分、約200mで遊歩道分岐に出る。

   ↓本線から「見晴らしの丘」へ行く遊歩道分岐(S分岐)
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 本線は左から右へ抜ける。この場所は尾根の鞍部になっている。この分岐から遊歩道に入ると、看板通り、最初に「見晴らしの丘」に出る。北ブロックの遊歩道の最北端となる。

 この分岐より北側には単独の遊歩道が一つある。その単独の遊歩道分岐が50mほど先にある。

   ↓本線から分岐する「町民の森遊歩道」(T分岐)
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 この遊歩道は、地形図破線では本線へ接続せずに「町民の森」の外の町道へ抜けられるように書いてあるが、実際には廃道のようで、現在は本線のもっと北側へ接続している。
 と言う事で、本線をもう少し下る。途中の右手の沢筋に谷止工が見え、それは地形図にも表記がある。本線を3分、約250mで前述の遊歩道分岐に出る。

   ↓本線の最北端の遊歩道分岐(U分岐)
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 本線を奥から手前へ出てきて振り返りショット。ヘアピンカーブになっており、そのカーブの頭に「町民の森遊歩道」分岐がある。これを入れば、少し登って前出のT分岐に出る。
 さて、いよいよ本線の紹介も終わりだ。最後の3分、約170mを下ると入口が要部舗装の北口に出る。

   ↓町道に面した森町「町民の森」北口分岐(W分岐)
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 奥から下って来て振り返りショットで、手前の横断溝より奥の要部舗装は10mほどだ。手前左右が町道で、右方向(奥から来ると左折)へ進めば南口へ戻る事もできる。
 画像の右側に裏側を向けて立っている看板は「天浜路ウォーキングコース」の常設の「小國神社コース」の案内板で、ここから天浜線の「遠江一宮駅」までもう7.1km歩くことになる。そのコースは、今回報告した「町民の森」を通り抜けているのだが、冒頭の南口付近には看板が無い。但し、「中遠広域農道」と町道の接続部分には2か所看板があるから、迷うことは無いだろう。
 
 以上で、森町の「町民の森」の管理車道のお話はおしまい。

 ●おまけ●

 園内の遊歩道の延長は約3800mあり、残念ながら一筆書きのように一回で回ることはできない。
 管理車道を少し戻ってU分岐から「町民の森遊歩道」へ入り、約6分でT分岐に出る。直近のS分岐から「見晴らしの丘」への遊歩道へ入り、約7分で「見晴らしの丘」(W2地点)に着く。そこでおにぎりを食べ、休憩する。

 遊歩道を進んで最初の分岐を右に曲がり、少し進むと右手に大きな谷止工(砂防ダムかも知れない)が現れる。ここまで約2分半。

   ↓完全に埋まっている谷止工(X地点)
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 手前側に遊歩道があり、埋まっている谷止工の上流側に簡単に降りられる。この辺りが湿潤な「せせらぎと水生植物の世界」なのだろう。
 しばらく遊んで遊歩道に戻り、分岐を3つ(そのうちの2つはループでつながっている)過ぎ、谷止工から約4分でM分岐の管理車道に出る。
   
 管理車道を南ゲート方向へ8分戻り、J分岐から再び遊歩道に入る。西側の山腹を巻く遊歩道(これが木漏れ日の道だ)をサクサク進んで分岐を4つクリアする。4つ目の分岐は沢の木橋を挟んで双方に2つずつの分岐のある変則4つ辻だ。沢へ降りる都合で多少のアップダウンはある。約7分で南口の東屋の脇へ出て無事に周回できた。

 遊歩道の方はじっくり紹介できなかったが、それぞれに面白い。分岐には案内看板もあるが、とにかく東屋にあるパンフレットを最初に入手しておけば決して迷わないだろう。
 また、それぞれの遊歩道は短いので、途中で力尽きることも無い。
全山雑木だが、紅葉がきれいになる木が無い。管理車道沿いにカエデを植林してあるので、それが大きく生長するまではおあずけだ。

おわり。

転載元: プチ・ランドマークのブログ

椎葉村は宮崎県の北西、九州中央山地に位置し、農作業をお互いで助け合う「かてーり」という相互扶助の精神があり、こうした絆が田畑や森林、文化を守っている礎となっています。

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椎葉村に行こう!


椎葉村 - Wikipedia

椎葉村章 村旗・村章、共に1973年(昭和48年)11月5日制定 国 日本 地方 九州地方 都道府県 宮崎県 郡 東臼杵郡 団体コード 45430-3 法人番号 5000020454303 面積 537.29 km² 総人口 2,704人 (推計人口 …

椎葉村観光協会

www.shiibakanko.jp
椎葉村の自然や伝統文化の紹介、レジャースポットやお買い物情報など、便利で椎葉がもっと楽しくなる情報が満載の観光パンフレットをご紹介します。椎葉村へおこしの際には是非ご活用ください! ≫

椎葉村 : 「日本で最も美しい村」連合

utsukushii-mura.jp/shiiba
椎葉村は宮崎県の北西、九州中央山地に位置し、人口 は3,130人、 537.35 という広大な面積を有し、その約96%が森林で占められる緑豊かな村です。四季の移ろいの中で見せる様々な自然の美し






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www.shiibakanko.jp > ホーム > 観る - キャッシュ
民俗芸能の専門博物館. 椎葉民俗芸能博物館は、椎葉村の民俗文化を保存・伝承する 施設として、平成9年4月にオープンしました。地上4階、地下1階で昔の村の民家風造り をしています。 椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説など ...
椎葉民俗芸能博物館に関する地図
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住所: 電話:
宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良1822-4
0982-68-7033
椎葉民俗芸能博物館では、椎葉村に受け継がれてきた儀礼、慣習、民俗文化や平家落人伝説などを写真や民具、祭礼具等の展示を通して紹介しています。また、広く九州・アジアの民俗芸能を取り上げる専門博物館として...
www.jalan.net > ... > 椎葉村(東臼杵郡)の観光 - キャッシュ
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椎葉民俗芸能博物館の観光情報 営業期間:公開:9:00~17:00、交通アクセス:(1) 日向市駅から車で90分。椎葉民俗芸能博物館周辺情報も充実しています。宮崎の観光 情報ならじゃらんnet 椎葉の自然と歴史,四季の暮らしと祈り,民俗芸能など.
www.vill.shiiba.miyazaki.jp/education/.../museum.php - キャッシュ
椎葉民俗芸能博物館. 施設の概要. 本館は本村の春の的射、秋の臼太鼓、冬の神楽 などの民俗芸能、ひえつき節をはじめとする多種多様な民俗音楽を、椎葉の四季折々の 暮らしぶりと共に紹介しています。臼太鼓踊の展示室では、九州各県及びアジアの太鼓  ...



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民俗学発祥の地




那須宗久(なす むねひさ)は鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎

弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したというが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾がある。

椎葉村下福良には、宗久が植えたものと伝えられている八村杉があり、国の天然記念物に指定されている。 椎葉という地名は、宗久が陣小屋を椎の葉で覆ったことに由来して名付けられたと言われる。 五ヶ瀬町鞍岡という地名は、宗久が行軍の際、山が険しく馬を乗り捨てたことから「鞍置」と呼ばれていたのが、転じて鞍岡と名付けられたと言われる。 椎葉村下福良には、江戸期に庄屋を務めた那須家住宅(国の重要文化財)がある。この住宅は鶴富屋敷と通称されるが、現存する建物は江戸時代後期、文政6年(1823年)頃の建立である[1]。 民謡「ひえつき節」では、宗久と鶴富姫の伝説を題材として「那須の大八鶴富置いて椎葉立つときゃ目に涙」などと歌われるが、この歌詞は元々あった労働歌に昭和15年(1940年)になってから加えられたものである。 現在でも椎葉村には「那須」姓が多い。




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歴史

伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされる。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するという。

戦国時代には那須氏が支配しており、1559年(永禄2年)、獺野原の戦いでは東直政の求めに応じ肥後に出兵。大河内城主那須兵部大輔武宗、小崎城主那須下野武晴、向山城主那須左兵衛武綱ら130余人が敗死した[2]1577年(天正5年)には伊東崩れにより日向を追われた伊東義祐が星原城に立ち寄り、城主奈須右近将監祐貞に伊東氏累代の系図と旗を預けた。1585年(天正13年)、小崎城主那須左近将監は島津氏より鷹の儀で扶持を与えられた。また、島津氏から本領安堵された那須領に対し阿蘇惟光が行った違乱に対し、島津氏が使者を送り停止させた。翌1586年(天正14年)、向山城主那須弾正忠は肥後八代に島津義弘の陣中見舞いに訪れ、鎧甲を献上した。

1601年(慶長6年)、椎葉山三人衆(小崎城主那須左近将監、向山城主那須弾正忠、大河内城主那須紀伊)は徳川家康より鷹巣山管理を認める朱印状を与えられた。

1616年(元和2年)、三人衆と他の那須氏(十二人衆)との間で対立が激化。十二人衆は向山城を攻め、弾正忠の子久太郎、左近将監の孫専千代が討たれた。1618年(元和4年)、専千代の父主膳は十二人衆を幕府に訴えた。

1619年(元和5年)、幕府は阿倍正之大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。両名は人吉藩の兵を動員し住民1000人を捕らえ、うち140人を殺害。20人が自害。訴えを起こした主膳は高崎藩に預けられた(椎葉山騒動)。事件後、椎葉は天領となり阿蘇大宮司に支配が委ねられたが、1656年(明暦2年)、阿蘇氏は椎葉山管理を辞退。以降、人吉藩の預かり地となった。

人吉藩では代官を派遣するなどの直接統治はせず、向山、大河内、松尾、下福良の四名の庄屋と大河内、古枝尾の二名の横目に山中支配を担わせた。

江戸期の人口は1774年(安永3年)時点で4483人、うち郷士が3302人を占めている。石高は1753年(宝暦3年)時点で48石であったが、後に焼畑の本高入により1828年(文政11年)時点では590石と大幅に増加している。

日本民俗学の先駆けである柳田國男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』(明治42年、1909年)を記した。これには当時の椎葉村長中瀬淳の協力も大きかったという。

柳田國男(1951年):宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。

『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。
ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。
また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。



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中瀬淳(なかせすなお)1864(元治元)年〜1950(昭和25)年


●「後狩詞記」の共著者
 柳田国男の『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』は、日本民俗学の黎明(れいめい)をつげた一著といえるだろう。本書には「日向奈須の山村において、今も行われる猪狩りの故実」とサブタイトルを付す。
 1908(明治41)年7月10日、郡会議事堂(現宮崎市)において農政経済講和を済ませた柳田は、旅館神田橋に宿泊。翌日、椎葉村へ出発、富高-神門を経て13日に村長中瀬淳に迎えられた。当夜は松尾の松岡宅に泊まり、中瀬の案内で18日までの“椎葉検証”の旅が始まる。柳田の本来の目的は、焼畑跡地に自生する山茶、シイタケやコンニャク栽培の可能性を探る調査であった。
 柳田のもう1つの関心事は、中瀬の話す“猪狩り”であった。15日に大河内椎葉徳蔵宅で『狩之巻』を見た柳田は、いよいよ猪狩りに心を寄せる。帰京した柳田は数度にわたり手紙を送って、中瀬はこれにこたえる。農政学者と山村の村長との心からなる交流であった。
 椎葉村を訪れた翌年、柳田は『後狩詞記』50部を自費出版、本書は「土地の名目」「狩ことば」「狩の作法」「いろいろの口伝」と付録の「狩之巻」から成る。柳田は序文に「記事の全部はことごとく椎葉村の村長中瀬淳氏から口または筆によって直接に伝えられたものである」と書いている。さらに彼は「今日ではこれが日本民俗学の出発点のようにいわれている」(「故郷七十年」)とも自負している。
 中瀬は25歳で村の助役となり、1893(明治26)年村長に選任され、柳田が訪れたときは4期目、村の状況に精通していた。『椎葉村是』をまとめあげるなど、村の発展に大いに貢献した。1998(平成10)年7月、柳田の椎葉村採訪以来90周年を迎えた。(山口 保明)
メモ
◎民俗学発祥芝地碑
 『柳田国男全集』の編集に尽力した高藤武馬は、椎葉村を訪れ日隈惣七(ひぐまそうしち)(22代村長)に面談、碑の建立を懇望した。高藤は「耳川の源流椎葉の里に“後狩詞記”と刻んだ日本民俗学発祥の記念碑を建ててほしいのである。それがそこにあるというだけで椎葉は忘れ得ぬゆかしい土地となるだろう」(『旅つづれ』)と記している。
 待望の碑は、1985(昭和60)年8月開催の“民俗の原点・椎葉シンポジウム”を機に除幕。碑正面に民俗学発祥之地と刻み、柳田の「椎葉村を懐ふ」と題する歌。
 立ちかへり又みゝ川のみなかみに
   いほりせん日は夢ならでいつ
 の1首を紹介。大河内の竹ノ枝尾の旧中瀬宅前庭に設置、両人の友情を伝えている。1993(平成5)年には“柳田国男ゆかりサミット”を開催。さらに椎葉民俗芸能博物館がオープン。柳田来遊以来、90年を越えて山村文化発信の基点となっている。



近現代

椎葉村役場旧庁舎(2008年撮影、大字下福良1747番地20)

安威川ダムの安全な完成を願う

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