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トルコ革命は、トルコにおいて、第一次世界大戦後のオスマン帝国解体の危機において、アンカラに樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立する過程で行われた

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186 トルコ革命(教科書353)世界史20話プロジェクト第19話



トルコ革命

   
トルコ革命 種類 目的 対象 結果 発生現場 指導者
市民革命
帝政打倒と共和制国家の樹立
オスマン帝国
オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立
トルコ
ムスタファ・ケマル・アタテュルク
トルコ革命(トルコかくめい)は、トルコにおいて、第一次世界大戦後のオスマン帝国解体の危機において、アンカラに樹立された大国民議会政府が祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立する過程で行われた一連の運動。ムスタファ・ケマル・アタテュルクがその指導者となり、トルコ共和国の初代大統領に就任した。

トルコ革命によりトルコは共和制を宣言し、オスマン家を頂点としイスラム教を国教とする帝国からトルコ民族による近代的・西欧的・世俗的な国民国家への転換がはかられた。この革命の結果、トルコは中東諸国において支配的なイデオロギーであったイスラムを政治の場から引き離すことに成功し、国民国家の要件である均質化された国民と自国民による自立的な国民経済の創出をかなりの程度に実現したが、東部の経済開発の遅れ、都市と農村の経済格差などの問題は先送りにされ、クルド人問題やイスラムの社会参加をめぐる軋轢が21世紀まで大きな課題として残された。


トルコ革命の展開

トルコ革命はもっとも狭義には1922年から1923年にかけて行われたオスマン帝国の帝政の廃止とトルコ共和国の建国宣言という事件を指すが、一般的にはその後に続くトルコの近代化改革をもトルコ革命に含める。もっとも広義には、終戦直後の1918年から1922年まで足かけ5年にわたって繰り広げられた占領国に対する祖国解放運動もトルコ革命の一部とみなされる。

祖国解放戦争

セーブル条約下のアナトリア


オスマン帝国がムドロス休戦協定を結んで連合国に降伏して第一次世界大戦に敗北したとき、広大な帝国のうちアラブ地域は連合国によってほとんど占領されていたが、アナトリアの全域と東トラキアルメリアの一部)、北シリアアレッポジャズィーラ(現イラク北部)のモースルは依然としてオスマン軍の勢力下に残っていた。

しかし、休戦協定が発効すると連合国は休戦協定の条文を盾に、戦時中の列強国同士の協定に従ってオスマン帝国の残存領土に進駐し、アナトリアはイギリスフランスイタリアギリシャによって各方面ごとに分割占領された。また、これに呼応してアナトリア半島内のアルメニア人ギリシャ人の中から独立運動に乗り出すものが現われ、オスマン帝国は残された領土の中核をなすトルコ人の居住地帯でさえほとんど細切れに分断されようとしていた。

この状況に対しアナトリア各地でも分割に反対する抵抗運動が起こりつつあったが、帝国政府は王朝の保身に走って占領政策に迎合し、ムスタファ・ケマル准将を軍監察官としてアナトリアに派遣した。

ところがケマルには反意があり、1919年5月5日にアナトリア黒海沿岸のサムスンに上陸すると、アナトリアに駐留する帝国軍や活動家を結集して「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を起こした。同年末に召集された帝都イスタンブールにおける帝国議会も権利擁護委員会の影響下に入り、翌1920年1月28日、帝国領のうちトルコ人が多数を占める地域が不可分であることをうたう「国民誓約」を採択した。

イギリスを中心とする連合国は3月16日にイスタンブールを占領し、アナトリア西南部エーゲ海沿岸を占領するギリシャ軍を抵抗運動の強い内陸に向かって進軍させるとともに、8月10日に帝国政府とセーヴル条約を結んだ。この条約ではトルコ国家に残されるのはアナトリア北部の3分の2に過ぎず、アナトリア東部にはアルメニア人の国家を建設することを認めた。旧ロシア帝国領のアルメニア(現アルメニア共和国領)ではダシナク党によるアルメニア第一共和国が建設されており、東部アナトリアには既にアルメニア軍が侵攻していた。

これに対し抵抗運動の権利擁護委員会はイスタンブールから逃れてきた帝国議会の議員に権利擁護委員会の支部で選出された議員をあわせ、4月23日アンカラで「大国民議会」を開いた。大国民議会はムスタファ・ケマルを議長に選出し、議長を指導者として独自の内閣と政府を持つ抵抗運動政権に発展する。


トルコ共和国の改革

1924年のカリフ制の廃止とともに、ワクフを管理するワクフ省の廃止、シャリーアの廃止と憲法の制定、イスラム学院(メドレセ)の閉鎖が行われ、政治と教育の世俗化がはかられた。1925年には神秘主義教団の修行場が閉鎖され、トルコ帽が廃止されて着衣の西洋化が強要された。

続いて民法が改正され、一夫多妻制が禁じられた。さらにアラビア文字ヒジュラ暦が廃止され、トルコ語の表記にはラテン文字にはグレゴリオ暦を用いることが定められた。1928年、脱イスラム化改革の集大成として憲法のイスラムを国教と定める条項が削除された。しかし、宗教が政府から一切切り離されたわけではなく、イスラムを政府の意図の及ぶ範囲で管理するために宗務庁が設立され、モスククルアーン(コーラン)の読み書きを教える学校がその管轄下に置かれた。

経済の面では、当初はオスマン帝国末期から現われつつあった民族資本の育成をはかり、トルコ勧業銀行の設立、産業奨励法の制定が行われた。トルコはこうして私企業による国民経済の樹立を目指したが、大きな成果があがらないまま、1929年世界大恐慌に巻き込まれた。恐慌はトルコ経済を支えた農産物の輸出に大打撃を与えたが、これをきっかけにトルコ共和国はソビエト連邦計画経済の影響を受けた「国家資本主義」政策に転換した。1930年代のトルコは国立銀行を次々に設立するとともに、外国系企業を買収して国営企業を建設し、国家資本による国民経済の創出を押し進めた。

文化的には、イスラムに代わる国民統合と西洋化改革を支えるイデオロギーが必要となった。そのために革命の英雄としてのムスタファ・ケマルに対する個人崇拝が起こり、1934年には創姓法制定によるトルコ人のの義務付けにともない、議会によってケマルに「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の姓が贈られた。

革命を貫く共和主義世俗主義、国家資本主義などの原理はまとめて「ケマル主義」と呼ばれるようになり、トルコ共和国の絶対の国是とされた。また、それまでトルコ人としての意識が希薄であった国民に、トルコ国家を構成するトルコ国民としての意識を植え付けるために、学校ではトルコ民族史が教育されるようになっていった。

これら一連の改革により、ケマル・アタテュルクの亡くなった1938年までにトルコ国民による国民国家と国民経済の創出がかなりの段階まで進み、トルコ革命は成功を収めたと評価される。

しかし、国民経済創出の過程では農村よりも都市農民労働者よりも地主や民族資本家のみが経済的に優遇され、特にトルコ国民の大多数を占める地方の農民の地位はあまり改善されなかった。

トルコ革命を積極的に支持したのは実際には一握りの都市のエリート層に過ぎず、第二次世界大戦を経て多党制が導入されると、ケマルの共和人民党よりもイスラムの尊重や自由経済の導入を説く保守的知識人を中核とし、地主や資本家の利害を代表する民主党にむしろ国民の支持が集まった。

1950年に民主党が政権を奪うと国家資本主義や世俗化の路線は大幅に緩められ、トルコ革命の敷いたトルコ共和国の基本路線は変容を遂げていった。




トルコ系国家たち テュルク系民族は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称

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テュルク系民族

   
世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。
テュルク系民族の分布。
テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurksトルコ語: Türkロシア語: Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。


歴史的なテュルク系民族および国家

イスラーム化後のテュルク系国家

モンゴル帝国の解体後に生まれた主なテュルク=モンゴル系国家

チャガタイ・ウルス系
ジョチ・ウルス系
フレグ・ウルス(イルハン朝)系

現代のテュルク系諸民族

主権国家

連邦構成国・民族自治区

その他の主なテュルク系民族とその居住地

遺伝子

テュルク系民族などアルタイ系諸族と関連するY染色体ハプログループC2系統と考えられるが、テュルク系民族ではカザフ(66.7%[6])を除きそれほど高頻度ではない。これはもともと分布していたイラン系スキタイ人やウラル人など周辺諸民族と混合し、言語交換を引き起こしたためと考えられる。広範囲に見られるタイプとしては印欧語系R1a系統キルギス人に63.5%[7]、南アルタイ人に53.1%[8]観察される。またヤクートウラル系N系統が88%の高頻度に見られ[9]、かつてはウラル語族を話していたものと推測される。11世紀にトルコ族が進入したアナトリアでは在来のJ系統等が高頻度である[10]


エルサレムの歴史12(オスマン朝トルコの台頭)

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エルサレムの歴史12(オスマン朝トルコの台頭)
高校講座 世界史 エルサレムの歴史12(オスマン朝トルコの台頭)


エルサレム

   
エルサレム
יְרוּשָׁלַיִם
القدس
イスラエルの旗
位置
歴史
起源
行政
地区市長
地理
面積  総面積
人口動態 (2012年現在)
人口  人口密度
その他
等時帯  夏時間
エルサレム
Flag of Jerusalem.svg
市旗
Emblem of Jerusalem.svg
市章
名称の由来: "平和の町・聖なる家"
エルサレムの位置
エルサレムの位置
エルサレムの位置
エルサレムの位置(イスラエル中部)
紀元前30世紀
イスラエルの旗イスラエル
エルサレム地区
ニール・バルカット
(エルサレムの成功)
 
125.16 km2
933,200 (1,700,100) 人 (全国第1位
5,852 人/km2
世界標準時UTC+2
夏時間UTC+3
公式サイト: The Jerusalem Website
テンプレートを表示
エルサレムまたはイェルサレムは、イスラエル東部・パレスチナ自治政府にある都市。イスラエル・パレスチナ自治政府は同国の首都と主張しているものの、国際連合を初めとして多くの国家は認めていない。


十字軍


1098年にファーティマ朝が再びエルサレムを奪回する。しかし、翌年には第一次十字軍の軍勢がエルサレムになだれ込み、多くのムスリムやユダヤ教徒の住民を虐殺した(エルサレム攻囲戦)。

1099年エルサレム王国を成立させた。ムスリムやユダヤ人はエルサレムへの居住を禁止され、エルサレムはキリスト教徒の町となった。しかし、12世紀後半にアイユーブ朝スルタンサラーフッディーンがエルサレムを奪回し、再びイスラーム勢力の支配下に入った。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。

1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝のスルタンアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。

しかし、1239年にはアッバース朝の第34代カリフナースィルによってエルサレムが奪回されたため、その統治は短期的なものに終わった。
それ以後はマムルーク朝オスマン朝の支配下に置かれた。

シオニズム

19世紀後半にはいるとヨーロッパシオニズムが高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増した。中でも特に移住者が多かったのは聖都エルサレムであり、19世紀後半にはエルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。

1892年には海岸部より鉄道が開通し、人口はさらに増加した。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、この地方は国際連盟によってイギリス委任統治領パレスチナとなり、エルサレムにその首都が置かれた。このことでエルサレムの政治的重要性がさらに増す一方で、委任統治領政府はエルサレムの近代化に力を入れ、1925年にはヘブライ大学も開学した。

イスラエル建国

第二次世界大戦後の1947年に国際連合パレスチナ分割決議において、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを永久信託統治とする案を決議した際に、この決議を元にイスラエルが独立宣言をするが、直後に第一次中東戦争が勃発。

1949年の休戦協定により西エルサレムはイスラエルが、旧市街を含め東エルサレムをヨルダンが統治することになり、エルサレムは東西に分断された。1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)を経て、ヨルダンが統治していた東エルサレムは現在イスラエル実効支配にある。

イスラエルは東エルサレムの統合を主張しており、また、第三次中東戦争による「再統合」を祝う「エルサレムの日」を設けている(ユダヤ暦からの換算になるため、グレゴリオ暦では毎年変動がある。2010年5月12日が「エルサレムの日」であった)。

イスラエルは東エルサレムの実効支配を既成事実化するため、ユダヤ人入植[3]を精力的に進めており、2010年現在で入植者は20万人を超える。アメリカ合衆国は二大政党である民主党共和党が綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めているが、バイデン副大統領がパレスチナ・イスラエル問題でイスラエルを訪問中の2010年3月9日、新たに1600戸の入植を発表したことに反発し、クリントン米国務長官は「(米国にとって)侮辱的だ」と異例の厳しい表現で批判した[4]

イスラエルは今後の数年間で、先の1600戸を合わせ5万戸の入植を計画している[5]。一方、エルサレム市当局は、パレスチナ人の住居が無許可であるとの理由で、しばしばその住居を破壊している[6]





オスマン帝国の最盛期

スレイマン1世(在位1520年-1566年)
バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していた[51]セリムが、セリム1世として、1512年に即位した[52]。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。

1514年チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはオスマン・マムルーク戦争 (1516年 - 1517年)英語版エジプトマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した[53]

このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである[54][55][56]

スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ北アフリカにまで広がった。

ペルシア湾・インド洋方面


ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険団によってペルシア軍が近代化され、1622年ホルムズ占領で、イングランド・ペルシア連合軍がホルムズ島を占領し、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放するまでこの状態が続いた。

みんなで学ぼう!バルカン半島 season1 第1回「小村寿太郎が見たバルカン半島」

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【12月6日配信】みんなで学ぼう!バルカン半島 season1 第1回「小村寿太郎が見たバルカン半島」倉山満 古谷経衡【チャンネルくらら】



バルカン半島


概要

イゾンツォ川クルカ川サヴァ川を結ぶ線によって境界を定義されたバルカン半島。
緑色で示した国々はバルカン諸国と呼ばれる。薄緑で示したスロヴェニア(左)とルーマニアを含める場合もある

バルカン半島の北限はしばしばドナウ川サヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや、旧ユーゴスラビア連邦のスロヴェニア1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分がドナウ川またはサヴァ川以南)をバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない。

歴史


古代から様々な民族が入り込む一方、東ローマ帝国オスマン帝国オーストリア・ハンガリー帝国といった多民族国家の時代が長かったことから諸民族が混在していた。

このため、西欧から単一民族による国民国家の概念がもたらされると、近接する複数の大国の利害とも関連して、たちまち諸民族同士の争いが勃発し、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれることになる。第一次世界大戦勃発の原因はバルカン半島の民族問題にあり、1990年代以降にユーゴスラビア紛争が発生し、紛争が終わった後も宗教・民族問題を多く抱えている。(en:Powder keg of Europe



19世紀(近代)

1796年-2008年のバルカン

20世紀

第一次世界大戦

戦間期

第二次世界大戦

第二次世界大戦後(冷戦時代)

冷戦終結~現在

[転載]北方四島の国後島、色丹島の遺跡から収集した石器から、カムチャツカ半島の黒曜石原産地の黒曜石は、国後島、色丹島では確認できず、黒曜石の人的な移動はなかったと考えられる。

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標津町のすぐ前は国後島です


千島列島における人類活動史の考古学的総合研究
3 北方四島とカムチャツカ半島の黒曜石分析


 北海道、千島列島、カムチャツカ半島の地域で確認されている黒曜石原産地は、北海道で白滝、赤井川などの12カ所、カムチャツカ半島で数カ所あり、千島列島では今のところ確認されていない。したがって、ここでは遺跡から出土した黒曜石の原産地を推定する。
 この原産地推定の目的は、先史時代の旧石器文化、縄文文化、続縄文文化、オホーツク文化、擦文文化をつうじ、黒曜石の流通がどのように行われてきたかを明らかにし、時期ごとに遺跡で展開されていた人的な交流や交易などを人類活動史の一つのデータとすることである。
 また、カムチャツカ半島の黒曜石原産地データがないため、その原産地データを収集し明らかにする目的もある。
  ここでは、これまで千島列島~カムチャツカ半島の遺跡から収集した黒曜石製の石器類の黒曜石原産地、民族資料として収集した石器と、新たにカムチャツカ半島の黒曜石原産地で採集してきた原石データについて、エネルギー分散型蛍光X線分析装置で元素分析を行い、原産地推定とカムチャツカ半島の原産地を検討した。
  また、分析データについては、定量的な蓄積が必要であるが、表3に示した分析試料点数は計11点で、カムチャツカ半島の遺跡1カ所2点と民族資料1点、国後島の遺跡2カ所2点、色丹島の遺跡4カ所4点、さらにカムチャツカ半島の黒曜石原産地で採集した資料2カ所2点である。
  また、カムチャツカ半島における黒曜石原産地の基礎データは無く、今回の分析データは基礎的なデータの一つとなるものである。

(1)分析試料と採集・収集の遺跡と原産地
分析試料の採集・収集地域は、カムチャツカ半島、国
後島、色丹島の遺跡や黒曜石原産地のものである。表3
に示すとおり、カムチャツカ半島ではアヴァチャ多重層
遺跡から収集した2点(表3-1・2)、エッソで収集した
民族資料1点(表3-9)、ペトロパブロフスク・カムチャ
ツキーと産地不明ではあるが原産地で採集した2点(表
3-10・11)、国後島では古釜布砂丘遺跡1点、古釜布沼
南岸遺跡1点、色丹島ではマタコタン2遺跡1点、マタコ
タン3遺跡1点、チボイ1遺跡1点、チボイ3遺跡1点である。

① アヴァチャ多重層遺跡の試料は、2000年(平成
12)9月28日にカムチャツカ半島の遺跡調査をした時に
収集した資料である(写真8-1・2)。アヴァチャ多重層
遺跡は、ペトロパブロフスク・カムチャツキーの北東郊
外約10km、アヴァチャ川の多数ある河口の最北に位置
し、新石器時代から歴史時代の時期の三つの文化層が確
認された集落である。杉浦(2000)にこの遺跡の報告
があり、ヂコヴァ, T. M.が1985年に調査したものであ
る。この遺跡からは、2点のフレークを分析した。分析
した試料は、表3-1(縦1.8×横2.2×厚さ0.3cm)がやや
透明な黒曜石、表3-2(縦1.8×横0.9×厚さ0.3cm)が透
明度をもたない黒曜石である。

② エッソ村(ブイストル地区)の試料は、2000年
(平成12)9月26日に、先の目的と同様に調査を行った
時に収集した民族資料で、エベン民族が使用していた黒
曜石製のスクレーパー1点である(写真8-9)。この資料
は、柄に装着し皮なめし(トナカイの皮)として現役で
使用していたものを収集したものである。現在では、一
般的に鉄製のスクレーパーが使用されている。この試料
は表3-9(縦5.4×横5.2×厚さ3.3cm)で透明度がなく、
ブルーグレー色の黒曜石である。この黒曜石は、エッソ
に原産地があり特徴的なものである。

③ 古釜布砂丘遺跡の試料は、2008年(平成20)8月2
日に調査を行った時に収集した資料である(右代・鈴木
ほか 2010、写真8-3)。この収集した石器(フレーク)
1点は、続縄文文化の後北C2・D式土器とともに収集し
たものである。この試料は表3-3(縦1.8×横1.5×厚さ
0.4cm)で透明度がない黒曜石である。

④ 古釜布沼南岸遺跡の試料は、2010年(平成20)5
月29日に調査を行った時に収集した資料である(右代・
鈴木ほか 2011、写真8-4)。収集した石器(フレーク)
1点は、縄文文化から続縄文文化の時期と考えられるも
のであり、明確な時期は特定できない。この試料は表
3-4(縦2.5×横2.3×厚さ0.6cm)でやや透明な黒曜石で
ある。

⑤ マタコタン2遺跡の試料は、2012年(平成24)9月
11日に調査を行った時に収集した資料である(右代・鈴
木ほか 2013、写真8-5)。収集した石器(フレーク)1
点は、続縄文文化の土器とともに収集したものである。
続縄文文化の土器は型式までは特定できなかったが、縄
文の原体からそれを判断した。この試料は表3-5(縦1.9×
横1.7×厚さ0.3cm)で濃いグレー色の黒曜石である。

⑥ マタコタン3遺跡の試料は、2012年(平成12)9月
11日に調査を行った時に収集した資料である(右代・鈴
木ほか 2013、写真8-6)。収集した石器(フレーク)1
点は、縄文文化から続縄文文化の時期と考えられるもの
であり、明確な時期は特定できない。この試料は表3-6
(縦2.4×横2.1×厚さ0.9cm)で透明度のない円礫面をも
つ黒曜石である。

⑦ チボイ1遺跡の試料は、2012年(平成12)9月15
日に調査を行った時に収集した資料である(右代・鈴木
ほか 2013、写真8-7)。収集した石器(フレーク)1点
は、縄文文化の前期前半の温根沼式土器とともに収集し
たものである。この試料は表3-7(縦1.3×横0.8×厚さ
0.2cm)で透明度をもつ黒曜石である。

⑧ チボイ3遺跡の試料は、2012年(平成12)9月15
日に調査を行った時に収集した資料である(右代・鈴木
ほか 2013、写真8-8)。収集した石器(フレーク)1点
は、続縄文文化の土器とともに収集したものである。続
縄文文化の土器は型式までは特定できなかったが、縄文
の原体からそれを判断した。この試料は表3-8(縦1.3×横
1.1×厚さ0.2cm)で透明度をもつ黒曜石である。

⑨ ペトロパブロフスク・カムチャツキーの試料は、
2000年(平成12)9月30日に、カムチャツカ調査を行っ
た時に採集した黒曜石の円礫片1点である(写真8-10)。
この試料は表3-10(縦4.1×横3.3×厚さ1.3cm)でやや
透明度があり、細かな球顆状構造がみられる黒曜石であ
る。この黒曜石は、ペトロパブロフスク・カムチャツ
キー市街のアヴァチャ湾北東岸で採集した円礫片であり、
内陸に原産地がある。

⑩ カムチャツカ産の試料は、プタシンスキー,A.V.氏
(カムチャツカ国立大学)が採集した黒曜石を2014年
(平成26)に寄贈を受けたものである(写真8-11)。こ
の試料は表3-11(縦6.7×横7.2×厚さ3.5cm)で部分的
に透明であるが、ほとんどが黒色の黒曜石である。この
黒曜石は、カムチャツカ産ではあるが、原産地を特定で




(3)原産地推定の分析結果

表4に試料の測定値および算出した指標値を示し、図
4の黒曜石原石判別図に、分析した試料の指標値をプ
ロットして示した。図は視覚的にわかりやすくするため、
各判別群を楕円で取り囲んで示した。

分析の結果、カムチャツカ半島の試料3点は、いずれ
も異なる位置にプロットされ、別々の判別群と考えられ
る。ここでは、仮に表3-9をエッソ群、表3-10をアヴァ
チャ湾北東岸群、表3-11を産地不明群とした。また、
表3-1・2のアヴァチャ多重層遺跡採集の2点は、先の
3ヶ所の原石群とは一致しなかったが、同遺跡の2点の
分析値は互いに近い位置にプロットされており、同一判
別群と考えられる。ここでは、仮にアヴァチャ多重層遺
跡とした。国後島、色丹島採集の石器6点は、1点が白
滝1群(白滝エリア)、1点が白滝2群(白滝エリア)、4
点が所山群(置戸エリア)の範囲にプロットされた。

図4には、判別図法により推定された判別群名とエリ
ア名を示した。カムチャツカ半島の黒曜石製石器および
原石は、5点を分析した結果、四つの判別群に分かれて
おり、未知の産地が多く存在することが予想される。

すなわち、この分析結果から北方四島の国後島、色丹島の遺跡から収集した石器は、

①白滝エリア産、置戸エリア産の黒曜石が使用されており勇別川中流域と常呂川上流域の産地のものであることが推定できた。

②このことから、白滝、置戸産の黒曜石原石が湧別川、常呂川の流域、オホーツク海沿岸域あるいは内陸をつうじ、国後島と色丹島に人的な移動でもち込まれたことが明らかとなった。

③今のところ、カムチャツカ半島の黒曜石原産地の黒曜石は、国後島、色丹島では確認できず、黒曜石の人的な移動はなかったと考えられる。

また、この分析結果は、数的にも時期的にも、また遺
跡の数についても限られたデータであり、今後定量的な
分析データが求められることは当然である。ここでは、
あくまでも現在の分析データでの判断である。今後より
多くの分析を行い基礎データの収集を行い検討していく
ものである。


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北方領土の唄




転載元: 北海道にまた行きたいな

[転載]訪れる日が来た羅臼の街にも。羅臼郷土資料館。クナシリメナシの戦い。酋夷列像。

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羅臼町郷土資料館


 
 
郷土資料室の内部の様子  羅臼資料館1  羅臼資料館2
 
 
                                                              郷土資料館の内部の様子
 
 
羅臼は太古から少数民族が行き来した地で、多くの遺跡があり、出土品の多くはこの資料館で見ることができる。
旧石器時代から近世までの北海道の歴史を概観できる考古学ファンには必見の資料館である。館内は9つの展示室に分かれており、土器や石器の他にも、漁業や生活の歴史を知ることができる用具や知床に生息する野生動物や海洋生物の剥製・模型も展示されている。
 
詳細情報
 
名称ジャンル所在地・住所開館時間休館日・定休日駐車場ホームページ
羅臼町郷土資料館
資料館
目梨郡羅臼町峯浜町307番地1
9:00 - 17:00
土日・祝祭日、年末年始
(7月上旬~9月中旬は無休) 
有り 
 http://www.rausu-town.jp/machi/10/
 
管理団体・お問合せ先名称所在地・住所電話番号
羅臼町郷土資料館
目梨郡羅臼町峯浜町307番地1
0153-88-3850

 

広域地図

周辺地図


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羅臼町郷土資料館

住所 〒086-1751 北海道目梨郡羅臼町峯浜町307番地郷土資料館略図.jpg
    ※旧植別小中学校
電話番号 0153-88-3850
 
 長い間、親しまれてまいりました「羅臼町郷土資料室」は、
旧植別小中学校を内部改造し、平成23年12月26日(月)に
「羅臼町郷土資料館」としてオープンしました。
 町民の皆様より寄贈いただいた生活・漁業に関する資料や、
遺跡から出土した土器や石器、知床の自然を代表するシマフ
クロウやオオワシの剥製などを多数展示しております。
 ご来場お待ちしております。


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歴史

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旭川博物館




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夷酋列像



   
『夷酋列像』に掲載されたイコトイ(乙箇吐壹)の肖像画
夷酋列像』(いしゅうれつぞう)は、江戸時代後期の松前藩家老で、画家としても高名な蠣崎波響が、北海道東部や国後島アイヌの有力者をモチーフに描いた連作肖像画である。

成立の経緯

寛政元年(1789年)5月、国後島とメナシのアイヌが和人商人の酷使に耐えかねて蜂起し、現地にいた70人余りの和人を殺害した。これがクナシリ・メナシの戦いである。

事件を受けた松前藩は260名の討伐隊を派遣したが、その指揮官の一人が蠣崎波響だった。戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、さらに翌年の1790年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた[1]。これが「夷酋列像」である。

絵は寛政2年(1790年)11月に完成し、波響はクナシリ・メナシの戦いで失った藩の威信を回復するために絵を持参して上洛する。大原呑響高山彦九郎・佐々木良斎の尽力により、夷酋列像は光格天皇の叡覧を仰ぐことになる。

描かれた人物

  1. マウタラケ(麻烏太蠟潔) - ウラヤスベツ惣乙名
  2. チョウサマ(超殺麻) - ウラヤスベツ乙名
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  1. ツキノエ(貲吉諾謁) - クナシリ惣乙名
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  1. ションコ(贖穀) - ノッカマフ乙名
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  1. イコトイ(乙箇吐壹) - アッケシ乙名
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  1. シモチ(失莫窒) - アッケシ脇乙名
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  1. イニンカリ(乙唫葛律) - アッケシバラサン乙名
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  1. ノチクサ(訥窒狐殺) - シャモコタン乙名
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  1. ポロヤ(卜羅亜鳥) - ベッカイ乙名
  2. イコリカヤニ(乙箇律葛亜泥) - クナシリ脇乙名
  3. ニシコマケ(泥湿穀末決) - アッケシ乙名
  4. チキリアシカイ(窒吉律亜湿葛乙) - ツキノエの妻、イコトイの母



羅臼の歴史年表








国後島の遺物

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国後の遺跡


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日本最古の銀製品


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植別川遺跡



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熊頭注口木製槽

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k-pg境界






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羅臼町|世界自然遺産の町 知床

www.rausu-town.jp/ - キャッシュ
北海道根室管内の羅臼町は、世界自然遺産知床に代表される世界有数の自然に囲ま れた町です。

知床・羅臼まちづくり基金(ふるさと納税)返礼品制度がスタート!
知床・羅臼まちづくり基金は、平成27年12月1日よりご寄付をいただいた方へ、羅臼町の魅力と思いの詰まった返礼品を感謝の気持ちとしてお送りしております。

↓↓詳しくはこちらから↓↓

    
ふるさと納税 HP バーナー大.png

ja.wikipedia.org/wiki/羅臼 - キャッシュ
羅臼町
地理院地図 Googleマップ Bing GeoHack · MapFan Mapion Yahoo! NAVITIME ゼンリン · 表示・ノート・編集・履歴 ウィキプロジェクト. 羅臼町(らうすちょう)は、北海道 根室振興局にある町。町...
www.rausu-shiretoko.com/ - キャッシュ
知床羅臼町観光協会 日本の最果て知床世界自然遺産 知床羅臼町観光協会の ホームページです.
www.hokkaido-michinoeki.jp > ... > 道の駅を見る - キャッシュ
国道335号沿いに建つ道の駅「知床・らうす」は、魚の城下町、知床羅臼にあり、知床 横断道路の羅臼側の入り口にある道の駅です。目の前には、根室海峡と北方領土・国 後島が横たわり、後ろには日本百名山の1つ標高1,661mの羅臼岳がそびえます。
www.rausu-cruise.com/ - キャッシュ
羅臼港より知床半島を望むクルージング。夏は知床の海を回遊するシャチ、イルカ、 クジラをウォッチングしながら知床半島の先端へ向かいます。冬は流氷ウォッチング。 アザラシの乗った流氷、国後島から昇る朝日を背景にオオワシ、オジロワシが空を舞い 、魚を ...

転載元: 北海道にまた行きたいな

[転載]花咲郡(はなさきぐん)は、北海道(根室国)根室支庁にあった郡。

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花咲郡   

北海道花咲郡の位置(根室半島のみ。黄:明治期 水色:後に他郡から編入された区域 水色・薄黄:後に他郡に編入した区域)

花咲郡(はなさきぐん)は、北海道根室国根室支庁にあった
当該地域のうち、歯舞群島の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を参照。



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郡域

 1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、色丹郡色丹村および根室市の一部(概ね北浜町、駒場町、明治町、光洋町、桂木、花咲港以東)にあたる。

 根室半島東部と、珸瑶瑁水道をはさんだ珸瑶瑁諸島(後の歯舞群島)、色丹島から成っていた。地質は白亜紀後期のもので、長年の浸食により生じた複雑な海岸線が、漁場や良港をもたらした。太平洋オホーツク海の境界でもある。 郡内の最高峰は色丹島の北端にある斜古丹山(412.6m)だったが、離脱後は山らしい山はなく、標高60m程度の台地が連なっている。

歴史

郡発足までの沿革

 戦国時代から江戸時代にかけて、蝦夷アイヌ)の人々によってチャシ群が築かれている。

 江戸時代の花咲郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。江戸時代後期、花咲郡域は東蝦夷地に属していた。
 南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え1799年寛政11年)花咲郡域は天領とされた。1821年文政4年)に花咲郡域は一旦松前藩領に復したものの、1855年安政2年)再び天領となり仙台藩警固地とされた。安政6年の6藩分領以降も歯舞色丹の島嶼部は天領(仙台藩警固地)のままであったが、根室半島部分が仙台藩領となった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して花咲郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

北海道花咲郡の町村(15.歯舞村)

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

[転載]クナシリ・メナシの戦いは、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と

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クナシリ・メナシの戦い

   
クナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年寛政元年)に東蝦夷地北海道東部、道東)で起きたアイヌ和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。

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概要

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和人とアイヌの関わり

松前藩の『新羅之記録』には、1615年元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。

また、1644年正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島唐太千島列島勘察加」は松前藩領と報告。

1731年享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。1754年宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。

1773年安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年天明8年)には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主にが原料とされるが、クナシリではが使用された)の製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。

一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。

ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシアから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された[1]


アイヌの蜂起

1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。

松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3~4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。

事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。




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蜂起の後

北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの戦いの後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた。[1]

また、1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌」によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は会所で番人達のにされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。

さらに和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口が、明治6年(1873年)には1万8630人に減ってしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。

脚注

  1. ^ ab厚岸町の歴史”. 北海道厚岸町 1993年3月発行 厚岸町要覧「厚岸町歴史物語」. 2013年8月18日閲覧。

関連項目





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国後島の遺跡分布


目梨郡   

北海道目梨郡の位置(緑:羅臼町 薄黄:後に他郡に編入した区域)

目梨郡(めなしぐん)は、北海道根室国根室振興局
人口5,387人、面積397.72km²、人口密度13.5人/km²。(2016年6月30日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に標津郡標津町の一部(崎無異・薫別・古多糠・忠類)を加えた区域にあたる。

歴史

郡発足までの沿革

郡の名前の由来はアイヌ語の「メナシ(東方)」で、現在の根室振興局(知床北方領土を含む)一帯を指していた。
江戸時代の目梨郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。松前藩の「新羅之記録」によると、元和元年から元和7年頃、メナシ地方の蝦夷アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前で交易したと記録されている。寛政元年、蝦夷の人々が蜂起したクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発、メナシ地方でも多数の和人が殺害される。同年、羅臼温泉が発見された。

江戸時代後期、目梨郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え寛政11年目梨郡域は天領とされた。文政4年に一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が警固をおこなった。また、羅臼神社の創立は安政年間と伝わる。安政3 - 4年ころ知床半島硫黄山噴火があった。安政6年の6藩分領以降は会津藩領となった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して目梨郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

北海道目梨郡の町村(5.羅臼町)

参考文献

関連項目

新羅之記録

  
新羅之記録』(しんらのきろく)は、日本の歴史書江戸時代に幕命により編纂された松前家系図をもとに補筆して作成された記録。別称に「松前国記録」「新羅記」。

1643年寛永20年)、 幕命によって編纂された松前家系図を初代松前藩主松前慶広の六男景広が、正保3年(1646年)記述を補って作成した系図と史書を兼ねたものを、近江国園城寺(三井寺)境内の新羅神社に奉納したもので、寛永14年(1637年)の福山館の火災により焼失した記録を、記憶によってまとめたといわれており、他の記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている[1]。上下二巻の巻子本。
新羅源頼義の三男で、新羅明神で元服した甲斐源氏の祖である新羅三郎義光を意味し、同書の冒頭部には園城寺にある新羅明神の縁起に関する記述がある。 松前景広が、1646年正保3年)に園城寺を訪れた際,寺僧から新羅明神の縁起を聞いたとされている。
写本に松前藩家臣近藤家に伝来した近藤家資料本がある。

関連項目

外部リンク



最古の記録


 厚岸に暮らす人々について記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。それは長らくオランダの国立総合公文書館に眠っていた。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号が厚岸に寄港し、当時の厚岸に様子を航海記録に残したものがそれである。

クナシリ・メナシの戦い


 カストリクム号の厚岸での滞在は、8月15日から9月2日までの18日間に及んだ。その間、彼らは日本の交易船にも遭遇した。
カストリクム号の寄港する以前、寛永年間、厚岸は松前藩とアイヌ民族の交易場、すなわち商場であった。蝦夷地の資源に対する関心は、アイヌ民族との交易を通じた資源の入手から、本州の商人が資本、道具、働き手を連れてきて、自ら造材や漁業を直接経営することに移っていった。これが場所請負制度といわれるものである。

 この時、カストリクム号が出会った和人は場所請負商人ではなく、藩主手舟の上乗役小山五兵衛であった。厚岸に場所請負商人が登場するのは、安永3年(1774年)飛騨屋が、厚岸・室蘭・霧多布・国後の4場所を請け負うようになってからである。飛騨屋は、エゾマツの造材を一手に引き受けて、江戸や大阪に回送した。飛騨屋による一手請負は、飛騨屋が松前藩に貸し付けた5千4百両の返済の代わりとして20年間の契約で請け負ったものである。

 こうして木材商である飛騨屋は不慣れな場所経営に乗り出すのだが、20年という限られた期間内に、松前藩に貸し付けた金額を場所経営の中から回収しなければならない無理が、アイヌの酷使につながり、寛政元年(1789年)のクナシ・メナシの戦いというアイヌ民族最後のほう起といわれる争いを引き起こした。

 寛政元年5月7日、クナシリ(国後)のアイヌが運上屋を襲い、13日には対岸のメナシ(根室地方)に渡り同地のアイヌと連合して和人71人を殺害した。戦いの起こる前に、同地にはクナシリ運上屋に来た和人が、アイヌを毒殺しようとしているとの噂が流れていた。そして、運上屋で飯や酒をもらったアイヌの不審な死が続いた。

こうしたことが酷使され続けたアイヌの心に火をつけ、ほう起の直接的原因になったとみられる。戦いの中核となった厚岸から国後にかけての地方で暮らすアイヌは「西の蝦夷は従順なり、東の蝦夷は剛強なり」といわれたように極めて独立性の高い集団であり、国後の場所請負商人となった飛騨屋の勢力を一時追い払うほどであった。彼らの高い独立性を保証する経済的な基盤として、国後とその背後の千島列島やカムチャッカ半島があったといわれる。ところが1780年前後から択捉島からカムチャッカ半島にかけてロシア人が進出し、経済基盤を大きく狭められたクナシリ・メナシのアイヌは、和人の経済力に屈服せざるをえなくなったことも、戦いの遠因としてあげられている。

 国後アイヌの長ツキノエと共に、争いを収めることに中心的な役割を果たしたのが、厚岸アイヌの長イコトイである。イコトイらは松前藩が派遣した鎮圧隊と戦闘になる前に、蜂起に関係したアイヌを投降させた。結果として和人を殺した罪で、アイヌ37人が処刑され、その首は松前の立石野でさらし首となった。そして争いの原因を作った飛騨屋は場所経営の権利を取り上げられた。

 寛政7年(1796年)、イコトイは松前藩に反抗し、郎党を引き連れて択捉島に渡るという事件を起こしている。寛政10年(1799年)に幕府の直轄地となっていた厚岸に戻ってきたが、幕府からなんの処分もなかった。幕府にしてもイコトイの影響力を無視できなかったのであろう。イコトイと共に調査を行った最上徳内は『北海道誌』の中で「英気衆を超え、衆夷之を畏る。勇にして且つ智ありと謂うべし(一部抜粋)」と評している。

転載元: 北海道にまた行きたいな


[転載]北海道 色丹島は、1945年にソビエト連邦によって占領される。

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色丹島

   
世界 > アジア > 東アジア > 色丹島
色丹島座標面積最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属国・地域
WW - Shikotan.png
北緯43度47分37秒東経146度44分50秒 / 北緯43.79361度 東経146.74722度 / 43.79361; 146.74722座標: 北緯43度47分37秒東経146度44分50秒 / 北緯43.79361度 東経146.74722度 / 43.79361; 146.74722
255 km²
412.6 m
斜古丹山
色丹郡色丹村マロクリリスク
オホーツク海
日本の旗日本北海道)(領有権主張)
ロシアの旗ロシアサハリン州)(領有権主張・実効支配)
テンプレートを表示
A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
色丹島の地形図
色丹島の中心集落、斜古丹。
穴澗集落の遠景
色丹島 1990年撮影
戦前の色丹神社。クジラの顎の骨が鳥居に使われている。

 色丹島(しこたんとう、英語表記:Shikotan)は、北海道根室半島の東に位置する島。ロシア名はシコタン島(Остров Шикотан)。島の名の由来は、アイヌ語の「シ・コタン(大きな村)」から。



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概要

 413mの斜古丹山を中心に島全体が比較的なだらかな山地・丘陵になっており、カラマツの近縁種であるグイマツや、ウルップソウなどの高山植物に恵まれた自然の宝庫でもあり、湖沼も多い。海岸線は西北岸は断崖であるのに対し、東南岸は変化に富み、船の接岸が可能な場所は20ヶ所以上に及ぶが、松が浜を除いては、港としては機能しなかった。
 村役場が置かれた場所は北東部の斜古丹湾岸で、学校や駅逓、郵便取扱所も設けられ、斜古丹という名の集落をなしていた。島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブサケなどの漁業が主産業であった。

 ソ連が実効支配を始めてからも、中心集落は斜古丹(ロシア語地名、マロクリリスクМалокурильск=「小千島の町」の意))である。2006年の人口は2,244人。現在の集落はもうひとつ、その西側の入江奥深くに穴澗(クラバザヴォーツク(Крабозаводск=「カニ工場の町」の意))があり、2006年の人口は925人。それ以外の日本時代の集落は、すべて廃村となった。

 古くは「斜古丹」「支古丹」とも表記された。

歴史

斜古丹村穴澗村などが合併し、1島1村となった。
 日本政府が返還を要求している北方四島の1つであり、日本の行政区分では、千島国ならびに北海道根室振興局(旧根室支庁)管内の色丹郡色丹村に所属することになっている。なお、1886年の千島国への移譲ならびに色丹郡の設置まで根室国花咲郡の一部であったことや、歯舞群島とともに根室半島の延長部と看做されることもあって、色丹島を千島列島に含むか否かについては見解が分かれている。

現在も日本の施政権は及んでおらず、現在までロシア連邦実効支配下にある。ロシアの行政区分では国後島に本庁があるサハリン州南クリル管区に属する。戦後ロシアが、歯舞群島とあわせて「小千島列島(マラヤ・クリルスカヤ・グリャダМалая Курильская гряда)」と呼ぶようになった列島で最大の島。面積は255.12km²で、日本では13番目の大きさを持つ島である[1]

当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土の項目を、現状に関してはサハリン州の項目を参照。

積丹村の沿革

  • 1884年明治17年)7月11日 - 当時無人島だった色丹島に、占守郡の千島アイヌ91人を定住させ、斜古丹村とする[4]
  • 1885年(明治18年)1月6日 - 花咲郡から分かれ色丹郡[5]斜古丹村となり、斜古丹戸長役場が置かれる
  • 1892年(明治25年) - 内地からの移住がはじまり、斜古丹に小学校が開設される[6]
  • 1914年大正3年) - 捕鯨会社が相次いで進出(土佐捕鯨株式会社、2年後に東洋捕鯨株式会社)
  • 1927年昭和2年) - 基幹道路(斜古丹-ノトロ線24km、斜古丹-イネモシリ線9km)が開通
  • 1930年(昭和5年) - 南岸沿いの道路(斜古丹-イネモシリ-ノトロ線50km)が開通し、陸上交通が整備される
  • 1933年(昭和8年)10月 - 斜古丹村から色丹村に改称する
  • 1945年(昭和20年)9月1日 - ソ連軍ヴォストリコフ海軍少佐麾下の部隊600名が斜古丹湾に上陸、占領[7]
  • 1947年(昭和22年)9月 - 残っていた住民がサハリンへ強制送還される[8]
  • 1964年(昭和39年)9月8日-9月11日 - 元居住者が稲茂尻墓地と斜古丹墓地に墓参[9]

産業

 漁業が主で、択捉島で大きく成功したギデロストロイ社が水産加工施設を設置している。また、日本本土と近いことから、国境経済が成長するポテンシャルはあり、ソ連崩壊直後の1992年には、香港中国人企業家がサハリン州政府から50年の期限でこの島の土地278haを租借し、主に日本人向けのカジノリゾートを作ろうとした。だが、日本政府がこの計画を進めた香港の企業カールソン・アンド・カプラン社に計画中止を求めたことなどから、この企業家は結局撤退した。

また、ロシアにとっては国境最前線の島という認識があるため、斜古丹には国境警備隊の大きな軍港があり、穴澗には拿捕された日本漁船員の収容所が設けられている。

交通アクセス

 島内に空港は無いので連絡船のみのアクセスとなる。樺太(サハリン)大泊コルサコフ)港から、3月から12月まで週2便、サハリンクリル海運の船が斜古丹港へと結んでいる。ロシアのビザと色丹島に有効な通行許可証があれば、日本人はじめ外国人の乗船もできる。港は深いので、国後島択捉島の諸港と異なり、船はなしで直接港に横付けとなる。
 ただし日本のビザなし交流団に限っては、斜古丹港にある国境警備隊基地の機密保持のため、根室港から穴澗港へのアクセスとなる。なお、穴澗港も直接船が横付けできるほどの深度があるものの、近年は穴澗の水産加工場の廃液によるヘドロの堆積が著しいため、艀を使っての上陸となっている。

千島アイヌの強制移住

 明治10年代に、樺太と交換で日本が中千島・北千島を領有するようになって以来、占守島幌筵島、及び中部千島の羅処和島に長く居住していた先住民の千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。
 これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

 移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。

千島アイヌと日本正教会

千 島居住時代にロシア正教会から派遣された宣教師による伝道でハリスチャニン(正教信者)となっていた千島アイヌの人々ために、日本ハリストス正教会司祭伝教者(伝教師)を送った。明治時代に日本ハリストス正教会の伝教者だった斎藤東吉が色丹の千島アイヌの信者から聞いた話によると、1885(明治18)年、日本正教会神品が初めて色丹島を訪問した時、最初に上陸した根室教会管轄司祭の小松神父を、根室の学校に通っていて教会を訪れたことのある子どもが正教の神父であると大人の信者たちに教えたが、小松師が和服姿であったために大人たちは正教の司祭とは信じられず日本人の回し者であろうと怪しんだという。

 しかしながら、後から陸に上がった沢辺悌太郎伝教者(沢辺琢磨の息子、後に司祭叙聖される)がロシア語で、根室正教会の小松師による巡視であることを伝え、また、小松師がニコライ主教からの証明書を提示するに至って、ようやく彼らは正教会神品の来訪であることを理解し、歓喜の声を上げて降福を受け、また機密に与ったという。
 そして、これが色丹島の聖三者教会の始まりとなった。色丹島より戻った神品らは直ちに千島アイヌ信者の窮状を教団本部に伝え、これを受けたニコライ主教は全国の信者に義捐を呼びかけ、送られてきた金品を色丹の信者らに送った。その後、1893(明治26)年、羅処和島生まれの千島アイヌ首長ヤコフ・ストロゾフは自らの手で新しい教会堂を建て、信者たちは篤実な信仰生活を続けた。

 現在、当然のことながら往時の聖三者教会は消滅し、また司祭を送った根室正教会も衰退(根室に居た司祭は1910(明治43)年より釧路に移転)してしまったが、聖三者教会に納められていたイコン(聖像)の一部が中標津郊外の上武佐ハリストス正教会に受け継がれ、千島アイヌの人々が守り続けた正教信仰の灯火を今に伝えている。

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

[転載]泉崎さつき温泉・こがねの湯(福島県泉崎村)

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http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-a6-54/tom_0629/folder/112307/73/23518573/img_0?20161213191525

枯渇した温泉に代わって…


以前訪れた泉崎村の温泉は老人福祉センター内にあって、温めのつるつる系のお湯だった。
正式には「堂花温泉」と言ったらしいのだが、今は無くなってしまったと言う話を、この
こがねの湯の窓口の女性に聞くことができた。

今回訪れた泉崎さつき温泉は泉崎カントリービレッジ内の施設で、数年前に
ログハウス風の建物を建て増しし、内湯2と露天風呂1という現在の営業形態になったそう
です。ちなみに、ログハウス側にも受付があります。

ぬるぬるのぬるめのお湯は気持ちよく、特に露天は季節によっては寒く感じることにも
なりそうなので、ご注意を((^^;

リンスインシャンプー、ボディーソープ有。
洗い場は少々数が足りないかもしれないが、本館側の内湯にも洗い場があるはずなので
ログハウス棟と両方覗いてみると良いかもしれない。

(1月8日訪問)

泉崎さつき温泉こがねの湯
こちらはログハウス棟。食事もできます。

泉崎さつき温泉・こがねの湯
〒969-0101福島県西白河郡泉崎村大字泉崎字笹立山12
泉崎カントリーヴィレッジ
Tel 0248-53-4211
日帰り入浴:10時~20時
入浴料:400円
泉質:アルカリ性単純温泉

転載元: TOMbox

[転載]ペルシャ断想

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2月ほど前に、「奈良時代の平城京跡からペルシャ人の役人が居たことを示す木簡が見つかった」とのニュースが流れた。ペルシャを意味する「破斯」(はし)の文字が確認されたという。これは日本古代史ファンとしては第一級の発見である。
 
平城京はそもそも唐の都の西安をモデルにして作られた都であり、特に聖武天皇はヤマトの国際化を目指していた。だから外国人の往来があってもおかしくないのだが、当時はどちらかと言うと遣唐使のように出かけるケースが多かった。だから外人それも中国より遠いペルシャの人が日本で役人として定住していたという事実は、なかなかの広大なロマンである。
 
ペルシャは今のイランにあった国で、文明としてはメディア王国、アケメネス朝、アルサケス朝、ササン朝と続いた。このうちアケメネス朝は現在世界遺産となっているペルセポリスを首都とし、マケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされている。またササン朝は7世紀半ばに、アラブに勃興した異教徒のイスラム勢力によって滅ぼされた。この時に相当のペルシャ人が国外に逃亡したことは想像に難くなく、その子孫が約1世紀後に奈良にまで至ったのであろう。シルクロードを、三蔵玄奘とは逆の道ではるばる渡来したことになる。
 
ペルシャ人は本来インド・ヨーロッパ人の支族のインド・イラン人の内のイラン系で、実はその活動範囲は今一般に知られているより広い。そもそもシルクロードの担い手の一つでもあったし、古くは紀元前8~3世紀に南スラブに勃興したスキタイ人も、安禄山はじめ中国に多く居た商人に多いソグド人も、最近グルジア紛争を起こしたオセチア人も、さらに仏僧の高僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)を出したキジ国も全部ペルシャ系である。楼蘭(ろうらん)から出土した女性ミーラも明らかにペルシャ系だ。
 
平安時代に源氏物語とほぼ同時代に書かれてかぐや姫伝承のひな型になったといわれる「宇津保物語」にも、主人公の先祖がペルシャからこの上なく良い響きのする琴を持ち帰ったというエピソードが入っている。また正倉院御物にもペルシャ起源のものが結構あり、瑠璃杯はとくに有名なほか螺鈿琵琶なども残っている。
 
だからおそらく渡来くらいはあったとは思うものの、あたかも遣唐使の阿倍仲麻呂が唐の皇帝に仕えて安南都護府の長官になった如くに、日本の官人として定住していたほどに深い交流があったことは特質すべきである。願わくは彼の肖像とか個人史などがあるともっと面白いのだが、さすがにこれらについては歴史のかなたに忘れられて永遠に掘り出せないだろう。
 
そもそもペルシャ人は世界宗教であったゾロアスター(ツァラツストラ)教と、その聖典であるゼント・アヴェスタを生み出した民族である。ゾロアスター教は世界史の展開を善神アフラ・マズダと悪神アーリマンの永遠の戦いと解釈した宗教で、マニ教やミトラ教さらにはキリスト教にも多大の影響を与えた、いわば知恵の原点であり宝庫である。ちなみに米国映画の「スターウォーズ」もそのテーマは善と悪の永遠の戦いであり、何やら影響を感じさせる。
 
このように誇り高いペルシャ人だが、イスラムによる征服以降は基本的に後発のイスラム教の影響下にあり、40年前にホメイニ革命があってイスラム原理主義国になったことは周知の通りだ。国民性は基本的に親日である。バブルのころは大量に違法労働で入国して、上野公園は彼らでいっぱいになったこともあった。
 
イスラムによる征服とセルジューク朝の成立からは時代が下るが、17世紀前半にロシア人コザックのステパン・ラージンはカスピ海を経由してペルシャに侵入して略奪を繰り返した。当時のペルシャを支配していたのは、やはりイスラム系のサファヴィー朝である。日本でも有名な歌の「ステンカ・ラージン」の歌詞によると、ラージンはペルシャの姫をさらったが部下たちの「俺たちの命で外国の女を買うのか」と言うつぶやきに押されてその姫を生きたまま川に投げ込んだという。今となってはこの姫の名前や系図等細かいことは、知る由もない。
 
話を日本古代史に戻すと、やはり数年前に歴史から忘れられていた日本人遣唐使で中国皇帝に仕えた井真成(いのまさなり、せいしんせい)なる人物の死を惜しむ碑文が中国で見つかり、その真偽も含めて大きな話題となったことがあった。日本側には裏付ける資料が存在しないが、碑文によるとその才能ある人物の若い死に当時の皇帝が嘆いたと書いてある。先のペルシャ人とは逆のケースだが、古代史の面白さはこういう意外な発見とその推測にある。
 
意外な発見と言えばやはり数年前の日本で、廃棄物処分場から焼却寸前の大黒屋光太夫の直筆文書が見つかったことがあった。光太夫は紀州の漁民で、難破してロシアにたどり着き当時のエカチェリーナ女帝と面会の上に帰国した人物である。その文書は廃棄されたふすまの間に挟まっていてその端が少し覗いている状態だったが、そこにたまたま光太夫の専門家が通りかかってすんでのところで救済したのだという。なんともレアな偶然でこれも歴史ファンとしては興奮に値するが、言い換えればこういうラッキーがなくて実は廃棄されている貴重文書がその何十倍もあるということだ。
 
本日はペルシャ人の発見から始めて、連想の行くままに色々を書き綴ってきた。これは学問的見地からは単に雑学であって価値は低いのだが、本人は書いていて面白かった。かつて私はウォーキングが趣味だった関係で、関東の色々な町や駅の特徴について多くの断片的な知識を持っている。これらも断片的である以上は価値の低い雑知識に過ぎないが、なぜか私はこれらを思い出して連想するのが楽しい。そして本日徒然なるままに書いてきて、その楽しい理由は町や駅等の特徴について自分なりに繋がりと言うかメロディを持っているというだと思えてきた。
 

転載元: アナログでいこうよ

[転載]トルコ系国家たち

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☆世界史2点アップ!講座☆ トルコ系国家たち


オスマン帝国の支配下にあってトルコ語を母語としていたムスリムの子孫である。もともとオスマン帝国の時代には「トルコ人」という民族意識は薄く、特にイスタンブールを中心とするエリート階層はトルコ語の一種であるオスマン語を共通語としていたものの、血統的な出自は必ずしもトルコ系とは限らず、自称は「オスマン人」であって「トルコ人」またはオスマン帝国以前にあったセルジューク朝を築いた「セルジューク人」は田舎に住み農業や牧畜に従事する人々を指す語であった。

アナトリアのトルコ系の言葉を話すムスリムの人々をまとめて「トルコ人」(「セルジューク人」)と呼び、彼らの属すオスマン帝国を「トルコ帝国」と呼んだのは、むしろヨーロッパなどの帝国外部の人々である。

テュルクはもともと中央アジアカザフステップからアルタイ山脈西部に起源を持つ遊牧民族集団であり、外見上はモンゴロイドの特徴を強く持っていたが、長い時間をかけて西へと進んできた中で、アラブやアナトリアなどの住民との混血が進んでいった。

さらに、オスマン帝国時代には、東ローマ帝国時代から小アジアバルカン半島に住んでいたギリシャ人アラブ人ロマンス人の一派(ルーマニア人など)、カフカス系諸民族、クルド人アルメニア人スラヴ諸族南スラヴ人)、おなじテュルク系のブルガール人オグール)とクマン人などと混血が進み、コーカソイドの容貌の特徴が濃厚となった現在に至る「トルコ人」が形成されて、コーカソイドとして分類されている。

ところが、19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパで生まれオスマン帝国に持ち込まれたナショナリズムの思想がキリスト教徒の諸民族の間に広まり、ギリシャを手始めにオスマン帝国からバルカン諸国が独立していき、一方でロシア帝国領のムスリムの間で生まれた汎トルコ主義(汎テュルク主義)がオスマン帝国に流れ込んで、エリート階層の間にも「トルコ人」意識が広まり始めた。

最終的には、第一次世界大戦によるオスマン帝国の最終的な解体と、続くトルコ革命により、アナトリアにトルコ共和国が樹立された結果、アナトリアに住みトルコ語を話すムスリムの間にトルコ人意識が定着する。しかし、元来トルコ語を母語としないクルド人をトルコ人に同化・統合しようとする動きは、トルコに複雑な民族問題を投げかける要因となっている。

テュルク系民族

   
世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。
テュルク系民族の分布。





テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurksトルコ語: Türkロシア語: Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。



呼称・表記・定義

トルコ語の「テュルク」にあたる言葉として、日本語では「トルコ」という形が江戸時代以来使われているが、この語はしばしばオスマン帝国においてトルコ語を母語とした人々を意味し、現在ではトルコ共和国トルコ人を限定して指す場合が多い。

英語では、この狭義のTürk(テュルク / トルコ)と言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のTürk(テュルク / トルコ)であるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。これにならい、日本語でも狭義のTürkに「トルコ」、広義のTürkに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。

歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒ウイグル(回紇)、カルルク(葛邏禄)、バスミル英語版(拔悉蜜)、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[1]

歴史学の成果から本来テュルク諸語を話す人々は中央アジアモンゴル高原からシベリアのあたりにいたと考えられる。古代のテュルク民族は唐代まではそのほとんどが黒髪、直毛、黒目のモンゴロイドであった[2]が、その後の西方への移住拡散によりコーカソイドと多分に混合した。特にトルコ共和国のトルコ人はほほ完全なコーカソイドとなっている。このように外見は東西で大きく異なるが、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。

歴史

狄(てき)

春秋時代概念地図

中国史料にあるいはと記される民族が「テュルク」に関する最古の記録であると考えられている。は周代に中国の北方(河北地方: 山西省河北省)に割拠する、中原的都市文化を共有しない牧民を呼んだ呼称である。の時代に、多くが戦争によって中原から北方へと追われた。狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄が居たが、周が衰えると白狄は春秋時代といった国々に侵入して略奪を行った。

中国諸国と同盟・離反を繰り返しながら存続し、戦国時代には、白狄が中原中山国を建てている。中山国は紀元前296年の攻撃によって滅亡するが、ある者は中国人と同化し、ある者は北狄、戎狄と総称される異民族として中国の周辺で遊牧を続けた。

後世になって北狄、戎狄の語は北方遊牧民族の代名詞となり、四夷の一つとして数えられる。

丁零(ていれい)


丁零或いは丁令と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている。丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。
やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して翟魏を建てた。

高車(こうしゃ)

モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[3]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)

7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝

中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。そのため東ローマ帝国の史料[4]にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。
また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[5]古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡してしまう。

一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は鉄勒と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。
やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、拔悉蜜(バシュミル英語版、バスミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。

突厥の滅亡後

中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。その後のウイグルは甘州ウイグル王国天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。

中央アジアではカルルク、突騎施英語版(テュルギシュ)、キメクオグズといった諸族が割拠していたが、10世紀サーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。

カスピ海以西ではブルガールハザールペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。

テュルクのイスラーム化

テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。
彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年ガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝カリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジアアナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。

また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。

西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化

840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。

一方、東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンクチャもイスラーム圏となる。これら2国によって西域はテュルク語化が進み、古代から印欧系の言語(北東イラン語派トカラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク語化した。

中央アジア草原地帯、トルキスタンのテュルク化

13世紀前半の世界。

中央アジアの草原地帯にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。草原地域では、イラン系遊牧民が急速にテュルク語化した。一方のオアシス地帯では、口語は12世紀頃までに概ねテュルク語化したものの、行政文書や司法文書などには専らアラビア文字による文書(ペルシャ語など)が用いられ、継続性が必要とされる特性上テュルク語への置換はゆっくりとしたものであった。
トルキスタンに於ける最終的なテュルク語化は、ホラズム・シャー朝カラキタイティムール朝シャイバーニー朝といった王朝の下でゆっくりと進行した。

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モンゴル帝国の拡大

チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。

古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した契丹)や女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。

当時、モンゴル高原にはケレイトナイマンメルキトモンゴルタタルオングトコンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位: 1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグトオイラトキルギス、西のタングート西夏)、天山ウイグル王国、カルルク、カラキタイ(西遼)、ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。

チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位: 1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。

転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

[転載]北方ロシアのティクシは、トルコ人の発祥の地

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ティクシ

   
ティクシの位置
ティクシ(チクシ、ロシア語: Тикси, Tiksi)はロシア連邦サハ共和国北部にあるレナ川河口の港湾都市。ラプテフ海に面し、シベリア北極海沿岸でも重要な港湾の一つである。ティクシ空港があるほか、冷戦期の空軍飛行場が散在する。
人口は2002年全ロシア国勢調査で5,873人(1989年調査では11,649人)。住民の多くはヤクート人
サハ共和国内を南から北に流れるレナ川河口、レナ川デルタ南方のティクシ湾湾口にある。ティクシ湾から外洋に出るとラプテフ海へ出る。夏でこそ、海は流氷に覆われないが、その他の季節は流氷に覆われる。


歴史

1901年8月、ロシアの北極海探検船ザーリャは、未確認の島サンニコフ島探索のためラプテフ海を進んでいたが、ノヴォシビルスク諸島近海で流氷に阻まれ動けなくなった。翌1902年、流氷で動けないザーリャを後にして隊長のエドゥアルド・トーリらは歩いて北極海を進もうとしたが、同年11月にベネット島から南へ柔らかい氷の上を進む最中に行方不明となった。ザーリャに残された隊員らは最終的にティクシ湾に入り、そこから陸路でサンクトペテルブルクへと戻っている。
ティクシの風景
ティクシの町は1933年(記録によっては1930年)、北極海航路の中継港とする計画のもとに建設された。1939年には都市型集落に昇格している。ソビエト連邦時代、ティクシには比較的豊富に物資が供給され、住民の収入も優遇された。冷戦期にはティクシ北飛行場・ティクシ西飛行場などの軍事施設が建設され、Tu-95戦略爆撃機が配備されていた。
ソ連崩壊後、1990年代の経済危機の時期には人口は半減した。北方をにらんだ軍事基地や利益の少ない北極海航路の利用は縮小され、他に職のないティクシの町を離れる住民が相次いだ。




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テュルク系民族

   
世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。
テュルク系民族の分布。

テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurksトルコ語: Türkロシア語: Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。




丁零   

モンゴルの歴史
中国モンゴル高原
獫狁葷粥山戎
月氏匈奴東胡
 
丁零鮮卑
魏晋南北高車柔然
鉄勒突厥
 東突厥
回鶻
五代黠戛斯達靼契丹
北宋ナイマンケレイト
南宋(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元
大明北元(韃靼)
ハルハ
大清
中華民国大モンゴル国
中華人民
共和国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
紀元前2世紀匈奴と丁零。
2世紀鮮卑と丁零。
丁零(ていれい、拼音:Dīnglíng)は、紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて、バイカル湖南方からセレンゲ川流域にかけてのモンゴル高原北部や、南シベリアに住んでいたテュルク系遊牧民族丁令[1]丁霊[2]勅勒(ちょくろく)とも表記される。4世紀6世紀では高車[3]6世紀8世紀では鉄勒[4](てつろく)とも呼ばれた。




名称

原名は“車”を指すモンゴル語telegem(テレゲン),terege(テレゲ)に由来すると考えられ、丁零,鉄勒はその音訳で、高車はその意訳であると考えられる。あるいは、突厥碑文に見えるTölös(テレス)に比定する説、あるいは突厥と同名でTürk(テュルク)またはその複数形Türklär(テュルクレル)に比定する説、あるいは突厥の手足にされたことからTiräk(ティレク:扶助者)に比定する説があったが、P.A.Boodbergは『Three Notes on the T'u-chüeh Turks』[5](1951年)において、古アルタイ語で“車”を指すTerege,telegenと関連するTerek,Telekに比定し、後に“高車”と呼ばれることに信憑性を持たせた。[6]

歴史

『山海経』の記述

山海経』海内経に「北海之內,有山,名曰幽都之山,水出焉。其上有玄鳥、玄蛇、玄豹、玄虎、玄狐蓬尾。有大玄之山。有玄丘之民。有大幽之國。有赤脛之民。有釘靈之國,其民從膝已下有毛,馬蹄善走。」とあるのが、丁零の初出である[7]。この記述はのちの『魏略』西戎伝の馬脛国の記事(後述)に類似している。

漢代

匈奴冒頓単于が即位すると、周辺の国々は次々と併合され、バイカル湖南の渾庾屈射丁零鬲昆薪犁の部族も匈奴に服属することとなる。

本始2年(前72年)、匈奴が烏孫の連合軍に攻撃されて敗北を喫し、さらにその冬の大雪に遭い、多くの人民と畜産が凍死すると、それに乗じて丁令は匈奴に攻撃をかけて離反した。
神爵元年(前61年)、丁令は3年連続で匈奴に侵攻し、人民数千を殺略し、馬畜を駆って去った。匈奴は万余騎を派遣してこれを撃ったが、何も得ることなく帰還した。

紀元前4948年頃、西匈奴郅支単于は烏孫を破り、烏掲[8]堅昆,丁令を併合し、堅昆の地に本営を置いた。

後漢元和2年(85年)、北匈奴大人の車利,涿兵らは漢に亡命すべく入塞した。時に北匈奴は衰耗しており、部衆が次々と離反していった。それに乗じて南匈奴がその南を攻め、丁零がその北を寇し、鮮卑がその東を撃ち、西域がその西を侵したので、北匈奴は自立不可能となり、遠く西方へ去っていった。

北匈奴が去ったモンゴル高原において鮮卑の檀石槐が諸部族を統合し、かつての匈奴の版図に匹敵するほどになると、檀石槐は丁令の南下を阻んだ。
これ以後の丁零はしばらく独立した状態が続く。

三国時代の北丁令と西丁令

3世紀の西域諸国と丁令の位置。

三国時代の歴史書『魏略』西戎伝(『三国志』魏書東夷伝に収録)において、その編者である魚豢(ぎょかん)はバイカル湖南の丁令国の他に、そこからはるか西方の康居の北(カザフステップ)にも丁令と呼ばれる国があることを記している。
  呼得国は葱嶺の北に在り、烏孫の西北、康居の東北に在り、勝兵は万余人、畜牧に随い、良馬を出し、貂あり。堅昆国は康居の西北に在り、勝兵は三万人、畜牧に随い、これもまた多くの貂,良馬あり。
  丁令国は康居の北に在り、勝兵は六万人、畜牧に随い、名鼠皮を出し、白昆子,青昆子皮を出す。この上の三国は、堅昆が中央で、俱に匈奴単于庭安習水を去ること七千里、南の車師六国を去ること五千里、西南の康居界を去ること三千里、西の康居王治を去ること八千里の距離にある。
 或いはこの丁令を匈奴の北の丁令であるとするが、この丁令は烏孫の西に在り、その種は似ているが別である。また匈奴の北には渾窳国,屈射国,丁令国,隔昆国,新梨国があり、明らかに北海の南にも丁令があるが、これも烏孫の西の丁令ではない。烏孫の長老はこの丁令には馬脛国があると言い、その人の音声は雁騖に似て、膝から上の身頭は人であり、膝から下には毛が生え、馬の脛と蹄がある。馬には乗らないが馬よりも早く走り、壮健で勇敢に戦う。
— 『魏略』西戎伝
魚豢は「その種は似ているが別である」としているが、この問題について古くは丁謙が『魏略西戎伝地理攷証』にて、日本では護雅夫の『古代トルコ民族史研究』[10]内田吟風の『北アジア史研究』[11]などによって論考されてきており、各々登場する国々(呼得国,堅昆国,丁令国)の位置観は違えど、バイカル湖南の丁令と康居の北の丁令が同じものであることでは一致しており、また、後の『旧唐書』における鉄勒の広範囲にわたる分布を見ても、それが妥当な考えであることは明らかである。

五胡十六国時代

4世紀末の五胡十六国

丁零族の翟氏は代々康居に住んでいたが、後に中国に移住し、翟斌(てきひん)の代になって後趙に臣従した。前秦苻堅が華北を統一すると、翟斌ら丁零族は前秦に臣従し、新安郡澠池郡に移住した。383年12月、前秦の衛軍従事中郎となっていた翟斌は河南で挙兵し、前燕復興を目論む慕容垂らと合流して前秦に反旗を翻した。384年、前秦から独立した慕容垂は後燕を建国し、翟斌を建義大将軍・河南王とした。しかし翟斌はまもなく後燕に対して反乱を起こしたため、慕容垂から斬首された。

翟斌の兄の子である翟真は承営に逃れて拠点を置き、前秦の長楽公苻丕と結んで後燕に対抗した。385年4月、翟真が承営から行唐に遷ると、翟真の司馬である鮮于乞は翟真を殺し、自ら立って趙王となった。営人は共に鮮于乞を殺し、翟真の従弟である翟成を立てて主とした。しかし、その衆の多くは後燕に降り、翟真の子である翟遼黎陽に奔走した。5月、燕王の慕容垂は常山に至り、翟成を行唐で包囲した。7月、翟成の長史である鮮于得は翟成を斬って慕容垂に降った。慕容垂は行唐を攻め落とし、翟成の衆をことごとく穴埋めにした。

東晋の黎陽に逃れた翟遼は黎陽郡を乗っ取り、周辺の諸郡を傘下に入れた。しかし387年1月、慕容垂が侵攻してくると降伏し、慕容垂から徐州牧,河南公に封ぜられる。間もなくして翟遼は後燕に叛いて清河郡平原郡を略奪。388年2月には自ら魏天王と称し、翟魏を建国、滑台に都を置いた。息子の翟(てきしょう)の代になると、たびたび後燕に侵攻しては撃退され、392年には後燕に滅ぼされた。翟は一人西燕に逃れて慕容永から車騎大将軍,東郡王に封ぜられるが、1年後に謀反を起こして誅殺される。

その後の華北は北魏によって統一され(南北朝時代)、各丁零族もその支配下に入るが、上党丁零の翟都、榆山丁零の翟蜀、西山丁零の翟蜀,洛支、定州丁零の鮮于台陽,翟喬といった勢力がたびたび北魏に対して反乱を起こしては鎮圧された。
一方で、北の草原地帯に古くから存在する丁零族は高車と呼ばれ、後の鉄勒となってゆく。

高車(こうしゃ)

モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から高車と呼ばれるようになる。これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[13]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

鉄勒(てつろく)


突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族鉄勒と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク),拔悉蜜(バスミル英語版)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。


転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

[転載]突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。トルコ人の祖先

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突厥とウイグル、唐(玄宗まで)

突厥

   
突厥可汗国
(Türük)Old Turkic letter UK.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter T2.svg
丁零
柔然
エフタル
552年 - 582年東突厥
西突厥
突厥の位置
6世紀、突厥の最大版図
公用語首都
ソグド語古テュルク語(テュルク諸語のひとつ)
ウテュケン山
可汗
552年 - 552年553年 - 572年587年 - 599年
伊利可汗
木杆可汗
都藍可汗
面積
6000000km²
変遷
建国 東西分裂
552年
582年
モンゴルの歴史
中国モンゴル高原
獫狁葷粥山戎
月氏匈奴東胡
 
丁零鮮卑
魏晋南北高車柔然
鉄勒突厥
 東突厥
回鶻
五代黠戛斯達靼契丹
北宋ナイマンケレイト
南宋(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
モンゴル帝国
大元
大明北元(韃靼)
ハルハ
大清
中華民国大モンゴル国
中華人民
共和国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
突厥(とっけつ、とっくつ[1]拼音:Tūjué、古テュルク語Old Turkic letter K.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter T2.svg【Türük】[2]Old Turkic letter UK.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter T2.svg【Türük】[3]トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家

もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族[4]で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事した[5]が、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。



名称

原音

中国史書の伝える“突厥”という語については、これまで“Türk(テュルク)”にモンゴル語複数語尾である-üd(-üt)が付いた形“Türküt(テュルキュト)”の漢字音写であるとする説[6]が有力であった。しかし、近年になってから“突厥”という語は単純に“Türk”という音そのものを写した漢字であるという説[7]が支持されるようになってきた[8]

意味

周書』異域伝,『隋書』北狄伝では、「彼らが住んでいた金山(アルタイ山脈)の形が兜鍪の形に似ていたことから、彼らの言葉で“兜鍪”を意味する“突厥”を部族名とした。」とある。
また、“テュルク”という名称の意義については「強力な(もの)」とする説[9]が有力であるが、異論もある[10]

起源

中国の史書にはいくつかの伝説が記載されている。
『周書』
 突厥人は匈奴の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。別の部落を成した。後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。10歲の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。
 隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は高昌国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。阿史那はその一つである。子孫は繁栄し、次第に数百家となった。数世代を経ると、各々洞窟を出て茹茹(柔然)に臣従した。
 彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工となる。金山の形が兜鍪に似ており、俗に兜鍪を突厥と言うため、それを号とした。或いは云う。突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。その部落大人(たいじん:部族長)は阿謗歩といい、兄弟が17人いた。阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。
 兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ[11]。その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族を寒露から助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。
 訥都六には10人の妻がいて、全ての子は皆母方の一族の姓を名乗った、阿史那は愛妻の子である。訥都六設が死ぬと、10人の母は子の中から一人を選んで立てるべく、大樹の下に集り、木へ最も高く飛べた者を立てると誓った。阿史那の子は幼かったが最も高く跳んだので、諸子から長に推戴され、阿賢設と号した。 [12]
『隋書』
 突厥の先祖は平涼の雑胡で[13]、姓は阿史那氏。後魏(北魏)の太武帝沮渠氏を滅ぼしたため、阿史那は五百家をもって茹茹(柔然)に走り、代々金山に住んで鉄工に従事した。その金山の形状が兜鍪のようであり、俗に兜鍪を突厥と呼ぶため、突厥を号とした。

 或いは云う、その先祖は西海の北に国があったが、隣国に滅ぼされ、老若男女尽く殺された。一児のみは殺すのに忍びず、足の筋と腕を切断して大沢の中に棄てた。一頭の牝狼がいて、毎日そこで肉を与え、この男児に食べさせたので、死なずに済んだ。

 その後、男児は狼と交わりを遂げ、狼は身篭った。隣国の人間は再び人に命じて男児を殺させると、その側に雌狼が居た。派遣された者は殺そうとしたが、雌狼は神によって、忽然として海東へ至り、山上に止まった。
その山は高昌の西北に在り、下ると洞穴があった。雌狼が中に入ると、方200余里の草の茂る平坦地に出た。その後、雌狼は10の男子を生み、その中の一姓が阿史那氏で、最も賢く、君長となった、故に牙門には狼頭の飾りを設け、本源を忘れていないことを示す。[14]
学術的見解
 突厥の起源は西丁零に遡ると考えられ、その原住地はイェニセイ川上流域にあったとされる。この地は鉄鉱石が豊富であり、のちに突厥が「鍛奴(鍛鉄奴隷)」と呼ばれるほど製鉄技術に優れていたことを裏付ける。
 彼等は匈奴支配時期に製鉄技術を学び、3世紀には鉄器の使用が普及していた。やがて阿史那氏の突厥部は南のアルタイ山脈を越え、トルファン西北のボグダ山天山山脈に移り住むと、その鍛鉄技術をもって急速に発展し、テュルク系諸族の中での最強部族となった。[15]

歴史

以下の記述は周書隋書旧唐書新唐書によるもの。

勃興

 訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。彼には2人の子がおり、長男は土門古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter Q.svgOld Turkic letter N1.svgOld Turkic letter M.svgOld Turkic letter O.svgOld Turkic letter B1.svg - Bumïn qaγan - ブミン・カガン)、次男は室點蜜古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.pngOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter M.svgOld Turkic letter T2.svgOld Turkic letter S2.svgOld Turkic letter I.svg - Istemïi Qaγan - イステミ・カガン)といった。

 吐務が死ぬと土門が後を継いだ。5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、西魏や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。

 西魏大統12年(546年)、北の鉄勒が柔然を攻撃してきたため、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。土門はこれに乗じて柔然に求婚した。しかし、柔然可汗阿那瓌(在位:520年 - 552年)は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。

 大統17年(551年)6月、土門は西魏の長楽公主を娶って妻とした。この年、西魏の文帝崩御したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。廃帝元年(552年)1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。阿那瓌は自殺し、その子の菴羅辰は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那瓌の叔父である叔子を立てて可汗とした。土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。


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最盛期

北周・北斉・陳・後梁と突厥

 伊利可汗が亡くなると、子の乙息記可汗(在位:552年 - 553年)が継いだが、まもなく亡くなったため、その弟である木汗可汗(ムカン・カガン、在位:553年 - 572年)が後を継いだ。木汗可汗は即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、柔然可汗の叔子は西魏に亡命した。

 木汗可汗はさらに西の囐噠(挹怛、エフタル)を破り、東の契丹を敗走させ、北の契骨(キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。これにより突厥の版図は、東が遼海(渤海?)以西、西が西海(アラル海)に至り、南は沙漠(ゴビ砂漠)以北、北は北海(バイカル湖)に至る大帝国となった。次に木汗可汗は西魏に叔子の誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、叔子を青門外で殺した。

 こうして完全に柔然を滅ぼした木汗可汗は、中国の北朝と好を結ぶようになり、互いに姻戚関係となる。初めは北周北斉の両方から求婚されていたが、木汗可汗は北周を選び、保定3年(563年)から4年(564年)にかけての北斉討伐に参加した。この戦いでは何の成果も上がらなかったが、その後も突厥と北周の関係は良好であった。

 しかし、次の他鉢可汗(在位:572年 - 581年)の時代になると、577年に滅んだ北斉の残党と組むようになり、たびたび北周の北辺を侵すようになった。北周は何度か突厥と交渉し、大象2年(580年)になってようやく北斉の残党である高紹義を連行することに成功した。

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内戦と東西分裂

 581年、他鉢可汗が病死し、子の菴羅が即位したが、木汗可汗の子の大邏便が心服せず、制御できなかったので、大可汗位を爾伏可汗(ニワル・カガン)であった摂図に譲った。国人たちも「四可汗(乙息記可汗、木汗可汗、他鉢可汗、褥但可汗)の子の中では摂図が最も賢い」とし、摂図は正式に即位して沙鉢略可汗(イシュバラ・カガン)と号し、都斤山(鬱督軍山、ウテュケン山)を都とした。
 摂図(以後は沙鉢略可汗)は大邏便が今まで官位をもったことがないということだったので、阿波可汗(アパ・カガン)という称号を与えた。2月、北周の静帝楊堅禅譲し、が建国されると、北斉の営州刺史だった高宝寧が北方民族と結託して反乱を起こしたので、沙鉢略可汗はこれと合流し、臨渝鎮を攻め落とした。その後も反乱軍は隋軍に勝利し、隋の北辺を侵した。

 開皇2年(582年)冬、隋の高祖文帝は河間王の楊弘上柱国豆盧勣竇栄定左僕射高熲右僕射虞慶則元帥とし、長城を出て反撃に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗,貪汗可汗らを率いて迎撃するが、敗走し、飢えと疫病に悩まされ、あえなく撤退した。沙鉢略可汗は阿波可汗の気性が荒いのを危惧し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲撃し、阿波可汗の母を殺した。

 これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗(タルドゥ・カガン)のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが離反し、阿波可汗に附いた(これが西突厥となる)。

沙鉢略可汗は西の達頭可汗に悩まされ、東の契丹を畏れたので、隋に救援を求め、白道川内に移り住むことを許された。その後、沙鉢略可汗は晋王の楊広より補給をもらい、これにより阿波可汗を攻撃して捕えることができた。

転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

[転載]親日国トルコの治安と観光にテロが与える影響?日本人もビックリ?生活習慣の違いと共通点とは?経済発展の与える影響を語る!


[転載]正義のミカタ 2015年5月 混迷の中東情勢・・サウジ

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正義のミカタ 5月9日 混迷の中東情勢・・サウジ


2015/07/10 に公開
正義のミカタ 5月9日 混迷の中東情勢・・サウジアラビアvsイラン代理戦争勃発!!今イエメンで何が起こっている? ・北朝鮮 金正恩の思惑とは?.

正義のミカタ 5月9日 混迷の中東情勢・・サウジアラビアvsイラン代理戦争勃発!!今イエメンで何が起こっている? ・北朝鮮 金正恩の思惑とは?.

正義のミカタ 5月9日 北朝鮮 幹部15人を見せしめ処刑・・金正恩の思惑とは? ・パククネ大統領 自国でも大バッシング!

転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

[転載]1948 - 1967:中東戦争

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1948 - 1967:中東戦争

1949グリーンラインの境界線

勝利が予想されたアラブ側は内部分裂によって実力を発揮できず、イスラエルは人口の1%が戦死しながらも列強からの豊富な物資援助により勝利する。1948年の時点でパレスチナの地に住んでいた70〜80万人のアラブ人などが難民となった(いわゆるパレスチナ難民)。パレスチナ人を主とするアラブ人は、「ナクバ(النكبة)」(アラビア語で「大破局」「大災厄」を意味する)と呼ぶ。

パレスチナ難民の発生原因については、当時は、ユダヤ人軍事組織によって追放されたというパレスチナ側の主張とパレスチナ人が自発的に立ち去ったというイスラエル側の主張があった。現在では、イスラエルの政府資料や米国の諜報資料が公開され、イスラエル側の主張が虚構であり、大多数のパレスチナ難民は、ユダヤ人軍事組織による大量虐殺(イスラエルの歴史学者のイラン・パペによれば、総計2千人〜3千人が犠牲になった)、銃器による脅迫、また、ユダヤ人軍事組織による攻撃を恐れて、難民となったことは、学術的に明らかになっている。現在の学術的な争点は、パレスチナ人の追放が予め計画されたものか、それとも戦闘激化に伴った偶発的なものかという点である。

また、イスラエル建国に伴うアラブ諸国におけるユダヤ人への迫害の増加により、セファルディムなどアラブ諸国のユダヤ人住民40万人がイスラエルに移住し、アラブ諸国に残された財産の大部分は没収された。
1949年2月にエジプトとイスラエルの停戦協定が成立。イスラエルがパレスチナの80%を占領し、残り20%はトランスヨルダンが占領した。エルサレム旧市街はヨルダンに新市街はイスラエルに占領された。ガザ地区がエジプト領となり、パレスチナ難民が押し寄せた。

1950年に施行された不在者財産没収法により、1947年のパレスチナ分割決議から翌年9月までの間に居住地を離れて近隣に避難するなどしたパレスチナ人は家屋・財産を没収されることになった。こうして没収された土地はユダヤ人入植者たちに与えられた。(これが下記の「難民」の「帰還権」問題に繋がる。)
1956年7月エジプトがスエズ運河国有化を宣言し、それを阻止するために10月にイスラエル・イギリス・フランスがエジプトに侵攻し、第二次中東戦争(シナイ作戦、スエズ戦争)が勃発した。アメリカとソ連の即時停戦要求を受け入れ、イギリス・フランスは11月に戦闘を中止した。アメリカの共和党のアイゼンハワー大統領が経済援助の停止という圧力をかけて、1957年3月にイスラエルをシナイ半島から撤退させた。この戦争により、中東の主導権はイギリス・フランスからアメリカ・ソ連に移った。

1964年5月にPLO(パレスチナ解放機構)が結成された。

1967年5月エジプトのナーセル大統領はシナイ半島の兵力を増強し、国連監視軍の撤退を要請し、イスラエル艦船に対するチラン海峡封鎖を宣言した。6月にイスラエルはエジプトを奇襲し、6日戦争(第三次中東戦争)が勃発した。イスラエルをアメリカが支援し、アラブ諸国をソ連が支援した。

1967 - 1993:第一次インティフィーダ


イスラエルは東エルサレムガザ地区シナイ半島ヨルダン川西岸ゴラン高原を占領し、国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。11月に国連安保理でイスラエルの占領地からの撤退、中東地域の航海自由の保障、避難民問題の解決などを決議した。

1973年10月にエジプトとシリアがイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、ラマダーン戦争)が勃発した。アラブ石油輸出国機構10カ国はイスラエルを占領地から撤退させるまで石油生産の5%以上を毎月削減するとの決議を可決し、石油危機が起こった。国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。
1974年10月 PLOが国連でオブザーバーの地位を獲得した。

アメリカによる和平交渉により1978年9月にキャンプ・デービッド合意が成立し、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が調印された。

1980年3月1日、国連安保理で、イスラエルが1967年以降、アラブ側の領土を占領し、また入植地を建設した行動を全て無効とし、速やかな撤退の要求を決議した[2]。この時はアメリカも賛成に回ったが(棄権するつもりだったが間違えたと声明)、イスラエルはこの決議を無視した。

1981年、アメリカのレーガン大統領は、ユダヤ系ロビーやイスラエルの反対を押し切って、サウジアラビアに武器を輸出した。1978年4月にシナイ半島がエジプトに返還された。6月にイスラエルがレバノンに侵攻しレバノン戦争が起こった。PLOはベイルートから撤退した。9月にアメリカのレーガン大統領が中東和平案を提示し、アラブ首脳会議でフェズ憲章が採択された。

1987年にイスラエル占領地でパレスチナ人の抵抗運動である(第一次インティファーダ)が発生した。

1993 - 2000:オスロ和平プロセス

調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファート議長。中央は仲介したビル・クリントン米大統領

1991年10月マドリードで中東和平会議開催。

1993年9月13日調印、イスラエルとPLOパレスチナ人の暫定自治の原則宣言にワシントンで調印(写真参照)(オスロ協定*)成立。その結果1994年5月よりガザエリコ先行自治が開始され、自治政府も組織されはじめた。PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相、ペレス外相がノーベル平和賞を受賞した。

1996年1月にパレスチナ評議会の選挙が行われた。 その矢先の1995年11月4日に和平に尽力したイスラエルのラビン首相はテルアビブにおいてカハネ主義者のイガール・アミルに射殺された。 イスラエルでは原則として労働党が「和平推進」(エルサレムとヨルダン川西岸の戦略的に重要な土地を併合)、リクードが「和平反対」(パレスチナ全土を併合)とみなされてはいる。しかし、イスラエルがシナイ半島からの撤退に基づく対エジプト和平を推進したのは右派政党のリクードのベギン政権であった。また、パレスチナ暫定合意や対ヨルダン和平を推進したのは左派政党の労働党のラビン政権ではあるが、ラビンは政界で活動する以前はイスラエル国防軍の参謀総長として6日戦争を指導していた。

1996年、イスラエルに対する、アラブ・イスラム原理主義者(ハマースイスラーム聖戦ヒズボラ)によるテロが激化する。

1997年1月17日、ヘブロン・プロトコル、自治拡大。
1998年10月23日、ワイリバー覚書、自治拡大。
2000年7月には、キャンプデービッド2000年サミット首脳会談後のアラファート議長 イスラエル側の「西岸地区の91%の支配権を認める、ただしこれとは別に西岸地区の1割の面積を当分の間(6〜21年)イスラエル側の支配下に置く」とする和平案を拒否した。イスラエル側は「寛大な申し出を拒否した」と非難。

2000 - 2005:第二次インティファーダ

2000年9月30日、アル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ)発生によりPLOとの和平交渉が決裂した。

双方の市民には平和運動や交流活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動がある。パレスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としているが、武力の弱さをおぎなうためとしてテロ戦略を採用する武装組織も存在し、若者や女性を頻繁に自爆テロ攻撃に使っている。

一方で、イスラエル政府も占領中のヨルダン川西岸地区に入植者を送り込み、一般市民を不法な領土拡張政策に利用している。イスラエル人の入植者達がパレスチナ人住民のオリーブ畑に放火した後、畑を耕して自分たちの土地として既成事実化している。またパレスチナ人住民はイスラエル軍も放火に加担していると証言している。

最近ではパレスチナ人の自爆テロは、イスラエル側が建設した分離壁(下記参照)によって困難になっており、パレスチナの各武装組織はカッサムロケットによる砲撃に重点を移しつつある。その結果イスラエルの民間人に多数の犠牲者がでている。これに対しイスラエル側は戦闘ヘリコプターによる爆撃、ブルドーザーによる住居破壊(イスラエル軍のブルドーザーは、米国キャタピラー社の特注品である)、戦車による砲撃などでパレスチナに反撃している。

また、2002年4月にイスラエル軍のジェニーン地区侵攻でパレスチナ人の虐殺が行われたとパレスチナが主張したが、イスラエルはそれを否定し、国連の査察受け入れを拒否して国連査察団が現地に入ることなく解体してしまうなど、イスラエルは国連や第3国からの介入を基本的に拒否している。

2002年2月にサウジアラビアアブドラ皇太子がイスラエルが全占領地から撤退すれば、国家として承認するという中東和平の提案をし、6月にアメリカ大統領のブッシュがパレスチナ暫定国家建設を支持し、イスラエルが入植活動を停止し、パレスチナがテロ組織を解体するという中東和平構想を発表した。

2003年4月アメリカEUロシア国際連合の4者により中東和平案のロードマップがイスラエルとパレスチナ自治政府に提示された。10月に国連総会で分離壁の建設中止についての決議が採択された。

2005 - 2008:アッバース時代のはじまり

アラファト議長(正式には大統領であるが、日本などはまだ国家として承認していないためこのように呼んだ。日本政府の正式な呼称は「自治政府長官」であったが、2006年に「自治政府大統領」に改められた)の死後、2005年1月の自治政府議長選ではマフムード・アッバースが当選した。しかし、選挙中に武装部門のファタハに担ぎ上げられたり、その一方で武装闘争は誤りであったと述べるなどという言動もあったので過激派への対策がどのようになるかは不透明である。

2005年4月には、アメリカのブッシュ大統領がイスラエル首相のアリエル・シャロンとの会談で、2005年8月を目処にイスラエル側がガザ地区の入植地からの撤退を予定する一方でエルサレムに隣接しているヨルダン川西岸地区最大のマーレ・アドミム地区への入植地拡大を計画していることに対し、「中東和平の行程表(ロードマップ)に反する」として、強い懸念を示した。シャロンと「約束の地」への思い入れが強い宗教右派の間には対立が存在し、更には入植者が強い抵抗を示す中で、治安部隊によるガザからの退去作業が8月17日より開始され、ガザの入植地は解体された。しかし、ヨルダン川西岸地区の入植地は明け渡さず、逆に新たな入植地の拡大を進めている。

2006年1月には、パレスチナ総選挙でハマースが第一党になり、3月29日、アッバース議長の元でハマースのハニーヤ内閣が成立した。ハマースをテロ組織と指定するEU、アメリカ、日本などは援助を差し止め、ファタハとハマースの武装衝突が激化するなど、パレスチナの混迷が続いている。

2006年6月27日には、アッバース議長とハマースのハニーヤ首相が1967年の国連停戦決議に基づく国境線の合意(事実上のイスラエル承認)で合意した。しかし、イスラエルはパレスチナ人に対する予防拘禁の強化を図る一方、兵士の拉致を理由に逆にガザ侵攻を拡大。ヨルダン川西岸地区では閣僚を含む立法評議員(国会議員に相当)、地方首長を約80人を拉致し、評議会を機能停止に追い込んだ。カタールは国連安保理にイスラエルのガザ撤退および閣僚等の解放を求める決議案を提出した。

しかし、7月13日、米国の拒否権で否決されている。また、同月12日から13日にかけて、日本の小泉純一郎首相はイスラエル、パレスチナを訪問し、イスラエルのオルメルト首相、パレスチナのアッバース議長と会談。しかしハニーヤ首相と会おうとはしなかった。小泉首相はヨルダンを含めた4ヶ国協議を提案し、それぞれの賛同を得た。しかし、イスラエルにガザ侵攻への自制を求めた件については「イスラエルの立場は明確だ」と退けられている。また、ハマース政権成立後では初めて、パレスチナに対する約3,000万ドルの人道支援を発表した。ただし、直接援助はイスラエルの反発に配慮し行わず、国際連合世界食糧計画などを介した形となる。

その後もイスラエルとパレスチナの断続的な衝突が続いた。11月1日、イスラエルは再びガザ地区に侵攻。7日までにパレスチナは軍民合わせて50人以上、イスラエルは兵士1人が死亡した。イスラエルは撤退を表明したが、翌8日すぐに攻撃を再開、ガザ地区北部のベイト・ハヌーンでパレスチナ市民が少なくとも19人死亡し、アッバース議長は「イスラエルは平和への機会を破壊している」と非難。ハマースは報復を宣言した。

イスラエルは誤爆と主張。事件の解明まで攻撃を中止すると発表したが、パレスチナ活動家の暗殺は続けている。ベイト・ハヌーンの事件について、再びカタールは国連安保理に非難決議案を提出した。フランスなどの要求で、パレスチナ側のロケット攻撃も非難する修正案に改められたが、11月11日、やはり米国の拒否権で否決された(日本は棄権した)。

パトリック・オコナーによると、2000年から2006年11月3日までの、パレスチナ側とイスラエル側の犠牲者数の比率は39:10である。そして、イスラエル諜報機関の元長官アヴィ・ディクターは、分離壁の建設によって自爆テロを90%阻止することが出来たと証言している。[3]実際、自爆テロは未遂の時点で逮捕されているケースが多く[4]、ハマース側が自粛しているのではなく、物理的に自爆テロが出来ない状況になっているという主張である。
なお、このような状況下でハマースはロケット砲による無差別攻撃に攻撃を転換したとの指摘もある。

パレスチナ内部でも、米欧・イスラエルの支持を受けるファタハと、ハマースの内部抗争が続いている。2006年にハマースは選挙での多数を根拠に単独内閣を組んだものの、国際社会は認知しようとしなかった。ファタハとハマースの間で連立政権の交渉が進められたが、両者の抗争で2006年中だけで28人の死者を出している[5][6]
2007年には、両者の抗争で50人に及ぶ死者を出した。

5月16日には、ハニーヤ首相の自宅に何者かの発砲事件があり、5月17日には、ハマースによるアッバース議長の暗殺計画が発覚。5度に及ぶ停戦合意がなされているが、合意の直後に抗争が再開される状況が続いている。6月11日からの抗争は、ハマースがガザ地区を武力占拠したことで、本格的な内戦に突入。アッバース大統領は非常事態宣言を出し、内閣の解散を宣言。イスラエルや米国は、ハマースを排除したファイヤード政権を正式な交渉相手と認めた。6月20日、アッバース大統領は「人殺しのテロリストたちとは対話はしない」と、ハマースを相手にしないことを表明した。

平行して、イスラエルによる攻撃も続いている。4月24日、ハマースはイスラエルによるパレスチナ自治区ヨルダン川西岸とガザ地区攻撃への報復として、ガザ地区からイスラエルにロケット弾の攻撃を行った。ハマース側はイスラエルの攻撃に対する応戦であり、停戦そのものを破棄するつもりはないと主張したが、イスラエルはガザ地区への空襲を繰り返し行い、さらに地上部隊の再侵攻を主張する声も強くなった。極右政党「わが家イスラエル」党首のリーバーマン副首相は「イスラエル軍がハマース壊滅のための地上作戦に踏み切らなければ、連立政権から離れる」と主張した。

5月20日には、ハマースのハリール・アル=ハヤ立法評議員(国会議員)宅が空襲を受け、アルハヤはハマースとファタハの停戦協議のため不在で難を逃れたが、8人が死亡した。イスラエル側はアルハヤを標的にしたものではなく、付近にいた武装集団を狙ったものと主張した。5月21日、パレスチナ側の攻撃でイスラエル人1人が死亡すると、イスラエルのリブニ外相は共同記者会見で「停戦は幻想で、ロケット弾はハマースが平穏に乗じて武器の密輸を行った結果だ。われわれはハマースと戦い続ける」と述べた。また、同国のアビ・デヒテル警察相は、ハマースの事実上の最高指導者であるハーリド・マシャアルについて、「彼の存在は正当な標的である以上だ。困難な使命ではあるが機会さえあればいつでも、彼を我々の前から消すことだろう」と暗殺を公言し、さらにハニーヤ首相の暗殺についても「(イスラエルに対する)攻撃命令を出している者の中にハニーヤが連なっているならば、彼も正当な標的となる」と実行に含みを持たせた(「警察相、ハマース最高指導者の殺害を予告 - イスラエル * 2007年05月21日 20:10 発信地:イスラエル」)。

さらに、5月31日、ユダヤ教スファルディーの前首席ラビであるモルデハイ・エリヤフは、オルメルト首相に「ユダヤ人の戦争倫理によると、個人の不道徳な行為について、市全体が集団的な責任を負う。ガザではカッサムロケットの発射を止めないから、すべての人口に責任がある」と主張する手紙を出し、シナゴーグに内容を配布した。パレスチナ『エレクトロニック・インティファーダ』紙のアリ・アブニマーは、「イスラエルでこの類のパレスチナ人に対する大量虐殺をそそのかす憎悪が語られるのは珍しいことではない。では、ムスリムやパレスチナの指導者がこのようなことを言ったらどうなるか。イランアフマディー ネジャード大統領が伝えられたところでは、イスラエルを取り除くことを述べたときに、国際社会がどう激しく抗議をしたかを私たちは知っている。イランのアフマディネジャドを非難して、ご機嫌取りをしていたすべてのEU官僚は、このイスラエルの前首席ラビに対して、同じような強く、公的な立場を取るのだろうか?」と批判した。

6月28日、イスラエルはガザに地上部隊を侵攻させ、軍民合わせて少なくとも12人を殺害。さらに、15歳から50歳の男性に家から出るように命じ、町の広場に集めさせた。

11月27日、米国の仲介で開かれた中東和平国際会議において、ブッシュ米大統領、オルメルト・イスラエル首相、アッバース・パレスチナ自治政府議長は和平交渉再開を確認した。だが、イスラエルは交渉再開を表明する一方、連日ガザ地区の攻撃や空襲を行い、11月30日には、ガザ再侵攻の準備が整ったことを発表した。
2008年1月、ブッシュ米大統領はイスラエル・パレスチナを歴訪。1月9日にはイスラエルでオルメルト首相と会談し、1月10日には初めてパレスチナを訪問し、アッバース議長と会談した。ブッシュ大統領は、イスラエルの入植地について「1967年に始まった占領を終結させる必要がある」と述べ、またパレスチナ自治区を入植地が分断している現状について「スイスチーズ(穴あきチーズ)ではうまくいかない」と批判した[7]。一方、パレスチナに対しては「テロとの戦い」の継続と、ハマースからのガザ地区奪還を要求した。

しかし、イスラエルのガザ地区攻撃については「パレスチナ領域がテロ組織の天国になってはならない」と理解を示し、イスラエル領への帰還を望むパレスチナ難民についてはこれを認めず、保証金で解決する考えを示した[8]。入植地についても、具体的にまとまったのはイスラエル政府が違法とする入植施設の撤去を約束したことだけで、既存の入植地・検問所については追認する考えを示すなど、イスラエルに有利な現状を追認するに留まった。『東京新聞』『中日新聞』は、これを「イスラエルの『独り勝ち』」と評した[9]。パレスチナではブッシュに抗議するデモが行われ[10]、イスラエルでの世論調査では、和平の進展に懐疑的な意見が多数を占めた[11]

並行して、ハマース側はイスラエルをロケット弾で攻撃し、イスラエルは報復にガザ地区を攻撃。1月15日にはガザ市街に侵攻し、民間人5人を含む17人を殺害した。ハマース側は、イスラエルの集団農場(キブツ)で作業していたエクアドル人ボランティア1人を殺害した。1月18日には、イスラエルの空襲でガザにある内務省ビルが破壊された。1月の間に、パレスチナ側からは少なくとも96人の犠牲者が出た。

イスラエルのバラク国防相はロケット弾攻撃の報復にガザ地区の完全封鎖を指示し、国連の援助車両も閉め出した。燃料の供給が止まったため、ガザ地区唯一の発電所は操業不能となり、ガザの電気の1/3(イスラエル側の主張によれば、1/4)が供給できなくなった。また、食料などの生活必需品も、イスラエルの兵糧攻めにより深刻な状況となっているという[12]。17日には、国連の潘基文事務総長が「パレスチナ人による襲撃の即時停止、ならびイスラエル軍の最大限の自制を求め」る声明を出したが[13]、イスラエルとハマースはこれを無視した。

2008年2月28日、来日中のオルメルト首相は、コンドリーザ・ライス米国国務長官と会談し、同日帰国した。オルメルトは、攻撃の自重を求めるライスに対し、「脅威が去るまでは(攻撃を)続ける」とこれを拒否した。また、2月29日、イスラエルのマタン・ヴィルナイ国防副大臣は、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模なהשואה(shoah、ショアー、ナチスによるユダヤ人大虐殺を意味する)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[14]と述べ、ハマースが攻撃を止めないならば、パレスチナ人を大虐殺すると脅した。この発言にイタン・ギンツブルグ国防副大臣などは、「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[15]と火消しした。ハマースは、この発言に「(やはりイスラエルは)新しいナチス」であったと反発した。

3月1日、イスラエルはガザ地区への地上部隊の侵攻を本格化させ、この日だけでパレスチナ側に61人の犠牲者が出た。イスラエル軍は、これを「暖冬作戦」と称している。

イスラエル軍が、ハマースのロケット弾攻撃による死者が出たことを理由に攻撃を激化させた2月27日以降、ガザ地区からひとまず撤退した3月3日までの6日間に、パレスチナ側は116人(約半数は非戦闘員)、イスラエル側は3人(1人は非戦闘員)殺害されている。

3月2日、国連の潘基文事務総長は、イスラエルに作戦中止を要請し、またハマースのロケット弾攻撃を「テロ行為」と批判した。しかし、イスラエルのオルメルト首相は「テロとの戦いをやめるつもりはない」と作戦継続を宣言し、これを拒否した。同日、パレスチナ自治政府のアッバース大統領は、ガザ侵攻を止めるまで和平交渉の中断を発表した。

3月3日、イスラエル軍はガザ地区から撤退し、ハマースは勝利宣言を出した。しかし、オルメルト首相は「寛大な措置を施す時期ではない。(パレスチナへの)応戦を続けるが、応戦は具体的な作戦や日時に限ったものではない」と再侵攻の意志を示し、さらにあるイスラエル政府高官は、3月4日と5日にライス米国務長官がイスラエルとパレスチナを訪問する予定に触れ、「(ライス)長官の訪問に合わせ、二日間の中休みを取っただけ」と言った[16]

3月4日夜、イスラエル軍は戦車で再侵攻を行い、武装勢力幹部宅を襲撃し、幹部を殺害。ライス米国務長官は、アッバース大統領に対し、ガザ侵攻中止は和平交渉再開の条件にはならないとの見解を示し、またイスラエルのガザ侵攻については、「自衛の権利があることを理解する」とこれを容認した。アッバースは、和平交渉の再開は認めたが、双方の見解の相違もあり、具体的な日程の見通しは立っていない。イスラエルは、「暖冬作戦」の第2弾として、都市に隠された武器捜索を予定しているという。

3月6日、イスラエルの神学校にパレスチナ人の男が乱入、生徒ら8人を射殺し、男はイスラエル治安当局に射殺された。神学校は、ユダヤ人入植者の思想的拠点だった。アッバース大統領、米ブッシュ大統領、潘国連事務総長らは相次いでテロ非難声明を出した。また、ブッシュ大統領は、オルメルト首相に電話で弔意を伝えると共に、「米国はイスラエルを強く支持する」と述べた。一方、ハマースは「(パレスチナ人)虐殺に対する自然な反応だ」と、犯行を支持する声明を出した。米国は、国連安保理でテロ事件として非難声明の採択を要求したが、リビアがイスラエルによるパレスチナ攻撃も非難すべきと主張し、採択は見送られた。犯行そのものについては、ハマースが認めたという報道[17]と、ヒズボラ関係者とする報道[18]があり、情報は錯綜している。

3月10日、エジプトの仲介で、イスラエルとハマースは当面の攻撃自制に同意した。しかし、オルメルト首相は「軍はガザで必要なだけ行動する」と述べており、また停戦の条件として、ハマースはイスラエルのガザ封鎖解除を、イスラエルはハマースの武器密輸停止を要求している。3月12日、イスラエルはベツレヘムなどでイスラム原理主義組織イスラム聖戦の幹部ら5人を暗殺し、イスラム聖戦はガザ地区からロケット弾で報復攻撃した。イスラエルはガザ地区を空襲し、イスラム聖戦の戦闘員4人を殺害した。

一方、パレスチナ自治区内のイスラエル入植地については、

転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

[転載]さくさくわかる「パレスチナ問題」

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さくさくわかる「パレスチナ問題」



パレスチナ問題

   
パレスチナ問題
アラビア語: قضية فلسطينية
ヘブライ語: הסכסוך הישראלי-פלסטיני
衝突した勢力
中東戦争
West Bank & Gaza Map 2007 (Settlements).png
時場所結果
20世紀初期 - 現在
イスラエルパレスチナ自治区
現在進行中

Flag of Palestine.svg
パレスチナ暫定自治政府
Flag of Israel.svg
イスラエル
和平プロセス
パレスチナ問題(パレスチナもんだい、アラビア語: القضية الفلسطينية‎、ヘブライ語: הסכסוך הישראלי-פלסטיני‎)は、パレスチナの地を巡るイスラエル人シオニストユダヤ人ら)とパレスチナ人(パレスチナ在住のアラブ人)との関係から生じた紛争を一個の政治問題として扱った呼称。パレスチナ・イスラエル問題と表記することもある。


歴史

古称は「フル」、「カナン」という。パレスチナあたりはペリシテ人の土地で、パレスチナという言葉はペリシテという言葉がなまったものと考えられている。紀元前13世紀頃にペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていた。しかしペリシテ民族は完全に滅亡した。

その後は紀元前10世紀ごろにイスラエル民族によるイスラエル王国エルサレムを中心都市として繁栄した。
やがて三大陸の結節点に位置するその軍事上地政学上の重要性からイスラエル王国は相次いで周辺大国の侵略を受け滅亡し、紀元135年にバル・コクバの乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、それまでのユダヤ属州の名を廃し、属州シリア・パレスチナ (en:Syria Palaestina) と改名した。

ローマとしては、幾度も反乱を繰り返すユダヤ民族を弾圧するため、それより千年も昔に滅亡したペリシテ民族の名を引用したのである。この地がパレスチナと呼ばれるようになったのはこれ以降である。

7世紀にはイスラム帝国が侵入してきた、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間の対立戦争の舞台となった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が攻め込んできた結果としてエルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝サラーフッディーンに奪還され、パレスチナ地の大半は王朝の支配下に入った。16世紀になると、マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの地の支配者となる。

後期19世紀 - 1920:起源

サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

本来は民族紛争ではなかった。第一次世界大戦において連合国側のイギリス同盟国側の一角であるオスマン帝国に対し側面から攻撃を加える意図の下、トルコの統治下にあったアラブ人イエフディ(現地ユダヤ人)やキリスト教徒も含む)たちに対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけた。その際この対価として1915年10月にフサイン=マクマホン協定を結びこの地域の独立を認めた。

他方、膨大な戦費を必要としていたイギリスはユダヤ人豪商ロスチャイルド家に対して資金の援助を求めていた。この頃、世界各地に広がっているユダヤ人の中でも、ヨーロッパでは改宗圧力を含め差別が厳しかった為、シオンに還ろうという運動(初期シオニズム)が19世紀末以降盛り上がりを見せていた。そこでイギリスは外相バルフォアを通じ1917年ユダヤ人国家の建設を支持する書簡をだし、ロスチャイルド家からの資金援助を得ることに成功した(バルフォア宣言)。

しかしイギリスは同じ連合国であったフランスロシアとの間でも大戦後の中東地域の分割を協議しており、本来の狙いはこの地域に将来にわたって影響力を確保することであった(サイクス=ピコ協定)。
こうしたイギリスの「三枚舌外交」はロシア革命が起こりレーニンらによって外交秘密文書がすべて公表されるに至り公のものとなった。

第一次世界大戦でアラブ軍・ユダヤ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治領となった。

1920 - 1948:イギリスによるパレスチナの委任統治

現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、アラブ人とともに嘆きの壁事件など衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。

しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王、アミール・ファイサル・フサイニー(1933年アラブ過激派により暗殺)、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(1946年暗殺)、マルティン・ブーバーらの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈する。




「パンとワイン」紛争

とはいえ初期の問題において、民族自体はあまり関係がなかった。衝突は、銀行と工業により避けようもなく次第に深まっていく。その主な原因は、オスマンから切り離された事で、外国貿易が重要性を増した事にある。そしてイギリスは荒廃した土地を復興させ、輸出農業の生産の増大を計った。農民の多くはアラブ人であった。ただし、農業金融を一手に引き受けていたのは1922年以後増大したユダヤ系銀行であり、製粉所等の加工工業もまたユダヤ人の手にあった。パレスチナの土地に適していたのはオレンジとリンゴであり、英国に対してはオレンジの輸出が多くアラブ人達は柑橘類を望んでいたが、製粉所含む食品工業のため銀行は穀物の増産を図っていく。また、葡萄園はユダヤ人の所有にあった。

当時のパレスチナにおいて工業の外国貿易に対する価値は非常に大きかった。英国に次いでシリアがパレスチナを助けていたが、ドイツとアメリカもまたパレスチナに対し工業生産材の輸出を行っており、アメリカには加工した工業品を輸出することによって貿易のバランスを保っていたため、このバランスを維持するために工業の発展が不可欠だった。

そして、パレスチナの外国貿易に関する諸々の取り決めは、委任統治領という立場にも関わらず、国内有力事業家の組合によって決定されていた。その事業家の多くが外部からの投資を受けた人間(即ち原住民ではなくユダヤ人の移民ら)であり、柑橘類を主軸に求めるアラブ人と、穀物類を主軸に求めるユダヤ人との農業問題への価値観の差異は、アラブ人への一方的な抑圧となり、やがて対立が深まっていく。

16年設立のハマシュビール(en:Hamashbir Lazarchan)は勢力が大きくなり市場取引を支配し、また英国との連携を強め、ニール[要出典]はドイツ人に代わり産業を支配、耕地を購入し所有していった。また人口の増大、特にユダヤ人増大による小麦の需要に基づく土地の疲弊は著しく、39年には1ha辺り480kgの小麦しか収穫できない(英国では2200kg、エジプトでは1630kg)など、問題への期限は迫っていた。

パレスチナ分割

国連による「パレスチナ分割決議」 1947

後にイスラエル首相となるベギン率いるイルグンシャミル率いるレヒ等のユダヤ人テロ組織のテロと、アメリカの圧力に屈したイギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。

ユダヤ人の人口はパレスチナ人口の3分の1に過ぎなかったが、1947年11月29日の国連総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議181号パレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決された[1]

この決議は、国内の選挙において、ユダヤ人の投票獲得を目当てにしたアメリカ大統領トルーマンの強烈な圧力によって成立している。ユダヤ人を自国から追い出したいキリスト教徒が主なアメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が反対した。(イギリスはこれ以上反感を買うことを恐れて棄権)

1948年2月アラブ連盟加盟国は、カイロでイスラエル建国の阻止を決議した。アラブ人によるテロが激化する中、1948年3月アメリカは国連で分割案の支持を撤回し、パレスチナの国連信託統治の提案をした。1948年4月9日、ユダヤ人テロ組織、イルグン、レヒの混成軍が、エルサレム近郊のデイル・ヤシーン村で村民の大量虐殺を行い、その話が広まって、恐怖に駆られたパレスチナアラブ人の大量脱出が始まった。

1948年5月イギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称パレスチナ分割決議)を根拠に、1948年5月14日に独立宣言しイスラエルが誕生した。同時にアラブ連盟5カ国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)の大部隊が独立阻止を目指してパレスチナに進攻し、第一次中東戦争(イスラエル独立戦争、パレスチナ戦争)が起こった。



転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

[転載]アレッポで激しい戦闘、撤退合意は履行されず シリア

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アレッポで激しい戦闘、撤退合意は履行されず シリア Smoke billows over Syria's eastern Aleppo after strikes




アレッポ

   
アレッポ
حلب
Aleppo (Halab)
シリアの旗
位置座標 : 北緯36度13分東経37度10分 / 北緯36.217度 東経37.167度 / 36.217; 37.167行政  郡  市 Governor 人口人口  市域 その他等時帯夏時間市外局番
Aleppo new mix.jpg
の位置図
シリアの旗シリア
アレッポ県
ジャバル・サムアーン(Jabal Sam'an)
アレッポ
Tamer Alhajeh
(2008年現在)
1,671,673人
東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
21
公式ウェブサイト : http://www.ealeppo.sy/

アレッポアラビア語: حلب‎(Halab) ['ħalab], トルコ語: Halepフランス語: Alep, イタリア語英語: Aleppo)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部にある都市である。トルコとの国境に近い。人口は2008年現在で約167万人あり、シリア最大の都市である。

アラブ語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ぶ。アレッポはシリア地方でも最古の都市の内の一つで、古代にはハルペ (Khalpe) の名で知られた。古代ギリシア人は、ユーフラテス川流域(メソポタミア)と地中海の中間に当たる戦略上の要地であるこの町を占領してベロエア (Beroea) と呼んだこともある。もともとは、クウェイク川両岸の広くて肥沃な谷にある、幾つかの丘の集まりの上に建てられた都市だった。

ハラブ県の領域は市の周辺16,000 km²に及びアル=バーブ、サフィラ、マンビジアイン・アル=アラブなどの近郊農村都市を抱え、住民は370万人にのぼる。2007年の推計では4,393,000人とシリア最大の県である。
アレッポ国際空港で中東や欧州各国と結ばれている。

概要


アレッポ市街は、新市街と旧市街にはっきり分かれている。旧市街は5km弱の長さの城壁に囲まれ、7つの城門がある。旧市街の真ん中に中世に建てられたアレッポ城は、市街地から50mも高い巨大な丘(部分的に、人工的に盛り土されてできた土塁)の上に立つ。

土塁は上から見ると楕円形で、周りを深い堀に囲まれており城には大きな石造りの橋を渡って入る。今見ることのできる姿は13世紀にさかのぼり、以来何度かの地震(特に1822年の地震)で破損している。

アラブ語の都市名「ハラブ」は乳の意味で、アブラハムが旅してきた旅人たちに乳を振舞ったとの伝承から来ている。古代から(伝説によればダビデ王の頃から)の大きなユダヤ人コミュニティがあり、9世紀に建てられた大きなシナゴーグがある。

このシナゴーグが、930年ごろにベン・アシェル家が書き写した旧約聖書の最古級の写本アレッポ写本英語版」があった場所で、1947年に起こったユダヤ人に対する暴動を経て、現在写本はエルサレムにある。ユダヤ人コミュニティは政治的・経済的な理由からアレッポを去っている。

歴史

古代

現代のアレッポが古代アレッポの場所に立っているため、考古学者が発掘に当たる機会は少ない。

一帯は紀元前1800年ごろから居住が始まり、ヒッタイトの記録にも記されている。

ヤムハド王国の首都として栄え、その繁栄はヤムハドの支配者であったアムル人の王朝が紀元前1600年ごろ倒れるまで続いた。

アレッポは紀元前800年ごろまでヒッタイトの支配下におかれ、アッシリア帝国ペルシア帝国に支配された後、紀元前333年セレウコス朝によって古代ギリシア人の支配するところとなった。セレウコス1世はこの都市をベロエアと改称した。

セレウコス朝の支配は、紀元前64年にシリア地方がローマ帝国に征服されるまで続いた。

中世

旧市街のQinnasrin門。今日の姿はアイユーブ朝の時代に再建されたものである。

ベロエアはビザンティン帝国(東ローマ帝国)の一部であったが、アラブ人によって637年に征服された。10世紀944年モースルハムダーン朝に征服されその後モースルから独立するが、ビザンティン帝国を再興させたヨハネス1世ツィミスケスが遠征し、974年から987年の短期間、支配権を取り戻した。以後ふたたびハムダーン朝の支配下となったが、1004年王家断絶によりエジプトファーティマ朝に併合された。

1094年テュルク系のセルジューク朝がアレッポを征服した。そこから分かれたシリア・セルジューク朝がアレッポを支配していた頃に2度、1098年1124年十字軍に包囲されたが、陥落はしなかった。テュルク系の諸アタベク政権であるアルトゥク朝ザンギー朝の支配を経て1183年、街はエジプトにアイユーブ朝を開いたクルド人将軍サラディンの手により開城され、アイユーブ朝の支配が始まる。

モンゴル帝国フレグ1260年にアレッポを征服し破壊したが(アレッポ攻囲戦英語版)、フレグの創設したイルハン朝の後継争いの中、1317年に地元の領主が独立し、エジプトのマムルーク朝の影響下に入った。1517年、テュルク系のオスマン帝国セリム1世によりアレッポを含むシリア地方は征服されマムルーク朝も滅亡し、以後オスマン帝国の長い統治が始まった。1517年時点での人口は約5万人だった。

アレッポ周囲では地震が頻発しているが、1138年8月9日の大地震はとりわけアレッポとその周囲に壊滅的な被害を与えた。当時の記録による被害者数には全幅の信頼は置けないが、23万人以上の犠牲者が出たとみられ、世界地震史上でも4番目に犠牲者数の多い地震となっている。

近代

1912年のアレッポの地図。城の土塁が街の真中にある

アレッポはオスマン帝国の滅亡する第一次世界大戦直後までその支配下にあったが、それまでの間、都市内部の反乱が何度か起こったほか、伝染病の流行や1823年コレラ流行などで支配は不安定になった。1901年には都市人口は約12万5千人になった。
オスマン帝国滅亡後、オスマン領のシリア・パレスチナ地方はイギリスフランスで分割され、アレッポはフランス委任統治領シリアの一部となった。アレッポは植民地支配によって近代化したが、1938年から1939年に掛けてアンティオキア(現在のアンタキヤ)でトルコ共和国編入を求める運動が活発化しフランスも許可すると、内陸のアレッポは経済的に打撃を受けた。

アレッポは第二次世界大戦後近代的都市計画により計画都市へと変貌した。

1952年フランス人建築家都市計画家ボザールおよびパリ大学都市計画研究所の教授だったアンドレ・ギュトン(Andre Gutton)は、近代的な自動車交通に対応するよう、町並みを貫くように何本かの広い車道を計画した。

1970年代には、古い町の大部分が近代的なアパート街区建設のため破壊された。一方で再開発に反対する住民運動により、1977年には旧市街を分断する道路計画に変更が加えられた。残った市街地の保全が公私の資金で進み、1986年にはアレッポ市街は世界遺産に登録された[1]

シリア騒乱


2011年から続く内戦に端を発した政府軍と反体制派自由シリア軍)との対立は、2012年7月下旬にアレッポ市内にも拡大。一部では市街戦の様相を呈したため、市民の多くが市街地から避難を余儀なくされた[2]

2012年9月28日に政府軍と反体制派の戦闘によりスークにて火災が発生し、歴史的な店舗の大半は消失した[3]

2013年には市内においてアルカーイダ系組織のアル=ヌスラ戦線の活動が活発化。同年4月、同組織と政府側が大モスク(ウマイヤド・モスク)をめぐり攻防を行う中でミナレットが爆破された。また、モスクの宝物が盗まれる被害が出ている[4]

2014年以降も空爆などにより市街地が破壊され、多数の犠牲者が発生している[5]

経済

スーク(市場)の中
特産品のアレッポ石鹸英語版

古代からの交易都市として、アレッポにも印象的な「スーク (市)」と「ハーン(キャラバンサライ、隊商宿)」があり、その規模と豪華さは中東でも随一のものである。

街の主要な役割は交易であった。東西と南北の2本の重要な交易路の交差点に当たり、東南アジア中国インド、メソポタミアの物資を中継してアンタキヤラタキアなど地中海沿岸の諸港に送り、イタリア海洋都市に売るというレバント貿易で大きな収益を上げた。またアレッポは南300kmにあるダマスカスとも街道(険しい地中海沿いでなく、内陸のアンチレバノン山脈のふもとを通ることが多かった)でつながっていた。

この道は、エルサレムマッカ(メッカ)などへの巡礼路となり、エジプトアフリカ方面の産物もこの道を経てアレッポへ届いていた。

この交易はしばしば政治的な理由で中断されたが、ヨーロッパ人が喜望峰回りでインドへ向かう海路やエジプトから紅海を通る海路を開発するまでは繁栄し続けた。海路が主流となり陸路を使う東西交易が少なくなって以来、物資の中継は激減しアレッポは衰退を始め、主な輸出品は周囲の農村の作物を加工した農産品、小麦・綿・ピスタチオ・オリーブ、羊、オリーブオイルで作られた石鹸などに変わっていった。

建築物

アレッポの大モスク(ジャーミー・ハラブ・アル=カビール Jāmi‘ Halab al-Kabīr)。ウマイヤ朝の頃に建てられたのでアレッポのウマイヤド・モスクとも呼ばれる

アレッポには「マドラサ・ハラウィヤ」を含む数多くのモスクがある。マドラサ・ハラウィヤはもと6世紀に建てられたビザンティン建築の「聖ヘレナ大聖堂」の建物であり、もとはローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母で熱心なキリスト教徒であった聖ヘレナ洗礼者ヨハネの父、祭司ザカリアのものとされる墓の上に建てた教会である。

十字軍の戦争の頃、西洋人たちがアレッポ周辺の農村を略奪した際、アレッポの領主は聖ヘレナ大聖堂をモスクに変えてしまった。12世紀半ばにアレッポに本拠を置いたザンギー朝の王、ザンギーの息子であるヌールッディーンは熱心なイスラム教徒で、大聖堂の建物を取り巻くようにマドラサ(宗教大学)を創建した。

アレッポの大モスク(ジャーミー・ハラブ・アル=カビール)はもともとウマイヤ朝が建設したものだが、現在の建築物はやはりヌールッディーンが1158年に建てたもので、1260年モンゴル軍(フレグの軍)の侵入によって破壊されたが、その後再建された。

姉妹都市











転載元: 食品・心・土壌・水質・底質汚染

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