紛争資料 通化事件
先に紹介した「通化」であるが、1946年2月3日に日本人が蜂起して、虐殺されている。日本の教科書では、戦後中国が日本人に対して虐待したとは書いていない。むしろ、しなかったと教えられている(怨に報くゆるに徳をもってせよという蒋介石の言葉)ので、旧満州地域に起こっていた力動についての集団的記憶喪失を解消する必要を感じた。
我々が意識していないゆえに、無意識的に不都合なことが起こっているかも知れない。かつて何が起こっていたかを知ることで、現在のことも理解できるだろう。
通化事件(つうかじけん)とは1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で起きた日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍(李紅光部隊)による日本人虐殺事件のこと。中国では二・三事件とも呼ばれる。
通化は終戦時に中華民国国民政府(孫耕暁ら満洲協力者)の統治で治安が維持されていた。1945年8月24日に将校20人、兵200人からなるソビエト軍が通化に進駐する。また、ソビエト軍から武装解除された関東軍の兵器を引き渡された中国共産党軍も進駐してきた。(この兵器は、竹田宮の説得を受けて関東軍が引き渡したもの)
当時の通化には、多くの在留邦人や引き上げのために集まった17000名もの日本人が滞在していた。恐怖の中にいた。
中国共産党軍は脱走兵狩りを行い600人を吉林へと連行。
ソビエト軍が撤退し、通化の支配が中国共産党軍に移ると、通化省行政の幹部は連行され、拷問や人民裁判の判決が行われ、中国人幹部は全員殺害された。
また、中国共産党軍は清算運動と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。
9月22日には、国民政府軍と共産党軍による衝突が起こり、国民政府軍は通化から追い出された。
10月23日、中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐してきた。11月2日、中国共産党軍劉東元司令が着任する。(ウィキペディアから引用)。
以下、日本人虐殺、日本人虐待の事実である。
11月2日、中国共産党軍は17000名を超える遺留民を収容能力5000名以下の旧関東軍司令部へ遺留民1人につき毛布1枚と500円の携行以外認めないとした移動命令を出した。通化は氷点下30度になる極寒の地であった。遺留民団が嘆願を続けると、中国共産党軍は、日本人全員が共産主義者になることを誓約し、全財産を供出して中国共産党と日本人民解放連盟に再分配するならば移動を見合わせるとする要求を突き付けた。
11月17日、中国共産党軍が大村卓一を満鉄総裁であったことを罪状として逮捕する。また、中国共産党軍は男女を問わず日本人を強制的に徴兵・徴用した。徴用による強制労働は無給であった。
12月10日、林弥一郎少佐率いる関東軍第二航空団第四練精飛行部隊が到着するが、皆中国共産党に属していた。(この変わり身が、戦後の悲劇の特徴である)
共産党を支持した日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人遺留民大会が開かれ、3000人参加した。自由に発言を求めたのに、正直に大会で発言した者は連行され、処刑された。(ここが、日本人慰留民の反共産党感情の原点)
46年1月10日、日本人民解放連盟幹部、高級官吏、日本人遺留民会の指導者ら140名が連行され、専員公署の建物に抑留される。日本人民解放連盟通化支部は解散
1946年2月3日、ついに耐えきれず、中華民国国軍の支援を期待して元関東軍将校などのもとで在留日本人がほとんど火器を持たないまま蜂起した。しかし、便衣兵や日本人協力者などからすでに中国共産党軍に情報が漏れており、重火器を装備した中国共産党軍によって数百名の犠牲者を出して鎮圧された。
16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行された。3000人以上に上る拘束者たちは小銃で殴りつけられるなどして8畳ほどの部屋に120人ずつ強引に押し込められた。
拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。
2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長と2月5日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられた。3月15日、藤田大佐が獄中で亡くなると、藤田大佐の遺体は市内の広場で3週間さらしものにされた。
生き残った者は中国共産党軍に徴兵されたもの、シベリアに抑留されたものなどさまざまである。
教訓
中国共産党に同化(これは、攻撃者との同一化という心理機制だろう)した戦後日本人の責任。
自由に話して良いといわれても、話すべきではない。
まわりにスパイが居ると思った方がよい。
武装放棄した武器が自分を殺す武器になっていた。
転載元: 飛耳長目 国際紛争の心理