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Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
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[転載]アイヌとアテルイ

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 日本の特に東北地方には、古来アイヌ民族が住んでいた。狩猟を中心とするアニミズム信仰の人々で、部族単位の集団生活をしていたと言われている。そしてアイヌの居住地は、今の日本つまり東北や北海道に限らずに、もちろん方言程度の違いはあるものの、樺太や千島、さらには樺太や沿海州にも分布していて、そちらの方で靺鞨(まつかつ)や粛慎(みしはせ)と言ったツングース系の人々と接して、交易もしていたと言われている。
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アイヌの人々は従来から、主として形質学的分類に依り、むしろ九州の熊襲(くまそ)等の人々と近いのではないかと言われていた。一種のスプロール現象である。この点は、最近のDNA分析でも裏付けられつつある。DNA分析によると、アイヌや熊襲等の人々は「古モンゴロイド系」に分類され、まだ日本が大陸と陸続きであった2万年くらい前に日本に移住してきた民族だと言われている。

 

そしてその薄く広い分布の上に、4千年くらい前から「新モンゴロイド」と言われる人々が、稲作と鉄器と馬術と言う近代文明を携えて渡って来て、その高度な文明に依り支配階級となり数も増えていった。ちなみに古モンゴロイドとしては、チベット人とも親近性が高いことが知られている。なぜ彼らが共通かと言うと、彼らは狩猟や牧畜を主とするために山谷のような「辺境」の地に居住していたために、農耕を主とし平野を好む新モンゴロイドにとって代わられなかった点が挙げられる。

 

古モンゴロイドと新モンゴロイドのプロトタイプは下図のようで、古モンゴロイドの方が丸顔で毛深く、新モンゴロイドの方が面長で毛が薄いと言われている。ただし現在では混血が進んでいて、このようなプロトタイプでは見分けができず、究極的には「自分のことをアイヌだと認識している人々がアイヌ人」とするのが適切である。ただ、旧貴族階級に弥生人型の顔つきの人が多いのは目に付く。

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ではそのアイヌの人々はなぜ段々に北方に追いやられていったのか。そう言う行為が始まったのは大和朝廷が中央集権化した5~6世紀ごろに始まり、奈良時代から平安時代初期に著しい。このころは文献が少ない時代であるが、日本書記の最後の部分に多少の記述が見え始め、多くの記述は続日本紀や風土記等に残されている。但しあくまでもヤマト側から見た記述である。そして平安初期の征夷大将軍の坂上田村麻呂が特に突出して知られているために、あたかも「和人はアイヌを一撃で撃滅させた」かに見えてしまう。
 
だが実際は交易に始まり、稲作の伝播や仏教の伝播もあり、また平和裏の定住と和民化も多く、戦闘中心と言う訳でもなければ和人が連戦連勝だった訳でもなかった。また当時の東北は、「この線から先はアイヌの地」と単純に仕切られるものでなく、和人とアイヌがさもフラクタルのように交互しながらあるいは飛び地的に領地を占めていた。この辺の経緯は、米国の原住民いわゆるインデアンと征服民である欧州系とのやりとりと似ているところもある。
 
ただ結果として、和人とアイヌは拮抗並行していた訳ではなく、全般的に和人が支配地を広げていく歴史であった。そしてここには2つの要因が見て取れる。第1に文化の落差である。どうしても文明の高い方が攻めても勝ちやすいし、そう言う高い文化へのあこがれから自ら和人化する傾向もあった。そして第2に大和朝廷の拡張的性格である。大和朝廷が近畿地方に出来て以来、周辺民族は次々と彼らに従っていったが、それはアイヌだけでなく、出雲の国譲りもあるし関東東海地方も豪族がいつの間にか大和化して古墳を誇るようになっていった歴史がある。また、文化の高低であるが、本来は「アニミズムだから低い」と言うことは無いのであるが、ここは生産性や武器の強さの意味で言及している。
 
ではなぜヤマトがこれほどに拡張的であったのだろうか。そもそも拡張的性格があったからひたすら支配地域を広げていったのであり、もしなければより拡張性の高い民族に吸収されていたのであろうが、ここはやはり文化の差が大きいであろう。ヤマトには記紀神話と言う精巧な民族神話と、稲作や鉄器と言った固有文化、それに当時先進だった中国の諸制度や文化を取り入れようとする先取の精神があった。これらが全体としてヤマトを、拡大に意欲的な、好戦的征服的な民族としたのであろう。
 
ところで奈良時代に最も高揚して平安初期にほぼ目的を達成した、ヤマトによるアイヌの臣民化であるが、先ず、寒冷の地である東北地方をヤマトはなぜ執拗に欲したのであろうか。接触の最初はおそらく船による交易だっただろう。このころでも陸地よりは海上交通の方が普遍的であったのは、ヤマトタケルが進んだ古東海道が今と違って相模から安房に船で抜ける道であったことにも如実に表れている。船による交易で和人はアイヌから、昆布や海産物等を始めとする山海珍味を得ていた。だがその内に金鉱と砂鉄が見つかり更に良い馬を生産することが分かり、その現世利益は決定的になった。また、当時のヤマト朝廷は、現在の沿海州に勃興した渤海と定期的交流を持っており、東北はその渤海への窓口でもあった。
 
奈良時代にヤマトのアイヌに対する姿勢は、交易から次第に攻撃に移っていく。と言っても最初のうちはヤマトの連戦連敗であった。ヤマトは大人数の農民の徴用による大軍で攻めたが、所詮は寄せ集め部隊であり、地の利を知るアイヌの人々の遊撃戦に勝てなかった。ただアイヌの方も部族単位で民族全体としてのまとまりは薄いと言う弱点はあった。こうして奈良時代は終わり平安遷都になると、桓武天皇は平安京の威信を内外に示すためにも、アイヌ攻略に力を入れることとなり、猛将の坂上田村麻呂に大軍をつけて送った。
 
そしてそれ以前からヤマトを駆逐し最後に田村麻呂と対峙したのが、アイヌの英雄のアテルイである。アテルイについては高橋克彦さんの小説もあり、この小説を元にして2年前に大沢たかおさん主演でNHKの連続番組として放映されたので、知っている人も多いと思う。アイヌ部族をまとめて大連合を作り、ヤマトの理不尽な征服戦略に立ち向かった懐の深い人物である。ただアイヌは文字を持たなかったので、アテルイに関する記述は少ない上に、すべてヤマト側からの視点である。ここに素朴に暮らす人々の現代の世界標準における構造的不利がある。なお高橋さんの小説も、史実よりも多分に当時の文化を元にしたエピソードを挿入してある。
 
ただアテルイで不思議なのは、20年にもわたってヤマトと対峙してきたアテルイが、どうも田村麻呂とはあまり戦わずに、余裕のあるうちに投降していることだ。この点には色々な説があって、アイヌが長い戦いで相当に消耗していたとか、裏切り者が居て調略されたとか、果ては田村麻呂の人物に感じ入ったとの説もある。いずれにしろこの2英雄の対峙は、従来史では田村麻呂の圧勝のように書かれているが、実際は命を覚悟で投降したアテルイの方がよっぽど器が大きいと思う。そしてアテルイは都に移送され、田村麻呂は朝廷に彼の命乞いを上奏したが、受け入れられずにアテルイ達は斬刑に処せられてしまう。ヤマト中央の政争に巻き込まれた形である。
 
アイヌと和人の交流、これには難しい過去があるが、我々は一方的な皇国史観にイデオロギー的に流されることなく、自らの立場に於いて雄々しく立ちあがったアテルイやシャクシャインと言った人々を、敵ながらあっぱれと誉める余裕を持ちたいものだ。ちなみに帰朝後田村麻呂は清水寺を勧請したが、その敷地内にはアテルイの顕彰碑が立っている。
 

(注:新野直吉著「田村麻呂と阿弖流為」も参照しました)

 

転載元: アナログでいこうよ


[転載]コシャマインの戦いは、1457年に発生したアイヌと和人(渡党)の戦い。

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コシャマインの戦い   

コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌ和人渡党)の戦い。

概要

応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人(渡党)に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬[1]、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。

当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており(渡党道南十二館などを参照)、製鉄技術を持たなかったアイヌと製品などを交易していた。アイヌの男性[2]が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。

1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振鵡川から後志余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。
アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によって七重浜でコシャマイン父子がで射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある[3]

アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦いクナシリ・メナシの戦い)。

なお、1994年平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。

関連作品

長編叙事詩
  • 富原孝『クオンタインとシクフ』1984年

関連項目

外部リンク

転載元: 北海道に行きたいな

[転載]アイヌ民族のイベント

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http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-51-47/tocka_jikkoi/folder/1078838/04/55368104/img_2?20160927211036

■宇井眞紀子写真展
 『アイヌときどき日本人~首都圏に暮らすアイヌ民族』
 4月27日(日)~5月31日(土)11:00~23:30 無料
 於:日本外国特派員協会 メインバー・ギャラリー
 (東京都千代田区有楽町1-7-1 有楽町電気ビル北館20F)
 JR・地下鉄有楽町線「有楽町駅」より徒歩1分
 内容:写真集『アイヌときどき日本人』(社会評論社)の写真に最近の
 写真を加えて、今を生きる等身大のアイヌ民族の姿を伝えます。
 問合せ:日本外国特派員協会(TEL:03-3211-3161)
■6月7日(土)木彫りワークショップとコンサート
 「木の声を聞く ―アイヌの木彫りとトンコリの夕べ」
 木彫りワークショップ PM2:00~6:00まで
 ※講師/星野工、要予約12名まで、参加費/材料、道具代1.500円 
 トンコリコンサート PM6:30~8:00
 ※出演/千葉伸彦(トンコリ)、床絵美(唄、ムックリ)資料代500円
 主催/スペース・オルタ(TEL&FAX:045-472-6349)
 共催/コシャマイン慰霊祭事務局、「TOKYOアイヌ」映像製作委員会
  会場/SPACE ALTA
 TEL:045-472-6349〒222-0033 横浜市港北区新横浜2-8-4オルタナティブ生活館B1
■首都圏アイヌ民族文化祭
 開催日時: 6月8日(日) 開場11時 開演13時
        終演 18時半頃 (予定)
 場所: シアター1010 (北千住丸井11F)
 内容: 第1部- 講演・パネルディスカッション
     第2部- 古式舞踊・歌・ユーカラ・トンコリ など
     *その他 会場にてアイヌ刺繍作品・工芸品展示 ワークショップなど
 主催: アイヌウタリ連絡会
■『Shake Forward!2008』
”世界の子どもたちを救うチャリティイベント”ついに開催!
HipHopを通して社会の”痛み”を分かち合い、未来への”願いを言霊と音楽、
ダンスに込めて世界に向けてメッセージしよう。
今回出演するのはLOS KALIBRES、KP、BLENDZ、AINU REBELS、TENSAIS MC's。
いずれも今人気急増中の若手音楽ユニット!
彼らはそれぞれ日本の代表的なマイノリティグループの出身であり、
アイヌ、アフリカン、ブラジル、ペルー、コリアなどそれぞれ異なったルーツを持ち合わせたグループ!
日本の中にある”世界の縮図”である彼らが、国境の壁を越えて世界へメッセージする!
2008.06.08(SUN.)
川崎 CLUB CITTA’(クラブ チッタ)
Open 14:00(予定)
神奈川県川崎市川崎区小川町1-26
TEL:044-246-8888
■アイヌ、ジュマ、ビルマの先住民族とともに~首都圏のアイヌ、
 滞日外国人の中の先住民族との出会い2008~
 6月15日(日)14:00~17:30 参加費:800円
 於:明治学院大学白金キャンパス 本館2階1255教室
 (東京都港区白金台1-2-37)
 地下鉄白金台駅・白金高輪駅・高輪駅より各徒歩7分
 プログラム:AINU REBELSによるパフォーマンス、
 「ジュマ先住民族とジュマ・ネット」、
 「ビルマの先住民族・マイノリティから」
 ゾーミントゥー(在日ビルマロヒンギャ協会)ほか、
 「アイヌ民族から」長谷川修(アイヌウタリ連絡会)
 主催・連絡先:6.15イベント実行委員会
■先住民族アイヌからのメッセージ in 足立
 6月25日(水)~27日(金)9:00~17:00(最終日15:00まで) 無料
 於:足立区役所 アトリウムA・B
 (東京都足立区中央本町1-17-1 TEL:03-3880-5111)
 東武伊勢崎線梅島駅から徒歩約12分
 内容:アイヌ文様刺繍作品・首都圏のアイヌ民族の活動写真パネル展・
 東京イチャルパ・先住民族の国連権利宣言展
 解説係:アイヌウタリ連絡会 写真パネル協力:宇井眞紀子
 共催:アイヌウタリ連絡会、アイヌ・ラマット実行委員会
 後援:足立区教育委員会
 問合せ:
 アイヌ・ラマット実行委員会(午後6時以降 TEL:090-6012-0903)
■ 「先住民族サミット」
  先住民族から見た地球環境問題や権利回復とは――。そんなテーマを7月の
 北海道洞爺湖サミットに先立って話し合う「先住民族サミット アイヌモシリ
 2008」の準備が進んでいる。アイヌ民族や各国の先住民族が集まって権利
 尊重を求める宣言を採択し、主要国(G8)の首脳らに提言する予定だ。実行
 委員会は、国連が昨年、先住民族の権利に関する宣言を採択したことも追い風
 になると期待している。
  開催日は、7月7~9日の洞爺湖サミット直前の同月1~4日。アイヌ民族
 の伝統的な集落や山野が広がる日高支庁平取町の二風谷地区と札幌市が主会場
 だ。国連総会で、先祖伝来の土地の権利や民族自決権などを認める「先住民族
 の権利に関する宣言」が採択されたことを受け、自分たちの立場や発言をG8
 首脳に伝える狙いがある。
  参加する民族はまだ確定していないが、アイヌ民族のほか、国連で宣言に反
 対した4カ国(米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)やフィリ
 ピン、フィンランドなど約15カ国の約20人が参加する意向だという。
  権利に関しては、各国の現状報告に加え、国連の宣言に賛成していながらア
 イヌ民族を先住民族と認めていない日本政府の対応も話し合う。
  地球環境問題については「(自然と共生してきた)先住民族こそが環境異変
 の影響を受けてきた当事者」(実行委の秋辺日出男さん)という認識のもと、
 その共生の文化を生かすことなどを議論する。
■ 先住民族族サミット~コシャマイン慰霊祭へのお誘い
  今年7月、アイヌモシリ(北海道)の洞爺湖で開かれるG8サミット。
 「開発と環境」をテーマに、先進国のリーダーたちが一同に集います。
  これを受け、日本列島の北方先住民族=アイヌ民族と、彼ら彼女らに連
 なる市民たちが、先住民族サミットを開こうとしています。アイヌモシリ
 にやってくる世界の首脳たちをアイヌ民族が堂々と出迎え、世界の耳目集
 まる北海道から世界へ向け、メッセージを発信しようというのです。
  私たちコシャマイン慰霊祭も今年はこのサミットに連なり開催すること
 とします。国連による「国際先住民の10年」が始まった1993年から毎年、
 現在では7月第1週の土曜日と決め、平和への祈りを続けてきたコシャマイン
 慰霊祭。15世紀中葉、和人とアイヌ民族の初の総力戦といわれるこの戦いで
 失われた生きとして生けるもの全ての命の供養と平和への祈りを、アイヌ式
 の儀式(カムイノミ、イチャルパ)によって執り行ってきました。今年は先
 住民サミットへの参加も含め、慰霊祭へ向かうツアーを広く呼びかけます。
 7月1日~2日 9:30~ 二風谷においてのワークショップ(問合・島崎090-9431-3847)
 7月3日(木)13:00~17:00 札幌ピリカコタン(南区小金湯27)でまとめのワークショップ
 7月4日(金)13:30~17:00 札幌コンペンションセンターで全大会・「先住民族宣言」
       18:00~21:00 札幌コンペンションセンター 音楽祭・交流会
 7月5日(土)13:00~17:00 上の国町夷王山山頂にてコシャマイン慰霊祭
       18:00~21:00 江差町繁次郎番屋浦田沢浜にて交流会
 7月6日(日)早朝 クンナノイノミの後、解散(バスにて札幌新千歳空港へ)
 サミット~コシャマインツアー(問合わせFAX:045-472-6349、スペース・オルタ佐藤)
 コシャマイン事務局 平田篤志(自宅TEL&FAX:045-231-2458)
■2008国際先住民の日記念事業「アイヌ民族サミット」
 7月5日(土)前夜祭(時間未定)・6日(日)10:00~15:00 入場料:無料
 於:サッポロピリカコタン(札幌市南区小金湯27)
 内容:分科会/(1)アイヌ文化振興法について、
 (2)先住民族の権利に関する国連宣言について、
 (3)教育・労働問題について、
 全体会/分科会まとめ・組織の全国化について、
 アイヌ古式舞踊公演 出席者:全国のアイヌ関係団体・関係NGO等から
 主催・問合せ:社団法人北海道ウタリ協会
 (TEL:011-221-0462、FAX:011-221-0672)
■オルタナティブ・サミット
 7月6日(日)~8日(火)
 於:札幌コンベンションセンター(札幌市白石区東札幌6条1丁目)
 内容:G8サミットとは違う市民の意見をアピールする場として、
 シンポジウム、「環境」「平和・人権」「開発・貧困」のテーマ別の分科会、
 ワークショップ、セミナーなど開催。なお、G8サミット前にはG8サミット
 NGOフォーラム(事務所・東京)やG8サミット市民フォーラム北海道(事務所・札幌)
 の加盟団体がさまざまなイベントを行う。
 共催:G8サミットNGOフォーラム、G8サミット市民フォーラム北海道
↑いっぱいある(^^;

転載元: ロシア・CIS・チェチェン

[転載]【宮崎県 日向市】小学校教諭・黒木明(46)毎日新聞に虚偽記事書かせる

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【宮崎県 日向市】小学校教諭・黒木明(46)

毎日新聞に虚偽記事書かせる


(産経 2015.3.30 09:30)
 
 コンビニで購入したおにぎりに
銀歯が混入していたと
新聞記者に嘘を言って報道させ、
店の信用を傷つけたとして、

宮崎県警は29日、
信用棄損(きそん)の疑いで、
★ 小学校教諭 黒木明 容疑者(46)
(宮崎県 日向市)
を逮捕した。

 日向署や市教委にも同様の相談を行っていたが、
県警が調べたところ黒木容疑者が過去に
歯を治療した際の詰め物と判明した。

(サンケイスポーツ)

 黒木容疑者の逮捕容疑は2月25日、
自宅に呼び寄せた毎日新聞の記者に対し、
日向市内のコンビニで購入したおにぎりを食べたときに
銀歯が出てきたと嘘を言い、
翌26日付朝刊で報道させ店を中傷した疑い。

 県警によると、黒木容疑者は
日向署にも同様の内容を電話で相談。
「自分のものではない」と明言していたが、
県警が調べた結果、
容疑者が過去に歯を治療した際の詰め物と判明。

 県警は黒木容疑者と店の間のトラブルなどは
把握していないとしており、
動機などについて調べる。

 また同店関係者も
「過去にトラブルなどはない」と話した。

 事件が起きる前の今年1月には、
マクドナルドでポテトへの人の歯の混入が判明したほか、
スーパーで菓子につまようじを入れる動画を公開した少年(19)が
逮捕されるなど、
食品への異物混入が社会問題化していた。

 黒木容疑者の“情報提供”を受けた毎日新聞は、
2月26日に「『セブンイレブン日向南町店』で販売されたおにぎりから、
歯の詰め物のような金属製の異物が出たことが分かった」とする
記事を掲載。
 黒木容疑者の
「多くの人が購入する店舗で混入などがあっては困る」
などのコメントも紹介していた。

 毎日新聞西部本社代表室は
「取材を尽くしたが、新たな事実が判明し、
関係者にご迷惑をかけたことをおわびします。
今後取材はいっそう精査し、
慎重を期します」
とのコメントを発表した。

 黒木容疑者は当時、
毎日新聞や警察だけではなく
● 日向市教育委員会にも報告していた。(?)

 市教委によると約1年前に
宮崎県内の他校から赴任したが、
● 病気で休みがちだったという。

転載元: アッチョンブリケ総研

標津遺跡群の最大の特徴は、現在の地表面から数千年も昔の竪穴住居跡が窪みとして確認でき、しかもその数が日本最大の規模を誇ることである

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標津遺跡群


 
標津遺跡群(しべついせきぐん)は、北海道標津郡標津町字標津に所在する擦文文化オホーツク文化の集落跡を代表する広域的な遺跡群である。伊茶仁カリカリウス遺跡、古道遺跡、三本木遺跡の3つの遺跡と、伊茶仁川沿いに残された国指定級の遺跡群から成っており、最大の特徴は、現在の地表面から数千年も昔の竪穴住居跡が窪みとして確認でき、しかもその数が日本最大の規模を誇ることである[1] 

標津遺跡群(標津町歴史民俗資料館)

遺跡

ポー川史跡自然公園案内図

伊茶仁カリカリウス遺跡

  • 伊茶仁カリカリウス遺跡位置)(いちゃにカリカリウスいせき)は、ポー川伊茶仁川に挟まれた標高20メートルの台地に位置する。1200あまりの竪穴住居跡が台地縁辺部で観察され、ここでは擦文文化の竪穴住居の構造が明らかにされている。1979年(昭和54年)5月22日史跡に指定される[2][3]
天然記念物[[[標津湿原]]と合わせて542haの指定地と標津町歴史民俗資料館縄文時代からの竪穴住居跡群などのポー川史跡自然公園として整備されている[4] 

古道遺跡

古道遺跡(標津古墳群)
  • 古道遺跡位置)は、標津川の流域の標高8メートルの左岸段丘に立地し、擦文時代を中心とする219の竪穴住居跡とコの字形の面崖式チャシからなり、1976年(昭和51年)6月21日史跡に指定される[2][3]。現在の標津川河口から約4km上流の左岸に位置し、標高12mほどの台地の上に、縄文~続縄文時代のものと思われる円・楕円形の竪穴住居跡のくぼみ52軒と、擦文時代の方形のくぼみ160軒が確認されている[5] 

三本木遺跡

三本木遺跡(標津遺跡群)
  • 三本木遺跡位置)は、標津川の左岸に発達した海岸砂丘上に立地するオホーツク文化期の五角形ないし六角形の21軒分の竪穴住居跡が地表から観察され、下層に続縄文文化の遺構の存在が確認された。1989年(平成元年)10月22日史跡に指定される[2][3]。標津川左岸の蛇行河川跡に面した標高3mほどの海岸砂丘上に、21軒以上の竪穴住居跡くぼみが確認されている[6] 




歴史・文化・史跡 - 標津町
 
標津町 / ジャンル - 国指定史跡

標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡古道遺跡三本木遺跡
(ポー川史跡自然公園)


 
 標津町ポー川史跡自然公園              堅穴 
 標津町ポー川史跡自然公園 
 
標津遺跡群は、国指定史跡である伊茶仁カリカリウス遺跡、古道遺跡、三本木遺跡の3つの遺跡と、伊茶仁川沿いに残された国指定級の遺跡群から成っている。標津遺跡群の最大の特徴は、現在の地表面から数千年も昔の竪穴住居跡が窪みとして確認でき、しかもその数が日本最大の規模を誇ることである。現在、同様の遺跡である北見市常呂遺跡群と共に、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」として世界遺産候補に位置づけられている。
標津遺跡群の内、伊茶仁カリカリウス遺跡は、ポー川史跡自然公園内で保存整備され、その出土品と共に一般公開されている。

 
詳細情報
 
名称ジャンル所在地・住所開館時間休館日・定休日入場料金駐車場ホームページ
標津遺跡群伊茶仁カリカリウス遺跡古道遺跡三本木遺跡
(ポー川史跡自然公園)
国指定史跡
標津郡標津町伊茶仁ポー川史跡自然公園
9:00 - 17:00(入園は16:30まで)
11月24日 - 4月28日
一般 310円/高校・大学生 100円/小・中学生 無料
20名以上の団体は半額
有り  ( 50台)
http://www.shibetsutown.jp/pog...
 
管理団体・お問合せ先名称所在地・住所電話番号
ポー川史跡自然公園
標津郡標津町伊茶仁
0153-82-3674
広域地図
 
周辺地図
>> 広域地図を表示(GoogleMap)

オホーツク文化

   
  オホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。

  海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人コリヤーク人との近似性が示されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化擦文文化とは異質の文化である。

 なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。

時代と分布

オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。中期は7世紀から8世紀で、活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。9世紀から10世紀の後期には、土器の様相が各地で異なる。終末期の11世紀から13世紀には土器の地域的な差違がさらに明確化する。
9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した。樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。

生活

オホーツク人は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点があった。流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられている。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われた。アザラシオットセイトドアシカなどの海獣も冬に得られた。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかった。遺物に描かれた絵[1]や船の土製の模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっている。
また、弥生時代以降の本州と同様に家畜であるを飼い、どちらも食用にしていた。道東では豚飼育は低調だった。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩った。そこでは毛皮獣の比重が高く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられている。
集落は海岸のそばに置かれた。住居は竪穴式で、何十人も収容できる大型の住居と、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居があった。大規模住居は中心集落で見られる。オホーツク人は、秋から春までは中心集落に住んで共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散したと考えられている。住居の一部に動物の骨を並べる風習があった。並べられた動物は様々だが、特に熊が重要視されていた。熊の重視は、道具類の意匠にも見られる特徴である。
道具としては、オホーツク式土器、石器骨角器木器がみられる。本州からの交易で入手した蕨手刀が副葬品として見つかっているが、実用品として普及するほどの数はなかったらしい。実用品の装飾に動物の意匠を用いたほか、牙や骨で作った動物や女性の像が作られた。
死者は基本的に屈葬された。しかし、目梨泊遺跡の人々は伸展葬の伝統を持ち続けた。

起源と末裔

オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている[2]
オホーツク人の系統については、少ない文献と考古学的証拠をてがかりに古くから論議を呼んできた。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である(外部リンク参照)。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。[3]
オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている[4]

オホーツク人の遺伝子

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[5][6]
近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[7]。アイヌ民族は縄文人和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。

文献史料

日本書紀には、7世紀阿倍比羅夫が遠征の航海の途上、大河の河口で蝦夷粛慎の交戦を知り、幣賄弁島(奥尻島とも言われる)で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とするのは、分布域と航海能力からいって無理がない解釈であるが、確証はない。

主な遺跡




[転載]北海道車中泊の旅2014 27日目 サンゴ草、ワッカ原生花園、キムアネップキャンプ場泊

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829日(金)

昨夜は12時頃に一度トイレに行った。出てくるとちょうど道の駅・しゃりへパトカーが見回りに来ていたが、特に反応せずに帰って行った。

 

6時起床、快晴だ。

朝食は道の駅・しゃりの駐車場が狭いのでよその駐車場へ移動して摂った。

 

食後すぐに出発して小清水原生花園を散策後網走でガソリンを補給した。単価は166.8円だ、カンバンは164.8円だったかな、会員価格のおとりカンバンに引っかかったみたいだ。その後朝日ヶ丘展望台に寄って能取湖畔に出た。その間、道道248、道道104、道道591を通ってR238に出た。これらの北海道道からの眺めはなかなかのものだった。

R238の能取駐車場からはサンゴ草の紅葉が見えた。もう赤くなっているのだ。

  
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釧網本線小清水原生花園駅を発車    小清水原生花園の海岸


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網走・旭が丘展望台への道から        能取湖畔駐車場のサンゴ草


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R238を能取PAの少し行ったところからショートカットしたところの風景

 

サロマ湖畔のワッカ原生花園には11時過ぎに到着した。

今年も徒歩で第二湖口まで往復した。歩数は約13500歩だった。咲いていた花はアキカラマツ、ヤナギタンポポ、紅白ノコギリソウ、エゾフウロ、ツリガネニンジン、ムラサキベンケイソウ、エゾカワラナデシコ、クサフジ、ハマボッス、ハマニガナなどだ。約3時間半も歩いた。野鳥はノビタキくらいかな。

 
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ワッカ原生花園ネイチャーセンター          アキカラマツ

  

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ヤナギタンポポ                ハマボッス


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ハマニガナ          サロマ湖第二湖口に新しい橋を建設中


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サロマ湖

 

今日はキムアネップ岬キャンプ場で泊まるが、その前にチョット寄り道してキムアネップ岬サンゴ草群生地に行ってみた。ここもキレイに紅葉していた。

このキャンプ場は相変わらず蚊が多い。新作のテールドアを覆う蚊帳も、隙間があってかなりの蚊が侵入してきた。まあ無いよりはましだが。

 
イメージ イメージ サロマ湖キムアネップ岬サンゴ草群生地      テールドア用手作り蚊帳
 

夕食はこの春石垣島で買ってきたスパムを焼いてビールと食べ、その後スパゲッティーを作った。

 

北海道で出会ったライダー達が日時と場所を決めてここで落ち合った模様、全国のバイクが集まったといっては大げさかな。夕食後10時半過ぎまで彼らの宴会が続いた。何故かテントを駐車場に張っておしゃべりだ。我車のすぐ横だから寝られなかった。あまり腹は立たなかったが・・・いい迷惑だ。

 

東京では国内で蚊に刺されてデング熱を発症したとの報。

西アフリカでのエボラ出血熱は未だおさまらずに猛威をふるっているとの報。

 

総走行距離 3477km

 

転載元: denyaのあそび

[転載]能登半島

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9/17~19能登半島に行きました。
16日の夜新幹線で長岡まで行き営業部隊Oさんにピックアップしていただき一路能登半島、能登島へ。
夜中の3時頃到着。即就寝。
17日8時にそわじ出発、富来町歌仙橋9時集合、総勢8名。今日はナベさんガイドツーリング。
車のデポなど準備して歌仙橋サーフ波の中を11時頃出発。うねりが結構入っている。
高岩岬、海士崎を越え小一時間ひたすら漕ぐ。小窪でお昼休憩。ここまでは訓練の区間ということ。
この後が能登金剛のハイライト。
玄徳岩の裏にまわるとそこには大きな柱状節理と呼ばれる形状の奇岩の入り江。
その後義経の舟隠しと呼ばれる狭い入り江、高めの波が奥に向かって入っていて、なべさんがスススっと入って行った。ここホントに?と思いながら波に押され入って行く。
みんな無事入って、出ていけた。
ヤセの断崖(自殺の名所)、関野鼻を越えると(うねりの中に越前クラゲが何匹も)赤い岩肌がみえた。ここが今日のゴール赤神。崖にカヤックをあげ撤収。
18日は朝の天気予報だと風が強いということで、ゴール地点の上大沢に行ってみる。
午後から風が落ちるのを期待しつつお昼ご飯を食べたりして待っていたけれど、海上の白兎の数は増え
ている。ちょっとだけ出てみるか、で出てみたけれど方向修正もままならない強風で20分ほどで戻る事に。ここにいてもしょうがないので、そわじに戻りイルカウォッチングに。
そわじから出てすぐの入り江がウォッチングポイント。
イルカちゃんたちはすぐに姿をみせてくれ、それから後はひたすらどこにでるかわからない彼等の姿をひたすら追いかけたりきょろきょろ海面を眺めたり。急に間近に現れたときはビックリして「わあ!」なんて声をあげてしまった。
この日は中秋の名月で夕食後みんなでナイトパドリングにでた。
雲が多く月はあまりきれいに見えなかったし、夜光虫も海蛍も少なくて残念だったが、静かな暗い海面に浮んでるだけで幸せな感じがした。
19日は昨日玉砕した上大沢からスタート。
うねりが入っていたけれど追い波でスイスイ進む。アタケ岬、鰐が淵、瀬が岬、十畳敷、三ツ岩岬を越えお昼ご飯。お楽しみのゾウゾウ鼻はどんなかな?と楽しみにしていたら既に越えていた様子。
牡蛎島、竜ヶ崎、だるま瀬を越えるともうゴールの輪島の袖が浜。
もうちょっと漕ぎたいので大蛇礁を越えて袖が浜の裏に回り込んで休憩し、袖が浜に戻る。
車の回収を待ちつつ撤収作業。
この後、カヌーアイランドさんに寄り少し買いものをして温泉に入って七尾でご飯を食べ、Kさんに高岡まで送っていただき、夜行バスで帰京。

転載元: 海山日記

[転載]能登半島


[転載]能登半島

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2005年10月10日
能登半島へ行ってきた。
半島一周が今回の目的。

とりあえず、2,3箇所行きたいところを決めて、あとはついでに立ち寄ることにした。

まずは千里浜・・・素通り・・・
気持ちのいい道だったので、そのまま運転したかったから^^

途中、休憩を取りながら気多大社へ。
初詣だった。
おみくじは・・・末吉。よかった、今年もあと少しだ^^;

白米の千枚田は、道の駅を兼ねている。
あいにく、天気は曇り。
水が冷たそうだった。

窓岩というところに立ち寄った。
なるほど、岩に穴があいている◎◎

最先端、禄剛埼灯台に着いた。
灯台までの坂道が少しきつかった。
さすがに、ここまで来たって感じだ。

後は、反対側を通って帰るだけだ。

途中、恋路海岸に立ち寄った。
んー、一人で立ち寄るには・・・
おまけに、歳食ってるし・・・

走行距離481.5km。
日帰りドライブとしては適当な距離か。
でも、たまにはのんびりするのもいいかも知れない。

今度は、ピンポイントで行きたいかな。
温泉にも入りたかったし。

転載元: 風に吹かれて

[転載]能登半島

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今日は能登半島へ行く。半島の外側の「外浦」を回る。外浦は 内浦の海岸と違い、断崖絶壁が多い男性的な姿を見せる。ずっと海沿いに車を走らせて、途中菊桜で知られる阿岸本誓寺へ行き、それから輪島市方面から 30年前に人に知られるようになった自然が作った奇勝の「千体地蔵」へ行く。能登の荒々しい面をみれて良かった。

転載元: 日々関心 音楽ネタを中心に

[転載]能登半島

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雨晴海岸から見た能登半島方向ですヨ(~_~)

たぶん氷見か七尾の大泊鼻の辺りじゃないかと思います(^^♪

今年は久しぶりに能登半島の先端(珠洲)まで行ってみたいですネ!

転載元: kissの森

[転載]能登半島

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2日目は能登半島をぐるりと1周する。

結果的には、最奥の珠洲(すず)までは行けたが、西側沿岸のほうは走れなかった。

能登は思ったよりも広い。地図で確認すると、伊豆半島よりでかい。

そりゃ1日で1周するのは厳しいですね。。。

写真は、きときと寿司 氷見本店、輪島、珠洲です。

輪島から珠洲に抜ける日本海沿岸の道は最高に走りがいがある道でした。

ちなみに、今日も、昼食はきときと寿司 氷見本店、夕食は大喜。

きときと寿司は今日もうまかった。

転載元: 08GWツーリング

[転載]台北

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中正紀念堂と故宮博物院。

蒋介石を祀る記念館、ドでかい!
本省人からは嫌われていたようですが、国民党が政権を握っていた2000年ごろまではおおっぴらな批判は出来なかったらしい。
故宮博物院の展示品は、蒋介石が行きがけの駄賃に、ドサッと紫禁城から持ち去ってきたそうで、本場故宮博物館よりも充実しているそうです。
時間がなかったのと工事中で全部展示されていなかったので、あんまり多くはお目にかかれなかったが。
正直のところ、紫禁城を見物した時の方が、そのスケールに圧倒されたような気がした。

台湾の都市を巡って驚いたのは、スクーターの数が半端じゃない事。
ワラワラと蟻ン子のように湧いてくる。
それも、2人乗りは当たり前、若夫婦の運転席の前に幼子一人、後ろに乗った母親がも一人を片腕に抱えてあやしながら乗っている。計4人・・・馴れたものである。
ステップに犬を乗せている家族もいた。
しかもわれ勝ちにと割り込んでくるから、もたもたしているといつまでも待たされることになる。
お先にどうぞなどという謙譲の精神は通用しない・・早いが勝ちなのである。

日本はまだまだお行儀が良いと、つくづく思わされた。

台北ー高雄の新幹線工事も進み、試運転の段階に入っているそうで、これも日本の技術に預かる事、大だそうです。

ちなみに、花蓮から台北の列車の旅は、車内もゆったりとしており、何だかのんびりした気分に浸れて良かったな。
可愛いバッグに入ったお弁当箱(台湾では便當という)も、使い捨てではないので、後々重宝しそうです。

近年の台湾の事情↓
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/paper/heijin.html

転載元: 行雲流水に心を委ね

[転載]台北

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確かここは孔子廊・・・だったハズ。
すでに記憶が薄れつつある・・。

(こんなんじゃ観光してきたっていえない!!)

この日は近くの小学生たちが集まり、演舞の練習をしていました。
後日の祭典で披露するそうです。

建物を見学していると、
「写真撮ってあげるよ~」と流暢な日本語でおじいちゃんが話しかけてきました。
友人がカメラを渡すと、「この設定じゃ逆光になってだめ、強制フラッシュにして!」といわれました。
さすがに何枚も写真を撮っているせいかとても手馴れた様子。
アングルもばっちりでした!!

転載元: ★★カワチャキのボヤキ★★

[転載]台北

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行ってまいりました。台北へ。
さぞかし暖かいんやろなーと思とったら
あらあらビックリ。寒いです。
現地人もフツーにマフラーとかしとるのだ。

飛行機が苦手なさちんは飛び立つやいなや
ビールを2缶あけ、アルコールのちからをお借りして
「チャーリーとチョコレート工場」を見だしてから、5分で眠りにつきました。

【故博物館】
気の遠くなるような細かい象牙の彫刻がたくさんあった。
なんでも、一人じゃ彫りきれず何代にもわたって彫るそうな。
そーゆーのが好きなさちんは 目をくりくりしながら見物したのだ。
ちなみにここのカフェのコーヒーはマズすぎ。

転載元: Sacchinn Blog


[転載]【重要証言】「日本の台湾統治はこんなに素晴らしかった」

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【重要証言】「日本の台湾統治はこんなに素晴らしかった」



台湾総督府

   
たいわんそうとくふ
台湾総督府
臺灣總督府役職総督組織内部部局 所属官署概要 所在地 設置 廃止
大日本帝国の旗大日本帝国の行政官庁
Hat badge of Government-General of Taiwan.jpg
Presidential Building, Taiwan (0750).JPG
現在も中華民国総統府として
使用されている旧台湾総督府庁舎
樺山資紀(初代)
児玉源太郎(第4代)
明石元二郎(第7代)
安藤利吉(第19代/最後)

総督官房 · 文教局 ·財務局 ·鉱工局 ·農商局 ·警務局 ·外事部 ·法務部
法院 · 供託局 ·交通局 ·港務局 ·専売局 ·気象台
      (昭和20/1945年当時のもの)

台北州台北市
明治28年(1895年)6月17日
昭和20年(1945年)10月25日
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  台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体臺灣總督府)は、日清戦争の結果清国から割譲された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁
台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、今日でも中華民国総統府として使用されている。

概略

 台湾総督府は、明治28年(1895年) の馬関条約締結から昭和20年(1945年) の日本の降伏まで台湾を統治した。台湾総督は「土皇帝」と呼ばれるほど台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持った。
 後に軍の指揮権が台湾軍司令官に移管されたことにより、文官の総督就任が可能となった。
ただし台湾総督は内閣総理大臣の、さらにのちには内務大臣拓務大臣などの指揮監督を受けることになっており、宮中席次でも朝鮮総督が第6位なのに対して台湾総督は親任官として第11位と、陸海軍大将や枢密顧問官よりも地位が低かった。

 初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。児玉源太郎総督の下で明治31年(1898年)に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。

台湾総督

沿革

 明治28年(1895年)5月10日に樺山資紀が初代総督に任命されて同年6月17日に台湾総督府が開庁してから、第二次世界大戦敗戦後の昭和20年(1945年)10月25日に最後の総督だった安藤利吉が中華民国との間に降伏文書を交わしてこれが廃止されるまでの50年間に、台湾総督には19名の武官文官が任命されている。
 在任の最長は第5代総督・佐久間左馬太の9年1か月、最短は第15代総督・南弘の2か月で、在任の平均はおよそ2年半となっている。これらの総督は一般にその出身母体から、前期武官総督、文官総督、後期武官総督の3種類に分類されている。

前期武官総督の時代

台湾総督之印(明治28/1896年作成)

 初期の台湾統治は、現地居住民の抵抗運動を抑圧する必要性から、軍事力を前面に打ち出した強硬な姿勢で行われた。この頃の総督には行政権と司法権、そして台湾駐屯の陸海軍の指揮権はもとより、六三法によって特別立法権までもが付与されており、この統治四権を一手に握る総督の権限は絶大なものだった。

 こうした事情から、この時代の総督に任命された樺山資紀桂太郎乃木希典児玉源太郎佐久間左馬太安東貞美明石元二郎の7名はいずれも現役の大将または中将で、初代総督の樺山を除いてそのすべてが陸軍出身者で占められている。しかもその樺山の時代には台湾副総督という、彼の在任中の一時期のみに置かれた職があり、陸軍中将の高島鞆之助がこれに任じられていた。

 そうした中で、第4代総督の児玉の頃から変化があらわれはじめる。長期にわたり総督として腰を据え、体系的な政策を必要に応じて展開、いわゆる「飴と鞭」の硬軟を使い分ける方針で台湾を包括的に支配することに成果を上げ、統治に安定がもたらされたのである。
 第6代総督の安東と第7代総督の明石は特に現地居住民の権益を保護する政策を実施したことで知られる。総督在任のまま死去した明石は、その任期こそ1年5か月にも満たない短いものだったが、遺言により台湾に墓地が築かれた唯一の総督でもある。

文官総督の時代

台湾総督府に行啓した摂政宮(後の昭和天皇)を歓迎する総督府の儀仗騎兵隊(大正12/1923年4月)

 その明石が総督のとき、総督の下にあった台湾軍の指揮権を台湾軍司令官に移譲したため、以後台湾では文官でも総督になることが可能になった。

 文官総督時代には、田健治郎内田嘉吉伊沢多喜男上山満之進川村竹治石塚英蔵太田政弘南弘中川健蔵の9名が総督に任命されている。いずれも内務省逓信省農商務省などの高級官僚や外地の民政担当官を経て貴族院議員に勅任された勅選議員で、その時々に政権を担当していた政党の推薦を受けて任命された。
 台湾の統治方式が抗日運動の鎮圧から経済の構築による社会の安定に転換したのがこの時期にあたる。

後期武官総督の時代

 二・二六事件は陸軍の青年将校が起したものだったが、事件後の綱紀粛正の名のもとに海軍からも大将2名を予備役に編入することになった。
 この貧乏くじを引いたのが連合艦隊司令長官を退任したばかりの小林躋造海軍大将で、その処遇のために彼を台湾総督にしたのは当時の新聞が「異例中の異例人事」と評するほどの驚愕人事だった。

陳儀台湾省行政長官(右)と降伏文書を交わす第10方面軍参謀長諫山春樹(左)(昭和20/1945年10月)

 小林は在任4年半の間に現地人の皇民化政策を推進したが、ちょうどこの頃に海軍の南進策が国策として固まったことから、次の台湾総督も海軍出身者をということになり、長谷川清海軍大将がこれに決まった。
 この長谷川もそろそろ予備役に編入されておかしくない年齢だったが、台湾の軍事拠点化を推進するという建前もあって現役のまま総督に就任、ここに武官総督が復活することになった。
 ただし台湾軍の指揮権は依然として台湾軍司令官のもとに、後にはこれを改編した第10方面軍司令官のもとにあり、長谷川は武官総督といってもその性格は前期のそれとは大きく様相を異にするものだった。

 ところが太平洋戦争で日本の敗色が濃くなった昭和19年(1944年)暮、人材の不足や台湾決戦を想定して指揮系統を一本化するという名目のもと、第10方面軍司令官の安藤利吉陸軍大将に台湾総督を「兼任」させられると、前期総督と同等の強大な権限を持つに至った。
 一方で台湾人にも帝国議会の選挙権や被選挙権が与えられるなど、日本人との台湾人の関係対等化も進んだものの、翌年の終戦によって、台湾総督府も閉鎖機関に指定され、解体されることになり、昭和20年(1945年)10月25日、台北公会堂で安藤は陳儀中華民国台湾省行政長官との間に降伏文書を交わし、半世紀にわたった台湾総督府の歴史に幕を引いた。

総督一覧

 以下表中、爵位と階級はいずれも台湾総督に着任当時のものをあげ、在任中に授爵・陞爵や進級があった場合はその概略を備考にあげた。なお前職・後職の列にある「台湾」は「台湾総督府」を、「朝鮮」は「朝鮮総督府」を、「関東」は「関東都督府」を、「横鎮」は「横須賀鎮守府」を、「阪鎮」は「大阪鎮台」を、「満鉄」は「南満州鉄道」をそれぞれ示す。また代の列の着色はそれぞれ、前期武官総督 / 文官総督 / 後期武官総督を示す。



日本統治時代 (台湾)   

大日本帝国(台湾)
大日本帝国
台湾民主国1895年 - 1945年中華民国
日本の国旗日本の国章
国旗国章
国歌: 君が代
日本の位置
公用語首都通貨
日本語国語
東京府台北市(総督府所在地)
元首
1895年 - 1912年 1912年 - 1926年 1926年 - 1945年
明治天皇
大正天皇
昭和天皇
総督
1895年 - 1896年 1944年 - 1945年
樺山資紀(初代)
安藤利吉(末代、第19代)
面積
35,961.21km²
人口
1905年 1920年 1930年 1933年推計 1940年
3,039,751人
3,655,308人
4,592,537人
4,600,000人
5,872,084人
変遷
清朝より割譲中華民国により接収
1895年4月17日
1945年10月25日
zh:台湾銀行券

 台湾日本統治時代(にほんとうちじだい)は、日清戦争の結果下関条約によって台湾が朝(当時の中国)から日本[1]に割譲された1895年明治28年、光緒21年)4月17日から、第二次世界大戦の結果ポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に編入された1945年昭和20年、民国34年)10月25日までの時代である。

 中華民国の行政院では、2013年に公文書の表記を「日據」に統一する方針を発表したが[2]、一方で「日據」と表記した教科書が、教育部が策定した学習指導要領に合わないという理由で出版が許可されず、交渉の結果、「日據」「日治」を併記する方向で調整されるなど、すべての省庁間で、表記に対する統一見解は出されていない状態にある[3]
 なお、台湾の教科書については。また、この「日據」「日治」表記は、違いがあまり意識されない場合もあり、民間の新聞記事などでは、1つの記事中で2つの単語が混在している時もある[4]


沿革

台湾の歴史参考 その他台湾に関する記事
台湾の歴史
台湾史年表
先史時代
オランダ統治時代 (1624-1662)
鄭氏政権 (1662-1683)
清朝統治時代 (1683-1895)
台湾民主国 (1895)
日本統治時代 (1895-1945)
中華民国 (1945-現在)
政治史
経済史
文化史
社会史
教育史
メディア史
軍事史
交通史
両岸関係史
台北の歴史
高雄の歴史
台湾古跡一覧
遺跡
中国の歴史
中華民国の歴史
文化 - 経済 - 地理
政治 - 教育 - 軍事
人口 - 言語 - 交通

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統治初期の政策

後藤新平

 日本統治の初期段階は1895年5月から1915年西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場した[5]。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当した。

 1898年児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚だった後藤新平民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義を採用することとなった[6]

 日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。これは英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。
 当時ドイツ科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から、文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると考えていた。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針を採った。

 これに対し原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張した。

 1898年から1906年にかけて民政長官を務めた後藤は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施した。この間、台湾総督は六三法により「特別立法権」が授権され、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となっていた。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与した。

 また、当時流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功した(阿片漸禁策)。

 そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を過大評価することは植民地統治の正当とする意見、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させた、。



イメージ

内地延長主義時期(1915年-1937年)

六三法条文

 日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年

転載元: 文化財を大切にしましょう。歴史を学び未来に活かしましょう

[転載]高雄歴史博物館

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愛河のほとりにある高雄歴史博物館。
実はこの建物、日本統治時代に日本人によって立てられたもので、昔は高雄市役所でした。
建物の外観、どこか懐かしい感じです。
今は市の歴史博物館になっていて、中には、日本統治時代からの歴史について展示されています。
高雄港や高雄の道路や鉄道、その基礎は日本統治時代に作られたようです。

転載元: 台湾高雄市在住5年

[転載]城市光廊

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中山路と中華路の間の五福路沿いには、城市光廊というちょっとした憩いの場があり、夕方から夜にかけて人が集まってきます。
写真は昼間とりましたが、暑いのであまり人がいません。
コーヒーショップが2軒ぐらい、あとちょっとした公園などがあり、夜はライトアップされます。
近くは伊勢丹デパート、大統百貨、新堀江商店街などがあり、高雄でもっともにぎやかな場所のひとつです。

転載元: 台湾高雄市在住5年

[転載]高雄の景色-85階建てビルから

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高雄には、ひときわ目立つ85階建ての高いビルがあります。台北101ができるまでは台湾で一番高かったビルです。
その展望台からは、高雄港、高雄の市街地を一望することができます。写真は窓越しに撮ってるのであまり写りはよくありませんが、実際見るとかなりいい景色です。
展望階にはレストランがあり、昼はコーヒーが飲めるのですが、腰掛けるソファが大変気持ちよく、人が非常に少なくガラ~ンとして静かなので、私は結構気に入っています。
ぼ~っと外を眺めてるだけで満足です。

転載元: 台湾高雄市在住5年

[転載]寿山の登山道

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今日は休みなので、外を散歩してみました。
寿山の方へ向かって歩いていき、山の方にたどり着くと「登山口」の看板。
「おおっ、登ってみるかぁ」と思い、登って行ったのですが、人も道標も何もないので、怖くなって途中で降りて来ました。
3年ほど前、寿山に登って下りる途中に3時間ぐらい迷子になったことがあります。
やはり道標がないと怖いです。

転載元: 台湾高雄市在住5年

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