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コンヤ近くのイスラム教会 博物館


今夜のコンヤの夜景 タワーよりトルコのショピングセンターの地図に日本が無い

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タワーは4リラでした。

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コンヤのショピングセンターの世界地図には、日本がなかった。

トルコは日本の位置を全国民が、暗記しているほどの親日国なのでしょう。


日本人は、もっとトルコに行きましょう。



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トルコのコンヤでアイスクリームを食べるのなら、ココです。

トルコには、のびるアイスクリームがありません。のびるアイスクリームは、日本でお召し上がり下さい。

トルコのコンヤイスラム教の教会兼 博物館

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イスラム教
雪に映えるイスラム教会はとても美しかった。


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イスラム教に対する偏見というものがあるとしたら、白人の侵略、略奪を正当化するための文化的プロパカンダだと思う。

これを十字軍の歴史が、雄弁に語っている。


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人には、それぞれ生きていくための様々なルールや人間関係がある。

それぞれの信仰も、また趣き深し。

とても美しい 世界遺産 トルコ 温泉 廃墟には、立派な博物館がある

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掛け流し温泉が、丘に石灰石の棚田を作っている。

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石の棺桶は、崩れない^_^。


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棺桶のレリーフが美しい


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戦いの様子が描かれいることが多い。

中国人が知らない南京事件の真実!捏造を日本人が写真で完全論破!中国南京大虐殺の嘘

朝鮮戦争へトルコ共和国:兵力4,600人

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朝鮮戦争におけるトルコ旅団の戦い - Togetterまとめ

朝鮮戦争、日本じゃあまり話題にならないが、「トルコ旅団(Turkish Brigade、通称「北星」)は、順川湾をも守ぬき、国連軍を全滅から救った功績により米国議会から「名誉勲章」を贈られ、韓国大統領府からもトルコ国軍に「連合勲章 ...


朝鮮戦争に国連軍兵士としてはるばるやってきた多くのトルコ

blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/4488b5ad695e88f80fea4e6dadc81f3d
もう1週間経ってしまいましたが、先週6月25日、<6.25(朝鮮戦争)62周年記念式典>の中継をKBS1テレビで見たら、式典の最初が国連旗・太極旗そして国連軍として参戦した21ヵ国の国旗入場式でした。 朝鮮戦争に国連軍として参戦した ...

7000キロ遠くに眠る、朝鮮戦争トルコ人戦死者たち

el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110626_071939.html
朝鮮戦争中、勇敢に戦い戦死したトルコ人兵士たちが、(トルコから)約7000キロ離れた場所、トルコ国旗がはためきバラの花に囲まれた戦死者墓地で眠っている。韓国では「英雄」とよばれるトルコ人戦死者の墓には毎日数千人もの ...

韓国人「兄弟国トルコの威厳、6.25戦争にも命懸けで参戦し …

blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/35404584.html
2013/12/06 · 埋め込まれている動画 · 1. 韓国人(スレ主) トルコがアジアで最初に国交を結んだ国は日本だ。 150年前、日本近海で発生した台風により漂流したトルコ商船。それを助けたのがきっかけとなり、両国友好の記念碑が建てられる。 湾岸戦争が勃 …

韓国製妄想は遥か遠くトルコまで/そしてイスタンブール ...

b-co811.hatenablog.com/entry/20130610/p1
埋め込まれている動画 · トルコ兵の勇猛ぶりは名高く、アメリカについで犠牲が多く出ています。ロシア嫌いのトルコ人は 「朝鮮戦争を戦うことによって、日本を共産化から防いだ」 という認識があるようで、彼らの一つの誇りになっているようです ...

トルコ軍 - Wikipedia

トルコ軍 Turk Silahl Kuvvetleri 創設 紀元前209年(公式な主張) [1] 1920年5月3日(大国民議会の軍隊として) [1] 派生組織 主力: トルコ陸軍 トルコ海軍 トルコ空軍 トルコ戦争学校 (英語版) 内務省所属: ジャンダルマ トルコ沿岸警備隊 本部

www.pusannavi.com/miru/1032/ - キャッシュ
アンニョンハセヨ、プサンナビです。釜山には世界で唯一の国連連合記念墓地、UN記念 公園があるのは御存知ですか?1950~53年まで勃発した朝鮮戦争に国連軍として 参加した韓国の兵士を含め、世界21カ国の戦士が祭られている場所が ...
www.konest.com > ホーム > 観光スポット > スポットリスト - キャッシュ
悲しい戦争の歴史を振り返る、世界でただ1つの国連墓地釜山に -「在韓UN記念 公園」の詳細情報。地図、行き方、口コミも紹介。
www.tripadvisor.jp > ... > 釜山(プサン) > 釜山(プサン) 観光 - キャッシュ
国連記念墓地(釜山(プサン))に行くならトリップアドバイザーで口コミ(286件)、写真( 441枚)、地図をチェック!国連記念墓地釜山(プサン)で9位(207件中)の観光名所 です。
4travel.jp > ... > 韓国 観光 > 釜山 旅行 > 釜山 観光 > 釜山 史跡・遺跡 - キャッシュ
... クチコミをチェック!UN墓地(UN記念公園)は釜山で42位の史跡・遺跡です。 ... UN 記念公園は世界で唯一の国連連合記念墓地。1950~53年の朝鮮戦争に国連軍として 参加した韓国や世界21カ国の兵士が祭られている場所です。 現在はオーストラリア、 ...
s.webry.info/sp/20990738.at.webry.info/.../article_7.html - キャッシュ
2016年8月7日 - 朝鮮戦争は1950年6月25日に北朝鮮が突如38度国境線を超えて南に侵入してきた。 北は準備万端、南は不意打ちを食らって敗走、釜山にまで追い詰められた。その後 アメリカを中心とする国連軍が同年9月にインチョンに上陸、巻き返した。
www.jtb.co.jp > JTBホーム > 海外観光ガイド > 韓国 > 釜山 > 観光地 - キャッシュ
国連が世界で唯一管理している墓地。1950~53年に起こった朝鮮戦争の際に、釜山周辺で戦死した16カ国の国連軍兵士と医療支援4カ国の非戦闘員2300人が眠っている 。戦時中の1951年に墓地が造られ、戦後、国連総会は戦死者を敬慕するために国連 ...

日本特別掃海隊

   
日本特別掃海隊(にほんとくべつそうかいたい)は、朝鮮戦争の際に、国連軍の要求で日本海上保安庁が派遣した掃海隊。特別掃海隊とも。

沿革

朝鮮戦争と日本

朝鮮戦争当時、日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした[1]。また、アメリカ軍によって集められた日本人港湾労働者数千人が韓国の港で荷役作業を行った[1]
朝鮮戦争には、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下に置いていた連合国軍、特に国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍の指示により、日本の海上保安庁掃海部隊からなる「特別掃海隊」も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。

国連軍掃海部隊と日本への派遣要求

開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを認めたアメリカ海軍第7艦隊司令官1950年9月11日に機雷対処を命じた。ところが、国連軍編成後も国連軍掃海部隊は極僅かであった。元山上陸作戦を決定した国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることを決定する。10月6日アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。


掃海作業

元山掃海作業

1950年10月18日、葛麻半島西側の元山港を掃海作業中に触雷して爆発する韓国軍の掃海艇YMS-516
日本掃海隊は10月10日に元山沖に到着した。10月12日午前から掃海作業に着手し、眼前でアメリカ軍の掃海艇2隻が触雷によって沈没する光景を目撃しつつも、3個の機雷を処分する。国連軍のアメリカ艦隊の陸上砲撃のため10月16日まで掃海作業は中断され、再開された10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名(烹炊長中谷坂太郎)及び重軽傷者18名を出した。
日本隊は触雷を回避するため、小型で喫水の浅いLCVPが先行して海面近くの機雷を掃海した後、掃海艇が進む方式を採るよう、前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)アメリカ海軍少将に作業手順の改善を要求した。しかし、スミス少将は「日本掃海隊は明朝0700出港して掃海を続行せよ。しからずんば日本に帰れ。その15分以内に出なければ砲撃する」と田村久三総指揮官に命令した[2]。これを受け、能勢隊のMS 3隻は日本帰投を決定し、10月20日に下関に到着した。
10月20日に石飛隊のMS 5隻は元山沖に到着し、同地に残存していたPS 3隻を同隊に編入して掃海作業を行う。結局、元山における日本特別掃海隊は、10月10日から12月4日までの掃海作業において、能勢隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げた。

元山以外の掃海作業

仁川掃海作業

10月7日に下関を出港した山上隊は10日に仁川港外に到着し、掃海作業を行う。同隊は11月1日に海州を出発し、3日に下関に帰投した。

鎮南浦掃海作業

11月7日に、国連軍鎮南浦掃海任務隊(アーチャー(Stephen M. Archer)アメリカ海軍中佐)に、日本の石野隊が加わる。鎮南浦における第2掃海隊は2個の機雷を処分する成果を挙げる。石野隊は中国人民志願軍の侵攻間際まで活動を続けた。

群山掃海作業

萩野隊は10月17日に下関を出港し、19日に群山に到着して、掃海作業を実施する。萩野隊は3個の機雷を処分する成果を上げる。MS30号が座礁して沈没するが、死傷者はなかった。




朝鮮戦争

   
朝鮮戦争
한국 전쟁(韓国戦争)
조국해방전쟁(祖国解放戦争)
Korean War交戦勢力 指導者・指揮官
Korean War Montage 2.png
上段:長津湖の戦いで撤退する米第1海兵師団
中段左:アメリカ空軍F-86
中段右:仁川上陸作戦で揚陸中のLST
下段左:仁川に上陸するバルドメロ・ロペス中尉率いる海兵隊員
下段右:M26戦車の前に立つ韓国人難民
戦争冷戦
年月日1950年6月25日 - 1953年7月27日
(名目上は継続中)
場所朝鮮半島
結果:南北分断状態のまま休戦協定が結ばれ、現在に至る
国際連合の旗国際連合軍
韓国の旗韓国
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国
イギリスの旗イギリス


朝鮮民主主義人民共和国の旗北朝鮮
中華人民共和国の旗中華人民共和国中国人民志願軍
ソビエト連邦の旗ソビエト連邦(顧問団派遣及び物資支給)

その他支援
インドの旗インド
モンゴル人民共和国の旗モンゴル
大韓民国の旗李承晩
大韓民国の旗蔡秉徳
大韓民国の旗丁一権
大韓民国の旗李鍾賛
大韓民国の旗白善
大韓民国の旗林富澤
アメリカ合衆国の旗ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国の旗ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国の旗ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗マシュー・リッジウェイ
アメリカ合衆国の旗マーク・ウェイン・クラーク
アメリカ合衆国の旗

[転載]中央アジアで韓国とトルコは隣家

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その昔の中央アジアで韓国とトルコは隣家だった?
 
金席洞の '韓民族の成長DNA 追跡'③ 韓国古代史とトルコ(下)
トルコ人たちの歴史認識 トルコが韓国を '血を分けた兄弟の国家'と呼ぶようになったこと
 
 
イメージ 2[おやすみミーナ]トルコは騎馬民族が立てた国家だ. トルコでは彼らの先祖がモンゴル草原で由来したトイルクゾックで西の方にずっと進出しながら建国したセルジューク, オスマン帝国まで自分たちの歴史に認識している. 1952年トルコは建国 1400周年記念祭を持ったがその建国記念年度が 「ブミンカガン」が突厥を建国した AD552年のことだ. トルコ人たちはこんな認識を共有しているし自分たちの来由に対して強い自負心を持っている.
トルコ初等6年生社会教科書ではトイルクの最初国家は匈奴(Asian Hun Empire)と言ってその領域を満洲□モンゴル□ナムシベリア□ブックズンググック□ウィグル□チベット□中央アジア地域まで包括して紹介している. そしてトイルクという名前に建国した最初の国は突厥(the Gok Turk Empire : AD552~744)でウィグルが突厥を滅亡させて受け継いだ記述している
 
 
今日は続きがあります
 
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▲トルコの教科書ではすぐそこまで征服したと書いてある。
 
 
小学校7年生の課程では、アナトリア半島に進出した過程とオスマン帝国の建国について教える。小学校8年生の課程では、「アタテュルクケマル·パシャ」の現代トルコ建国、第2次世界大戦と韓国動乱参戦について詳細に記述している。
中級9年生の歴史教科書では、テュルクが中央アジアで東西に拡張されたプロセスは、彼らが過去に建国した匈奴、突厥、ウイグル帝国の領域について詳細に記述している。中級12年生の歴史教科書では、第二次世界大戦と韓国動乱参戦について詳細に記述している。
 
このようなトルコ人の歴史認識で韓国とトルコは特別な関係が形成されるといえる。まず、モンゴル高原に由来した匈奴帝国をトルコの古代の歴史に見るので、韓民族の血統的に非常に近いという認識を持っている。そして、歴史的に見ても、突厥が唐と対決した当時、高句麗とは同盟国であったため、今も韓国の兄弟国だと思って「カンカルデシュ Kan kardeş(血を分けた兄弟)」と表現しているのである。
 
※突厥が唐と対決した当時、高句麗とは同盟国であったため?
 
 

1965年ドンドルグォル領域だった今ウズベキスタン・サマルカントアフラシアブ宮殿で7世紀ごろの壁画発見され、高句麗人の使者2人の姿が見えますが、韓民族が中央アジア地域活発に交流していた歴史立証されたこともある。
 
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▲最近復元された壁画の解説図にcoreensと書いてあるのが”韓国”だという
 

 
私たちの古代史から見たトルコ
 
シン·チェホ先生が1931年、朝鮮日報に連載した「朝鮮史」(今日の朝鮮上古史)によると、「朝鮮族·フン族はウラル語族に朝鮮族が分化し、朝鮮·士·余震·モンゴル·ツングースなどの種になって、フン族が散って突厥·ハンガリー·トルコ·フィンランドなどの種となったが...」、「余震·士·モンゴル·匈奴などは、本来あ(我)の同族」、「朝鮮·満州·モンゴル·トルコネ民族は、血族」、「朝鮮や満州やモンゴル·トルコ·ハンガリー·フィンランドが3千年前には、的確一つの血族」と述べている。
 
ヘンチョンイアム先生の檀君世紀(※議論がある記録である)は、檀君時代初期に匈奴·モンゴルが古朝鮮から分離されて出て行ったと記録している。騎馬 ​​民族国家である古朝鮮から匈奴·突厥がオフセットされており、これらの一派が、今日のトルコにつながるとされて、私たちと、今日のトルコが特別な深い関係があるだろう。
 
これをもう少し敷衍するなら檀君朝鮮がBC 2333年に建国され、檀君朝鮮の建国勢力であると朝鮮族は、年月が経つにつれ、付与·士·モンゴル·烏桓·キタイ·余震などにつながって、より早く分かれたされたフン族はその後、フン·突厥·ウイグル·セルジュークテュルク·オスマンテュルク·トルコなどにつながるされていると推定されている。
司馬遷の史記では、匈奴を「胡」と称し士など、その東の国を'ドンホ(东胡)」と称している。当時の文献から号と同号の区別がはっきりしていないが、概ね「号」は、テュルク系、 'ドンホ'は、モンゴル·ツングース系とみられる。これら過ごしてきたところ、住んでいるところでは、言語はもちろん、生活習慣、社会システム、戦争フォームなどであまりにも多くの類似点が示されており、古代からの彼らの関係が男異なっていないことを十分に想像できるにする。
 
駐トルコ韓国大使館公館のホームページには、 「韓国とトルコは中央アジア付近近所で一緒に活動して韓国は東進して韓半島に定着して、トルコは西進を続け、約8000㎞離れたアジア大陸の西端アナトリア半島とヨーロッパの東南端であるトレース半島に定着するようにされた遠い歴史的背景を共有しています。高麗末には、元の時代を通じて入ってきたテュルク系ウイグル人たちが韓半島に定着し、現在3万人近くの子孫が韓国に住んでいます。これらの歴史的な関係は、朝鮮戦争を通じて再び結ばれました。」と書いている。
 
トルコ語の翻訳だとニュアンスがちょっと違います。
韓国人と長い間、中央アジアのトルコ人は隣人として一緒に暮らしていた。その後、韓国人で東へスクロールすると、最近は韓半島と呼ばれ、アジア大陸の西アナトリア半島に8000キロ離れて、西に移動し、南東ヨーロッパでトラキア地域に定住によって地理、トルコに定住した。トルコのウイグル人の中国の元朝の際は、韓国の高麗の終わりに向かって朝鮮半島に落ち着いた、そして今日この世代は約30万人は、韓国に住んで続けています。これは非常に古い歴史的な関係は朝鮮戦争で再び強化されているに基づいています。
 

騎馬軍団が大活躍していたユーラシア草原(東·西ステップ地域)の両端に、これまで順調に進む国が韓国とトルコではないだろうか?
トルコ人が民族の起源と自己の歴史を認識し、子孫に教育しているのに対し、長年の古代の歴史を持っている我々はむしろ韓民族の活動舞台を韓半島を中心に縮小して、私たちの歴史を、高句麗·百済·新羅の三国時代以来、に萎縮させる教育をしていないか?
過去朴殷植·ギムギョヒョン先生は金史を韓国史に含めるべきだと主張して以来、ソンジンテ教授が女真史金史を韓国史に含ませたのは示唆するところがあるとする。根幹に一部の学者たちを中心に古朝鮮社付与社をはじめとする韓国の古代史の研究と著述活動が続くのは幸いなことだ。
歴史は歪曲なっても過剰になってもならない。しかし、より広い視野で歴史の流れを見通す努力が必要である。ように大韓民国が成し遂げた現代史の奇跡を説明することができ、韓国経済の成長のエネルギー源を見つけながら、私たちの未来のための青写真をより自信を持って描いてみることができるだろう。
 
 
この文は朝鮮プレミアムで読めます
 
 
(翻訳:みそっち)
 

 
トルコのほうがこっちまで来ていたから”お隣同士”ってことらしいように書いてあるからそーいうことのようですが”桓国”だの”檀国朝鮮”などが世界征服をしていたという説は”世界5大文明”よりも人気があったりしています。
その”最古の記録””古ハングル”で書かれていてキリストが韓国人であることも書いてあるそうですがその実物は現在存在せず歴史上で誰ひとり見た人もいないという珍書なのだそうです。
 
魏志倭人伝のなかに倭国が出てくるわけですが、(中国の三国志の頃)魏書とされる古文書が 偽書=魏書(ハングルでは区別が無い)と脳内変換されることで、”ニセモノ”だとする強硬な主張もあります
 
三国史記を題材にした三国遺事という1200年ころに書かれたとされるものが”韓国の正史”である檀君神話の唯一の証拠とされるなど歴史解釈の齟齬があり現在も研究が進められているので新しい発見があるかもしれません。
 
こうした韓国の歴史認識の中で”現在の韓国を中心とした文明がかつて存在した”という突拍子もない説だけでは読者さんを騙せないと知るとちょっとだけ遠慮して”キタ朝鮮・中国国境にある白頭山が民族の始まりで世界最古の文明の出発点だ”と主張することで内外の批判を受け流すように身構えていましたが
しかしそれもあやしくなってくると中国の奥地にあるピラミッドが古代朝鮮の聖地であり檀君の墓であるという意見が出てきたりします。
 
今後も遠く離れた地球のどこかで新しい発見があるたびに”古朝鮮の遺構”だったり”檀君神話の証拠”だったりすることでしょう。
 
 
 
 
 
 
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こういうのは試験問題として不自由があるので
試験科目から外してるんだって
 
 

転載元: minaQのつぶやき 네토미나

[転載]フビライは現代の中国に生まれている

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第一次日本侵攻までの経緯

モンゴル帝国の高麗併合

モンゴル帝国の版図の変遷
混一疆理歴代国都之図
(こんいつきょうりれきだいこくとのず)

縦130cm×横160cm
モンゴル帝国時代に作成された二種の原図をもとに、1402年建文4年)に李氏朝鮮で作られた現存最古の世界地図。西はアフリカ大陸から東は日本(右側下)まで描かれている。
龍谷大学大宮図書館所蔵

モンゴル帝国の樺太侵攻

  • 1284年元朝は前回の侵攻から約20年を経て再び骨嵬(クイ)への攻撃を再開した[47]。元による樺太への渡海侵攻は数度に亘って行われ、1285年1286年には約10,000の軍勢を骨嵬(クイ)に派遣している[48][49]
 この数度に亘る元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐されたものとみられる]。元は樺太の最南端に拠点として果夥(クオフオ)を設置し、蝦夷地からのアイヌによる樺太侵入に備えた。
 以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することが出来なくなった。なお、樺太最南端には、アイヌの施設であるチャシとは異なる方形土城として、土塁の遺構がある白主土城(しらぬしどじょう)があり、これが果夥(クオフオ)であったと思われる。
 
 

日本侵略の発端

 
東方見聞録』に描かれたクビライ・カアン
中央のクビライ・カアンに二人の王が日本の黄金の容器を献上している。クビライの足元には「すこぶる美味」な日本の鶏が描かれている。『東方見聞録』のミニアチュール(挿絵)は写本が作成される過程で14世紀後半から15世紀初頭に描かれたものである。
『東方見聞録』(『驚異の書』) fr.2810写本 ミニアチュール(挿絵)folio71
フランス国立図書館所蔵
クビライ・カアンの狩猟図
劉貫道『元世祖出猟図軸』
国立
故宮博物院所蔵
 
 
 
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ興味を持ったからだとしている。
 
 「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル(約2,250㎞)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。
 
 島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4㎝)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。
 
 また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。
 
 さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタン(阿剌罕(アラカン))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン(泉州)とキンセー(杭州)の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった」
 また、南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭の主が来臣しないのを怒り、土(南宋)の民力をつくし舟艦を用意して、往きて攻める」[56]と述べており、クビライが日本の豊かさを聞いたことを日本招諭の発端としている。
 
 他方、クビライによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴル帝国は海軍を十分に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である。ただし、クビライは日本へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と明言し、高麗の造船により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と述べるなど、南宋征服と同様に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している。
 
 

 

第一次日本侵攻計画

 1273年の段階で、南宋との5年に及ぶ襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失い、また朝鮮半島三別抄も元に滅ぼされていた。
 趙良弼の諫言を一度は聞き入れ日本侵攻を中止したものの、クビライは翌年には日本侵攻を計画し侵攻準備を開始した。
1274年(文永11年・至元11年)1月、クビライは昭勇大将軍・洪茶丘高麗に派遣し、高麗に戦艦300艘の建造を開始させた[108]
北条氏得宗過所船旗
1272年文永9年)に執権・北条時宗が航行の自由を保証する時に交付した過所旗。旗には北条氏の家紋『三鱗紋』が配されている。
京都大学総合博物館所蔵
 
 洪茶丘は監督造船軍民総管に任命され、造船の総指揮に当たり、工匠・人夫30,500人余りを動員した。洪茶丘の督促により高麗の民は「期限急迫して、疾(はや)きこと雷電の如し。民、甚(はなは)だ之に苦しむ」といった様相であったという。
 
・同年5月、元から派遣された日本侵攻の主力軍15,000人が高麗に到着した。
 
・同年同月、クビライは娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)を高麗国王・元宗の子の王世子(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固にする。その直後の7月には高麗国王・元宗が死去し、8月に王世子・が新たに第25代高麗国王・忠烈王として即位した。
 
・同年6月、高麗は元に使者を派遣し、戦艦300艘の造船を完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗の金州に回漕したことを報告する。
 
・同年8月、日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)が高麗に着任した[113]
 
 

異国警固体制

執権北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して以下のような防衛体制を敷いた。
  • 1271年、北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴いて、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた。当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった。これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次九州に土着していくこととなる。九州に土着した東国御家人には肥前小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤肥前千葉氏の祖となっている。
 
 なお、日本側は大陸の情勢に関する情報を得るため、高麗で直接諜報活動を行っていた。『高麗史』によると、日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件があった。
  • 同年7月、高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた[123]。曹子一はに発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した。高麗国王・元宗張暐を派遣してクビライに対して曹子一の無実を訴え解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された。
  • 1273年(文永10年・至元10年)11月、幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前筑前肥前壱岐対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した。 
 
 
 
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世界帝国を目指したモンゴル帝国皇帝の「新・世界計画」とは
─世界帝国・集団的自衛権・憲法9条を問う─
 

 モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハーンの孫にして、日本の鎌倉時代に2度に渡って「元寇」を仕掛けたフビライ・ハーン。世界帝国を目指したその動きは、現在の中国の野心を彷彿とさせるものがある。
 フビライの霊に、日中関係や日本の国防について尋ねたところ、恐るべき“世界計画"が明らかになった。
 
 

日本はすでに独立国ではない

 招霊されたフビライの霊は、「日本は虫けら以下」「日本はすでに国ではない。アメリカか中国の一部に入るかどちらかしかない」と、元寇で返り討ちにあった悔しさからか、日本への敵意をむき出しにした。
 自らを神と称するフビライは、「世界はもともと全部わしのもの」「中国もアメリカもわしのもの」と高圧的な態度で語った。2回の元寇で失敗した仕返しとして、先の大戦時にはルーズベルト大統領としてアメリカに生まれ、日本に原爆を2発落とす計画を立てたこともほのめかした。
 
 現在日本を取り巻く状況は、元寇や第二次世界大戦時よりも緊迫している。中国は、南シナ海にあるフィリピンやベトナムが領有権を主張している離島を実効支配し、日本の領土である尖閣諸島や沖縄も狙っている。同盟国であるはずのアメリカも、国債を買い支えてもらっている中国にはハッキリとものが言えない状態だ。
 
 こうした中、憲法9条改正や集団的自衛権の行使容認の決断は待ったなしだが、フビライ・ハーンの霊は、「中国、韓国、アメリカの三国で日本を降伏させる計画が進んでいる」として、日本の国防強化は、追い詰められたネズミが、猫の鼻を引っ掻くようなものだとあざ笑った。
 
 

フビライは現代の中国に生まれている

 フビライの霊は、自らが旧約聖書に出てくるヤハウェと名乗り、恐怖によって人類を支配する存在だとした。さらにフビライは現代の中国に転生し、ポスト習近平を狙って準備を始めているという。
 
 習氏はチンギス・ハーンの生まれ変わりであることが分かっている。歴史を踏まえれば、フビライの世代には、さらに中国が世界征服計画を拡大させることになるだろうし、米中が手を組むシナリオも十分考えられる。
 日米関係は引き続き維持すべきだが、「アメリカに頼っていれば日本の安全が守れる」という考えは甘い。中国の覇権主義に対抗すべく、「自分の国は自分で守る」姿勢を早急に確立せねばならない。
 
※本霊言を踏まえ、「ポスト習近平」を狙う中国の指導者についてこちらで解説。
 
 

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう


[転載]波照間 燐

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グアノ

   
グアノ
ナウルのグアノ採掘跡地
グアノ (guano) とは、珊瑚礁に、海鳥死骸・エサのの殻などが長期間(数千年から数万年)堆積して化石化したものであり、肥料の資源として利用される。主要な産地は南米チリペルーエクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はケチュア語の「糞」でスペイン語経由で英語に入った[1][2]

種類

グアノには「窒素質グアノ」と「燐酸質グアノ」の2種類がある。前者は降雨量・湿度の低い乾燥地帯に形成されたもので、多くの窒素鉱物を含有する。後者は熱帯亜熱帯など比較的降雨量・湿度の高い地域に形成され、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮されたものである。
いずれも近代化学工業(化学肥料)には欠かせぬものであり、領有する島嶼部に多量のグアノを有したペルーでは莫大な量が採掘されてヨーロッパに輸出された。この利益は一時的にペルーに好景気と社会インフラの発展をもたらしたが、資源の枯渇により経済の破綻を招いた。なお世界の窒素肥料の原料はその後チリ硝石、さらには20世紀初頭のドイツにおいて開発された化学的窒素固定へと変遷する。
燐酸質グアノはリン鉱石が発見されるまで、最も主要なリン資源であった。南洋の島々に多く、資源としては大量に存在するものではないため、かつての採掘地の多くはすでに掘り尽くされ、枯渇している。

歴史

かつては、グアノをめぐって戦争が起こった事(グアノ戦争、チリ対ボリビアの太平洋戦争)があった。

バット・グアノ

海鳥由来のグアノとは別に、洞窟内に生息するコウモリ・体毛、洞窟内の生物の死骸が堆積して化石化したものをバット・グアノと呼ぶ。量は大してないため観賞植物や自家菜園用の肥料として販売されている。

産出地(過去の産出地も含む)






波照間島の燐鉱採掘|波照間島コラムちゃんぷる~ - やいまねっと

jaima.net/modules/hateruma/index.php?content_id=3 - キャッシュ
燐鉱の島. 日本最南端の有人島で知られる波照間島だが、八重山では唯一、鉱石を 採掘した島でもある、鉱石の採掘は戦前の一時期、島の経済を潤し、地域活性化に 一役買った。 島の人たちは、「リンコウ」と言えば「燐鉱」を想起する。島の北部にある、 ...




採掘が本格化

 採掘許可は1933年(昭和8)11月に恒藤規隆氏が受け、1935年(昭和10)6月には塩谷栄二氏が受けて、両者による燐鉱採掘が始まった、採掘面積は塩谷氏の場合、16万坪と広大である。
 同氏に関しては試掘調査後の1934年(昭和9)4月以降、朝日化学肥料株式会社との間で採掘協定が締結され、朝日化学肥料(株)が採掘に乗り出すことになった。
 同社の佐古田政太郎社長は、1934年(同9)7月9日に波照間島を訪れ、採掘の状況を視察している。朝日化学肥料(株)と同様に採掘に着手することになった恒藤氏は、燐鉱の本格的な採掘に際し次のように語る。
 「波照間の燐鉱はとてもいい、含燐歩合からいふと質のよい硬度燐と中度燐、下等燐の3段に分かれているが、燐層も相当豊富らしく波照間の全面積30万坪の間に点々と埋蔵されている。今後、何年分の燐があるか、これからまだ掘り下げて調査してみなければ分からないが、質のいい燐が可なりあるといふことだけは言へる」と太鼓判を押す。




時代は大きく戻ります。波照間では戦前の一時期、2箇所で燐の採掘が行われていました。
東北部の鉱山は、港から製糖工場のほうに抜ける道の途中、一周道路との交差点の辺りにあったそうです。西北部の鉱山の跡は今でも見ることができます。「ぶりぶち公園」の入り口にある池に気付く人は結構多いでしょうが、その池の水が湧き出している崖を注意して見ている人は少ないのではないでしょうか。そこには半分以上を石積みで隠しているものの、ぽっかりと開いた坑道の入り口があります。
波照間で燐鉱山が発見されたのは1921年頃で、1933年から本格的な採掘事業が始まりました。島の東北部と西北部で2つの会社が採掘を行い、肥料や薬品製造の原料として尼崎方面に出荷されたそうです。採掘は1939年頃には最盛期を迎え、島内外から集まった200名ほどの作業員が働いていました。そして島はにわか景気に沸いた、といいます。
しかし、太平洋戦争が始まって輸送手段が無くなると、採掘は中止に追い込まれ、1943年には採掘会社は廃業。採掘された鉱石の半分は放置されたまま会社は引き揚げてしまいました。残った鉱石は島の道路に砂利として敷かれ、雨が降る度、その養分が土壌に溶け出し、農地の土壌を豊かにしたそうです。
八重山に行くと、よく、波照間産の黒糖が八重山で一番美味しいと聞きますが、訳はサトウキビが育つ島の土壌にあるといいます。波照間は島全体の土壌に燐の成分が含まれているため、養分が豊富であるというのです。それはおそらくこのことを指していたのだと思われます。
ぶりぶち公園の鉱山跡の湧水は島の簡易水道の水源としても使われていたようです。現在では波照間製糖の管轄下に置かれているということで、製糖工場の作業に使われているようです。
このように、「ぶりぶち公園」一帯は4000年の昔から現在に至るまで、島の歴史に深く係わり続けている地域なのです。
www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/.../detail.php?... - キャッシュ
波照間鑛發見:紙面画像. 1921/03/01 八重山新報 第4面 紙面画像 現代仮名遣い テキスト 旧仮名遣いテキスト. 波照間鑛發見 紙面画像. 波照間に燐鉱発見八重山 新報 大正十年三月一日 本郡波照間島字西留に燐鉱あるを発見し、東京市芝区内田眞  ...
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ameotoko.cocolog-nifty.com/note/2008/07/1_fed7.html
鉱石採掘事業の詳細とレールに関する写真は「八重山歴史読本」(南山舎)の「波照間島の燐鉱採掘」か、そのほぼ全文を掲載していると思われる以下のURLの記事を参照し ていただくとして、私の興味の焦点は、やはり当然の事ながら、この" ...



      ■島が一番賑わった頃
波照間島で島が一番賑わったのは、1935-1945年ごろである。燐鉱石の採掘の採掘がはじまり、カツオ漁が盛んになったころが一番島が豊であったと言われている。
そのころは、降雨量も何故だか多く、豊作に恵まれ、農産物も豊だったという。


■燐鉱石の採掘
1933年から燐鉱の採掘が栄えた。この頃、島は燐採掘でにぎわい、宮古、本島などから多くの人が出稼ぎ労働者として来島したという。
今まで、島の人たちは、農業や近隣の漁業でしか収入を得ていなかった。しかし、同時期に栄えたカツオ漁とともに、燐鉱の採掘業のおかげで、島は大変豊かになった。
島の若者たちは、夏はカツオ漁。カツオ漁の終わった冬は燐鉱採掘場で働いた。最盛期には作業員は200名ほどいた。
また、波照間島の人口は急増し、1931年に1283人であったのに対し、燐鉱採掘が最盛期を迎えた1939年には1422人を超えている。
何故、波照間島で燐鉱がとれたのか。それは、波照間島は鳥が多く、長い年月をかけ、鳥の糞尿が石灰岩石に堆積し変化して燐鉱石になったものといわれている。
燐鉱石の採掘は波照間島の北部と、北西部の2ヶ所で行われていた。


しかし、1941年。太平洋戦争が始まると、沖合には米軍の艦隊や潜水艦が現れるようになると、燐鉱の島外への搬送が難しくなった。掘り出された燐鉱が積み上げられたままになり、1943年採掘場は廃止となった。積み残された燐鉱石は、道路を補修するのに使われていたという。

転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか

[転載]竹富 大石隊 で検索

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www.taketomijima.jp/blog/archives/000698.html - キャッシュ
竹富町には、竹富島の世持御嶽境内にある竹富町戦没者慰霊碑にて慰霊祭が毎年とり 行われています。今年も竹富町長 ... 大石隊は高知県人を中心とした150余名の部隊で 、竹富島を守備範囲として配属されていました。 竹富島は、石垣島 ...
shimanosanpo.com > おきなわ > 島のレポート > 竹富島 - キャッシュ
1941年~1945年 □太平洋戦争 八重山では上陸戦は行われず、竹富島では他の島 のように空撃も少なかった。 ... 1994年南西諸島に沖縄守備のための第三十二軍が 組織され、竹富島には、大石喬を隊長とする大石隊は米英軍の上陸を迎え討つために ...



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nakanishi-satoshi.hatenablog.com/entry/.../1322539432 - キャッシュ
竹富島守備隊長であった故大石喬氏は今でも竹富島の島民から尊敬され続けている。 ... の書いた資料があったが、それには、沖縄では日本軍兵士と住民が固い信頼感で 結ばれた事例は少なく、大石隊は唯一の事例であると書かれている。
fuse.seesaa.net/article/40430511.html - キャッシュ
そのことを忘れてはいけない。 もし日本に戦争がなく、多くの土佐の先輩たちが死んでい なかったら、今の高知はもっと違ったものになっていたに違いない。 優秀な人材から 死んでいく。 それが戦争であると思う。 以下ご参考。 島民を守った反骨の部隊「大石隊



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plaza.rakuten.co.jp/tosanikki/diary/201111190000/ - キャッシュ
竹富島は、連合軍の上陸が結果として無かった為、直接の戦闘はありませんでしたが、 機雷解体中の爆発や機銃掃射、マラリアなどで9名の戦没者が出ており、この戦没者を 弔う為に、竹富島の島民の皆さんが建立してくれたのが、「大石隊 ...
teidonthe3.theblog.me/posts/categories/67350
大石隊の一覧。戦争中の竹富島 - 戦争が始まることになったので南洋から竹富島に 移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔 のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の 人 ...


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d.hatena.ne.jp/nakanishi-satoshi/20111129 - キャッシュ
... 編成された竹富島守備隊(約150名)の隊長をしていた話を聞き、そして、依光県議の 曾祖父も大石隊の一員で竹富島に駐屯していて、戦後何度か竹富島を訪れたことが あり、依光県議は高齢の曽祖父に代わって竹富島にある大石隊慰霊碑 ...
blog.goo.ne.jp/.../e/0c36068cd16006f9c1ad70f8368d5746 - キャッシュ
沖縄・石垣島へ行ってきました・・・その1 沖縄・竹富島へ行ってきました・・・その2 の 続きです。 今も続く高知の旧日本兵(大石隊)と竹富島の住民の交流 竹富島に、日本最 南端のお寺、喜宝院(きほういん)があり、 そこに蒐集館(しゅうしゅう ...


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www.y-mainichi.co.jp/news/8524/ - キャッシュ
竹富竹富町主催の第46回慰霊祭は23日午前10時から、竹富島小城盛の中腹にある 竹富町戦没者慰霊の塔で行われた。 ... 一方、喜宝院境内の大石隊戦没者慰霊の塔 でも、関係者や竹富小中学校生が参列して慰霊祭が行われた。竹富島 ...
jaima.net/modules/blog5/index.php?p=122 - キャッシュ
午前10時頃、竹富町出身戦歿者慰霊之塔で、竹富町主催の第54回竹富町戦没者追悼 式が行われました。 竹富町出身戦歿者 ... 竹富島では米軍と直接戦闘はなかった ものの、大石隊から9人の戦病没者がでました。 大石隊戦没者慰霊之塔 ...

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[転載]日台関係史

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日台関係史


   

日本
台湾在外公館
日台関係
JapanとTaiwanの位置を示した地図
交流協会台北事務所台北駐日経済文化代表処
日台関係史(にったいかんけいし)では、日本台湾の関係の歴史について概略する。


日本統治時代以前(- 1895年)

 日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。

 1593年文禄3年)、豊臣秀吉原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。

 1628年寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。

 1639年寛永16年)、将軍の徳川家光老中が、江戸に参府した平戸オランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝政府の渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル船の渡航禁止を決定する。

 1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾オランダ東インド会社を攻撃し、東インド会社を台湾から駆逐した。

 1871年12月17日琉球那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾南端に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。
 1874年明治7年)5月、陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。

日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年4月、日清戦争後の講和会議で調印された馬関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。
 その直後、台湾人らによる台湾民主国の建国宣言がなされる。台湾民主国軍は、上陸した日本軍と武装闘争するも、初代総統唐景、第2代総統劉永福が相次いで大陸に逃亡し、約5か月後には完全制圧される。

 日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命し、植民地統治を開始した。児玉源太郎第4代総督(1898年 - 1906年)のもとで後藤新平が民政長官に就任し、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進。
 一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

 日本の敗戦により、488,000余りの在台湾日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。

国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年)

 日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した中国国民党の台湾当局は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。日本は、1951年9月8日サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。

 その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。
 同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蒋介石総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して台湾の中華人民共和国による併合から守った。

1957年、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。

 1963年9月7日、中国の通訳周鴻慶が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した(周鴻慶亡命事件)。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。

 関係修復を図るべく、1964年2月、吉田茂元首相が池田勇人首相の意を受けて台湾を訪問、蒋介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には大平正芳外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。

 1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蒋介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蒋経国国防部長が日本を公式訪問した。

 これまで戦後から国連常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。
 また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。

 こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。
 日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。

 翌年1972年ニクソン訪中は日本に衝撃を与え、1972年9月29日田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。
 その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。
 これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。

台湾問題   

金門島中華民国実効統治)における「三民主義統一中国」のスローガン
対岸の廈門市中華人民共和国実効統治)にある「和平統一 一国両制」のスローガン

 台湾問題(たいわんもんだい)とは、中華民国実効統治している台湾の政治的地位および主権帰属に関する中華人民共和国と中華民国の政治問題を指す。なお、中台間では、両岸問題の呼称が用いられている。

 台湾を巡っては、両国の政党や論者により、さまざまな見解がある。主な論点を挙げると、中華民国による台湾接収の是非や、中華民国と中華人民共和国の関係、さらに現代における台湾人の基本的ルーツが原住民に有るのか、漢民族に有るのかなど、台湾の歴史、文化、政治の各方面に及んでいる。

問題の歴史的背景

 台湾史の特徴は、外来政権による統治と、住民のアイデンティティーの変遷である。

先史時代と台湾原住民、中国側の記録

 先住民であるマレーポリネシア系の台湾原住民は部族ごとに別れて国家を建設することはなく、また文字がないため歴史記録を残さなかった。
 朝が13世紀後半に、澎湖諸島に行政機関を設置したという史料があるが、台湾本島にまで領有範囲が及ぶことはなかった。
 その後、漢族朝が澎湖諸島を領有したが、やはり台湾本島にまでは領有が及ばなかった。

外来政権(スペイン人・オランダ人)と漢民族の流入

 台湾内部の歴史が記録されるのは、最初の外来政権であるヨーロッパ人の到来以降である。17世紀になるとスペイン人が台湾島北部を一時領有し、更にはオランダの東インド会社が現在の台南市を中心として台湾島南部を制圧した。

 東インド会社は福建省広東省沿岸部からの移住民を大量に募集して開墾を進めた。そのため、労働力として漢民族の男性が移入し、原住民(特に平埔族)の女性と混血していった。

鄭成功政権

 その後、「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功が、1661年から台湾のオランダ人勢力を攻撃した。翌1662年には最後の本拠地であるゼーランディア城も陥落させ、オランダ人は全て駆逐されていった。
 鄭成功は台湾を東都と改名して「抗清復明」の拠点とした。1662年に彼が死去した後も、息子である鄭経が「抗清復明」の基地化を進めていった。

清朝の統治と漢民族への同化政策

 鄭氏による台湾支配はその後の朝の攻撃によって短期間で終わり、台湾は清朝の支配下に入ることとなった。しかし、当初清朝は、抗清勢力を壊滅させる為に台湾島を攻撃したので台湾島の領有には消極的であった。

 だが、最終的には海賊の蔓延を防ぐという軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし、それ故に、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域に及ぶことはなく、半ば見捨てられた島状態となって行った。以上の経緯が台湾独立派の主張する「歴史的に中華人民共和国の台湾領有権は不当」の根拠の一つになっている。

転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか

[転載]宮古島島民台湾殺害事件は、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である

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宮古島島民台湾殺害事件

   
宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。
  日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する[1]

  日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。
宮古島島民遭難事件 場所 日付 標的 兵器 死亡者 負傷者 犯人 動機
Mudan Incident of 1871 tombstone.jpg
那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」
台湾南部、当時の地名双渓口
1871年(明治4年)11月8日
年貢を納めて台風に遭い台湾山中を彷徨える琉球人
蕃刀
54人
虎口を脱せし者12名
台湾パイワン族
不明


事件の概要

発端

 納税の帰り、4隻の船が1871年(明治4年)10月18日、那覇を出港。風がやみ慶良間諸島に止まっていたが、10月29日に出発。強風に遭い、八重山船の1隻は行方不明となり、1隻は台湾にたどりついた。船は十二端帆船、144石積みと当時としては大型で、別名、山原船(やんばるせん)と言う。宮古船の1隻は宮古島に着いたが、他の1隻はこの遭難事件に遭った。

 漂着したのは台湾南東岸の高雄州恒春郡満州庄九柵であり、64名がここに上陸した。そこへ言葉の通じない2人の現地人が現れ、略奪などを働いた。
 漂着者たちは岩の洞窟に泊まったりしながら、山中をさまよったのち、首切りにあった。詳しくは「生還者ヨリノ聞書」(大山鹿児島県参事上陳書付属書類の2にある)参照。また照屋宏は1925年生存者島袋亀から聞き取りし、記録している。

遭難事件の記録

琉球政府の記録

 琉球政府で記録したものをここに記す。宮古島69人台湾で遭難、12人生残り、福州府に護送せられ帰唐船へ乗付那覇に帰着した中の二人、仲本筑登之(仲本加奈)、島袋筑登之(島袋次良)よりの聞書を示す。
明治4年10月18日、宮古島(2隻)と八重山(2隻)の船計4艘は那覇港から出帆した。船は琉球近海の慶良間島に到着、そこで風や潮の状態をみて、29日同所出発、11月1日、大風が吹いて、宮古島行の一つの船は漂流した。
 11月5日、台湾の山を発見した。6日上陸開始したが、上陸時3人は溺死した。64人が上陸して、人家を求めて徘徊した。漢族二人に逢い、人家の有無を質問したら、西方にいけば大耳の人あって首を切るので、南方にいけと教えた。両人の案内にて南方に向かう。
 両人衣服類は奪い取る。悪人の同類が多いだろうと落胆した。両人の教えに従い石の洞窟に泊まった。両人は盗賊の類と思い、別れて西に転じた。(中略)7日、南方に人家15、6軒あり。
 人あり小貝に飯を盛り66人に与えた。しかし残りの所持品を奪った。投宿す。  
8日朝、現地人は宮古人に向かって、我ら猟にいかんとす、ここに待てとあるが、疑惑を生じ、散りじりになる。人家5、6軒あり、一人の老翁が、琉球なら那覇か首里かと問う。
 この人は危害は加えなかったが、その後に、30人くらいが追ってきて、宮古人の簪、衣服を剥ぎ取る。1、2人ずつ門外に追い出し、刀をもって首をはねた。(以下略、生存者が那覇港に帰るまでのことが記載されている。)

生存者の1925年の報告

 政府関係者が聞きとったとは別の情報もある。照屋宏は老齢になった生存者、島袋亀から1925年12月、那覇で直接話を聞いた。殺害の直前、蕃産物交換業者の凌老生宅に逃れてきた遭難者たちがいた。集落から追ってきた蕃人たちは酒2樽を要求したが、凌老生宅にはたまたま酒樽がなかった[5]
 亀とその親は、凌老生が意味ありげに目配したのに気付き、床下に隠れた。知らない間に何人かがすでに門外に連れ出されていた。掴まれた細帯を振り切って逃げた幸運なものもいたが、頭髪を掴まれ引きづられて殺害されたものもいた。一行のうち、捉えられた浦崎金は牛と交換され、同じく平良は反物5反と交換され難を逃れた[6]。現場は双渓口の原っぱで、犯行は大勢の蕃社の人により行われた。

その後の経過

 現地人の天保、林阿九が生存者を匿い、また土地の有力者の楊友旺も協力、保護にあたった。彼らはその他に現地人を宥めるために多大の出費も行った。現地には50余体の首のない死体がころがっており、相当時間放置された。楊は自宅に40日間、生存者12名に食事を与え、手厚く保護し、長男の楊河財、甥の楊河和を伴わせて生存者を台湾府城(現台南市)に送った。
 経路は陸路、統補(地名)を経て、車城(地名)から海路であった。事件は台湾を管轄する福建の地方官から清国の中央政府に報告され、清朝政府は生存者を途中で保護し、福建を経由し琉球へ送り返すべく、琉球からの入貢船を待った[7]

 この間、生存者は台南にある台湾府城で、八重山船の遭難者に会い、一緒の船で中国の福建省福州府に輸送され、半年琉球館(琉球王国の出先機関)の保護をうけた。そして、1872年(明治5年)6月7日、那覇に帰着した。

 救助をした楊らは犠牲者の供養をし、現場に墓を建て、頭蓋骨以外はそこで埋葬した。後に統捕に墳墓を建て直した。台湾出兵時、統捕に建て直した墓地に日本軍により記念碑が作られたが、石に適当なものがなく中国本土からとりよせた。軍隊が台湾を離れる直前に完成した。頭蓋骨は、日本軍が探したが発見できず、後に述べる様に、輸送中の44個の頭蓋骨を確保し、日本に持ち帰った[8]

首狩は当時台湾にあったか

 鹿児島県参事、大山綱良が明治政府に出した「上陳書付属書類」によると、仲本筑登之と島袋筑登之両人の話として「殺した人の肉を食うという説もあり、また脳をとりだして薬用にするという説もある」と書いている。

 別の文献には、生蕃の現地人はその性質が非常に残忍であり、人肉食の習慣がある、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。
また台湾原住民(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあったという記述もある。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。なお、出草については、一部の蛮人が晩秋から初冬にかけて、鹿狩りをすることをいうという説明もある[9]

 これは、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団が、それぞれ全く交流することなく狭い台湾島内にモザイク状に並存していたため、互いに異なる部族への警戒感が強かったことによるとされる[10]

 『図説 台湾の歴史』 によると[11]台湾の台北県北里郷にある十三行遺跡(今から約1800年前から800年前)に出土した骸骨には傷があったり、首のないものもあり、あるいは首狩りが行われたと思われるとある。

その後の経過[編集]

琉球を管轄していた鹿児島県参事の大山綱良は日本政府に対し、責任追及のための出兵を建議した[21]。政府は、この琉球漂流民殺害事件に対して、清朝に厳重に抗議したが、琉球漂流民保護の責任問題はもつれた。さらに、1873年(明治6年)には、台湾に漂着した備中国(岡山県)柏島村の船の乗組員4名が略奪を受ける事件が発生し、政府内外に台湾征討論が高まった[21]
同年特命全権大使として清国に渡った外務卿副島種臣は、随員の柳原前光にこの件を問いたださせたが、清朝の外務当局によって「原住民は『化外の民』(国家統治の及ばない者)である」という責任回避の返答があるのみであった。
軍人や士族の強硬論におされたこともあり、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った[21]。この軍事行動は、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。

台湾出兵

 1871年(明治4年)11月の宮古島民遭難事件に端を発して、早くも1872年(明治5年)に鹿児島県参事大山綱良らの台湾征伐論が台頭し、自ら征伐せんと請うた。
 日本政府は、琉球藩が、日本と清国の両属関係にあったことはよく承知しており、いずれその決着が必要と考えていた。外務卿副島種臣は征蕃の志を有し、米国公使でチャールズ・デロング、同国人チャールズ・ルジャンドル(李仙得)を招いて政府顧問にして備えた[22][23]
 翌年になり、政府の方針が決定した。琉球の側は、清国を刺激せず両属関係を維持することを求め、日本政府へ出兵を取り止めるよう嘆願していたが、事実とは異なる情報戦略が、滋賀新聞紙上で展開してされていたこと(当時の滋賀県令は、後の琉球処分官松田道之であった)を大浜郁子が明らかにしている[24]
1873年(明治6年)3月9日、副島種臣に明治天皇は勅語を賜った。
 朕聞く、台湾島の生蕃数次わが人民を屠殺すと。若し捨て問わんとするは、後患なんぞ極まらんと。今なんじ種臣に委するに全権をもってす。なんじ種臣、それ往きて、之を伸理し(道理のあることを主張する)、以て朕が民を安んするの意に副えよ。欽哉(つつしめや)

 副島は1873年旗艦龍驤に乗り横浜を出発した。天津において李鴻章と日清修好条約を締結したので、北京に赴き清国皇帝に謁見した。その直前、謁見の方法でこじれていた時、彼は台湾事件に関して清廷の処置を尋ねた。
 総理部門の大臣(軍機大臣文詳)は、生蕃と熟蕃があり、王化に服するのを熟蕃といい、服従しない生蕃は化外に置いて支配せずと答えた。これは日本の征蕃の根拠を与えたが、文書によるものではなく、口頭の言質にとどまった[25]。そこで我が臣民は「貴国が化外の民として治めずんば、我が国は一軍を派遣して、わが民を害する残忍な蕃人を懲罰すべし。他日異議あることなかれ」、と言明した。

 副島は帰国し、復命した。しかし、1873年(明治6年10月)の征韓論争に敗れたため下野した。1874年(明治7年)4月、西郷従道に台湾征伐の命が下った[26]

西郷従道
 台湾蕃地処分につき、汝従道に命じ、事務都督たらしむ。凡そ陸海軍務より賞罰のことに至るまで委するに全権をもってす。我が国人を暴殺せし罪を問い、相当な処分を行うべきこと。若しもその罪に服さざる時は、臨機兵力をもってこれを討すべきこと。わが国人の彼地に至る時、土人の暴害に罹らざる様、能く防制の方法を立てるべき事。
 ここにきて突然、清国政府が異議を唱え、また以前はあおりたてていたアメリカ大使とイギリス公使が突然意見を変えた。米国公使ピンガムは局外中立を宣し、英国公使ハリー・パークスも出兵を批判した。大隈長官は出兵中止を伝えたが西郷は同意せず、また、日本軍隊の士気もすこぶる高く、出航をさしどめたら何がおこるかわからない状態であった。
 しかし、アメリカ、イギリスの船を使う計画は実現困難になった。勅書をたてに5月3日、兵員3658人を従え軍艦日進孟春は長崎から出航した。次いで、大有丸、明光、運送船三邦丸と、運よく長崎に入港した米国商船シャスペリィを購入し高砂丸[27]とし、また英船デルター号を買収して社寮となづけ、5月16日に出港した[28][29]

台湾出兵時の日本人兵士

 西郷は陸軍少将谷干城と海軍少将赤松則良を従え出港した。清国政府海防役人の要求も無視し[30]日本軍は激しく侵攻、熟蕃、生蕃各社は降伏した。
 最終的には牡丹社と高士仏社の頭目も降伏。西郷従道は蕃人との交歓に意を尽した[31]また従道は殺害された被害者の遺骨を集め、現地人で救助にあたった楊らの協力を得て現地に墓を造った。

戦後処理

 事後処理として日本政府は大久保利通を北京に派遣し、交渉は9月10日に開始された。北京に派遣された大久保利通は、日本の意見を強力に主張した。

 これに対し、清国政府代表(清国軍機大臣恭親王、大学士文禅)は激しく抗議した。清国の主張は、台湾生蕃の地は清国の属地である、「台湾府誌」に載せているのは属領の証拠である、清国の内地にも蕃地がある、化外の民といったのは文書でなく、口頭の言明にすぎない、万国公法は西洋諸国が編成したもので、清国は納得しないなどである。

 交渉は平行線のままに進み決裂寸前であった。中国側とは会議7回、また清国駐在イギリス大使トーマス・ウェードとの間に8回の会見もあった。大久保は最後に帰国の意思をほのめかしたが、中国の対応は極めて悠長であった。
 土壇場にきた大久保は台湾蕃地は中国の領土でないという主張を引込め、ひたすら償金を引き出すように論点を移した。台湾蕃地が中国の属国でなければ、償金を取り立てる根拠がなくなるのである。

 大久保はウェードの調停により互換条約の調印にたどり着いた。償金50万両を支払い今回の日本の台湾出兵は義挙(正義)の行動であると清国が認めることになった[32]もっとも日本の戦費はこの10倍に上った[33]

 清国はこの事件を不是となさざること。(「日本の台湾出兵を保民の義挙」と認める)清国は遺族に対し弔意金を出す。日本軍が作った道路、宿舎は有料で譲りうける。両国は本件に関する往復文書を一切解消する。清国は台湾の生蕃を検束して、後永く害を航客に加えないこと。日本軍は1874年12月20日まで撤退する。

 この条約によって、両国は、琉球は日本国の領土であり、台湾は清国の領土であることを認めた。また、琉球民のことを「日本国属民」と表現することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利な結果となった[34]

 琉球国は廃藩置県の前に早くも日本の領土として取り扱われ、あくまで一国の形態を維持している琉球国(藩)に業を煮やした日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行した。
 その結果、沖縄は従来外務省の扱いであったのが(1872年9月28日)、内務省扱いに変更(1874年7月12日)になった。しかし、最終的に琉球の国籍が確定するのは、日清戦争で日本が勝利して後のことであった。

その後の台湾と宮古島の関係

 また沖縄戦の前後の時期には、一万人弱の人々が宮古島から台湾に強制的に疎開している[51]。なお、宮古島も含む先島諸島から九州以北への組織的疎開は行われていないが、個人的な疎開は散見される。

 宮古島と台湾の関係においては、現在でも、高校、中学レベルの交流が行われている[52][53]1997年(平成9年)1月、宮古商工会議所の一行により台湾南部観光旅行の際に宮国文雄は最初の墓参をおこない、同4月に第2回目の墓参をおこなった。西郷の建立した、〈琉球藩民五十四名墓〉の文字は読み取れるが、あったはずの〈大日本〉の字は消されていた。
 この文献には、はっきり大日本が読み取れる[54]。事件の地も訪問したが、現地と思われる処は台湾3軍の演習地とあり、入れなかった。 2005年(平成17年)6月、台湾から当時の事件を謝罪したいと子孫たちが沖縄、宮古島を訪れ、日本側の子孫と友好の握手を交わした[55]

転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか

[転載]竹富島に苦力イギリス遭難慰霊碑建立を!苦力貿易船の竹富島沖座礁事件&苦力貿易船 竹富島 座礁 1866年 で検索

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苦力貿易船 竹富島 座礁 1866年 で検索


苦力貿易船の竹富島沖座礁事件

竹富町史から引用

ロバート・バウン号事件から14年後の1866年6月17日、中国人苦力340人を乗せた船が、竹富島蔵元前の浜で台風に遭って座礁した。
溺死者114人、行方不明者62人、生存して帰還した者は166人で犠牲者は半数に達した。

溺死者114名のうち、竹富島へ流れ着いた中国人の死骸は39人、小浜へは24人、高那村へは1人、黒島村へじゃ34人,冨崎浜へは19人であったという。

イギリス人船の船主から
「海上航海用の食料と用水、その他船具などの所望品を用意してくれるように」と要望があり、それに応えた。

1866年7月1日
台湾から派遣された迎船が、崎枝村の前の沖に到着した。

冨村親雲上らの当局は、イギリス人から所望された牛1頭、??100斤、帰還用の10日分の食料・野菜・肴・薪木等を提供したところ、イギリス人は謝礼として、文書1通を提出した。



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バウン号の苦力反乱と琉球王国―揺らぐ東アジアの国際秩序 (沖縄学術研究双書 (1)) 単行本 – 2001/5




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転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか

[転載]中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。 南蛮貿易と日本人奴隷 〜日本人女性50人で火薬1樽

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南蛮貿易と日本人奴隷 ~日本人女性50人で火薬1樽~【CGS ねずさん 日本の歴史 7-1】



バテレン追放令

   
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日天正15年6月19日)に筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において豊臣秀吉が発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreから由来。
原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。


概説

豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。1586年(天正14年)3月16日には大坂城イエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化されていることを知らされた。これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め、この翌日の6月19日7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モールドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。

『天正十五年六月十八日付覚』原文

  • 伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事、
  • 国郡在所を御扶持に被遣候を、其知行中之寺庵百姓已下を心ざしも無之所、押而給人伴天連門徒可成由申、理不尽成候段曲事候事、
  • 其国郡知行之義、給人被下候事ハ当座之義ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不尽之義何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事。
  • 弐百町ニ三千貫より上之者、伴天連ニ成候に於いてハ、奉得公儀御意次第ニ成可申候事、
  • 右の知行より下を取候者ハ、八宗九宗之義候條、其主一人宛ハ心次第可成事、
  • 伴天連門徒之儀ハ一向宗よりも外ニ申合候由、被聞召候、一向宗其国郡ニ寺内をして給人へ年貢を不成並加賀一国門徒ニ成候而国主之富樫を追出、一向衆之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候而、天下之さはりニ成候儀、無其隠候事。
  • 本願寺門徒其坊主、天満ニ寺を立させ、雖免置候、寺内ニ如前々ニは不被仰付事、
  • 国郡又ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内を立て候よりも不可然義候間、天下之さわり可成候條、其分別無之者ハ可被加御成敗候事、
  • 伴天連門徒心ざし次第ニ下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事、
  • 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
  • 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。
右條々堅被停止畢、若違犯之族有之は忽可被処厳科者也、
天正十五年六月十八日     朱印 — 天正十五年六月十八日付覚[1][2]
(大意)
  1. (自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
  2. (大名が)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
  3. 大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
  4. (知行地が)200、3000以上の大名は、キリスト教徒になるには、朝廷や幕府に報告をし、その思し召しの通りにできることとする。
  5. 知行地がこれより少ない者は、八宗九宗[注 1]などのような宗教上のことだから、その本人の思い次第であってよい。
  6. キリスト教徒については、一向宗以上に示し合わせることがあると、そう聞いているのだが、一向宗はその国郡を寺領(寺内町)を置いて大名への年貢を納めないだけでなく、加賀国を全てを一向宗にしてしまい、大名の富樫氏を追放し、一向宗の僧侶に治めることを命じ、そればかりかさせ越前国までも取ろうとし、治天下の障害になっていることは、もう隠しようがない事実だ。
  7. 本願寺の僧侶には、天満の地に寺を置く(=天満本願寺)ことを許しているが、この(一向宗の)寺領のようなものは以前から許したことはない。
  8. 国郡や領地をもつ大名が、その家臣達をキリスト教徒にさせようとすることは、本願寺の宗徒が寺領を置くことよりもありえないことであるから、治天下の障害となるので、その常識がわからないような者には処罰ができることとする。
  9. (大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。
  10. 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。
  11. ウシやウマを売買して食べることは、これもまたけしからんことである。
ことごとくこれらの条文で固く禁止し、もし違犯する連中があればすぐに厳罰に処する。
以上 天正15年(1587年)6月18日


◆鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249~ P282より

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。
しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。
キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。




天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。

「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。



       秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。

秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。

       ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。

       しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。


転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

[転載]『文永・弘安の役』(1274~)で元軍と奮戦して討ち死にした対馬島主宗資国公を祀る小茂田浜神社。 毎年11月12日を記念した “大祭” が催されています。 今年も旧藩主宗家からのご参加を得て、厳粛な式

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樋口〇〇作




小茂田浜の歌
一.
頃は文永十一の    浪の花立つ神無月
傲慢無礼の蒙古勢  海をおおうて寄せ来る
助国公を始めとし   一族郎党おしなべて
忠義一途の対馬武士  頼む心の一すじは
霰たばしる真剣ぞ   踏み迷わじ万張?の
月は照りその神前に 一歩も入れじとただ進め
進め勇めの号令よ  吶威?一声いかづちの
天地に響くばかりなり

二.
智勇仁義の名将の  下弱卆のあるべきぞ
忠臣心をあつめつつ 御陵威を楯となり
きらめく剣に将を?り とどろく蹄に旗を抜き
死して忠戦の鬼となるも 生きて異国の奴なる?
寸歩も去らず戦?    敵は竹葦と攻め囲み
流石武勇の英将も  いとも手痛き戦いに
五丈?頭星落ちて  ?なお暗きなりにけり?


三.
中にも斉藤資定は、二つの腕はたたれても
忠義の二字は凛然と 大喝 敵をしりぞけて
顔を岩にふれて死す 散りきわ潔き山桜
大和心に?みしらは 小茂田の浜を落ちていく
若葉の木の光こそ  実に国民の基盤なれ




www.youtube.com/watch?v=OkaU0DM4axw
『文永・弘安の役』(1274~)で元軍と奮戦して討ち死にした対馬島主宗資国公を祀る 小茂田浜神社。 毎年11月 ...
再生時間:1:39
投稿日:2015年11月11日
www.youtube.com/watch?v=jzTPO3_Jbow
ja.wikipedia.org/wiki/小茂田浜神社 - キャッシュ
小茂田浜神社の前の浜には、小茂田浜の歌の石碑が設置され、元寇襲来の様子が 永久に伝えられている。 樋口 作詞. 元寇の様子を伝える歌. 一. 頃は文永十一の 浪の 花立つ神無月. 傲慢無礼の蒙古勢 海をおおうて寄せ来る.
ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:小茂田浜の歌の石碑.JPG
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小茂田浜の歌樋口〇〇作 一. 頃は文永十一の 浪の花立つ神無月 傲慢無礼の蒙古 勢 海をおおうて寄せ来る 助国公を始めとし 一族郎党おしなべて 忠義一途の対馬武士 頼む心の一すじは 霰たばしる真剣ぞ 踏み迷わじ万張?の 月...
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日本史に特筆される“元寇”の国境の戦いでありました。 今日はその助国公を祀る 小茂田浜神社の大祭。 ... 神の御手により天誅が下るさん『小茂田浜の歌』の歌詞を ありがとうございました。 行くたびに聞いているのですが、歌詞を持ちませんで ...
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2016年7月5日 - 文永の役で元・高麗軍の上陸地に戦死した宗助国を奉斎、11月に武者行列[住所]長崎 県対馬市厳原町小茂田742 ... 小茂田浜神社の前の浜は、小茂田浜と呼ばれ、文永の 役の上陸地であり、現在は小茂田浜の歌の石碑が設置され、元寇 ...
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「小茂田浜」の用例・例文集 - 文永の役では町西部の小茂田浜に元・高麗軍が襲来し、 大きな被害を受けた。 河口は港が整備され、 ... 小茂田浜神社の前の浜には、小茂田浜の歌の石碑が設置され、元寇襲来の様子が永久に伝えられている。 … 小茂田浜神社 ...
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現地の説明板によると、対馬で家を建てるときに歌われる「地つき唄」に「琴の銀杏の木 は対馬の親木(おやき)胴の囲りが三 ... 尾浦海水浴場 ・安神海水浴場 ・小茂田浜海水 浴場 ・美津島町海水浴場/対馬グリーンパーク ・茂木浜海水浴場 ・三 ...
video.weblio.jp > ... > 文化 > 神社名 > 小茂田浜神社の意味・解説
小茂田浜神社 対馬 小茂田浜神社 対馬. 2013年10月25日. 小茂田浜の歌『文永・弘安 の役』(1274~)で元軍と奮戦して討ち死にした対馬島主宗資国公を祀る小茂田浜神社 。 毎年11月12日を記念した “大祭” が催され... 2015年11月11日. 小茂田浜の花火!




転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう


[転載]石垣島平和公園 1945(昭和20)年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、沖縄県民の4人に1人にあたる20万人を超える犠牲が出ました。

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『平和のメッセージ』がてんこ盛り 戦争放棄の島、石垣





沖縄では今日、68年前の沖縄戦全戦没者を悼む「慰霊の日」を迎えます。1945(昭和20)年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、沖縄県民の4人に1人にあたる20万人を超える犠牲が出ました。その沖縄戦の犠牲者の霊を慰めるため県内各地で慰霊祭が行われます
石垣市でも正午に新栄公園内平和の鐘にて「平和祈念鐘打式」、午後3時からはバンナ公園内にある八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑の前で「八重山戦争マラリア犠牲者追悼式」、16時からはバンナ公園の入口近くの「八重守之塔」で
「石垣市全戦没者追悼式ならびに平和祈念式」が行われます。...
みなさん、今日は1日平和について考える日にしましょう

【慰霊の日とは】
沖縄県では、沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」とし、休日としています。
全戦没者を悼み、平和を祈る日とされ、毎年この日は沖縄県内各地で全戦没者追悼式が開かれています。

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「憲法9条は、日本の平和及び安全の道標であることを確信している。しかし内外の諸情勢には、いぜん厳しいものがある。よって私たちは迷うことなく「憲法9条の碑」をここに設置し、改めて内外にその意義を闡明(せんめい)にする。  2004年11月3日 憲法9条の碑設置石垣市民の会  デザイン・潮平正道 書・豊平峰雲 」


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 沖縄戦において日本の最南端に位置する石垣島の近隣の島々では、日本軍の命によってマラリア有病地帯への強制移住があり3600余の犠牲者を出した悲惨な戦争体験がある。日本の侵略を受けた国々と常に隣接し国境の地に住む島人達は、憲法9条に平和を託するところは大きい。 人口4万6000余の住む石垣市で、去る6月「憲法九条の碑」設置市民の会を設立、かつて日本の侵略を受けた中国大陸の石に、平和の誓いである九条を刻み碑とする事を考えた。鳩を刻んだ石(高3.4m)を平和のシンボルとして、今、倒れようとする平和の石を、憲法9条を刻んだ巨石がこれを支える事を意味するデザインとし、現憲法の公布の日である11月3日に序幕した。



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翁長雄志が尖閣諸島の安全確保を要請 石垣市の圧力で就任後初めて



わが国周辺海域における中国の活動の状況

海上戦力の動向としては、中国海軍の艦艇部隊による太平洋への進出回数が近年増加傾向にあり、当該進出は現在も高い頻度で継続している68。この際、中国海軍の艦艇部隊は、08(同20)年以降、毎年複数回、沖縄本島と宮古島の間の海域を通過しているほか、12(同24)年以降、毎年大隅海峡や、与那国島と西表島近傍の仲ノ神島の間の海域を通過している。

また、15(同27)年3月には、奄美大島と横当島(よこあてじま)の間の海域を西進した。さらに、08(同20)年10月及び16(同28)年2月には津軽海峡を、また、13(同25)年7月、14(同26)年12月、15(同27)年8月には宗谷海峡を通過するなど、わが国の北方を経由した活動も定期的に実施されるようになってきている。

このように、中国海軍の艦艇部隊による太平洋進出・帰投ルートは、わが国の北方を含む形で引き続き多様化の傾向にあるなど、外洋への展開能力の向上を図っているものと考えられる。また、13(同25)年10月には、西太平洋で初となる海軍三艦隊合同演習「機動5号」が実施されたほか、14(同26)年12月にも、同様の三艦隊合同演習が実施されたとみられる69

このほか、東シナ海においては、継続的に中国海軍艦艇が活動しているとみられており70、中国側は尖閣諸島に関する中国独自の立場71に言及したうえで、管轄海域における中国海軍艦艇によるパトロールの実施は完全に正当かつ合法的である旨発言している。13(同25)年1月には、中国海軍艦艇から海自護衛艦に対して火器管制レーダーが照射された事案や、中国海軍艦艇から海自護衛艦搭載ヘリコプターに対して同レーダーが照射されたと疑われる事案が発生している72。また、16(同28)年6月、中国海軍のジャンカイI級フリゲート1隻が、尖閣諸島周辺のわが国接続水域内に入域した。中国海軍戦闘艦艇による同接続水域内への入域は初の事案である。さらに、近年、中国海軍情報収集艦による活動も複数確認されている。

15(同27)年11月、尖閣諸島南方の接続水域の外側の海域で、同年12月及び16(同28)年2月には、房総半島南東の接続水域の外側の海域で、それぞれ中国海軍ドンディアオ級情報収集艦(AGI)1隻が往復航行を実施した。また、同年6月には、同型情報収集艦1隻が、口永良部島(くちのえらぶじま)及び屋久島付近のわが国領海内を航行した後、北大東島北方の接続水域内を航行し、その後、尖閣諸島南方の接続水域の外側を東西に往復航行した。中国海軍艦艇による領海内航行は約12年ぶりである。

このように、最近、尖閣諸島に関する独自の主張に基づくとみられる活動の推進をはじめ、中国海軍艦艇が尖閣諸島を含めてその活動範囲を一層拡大するなど、わが国周辺海域における行動を一方的にエスカレートさせており、強く懸念される状況となっている。
16(平成28)年5月に上部構造物の設置が確認された
海洋プラットフォーム第12基

中国公船の動向としては、尖閣諸島周辺のわが国領海において、08(同20)年12月に「海監」船が徘徊(はいかい)・漂泊といった国際法上認められない活動を行った。また、10(同22)年9月には、尖閣諸島周辺のわが国領海において、わが国海上保安庁巡視船と中国漁船との衝突事件が生起している。その後も、11(同23)年8月、12(同24)年3月及び同年7月に「海監」船や「漁政」船が、当該領海に侵入する事案が発生している73

このように、「海監」船及び「漁政」船は、徐々に当該領海における活動を活発化させてきたが、12(同24)年9月のわが国政府による尖閣三島(魚釣島、北小島及び南小島)の所有権の取得・保有以降、このような活動は著しく活発化し、当該領海へ断続的に侵入している。13(同25)年4月及び9月には、当該領海に同時に8隻の中国公船が侵入した。同年10月以降は、領海侵入を企図した公船の運用状況74からルーチン化がみられている。そのため、運用要領などの基準が定まった可能性も考えられる。


また、15(同27)年12月26日以降、機関砲とみられる武器を搭載した公船75がわが国領海に繰り返し侵入するようになっている。このほか、尖閣諸島近海に派遣する公船は大型化が図られており、14(同26)年8月以降、わが国領海に侵入してくる公船のうち、少なくとも1隻は3,000トン級以上の公船である。また、15(同27)年2月には、初めて3,000トン級以上の公船が3隻同時にわが国領海に侵入した。

さらに、中国は世界最大級となる1万トン級の巡視船の建造も進めており、既に2隻76が試験航行を実施したとされている。このように、中国公船によるわが国の領海侵入を企図した運用態勢の強化は着実に進んでいると考えられる。

なお、12(同24)年10月には、中国海軍東海艦隊の艦艇が「海監」船や「漁政」船と領土主権及び海洋権益の維持・擁護に着目した共同演習を実施し、海軍の退役艦艇を13(同25)年7月に正式に発足した中国海警局77に引き渡しているとみられるほか、14(同26)年にも海軍と「海警」の連携訓練や海軍と「海巡」の共同訓練「海神2014」が行われるなど、海軍は、運用面及び装備面の両面から海上法執行機関を支援しているとみられる。


参照図表I-2-3-4(わが国周辺海域における最近の主な中国の活動)



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古賀 辰四郎(こが たつしろう、1856年2月23日安政3年1月18日) - 1918年大正7年)8月15日)は日本の実業家尖閣諸島の開拓者。

沖縄県石垣市離島ターミナル港近くの八島緑地公園に、尖閣列島開拓に心血を注いだ「古賀辰四郎」氏の偉業を記念して「古賀辰四郎 尖閣列島開拓記念碑」が平成7年に建てられた。
碑文
古賀辰四郎は福岡県の人 廃藩置県明治12年来県。同年那覇で古賀商店を、明治15年石垣島大川村海岸近くに八重山支店を開設した。明治29年日本政府の許可を得て尖閣列島魚釣島 南小島 北小島 久場島で海陸物産の開拓に心血を注ぎ、生産物資は外国にも輸出。国 県の経済 社会に大きく貢献 明治42年藍綬褒章を授与された。
子息善次は昭和7年四島を国より払下げを受け その没後は妻花子がこれを管理した。戦後古賀家の遺産は遺言により埼玉県の実業家の栗原國起がこれを継承。財団法人古賀協会を創立 沖縄県のスポーツ振興面に貢献しつつある。絶海の無人島に私財を投じ父子二代の生涯をかけた開拓事業であった。
この度先覚者の偉業を記念するため支店旧地に近いこの地にこの碑を建立した.


1856年(安政3年) - 筑後国上妻郡山内村(現:福岡県八女市山内)に三男坊として生まれる。実家は、茶の栽培と販売を行う農家であった。 1879年明治12年) - 24歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開業。 1884年明治17年]) 人を派遣して久場島を探檢させる(自撰「履歴」に據る)。 1885年明治18年) 人を派遣して尖閣諸島で鳥毛を採取させ、外國人に送付して高價取引可能と知る(自撰「拜借願」などに據る)。 1895年(明治28年) - 尖閣諸島八島のうち魚釣島久場島南小島北小島の四島を明治政府から30年間無料で借受け、家屋建設や船着場設置などの開拓事業に従事。 1909年(明治42年) - 養殖興業の功績を認められ藍綬褒章を受章。 1918年(大正7年) - 死去。


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我が国尖閣諸島周辺海域における中国公船の確認等

平成28年8月10日
  1. 1  我が国からの累次の抗議にもかかわらず,依然として我が国尖閣諸島周辺の接続水域内に複数の中国公船がとどまっていることに加え,9日から10日未明にかけ,尖閣諸島周辺の我が国排他的経済水域において,中国公船が搭載艇等により中国漁船に接舷し,乗組員が移乗したことが確認されました。
    2 これらの状況を受け,本日11時19分頃,金杉憲治アジア大洋州局長から郭燕(かく・えん)在京中国大使館公使に対し,中国公船が我が国接続水域から直ちに立ち去るよう強く求めたほか,また,中国公船が漁船に接舷して,乗組員が移乗したことに関し,中国側に対して事実関係について説明を求めるともに,当該海域において中国による漁業に関する管轄権の行使は認めていないという我が国の立場を強く申し入れました。

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転載元: 国益平和環境安全マネジメントって?

そうだったのか!中国

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そうだったのか!中国 (文庫) 感想 池上 彰 - 読書メーター

bookmeter.com > 読書メーター > 池上彰 - キャッシュ
評価(評価: 74%)評価:74%-204件のレビュー
そうだったのか!中国 (集英社文庫)(池上 彰)の感想・レビュー一覧です。文革の説明が わかりやすくて良かった。今の中国を決定づける出来事だと思うので、きちんと消化 したい。 37 これも良書。中国の民主化はあるのか? 内容が深くて熟読。意外と時間が  ...


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www.amazon.co.jp/池上彰の世界の見方-中国・香港・... - キャッシュ
池上彰の世界の見方 中国・香港・台湾: 分断か融合か
Amazonで池上 彰の池上彰の世界の見方 中国・香港・台湾: 分断か融合か。アマゾン ならポイント還元本が多数。池上 彰作品ほか、お急ぎ便...
価格:1,512円 (2017年3月18日現在)
www.shogakukan.co.jp/books/09388504 - キャッシュ
2016年11月15日 - 池上彰が独自の視点で、世界の国と地域を解説する『池上彰の世界の見方』シリーズの 3冊め。中国・香港・台湾を6つのテーマから読み解きます。1.「分断の歴史」~なぜ「3 つの中国」に分かれてしまったのか? 親日の台湾、反日の中国、 ...
www.youtube.com/watch?v=qMtW2jpxKIY
池上彰 中国まとめ - YouTube
中国「大躍進政策」と「文化大革命」/池上彰の現代史講義 第10 - Duration: 47:44. Neal ...
再生時間:45:36
投稿日:2016年9月19日
www.youtube.com/watch?v=L0Db-zHt2jA
中国と台湾の対立/池上彰の現代史講義 第4回 Ep 1 - YouTube
1945年日本降伏後、中国国内では、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が対立し、 内戦となった ...
再生時間:47:21
投稿日:2016年12月7日
writerzlab.com > ホーム > 社会 - キャッシュ
2016年11月25日 - 今年2016年8月、尖閣諸島周辺に大量の中国漁船が押し寄せました。 その数なんと約 400隻! 漁船に加え、中国・会計局などの公船15隻も、相次いで領海へ侵入。 これに 日本政府は… 「断じて受け入れることは出来ない」(岸田文雄外務 ...
books.rakuten.co.jp > トップ > 本 > 文庫 > 人文・思想・社会 - キャッシュ
評価(評価: 4.6)評価:4.6-86件のレビュー
そうだったのか!中国 - 池上彰 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎 に「楽天スーパーポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。
gadgety.hatenablog.com/entry/ikegamiakira-kinkyusp-141129 - キャッシュ
Photo:Great Wall of China By Si-MOCs 池上彰緊急SPということで、今回は中国の ナゾを特集していました。まだ、開始30分少々が過ぎたところですが、池上さんはよく 本や報道で勉強されていると感じましたが、実際のことは何もわかってい ...
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2016年7月17日 - すっかり投開票日の定番番組となった、池上彰さん(65才)が司会を務める『TXN選挙 SP 池上彰の参院選ライブ』(テレビ東京系)。今回の選挙でも大きな注目を集めた。 番組では今回、自民党と連立を組む公明党、それからその支持母体の ...


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news.infoseek.co.jp > トップ > 新着ニュース > 社会 > 社会 - キャッシュ
2016年7月17日 - すっかり投開票日の定番番組となった、池上彰さん(65才)が司会を務める『TXN選挙 SP 池上彰の参院選ライブ』(テレビ東京系)。今回の選挙でも大きな注目を集めた。 番組では今回、自民党と連立を組む公明党、それからその支持母体の ...
chachacha-mama.seesaa.net/article/239312237.html - キャッシュ
中国と台湾の対立。 池上彰の現代史講義です。(* ̄∇ ̄*) 本当に、現代史がよく解り ます。。。♪ヾ(≧▽≦)ノ彡☆ 今回は、「中国と台湾の対立」です。 なんとなく解っている つもりでも、あんまり解っていなかったんだなあ。って感じがします。 現在の中国と台湾 の ...
www.at-douga.com > @動画 > 歴史・人物 - キャッシュ
中国と台湾の対立/池上彰の現代史講義 第4回. 2011年9月18日に放送された、BS ジャパン・池上彰の現代史講義 ~歴史を知ればニュースがわかる~ 第4回「中国と台湾 の対立」を紹介します。 (所要時間:約1時間40分). 1/7. #4 中国と ...

[転載]ジョージ・A・ファーネス 東京裁判 地球防衛軍 日本4分割占領

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https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・A・ファーネス
ジョージ・A・ファーネス(George A. Furness, 1896年 - 1985年4月2日)は、アメリカ合衆国陸軍軍人弁護士。軍人としての最終階級は少佐東京裁判においては、重光葵の弁護人を務めた。
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ニュージャージー州に生まれ、ハーバード大学を卒業後、ボストンで法律事務所を開業した。太平洋戦争勃発後の1942年に陸軍に召集され、法務関係の仕事に従事し、南西太平洋を転戦した。
戦後は、マニラで行われた本間雅晴田辺盛武中将軍事裁判の弁護を務め、東京裁判においては、高柳賢三と共に重光葵の弁護人となった。東京裁判で、ファーネスは同じく日本側の弁護人の1人である清瀬一郎ウィリアム・ウェブ裁判長の忌避動議を提出するよう示唆している。また管轄権動議では、裁判所の裁判官は戦勝国ではなく、中立国の代表が当たるべきだと主張した。重光の弁護では、自らアメリカ・イギリスに飛んで、緻密な証拠と情報を集めるだけでなく、重光が外交官として築き続けた信頼によって得た、連合国側から集まった重光を擁護する証言を駆使して、重光に有利な弁護活動を行った。元々ジョセフ・キーナン首席検事らも重光を戦犯として起訴する意思はなく、重光起訴は事実上ソ連の要求に連合国側が屈して行われたものであり、またファーネス・高柳の両弁護人の尽力もあって、重光に下された判決は禁固7年という、いわゆるA級戦犯の中では最も軽いものだった。その後、アメリカの占領政策の転換にともなう公職追放の解除を経て、重光は政界にも復帰している。
東京裁判の終了後は、ブレイクニーとともに、豊田副武海軍大将に対する裁判の弁護にあたり、豊田の無罪判決を勝ち取った。
その後は、日本に定住し、1950年には東京で法律事務所を開設した。

映画テレビドラマに興味を持っていたファーネスは、製作会社に談判し、日本の映画・テレビドラマ数作に俳優として出演している。

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

  • 私は貝になりたい1958年KRテレビ):極東国際軍事裁判における、主人公・清水豊松らの弁護人
  • 下記2作は、ファーネス自身がかつて法廷で対峙した、ウィリアム・ウェブ裁判長を演じている。
  • 日時計(1983年、NHK『NHK特集』)
  • 皮肉にも、もし原爆の開発が遅れていたなら
  • 日本は4分割占領されていた可能性がありました。
  • http://livedoor.blogimg.jp/kaigainoomaera/imgs/3/e/3e73d707-s.png

  • http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010283900

  • よく誤解されているのですが、実は日本は分割統治されているのです。

    我々はついつい現在の自分達の視点で物を見がちです。
    日本という国は「北は北海道から南は沖縄までの日本列島を指す」と思い込んでいます。
    しかし、戦前の常識はそうではありません。
    北はサハリン、千島列島から南は台湾まで、朝鮮半島も含めた広大な領土が日本だったのです。

    現在の日本の総面積は37万8千平方キロ。
    しかし戦前は樺太、千島列島、台湾、朝鮮半島を加え、実に72万平方キロの領土があったのです。
    戦後、樺太・千島はソ連へ、台湾は中国へ、朝鮮半島は連合国へ、そして沖縄もアメリカへ奪い取られています。
    その総面積は約35万平方キロ、半分近い領土が分割統治されてしまっているのです。


    さて、それを踏まえて考えます。

    確かに日本は独立を認められました。
    しかし、元々の連合国側の考えはそうではありません。北海道・本州・四国・九州までもフランスやイギリスに分割統治させる案が存在していました。
    さすがに終戦間際になればそこまで現実離れした案は取りようもなく、それでも前例のない「国家への無条件降伏」という方式で連合諸国の委任統治という形を取ることにほぼ決定されていました。
    ところが、昭和20年8月にソ連は連合国に断りもなく対日宣戦を表明、更にポツダム宣言を受け入れた日本に攻撃をしかけるというとんでもないルール破りを始めたのです。

    元々アメリカは北海道まではソ連に委任させるつもりでいました。
    ソ連のスターリンはルーズベルト大統領に絶対の信頼を受けていたのです。
    ところが1945年(昭和20年)4月にルーズベルトは死去、ハリー・トルーマンが大統領に就任します。
    戦後はソ連とアメリカのお互いの利益の乖離につながることを悟っていたトルーマンはソ連に対して強硬路線を明確にしており、原爆の使用もソ連に通告して投下するという行為まで行っていました。
    このままではアメリカに全てを奪われると焦ったスターリンは対日宣戦を決断し、武力行使を始めたのです。

    実際には、トルーマンはルーズベルトの政策の継承を行うことを宣言していました。
    確かにルーズベルト時代に外政担当だったトルーマンはソ連に厳しい態度を取っていましたが、それは必ずしもルーズベルト時代の約束を反故にするという明確な意思があったわけではないのです。

    それなのにスターリンは、焦って羊の衣を脱ぎ捨て狼の本性を現してしまった。
    共産主義革命の最大の障害である日本帝国を排除するため利用していたアメリカに、最後の最後でその正体を曝してしまったのです。

    愕然としたアメリカは、北海道に原爆を落としてでもソ連の侵入を阻止するという強い態度を示します。
    ソ連にとって、更に強力な共産主義革命の障壁が出現してしまったのです。

転載元: 雷丸造形的心情世界

[転載]恥さらしの東京裁判

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     恥さらしの東京裁判
  清瀬一郎主任弁護人の裁判所不成立の弁論に答えず、また法律学上の基本原理「法の不遡及」にも反し。判決は軍人に対して、「Death by hanging」
(絞首刑)。国際慣習では軍人には「銃殺刑」を以ってすべき。
  牛泥棒ではあるまいし。しかし歴史は変えられず。恥を残すは白人種。

転載元: Peterpan

[転載]東京裁判は魔女裁判だ。

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 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などは、みな一神教であり、異端といふことを極端に嫌ふ。この風潮により、キリスト教国では多くの罪の無い人々が魔女裁判にかけられ、命を失った。驚くのは、新大陸アメリカでさへも、魔女裁判が行はれたことである。(ナサニエル・ホーソーン著『七破風の家』はこのことをテーマにした力作である。)

 さて、この異端者排除の風潮に、白人種が有色人種から攻撃され緒戦では完敗したことへの復讐心が加はったのが、東京裁判の動機ではなかったであらうか。さすれば、事後法を用ゐて不遡及の原則に違反してまで、執拗にこの異常な裁判を行ったことが、理解できるのである。結局、日本民族はキリスト教国アメリカの狂気の犠牲になったのだ。

 これらの狂気を鎮めて、日本民族が地球上に真の平和をもたらすまで、あと何百年、否、何千年かかるだらうか。しかし、道は遠くても、我らは進まなければならない。それが日本民族の使命であるからだ。

転載元: koreyasublog

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