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[転載]リオデジャネイロ 4

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サンパウロ 快晴 14℃ー30℃ いよいよ暑くなってきた感じがする。
朝晩の冷え込みが無くなった気がします。
もう冬はこないのでしょうか?

一方アルゼンチンでは大雪で山間部が閉ざされているらしいですが、
南米といっても想像以上に広く、地理的バリエーションが多いんだなと思います。

それにしてもリオは住むにはいいところだと思います。
日本食とか日系医師がいる病院とか日本人にとって諸々の選択肢があるのは
ブラジルの中では断然サンパウロですが、

住環境という点ではリオがよさそうです。

リオは治安が悪いと言われますが、確かに北の地域はサンパウロより危ないですが、
南の海岸地域に行けば、別に夜一人でも歩けるところがあるし、(無謀?)
緑、公園が街中、海岸沿いに多いので、休みの日にはゆったりと人々が楽しんでいる
風景を見ると、サンパウロのように緑が少なく、空気が悪いところに比べれば
はるかに暮らしやすいように感じられるからです。

ポンデアスーカルはどこから見ても面白い形だと思うのですが、
ボタフォゴ海岸から見たポンデアスーカルが一番良く見える気がします。

転載元: 中国で~10中東で~08南米で~07


[転載]セヴァン・カリス・スズキ - 環境サミット1992

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セヴァン・カリス・スズキ - 環境サミット1992
1992年、12歳でカリス・スズキは、リオデジャネイロで開催された環境サミットに際し、子どもの環境団体の代表として参加し、募金活動を行った。
そのメンバーと共に、­ミシェル・クイッグ、バネッサ・スッティ、そしてモーガン・ガイスラーと共にセヴァン­は、会議で子どもの視点からの環境問題についての後に有名になった講演を行い、満場総­立ちの喝采を博した。


セヴァン・スズキ
ナマケモノ倶楽部主催のハチドリキャンペーン2007参加の為来日した環境活動家セヴァン・スズキさん。日本の次世代へ贈るメッセージ。


私が今始めなければ、この地球の1点から、60億分の1から。

転載元: ぴんぐーの1日

[転載]競技はリオの汚水の中で

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オリッピック競技場となるリオの水の不衛生さについての続報です。

 まあ、汚いのは水だけならいいのですが治安もジカ熱も心配ですから

匂いも鉄砲も汚染蚊も送られてくる心配のない冷房の良く効いた日本の茶の間で

じっくりと観戦するのが得策という次第です。

 余分ですが私はオリンピックには元から興味が無く東京オリンピック以外一度も

観戦したことはありません。以下はすっかり興ざめなリオの現実を報じるネットニュースです。



五輪の選手たちは下水の中を泳ぐことに。どうすれば生還できるのか?

2016.08.05 20:45

2015年のグアナバラ湾
選手たちが競うことになるグアナバラ湾(2015年3月)

もう化学防護服でやってもらったほうがいいのでは…。
リオ・デ・ジャネイロの水が汚水や死体不衛生なのは既に周知の事実ですが、もう間もなく世界のトップアスリートたちが、国際競技の名のもとにその中で泳がなければならないのです。
観客にとってもアスリートたちにとっても気になる大きな疑問は1つ。今回のリオ、どれだけの大惨事になるのでしょうか?
この質問を、米GizmodoのMaddie Stone記者が医者や疫学者の中でもリオの水質に詳しい方々に投げかけてみましたが、総合的な意見としては、かなり深刻なようです。多くの人が水を介した病気にかかり、中には深刻な症状を持った人も出ると予測されています。しかし、出場する競技が水の中で行なわれる選手は、いくつかの基本的な注意を心がけるだけで、大きなリスクを回避できるそうです。

アメリカなら閉鎖レベルの汚染

リオの水路の不衛生に関しては、過去1年間あらゆるメディアが劣悪な環境を報道してきました。
現代的な下水路が無い状況で、過密な居住区から流れてくる人間の汚物により、水は黒くヘドロのようになって浜辺すら覆い尽くしてしまっています。委員会がどれだけ「選手の健康を危険には晒さない」と強調しても、Associated Pressによる16カ月にもわたる取材によれば、リオの水は病気を誘発する有機物が常に存在していると判明しており、危険はもはや避けられない状況であると言えます。
「微生物学的に言って、この水は生汚水と同じです」と語るのは、APの水質検査を行なった、南ブラジルにあるUniversidade Feevaleのウィルス学者であるFernando Spilkiさん。
Spilkiさんの行なった検査はさらに恐ろしいことを明らかにしており、リオの水にはロタウィルスが大量に存在していることが分かりました。このウィルスは嘔吐や下痢に始まり、さらに痙攣、脳炎、髄膜炎など深刻な症状を引き起こします。また検査結果によると、水の糞便性大腸菌のレベルが非常に高く、これらは赤痢A型肝炎コレラ腸チフス、その他多くの病気の可能性を秘めています。匿名という条件で話した疫学者は、同様のレベルの糞便性大腸菌が米国の海で検知された場合、その海は閉鎖されるとしています。
Spilkiさんだけでなく、リオデジャネイロ連邦大学の微生物学者であるReneta Picaoさんは、競技が行なわれる海岸を含めたリオの5つの海岸で、複数の薬品に耐性を持つ危険なバクテリアを検知しました。Picaoさんは米Gizmodoに対し、このバクテリアは珍しいはずなのに、海岸の水からいとも簡単に発見できてしまったことに驚いたと語りました。

感染の可能性:99.999パーセント

どう考えても、もっとも安全な策はリオの海をすべて避けることですが、五輪の出場選手たちはそうもいきません。では、選手のうち何人くらいが病気になり、リスクを回避するにはどうしたらいいのでしょうか?
まず知っておかなければならないのは、水に少しでも触れれば感染はほぼ決定的であるということです。Spilkiさんのデータを元にリスク分析を行なった水系病原体の専門家であるKristina Menaさんによれば「危険な有機物のレベルがあまりに高すぎるため、水に入るアスリートは全員感染する」とのこと。「水との接触がわずかであっても、感染の可能性は99.999パーセントです」と、絶望的な結論を述べました。
しかし、感染するからといって、必ずしも全員が深刻な症状に見舞われるわけではありません。それにはあらゆる要素が絡んできます。例えば患者の健康状態や過去の感染記録、そして即時の接触レベルです。特に薬品に耐性のあるバクテリアについては、子どもや老人、そして免疫不全の人により危険があるでしょう。また選手も含めた健康的な成人の場合、病気に対する抵抗力は、リオで猛威を振るう病原体に過去晒された経験があるかどうかによります。衛生的に問題がある場所で育った選手は、綺麗な水で生きてきた選手より病気に強い可能性はあります。しかし、ウィルスは突然変異が速いうえ、場所によって大きく異なるため、一概に言えることではありません。
それに、言ってみれば下水道で泳いでいるような状態では、免疫力がどれだけ強固であっても、すべての病気から身を守ることはできません。Menaさんは「リスクの軽減とは、接触を最小限に留めること」だと言います。
それは例えば、飲み込まないよう極力努めたり、目に入らないようタイトなゴーグルをつけたり(あるいは頭をつけること自体を避けるか)、頻繁にシャワーを浴びるということです。また、出た後に目をこすらないようにし、消毒薬をふんだんに使って手を清潔に保ち、傷などは即座に洗って保護します。種目によっては、オールのハンドルやボートを漂白したり、ビニールのスーツやグラブの着用が必要になるかも知れません。
とにかく、水との直接的な接触を極力避けることがリスクの軽減に繋がります。

感染したらすぐ病院へ

それに関連して、ペンシルバニア大学の感染症の教授であるNeil Fishmanさんは、抗生物質の予防投与に注意を促しています。抗生物質が効くかどうかは病原体の種類によるうえ、ウィルスに対しては効果がありません。そのため、「予防として抗生物質を投与するのはデメリットのほうが大きい可能性がある」と発言しました。また、抗生物質は人間が本来持っている微生物群のバランスを大きく崩すことがあるので、クロストリジウム・ディフィシレのように、そういったチャンスを狙って増殖する菌に対して抵抗力が弱くなってしまいます。
「恐らく唯一の策は、感染直後に素早く治療を行なうことです」とFishmanさんは言います。
Picaoさんは、もし傷口が感染したように見えたら、患者は即座に主治医に連絡し、多剤耐性菌に感染したかも知れないと伝えるべきだとしています。
まとめてみましょう。もしあなたが、選手として、あるいは地獄絵図を外野から見るための観客として今月リオに向かう場合、水との接触したらほぼ確実に下痢、またはそれ以上の症状が待っています。水との接触が避けられないのであれば、最小限に留めるようにつとめ、シャワーを頻繁にあびて、帰宅後は即座に診察を受けましょう。運がよければ、トイレで泳いだことにより鋼鉄の度胸が得られ、ありとあらゆる病気に耐性のついたスーパー免疫を獲得し、現代的な衛生技術に深い感謝の気持ちが芽生える…かも知れません。
選手の皆さんが無事に帰還できるよう祈っております。
Maddie Stone - Gizmodo US[原文
(scheme_a)







転載元: 原典聖書研究

ブラジルはポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していた

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ブラジル

   
ブラジル連邦共和国
República Federativa do Brasil
ブラジルの国旗ブラジルの国章
国旗国章
国の標語:Ordem e Progresso
ポルトガル語: 秩序と進歩)
国歌ブラジルの国歌
ブラジルの位置
公用語首都最大の都市独立
 - 宣言
 - 承認通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
ポルトガル語[注記 1]
ブラジリア
サンパウロ
政府
大統領首相
ミシェル・テメル(代行)
なし
面積
総計 水面積率
851万1965km25位
0.7%
人口
総計(2012年人口密度
1億9840万人(5位
22人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年
4兆8,448億[1]レアル
GDP (MER)
合計(2013年
2兆2,460億[1]ドル(7位
GDP (PPP)
合計(2013年) 1人あたり
3兆129億[1]ドル(7位
14,987[1]ドル
ポルトガルから
1822年9月7日
1825年8月29日
レアル (BRL)
UTC(-2 ~ -5)(DST:脚注を参照[注記 2]
BR / BRA
.br
55
  1. ^実際に用いられているのは方言のブラジルポルトガル語である。
  2. ^なお、一部の州で夏時間を導入している。

ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく、ポルトガル語: República Federativa do Brasil)、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を占め、ウルグアイアルゼンチンパラグアイボリビアペルーコロンビアベネズエラガイアナスリナムフランス領ギアナ(つまりチリエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。
また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。その国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きく、インドパキスタンバングラデシュの三国を合わせた面積の約2倍に相当する。首都はブラジリア

南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で7番目の経済規模でもある。

ブラジルは全体的に低緯度(北部は赤道直下)で、尚且つ海流等の影響もあり気候は大変温暖であり、ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。

国名

ブラジルの人口分布図(2000年)

正式名称は、ポルトガル語で República Federativa do Brasilヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ)。IPAでは、[xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw] Pt-br-República Federativa do Brasil.ogg 聞く[ヘルプ/ファイル]。通称 Brasilブラズィウ)。
公式の英語表記は Federative Republic of Brazilフェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィル)。通称Brazil(ブラズィル)。 ポルトガル語では “Brasil” と綴られるが、英語では “Brazil” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasília と表記される。

日本語の表記はブラジル連邦共和国。通称ブラジル漢字表記では伯剌西爾となり、と略される。1822年ブラジル帝国として独立し、1889年の共和革命以降はブラジル合衆共和国を国名としていたが、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人ペードロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名された。

ブラジルの歴史

   
ブラジルの歴史(ブラジルのれきし)は、約8000年ほど前、最初のアメリカ大陸先住民の移住者が現在のブラジルに定住した頃にさかのぼる。文書記録を伴う歴史は1500年ポルトガル人の来航をもって始まる。

以後の歴史はポルトガルブラジル植民地英語版(1500年-1815年)及びポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国(1815年-1822年)時代、ポルトガルのブラガンサ王室皇太子を皇帝に推戴して独立した帝政時代(1822年-1889年)、帝政を打倒した共和政時代(1889年-現在)に大別される。

1532年サン・ヴィセンテ英語版ピラチニンガポルトガル語版に初めて恒久的な入植地が築かれた。16世紀から18世紀にかけてブラジルはポルトガルの植民地であり、「発見」初期にはブラジルの木、のちには沿岸部のプランテーションでのサトウキビの生産や、内陸部での黄金採掘が主な産業であった。この時期に沿岸部のインディオはほぼ絶滅し、労働力として大量の奴隷アフリカから連行された。

1822年9月7日にブラジルはポルトガルからの独立を宣言し、立憲君主制を取るブラジル帝国が成立した。ポルトガル王室に連なるこの国家は、軍事クーデターにより1889年11月15日共和制に移行し、1891年に共和国憲法を発布した。以後ブラジルは現在に至るまで法律上は民主主義国家であるが、三度にわたる独裁政治政権を経験している。

先コロンブス期

ブラジルのインディオ。

 現在のブラジルの地に人間が居住したのは、アジアからベーリング海峡を渡った人々が、紀元前8000年頃に現在のブラジルに到達したのが最古のものであると確認されている[註釈 1]

1492年クリストヴァン・コロンボのアメリカ大陸到達以前(先コロンブス期)において、現在のブラジルに相当する地域には、遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営むトゥピ族英語版グアラニー族アラワク族系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インド人[註釈 2]と名づけられる人々が暮らしていた。一般に、先住民(現在生きている先住民含む)は、原始共同体[註釈 3]のもとで生活していた。

ポルトガル人到来直前の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている[1]

ポルトガル植民地時代(1500年-1808年)

パウ・ブラジルの時代

ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル

1500年4月22日、インド洋に向かっていたポルトガルペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」[註釈 4]と名付けた[2]。カブラルが上陸したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている[2]

「サルとオウム」しかいなかったこの地は、トルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった[3]

1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「ブラジリン英語版」を抽出できるパウ・ブラジル: pau-brasil - 和名: ブラジルボク/ブラジル木)[註釈 5]が王室専売とされ、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人[4])のフェルナン・デ・ロローニャ英語版: Fernão de Loronha[5])に専売権が与えられた[6]。ポルトガル人は沿岸部に商館を建設し、1504年には貴金属を求めて、初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った[7]

ブラジルには既に「インディオ」と呼ばれることになる多くの人々(先住民)が居住しており、現在ブラジル人であるとされるこれらの人々の歴史はポルトガル人の到来以前から始まっていたが、ブラジルの歴史はポルトガル人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめて「ブラジル人」と呼ばれることになったのは、このパウ・ブラジルの貿易に関わる商人達だったのである[7]

このように、当初ポルトガル人はインディオとのパウ・ブラジル貿易のみを行っていたため、入植も交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半には早くも沿岸部のパウ・ブラジルが枯渇した[8]。パウ・ブラジルの枯渇後、ポルトガル人はパウ・ブラジルの伐採から貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532年には南西のパラグアイや西のペルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めてサン・ヴィセンテ英語版ピラチニンガポルトガル語版の二つの町が建設された[9]

1494年6月7日に締結されたトルデシリャス条約によるスペインとポルトガルによる新世界の分割を認めない立場から、フランス人がブラジルに侵入してくると、1534年にポルトガル王ジョアン3世はブラジルにカピタニア制英語版: Capita

現在のブラジルの地に人間が居住したのは、アジアからベーリング海峡を渡った人々が、紀元前8000年頃に現在のブラジルに到達したのが最古のものである

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先コロンブス期

ブラジルのインディオ。

現在のブラジルの地に人間が居住したのは、アジアからベーリング海峡を渡った人々が、紀元前8000年頃に現在のブラジルに到達したのが最古のものであると確認されている[註釈 1]

1492年クリストヴァン・コロンボのアメリカ大陸到達以前(先コロンブス期)において、現在のブラジルに相当する地域には、遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営むトゥピ族英語版グアラニー族アラワク族系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インド人[註釈 2]と名づけられる人々が暮らしていた。

一般に、先住民(現在生きている先住民含む)は、原始共同体[註釈 3]のもとで生活していた。
ポルトガル人到来直前の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている[1]

ポルトガル植民地時代(1500年-1808年)

パウ・ブラジルの時代[ソースを編集]

ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル

1500年4月22日、インド洋に向かっていたポルトガルペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」[註釈 4]と名付けた[2]。カブラルが上陸したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている[2]。「サルとオウム」しかいなかったこの地は、トルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった[3]

1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「ブラジリン英語版」を抽出できるパウ・ブラジル: pau-brasil - 和名: ブラジルボク/ブラジル木)[註釈 5]が王室専売とされ、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人[4])のフェルナン・デ・ロローニャ英語版: Fernão de Loronha[5])に専売権が与えられた[6]。ポルトガル人は沿岸部に商館を建設し、1504年には貴金属を求めて、初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った[7]

ブラジルには既に「インディオ」と呼ばれることになる多くの人々(先住民)が居住しており、現在ブラジル人であるとされるこれらの人々の歴史はポルトガル人の到来以前から始まっていたが、ブラジルの歴史はポルトガル人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめて「ブラジル人」と呼ばれることになったのは、このパウ・ブラジルの貿易に関わる商人達だったのである[7]

このように、当初ポルトガル人はインディオとのパウ・ブラジル貿易のみを行っていたため、入植も交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半には早くも沿岸部のパウ・ブラジルが枯渇した[8]。パウ・ブラジルの枯渇後、ポルトガル人はパウ・ブラジルの伐採から貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532年には南西のパラグアイや西のペルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めてサン・ヴィセンテ英語版ピラチニンガポルトガル語版の二つの町が建設された[9]

1494年6月7日に締結されたトルデシリャス条約によるスペインとポルトガルによる新世界の分割を認めない立場から、フランス人がブラジルに侵入してくると、1534年にポルトガル王ジョアン3世はブラジルにカピタニア制英語版: Capitanias do Brasil)を導入し、15の世襲制カピタニア(Capitão-generalに統治される行政区画)に分割された[10]。カピタニア制の下でセズマリア(開発地)の集中からラティフンディオポルトガル語版(大私有地)が生まれたが、民間人に開発を任せるカピタニア制は2つのカピタニアを除いて失敗に終わり、1549年に総督制が導入された[11]

砂糖の時代

植民地時代初期の地図。
初代総督トメ・デ・ソウザ英語版とインディオ。

1549年に、ヴァロワ朝フランス王国の侵入に対処するためにポルトガル王室はバイーアサルヴァドールに総督府を置き、初代総督にはトメ・デ・ソウザ英語版が任命された。これにより、ブラジルの開発は第三段階に入った[12]。しかしフランス人の侵入は止まらず、1556年にフランスの新教徒ユグノー達が現在のグアナバラ湾周辺に南極フランス英語版を建設した[13]

フランス人は定着を望んだが、フランス本国の内乱(ユグノー戦争)もあってポルトガル人とインディオの同盟に敗れ、1567年に南極フランスはポルトガル領に編入された。その後もフランス人は1612年にマラニョンサン・ルイスを建設して赤道フランス英語版を築いたが、赤道フランスも3年でポルトガルに編入された。

パウ・ブラジルの枯渇後に商品として注目されたのは、鉱物の他には砂糖だった。1516年にマデイラ諸島からペルナンブーコに移植されたサトウキビ栽培は、1533年に初のエンジェニョ英語版: Engenho de açúcar、サトウキビ農園と製糖工場を併せたもの)が建設されたことを境に、エンジェニョでの黒人とインディオを利用した奴隷労働により北東部で栄え、一気に主要産業となっていった。

こうした奴隷はアフリカからの黒人奴隷の連行と、インディオを捕獲することで賄われたが、次第にインディオの数が足りなくなると、エントラーダ(遠征隊)は奥地に遠征し、奴隷狩りを行うようになった。イエズス会の修道士はアメリカ大陸でのカトリックの布教を、特に現在のパラグアイ、アルゼンチン北東部、ボリビア東部、ウルグアイ、ブラジル南部に居住するグアラニー族に対して行ったが、1560年に創設されたサンパウロ・デ・ピラチニンガ英語版: São Paulo dos Campos de Piratininga)に居住するパウリスタス英語版のエントラーダ(奥地探検隊)であるバンデイランテスは好んでイエズス会の布教村を襲い、多くのトゥピ・グアラニー系インディオを奴隷として売却した。バンデイランテスの活動地はパラグアイにまで及んだ。

また、砂糖プランテーションの労働力がインディオの奴隷だけでは足りなくなると、ポルトガル人は既に15世紀からマデイラ諸島で行っていたように、西アフリカセネガンビア(現在のセネガルガンビア)や黄金海岸(現在のガーナ)や奴隷海岸(現在のベナンナイジェリア)、及びアフリカ中部コンゴアンゴラ、更には東アフリカモサンビークから、マンディンゴ人ハウサ人アシャンティ人英語版ヨルバ人フォン人コンゴ人キンブンド人オヴィンブンド人など、多種多様なアフリカの人々を奴隷としてブラジルに連行した。また、こうして渡来したポルトガル人の多くはインディオや黒人と性交渉を持ち、ムラート: Mulatoマメルーコポルトガル語版 - 奴隷とも)と呼ばれる多くの混血者が生まれることになった。

こうしてブラジルは他のポルトガル領の植民地であるゴアマカオとは異なった商品作物の生産を軸とする開発型植民地となった。しかし、植民地であるが故に本国と競合する産品の生産や、自律的な工業化は許されず、重商主義的な本国経済を補完するための極めて歪なモノカルチャー経済が成立することになった[14]。さらに、ブラジルやポルトガルの商人は奴隷貿易で莫大な利益を上げていたが、このようにして成立した経済構造においてその富はブラジルには還流されなかった[15]。こうして植民地期のブラジル経済はポルトガルへの従属経済となり、これ以降19世紀末までブラジルの経済は外国市場と結びついた奴隷制プランテーション農業に規定されることになった。
この時期にはエンジェニョと農村が発展し、都市の開発はイスパノアメリカ植民地に比べると遅れたが、わずかな都市にはポルトガルからの新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)が多く住み着いた。17世紀前半にはサトウキビ農園は現在のパライーバ州からセルジペ州までの沿岸地帯一帯に拡大し、このエンジョニョを基盤とする経済構造は、イスパノアメリカ諸国の文化が都市的であることに比べて、ブラジルの文化が農村的であることに大きな影響を与えている。
サトウキビ産業と共に牧畜も開始された。北部、中央部の牧民はヴァケイロ英語版: vaqueiro)と呼ばれたが、現在のリオ・グランデ・ド・スル州のような最南部の牧民はスペイン、ラ・プラタ地域の影響を受け、ガウーショ: Gaúcho[16])と呼ばれるようになった。
1580年にスペイン・ハプスブルク朝フェリペ2世の王冠の下でポルトガルがスペインと合同した頃、スペインからの独立を巡って戦いを続けていたネーデルラントのユトレヒト同盟が1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を宣言し、この対立の構図を引き継いでオランダ人が新たにハプスブルク帝国領となったブラジルに侵入した。
1609年にスペイン・オランダ両国間に12年間の休戦条約が結ばれたものの、条約が失効した後の1621年にオランダ人はアフリカと南北アメリカ大陸の貿易、征服を行うことを目的としたオランダ西インド会社を設立した。1624年にはピート・ヘインオランダ語版: Piet Hein)率いるオランダ西インド会社軍が北東部のサルヴァドールを占領した(オランダ・ポルトガル戦争

インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である

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インカ帝国

   
タワンティン・スウユ
Tawantin Suyu
クスコ王国
チムー王国
コジャ王国
カニャーリ
1438年 - 1533年
インカ帝国の国旗
(国旗)
国の標語: Ama llulla. Ama suwa. Ama qella.
ケチュア語: 嘘を付くな。盗むな。怠けるな。)
インカ帝国の位置
公用語首都通貨
ケチュア語
クスコ
皇帝
1438年 - 1471年1471年 - 1493年1493年 - 1527年1527年 - 1532年1532年 - 1533年
パチャクテク
トゥパク・インカ・ユパンキ
ワイナ・カパック
ワスカル
アタワルパ
面積
1527年
2,000,000km²
人口
1527年
20,000,000人
変遷
パチャクテクの即位スペイン人による征服
1438年
1533年
なし
先代次代
クスコ王国クスコ王国
チムー王国チムー王国
コジャ王国コジャ王国
カニャーリカニャーリ
新インカ帝国新インカ帝国
ビルカバンバビルカバンバ
スペイン植民地時代のペルー#スペイン植民地時代(1542年-1824年)スペイン植民地時代のペルー#スペイン植民地時代(1542年-1824年)
ヌエバ・カスティーリャヌエバ・カスティーリャ
ヌエバ・トレドヌエバ・トレド
ペルー副王領ペルー副王領

インカ帝国(インカていこく、スペイン語Imperio Incaケチュア語タワンティン・スウユTawantin Suyu, Tahuantinsuyu))は、南アメリカペルーボリビアチチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。文字を持たない社会そして文明であった。

首都はクスコ世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年、クスコの市街地は世界遺産となった。

前身となるクスコ王国13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年スペイン人コンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。

インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコグアテマラアステカ文明マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道路網スペイン語版英語版を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。

インカ帝国は、被征服民族については比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。

歴史

考古学期 ・ アンデス文明

アンデス文明はおそらくBP約9,500年(約紀元前7500年)ころまでに始まったと考えられている。

インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。

平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上となった。

アンデスの研究者らは、約500年間にわたり偉大な国家権力の行政資本と儀式により栄えたチチカカ湖地方のティワナクをインカ帝国の最も重要なさきがけ(プレ・インカ)のひとつとして認識している[1]

クスコ王国(12世紀頃–1438年)

クスコの位置
ケチュア族は、12世紀頃にクスコへ移住し、インカ族として成立した。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ(ケチュア語Qusqu'Qosqo)に小規模の都市国家を築いた。

彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃までと想定されている。インカ以前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。

彼らは先行する文化(ワリ帝国スペイン語版英語版、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。

タワンティンスウユ(1438年–1527年)


インカは中央高原地帯のクスコで起こり、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した。彼らの高地における資産は、リャマアルパカビクーニャに限定されていた。

インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。

インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。

しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。

インカの拡大(1438年–1527年)

インカ帝国の拡張は、おそらくその気候条件の結果である。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧投石器ランス投げ弓矢、皮革で覆った木製の、綿或いは竹製の刺し子により武装した。

攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。

インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。


パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。

多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。

チチカカ湖地方の征服・アイマラ諸王国とコジャ王国

1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。

パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。
1445年、第9代パチャクテクは、チチカカ湖地方の征服を始めた。

北征・チムー王国の征服

ワイナ・カパック

パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは1463年北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であったチムー王国に対するそれであった。

トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。彼は既存の文化、特にチムー文化の様式を、発展させ取り入れた。
トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であったワイナ・カパックは、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた。

南征・マプチェ族の抵抗

帝国の南進は、マプチェ族による大規模な抵抗に遭ったマウレの戦いスペイン語版英語版の後に停止した。最盛期のインカ帝国の領域は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分を含み、また、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。

しかし、帝国南部の大部分(コジャ・スウユと命名された地方)は砂漠(アタカマ砂漠アタカマ塩原など)による不毛地帯であった。

国家の再編とその構成・四つの邦

『インカの失われた都』マチュ・ピチュの風景

パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西のチンチャイ・スウユスペイン語版英語版、北東のアンティ・スウユスペイン語版英語版、南西のクンティ・スウユスペイン語版英語版、南東のコジャ・スウユスペイン語版英語版)とから成り立つ連邦制であった[2]

パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地としてマチュ・ピチュを建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。

内戦とスペインによる征服

我々は、そこがとても美しく、スペインにおいても注目されるであろうほど素晴らしい建築物が存在することを陛下に得心させうる。
天然痘はスペイン人の侵略者たちが最初に帝国に達するより前にコロンビアから急速に広まった[

ブラジル人は大きく4つのグループに分かれる。トゥピー・グアラニー語族の言葉を話す先住民( グアラニー人、アマゾン先住民など)、植民当時のポルトガル系、アフリカからの黒人奴隷の子孫(アフリカ系ブラジル人

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ブラジル国民

人種と民族


ブラジル人は大きく4つのグループに分かれる。トゥピー・グアラニー語族の言葉を話す先住民グアラニー人、アマゾン先住民など)、植民当時のポルトガル系、アフリカからの黒人奴隷の子孫(アフリカ系ブラジル人)、そして19世紀半ばからブラジルに定住するためにポルトガル以外のヨーロッパ中近東日本を中心としたアジア諸国からやってきた移民である。

ヨーロッパ系ブラジル人の多くは元ポルトガル人で、植民地時代はポルトガル人と原住民、黒人奴隷との雑婚が常態であった。独立後に続くイタリア人スペイン人ポルトガル人ドイツ人ポーランド人ウクライナ人ロシア人アシュケナジムユダヤ人などのヨーロッパ系や、日本人アラブ人シリア人レバノン人)、中国人などのアジア系の移民の波や、独立後も続いた黒人奴隷の流入がブラジルの多様な民族と文化の形成に貢献し続けている。

ただし北東部はアフリカ系ブラジル人ムラート(白人と黒人との混血)が多く、南部は主にドイツ系ポーランド系ウクライナ系をはじめとする中東欧系住民が、南西部はイタリア系スペイン系ポルトガル系アラブ系日系をはじめとして、サンパウロ州のコーヒーブームにより現存するほぼ全てのエスニシティの移民が流入していたなど、地域差も見られる。

白人人口は半数を割り込み、「黒人」「混血」が過半数を占めた[26]


グアラニー族

       
実際のグアラニー人

グアラニー族 (Guaraníes) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチンボリビア東部、パラグアイウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としてはほとんど絶滅し、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。


文化

彼らの民芸品を売るグアラニーの女性
植民地時代のブラジルの農業は、元々ポルトガル人が農耕に向いた民族ではなかったこともあり、征服したグアラニー族の農業を通婚したポルトガル人の子孫がそのまま受け継ぐという形になった。ブラジルではポルトガル人と結婚したグアラニー人の母を通して息子にグアラニー文化が伝承された。南米南部一帯に広がるマテ茶を飲む習慣もグアラニー族由来のものであることを考えると、グアラニー文化の影響力の強さには驚かざるをえない。
南米南部の地名にはウルグアイ川パラグアイ川などグアラニー語起源の言葉が多い。ガウチョも元はグアラニー語で孤児や放浪者を意味する言葉だったという説がある。

歴史

元々が農耕民だったため、ラ・プラタ地域のチャルーア族のような攻撃的なインディオとは違って、スペイン人ポルトガル人が来寇した直後から同盟が進み、それに伴ってスペイン植民地では主にパラグアイで、ポルトガル植民地ではブラジルで通婚、混血が進んだ。こうしてヨーロッパ人と同盟したグアラニー族は敵対部族を共同で攻撃した。

パラグアイ

ブラジルのサンパウロを根拠地とするバンデランテス英語版と呼ばれた奴隷商人が、グアラニー族を捕らえて奴隷にし、ブラジルで奴隷労働をさせるということがしばしば起きた。そこでスペインは辺境の地パラグアイを防衛するため、イエズス会のミッションを送り込んだ。 伝道団はグアラニー族にカトリックを伝え、さらには自警団を組織してバンデイランチへの抵抗に当たらせた。

グアラニー族はしばしばバンデイランチを打ち破った。キリスト教化が進むにつれて、悪習とされた酷い飲酒の習慣や食人文化もなくなってゆき、このイエズス会の派遣は上手くいったが、スペインでのイエズス会の追放により、パラグアイからもイエズス会は撤退して行った。

パラグアイでは建国時移民を禁止しており、さらに初代独裁者ホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアクリオージョが団結して反乱を起こすことを恐れたため、政策的に通婚を強要し、クリオージョとの混血(メスティーソ)がさらに多くなった。現在ではこのようなメスティーソはパラグアイ人の90%を占めるまでに至り、彼らの言葉(グアラニー語)はパラグアイの公用語の一つである。グアラニー語でグアラニー魂を表現したものがパラグアイ文学であるとされる。

ウルグアイ

チャルーア族と共に主要なインディオであった。ブラジルに国境を接しているためパラグアイと同じ問題でイエズス会伝道所が作られた。18世紀に入るとバンダ・オリエンタルを巡るスペインとポルトガルの戦争は激しさを増した。1750年1月13日マドリード条約英語版が結ばれると、スペインはコロニア・デル・サクラメントをポルトガルから手に入れ、代わりにそれ以外のウルグアイ川東岸地帯がポルトガル(ブラジル)領となった。

しかし、イエズス会と、教化されたグアラニー族はこれに抵抗し、1756年からスペイン軍とポルトガル軍が共同でかれらを攻撃した(グアラニー戦争英語版)。戦争は主に現ブラジルのウルグアイ川北部とパラグアイで行われたが、結果としてウルグアイにいたグアラニー族は、一部を除いてパラグアイに撤退することになった。現在は地名と国名にその影響を残す。

ブラジル

ブラジルのグアラニー
上述のように、ポルトガル人との通婚を通してグアラニー文化の伝承が進み、現在では先住民性=グアラニー性は、ポルトガル性、アフリカ性と並ぶブラジル国民の三本柱のうちの一つとなっている。 南部のリオ・グランデ・ド・スル州サンタ・カタリナ州パラナ州につくられたイエズス会伝道所が世界遺産になっている。

アルゼンチン

この国もコリエンテス州ミシオネス州にイエズス会伝道所がある。

有名人

グアラニー族を題材にした作品

映画
  • ミッション(1986年、イギリス映画) - 劇映画。史実との異同は当該項参照。
オペラ

関連項目



[転載]尖閣周辺に約230隻の中国漁船、武装した海警船も

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尖閣周辺に約230隻の中国漁船、武装した海警船も

 8月6日、外務省は、東シナ海の尖閣諸島(中国名:魚釣島)の接続水域で中国の漁船約230隻と海警局の船6隻を確認し、中国側に抗議したと発表した。写真は2012年9月、中国浙江省舟山市の港から尖閣諸島に向かう漁船群(2016年 ロイター/Stringer)  
[東京 6日 ロイター] - 外務省は6日、東シナ海の尖閣諸島(中国名:魚釣島)の接続水域で中国の漁船約230隻と海警局の船6隻を確認し、中国側に抗議したと発表した。これほどの多くの中国漁船が同接続水域に入るのは異例。海警局の船のうち、3隻は武装しているという。
外務省のアジア大洋州局長は同日午前、在日中国大使館の公使に対し、領海内に入らず、接続水域からも退去するよう求めた。さらに、一方的に緊張を高める行為だとして強く抗議した。
日本が中国に抗議をするのは2日連続。前日は中国の漁船と海警船が同時に尖閣周辺の日本の領海内に入ったとして、外務省の事務次官が中国大使を呼んで抗議した。
尖閣諸島をめぐっては、日本側は領土問題は存在しないとの立場を取る一方、中国側は領有権を主張している。
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尖閣周辺に約230隻の中国漁船、武装した海警船も

[東京 6日 ロイター] - 外務省は6日、東シナ海の尖閣諸島(中国名:魚釣島)の接続 水域で中国の漁船約230隻と海警局の船6隻を確認し、中国側に抗議した ...
2016年 8月 6日 14:21 JST
尖閣周辺に中国船230隻

尖閣周辺に中国船230隻

外務省は6日、沖縄県・尖閣諸島周辺の接続水域に中国海警局の船6隻、その周辺 海域に中国漁船約230隻を確認したとして中国に強く抗議したと発表した ...
2016年 8月 6日 13:53 JST
中国の海洋進出に批判強める=16年版防衛白書

中国の海洋進出に批判強める=16年版防衛白書

[東京 2日 ロイター] - 政府は2日、2016年版の防衛白書を閣議で了承した。東シナ海 の尖閣諸島(中国名:釣魚島)周辺で中国軍との緊張が高まった最近の ...


転載元: 在日の違法行為を咎めるのブログ


フィリピンの歴史

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フィリピンの歴史

   
フィリピンの歴史先史時代(以前-900)古代 (900-1521) 植民地時代 (1565-1946)現代 (1946-現在)

この記事はシリーズの一部です。
ネグリト渡来
トンド
マジャ・アス
マニラ
バトゥアン
セブ
マギンダナオ王国
スールー王国
スペイン領東インド
フィリピンのキャプテンの地位全般 (1565-1898)
フィリピン独立革命 (1896-1898)
カティプナン
フィリピン第一共和国
米比戦争
フィリピン自治領
日本占領下 (1942–1944)
フィリピン第二共和国
第三共和国 (1946–1965)
マルコス政権 (1965–1986)
第五共和国 (1986–現在)

フィリピン ポータル
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フィリピンの歴史(フィリピンのれきし)では、フィリピン共和国歴史を述べる。フィリピン史は先スペイン期、スペイン植民地時代(1565年-1898年)、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)、独立以後の時代(1946年-現在)に大別される。



先史時代

フィリピンの歴史の位置(フィリピン内)
カヤオ洞窟
カヤオ洞窟
ビナンゴナン、バエ湖、マニラ
ビナンゴナン、バエ湖、マニラ
タボン洞穴
タボン洞穴
フィリピンの歴史
フィリピンの歴史
フィリピンに残る古代の遺跡

カヤオ人

カガヤン州ペニャブランカ英語版カヤオ洞窟英語版から6万7千年前のアジア最古のホモサピエンスカヤオ人英語版の人骨が出土。[1]
パラワン州タボン洞穴英語版で見つかった約1万6500年前のものと見られるタボン洞窟人英語版の人骨と石器、コウモリや小哺乳類の骨などである[2]:23

人骨は甕棺に納められており、これを中国の風習の影響と見る人もいる[3]:10

Example of what Maise believes to be a cave painting depicting Manjusri.

ネグリト渡来

また、リサール州ビナンゴナン英語版では紀元前3000年前のアンゴノ・ペトログリフ英語版が見つかった。これらの遺物を残したのはネグリト人オーストロネシア人よりも前にフィリピンに住んでいた人によるものと考える人もいる[4]

Angono Petroglyphs.jpg
Petroglyphs on a rock wall, Rizal, Philippines
Angono Petroglyphs is located in Philippines
Angono Petroglyphs
Location of Angono Petroglyphs in the Philippines

これらの住民との関連性は不明だが、これら住民を除けばフィリピンの初期の住民はネグリト人と考えられている。ネグリト人もいつから住んでいたかは不明である[5]。2万年前ぐらいと考える人もいる[6]:31。ネグリト人は従来オーストラロイドと考えられていたが、遺伝子研究によりオーストラロイドの要素を含む新モンゴロイドであるとする説もある[7]:15

オーストラロイドの身体的特徴をもった男性(スリランカ)

オーストロネシア人の拡大

それに続いてオーストロネシア語族の支族マレー・ポリネシア語派が紀元前4000年頃に到来した[8][9]。当初はネグリト人は沿岸に住んでいたが、原始マレー系住民に追われて山岳地帯に住むようになった。原始マレー人製鉄灌漑の技術を持っていた[6]:31
紀元前2000年~前1500年には古マレー人が水田農耕を持って移住したとされる。ルソン島カガヤン渓谷ソラナ東遺跡からイネが出土している。
紀元前500年から13世紀にかけて新マレー人が移住を続けた。

The Sahul Shelf and the Sunda Shelf today. The area in between is called "Wallacea".

インド文化の到来

3世紀には、扶南国の交易相手として巨延洲の記述があり、フィリピン諸島とみられている。交易品目はイモ・シャコ貝。
西暦300年から700年頃には、東南アジアの島々では海洋民族が活躍しており、インド文化圏仏教ヒンドゥー教の影響を受けていたと見られる[10][11]。特にスマトラ島シュリーヴィジャヤ王国ジャワ島マジャパヒト王国(いずれも現インドネシア)は交易を通じて文化の発信源となっており、フィリピンにももたらされた。現代フィリピンのタガログ語にもサンスクリット語を語源とする単語が多い[6]:33

中世

古代のフィリピンに関する情報は、東南アジア諸地方の中でも非常に少ない。これは、フィリピンがユーラシア大陸から見て遠隔地なため、フィリピンの歴史を目撃する他民族にあまり恵まれなかったという事情もある。また、フィリピンは熱帯のため、考古学的遺物が腐って残りにくかったという事情もある。そのため、歴史研究家の中には「フィリピンにはスペイン時代以前に誇るべき歴史が無い」と断定する人もいる[12]:102

ルソン島

トンド王国(呂宋国)

ラグナ銅版碑文。真偽は確定していないが、西暦900年に当たる日付が記された裁判記録。

  ただし、この時代の様子を伺う資料が全く無いわけではない。1990年、ルソン島のバエ湖で、シャカ暦822年(西暦900年)の日付が入ったラグナ銅版碑文英語版と呼ばれる金属板が見つかった。これは早期カウィ文字英語版に属する文字(バイバインと同じアブギダ)で書かれた一種の裁判記録であり、この時代にフィリピンにある程度の文明社会があったことを証明するのに十分なものだった。ただし、出自があまり明確ではなく、真贋は確定していない。[3]:7[7]:59

トンド王国は、中国・東南アジア・インドアラブとの中継貿易で栄えた海洋国家である。中国の記録には、「呂宋國」が首都を「トンド」(東都)に置くという記述があり[13]モンゴル帝国に敗れた南宋の残党[14]が海を渡り建国したという伝承が残っている。

Kingdom of Namayan

ミンドロ島

摩逸

代の史書『文献通考』によると、982年にフィリピンと思われる摩逸国の商人が交易品を積んで広州を訪れている[15]。また、1225年の著書『諸蕃志』では、この時代のフィリピン(麻逸)の人は木綿の布で体全体または下部を隠しており、青銅の神像を草原に置いており、中国やアラブ諸国とバーター貿易していると解説されている[3]:9。フィリピンの言語には中国語由来と見られる経済用語も多い[6]:33。14世紀の島夷誌略中国語版にもマニラを意味する麻里の地名が見られる[6]:241

もっと深く日本を学びたい方はコチラ
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日本はなぜアジアの国々から愛されるのか
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日本関連本
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天皇弥栄
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日本人に日本を好きになって欲しい

日本人の根底、文化には神道が根付いています
日本神話の古事記を読みましょう
世界、外国人は日本が好きな人が多い
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ビサヤ

Confederation of Madya-as

ミンダナオ島

蒲端國(ブトゥアン王国)


ミンダナオ島北東部のアグサン川英語版流域のブトゥアンにあった中継貿易で栄えた海洋国家で、10世紀ごろにはすでに、占城ベトナム南部)や馬来(ヌサンタラ、インドネシア)などとの交易を行っていた。11世紀までにブトゥアンはフィリピン諸島の交易・商業の中心となっていた。

1521年フェルディナンド・マゼラン一行が、アグサン川河口に碇を下ろしミサを行った記録が残っている。

フィリピンの歴史の位置(東南アジア内)
ルソン
ルソン
マラッカ
マラッカ

海洋保護区に指定されているエルニド諸島にはコバルトブルーの海に約50の無人島が 浮かんでいます

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【フィリピン秘境】エルニド絶景!アイランドホッピングドローン空撮EL Nido


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パラワン諸島、最後の秘境といわれるエルニド。ミニロックアイランド、ラゲンアイランド、 パングラシアンアイランド、アプリットアイランド、4つの楽園リゾートへご案内いたします。
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海洋保護区に指定されているエルニド諸島にはコバルトブルーの海に約50の無人島が 浮かんでいます。 出典フィリピン 旅行 2013 ツアー エルニドシーカヤッキング 5日間 | ワイルド・ナビゲーション. 探して追加|アップロード. お気に入り詳細を ...
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エルニドはパラワン島の北部にあるエルニド村と、沖に浮かぶ約50の島々から成ってい ます。この50の島々は無人島で、そのほとんどが大理石の島です。 500m級の岩山と、 白砂のビーチ、ココナッツ林と熱帯雨林が混在するその景観は、人々の心を捉えて離し  ...
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エルニド(El Nido)は、フィリピンの領地。パラワン諸島の北部に位置する。環境保護区に指定されており、観光地としても有名。現地の言葉で「海燕の巣」という意味。

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【パラワン島人気】エルニドビーチ絶景ドローン空撮Palawan


エルニド

   
エルニド
El Nido
地方Congr. district Formedバランガイ - Mayor  - Vice Mayor  - 計  - 計等時帯ZIPコードDialing code
—  Municipality  —
エルニドの眺望
愛称:Heaven on Earth[1]
エルニドの位置を示したパラワン州の地図
エルニドEl Nidoの位置(フィリピン内)
エルニドEl Nido
エルニド
El Nido
エルニドの位置(フィリピン)
座標: 北緯11度20分東経119度41分 / 北緯11.333度 東経119.683度 / 11.333; 119.683
フィリピンの旗フィリピン
ミマロパ地方 (Region IV-B)
パラワン州
1st district
1916年
18
行政[2]
Edna Gacot-Lim
Edgardo O. Trinidad
面積
923.26km2 (356.5mi2)
標高609m (1,998ft)
人口 (2010)[3]
36,191人
 - 人口密度39.2人/km² (101.5人/mi²)
フィリピン標準時 (UTC+8)
5313
48
エルニドEl Nido)は、フィリピン領地パラワン諸島の北部に位置する。環境保護区に指定されており、観光地としても有名。現地の言葉で「海燕の巣」という意味。

脚注

  1. ^El Nido: What to Do in the Closest Thing to Paradise.
  2. ^Municipalities”. Quezon City, Philippines: Department of the Interior and Local Government. 2012年11月15日閲覧。
  3. ^Total Population by Province, City, Municipality and Barangay: as of May 1, 2010”. 2010 Census of Population and Housing. National Statistics Office. 2012年11月15日閲覧。

関連項目


Poblacion, El Nido



History

El Nido has been inhabited by humans as early 2680 BC, or even up to 22,000 years ago.This was confirmed by the fossils and burial sites, dating back to the Late Neolithic Age, that can be found in many caves and excavation sites surrounding the municipality, particularly the Ille Cave in New Ibajay. Chinese traders had been regularly visiting the area of El Nido for its edible birds' nests during the Song Dynasty (960-1279). In fact, El Nido is specifically mentioned in Chinese records as far back 1225. Chau Ju-Kua, a member of the Chinese Royal Family, Trade Commissioner and Superintendent of Customs of the Port of Chuan How wrote about the island, Pa-Lao-Yu or Land of Beautiful Harbors in his book Chu Fan Chi.
The town traces its roots from a small Tagbanwa village called Talindak. Some time in the 16th century, waves of migrants from Cuyo Islands came here to settle. In the 1800s, the Spaniards arrived, and they moved to the part where the present-day Población and Mabini are located. The first Spanish families were the Canovas, Vázquez, Ríos and Rey. In 1890, the Spaniards renamed it as Bacuit. At the time, the center of the town was Cabigsing, then known as Inventario. Chinese families moved into the area about the same period, first settling in Langeblangeban. The first Chinese settlers were named Lim, Chin, Liao, Edsan, Ambao, Que-Ke, Lim Piao, Yu His, Pe Phan and Pe Khen.
During the Spanish colonization of the Philippines, the town was under the jurisdiction of the Municipality of Taytay, which was the capital of the former Province of Calamianes from 1818, and the Province of Castilla, the area of what is now known as northern Palawan, from 1858. It remained part of Taytay until 1916 when it formally became an independent municipality.The new municipality was then known as Bacuit.
On June 17, 1954, Republic Act No. 1140was approved changing the name of the town from Bacuit to its present name El Nido after the edible nests of swiftlets (collocalia fuciphaga), found in the crevices of its limestonecliffs. These nests, nido in Spanish, the main ingredient for the gourmet nido soup, are being sold at approximately US$ 3,000 per kilogram.
In 1957, the following barrios were created:

エルNidoは、紀元前2680年前半または最高22(数年前000)としてさえ人間が住みました。
これは化石と埋葬サイトによって確かめられました。そして、ニューIbajayでLate新石器時代(自治体を囲んでいる多くの洞穴と発掘場所で見つかります)へ戻って特にIlleケーブの年代を示しました。
中国のトレーダーは、Song Dynasty(960-1279)の間、その食用の鳥の巣のためにEl Nidoの地域を定期的に訪問していました。
実際、El Nidoは、特に遠い背中1225として中国の記録で言及されます。
チャウJu-Kua、中国の皇族のメンバー、チュウアンの港の税関のコミッショナーと長官を交換しますどのように島、パパ-Lao-Yuまたは彼の本Chuファン・カイの美しい港の土地について書きました。
町は、Talindakと呼ばれている小さなTagbanwa村から、その根を捜し出します。
16世紀にいつか、Cuyo諸島からの移住者の波は、落ちつくために、ここに来ました。
1800年代には、スペイン人は到着しました、そして、彼らは現代のPoblaciónとMabiniが位置する部分へ移りました。
最初のスペインの家族は、Canovas(vazquez)でした里骨とレイ。
1890年に、スペイン人はBacuitとしてそれの名前を変えました。
その時に、町の中心は、Cabigsing(それからInventarioとして知られている)でした。
中国の家族は、同期間(Langeblangebanの最初の固定)について、地域へ引っ越しました。
初の中国の移民はLim、あご、遼、Edsan、Ambao、Que-Ke、Lim Piaoという名前をつけられました。そして、Yuが彼のもの、ペーPhanとペーKhenでした。
フィリピンのスペインの植民地化の間、町は、Taytay(それは旧1818からのCalamianes州の中心地でした)のMunicipalityと1858からのカスティヤ(現在北パラワンとして知られていることの領域)州の管轄下でした。
正式に独立自治体になったとき、それは1916年までのTaytayの一部のままでした。
それから、新しい自治体は、Bacuitとして知られていました。
1954年6月17日に、共和国法番号1140wasはアナツバメ(結腸ローカル状態fuciphaga)の食用の巣の後でBacuitからその現在の名前El Nidoに町の名前を変えることを承認しました。そして、その石灰岩崖の割れ目で見つかりました。
これらの巣、スペイン語(グルメのnidoスープのための主要成分)のnidoは、およそ3米ドル(キログラムにつき000)で売られています。


  • Villa Paz comprising the sitios of New Igabas, Candolay, Malapaho, Mabeñgeten, Dewel, Nalbekan, and Lapia;
  • Bebeladan comprising the sitios of Mainlong, Bolabod, Balete, Culiong, Codongnon, Vigan, Pagawanen, Langeblangeban, Talulap, Bocboc, Miadiao, Avirawan, Pita, Deboluan, Balay-Bacaco, Kiminawit, Pamontonan, Simpian, Binabanan, Tegas, and Pinacpanacan;
  • Bagong-Bayan comprising the sitios of Manogtog, Cadleman, Pinagtual, Omao, Nami, Tebey, Bato, Tuñgay, Cataaban, and Lomocob;
  • Pasadeña comprising the sitios of Lamoro, Cagbatang, Bulalacao, Pinañganteñgan, Quinawañgan, Nagbaclao, Colantod, Loblob, and Badiang;
  • Sibaltan comprising the sitios of Turatod, Buluang, Santa Monica, Senodioc, Laolao, Caboñgan, Tapic, Panian, Guitan, Loro, and Nagcalasag;
  • Barotuan comprising the sitios of Taberna, Locaroc, Nagpan, Yocoton, Calitang, Wawa, Makinit, Canoling, Mabañgaon, and Mapeldeten;
  • San Fernando comprising the sitios of Panian, Madorianen, Dipnay, Maubog, Guenleng, Palabuayan, Parañgaycayan, San Pablo, and Olac-olacan; and,
  • Villa Libertad comprising the sitios of Calelenday, Taolili, Boloc, Inigtan, Mepague, Matolatolaon, Dao, Batbat, Madacotdacot, Nasigdan, Semenled, Bancalen, and Cagbanaba. In the same year, the barrio of Oton was renamed to Mabini.

•新しいIgabas、Candolay、Malapaho、Mabeñgeten、Dewel、NalbekanとLapiaのsitiosから成っているヴィラ・パス;
•Mainlong、Bolabod、Balete、Culiong、Codongnon、Vigan、Pagawanen、Langeblangeban、Talulap、Bocboc、Miadiao、Avirawan、ピタ、Deboluan、Balay-Bacaco、Kiminawit、Pamontonan、Simpian、Binabanan、TegasとPinacpanacanのsitiosから成っているBebeladan;
•Manogtog、Cadleman、Pinagtual、Omao、ナミ、Tebey、バトウ、大酒樽ゲイ、CataabanとLomocobのsitiosから成っているBagong-バヤン;
•Pasadeñは、成り立つことですLamoroのsitios、Cagbatang、Bulalacao、Pinañganteñgan、Quinawañgan、Nagbaclao、Colantod、LoblobとBadiang;
•Turatod、Buluang、サンタモニカ、Senodioc、Laolao、Caboñgan、Tapic、Panian、Guitan、LoroとNagcalasagのsitiosから成っているSibaltan;
•Taberna、Locaroc、Nagpan、Yocoton、Calitang、Wawa、Makinit、Canoling、MabañgaonとMapeldetenのsitiosから成っているBarotuan;
•Panian、Madorianen、Dipnay、Maubog、Guenleng、Palabuayan、Parañgaycayan、サンパブロとOlac-olacanのsitiosから成っているサンフェルナンド;
そして、
•Calelenday、Taolili、Boloc、Inigtan、Mepague、Matolatolaon、ダオ、Batbat、Madacotdacot、Nasigdan、Semenled、BancalenとCagbanabaのsitiosから成っているヴィラLibertad。
同じ年には、大頓のバリオは、Mabiniに名前を変えられました。


Because El Nido was quite remote from most of the inhabited islands in the Philippines, its pristine beauty was hidden to the world until 1979 when a sea accident happened in Bacuit Bay. As the story goes, "a tuna line disabled a dive boat's propeller in the middle of the night forcing it to drop anchor in an inlet. The following morning, the divers woke up to an amazing scenery of skyscraping dark cliffs, thick green forest, white sandbeach, sparkling water and, rising above it, a series of magnificently sculpted jade islands."
In 1983, a dive station was established in Miniloc Island by a group of divers who were on board the diveboat M/V Via Mare. In the same year, major tourism commenced in El Nido, when the Ten Knots Development Corporation, a Filipino-Japanese joint venture company, opened a divers' resort on Miniloc Island, and an airstrip (Lio Airport) at Villa Libertad on the mainland. In 1992, the company set up a second resort on Pangulasian Island, and in 1998, the third and largest Ten Knots resort on Lagen Island. The opening of the third resort coincided with the destruction of the Pangulasian Resort by fire. During this period several other tourism establishments were developed, paving the way for tourism to become a thriving economic sector.
El Nido is a showcase of the Philippines' geological and biological diversity. In recognition of the importance of its unique ecosystem, the Philippine government made the entire area of El Nido first to a turtle sanctuary in 1984, then to a marine reserve park in 1991,and finally in 1998, to that of a managed resource protected area.

El Nidoがフィリピンの大部分の居住された島から全く遠かったので、海事故がBacuit湾で起こったとき、その無垢の良さは1979年まで世界に隠されました。
物語が行って、「それに入江にアンカーを落とすことを強制している夜の中ごろに、マグロ線は、ダイビング・ボートのプロペラを無効にしました。
以下は、朝、暗い崖をskyscrapingする驚くべき風景まで起こされるダイバー、密集した緑の森、白いsandbeachです、ソーダ水、そして∥それ(一連の見事に彫刻された翡翠島)にそびえること。」
1983年に、diveboat M/V Via Mareに乗っていた一団のダイバーによって、ダイビング・ステーションは、Miniloc島に落ち着きました。
同じ年には、Ten Knots Development Corporation(フィリピンの日本人合弁会社)が本土でMiniloc島のダイバーの手段と滑走路(Lio空港)のヴィラLibertadを開けたとき、大きな観光旅行はEl Nidoで始まりました。
1992年に、同社はPangulasian島で第2の手段を準備しました、そして、1998年に、第3と最大のTen KnotsはLagen島の上に行きます。
第3の手段を開くことは、火事によってPangulasian Resortの破壊と同時でした。
この期間中、いくつかの他の観光旅行施設は発展しました。そして、観光旅行が繁栄する経済セクターになる道を舗装しました。
エルNidoは、フィリピンの地質学的で生物学的多様性のショーケースです。
その独特の生態系の重要性を認めて、管理された資源保護された地域のそれにとって、フィリピン政府は、1984年に、それから1991年の海の予備公園に、そして、最後に1998年にEl Nidoの全域をカメ聖域に最初にしました。

Aerial view of the cape between Nacpan and Calitang Beaches in Bucana, one of the eighteen barangays of El Nido.


Aerial view of Bucana, in the northern partof El Nido.

A lagoon in El Nido


Climate data for El Nido, Palawan Month Jan Feb Mar Apr May Jun Jul Aug Sep Oct Nov Dec Year Average high °C (°F) Average low °C (°F) Average rainfall mm (inches) Average rainy days
27
(81)
31
(88)
31
(88)
32
(90)
32
(90)
31
(88)
25
(77)
31
(88)
30
(86)
31
(88)
31
(88)
28
(82)
30
(86.2)
22
(72)
23
(73)
23
(73)
24
(75)
25
(77)
25
(77)
20
(68)
24
(75)
23
(73)
24
(75)
24
(75)
23
(73)
23.3
(73.8)
6
(0.24)
0
(0)
12
(0.47)
39
(1.54)
117
(4.61)
351
(13.82)
435
(17.13)
375
(14.76)
159
(6.26)
159
(6.26)
45
(1.77)
12
(0.47)
1,710
(67.33)
213417252624201994154
Source: World Weather Online[28]


[転載]スールー王国

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スールー王国

   
フィリピンの歴史先史時代(以前-900)古代 (900-1521) 植民地時代 (1565-1946)現代 (1946-現在)

この記事はシリーズの一部です。
ネグリト渡来
トンド
マジャ・アス
マニラ
バトゥアン
セブ
マギンダナオ王国
スールー王国
スペイン領東インド
フィリピンのキャプテンの地位全般 (1565-1898)
フィリピン独立革命 (1896-1898)
カティプナン
フィリピン第一共和国
米比戦争
フィリピン自治領
日本占領下 (1942–1944)
フィリピン第二共和国
第三共和国 (1946–1965)
マルコス政権 (1965–1986)
第五共和国 (1986–現在)

フィリピン ポータル
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スールー諸島とその周辺
19世紀末のスールー王国の国旗


スールー王国スールー・スルタン国、Sultanate of Sulu)は、フィリピン諸島ボルネオ島の間に連なるスールー諸島にかつて存在した国。スルタンを戴くイスラム教国で、1450年代に成立したが、資料によってはその成立時期はより早い。ムスリムの研究者の中には、さらに1世紀前のラジャ・バギンダ・アリ(Raja Baguinda Ali)の時代からスールー王国が存在したと見る者もいる。

ホロ島の都市ホロを都とするスールー王国は、アラビア語を公用語としたほか、マレー語や現地のタウスグ語・バンギギ語・バジャウ語などを使い、中国と東南アジア・西アジアを結ぶ海上交易の一端を担って栄え、最盛期にはスールー海の島の多くを支配した。

東はミンダナオ島の西部(サンボアンガ半島)、南はボルネオ島北部(現在のマレーシアサバ州)、北はパラワン島までその支配は及んだ。スールー諸島やミンダナオ島西部といったかつての支配地域は、現在もムスリムの多く住む地域になっている。

1898年にスールー王国は米領フィリピンに併合された。最後のスールーのスルタンは1936年に没し、以後スルタンは即位していない。1823年から1936年までスルタンを出してきたのは王族のうちキラム家(Kiram)であるが、王国滅亡後は王家の複数の家系がスルタン位を主張しはじめ、現在、スルタン一族の間で継承順位を巡る論争が起きている。


歴史[ソースを編集]

1450年代マレー半島マラッカ王国ジョホール生まれのアラブ人、シャリフル・ハセム・シェド・アブ・バクル英語版(Shari'ful Hashem Syed Abu Bakr)がスールー諸島に到来した。彼は1457年にスールーに王国を築き、スルタンに就任して「パドゥカ・マウラナ・マハサリ・シャリーフ・スルタン・ハシェム・アブ・バクル」(Paduka Maulana Mahasari Sharif Sultan Hashem Abu Bakr)と改名した。「パドゥカ」とは現地語で「主人」、「マハサリ」は「陛下」の意味である。スールー王国は中国やマレーとの交易で栄え、特に中国には朝貢使節を送った。16世紀後半にスペイン人がフィリピンに来航しセブマニラを征服したが、スールー王国はスペイン勢力の侵入と戦い独立を維持した。
スールー王国の貿易のうち特筆されるものは奴隷貿易である。ジャワやマレーではかつて奴隷が重要な労働力となっており、戦争による捕虜などが奴隷の主な供給源となってきたが、インドネシア周辺がイスラム教化されると同じムスリムを奴隷とすることが禁じられ、奴隷の供給源を外へと求めるようになった。スールー人はミンダナオ島などフィリピン諸島各地へ奴隷狩りの軍を送り捕らえた住民を南方へ売ったため、フィリピン人やスペイン人には「海賊」として恐れられた。
1703年(別の説では1658年)、スールー王国は隣国ブルネイで起こった反乱に対し、ブルネイのスルタンへ援軍を送った。反乱鎮圧後にはブルネイから北ボルネオを得た。同じ年、ミンダナオ島のムスリム国家マギンダナオ王国に全盛期をもたらしたスルタン・クダラットは、スールー王国の姫と結婚し両国間に同盟関係が結ばれた。スールー王国はクダラットにパラワン島を贈ったが、1705年にクダラットはスペインにパラワン島を割譲した。スールーのスルタンの宗教的権威はミンダナオ西部から北ボルネオ各地に割拠する領主やスルタンに及んだが、政治的には各領主たちの独立が進んだ。
スペインは長年、スールー諸島からミンダナオ島に至る「モロ人」(フィリピン諸島のムスリム)の地に対する領有権を主張したが実効支配することはできなかった。各地に割拠するムスリムの領主たちの力が強く、スペインによる征服や改宗の試みは失敗し続けたため、スペインは海岸部の都市や要塞を確保するにとどまった。19世紀になるとムスリムの領主たちは相次いでスペインに征服され、スールー王国の首都ホロも1876年にスペイン軍に占領された。スペインとスールー王国は1878年7月22日に条約を結び、スペイン軍の拠点以外の統治は従来通りスルタンが行うこととなったが、互いの翻訳した条文に食い違いがあった。スペイン語の条文ではスールー諸島の主権はスペインのものとなることになっていたが、タウスグ語の条文では完全な属国としてではなく保護国として表現されていた[1]
米西戦争講和条約である1898年パリ条約で、スペインがアメリカ合衆国にスールーも含むフィリピンを明け渡した後、アメリカとスールー王国の間で結ばれたベイツ条約にも同様の翻訳の食い違いがあり、20世紀の初頭にアメリカとモロ人の間で戦争(モロの反乱)が起こることになる。スールー王国の独立はアメリカに併合された1898年で終わり、1903年にはミンダナオ島南部から西部、およびスールー諸島にかけてモロ州が成立した。その後の10年以上にわたるアメリカによる軍政の間にモロ人に対する米軍の掃討が続く一方、スールーの諸制度は次第にアメリカ植民地政府のものに置き換えられ、1913年には完全にモロ州は文民統治となった。

北ボルネオとスールー王国


スールーは北ボルネオ(マレーシア連邦サバ州)を領土として主張した時期があったが、これが現在マレーシアとフィリピン間での領土問題の遠因となっている。

19世紀後半、北ボルネオはスールー王国とブルネイ王国のスルタンがともに名目上の統治者であり、実際は二つのスルタンの下で地元の領主たちが河川流域ごとに支配を行っていた。

1865年ブルネイアメリカ合衆国領事クロード・リー・モーゼズ(Claude Lee Moses)はブルネイから北ボルネオの10年間の租借権を得た。しかし南北戦争直後のアメリカにはアジア植民地を経営する余裕がなく、モーゼズは租借権を香港にあるアメリカ・ボルネオ貿易会社(American Trading Company of Borneo)に売却した。

この会社はボルネオでの入植地建設失敗により経営難になり、租借権をオーストリア・ハンガリー二重帝国の香港領事フォン・オーバーベック男爵(Von Overbeck)に売却した。彼はボルネオのスルタンと交渉して契約の10年延長を得て、さらに1878年1月22日にスールー王国のスルタンとも同様の条約を締結した。

フォン・オーバーベックはウィーンの政府に植民地経営を働きかけたが失敗し、イタリア流刑植民地として売却する交渉もうまくゆかなかったため、1880年に北ボルネオから手を引いた。


彼の資金面での協力者だったアルフレッドとエドワードのデント兄弟(阿片戦争で有名なLancelot DentDent & Co.の家族)のうち、ボルネオに残ったアルフレッド・デントは英国外交官のラザフォード・オールコックらに後援されていた。彼らの後ろ盾によりデント兄弟は1881年7月に会社を作り、翌1882年の勅許によってイギリス北ボルネオ会社を作って北ボルネオの統治を始めた。

オールコックを社長とする北ボルネオ会社はオランダスペインサラワクなどの抵抗を受けるものの、入植地建設、行政制度整備、中国人労働者の招致などを推進して北ボルネオの経済を拡大させ、1888年7月にはイギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオとすることに成功した。

北ボルネオ会社はスールーとオーストリアとの契約を購入であると解釈していた。しかし1883年1月7日にイギリスの外務大臣グランヴィル卿が出した書簡では、1878年にフォン・オーバーベック男爵がスールーのスルタンと結んだ条約は北ボルネオの賃貸であり購入ではなく、それゆえ北ボルネオに対する主権はスールーのスルタンに残っているとされている。
スールー側もこの契約は租借だと解釈しており、自分たちに主権が残っていると考えていた。

第二次大戦による荒廃で北ボルネオ会社は経営をあきらめ、北ボルネオは1946年に王領植民地となり、1963年8月31日に自治を認められ、その直後の9月16日マラヤ連邦サラワクシンガポールとともにマレーシアを結成した。
 しかしスールーのスルタンの末裔は「北ボルネオはスールーに返還されるべき」と主張し、またスールー王国を継承したとするフィリピン政府もマレーシア結成の構想に反対する中でこの見方を取るようになり、サバ州(旧北ボルネオ)をめぐりマレーシアとフィリピンの間で領土問題が起きた。

マレーシアは1963年以降、スルタンの末裔に毎年5300リンギット(約16万円)を支払っているが、前述の通りこれが租借料なのか購入費(の分割支払い)なのかで意見が分かれている。
2013年にはスルタンの末裔キラム家の一員でありマニラに住んでいるジャマルル・キラム3世英語版が400人からなる「スールー王国軍」を突然サバ州に上陸させ、旧王国の承認とサバ州の返還を求める事件が発生した(ラハダトゥ対立 (2013年)英語版)、長らく店晒し状態だった問題が再燃する可能性が出ている[2]

転載元: 少年老い易く学成り難きのブログ

[転載]プエルト・プリンセサ地下川国立公園)は、フィリピン諸島の南西にあるパラワン島の洞窟内に流れる地下川を保護する目的で指定された国立公園

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プエルト・プリンセサ地底河川国立公園

   
世界遺産プエルト・プリンセサ
地下川国立公園
フィリピン
Puerto Princesa Underground River.jpg英名Puerto-Princesa Subterranean River National Park仏名Parc national de la rivière souterraine de Puerto Princesa面積20,202ha(緩衝地域含む) 登録区分自然遺産IUCN分類II(国立公園)登録基準(7),(10) 登録年1999年 公式サイト世界遺産センター(英語)地図プエルト・プリンセサ地底河川国立公園の位置使用方法表示


プエルト・プリンセサ地下川国立公園(-ちかせんこくりつこうえん)は、フィリピン諸島の南西にあるパラワン島の洞窟内に流れる地下川を保護する目的で指定された国立公園。州都プエルト・プリンセサからは北へ50kmほどの場所に位置する。1999年、ユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録。

概要

プエルト・プリンセサ地下川は、パラワン島のセント・ポール山地の鍾乳洞内を流れる川である。この地下川の流れる鍾乳洞は海に繋がっている。このため地下川の下流部分は潮の干満の影響を受け、独特の生態系を有している。

探検ツアー

2004年現在、この地下川を探検するUnderground River Tourを楽しむことができる。

本地下川を訪れる方へ

プエルト・プリンセサと名はついているが、実際には「サバン」というところにある。(プエルト・プリンセサ地下川国立公園内にあるというだけ)プエルト・プリンセサ市街からは車で約3時間(往復6時間)かかる。道は未舗装の山道で、電力・上下水道もない地域。雨後は通れないこともあり時間には余裕が必要。サバンからはボートで地下川入口まで片道15分かかる。地下川入口からは専用ボートにヘルメット着用ライト(貸してくれる)所持で乗り込む。このボートツアーは1時間程度かかる。従って地下川へ訪れるのはプエルト・プリンセサから丸一日仕事である。
エルニドもしくはポート・バートンからボートをチャーターするなどしてサバンに行くことも可能。エルニドからは片道6~7時間はかかる(地球の歩き方等に3時間とあるが注意)[要出典]。当然料金はかなりふっかけられるのでエルニドの場合はアート・カフェ等の料金を参考に。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
  • (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
  • (10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

スールー海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
スールー海で形成された内波を示す、NASAw:Visible Earthの画像

スールー海(スールーかい、: Sulu Sea)またはスル海(スルかい)とはフィリピンの南西の。 北西はパラワン島南シナ海と、南東はスールー諸島セレベス海と隔てられている。 南西はカリマンタン島、北東はビサヤ諸島
スールー海にはクーヨー諸島カガヤン諸島カガヤンデタウィタウィ島などの島がある。

関連項目

転載元: 少年老い易く学成り難きのブログ

[転載]パラワン島は。「フィリピン最後のフロンティア」などとも呼ばれる秘境で、生態系がよく残っており、エコツーリズムの対象ともなっている。プエルト・プリンセサ地底河川国立公園やトゥバタハ岩礁海中公園が世界遺産

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パラワン島

   
左にある細長い島がパラワン島


  パラワン島( - とう、Palawan Island)はフィリピンの南西部にある。北西を南シナ海、南東をスールー海に面し、ミンドロ島ボルネオ島マレーシア)の間にまたがる、南北の長さ397km・東西の幅の平均約40kmと極端に長細い島である。ルソン島ミンダナオ島サマール島ネグロス島に次ぐフィリピンで5番目に大きな面積(11,785平方km)の島で、パラワン州に属す。主な都市は、島の中央部にあるプエルト・プリンセサ

地理・観光地

コロン島

熱帯雨林・密林に覆われた高い山岳地帯が島の大半を占め、南部のマンタリンガハン山(標高2,086m)が最高峰である。「フィリピン最後のフロンティア」などとも呼ばれる秘境で、生態系がよく残っており、エコツーリズムの対象ともなっている。プエルト・プリンセサ地底河川国立公園トゥバタハ岩礁海中公園世界遺産に登録されている。

南北に長いパラワン島の周囲には無数の小島がある。島の北西にはブスアンガ島、クリオン島コロン島などで構成されるカラミアン諸島(Calamian)があり、フィリピン屈指の良好な漁場として、ダイビングスポットとして(周囲は太平洋戦争中の日本軍の沈没船が多い)、また高級リゾートとして知られている。

島北部の町、エルニドは、高く切り立った大理石でできた数十の島々の景観と、美しい白砂のビーチで知られており、周囲に点在するリゾート・アイランドへの発着港でもある。これらのリゾートは島一つをひとつのリゾート施設が独占するという贅沢な造りのもので、隠れ家的なリゾートを求める観光客に大変人気がある。

その他、ドゥランガン島はパラワン島の西端に接しており、バラバク島は南端に接してボルネオ島とはバラバク海峡で隔てられている。

住民

「フィリピン最後のフロンティア」という言葉には「開拓地」という意味合いもある。パラワン島には20世紀はじめまで海岸部を除き、南から順にパラワン人、タグバヌア人、バタク人といった先住民が住んでおり、焼畑農業(バタク人は狩猟など)を営んでいた。

第二次世界大戦後、パラワン島にはフィリピン中部ビサヤ諸島などから小作農、プランテーションで働く農園労働者、漁民などが、農地開拓・豊かな漁場・鉱山労働・伐採作業を求めて大量に入植し、大戦直後の5万人ほどの人口は1990年には40万人に激増した。またミンダナオ島西部でのムスリムモロ人)分離主義者たちの内戦を避けたムスリムも移住している。

こうした急速な入植は、人口過密で土地を持つ者と持たない者との対立が深刻なビサヤ地方の問題を解決するための政策でもあったが、先住民の生活や島の環境との間に摩擦も起こしている。

産業

パラワン島の主な産業は農業漁業であるが、ほかにリゾートに関係した観光業(ヨーロッパ人、特にドイツ人に人気がある)や、シリコン鉱山などもある。林業は重要な産業であったが、1992年以来保護のため禁止されている。またミンダナオ島などを拠点とする過激派、アブ・サヤフと見られるグループがパラワン島から観光客を誘拐する事件も2001年に起きており、観光に暗い影を落とした。

歴史

植民地時代以前、パラワン島にはボルネオ島からフィリピン諸島へ島伝いに航海し移住するマレー系民族が多く立ち寄ったほか、中国やマレーの貿易商人たちも寄航し交易した。中国製の陶磁器があちこちの洞窟などで発見されている。

12世紀、マレー人たちが入植をはじめた。首長に率いられたこれらの入植者らはしょうがココナツ砂糖バナナサツマイモコメなどを栽培し、ニワトリを育てた。生計の手段は農業、漁業、狩猟などであった。

16世紀のスペイン人の来航後、まず北端のカラミアン諸島がフィリピン植民地の支配下となった。17世紀初頭にはスペイン人たちはクーヨー諸島など周囲の島々やパラワン本島北部のタイタイ(Taytay)にも宣教師を送ったが、地元のムスリム共同体の抵抗にあった。

18世紀までにスペイン人はタイタイなどの町に教会を建て、モロ人の攻撃に備えて軍隊で防衛した。1749年ブルネイ・スルタン国はパラワン南部をスペインに割譲した。

当初、パラワン地域(当時はパラグア Paragua とも呼ばれた)は北部のタイタイに州都を置くカラミアン州のみで支配していたが、後に三分割された。タイタイを州都として北部を支配するカスティーリャ州(Castilla)、プエルト・プリンセサを州都とし南部を支配するアストゥリアス州(Asturias)、プリンシペ・アルフォンソ(Principe Alfonso)を州都とする本島南端のバラバック諸島州であった。

1898年フィリピン独立革命でスペイン人支配が終わると、アメリカ合衆国による支配が始まった。1903年に州の境界は変更され、パラワン州に再編されプエルト・プリンセサが州都となった。学校建設、農業の革新、住民の集住などの政策がアメリカ支配下で行われた。

第二次世界大戦では日本軍がパラワン島を占領したが、1944年ごろから連合軍の攻勢で多数の軍艦・輸送船が沈められるなど苦境に陥った。この時期、1944年12月14日、日本軍は連合軍上陸を前に、プエルト・プリンセサにいた150人ほどの捕虜を塹壕に入れ、その上からガソリンを流し火を放った。塹壕を出て野山へ逃げようとしたものは射殺されたが、なお11人ほどが逃げ延びた。翌45年に起こった、ルソン島中部カバナトゥアン収容所からの連合軍捕虜脱走を描いた2005年の映画『ザ・グレート・レイド』のオープニングはこの事件がオープニングとなっている。

第二次大戦後はフィリピン中部からの移住者による開拓で人口が激増し、後には欧米人向けのリゾートも多く成立した。2001年5月にはアブ・サヤフと思われる集団により、プエルト・プリンセサ郊外のホンダ湾にあるドス・パルマス・リゾートから20人が拉致される事件が起き、米軍に支援された大規模な救出作戦が行われた。この事件後、パラワン島の警備は厳重になり、同種の事件は起きていない。

関連項目

外部リンク


パラワン州   

パラワン州
フィリピン内におけるパラワン州の位置
フィリピン内におけるパラワン州の位置
地方ミマロパ地方 (Region IV-B)
州都プエルト・プリンセサ
地方自治体 
 - 独立市1
 - 構成市0
 - 23
 - バランガイ367
独立市含む: 433
 - 選挙区パラワン州選挙区(プエルト・プリンセサ含む)
人口
 - 2007年調査682,152 (38位)
独立市含む:
892,660 (30位)
 - 人口密度46.6/km² (79位)
独立市含む:
52.4/km² (78位)
面積
 - 総計14,649.7 km² (1位)
独立市含む:
17,030.8 km² (1位)
設立1917年3月10日
言語タガログ語, イロンゴ語, タウスグ語, バタク語, タグバンワ語, パラワン語, Cuyunon
知事Mario Joel T. Reyes

パラワン州 (Province of Palawan) は、フィリピン最西端のである。州都はプエルト・プリンセサPuerto Princesa)で州内唯一の都市である。面積は14,896.3km²で国内最大の州である。人口は755,412人(2000年)。

歴史

ミマロパ地方MIMAROPA, Region IV-B)に属していたが、2005年西ビサヤ地方Western Visayas, Region VI)に移管される旨の大統領令が出された。住民の多くが事前の協議を欠いた移管に不賛成といわれ、この大統領令は未だ実行に移されておらず、パラワン州はミマロパ地方にとどまっている。

地理

州の大半を南北に長いパラワン島が占め、北東にミンドロ島オクシデンタル・ミンドロ州、南西にカリマンタン島(ボルネオ島)のマレーシアサバ州とを連絡している。北は南シナ海、南はスールー海が広がっている。
  なお、パラワン州はスールー海のクーヨー諸島英語: Cuyo Archipelago)やカガヤン諸島も含んでいる。また国際的な係争地となっているスプラトリー諸島(南沙諸島)はパラワン島から数百km西の南シナ海海上に点在しているが、ここもパラワン州に属していることになっている。フィリピンではこれらの島々をカラヤアン諸島(Kalayaan、『自由』)と呼んでいる。

観光

衛生

パラワン州は、タウィタウィ州スールー州などと共に、熱帯性マラリアの発生地域でもあり、感染に悩んでいる。

プエルト・プリンセサ

   
プエルト・プリンセサの位置
全景
1904年に作製されたプエルト・プリンセサ港の海図

プエルト・プリンセサ(Puerto Princesa、フィリピン語: Lungsod ng Puerto Princesa)はフィリピン南西部、パラワン島の中部にある港湾都市。
  パラワン州の州都で一級市になっている。2007年の国勢調査では人口は210,508人で33,306世帯がある。市の面積は2,400平方km、バランガイ(集落、町)の数は66。

  市街地は島の東海岸、スールー海側に深く食い込んだホンダ湾(Honda Bay)の中にあり、天然の良港で要害の地となっている。
  島の北部にあるリゾート地・エルニドカラミアン諸島への中継点であるほか、ホンダ湾周辺にもリゾートが点在している。またワニ養殖、地底河川(世界遺産プエルト・プリンセサ地底河川国立公園)、街周囲のダイビングスポットが名高い。

  スペイン植民地支配の時代、当初島全体を統括していたカラミアン州が三分割され、プエルト・プリンセサは島南部を管轄するアストゥリアス州(Asturia)の州都となった。
  しかしパラワン島の中心は、最初にスペインが支配しカラミアン州の州都でもあった島北部のタイタイ(Taytay)だった。20世紀に入りアメリカ合衆国の支配が始まると、パラワン島はパラワン州に再編され、プエルト・プリンセサが州都となった。

交通


転載元: 少年老い易く学成り難きのブログ

北海道・岩見沢 無許可で産業廃棄物を収集・運搬した疑いで男を逮捕、不法投棄の疑いも

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2016/07/05 に公開
北海道・岩見沢 無許可で産業廃棄物を収集・運搬した疑いで男を逮捕、不法投棄の疑いも(無許可・収集運搬・不法投棄・産業廃棄物・産廃)

産業廃棄物を許可なく有料で収集・運搬した疑いで岩見沢市の47歳の男が逮捕されました。男は廃棄物を他人の土地に不法投棄もしていました。
 記者:「ごみは道のすぐ近くに、1メートル四方の袋に入れられて、このあたりに捨てられていたということです」。岩見沢市の自営業 大野文敏容疑者47歳は5月中旬、岩見沢市で許可なく廃棄物を有料で収集・運搬した疑いが持たれています。警察は5月15日に大野容疑者が他人が所有する土地に廃棄物を不法に投棄しているところを発見し、5日まで裏付け捜査を進めていました。大野容疑者は容疑を否認していますが、産業廃棄物を収集・運搬するための許可を得ていませんでした。
引用先http://www.htb.co.jp/news/

室蘭市の公園と市有地の土壌から国の基準値を超える鉛やヒ素が検出された問題で

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[PDF]1. 八丁平南公園等の土壌汚染の経緯 ① - 室蘭市
www.city.muroran.lg.jp/main/org7330/.../dai1kaisetsumeikai_haifushiryou.pdf
2013/12/25 - 八丁平南公園等の土壌汚染の経緯 ②. 時. 期. 項. 目. 平成25年10月. 公園の追加土壌調査からも鉛、ヒ素の特定有害物質を. 確認. 平成25年12月5日. 八丁平南公園および隣接市有地の立入禁止措置を実. 施. 平成25年12月12日∼.

室蘭市/八丁平土地対策について

www.city.muroran.lg.jp/main/org7330/ha-taisaku.html
2016/04/28 - 八丁平土地対策について. 八丁平南公園及び隣接市有地の一部から、鉛、ヒ素などの重金属類による土壌汚染が確認されたことから、平成25年12月に対象エリア一帯に立入禁止の措置をとりました。 これまで市では、汚染の原因や範囲を ...

土壌汚染対策法に基づく区域指定の状況 - 北海道のホームページ ...

www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ksk/khz/contents/dojo/kuikisitei.htm
土壌汚染対策法に基づく土壌汚染状況調査の結果、当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が基準に適合しておらず、土壌汚染の摂取経路があり、健康被害が生ずる ... 第6号, 23-2, 平成23年9月13日, 室蘭市仲町 ... 砒素及びその化合物, [指定]
16/09/07 にこのページにアクセスしました。


★基準1400倍のヒ素、半年近く住民に知らせず

室蘭市の公園と市有地の土壌から国の基準値を超える鉛やヒ素が検出された問題で、
同市は5日に記者会見を開き、地下水にしみ出した場合の影響を測る「土壌溶出量」
を調べたところ、市有地で基準値の1400倍のヒ素を確認したと発表した。

同市は、国が検査基準とする半径250メートル以内に飲料用の井戸がないことなどから、
「住民生活の安全性に影響するものではない」と説明している。

同市は昨年12月、同市八丁平の市有地(2万5000平方メートル)を開発するため土壌を
調べ、基準値の20倍の鉛と同10倍のヒ素を確認した。隣接する八丁平南公園(2万平方
メートル)では、同2~10倍の鉛が検出され、子供が使う遊具のそばの土壌では最大で
基準値の10倍の鉛を確認した。

市は記者会見で、公園の土壌汚染を5月に把握しながら半年近く住民に知らせなかったこと
について、「すべてが判明してから住民に説明した方が混乱を与えないと思った。(結果
として)対応が遅かった」と釈明した。

市有地一帯にはかつて、企業の廃棄物の処分場があったといい、市は有害物質との関連を調べる。

(2013年12月6日17時53分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131206-OYT1T00449.htm


八丁平土壌汚染で室蘭市、原因は埋立物と特定
【2014年2月27日(木)朝刊】

 室蘭市八丁平の八丁平南公園と隣接市有地から基準値を上回る有害物質が検出された問題で、市は26日、主な汚染の原因は、企業埋立地の鉛やヒ素を含むダストなどの埋立物と特定した。汚染範囲は、埋立地と市が土地区画整理事業で土砂を移動させた南公園と隣接市有地に限定される。同日の市議会議員協議会と住民説明会で明らかにした。


   
 市の発表によると、汚染の範囲は南公園と隣接市有地、民間所有地を含めた区域。有害物質が検出された南公園の南西側一帯は、市が1976年(昭和51年)に土地区画整理事業で整備する前の63年~74年まで、現在の新日鉄住金室蘭製鉄所の埋立地があった。

 埋立地には12年間に土砂約140万立方メートル、鉛やヒ素が微量含まれるダスト約20万立方メートル、塵芥2万立方メートルなど計約170万立方メートルが埋め立てられており市は埋立物のダストに含まれる有害物質が土壌に漏れ出した可能性が高いと見ている。

 南公園と市有地は、埋立地を掘削して出た土砂を盛土して整備しており、汚染の範囲は埋立地と南公園、隣接市有地に限られる、とした。調査は土壌汚染対策法(土対法)に基づき、国の指定機関が土の成分と利用歴などを調べ特定した。

 現在のところ周辺で健康被害は確認されていないが、市は周辺住民を対象に健康影響調査を実施する。対象者は、南公園利用者と近隣住民の計150人。定員を上回った場合は、居住歴や公園の利用頻度が高い人を優先する。

 日程は、3~4月に八丁平地区の住民へ申込用紙を配布し希望者の募集を始める。4月中旬に開く、医師らによる健康影響評価検討委で対象者を選定。調査は5月の土曜、日曜の2日間、計4回実施する。8月に開く検討委で調査結果を評価して個別通知する。9月に、住民説明会を開いて全体に公表する。

 市は南公園が使えない間、室蘭商業高校跡地に造成された住宅地内の市公園に7月中旬までにブランコなどを備えた代替公園を整備する。

 汚染対策として市は3月から、企業埋め立て区域内の民有地と、南公園と隣接市有地の周囲にある民有地の一部44筆について土壌調査する。新年度以降は、土対法に基づき汚染区域の指定手続きを進める。南公園は9月以降、汚染対策を施し15年度の再開を目指す。市は14年度当初予算案に対策経費約1800万円を計上している。

オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化

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オホーツク文化

   
オホーツク文化(オホーツクぶんか)は、3世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。この文化の遺跡が主としてオホーツク海の沿岸に分布していることから名付けられた。このうち、北海道に分布している遺跡の年代は5世紀から9世紀までと推定されている。
海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送っていたオホーツク文化の担い手を、オホーツク文化人、また単にオホーツク人とも呼ぶ。オホーツク人は『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力であったが、近年行われた人骨の遺伝子調査から、ニヴフ人コリヤーク人との近似性が示されている。同時期の日本の北海道にあった続縄文文化擦文文化とは異質の文化である。
なお、トビニタイ文化をオホーツク文化に含めるかどうかについては、現在のところ意見が分かれている。トビニタイ文化は9世紀から13世紀まで北海道東部にあり、擦文文化の影響を受け、海岸から離れた内陸部にも展開した。両者の継続性を認めてオホーツク文化の一部にする考えと、生活の違いを重視してオホーツク文化に含めない考えとがある。本項では煩を避けるためトビニタイ文化を含めずに説明する。



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時代と分布

オホーツク文化は土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。オホーツク文化の発生地は樺太南西端と北海道北端で、初期は3世紀から4世紀までで、土器の形式からは先行する鈴谷文化を継承している。そこから拡大して北海道ではオホーツク海沿岸を覆い、樺太の南半分を占めた。この5世紀から6世紀を時期を十和田式土器に代表される前期とする。中期は7世紀から8世紀で、活動領域はさらに広く、オホーツク文化の痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいる。9世紀から10世紀の後期には、土器の様相が各地で異なる。終末期の11世紀から13世紀には土器の地域的な差違がさらに明確化する。
9世紀に北海道北部では擦文文化の影響が強まり、オホーツク文化は消滅した。同じ頃、北海道東部ではオホーツク文化を継承しながら擦文文化の影響を受けたトビニタイ文化が成立した。樺太ではオホーツク文化がなお続き、アイヌ文化の進出によって消えたと考えられるが、その様相ははっきりしていない。

生活

オホーツク人は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点があった。流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためと考えられている。秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンなどの海水魚類を対象とした網漁が行われた。アザラシオットセイトドアシカなどの海獣も冬に得られた。夏にはカサゴ・ソイなど様々な魚を獲ったが、その量は冬より少なかった。遺物に描かれた絵[1]や船の土製の模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっている。
また、弥生時代以降の本州と同様に家畜であるを飼い、どちらも食用にしていた。道東では豚飼育は低調だった。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な狩猟獣を狩った。そこでは毛皮獣の比重が高く、交易用の毛皮を入手するための狩りと考えられている。

集落は海岸のそばに置かれた。住居は竪穴式で、何十人も収容できる大型の住居と、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居があった。大規模住居は中心集落で見られる。オホーツク人は、秋から春までは中心集落に住んで共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散したと考えられている。住居の一部に動物の骨を並べる風習があった。並べられた動物は様々だが、特に熊が重要視されていた。熊の重視は、道具類の意匠にも見られる特徴である。

道具としては、オホーツク式土器、石器骨角器木器がみられる。本州からの交易で入手した蕨手刀が副葬品として見つかっているが、実用品として普及するほどの数はなかったらしい。実用品の装飾に動物の意匠を用いたほか、牙や骨で作った動物や女性の像が作られた。
死者は基本的に屈葬された。しかし、目梨泊遺跡の人々は伸展葬の伝統を持ち続けた。

起源と末裔

オホーツク文化には大陸系文化の影響が明確に認められ、同文化のアムール流域靺鞨族の直接移住説をはじめ多くの大陸起源説、影響説が提出されている[2]
オホーツク人の系統については、少ない文献と考古学的証拠をてがかりに古くから論議を呼んできた。現在のところ、大陸からの直接的な移住者が形成したものではなく、鈴谷式土器の時代(紀元前1世紀から紀元6世紀)から樺太に住んでいた人々の中から生まれた文化で、下って現在のニヴフ人につながるとする説が有力である(外部リンク参照)。他に、靺鞨同仁文化のような大陸の文化や、古コリャーク文化トカレフ文化のようなオホーツク海北岸の文化との類似性が指摘される。[3]
オホーツク文化は、後期に擦文文化の要素を取り入れるようになった。トビニタイ文化の時代に擦文文化の要素はさらに強くなり、両方の文化要素の混在が見られるようになった。また、後のアイヌ文化の中には、熊の崇拝のようなオホーツク文化にあって擦文文化にない要素がある。そのため、この方面のオホーツク人は、擦文文化の担い手とともにアイヌ文化を形成したと考えられている[4]

オホーツク人の遺伝子

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族コリヤーク族とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[5][6]
近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。オホーツク人のなかには縄文人には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるmtDNAハプログループY遺伝子が確認され、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[7]。アイヌ民族は縄文人和人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。

文献史料

日本書紀には、7世紀阿倍比羅夫が遠征の航海の途上、大河の河口で蝦夷粛慎の交戦を知り、幣賄弁島(奥尻島とも言われる)で粛慎と戦ったと記されている。その大河を石狩川とし、粛慎をオホーツク人とするのは、分布域と航海能力からいって無理がない解釈であるが、確証はない。




イメージ 2

[転載]北海道の史跡は、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。

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北海道

北海道では、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。

国指定

道南

特別史跡
史跡

道央

史跡

道北

史跡

道東

史跡

道指定

北海道指定史跡については北海道指定文化財一覧#史跡を参照のこと。

転載元: 北海道に行きたいな

[転載]擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。

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縄文土器と擦文土器 @北海道釧路市釧路湿原展望台 Joumon & Satsumon Earthenware in Kushiro Hokkaido


2010/02/19 にアップロード
北海道独特の時代である擦文時代の土器を含む土器の資料展示。釧路市釧路湿原展望台2階展示室に展示されているもの。釧路で発掘された縄文時代の縄文土器と擦文時代の擦文土器が展示されています。
詳細ページ http://pucchi.net/hokkaido/history/hi...
北海道動画チャンネル http://pucchi.net/

擦文時代

   
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)

この時代、9世紀平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化北海道北部から東部オホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。



ところ遺跡の館 オホーツク文化の解説(山田主任)


時代と分布

擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。
これは土器の表面を整えるためへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。

土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。

擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている[1]

生活

擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。たとえば、秋から冬にかけてサケマスなどの獲物をとる時期には、常呂川天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟とキビソバヒエ緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。わずかだがも検出されており、日本三代実録の記述から、それを本州との交易によって得ていたと考える研究者もいる[2]

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工道具として用いられたと考えられている。他に装身具釣り針裁縫用のなど様々な鉄製品が用いられた。や中国の銅銭も見つかっている。これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。また青森県五所川原で作られた須恵器が北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

伸展葬土坑墓が一般的な埋葬形態である。8世紀後半から9世紀奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯石狩平野西部と勇払平野)に作られた。東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

一方で10世紀半ばから12世紀はじめ(平安時代中期から平安時代後期)にかけて、北東北地方から樺太にかけて環濠集落高地性集落が多数見られることから、これを防御性集落とし、「蝦夷(えみし)」から「蝦夷(えぞ)」への転換時期とする見解が出されている[1]

文献史料

北海道の擦文時代は、道外の飛鳥時代から鎌倉時代後期にかけての時期に相当する。『日本書紀』にある7世紀後半(飛鳥時代)の阿倍比羅夫航海をはじめとして、六国史には渡島(わたりしま)の蝦夷(えみし)との交渉記事が多数ある。渡島の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。

見学可能な遺跡等

  • 常呂遺跡 - 国の史跡。北海道最大規模の遺跡で、擦文文化のものに混じってオホーツク文化の住居跡も検出されており、特異な存在。周辺は「ところ遺跡の森」として整備されており、附近には旧石器時代からアイヌ文化のものまで数多くの遺跡が散在している。ワッカネイチャーセンターへも近い。(北見市による紹介
  • 北斗遺跡 - 国の史跡。釧路湿原西側(釧路市湿原展望台の南側)にあり、釧路湿原を望む高台に縄文・続縄文時代のものとともに擦文時代の住居跡が検出されており、そのうち6棟が復元されている。また、釧路湿原展望台へ至る道道53号から少々入ったところに史跡北斗遺跡展示館があり、住居の模型とともに続縄文・擦文時代の解説や出土品の展示があるほか、ここから木道伝いに復元住居(「擦文の村」)へ行くことができる。復元住居は湿原遊歩道(鶴井軌道跡)からも近く、また釧路市湿原展望台とも木道で結ばれている。(釧路観光協会による紹介
  • 標津遺跡群 - 国の史跡(伊茶仁カリカリウス遺跡)。縄文期から擦文期の遺跡で、天然記念物に指定されている標津湿原と合わせて「ポー川史跡自然公園」として整備されている。歴史民俗資料館及び「開拓の村」を併設。(標津町による紹介
  • オムサロ遺跡公園 - 北海道指定史跡。縄文期からアイヌ期にかけての遺跡で、擦文時代の村が再現されている。(紋別市役所による紹介


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常呂遺跡

   
常呂遺跡(ところいせき)は、北海道北見市(旧常呂郡常呂町北見国)にある擦文文化期およびオホーツク文化期の遺跡。国の史跡に指定されている。

概要

オホーツク海をのぞむ海岸に沿って常呂川の河口からサロマ湖西岸へと続く幅約300メートル、長さ約2.7キロメートルの砂丘上に立地し、2,000基以上の竪穴住居跡および墳墓と推定される多数の小形の竪穴状遺構が検出された。
擦文文化の集落遺跡としては北海道最大規模を有し、オホーツク文化期の住居跡も発見されており、特異な存在となっている。両文化の移行の問題を検討するうえでも重要な遺跡である。

東北地方北部から北海道にかけての各遺跡では、しばしば竪穴が埋没しきらず地上に大小の凹みを残存させている場合がみられるが、常呂遺跡の竪穴群はそのなかでも最大級の規模と密度を有する例として知られている。
1974年昭和49年)3月12日、国の史跡に指定され[1]、遺跡の保存と整備が進められた。
周辺は「ところ遺跡の森」として整備されており、附近には旧石器時代からアイヌ文化のものまで数多くの遺跡が散在している。ワッカネイチャーセンターへも近い。

史跡「常呂遺跡」とは

常呂遺跡標識
 史跡「常呂遺跡」は、常呂川河口周辺からオホーツク海沿岸、サロマ湖東岸まで広がる大規模な遺跡です。この地区には多数の遺跡の存在が知られていますが、その中で特に保存状態が良好ないくつかの遺跡が「常呂遺跡」の名称で国指定史跡となっています。史跡「常呂遺跡」とは1箇所の遺跡ではなく、これらの遺跡の総称ということになります。
 史跡「常呂遺跡」の特色の1つはその地形の保存状態にあります。「常呂遺跡」では、大昔、この地域に住んだ人々がつくった竪穴住居の跡が、現在でも確認できる状態で地面に窪みとなって数多く残っているのです。こうした竪穴の跡と見られる窪みが史跡「常呂遺跡」の範囲全体で合計約2700基見つかっています。このような形で古い竪穴の跡が残ることは、北海道をはじめとする寒冷な地方ではしばしば見られることですが、史跡「常呂遺跡」のように広大な面積にわたり多数の竪穴跡が残されている事例は貴重です。さらに、かつて北海道で栄えた独特の文化である、擦文文化とオホーツク文化の遺跡が見つかっており、両者の関係を探る上でも重要な遺跡であることが認められました。こうした理由から「常呂遺跡」は国指定史跡として保護されています。
 「常呂遺跡」は一部が「ところ遺跡の森」として整備・公開されていますが、大部分は大きな改変を受けることなく保護されており、現在でも発見当時の面影を見ることができます。

史跡「常呂遺跡」の範囲と構成遺跡

 史跡「常呂遺跡」は、以下の4つの地区から構成されています。4つの地区を合わせた国指定史跡の範囲の面積は約128ヘクタールに及びます。
史跡「常呂遺跡」地図
 史跡「常呂遺跡」は昭和49(1974)年に国史跡の指定を受けました。このとき指定されたのは4つの地区のうち常呂竪穴群(A)、栄浦第二遺跡(Bの大部分)の2地区です。このとき史跡指定された地区では合わせて約2500基の竪穴の跡が見つかっており、史跡の中核をなす地区となっています。
 その後、史跡指定区域は3次にわたって追加がおこなわれました。昭和62(1987)年には栄浦第一遺跡を含む地区(Bの西側部分)が史跡に追加されました。続いて平成2(1990)年にはC.岐阜台地西部竪穴住居群地点が史跡に追加されました。この地区は「ところ遺跡の森」として整備・公開されています。さらに平成14(2002)年にD.常呂川右岸台地竪穴群地点(トコロチャシ跡遺跡群)が追加して史跡の指定を受けました。この地区では竪穴住居以外にアイヌ文化のチャシ跡も残っています。
 

史跡「常呂遺跡」と世界遺産

  国指定史跡である常呂遺跡は、2004(平成16)年、「オホーツク沿岸の古代遺跡群」の一部として北海道遺産にも選定されました。
  さらに2007(平成19)年、北見市は北海道・標津町と共同で「世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る以下の提案書」を文化庁に提出しました。審査の結果、「世界文化遺産暫定一覧表記載候補の文化資産」として位置づけられました。これは「世界遺産推薦候補の候補」ということになります。
 北見市では今後とも、史跡の価値をPRする活動を続けていきます。

イメージ

転載元: 北海道に行きたいな

[転載]アイヌ

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NHK ETV特集「ある人間(アイヌ)からの問いかけ『萱野茂のメッセージ』」という番組をDVDに録画していたので見る。

今年の5月に79歳で亡くなられた萱野茂さん。

その功績と偉業に対する敬意を持って番組は編纂されていた。

萱野茂さんは、その著書『アイヌの碑』の中で次のように語っている。


「昭和28年の秋であったと思うのですが、いつものように山の働き先から家へ帰ってみますと、父が最も大切にしていたトゥキパスイ(捧酒棒)が見えません。

それまでも、数か月家を留守にして稼ぎから帰ってくると、いろりの端で使っていた民具が一点、また一点というふうに消えているように思っていました。 それが今度は、父自身が大切にしていたトゥキパスイがなくなっているのです。

わたしはこのころ、アイヌ研究の学者を心から憎いと思っていました。

わたしが彼らを憎む理由はいくつかありました。 二風谷に来るたびに村の民具を持ち去る。 神聖な墓をあばいて祖先の骨を持ち去る。 研究と称して、村人の血液を採り、毛深い様子を調べるために、腕をまくり、首筋から襟をめくって背中をのぞいて見る。」『アイヌの碑』 朝日文庫 P.126~127 より

萱野茂さんが一念発起して、アイヌの民具を買い取り、集め始めたのはこの頃だという。

この辺りの話は番組にはあんまり出てこないが・・・・僕的には重要な転機だと思う。

強制労働辛さに人差し指を切り落とし故郷に帰ろうとしたアイヌの写真。

様々な挿話や映像で番組は北海道アイヌモシリの歴史を綴る。

古い話で言えば『日本書紀』のなかにみられる倭建命(やまとたけるのみこと)のエゾ征伐は、そのような侵略の記録として最初の記録だ。侵略に対する民族抵抗の戦いとして、780年のアザマロの乱、789年の『衣川の決戦』などで激しい抵抗を繰り広げた、アテルイの戦いなどが記録されている。アイヌ民族は、大和民族の統一国家に対して『伏(まつろ)わぬ民族』として根強く抵抗を続けるのである。

当時、隼人や熊襲にアズマなど様々な抵抗勢力が「まつろわぬ勢力」が日本各地にあった。

大和朝廷の側から見れば抵抗勢力なのだが反対から見るなら侵略者なのだがこれらの図式や構図は世界中で常に連綿と繰り広げられる。

日本史とはこれらの侵略史でもある。

更に視野を広げるなら半島や大陸から渡ってきた人々がこの国を属国としようとした歴史。

これに対する抵抗勢力が「まつろわぬ勢力」だったのかもしれない。

そんな歴史が現代日本や世界状況とやけに重なる番組でもあった。

まあ、アメリカとイラクの問題と似たような問題を常にこの星は抱える。

そんな状況中で、人間にとっての極限状況が近代化を進める日本政府とアイヌ民族の間に生み出される。

「土地を奪われ、言葉を奪われ、狩猟という生活手段を奪われ」

「足を踏んだ側は痛くないけど踏まれた側はいつまでたっても痛い。」

という萱野茂さんの言葉が何回も番組上では、リフレインされる。

日本という国とアイヌという民族。

このような歴史の結果、世界中の先住民たちは苦境に追い込まれ。

開拓と称し北海道に渡った農家の次男や3男などの貧しい人々の暮らしも開高健の名著「ロビンソンの末裔」などに詳しい。

そんな状況の中で観光アイヌとして生計を立てる人たちが主流の中で萱野さんは、民族の大切な儀式であるイヨマンテ熊送りの儀式などを観光地の見世物として売るアイヌを軽蔑していたという。

萱野さんは、「山子」(木の伐採などの山の仕事)で稼いだ金のうち、生活費だけを家族に渡し、民具を買いに走ったという。

そして、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうちに「アイヌ文化全般を見直そうという自然な気持ち」が生まれたと書いている。

昭和32年、二風谷を訪れた知里真志保(知里幸恵の弟、アイヌ語学者)と出会ったことが、最大の転機だった。

言葉を残そうと当時高価だったテープレコーダーを借金して買い求める。

昔懐かしいオープンリールテープですね。

様々なコタンを尋ね、ユーカラやアイヌ語を収集する日々が続く。

そしてお金に困る。

自らが軽蔑していた観光アイヌとなる。

民族の伝統や文化なによりも言葉「アイヌ語」を残そうとして・・・・・アイヌ語の辞書の編纂やアイヌ語教室に尽力を注ぐ。

「民族とは言葉の事だ。言葉が無くなるということは民族が滅びるという事だ。」と語る萱野さん。そんな言葉を語る萱野さんは深い悲しみを湛えつつも慈悲に満ちた目をしている。


昭和37年「観光アイヌ」として働いていた萱野茂さんは、登別で金田一京助に出会い、金田一京助が死去するまで(昭和46年没)交流が続いた。 朝日新聞の記者だった本多勝一も、萱野茂さんを物心両面から支援した一人である。

と番組を見ながら新たに知ったことや出てこなかったことなどを思い浮かべる。

琉球沖縄、在日、部落、障害者の問題などとも非常に重なるなあ。。。などと思いつつ。

差別の問題と精神病の問題の親近性をいつも思い浮かべる。北海道で知り合った多くのアル中アイヌに精神病アイヌを僕は思い浮かべる。

番組は、旧土人法の廃案やアイヌ新法の制定に二風谷ダムの問題までを追う。

アイヌ=人間。

われわれがアイヌ=人間であるという素朴な事実に気づくまでにあとどれほどの時間や血や痛みや苦しみが必要なのだろうか?

同じところもあり、違うところもあり。お互いを認め合うようになれるまでに。

我々の道のりは途方もなく険しいのだろうけど萱野茂さんという1人のアイヌ=人間が生ききったというそのことが僕にとっては、大きな希望や勇気を与えてくれる。

萱野茂さん。イヤイヤイケレ!!(o^o^o)あ(o^-^o)り(o^o^o) が(o^O^o)と(o^.^o)う

転載元: そういちの平庵∞ceeport∞

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