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[転載]先島諸島の歴史

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先島諸島

   
地理 場所 座標 諸島 島数 主要な島 面積 最高標高 最高峰 所属国都道府県市町村最大都市 人口統計 人口 人口密度
先島諸島
Sakishima Islands.jpg
NASAによる撮影(2015年7月30日)
先島諸島の位置(南西諸島内)
先島諸島
宮古島
宮古島
石垣島
石垣島
那覇市
那覇市
与那国島
与那国島
魚釣島
魚釣島
先島諸島 (南西諸島)
先島諸島(尖閣諸島を含む)の位置
東シナ海太平洋
北緯24度00分 - 26度00分
東経122度45分 - 125度45分
南西諸島
44島(うち20島は有人島)[1]
西表島(289.27km²)[2]
石垣島(222.63km²)[2]
宮古島(159.25km²)[2]
818.45 km2 (316.01 sq mi)
国土地理院、2010年10月1日現在)[2]
526 m (1,726 ft)[3]
於茂登岳[3]
沖縄県
宮古島市石垣市
宮古郡多良間村
八重山郡竹富町与那国町
宮古島市 (人口 52,039人[4])
105,708人
国勢調査、2010年10月1日現在)[4]
129.2 /km2 (334.6 /sq mi)
先島諸島(さきしましょとう)は、日本南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。



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歴史

復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
カテゴリカテゴリ - コモンズコモンズ
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近代以前


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先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
  約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。 1609年、徳川幕府の了解を得た薩摩藩島津氏による琉球王国に侵攻し、服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入した。

近代

明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。日本は台湾先住民による琉球人殺害宮古島島民遭難事件の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。この事件は、1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害されたものである。

1879年(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)するが、との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし八重山諸島宮古島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。清も一度は応じ仮調印したが、「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで、清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の意向によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。琉球再興に動かない清の態度に抗議した脱清人名城春傍(林世功)の自害もこの時のことである。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなった。

政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。また1937年まで日本標準時より1時間遅い西部標準時が適用されていた。

転載元: 海洋文化交流のブログ


ウミガメの子、廃油まみれの死骸で発見 竹富島に廃油ボール200kg漂着

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ウミガメの子、廃油まみれの死骸で発見 竹富島に廃油ボール200kg漂着

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廃油にまみれた子亀の死骸=26日、西表島ホネラ海岸(提供・八重山環境ネットワーク)
廃油にまみれた子亀の死骸=26日、西表島ホネラ海岸(提供・八重山環境ネットワーク)
                                    
 石垣海上保安部は27日、「竹富島コンドイ浜の海岸で廃油ボールが漂着している」などと26日に島民から通報があり、その後廃油ボール約200キロを島民が回収したと発表した。また石垣島でも約100個の廃油ボールが確認されたほか、西表島ホネラ海岸ではウミガメの子亀の死骸が廃油にまみれた状態で見つかった。石垣海上保安部が排出元や油の成分などを調べている。
 同部によると、27日午後5時現在、石垣島西側の吉原海岸で約20メートルの範囲で約5ミリ~5センチ程度の廃油ボール約50個、米原ビーチでも約100メートルの範囲で約2~20センチほどの廃油ボール約50個を確認。まだ回収されておらず、重量は調査中という。
 同部や海上保安協力員、八重山環境ネットワークなどが石垣島や与那国島、西表島沿岸を調査している。

関空発Ⅼcc

[転載]尖閣諸島は、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などの島々から成っています

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尖閣諸島は日本の固有の領土です

日本は、尖閣諸島が無人島であるのみならず、他国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、1895(明治28)年1月に閣議決定を行って沖縄県に編入しました。これは、国際法上、正当に領有権を取得するためのやり方に合致しています。
その後、日本の民間人が日本政府の許可の下、尖閣諸島に移住し、鰹節工場や羽毛の採集などの事業を展開しました。
なお、福建省の漁民が尖閣諸島の魚釣島近海で遭難した際には、日本人が救助を行い、1920年5月に当時の中華民国駐長崎領事から「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載された感謝状が発出されました。
第二次世界大戦の前は、最盛期には200人以上の住人が尖閣諸島で暮らし、税徴収も行われていました。また、現在においても、警備・取締りや国有地としての管理等が適切に行われています。
尖閣諸島
【魚釣島鰹節工場】
(写真提供:那覇市歴史博物館)
尖閣諸島
【かつての居住者】
(写真提供:那覇市歴史博物館)



尖閣諸島の構成について

尖閣諸島は、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などの島々から成っています。
(写真提供:国土地理院)



サンフランシスコ平和条約の下で尖閣諸島は日本の南西諸島の一部として扱われています

戦後、1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約において尖閣諸島は日本が放棄した領土には含まれず、日本の南西諸島の一部として米国の施政下に置かれました。尖閣諸島の一部は米国が射爆撃場として使用されていましたが、当時、中国はそれらの措置に一切異議を唱えておらず、逆に中国共産党の機関紙や中国の地図の中で、日本の領土として扱われてきました。
琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い
【1953年1月8日人民日報記事
「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」】
世界地図集
【『世界地図集』
(1958年出版(1960年第二次印刷))】
【サンフランシスコ平和条約調印式】
(写真提供:共同通信社)
【サンフランシスコ平和条約


沖縄返還協定でも、尖閣諸島は日本に施政権を返還する対象地域の中に含まれています

1972(昭和47)年発効のいわゆる「沖縄返還協定」でも、尖閣諸島は日本に施政権を返還する対象地域の中に含まれています。
このように、尖閣諸島は戦後秩序と国際法の体系の中で一貫して日本領土として扱われてきました。
沖縄返還協定
【「沖縄返還協定」に規定された返還範囲】



中国は、長年にわたって、我が国が尖閣諸島を領有する事について一切異議を唱えず、海底資源埋蔵の可能性が指摘された後、突如として領有権について独自の主張を始めました

1969年に国連の報告書で東シナ海に石油埋蔵の可能性があることが指摘されると、それまで何ら主張を行っていなかった中国は、日本の閣議決定から76年後の1971(昭和46)年になって、初めて尖閣諸島の「領有権」について独自の主張をするようになりました。




中国政府の船舶等による尖閣諸島近海での挑発行動

中国政府は、1992年に「中華人民共和国領海および接続水域法」を公布した際に、尖閣諸島は中国の領土に属すると一方的に制定し、さらに、2012年には声明を発表して、その中で魚釣島およびその付属島嶼の領海基線を公布しました。また、2013年には一方的に東シナ海上空に「防空識別区」を設定し、尖閣諸島空域があたかも「中国の領空」であるかのように表示をしました。2008(平成20)年以降は、継続的に中国政府の船舶が尖閣諸島周辺海域に派遣され、頻繁に領海侵入するなど、日本への挑発的行動を繰り返しています。これに対し、日本としては、日本の領土、領海、領空は断固として守り抜くとの決意の下、冷静かつ毅然とした対応を行うとともに、中国に対して厳重に抗議を行っています。
中国公船等による尖閣諸島周辺の接続水域内入域及び領海侵入隻数(月別)
(画像をクリックで拡大)


根拠のない中国の主張

事 実
中国は、尖閣諸島周辺での石油埋蔵の可能性が指摘された後の1970年代以降になってから、尖閣諸島は古くから中国の領土であると主張を始めました。 中国の主張は、中国の古文書や地図に尖閣諸島の記述があることから、島々を発見したのは歴史的にも中国が先である、地理的にも中国に近い、というものです。 しかし、本当に中国が尖閣諸島を他国より先に発見したとの証拠は何もなく、いずれにせよ、単に島を発見することや、地理的に近いということのみでは領有権の主張を裏付けることにはなりません。 国際法上、領域権原を取得するためには、明確な領有の意思を持って、継続的かつ平和的に領有主権を行使していることが必要とされます。 しかし、これまで中国は、自らが尖閣諸島をそのように実効的に支配していた証拠を何ら示していません。

尖閣諸島に関するQ&A

基本問題

中国(ないし台湾)の主張に対する日本の見解

尖閣諸島に関するアメリカの立場

尖閣三島の所有権の国への移転


【参考:中華民国駐長崎領事の感謝状】(仮訳)

中華民国駐長崎領事の感謝状
 中華民国8年冬,福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人が,強風のため遭難し,日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島に漂着した。
 日本帝国八重山郡石垣村の玉代勢孫伴氏の熱心な救援活動により,彼らを祖国へ生還させた。救援において仁をもって進んで行ったことに深く敬服し,ここに本状をもって謝意を表す。 中華民国駐長崎領事 馮冕
中華民国9年5月20日



【参考:1953年1月8日人民日報記事「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」】(抜粋・仮訳)

琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い
 「琉球諸島は,我が国(:中国。以下同様。)の台湾東北部及び日本の九州南西部の間の海上に散在しており,尖閣諸島,先島諸島,大東諸島,沖縄諸島,大島諸島,トカラ諸島,大隈諸島の7組の島嶼からなる。それぞれが大小多くの島嶼からなり,合計50以上の名のある島嶼と400あまりの無名の小島からなり,全陸地面積は4,670平方キロである。諸島の中で最大の島は,沖縄諸島における沖縄島(すなわち大琉球島)で,面積は1211平方キロで,その次に大きいのは,大島諸島における奄美大島で,730平方キロである。琉球諸島は,1000キロにわたって連なっており,その内側は我が国の東シナ海(中国語:東海)で,外側は太平洋の公海である。」

【参考:『世界地図集』(1958年出版(1960年第二次印刷))】

世界地図集
 1958年に中国の地図出版社が出版した地図集。尖閣諸島を「尖閣群島」と明記し,沖縄の一部として取り扱っている。中国側は,同地図集には,「中国との国境線の部分は,抗日戦争前(すなわち台湾が日本植民地だった時代)の地図を基にしている」との注記があり,1958年発行の地図における記載のみをもって当時の中国政府が日本の尖閣諸島への支配を認めていたという根拠にはなり得ないと主張。しかしながら,中国側が指摘する注記は,原文では「本地図集の中国部分の国境線は解放前の申報(注:当時の中国の新聞)の地図を基に作成した(中文:本図集中国部分的国界線根据解放前申報地図絵制)。」とのみ記述。具体的にどの部分が解放前のものかは不明。そもそも,同地図では,台湾を「中華人民共和国」の領土として記載しており,台湾の附属島嶼であると主張する尖閣諸島に関する記述だけを台湾が日本の植民地であった時代の表記で残すことは不自然。



尖閣諸島の概要

 企画政策課では、平成25年3月に策定された「海洋基本計画」の実行の一環として、 「尖閣諸島自然環境基礎調査事業」を実施しました。
 本事業では、尖閣諸島についての理解を深めていただくため、尖閣諸島の自然環境を中心に、 歴史・漁業等についての資料を収集し、とりまとめました。

 ⇒ 尖閣諸島自然環境基礎調査事業 報告書

 また、多くの方に尖閣諸島についての理解を深めていただくため、事業の概要をまとめた動画やパンフレットも作成しております。
 ぜひ、ご覧ください。

 ⇒ 石垣市の宝 尖閣諸島(動画)
   ・日本語版
   ・英語版
   ・中国語版

 ⇒ 石垣市の宝 尖閣諸島(PDF)
   ・日本語版
   ・英語版
   ・
中国語版

転載元: 海上保安、国土防衛、美しい日本を私たちが行動して守りましょう

[転載]八重山諸島の歴史

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歴史

復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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近代以前

 先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
 約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。
14世紀から15世紀沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。
 これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。 1609年、徳川幕府の了解を得た薩摩藩島津氏による琉球王国に侵攻し、服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。
 琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入した。

近代

 明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。日本は台湾先住民による琉球人殺害宮古島島民遭難事件の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。
 この事件は、1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害されたものである。

 1879年(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)するが、との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし八重山諸島宮古島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。
 清も一度は応じ仮調印したが、「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで、清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の意向によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。琉球再興に動かない清の態度に抗議した脱清人名城春傍(林世功)の自害もこの時のことである。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなった。

 政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。また1937年まで日本標準時より1時間遅い西部標準時が適用されていた。


www.zephyr.justhpbs.jp/yaeyama_history.html - キャッシュ
 【八重山歴史年表】
西暦中国暦和 暦内    容
-1000万年前南西諸島と中国大陸南部が陸続きとなり生物が移り住む
-100万年前活発な地殻変動で大陸と離れ八重山諸島の原形ができる
-3500年前土器の使用始まる(仲間第一貝塚)
714奈良大和朝廷との交流の記述あり(信覚:しがき=石垣) *1
1185鎌倉平家の落武者が石垣島を来島
1390
(1368~1644)
室町
(1336~1573)


安土・桃山

(1573~1603)
琉球王朝時代八重山が琉球(中山)王府の統治下となる
1437三味線、南洋の踊り伝来
1500オヤケ赤蜂の乱、中山軍に討伐鎮定される*2
1522与那国島が琉球王府の統治下となる(一説には1510年)*3
1524竹富島に蔵元創設する
1609江戸
(1603~1868)
薩摩の琉球攻略
1611薩摩による八重山検地
1614桃林寺、権現堂創建
1622キリスト教伝来
1628行政及び税制の改革 (行政区を宮良・石垣・大浜の三間切とする)
1634綿布の製法伝来
1637人頭税制度の創設 (琉球政府の課した最も過酷な租税制度)*4
1647八重山の人口、5,482人と記録にある
1648波照間島平田村の百姓男女4-50人ほどが南波照間へ欠落*5
1665甘藷、初めて八重山に伝来
1681
(1644~1912)
間引(赤子埋殺)の悪習始まる
1694石垣島にサツマイモ伝来
1718唐船、石垣島へ漂着
1730八重山島日記編集される
1732唐紙製紙法伝来
1749芭蕉布の製法伝来
1771明和大津波 (死者9,313人、八重山の人口1/3となる)*6
1819宮良殿内建立
1839疫病大流行
1843英国船サラマン号入港する
1852英国商船唐人を大量斬殺(唐人墓)*7
1872明治
(1868~1911)
5琉球王国、琉球藩となる
187912廃藩置県、沖縄県となる [琉球処分]*8
188013日本政府、宮古・八重山を清国へ割譲の条約調印
188215郵便局設置
188720マラリア調査始まる  サトウキビ栽培が本格的開始
189023貨幣通用の始まり
189427八重山養蚕業始まる
189528断髪騒動 (八重山高等小学校生徒、竹富島修学旅行先にて一斉に断髪さる)
189629郡制施行で尖閣諸島も含め八重山郡に編入
190336人頭税廃止される
190538宮古久松五勇士、バルチック艦隊状況を八重山に急報する
190841一郡一村の八重山村誕生
www.okinawainfo.net/yaima/yaima-rekishi.html - キャッシュ
沖縄の八重山地方(諸島)の歴史についてのページです。
yaeyamanow.nanpusya.com/history17.html - キャッシュ
石垣、大浜、宮良の三間切りとなった八重山に在番が置かれ、そして1638年に初めて 人頭税が導入された。人頭税は一定の年齢に達したら否応なく課税される税金で、沖縄 本島にはなく宮古と八重山に課された差別的な税金であった。 賦課の方法は村の規模  ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp > ... > 歴史 > 日本史 - キャッシュ
沖縄内でも侵略の歴史が多々有りました。

①本島内での血で血を洗う抗争
 17世紀初頭、尚巴志による本島統一が行われ、第一尚氏による琉球王朝が出来上がりました。成立からほんの60年余り後、臣下の金丸がクーデターを起こし、第一尚氏は滅亡。
 第一尚氏の主だった血筋は殆ど虐殺されています。現代沖縄県で最も知名度の高い歴史人物である尚巴志の墓が、読谷村の草深い所に誰にも知られる事無くひっそりと存在するのはこの為です。

②本島王朝の他島国征服
 金丸は明国側にクーデターである事内密にする為に、尚氏を名乗り、第二尚氏がスタートします。
 元々各島々には各々の王が立つ本島王朝とは全く別国家でした。是を侵略し、現在知られる琉球王国版図が出来上がりますが、当然ながら、「本島王朝側は征服者」「島々国家は被征服者」との位置付けになります。現代でも本島と宮古・八重山の方言が全く通じない程に異なるのは、元々別国家であったからです。侵略の具体的歴史は割愛致します。

③本島王朝の島々への対応
 本島王朝の島々への税搾取は「人頭税」に代表される様に、苛烈を極めました。基本は「住民が死んでも良いから搾り取れるだけ搾り取れ」です。
 この表現を読まれて「住民が死んでしまったら税搾取が出来なくなるから、本当かな?」と思われると思います(笑)が、この話にはあるカラクリがあります。「島々住民が脱走や死亡で減少したら、本島住民を強制移住させればよい」と云う、信じられない政策です。本島内での出来事。「ある朝起きてみたら、自分の家を含む一定地区だけ紐で囲われていた。やがて役人がやってきて、紐内地区住人は八重山へ移住せよとの指示。拒否すれば投獄となり、住民は八重山へ移動。やがて八重山住民減少が来る」この繰り返しです。人権を無視したトンでもない政策です!
島々の本島税搾取から逃れる話を二つご紹介します。

 「南波照間島伝説」
 波照間島の南に天国の様な島が有る・・・との伝説です。勿論、実際には島は有りません。波照間島近隣の住人が苛烈な税搾取から逃れる為に船に乗って多数旅立った(恐らく、全員死亡)と云う、悲しい現実が、この伝説を生みました。

「鮫に助けられた男伝説」
海で遭難した男が鮫に助けられた伝説ですが、これも実態は異なります。税負担に耐えられなくなった男が島から逃亡するが、遭難し、役人に捕まる。役人側は自身の立場が悪くなる事を恐れて、鮫に助けられた男伝説をでっち上げ・・・これが現実です。

④日本による琉球王国侵略
  第二尚氏時代、日本は「明国との貿易中継国」として琉球王国を侵略します。
時代は、徳川家康時代。明国との貿易で利益を得たい家康は、何とか貿易出来ないか苦心します。明国に親子として頭を下げれば朝貢貿易は可能ですが、家康は頭を下げたくありません。
 そこで、中継地として琉球王国を選んだ訳です。ただ、明国も馬鹿では有りません(笑)から、日本の実質支配を把握。明国は琉球王国の朝貢可能回数を極端に減らす対策を行い、家康の意図は破綻します。後は、「徳川幕府への定期的納税」を条件に、薩摩側に琉球王国支配を委任。薩摩のひとり勝ちとなります。

⑤明治期の琉球処分に実態
 明治に入り、いよいよ琉球王国が滅亡します。
 この時、琉球王朝側役人は大いにうろたえ、清国に助けを求めます。ところが、一般琉球国平民は、いたって冷ややかな目でこの事態を見ており、「民衆蜂起」の様な大事件は殆ど起きませんでした。理由は②と③です。
 うろたえる王朝役人を尻目に琉球処分が成立したのは、王朝側の対応にも大きな責任があります。

ja.wikipedia.org/wiki/Category:八重山諸島の歴史 - キャッシュ
... 八重山諸島の歴史. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動先: 案内、 検索. 八重山諸島の歴史に関するカテゴリ。 下位カテゴリ. このカテゴリには以下 の下位カテゴリのみが含まれています。 *. ▻ 石垣市の歴史(1サブカテゴリ、20 ページ) ...

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八重山研究の歴史

著者:三木 健(みき たけし)
仕様:B6判 ソフトカバー 278ページ
発行:南山舎
定価:2,030円(1,880円+税)
やいま文庫シリーズ5
台八重山地域の研究史や
文化状況にゆいてまとめた一冊
30年余、ふるさと八重山の地域史研究に携わってきた著者が、近代以降の内外の八重山研究や調査を概観。また、「東京・八重山文化研究会」「沖縄・八重山文化研究会」を中心に書いた「研究会覚書」や、各島々でのフィールドワークの成果「記録と保存」、「八重山の戦争への視座」などを収録。

コンテンツ

第一部 八重山研究史
はじめに―八重山研究の潮流
1.明治期―民情調査と黎明期の研究
・民情視察から研究へ――田代安定の旧慣調査
・南島研究の導火線――笹森儀助の『南島探験』
・「八重山考古学」の幕開け――鳥居龍蔵の川平仲間貝塚発掘調査
2.大正期―柳田の来島とその影響
・胎動する地元の研究――岩崎卓爾と喜舎場永じゅん
・研究の種をまく――伊波普の来島
・郷土教育の重視――比嘉重徳と宮良長包
・「海南小記」の旅――柳田国男の来島とその波紋
・初の八重山方言辞典――宮良當壮の言語研究
3.昭和戦前期―台湾と結ぶ南島研究
・「八重山郷土研究会」の発足
・「南方文化の探究」――河村只雄の視点
・台湾と結ぶ『南島』の発行――須藤利一と八重山
・戦時下の八重山で――二人の外国人研究者の来訪、吉田一等兵
4.米国統治期―「起源論争」と「早稲田編年」
・『八重山歴史』の編纂と地元識者の著作
・「起源論争」起こる――金関・宮良論争
・「早稲田編年」の誕生――早大八重山調査団
・相次ぐ団体、個人の調査
・外国人による八重山研究
5.本土復帰後の研究―「される側」から「する側」へ
・石垣、東京、那覇に研究会が発足
・始動した自治体の歴史編集事業
・広がる研究分野と若手研究者の輩出
・大学による調査研究とその成果
第二部 研究会と自治体の取り組み
1.研究会覚書
・十周年を迎えた「沖縄・八重山文化研究会」
・東京・八重山文化研究会発足のころ
・八重山文化研究会活動の成果――『八重山文化論集』第三号を読む――
2.自治体の取り組み
・二十年を迎えた石垣市史――その成果と課題――
・歴史ロマンへの誘い――石垣市史編集室編『石垣島・村むら探訪』――
・後藤総一郎氏と柳田国男研究――石垣市史市民講座によせて――
・竹富町史編集の現状と課題――町史編集室の発足によせて――
・与那国町史初の成果――『記録写真集・与那国』(町史別巻1)――
第三部 地域史の現場から
1.記録と保存
・危機に立つ波照間の文化遺産
・パナリ島―廃村への軌跡
・石垣島の古井戸探訪記
・密林に消えた島の近代史――西表炭坑が物語るもの――
・八重山におけるカツオ漁業の歴史
・人頭税廃止百年に思う
・残っていた宮良長包新婚生活の家
2.八重山の戦争への視座
・八重山の戦記――その検証と課題――
・八重山戦を知る二つの本
・駐屯兵が島の戦争に見たもの――吉田久一著『八重山戦日記』を読む――
・八重山戦を考える――戦時中の地元新聞記事を中心に――
・戦争マラリアが問うもの――辺境差別が告発する「近代日本」――
付録 八重山研究史略年表
・掲載論文初出一覧
・あとがき

dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-29 - キャッシュ
オヤケアカハチとその勢力を殺いだ琉球王朝の第3代尚真王は、その後を宮古島の 仲宗根に委ね、先島諸島の経営を始めるが、2年後には王府の直接統治へと移行する。 琉球王朝の黄金期といわれる時代を迎え、奄美諸島から先島諸島まで ...
jimoto-b.com/7521 - キャッシュ
関東は朝晩の風が冷たくなり、そろそろ厚手のコートが着たくなる季節になりました。 マフラーやムートンブーツもよく見かけます。富士山のてっぺんも真っ白だし、冬がすぐ そこまで来ているのがはっきりわかります。 そんな折、沖縄県石垣市と ...
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転載元: 友愛・平和のブログ

[転載]中華民国8年冬,福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人が,強風のため遭難し,日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島に漂着した

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中国(ないし台湾)による尖閣諸島の領有権に関する主張に対して,日本政府はどのような見解を有していますか。
  • A4
    • 従来,中国政府及び台湾当局がいわゆる歴史的,地理的乃至地質的根拠等として挙げている諸点は,いずれも尖閣諸島に対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とは言えません。
    • また,そもそも,中国政府及び台湾当局が尖閣諸島に関する独自の主張を始めたのは,1968年秋に行われた国連機関による調査の結果,東シナ海に石油埋蔵の可能性があるとの指摘を受けて尖閣諸島に注目が集まった1970年代以降からです。それ以前には,サンフランシスコ平和条約第3条に基づいて米国の施政権下に置かれた地域に尖閣諸島が含まれている事実に対しても,何ら異議を唱えていません。中国側は,異議を唱えてこなかったことについて何ら説明を行っていません。
    • なお,1920年5月に,当時の中華民国駐長崎領事から福建省の漁民が尖閣諸島に遭難した件について発出された感謝状においては,「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」との記載が見られます。また,1953年1月8日人民日報記事「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」においては,琉球諸島は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなる旨の記載があるほか,1958年に中国の地図出版社が出版した地図集(1960年第二次印刷)においては,尖閣諸島を「尖閣群島」と明記し,沖縄の一部として取り扱っています。 さらに,米軍は米国施政下の1950年代から尖閣諸島の一部(大正島,久場島)を射爆撃場として利用していましたが,中国側が当時,そのことについて異議を呈した形跡はありません。

【参考:中国政府及び台湾当局の主張の開始の背景】

 1968年秋,日本,台湾,韓国の専門家が中心となって国連アジア極東経済委員会(ECAFE:UN Economic Commission for Asia and Pacific)の協力を得て行った学術調査の結果,東シナ海に石油埋蔵の可能性ありとの指摘がなされ,尖閣諸島に対し注目が集まった。

【参考:中華民国駐長崎領事の感謝状】(仮訳)

中華民国駐長崎領事の感謝状
 中華民国8年冬,福建省恵安県の漁民である郭合順ら31人が,強風のため遭難し,日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島に漂着した。
 日本帝国八重山郡石垣村の玉代勢孫伴氏の熱心な救援活動により,彼らを祖国へ生還させた。救援において仁をもって進んで行ったことに深く敬服し,ここに本状をもって謝意を表す。 中華民国駐長崎領事 馮冕
中華民国9年5月20日

【参考:1953年1月8日人民日報記事「琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い」】(抜粋・仮訳)

琉球諸島における人々の米国占領反対の戦い
 「琉球諸島は,我が国(:中国。以下同様。)の台湾東北部及び日本の九州南西部の間の海上に散在しており,尖閣諸島,先島諸島,大東諸島,沖縄諸島,大島諸島,トカラ諸島,大隈諸島の7組の島嶼からなる。それぞれが大小多くの島嶼からなり,合計50以上の名のある島嶼と400あまりの無名の小島からなり,全陸地面積は4,670平方キロである。諸島の中で最大の島は,沖縄諸島における沖縄島(すなわち大琉球島)で,面積は1211平方キロで,その次に大きいのは,大島諸島における奄美大島で,730平方キロである。琉球諸島は,1000キロにわたって連なっており,その内側は我が国の東シナ海(中国語:東海)で,外側は太平洋の公海である。」

【参考:『世界地図集』(1958年出版(1960年第二次印刷))】

世界地図集
 1958年に中国の地図出版社が出版した地図集。尖閣諸島を「尖閣群島」と明記し,沖縄の一部として取り扱っている。中国側は,同地図集には,「中国との国境線の部分は,抗日戦争前(すなわち台湾が日本植民地だった時代)の地図を基にしている」との注記があり,1958年発行の地図における記載のみをもって当時の中国政府が日本の尖閣諸島への支配を認めていたという根拠にはなり得ないと主張。しかしながら,中国側が指摘する注記は,原文では「本地図集の中国部分の国境線は解放前の申報(注:当時の中国の新聞)の地図を基に作成した(中文:本図集中国部分的国界線根据解放前申報地図絵制)。」とのみ記述。具体的にどの部分が解放前のものかは不明。そもそも,同地図では,台湾を「中華人民共和国」の領土として記載しており,台湾の附属島嶼であると主張する尖閣諸島に関する記述だけを台湾が日本の植民地であった時代の表記で残すことは不自然。




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中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣島島民への感謝状

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  • 底本: 中華民国駐長崎領事・馮冕から石垣島島民への感謝状


感謝狀

中華民國八年冬福建省惠安縣漁民
郭合順等三十一人遭風遇難飄泊至
日本帝國冲繩縣八重山郡尖閣列島
內和洋島承
日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢
孫伴君熱心救護使得生還故國洵屬
救災恤鄰當仁不讓深堪感佩特贈斯
狀以表謝忱
  中華民國駐長崎領事馮冕
中華民國九年五月  二十  日

和訳

【仮訳】
 感謝状
中華民国八年(一九一九年)冬,福建省恵安県の漁民である郭合順(かく・ごうじゅん)ら三十一人が,強風のため遭難し,日本帝国沖縄県八重山(やえやま)郡尖閣列島内和洋島(わようとう)に漂着した。
日本帝国八重山郡石垣村の玉村勢孫伴(たまよせ・そんはん)氏の熱心な救援活動により,彼らを祖国へ生還させた。救援において仁をもって進んで行ったことに深く敬服し,ここに本状をもって謝意を表す。
  中華民国駐長崎領事 馮冕(ふう・べん)
中華民国9年(1920年) 5月20日

和訳の底本
『尖閣諸島について』 (PDF), 日本国 外務省 (2013年3月) p. 13, 2014年10月2日閲覧。原文は縦書き、漢数字と洋数字の使い分けは原文のまま。

参考文献


【感謝状の贈られた事情】 
 
 大正九年(1919年)の冬12月30日、尖閣諸島近海で中国人が遭難しているのを古賀善次氏が見つけてこれを全員救出し、石垣にある八重山島庁(当時)に送り届けた。石垣村役場は総出で救援活動を行い、31名を無事本国に帰還させた。
 このことに対して中華民国の長崎領事が感謝状を贈った。石垣市在住の元同市助役で郷土史家牧野清氏によると感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長 (当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、与那国島出身の通訳松葉ロブナストさん計四人に贈られた。現存するのは、玉 代勢氏あてたこの一枚だけである(※注)。同氏の長男、冨田孫秀氏が石垣市に90年頃に寄贈された。           


 また魚釣島の所有者古賀善次氏は、
「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人ちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。
 翌年ですよ、中国政府から私をはめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。

 いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。ええ、いまでも保存してありますよ。」『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147頁、「毛さん、佐藤さん、尖閣諸島は私の〝所有地〟です」
(「れっきとした証拠」持ち出し名乗りあげた〝地主〟の 言い分)

外部リンク

1972年の日中共同声明の交渉時や1978年の日中平和友好条約の交渉時に,尖閣諸島の領有権をめぐり解決すべき問題があることを日本が認めた事実はなく,「棚上げ」などに合意した事実もない。

【日中首脳会談(田中角栄総理/周恩来総理)】 (1972年9月27日)(外交記録公開済み)
(田中総理)尖閣諸島についてどう思うか?私のところに,いろいろ言ってくる人がいる。

(周総理)尖閣諸島問題については,今回は話したくない。今,これを話すのはよくない。石油が出るから,これが問題になった。石油が出なければ,台湾も米国も問題にしない。


【日中首脳会談(福田赳夫総理/小平副総理)】 (1978年10月25日)(日中平和友好条約交渉時)(外交記録公開済み)

(副総理) (・・・思い出したような素振りで・・・)もう一点言っておきたいことがある。両国間には色々な問題がある。例えば中国では釣魚台,日本では尖閣諸島と呼んでいる問題がある。こういうことは,今回のような会談の席上に持ち出さなくてもよい問題である。園田外務大臣にも北京で述べたが,われわれの世代では知恵が足りなくて解決できないかもしれないが,次の世代は,われわれよりももっと知恵があり,この問題を解決できるだろう。この問題は大局から見ることが必要だ。(福田総理より応答はなし。)

【上記首脳会談と同日の小平氏記者会見】 (1978年10月25日)

(記者)尖閣諸島は日本固有の領土で,先ごろのトラブルは遺憾と考えるが,副総理の見解は。

(副総理)尖閣列島をわれわれは釣魚島と呼ぶ。呼び方からして違う。確かにこの問題については双方に食い違いがある。国交正常化のさい,双方はこれに触れないと約束した。今回,平和友好条約交渉のさいも同じくこの問題にふれないことで一致した。中国人の知恵からして,こういう方法しか考えられない。というのは,この問題に触れると,はっきりいえなくなる。確かに,一部の人はこういう問題を借りて中日関係に水をさしたがっている。だから両国交渉のさいは,この問題を避ける方がいいと思う。こういう問題は一時タナ上げしても構わないと思う。十年タナ上げしても構わない。われわれの世代の人間は知恵が足りない。われわれのこの話し合いはまとまらないが,次の世代はわれわれよりもっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れられるいい解決方法を見いだせるだろう。

転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか

[転載]尖閣諸島の領有をめぐる論点―日中両国の見解を中心に―

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尖閣諸島の領有をめぐる論点―日中両国の見解を中心に―

はじめに
Ⅰ 領土の帰属に関する国際法
 1 先占の理論
 2 判例における権原維持の重視
 3 決定的期日(critical date)
Ⅱ 領土編入以前
 1 「海上防衛区域」
 2 「中国の台湾の付属島嶼」
 3 琉球と中国との境界
Ⅲ 日本への領土編入
 1 領土編入の閣議決定
 2 下関条約との関係
 3 編入以降の実効的支配
Ⅳ 第二次世界大戦後の地位
 1 戦後の領土処理
 2 関係国の態度
おわりに


 1971(昭和46)年以降、中国政府は、尖閣諸島は明代より中国の領土であった、
などとして、同諸島に対する領有権を主張している。他方、日本政府は、同諸島
の領有権問題の存在自体を認めていない。

 本稿は、尖閣諸島の領有権をめぐる両国の見解を比較し、検討を加えたもので
ある。主な論点は、
①1895(明治28)年に日本の領土に編入されるまで、同諸島は無主の地であったのか、それとも中国の領土であったのか、
②閣議決定による日本の領土編入は有効に行なわれたのか、
③領土編入以降、日本は同諸島に対して継続的かつ平穏に主権を行使しているか、に大別される。
 特に、継続的かつ平穏な主権の行使の有無は、領土の帰属をめぐる過去の国際裁判においても、重視されている。

Ⅱ 領土編入以前
 中国は、「はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含まれており、それは・・・中国の台湾の付属島嶼であった。中国と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある」と主張する10。以下では、尖閣諸島が歴史的に
中国の領土であったことの根拠とされる文献を挙げ、その妥当性を検討したい。

1 「海上防衛区域」
 1560 年代、華中・華南地方沿岸を中心に倭寇が猛威をふるい、明朝に対する重大な脅威となっていた11。このため、海上防衛区域が設定されていたようであり、中国は、当該区域に尖閣諸島が含まれていたという。
 その根拠としてよく挙げられるのが『籌海図編(ちゅうかいずへん)』(1562 年刊と推定12)である。
 同書の巻一「沿海山沙図(えんかいさんさず)」福七、福八には、福建省羅源県・寧徳県の沿海の島々が描かれ、それには、雞籠山、彭化山、釣魚嶼、化瓶山、黄毛山、橄欖山、赤嶼など、尖閣諸島に連なる島嶼が含まれている、というのである13。
 しかし、同じ『籌海図編』でも、巻四の中の「福建沿海総図」には、尖閣諸島はおろか、台湾や基隆嶼、彭佳嶼すら描かれていない。
 『籌海図編』が編纂された時期、明は本土沿岸の防衛にも汲々とする有様で、その防衛力は澎湖島にさえ及んでいなかった。よって、「沿海山沙図」に尖閣諸島が描かれた意図は、これらの島嶼が、倭寇が襲来する際の進路にあたり、本土防衛上注意すべき区域であることを示すにとどまる、との指摘がなされている14。

2 「中国の台湾の付属島嶼」
(1)明代
 次に、尖閣諸島は「中国の台湾の付属島嶼」であろうか。
 尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとの説は、『日本一鑑』(1556 年)の中の、魚釣島についての記述、「小東(台湾を指すとされる。)小嶼也」が根拠の一つとなっている。

 しかし、当時の中国は、台湾を統治しておらず、統治の意思もなかった。例えば、明の正史である『明史』では、台湾は東蕃として「外国列伝」に入れられ、台湾北部の雞籠山も「外国列伝」に含められている15。
 仮に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であったとしても、
台湾が中国の領土でなければ、同諸島が中国に属することの証明にはならない。これに加えて、『日本一鑑』が著された時代、台湾に統一的な政府が存在していなかったことを鑑みれば、「小東小嶼也」は、魚釣島が、政治的にではなく、地理的に台湾付近にあるとの意味であったと考えられる16。

(2)清代
 台湾は、1684 年に清の領土に編入された17。このとき、尖閣諸島も台湾の付属島嶼として、清に組み込まれたのであろうか。
 清朝政府が編集した『福建通志』(1684 年)、『重纂福建通志』(1838 年)を見ると、尖閣諸島が当時の福建省の行政範囲に含まれていなかったことは明らかなようである。
 いずれの通志においても、尖閣諸島に関する記述や地図上の描写は発見されない18。
 また、中国編入以降の台湾府志でも、台湾府の北端は雞籠嶼とされ、花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼すら、台湾の行政範囲には含まれていない。とすれば、これら3 島よりも、台湾から遠方に位置する尖閣諸島が、清朝統治下の台湾省の範囲に含められていなかったことは当然である、とされる19。

(3)林子平の『三国通覧図説』
 江戸時代の経世家、林子平が著した『三国通覧図説』(1786(天明6)年)の付図「琉球三省并三十六島之図」は、色刷りの地図である。ここで、九州などが緑色、琉球王国領は薄茶色であるのに対し、尖閣諸島が中国と同じ桜色で塗られていることが、尖閣諸島が中国領であることを、日本人も認めていた証拠として挙げられることがある20。
 しかし、この地図は、台湾が正式に中国に編入されて以降に作成されたにもかかわらず、台湾を中国とは異なる黄色に塗り、その大きさを沖縄本島の3 分の1 に描くなど、不正確な点も多い。そもそも『三国通覧図説』は、林子平が私人の立場で書いたもので、日本の政府の意思を反映したものではない。
 このような理由から、同書を尖閣諸島が中国領であることの法的証拠として採用することはできない、といわれる21。


3 琉球と中国との境界
(1)『冊封使録』
 1372 年から1879 年まで、琉球国と中国は、朝貢・冊封関係にあり、琉球と福州との間で、朝貢船、冊封船が往来していた。冊封使は帰国後、自らの見聞・体験等を通して、その航海の事情から一切の儀礼及び琉球国の国情等についても記録し、その使録とし、後世の封使等の指標に供するのを慣例とした22。
 中国と琉球との境界線は、赤尾嶼と久米島との間にあるという主張の根拠として、冊封使録の記述がしばしば援用される。

 例えば、久米島について、『使琉球録』(1534 年渡琉)では、「乃チ琉球ニ属スル者ナリ」、『中山伝信録』(1719 年渡琉)では、「琉球西南方界上鎮山」23と述べられている24。
 また、『重編使琉球録』(1561 年渡琉)には「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山リ」、『使琉球雑録』(1683年渡琉)には、赤尾嶼と久米島との間にある「郊」の意味について「中外ノ界ナリ」との説明もある25。

 しかし、これらの記述から明確に読み取れるのは、久米島が琉球に属することのみであり、赤尾嶼の帰属については何ら述べられていない。尖閣諸島は、福州と那覇のほぼ中間地点に位置し、航路目標として有用であったことなどから、冊封使は、尖閣諸島を中国の領土と意識して、久米島からは琉球領に属すると記述したのではなく、同諸島を航路の目標として記述したと解すべきであると反論される26。

 また、『使琉球雑録』の「郊」や「中外の界」とは、冊封船の航路を横切って流れる黒潮の存在や当時の海上信仰を考えれば、国の内外の堺という意味ではなく、水域あるいは海流の内外の意に解した方が、より妥当であるとの指摘もある27。

(2)琉球36 島
 中国は、1879 年の琉球の帰属に関する日清交渉において、琉球国の版図、いわゆる琉球36 島に尖閣諸島が含まれていないことを、日清双方が認めているという28。
 琉球36 島は、人居の地であることと、首里王庁への貢納義務を負っていることが条件であり、これらの条件を満たした島嶼のみが王府領と明記された29。確かに、このような条件を満たしていない尖閣諸島は、琉球36 島に含まれていなかった。しかし、同諸島が、明・清代の福建省、あるいは台湾省の行政範囲にも含まれていなかったのは、先述の通りであって、琉球36 島に含まれていないことが、直ちに尖閣諸島の中国への帰属を意味するものではない。

Ⅲ 日本への領土編入
 日本は、「尖閣諸島は、1885 年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認の上、1895 年1 月14 日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」30。
 他方、中国は、中日甲午戦争(日清戦争)を通じて、日本が尖閣諸島をかすめとり、さらに清朝政府に圧力をかけて、1895 年4 月に馬関条約(下関条約)に調印させ、台湾とそのすべての付属島嶼及び澎湖列島を割譲させたと主張している31。

 以下では、日本が行った閣議決定に基づく尖閣諸島の領土編入の有効性、尖閣諸島の領土編入と日清戦争・下関条約との関係を検討する。

1 領土編入の閣議決定
(1)領有意思
 日本が尖閣諸島に対して領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全図』、及び同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。これら2 つの地図は、いずれも私人が作成し、内務省の版権免許を得て刊行された。
 内務省地理局によって刊行されたものでは、1879(明治12)年の『大日本府県管轄図』が、尖閣諸島を琉球諸島の中に含め、1881(明治14)年の『大日本府県分割図』が、「沖縄県図」の中に、島の名は記さず、その形だけで、尖閣諸島を示している。内務省作成の地図において、尖閣諸島が日本の版図に含まれていることは、同諸島に対する日本の領有
意思を示すものと言えよう32。

(2)国標設置に関する井上馨外務卿の見解
 1885(明治18)年、沖縄県令は、尖閣諸島の実地調査にあたり、国標建立について指揮を仰ぎたいとの上申書を山県有朋内務卿に提出した。内務卿は、これらの諸島が清国に属している証拠が見当たらず、沖縄県が所轄する宮古島や八重山島に接近した無人島嶼であるので、国標の建立は差し支えないとして、「無人島久米赤島他外二島ニ国標建立ノ件」を太政官会議に提出するための上申案をまとめた。
 続いて同年10 月9 日には、井上馨外務卿と協議し、その意見を求めた。10 月21 日の外務卿の回答は次のような内容である。

 これらの島嶼は、清国国境にも近い小島嶼である。また、清国はその島名もつけていて、清国の新聞に、我が政府が台湾付近の清国領の島嶼を占拠したなどの風説を掲載して、我が政府に猜疑を抱き、しきりに清国政府の注意を促す者もいる。
 ついては、「公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ、清国ノ疑惑ヲ招キ候間、…(中略)…国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方可然存候。」
この回答を受けた内務卿は、国標建設の件を太政官会議に上申するのを見送った。
上記の井上外務卿の見解は、尖閣諸島が清国に属することを認める趣旨であろうか。 
 これについては、当時小国であった日本の、大国清に対する外交上の配慮33であり、朝鮮問題及び琉球処分という重大問題が介在する中、このような小さな問題で、今清国と事を構えるのは得策ではないという、外務省としては当然の発想であると指摘されている34。

(3)国標設置許可の閣議決定
 1885(明治18)年以降、古賀辰四郎氏が尖閣諸島に渡航し、鳥毛の採取や漁業に従事していたが、他にも、尖閣諸島に渡航し、漁業その他を行う者が現れるようになった。
 そこで沖縄県知事は、水産業の取締りのため、1890(明治23)年1 月13 日に内務大臣宛に、無人島魚釣島ほか2 島を八重山島役所の所轄にしてほしいとの伺いを出し、さらに1893(明治26)年11 月26 日にも、内務、外務両大臣宛に同様の上申をした。
 しかし、政府はいずれにも回答を示さなかった。また、1894(明治27)年には、古賀氏が内務、農商務両大臣に尖閣諸島開拓の許可を願い出たが、認められなかった35。

 1894(明治27)年8 月1 日、日清戦争が開戦し、その年末には勝敗がほぼ決定していた。そのような情勢下にあった12 月27 日、野村靖内務大臣は、1885(明治18)年当時とは事情が異なるとして、「久場島及び魚釣島へ所轄標杭建設の件」の閣議提出について、陸奥宗光外務大臣の意見を求めた。

 翌1895(明治28)年1 月11 日、外務大臣は、外務省としては別段異議がない旨回答した。
 かくして本件は、1895(明治28)年1 月14 日の閣議に提出され、沖縄県知事の上申通り、「久場島及び魚釣島」を同県所轄とし、標杭建設を許可する閣議決定がなされた36。

 1月21 日には、内務、外務両大臣連名で、沖縄県知事に上申中の標杭建設を聞き届けるとの指令を出した。


2 下関条約との関係
 1895 年4 月17 日、日清両政府は「日清両国講和条約」(明治28 年5 月13 日勅令。以下「下関条約」という。)に調印した。下関条約第2 条は、「清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本国ニ割与ス」と規定し、「左記の土地」の一つに、「二 台湾全島及其ノ附属諸島嶼」を挙げている。
 尖閣諸島は、ここでいう台湾の付属島嶼として日本に割譲されたものであろうか。尖閣諸島が台湾の附属諸島嶼に含まれるのならば、日本は、第二次世界大戦後の領土処理の過程で、尖閣諸島を放棄したことになる37。

(1)講和会議
 講和条約締結に向けた談判中、清国は、日本からの台湾、澎湖諸島の割譲要求に対しては、強く反対の立場を主張していたが、尖閣諸島の地位については何ら問題にしなかった38。
 もし、清国が尖閣諸島を自国領と認識していたならば、台湾や澎湖諸島と同様、尖閣諸島の割譲についても異を唱えていたのではないだろうか。この点、中国側の主張を支持する立場には、敗戦国である清国に、けし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったのであろう、との見解もある39。
 しかし、これに対しては、国際法的な抗議は、戦争の勝敗とは無関係であり、戦争中でも、日清講和条約の交渉過程においても、また、その後でも、中国が同諸島を自国領土として認識していたならば、当然に抗議その他何らかの措置をとるべきであった、と反論される40。

(2)「台湾受け渡しに関する公文」
 また、下関条約第5 条に従い、1895 年6 月2 日に「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、日本の水野弁理公使と清国の李経方全権委員との間で、台湾の附属諸島嶼の範囲について、次のようなやり取りがなされた。
 李は、日本が後日、福建省付近に散在する島嶼を台湾附属島嶼と主張することを懸念し、台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げる必要はないかと尋ねた。水野は、島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや、無名の島があった場合、日中いずれにも属さないことになり不都合である。台湾の所属島嶼は海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の「横はり」があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と主張することは決してない、と応答し、李も肯諾した41。

 これに関して、1895(明治28)年までに日本で発行された台湾に関する地図・海図の類は、例外なく台湾の範囲を彭佳嶼までとしていて、地図や海図で公認された台湾附属島嶼に尖閣諸島が含まれないことは、日清双方が認識していた42。
 以上のことから、尖閣諸島は、下関条約第2 条に基づき接受された「台湾及其ノ附属諸島嶼」には、含まれていなかったと考えられる。


3 編入以降の実効的支配
 ある地域の帰属決定に際して、国際法上、領域主権の継続的かつ平穏な行使が重視されることは、第Ⅰ章で述べた通りである。1895(明治28)年の領土編入以降、第二次世界大戦の終了まで、日本はいかに尖閣諸島を支配していたのであろうか。
 1896(明治29)年に沖縄に郡制が施行されると、魚釣島と久場島は、まもなく八重山郡に編入され、南小島、北小島と共に国有地に指定された後、地番が設定された43。
 同年9月、政府は、魚釣島、黄尾嶼、南小島、北小島を30 年間無料で古賀辰四郎氏に貸与することとし、無料貸与期間終了後は、1 年契約の有料貸与に改めた。1932(昭和7)年には、同諸島を古賀善次氏(古賀辰四郎氏の子息)に払い下げて、4 島は同氏の私有地となった。

 古賀氏は、同諸島でアホウ鳥の羽毛の採取、グァノ(海鳥糞)の採掘、その他水産加工等に従事して、4 島の払下げ以後は、毎年地租を収納した。古賀氏による同諸島の経営は、太平洋戦争直前まで続いた44。
 また、国の各機関や沖縄県がたびたび尖閣諸島の実地測量を行い、その成果は地図や海図に反映された。さらに、資源調査、地形調査、気象測候所設立のための下調査といった、各種調査を実施した。沖縄県の統計書や県勢要覧といった官庁文書には、同諸島に関する記述が見られるようになった45。
 以上のように、尖閣諸島に対する日本の統治権は、領土編入以降太平洋戦争終了まで、一貫して及んでいた。その間、日本の主権行使について、どこの国からも一度たりとも抗議はなかった46。

Ⅳ 第二次世界大戦後の地位
1 戦後の領土処理
 第二次世界大戦中の1943(昭和18)年、英・米・華の3 主要連合国は、「同盟国の目的は…満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある」との内容を含むカイロ宣言を発表した。日本も、1945(昭和20)年8 月15 日、ポツダム宣言を受諾し、9 月2 日降伏文書に署名したことにより、カイロ宣言の方針を承認するところとなった。

 以上の方針を受けて、1951 年の日本国との平和条約(昭和27 年条約第5 号。以下「対日平和条約」という。)には、終戦以前の日本の領土のうち、日本が放棄する地域と、日本に残される地域とが具体的に規定された。本稿に関連するところでは、第2 条で、日本が台湾及び澎湖諸島を放棄すること、第3 条で、北緯29 度以南の南西諸島等については、日本に主権が残されること、米国が国連に信託統治を提案するまでの間、米国が同地域及びその住民に対して、三権を行使できることなどが定められた。43

2 関係国の態度
 対日平和条約において、尖閣諸島は、日本が放棄した地域と日本に主権が残され地域の、どちらに含められていたのであろうか。第二次世界大戦終了後の関係国の対応から考察する。

(1)米国軍政府の立法措置
 戦後、米国は、沖縄の占領を展開するに際し、旧沖縄県の範囲をそのまま引き継いでいる。
 例えば、1946 年1 月29 日連合国最高司令官総司令部の「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」に対して、外務省が非公式にGHQ に提出した「南西諸島観」の南西諸島一覧表には、赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣島の島名を挙げて、尖閣諸島を沖縄県に含めていた47。
 また、「群島政府組織法(米国軍政府布令第22号)」、琉球政府樹立の根拠法である「琉球政府章典(米国民政府布令第68 号)」、奄美諸島の返還に伴い、米国統治下の琉球列島の地理的境界を再指定する「琉球列島の地理的境界(米国民政府布告第27 号)」は、琉球列島米国民政府、琉球政府等の管轄区域を緯度、経度で示しており、尖閣諸島をその区域内に含めていた48。
 このように、米国は沖縄統治期間中、尖閣諸島を一貫して沖縄の一部として扱った。

1972 年の「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(昭和47 年条約第2 号。以下「沖縄返還協定」という。)においても、それは同様である。同協定の合意された議事録は、「同協定によって日本に返還される領域とは、対日平和条約第3 条に基づき米国施政下にある領土であって、米国民政府布告第27 号に指定される地域である」として、尖閣諸島を日本への返還領域に含めていた。

(2)占領下の日本の実効支配
 日本は、米国施政権下においても、琉球列島米国民政府あるいは琉球政府の行為という形で、以下のような実効的な支配を継続した。

【諸島の使用と徴税】
 1951(昭和26)年、久場島と大正島に米海軍の爆撃演習海域が設定され、久場島は特別演習地域に指定された。
 大正島は1956(昭和31)年4 月に演習地域に指定されたが、久場島は、古賀善次氏の私有地であったことから、米国民政府は、1958(昭和33)年7 月、琉球政府を代理人として、同氏との間に基本賃貸借契約を結び、賃借料を支払った。
 琉球政府は、これ以前から、古賀氏の所有する魚釣島他4 島について固定資産税を徴収しており、新たに、久場島の賃借料から得られる収入についても、源泉徴収を行った49。

【学術調査】
 1950(昭和25)年から1971(昭和46)年までの間に、尖閣諸島において、地質、資源、生物相に関する学術調査が計10 回行われた50。

【不法入域の取締り】
 1968(昭和43)年、琉球政府法務局出入管理庁係官は、数十名の台湾人が南小島に上陸し、座礁した船舶の解体作業に従事していたのを発見した。係官は、これらの労務者が入域許可証等を持っていなかったため、退去を命令し、入域を希望する
場合は、その許可証を取得するよう指導した。労務者は、いったん南小島から退去し、琉球列島高等弁務官の許可を得たのち、再び同島に上陸した51。

【領域表示板、標柱の建立】
 1970(昭和45)年、琉球政府は、魚釣島、北小島、南小島、久場島及び大正島の5 島に、琉球列島以外の居住者が高等弁務官の許可なくこれらの島嶼に入域することを禁じる領域表示板を建立した。また、これとは別に、1969(昭和44)年、石垣市が上記5 島に地籍表示のための標柱を建立した52。

(3)中国の対応
 中国は、ポツダム宣言が規定する台湾及び澎湖島の中国への返還を実現すべく、1945 年8 月29 日に台湾省行政長官兼警備総司令を任命し、9 月20 日には台湾省行政長官公署組織条例を公布した。そして10 月25 日に「受降典礼」なる正式の接収手続きを行って、台湾及び澎湖島を正式に自国領として回復した、とする53。
 しかし、中国は尖閣諸島について、1945 年以降1970 年まで、全く領有主張もせず、何ら有効な抗議もしてこなかった54。このことは、台湾及び澎湖島に、尖閣諸島が含まれていないことを、中国自身も認めていたことをうかがわせる。
 よって、尖閣諸島は、対日平和条約第3 条にいう日本に主権が残される地域に含まれ、沖縄返還協定に基づいて、米国から日本に返還されたと言えよう。

おわりに
 以上、尖閣諸島の領有権をめぐる主要な論点を整理した。この他、尖閣諸島の島名は中国語であり、それは同諸島が歴史的に中国領であったことの証拠である、という主張の妥当性などの論点があるが、領域の帰属を国際法的に判断する際の決定的要素とはみなされていないため、本稿では取り上げなかった55。また、西太后が魚釣島を下賜した勅書という、信憑性が疑問視される資料など、紙面の制約上、言及に至らなかった問題もある。

 尖閣諸島をめぐる近年の動きとしては、まず、1992 年の中国のいわゆる「領海法56」制定が挙げられよう。同法第2 条は、尖閣諸島を中国の領土と明記した。2004 年3 月には、中国人の活動家が尖閣諸島に不法上陸し、日本の警察に逮捕され、強制送還されるという事件が発生した。また、2005 年2 月、魚釣島の灯台を民間の所有者が放棄したため、日本政府がこれを国有化すると、中国政府は「違法で無効」とコメントした。
 さらに、近年、尖閣諸島近海の、両国の境界が未画定である区域で、中国がガス田開発を進めていることが、日中間の懸案となっている。
決定的期日以降の国家行為は、法的には、領域帰属の判断に影響を与えない以上57、現
実に尖閣諸島を支配している日本としては、今後とも実効支配を維持し、中国に対して日
本の正当な権利を主張することになるであろう。






転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか

博愛記念碑、1873年ドイツ商船ロベルトン号が座礁し、宮古島の人たちが救助して8人のドイツ人が無事帰国できたことにドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が感動し、ここに島民への感謝をこめて建立したと

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転載元: 歴史&環境&公徳心ツアーのブログ

若狭 丹後半島の先史・縄文時代

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 吉河遺跡(敦賀市)は集落外に大規模な墓域を定め、方形周溝墓が築かれていて、集落跡と墓域があわせて発掘された代表的弥生時代の遺跡といえる。集落内の住居跡の規模に差があること、方形周溝墓と土壙墓が併存すること、これらの諸点から集落内に階層分化の進んだことが推測されよう。
 弥生時代にはムラがつくられ、水稲耕作が生活の基盤となってきた。坂井郡の竹田川・兵庫川などの自然堤防上には、弥生時代に居住地がつくられ、その下部の低湿地に稲田が営まれたらしい。それを推測させる土器・石器を出土した弥生時代の遺跡が発掘されている。

   加戸下屋敷遺跡(三国町)からは、銅鐸の鋳型の未製品や大量の玉作関係の製品・工具また工房跡が発掘された。稲作とともに農耕祭祀が生まれて祭器として銅鐸が用いられた。越前は銅鐸分布の日本海側の北限であって、県下ではいろいろな型式の銅鐸が幕末以来七口出土している。畿内・東海地方出土の銅鐸とを比較して、それらの地域とのかかわりが考察されよう。なお弥生時代前期の文化の東限は伊勢湾と丹後半島をつなぐ線といわれてきたが、遠賀川式土器・木製品の出土した丸山河床遺跡(小浜市)の発見によって、日本海側の東限は小浜湾にまで及んでいることが察知されて現在ではこれが東限とされている。

第一節 ふるさとのあけぼの
    一 はじめての福井人
      西下向遺跡
 遺跡は越前加賀国定公園内に所在し、米ケ脇から東尋坊に向かう荒磯遊歩道の途中の地点にある。加越台地が日本海に面した海岸段丘上に位置している。基本的な層序は、報告書によれば、1a層(表土)、1b層、2層、3層、4層、5層、6層、7層(砂礫層)に分かれている。旧石器は1b~6層に包含され、そのなかで最も集中するのは3層上部と報告されている。
写真10 西下向遺跡遠景

写真10 西下向遺跡遠景

 旧石器と認定された石器類はいずれも輝石安山岩製のもので、ナイフ形石器・削器・二次加工の認められる剥片などであった。松村の採集した石器は、典型的なナイフ形石器で、それは比較的大型の長さ九・四センチメートル、幅三・七センチメートル、厚さ一・一センチメートルのものである。これまでは広く国府型ナイフ形石器とよばれていたもので、当初、その石器の剥片製作技法としては、これまで瀬戸内技法とよばれていた技法が想定されていたが、発掘資料を検討した結果、これまでの瀬戸内技法とは異なる新たな剥片製作方法であることが確認され、「三国技法」と命名された。
 前述の雄島遺跡(三国町)の石器は、やはり輝石安山岩製の削器である。また同じく、馬コロバシ遺跡(三国町)の石器は、チャート製のもので、切出形石器もしくは角錐状石器としている(『資料編』一三)。木橋遺跡(永平寺町)からは、安山岩製のナイフ形石器と石核が採集されている(前掲書)。このように越前の旧石器文化はわずかながら判明し、遺跡の数も増加しつつあるが、若狭地方では、今のところ確実に旧石器文化に属する遺跡はわかっていないのが現状である。
写真11 西下向遺跡出土のナイフ形石器

写真11 西下向遺跡出土のナイフ形石器

 さて、西下向遺跡は、地層の綿密な観察や火山灰層序の検討などから、その時期は旧石器時代後期(ナイフ形石器文化)、すなわち、今から約一万数千年前の遺跡と考えられ、いわば「はじめての福井人」の明確な足跡をわたしたちに示してくれた。このはじめての福井人たちは、今日の福井県とはまったく異なった気候・地形・動物相・植物相の環境のなかで生活を営んでいたのである。

二 福井の縄文人の足跡
      草創期の遺跡
 土器編年の歴史のなかで、長らく草創期は「早期」の古い段階に位置づけられてきたが、研究の進むなかで二つの時期に区分された。この時期の遺跡として知られているのは、鳴鹿山鹿遺跡(永平寺町)と鳥浜貝塚である。とりわけ、鳴鹿山鹿遺跡はわが国の考古学史のなかでも、早くから注目され報告された遺跡として著名である。明治三十年(一八九七)大野延太郎が「大なる石鋒と精巧なる石鏃」(『東京人類学雑誌』一四〇)と題して報告している。
 それによれば、遺物は明治元年前後の用水工事の際に発見され、その出土状況は、石核二点の上に大なる石鋒を横たえ、その下に三〇余点の精巧なる石鏃が納められていたという。現存する遺物は、有舌尖頭器二三点、大野のいう「大なる石鋒」の大型打製石器一点、石核二点があり、そののちに付近から地元民によって局部磨製石斧一点が発見されている。とりわけ、「精巧なる石鏃」と表現された有舌尖頭器は、柳葉型を呈する華麗で精巧なつくりである(図1)。大型のものではその長さが一五センチメートル前後もあり、石材はチャートや流紋岩系、中型のものは長さ一〇センチメートル前後で、石材は安山岩系が中心で、砂岩系も少数混在するらしい。小型のものは、七センチメートル前後のものと、それより短いものがあり、ずんぐりとした形態で石材は安山岩とされる(『資料編』一三)。
図1 鳴鹿山鹿遺跡出土石器の実測図

図1 鳴鹿山鹿遺跡出土石器の実測図

 鳴鹿山鹿遺跡の有舌尖頭器を中心とする遺物群は、全国的な研究成果から推して、草創期の古い方の時期の所産と考えられ、越前地方の縄文文化の始まりを示すものとして重要である。つまり、縄文文化が開始された段階を示す石器群であるといえよう。大型のものは旧石器文化の石槍の流れを残し、小型のものは、縄文文化の石鏃の流れを示していると思われる。なお、県内での有舌尖頭器の出土は、王山二五号墳(鯖江市)より一点、姥ケ谷古墳(三国町)より一点、岩の鼻遺跡(名田庄村)から一点ときわめて少ない。そういう意味からも鳴鹿山鹿遺跡の出土例は、珍しいものであり、廃棄されたというより、意識的に埋納されたものと思われ、一括埋納(デポ)ともいうべき性格のものといえよう。

       より具体的に、草創期を物語る遺跡としては鳥浜貝塚があげられよう(以下、本節における鳥浜貝塚の叙述は、おもに森川昌和「縄文人の知恵と生活」『日本の古代』四による)。昭和四十七年の第三次調査で、最下層から多縄文系と称する土器がまとまって出土してその存在が明らかになった。さらに、石器や木製品・繊維製品、それに動物骨や種子をはじめ木などの有機質の人工・自然遺物が豊富に出土した。放射性炭素の年代測定では一〇二七〇±四五BPとされ、今から約一万年前の生活を物語る膨大な資料がその姿を現わしたのである。調査の過程で、爪形文・押圧文土器が検出され、ついに隆起線文土器とほぼ縄文文化の開始を告げる時期にさかのぼる所までたどりついた。同様な年代測定でも、前者の土器は一〇七七〇±一六〇BP、後者の土器は一一八三〇±五五BPの測定値がだされた。この両者の土器にともなって、石器類や木製品、植物性自然遺物も出土している。

       さて、鳥浜貝塚で検出された県内で最も古い隆起線文土器は、土器の口縁部に二条の細い粘土紐をめぐらし、その上に上下から斜めに刻みを入れている。土器の底部は丸みをおびた平底である。土器としては、高さ約二〇センチメートルの小形のものである。一例だけであるが、この隆起線文土器にともなって、土器のほぼ全体を復元することが可能な珍しいものが出土している(写真12)。この時期の土器としては多彩な文様構成で、口縁に沿って円形の刺突文をつけ、その下に斜格子文を沈線でつけ、その下に三条のD字形の爪形文を構成している質のいい土器である。隆起線文土器は、九州から東北地方にかけて各地で発見され、その広範囲な分布に特色がある。この土器が出土する遺跡の規模は一般に小さく、遺物の量も多くない。それらのことから、隆起線文土器の段階は、居住期間が短いといわれている。
写真12 鳥浜貝塚出土の斜格子文土器

写真12 鳥浜貝塚出土の斜格子文土器

 しかしながら、多縄文系土器の段階になると、この様相は激変する。どうやら、三方湖畔に本格的な定住生活が開始されると思われる。それは、石器・木製品が豊富に検出されることや自然遺物のなかにヒョウタンの果皮があることなど、とにかく大量の遺物が得られている。
 草創期は、先述したとおり、鳥浜貝塚の花粉分析などの成果によって福井県の当時の気候や植生が明確にわかっていることについてもふれておきたい。
 約一万二〇〇〇年前の福井県は、今より冷涼で、現在の青森県ぐらいの気温といわれる。平野部でもブナの木が繁茂していたようで、鳥浜貝塚では草創期の層から、膨大な量のブナの実が出土している。ブナ・ミズナラなどの冷温帯落葉広葉樹林が拡大していたのである。ところが、今から約一万年前になると、温暖化が進みナラ・クリなどを中心とした暖温帯落葉広葉樹が拡大するようになる。この段階が、先に述べた多縄文系の段階で、木の実を豊富にもたらす森の誕生でもある。鳥浜貝塚からは、この時期の土器のほか木器・石器や動物骨なども出土している。





丹後の先史時代
     ・旧石器遺跡未発見
     ・1万年程前 有舌尖頭器発見
     ・8千年前 (早期) 裏陰遺跡 押型文土器
     ・6千年前 (前期) 松ヶ崎遺跡 貝殻文土器 魚類骨(ハタ・タイ・ヒラメ)・植物種子(栃・栗・胡桃・エゴマ・瓢箪)

     ・前期~晩期(3千年間) 平遺跡 
     ・中期    約5千年前 平式土器(渦巻文などで加飾された土器)
     ・後期 (3~4千年前)  浜詰遺跡最盛期(4千年前) 竪穴住居跡 貝塚から海産貝(蜆・蛤・牡蠣・アサリ・鮑・サザエ) 魚骨(ボラ・フグ・鯉・黒鯛・スズキ・鮪)
                                                  獣骨(イルカ・鯨・猪・鹿・狸・猿)




丹後半島の歴史

先史・縄文時代


  丹後半島にも先史時代から人々が住み着いていたことは明らかであるが、確認されている遺跡としては縄文時代の草創期からである。 舞鶴湾の小さな入り江に「浦入(うらにゅう)遺跡」がある。入り江には 5000 年前の縄文海進でできた砂嘴が沖に伸びている。砂嘴 の起点近くで、5300年前の丸木船が発見された。スギ材をくり貫いて作られており、全長8mと推測できる。近くからイカリと思われ る石と杭が見つかり、日本で最古の「船着き場」と話題を呼んだ。日本の船と港の歴史上、画期的な発見だった。 最古の丸木船という言い方は、福井県小浜市の「鳥浜貝塚」から出土した丸木舟に対してもしばしば形容される。いずれも縄文前期 と判定されただけで、「XX 年製造」と書いてあるわけではないので、いずれが最古かは断じられないが、両遺跡とも、ほぼ同じような 状況にあったことは容易に想像できる。 浦入遺跡からは、各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。またここから発 見された「快状耳飾」と呼ばれる大型の土製耳飾りは、直径6.5cmもあり我が国最古級のもので、これは中国江南の、「中国・河 姆渡(かぼと)遺跡」から出土したモノに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性も取りざたされている。


沖あいを対馬海流が流れる丹後半島では、相当早くから大陸と密接な交流があったことが考えられる。今日この地方は、近代日本の発 展からは置いて行かれたような鄙びた半島というイメージが強いが、弥生・古墳時代の遺跡を通じて見られる「鉄」と「ガラス」製品 の夥しい数、およびそれらの製造に関する先進性は、この地方が大和政権に完全に組み込まれるまで、独自の文化を持ち、大陸・半島 と相当密度の濃い交流をしていたことが考えられる。


或いは、これらの技術をもたらしたのは、対馬海流に乗って、大陸・半島から渡 来してきた人々そのものである可能性もあるのだ。峰山町「途中ヶ丘遺跡」出土の有舌尖頭器は、縄文時代の草創期に人々が狩りに明 け暮れていたことを示しているし、網野町「浜詰遺跡」から出土した動物の骨を見ると、クジラなど共同作業でしか穫れないような獲 物も多い。久美浜の「函石浜遺跡」は縄文時代の居住跡であるが、約2千年前の中国の貨幣「貨泉」が出土していて(「新」、西暦8 ~23年)、弥生時代に入ってからも大陸との交流が行われていたことを示している。



[転載]丹後国_籠神社

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              ↑ 丹後国一の宮 籠神社(このじんじゃ)

成相寺近くに籠神社がありましたので、参拝しました。
お寺参りと併せ、全国一の宮巡りもしています。
一の宮巡りは全国一円ですので、なかなか大変です。

若い巫女さんにご朱印をお願いしたのですが、結局ベテランの
巫女さんに頂きました。なかなか上手な字でした。
神社のご朱印は、丁寧に書かれます。
納経とは一味違います。

こちらの神社さんも駐車場は有料でした。

転載元: 南無大師遍照金剛

[転載]潟の港には宝船が着く

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 「大王のひつぎ」実験航海に関わっている海事史学者の松木哲さんが、ちょっと面白い話を書いているので紹介します。

 潟の話です。

 例によって「潟」をgoo辞書で引いてみると、こんな感じになりました。

「かた 【潟】

(1)砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。狭い水路で海に通ずるものもある。潟湖(せきこ)。ラグーン。石川県の河北潟はその例。
(2)遠浅の海で、潮の干満によって陸地が現れたり水面下に隠れたりする所。干潟(ひがた)。
(3)浦。入り江。今も「松浦(まつら)潟」「清見潟」のような地名に残っている。」

 へええ。濁らないんですね。ガタじゃなくてカタなのか。上にナントカと付くとガタになるんですかね。おっと、そういう話ではなくて。

 松木さんは、この潟が古代日本の海上交通に果たした役割が非常に大きかったのではないかと考えておられます。この場合、松木さんの念頭にあるのは上に引用したうち(1)の潟ですね。川が運んだ土砂が上手い具合に細長く堆積すると、その砂州が湾を形成して、良い港になるのだそうです。典型的な地形が天橋立です。野田川という川が運んだ土砂が宮津湾の一部を閉じて、阿蘇海という潟を作っています(画像)。

 松木さんは、こういった潟を利用した港が日本海側に非常に多い(多かった)事、そしてそのような潟港(せきこう)の周辺に大型の古墳や大規模な遺跡、また中世には物質的に豊かな集落が存在していた事に注目し、次のような仮説を立てます。

・潟港は中世以前の船の停泊地として使いやすい
・日本海側には手頃な潟が丁度良い具合(丸木舟や準構造船で1日程度の航程)で連なっていたため、海上交通が発達した
・潟港を結ぶ海上交通網による物流は、潟港周辺に莫大な富をもたらし、大型の古墳や大規模遺跡を作りうる勢力が成立した

 松木さんは、その好例として京都府の丹後半島、カニで有名な間人(たいざ)港の近所にある竹野川河口付近(現在は潟は消失)にやたらと大型古墳が多い事を示しています。

 逆に太平洋側になると、そもそもそういった地形がなかなか形成されない為に、潟港間の航程が遠くなり過ぎる事、また川のパワーが強すぎるので形成される砂州も大きすぎ、潟港を維持するのに欠かせない港内の浚渫(砂の除去)や砂州を横切る水路の保全が大変である事などから、潟港を核とした地域社会の形成が難しかったのではないかと松木さんは考えています。例えば登呂遺跡は安倍川の河口にあった大規模集落ですが、安倍川のパワーが強すぎて潟港を維持しきれなくなり、放棄されたのではないかとのことです。確かに安倍川といえば三保の松原を作ってしまうくらいに強烈な砂を吹く川ですから、日本海川のショボい川が作る潟港のようには使い勝手は良くなかったのでしょう。

 もちろん太平洋側でも縄文時代から伊豆諸島に丸木舟で渡って黒曜石を取ってくる猛者はおりましたが、各地の港に豊かな富が蓄積されるほどの海上交通網が成立したとは言いづらいようです。

 なお、中世まで富み栄えた日本海沿岸各地の潟港も、農業経済の発達に伴って干拓が進み、あるいは海上交通路の衰退によって、次々に姿を消していったようです。青森県津軽半島の十三湖などは有名ですね。十三湖はかつて「十三湊(とさみなと)」と呼ばれた巨大なハブ港でしたが、戦国時代に突如滅んでしまいます。ここも典型的な潟港だったようです。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/iseki.html

 日本海沿岸というと、豪雪でスキーで温泉で海の幸でというイメージが支配的ですが、こういった想像力を働かせながら旅をしてみるのも、また一興ではないでしょうか。私は津軽の先端から山口、さらにこの間は唐津まで、殆どの海岸線を車で旅行した事がありますが、鄙びた風景の中にもかつて海上交通で栄えた華やぎを残す土地が点々と連なっていて、とても好ましいものです。ホクレア来航の際には、太平洋側だけではなく、是非とも日本海沿岸を訪ねていただきたいものですね。

転載元: 熊商会の倉庫兼社長室

日本海文化の特色

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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    一 日本海文化
      
日本海文化の特色
 第一には、「北の海つ道」つまり対馬海流によって、早くから海外の人や物が渡来したことがあげられる。日本海の主な潮流は図48のとおりである。
図48 日本海の潮流と潟湖

図48 日本海の潮流と潟湖

 若越を含めて日本海域には、南方からも北方からもいろいろなものが流れついてきた。そのため、考古学的には新発見が相次ぎ、重要な指摘がされてきている。たとえば、越中にみられる縄文時代の状耳飾は中国江南地方と同類のものとされ、また弥生時代の日本海域に出土する土笛もヤシの実が原型といわれている。文献史料においても、神話からして、たとえばスサノオノミコトが高天原を追放されて下ったのは、簸川上流だと『紀』の本文には書かれているが、本文とは別の一書には新羅の国に降りたとある。
 このように、日本海域は、ヤマト朝廷の貴族や中央の人びとにとっては、早くは外国と深くかかわりのあるところと意識されたことさえある。あるいは、時代が下っても、平安初期の漢詩集などにみられる酬唱文学(詩のやりとり)があるが、この原型は日本海岸に発した(二項、第七章第一節)。日本海岸には最初、高句麗使が来るが、その次に相次いで来たのが渤海使でこれとの間に発達したのである。そして、そののちにおいてもコシは、元来は越前国に含まれた能登国が「高麗へ渡るばかり程の遠さにやあらむ島もある」(『今昔物語集』三一―二一)とされているように、海外と同じような遠い異域とみられていたのであった。

       なお、日本海文化といっても、越中より北の海域の歴史や文化は、少し視角を変えて考える必要がある。つまり、西方からの影響を主にしてはその特質を説明することは困難だか らで、これには、急速に解明されてきた沿海州やサハリンの北方系文化との関係が重視さ
 れなければならないからである。しかし、それは当面の主題の範囲を越えるので、ここでは割愛せざるをえない。
 さらに、日本海域における列島の東西間にわたる文化交流についても、配慮しておかね
ばならない。

       たとえば、稲作の伝播の仕方にしても、北九州から青森県の津軽半島へ直接に及んだとされることには、日本海流による伝播ルートが、現在ではもはや無視できなくなっている。西方からの影響だけではない。たとえば、日本海域の東部に早くから発達した玉作は、弥生期の越前においては、それをうけ独自に発達し、さらに次の時代には他地域へも影響を与えた(三項)。また、出雲の美保神社は、いまは事代主神を祀っているが、近世初期までは、祭神はミホススミ神であった。ところが、能登半島の先端の珠洲神社文書からみると、この祭神も元来はミホススミ神で両方とも同神である(ミホは美称、ススミは『記』神代巻、『紀』天智天皇三年是歳条の古訓からいってノロシの意味だと思う)。このミホススミ神は大己貴神つまり大国主命がそのもとへ妻問いしたヌナカワ姫との間に生まれたとされる。
 だから、ミホススミ神をなかだちとして出雲と能登の珠洲と越後の姫川が結ばれる、という関係が浮かび上がってくる。そして、姫川流域でとれる翡翠の原石は、現在、世界第一級の品質だと証明されており、この原石でつくった勾玉が、出雲大社の境内から出土しているのは先述したとおりである(第一節)。日本海文化の形成については、海外とだけでなく日本海域の地域間交流の問題を検討する必要もあるのである。



       第二には、潟湖の役割とその近辺に地域首長による政治勢力が形成された、ということがある。
 日本海域には、「北の海つ道」によって南や北から物や人が渡来し、あるいは外国と一体とも意識されていた。しかしそれだけでなく、独自の地域文化が育っている。つまり地域の人びとは、当初は外国からきたものを手本にするが、すぐに日本の材料と技術によってつくり変えていくということも目立つ。そうした創造の地域主体として、日本海域の諸地域に地域的政治勢力が形成された。

       これについては、日本海域には諸河川の河口が、季節風でさえぎられて砂州が発達し、多くの潟湖ができたことに注目しなければならない(図48)。出雲の「神門の海」がそうだし、越前の敦賀、越中の氷見なども同様である。西の出雲(島根県)から東北の出羽(秋田県)まで潟が並んでいるのは太平洋岸と異なる日本海域の大きな特色で、それらは古代の港であった。
 伯耆(鳥取県)の淀江なども典型で、古代の地形を復元すると、今の市街地が潟湖になり、その回りを取り囲むように古墳群が築かれている。丹後(京都府)の竹野川の河口も同様である。つまり、潟湖=港の所有者は、回りから港を見守るように古墳を造ったのであろう。こ
 れらに注目すると、地域独自の政治勢力として伸びていく主体として、潟湖とその支配勢力の存在は無視できない。それら日本海域の潟へどのように船は入っていったかというと、おそらく山当てであったであろう。北九州の香椎宮とか宗像神社の社地を占める山とか、あるいは山陰の三瓶山・大山、そして越前の三国湊へ入る際の雄島の島当てなどでも同じである。
     
 第三は、日本海域には、ヤマトはもとよりほかの地域とも異なる特徴をもつ独自の文化が形成された、という問題である。
 たとえば、巨木文化が、数年前から日本海域史の研究で注目されてきている。その性格については、いろいろな説があるものの、たとえば平安時代の「口遊」に「雲太・和二・京三」といわれた出雲大社の高さも、日本海域の巨木文化の伝統によって実現したのだとみると理解しやすい。古代の東北地方の柵も、原型は日本海域の柵にあったとみられるようになっている(佐藤宗諄「越の城柵」『古代日本海域の謎』一)。
 あるいは、『出雲国風土記』では、都の貴族が「国つ神」=地方神ともよんだ大汝神(大穴持神・大己貴命)を、一貫して「天の下造らしし大神」と書いてある。しかも国造りの神もいる。国引神話におけるオミヅヌ神(『記』では淤美豆奴神、『出雲国風土記』では八束水臣津野命)である。そして、『記』『紀』にみえない出雲の神々の系譜は、この両神に結びつけられている。こうして、日本海域の西部の一中心地域をなした出雲においては、「天の下造らしし大神」と「国造り神」とを対極においた独自の神話体系が創出されていたのである(門脇禎二『出雲の古代史』)。
 要は、日本海文化は、(一)「北の海つ道」による渡来人と文化、(二)潟湖を港とし、その近辺をも支配する地域勢力の形成、(三)独自の特色をもつ支配理念や文化の形成、の三点において特色づけられる(門脇禎二『日本海域の古代史』・『日本海文化とコシ』)。



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若越地域の形成 「蝦夷」地への強制移住

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若越地域の形成
   第四節 ヤマト勢力の浸透



     四 迫る力役と貢納
      「蝦夷」対策の基地
 前述の皇極天皇元年の記事に続いて九月癸酉条に、「越の辺の蝦夷数千、内附く」(編六三)と記されている。これが越の「蝦夷」関係記事の初見で、このあと『紀』の越に関する記述は、ほとんど「蝦夷」関係の記載となっている。ここで「越の辺」というのは「越の辺境」の意味であろうが、具体的にはどの地域を指すのであろうか。五~六世紀のコシは、四郡分割以前の越中を北限とする説がある(米沢康『越中古代史の研究』)。
  それに従えば、大宝二年(七〇二)越中より越後に移管された四郡は、頚城・古志・魚沼・蒲原の四郡とされるから、コシはほぼ弥彦山と長岡市とを結ぶ線より南と考えられる。皇極天皇元年においても、「越の辺」はほぼこのあたりと考えてよいであろう。

図46 越の「蝦夷」関係の概要図

図46 越の「蝦夷」関係の概要図

 大化元年十二月戊午条として、「越国言さく、『海の畔に枯査、東に向きて移り去りぬ。沙の上に跡あり、耕田れる状の如し』と」(編六四)、また大化二年是歳条に、「越の国の鼠、昼夜相連り、東に向いて移り去く」(編六六)とある。前者は流木が東に移動していったとされ、後者は鼠の大群が東に移り去ったとされている。いずれも東の方向を指していることは、「蝦夷」に対する越の人びとの不安が表現されているものとされよう。
大化四年是歳条に至って、「磐舟柵を治りて蝦夷に備う。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く」(編六七)と具体的な表現となり、負担が越の民に及んできたことが示される。その年の前大化三年是歳条には、「渟足柵を造りて、柵戸を置く」とあり、このときすでに「柵戸」を置くとあるから、越の民が移住させられているかもしれない。これらの柵は軍事的性格の強い官衙遺跡で、柵戸はそこにあって平時には耕作し、ことあれば戦闘に従事させられたようである。磐舟柵は新潟県の北境に近い村上市の岩船の明神山付近、渟足柵は新潟市沼垂付近と考えられる。

       なお「蝦夷」とは、主として東北地方の住民で、ヤマト朝廷の教化策の浸透していった地域の住人と風俗・習慣・言語などを若干異にした人びとを、朝廷が受けいれ始めた中華思想によって呼んだものである。

 四 迫る力役と貢納
      越の「蝦夷」
 『紀』には、「越の蝦夷」という記載がしばしばみえる。斉明天皇元年七月己卯条に「難波の朝にして、北北は越ぞ)の蝦夷九十九人、東東は陸奥ぞ)の蝦夷九十五人に饗たまう」(編七〇)とあり、また同五年三月甲午条に「甘梼丘の東の川上に、須弥山を造りて、陸奥と越の蝦夷に饗たまう」(編七三)とある。このことから、北(越)の「蝦夷」と、東(陸奥)の「蝦夷」が区別して用いられていることがわかる。
 また同五年三月是月条には、阿倍臣の遠征記事のあとに、「道奥と越との国司に位各二階、郡領と 主政とに各一階授く」(編七四)とあり、この越の国司が誰を指すのか明らかでないが、阿倍比羅夫を指すととれないこともない。天武天皇十一年(六八二)四月甲申条に、「越の蝦夷伊高岐那等、俘人七十戸を一郡とせんと請う。乃ち聴す」(編八二)とある。この時設置した一郡がどこであるかは明らかでない。さらに持統天皇三年(六八九)正月壬戌条に、「越の蝦夷沙門道信に、仏像一躯、潅頂幡・鍾・鉢各一口、五色綵各五尺、綿五屯、布一十端、鍬一十枚、鞍一具賜う」(編八六)とあり、また同三年七月甲戌条に、「越の蝦夷八釣魚等に賜う。各差有り」(編八七)、また同十年三月甲寅条に、「越の度嶋の蝦夷伊奈理武志と、粛慎の志良守叡草に、錦袍袴・緋紺・斧等を賜う」(編九〇)とある。これらから、まさに越のなかに「蝦夷」がいたと考えざるをえない。それだけ越の範囲が広がっていたということになる。


    五 律令体制の整備
      
「蝦夷」地への強制移住
 和銅二年三月、陸奥・越後二国の「蝦夷」が野心を抱き、良民を害するとの報が中央にもたらされた。巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に、佐伯宿石湯を征越後蝦夷将軍に任命し、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などから農民を徴発して「蝦夷」の鎮圧に着手した。おそらく越前・越中の民は、越後方面に徴発されたのであろう。
  このころ、出羽柵・が建設されている。同年七月、越前・越中・越後・佐渡の四国に対し、一〇〇艘の造船が命ぜられた(編一〇二)。越前などが「蝦夷」経略の基地とされていることは、以前とまったく変わらない。この遠征はある程度効を奏したとみえ、八月に将軍らは帰還した。九月には、征役五〇日以上の人びとに対し、復(調の免除か)一年が布告された(編一〇三)。和銅五年、出羽国が設置されたことはすでに記したが、『続日本紀』同七年十月丙辰条には、「勅して尾張・上野・信濃・越後等の国の民二百戸を割きて、出羽の柵戸に配す」とみえる。越前がこの「等」のなかに含まれていたかどうかは明らかではない。

       霊亀二年(七一六)九月、中納言巨勢万呂は、「出羽国を建てて数年になりますが、吏民は少なく、夷狄はまだ馴れません。その地は田野広大でかつ肥沃であります。近隣の諸国から民を移すのが良いと思います」と言上している。これによって、陸奥の置賜・最上二郡ならびに信濃・上野・越前・越後の四国の百姓、各百戸を出羽に移住させることになった(編一一六)。養老元年(七一七)二月の「信濃・上野・越前・越後の四国の百姓各一百戸を以て、出羽の柵戸に配す」(編一一七)という記事は、このことが実行されたことを示すものであろう。
  養老三年七月にも「東海・東山・北陸三道の民二百戸を遷して出羽柵に配す」(編一二三)とあり、この際にも越前の民が含まれていた可能性がある。
 以上のように、七世紀後半から八世紀初めにかけて、越についての記述はほとんど「蝦夷」に関する記事のみである。越前を含む北陸道は「蝦夷」対策の基地としてのみ認識されていたようで、それに対応する苛酷な施策がとられていたのである。

継体天皇の出自 越前か近江か 継体天皇の父系 ・母系 横山古墳群と継体王権

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   第二節 継体王権の出現
    一 継体天皇の出自
      越前か近江か
 『日本書紀』(以下『紀』)は、継体天皇の出身地を越前と伝える。しかし『古事記』(以下『記』)は、「故、品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて天の下を授け奉りき」と記し、近江の出身と表現している。この食違いについて、まず考察しなければならない。 『紀』も継体天皇(男大迹王)をやはり近江の生まれと記している。

オホトの父彦主人王は近江高嶋郡三尾の別業において、三国の坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、振媛はオホトを産んだと書かれている。しかし継体天皇のまだ幼い時に彦主人王は没し、母の振媛は異郷で幼児を育てられないと、オホトを連れて家郷の高向に帰ったという。したがって継体天皇は、幼少時から迎えられて天下の主となる成年期まで越前で育ったわけであり、越前を主な地盤とみてよいことになる。

       一方、用字的にみてほぼ推古朝の成立とみられ、『紀』に劣らず古い史料と考えられる『上宮記』(『釈日本紀』所引)は『紀』とほぼ同様の説話を伝えている。母の布利比弥命は、三国坂井県・多加牟久村の出身となっており、これも『紀』と大体一致する。したがってオホトの母系を越前にあるとする所伝は、ほぼ信頼してよいものと考えられる。
     
 すなわちオホトは近江の生まれであるが、母の郷里である越前で幼時から成年期に達し、中央に進出したのも越前からであった。したがって『記』『紀』の表現の差は、重点の置き方の相違にほかならないであろう。



継体天皇の父系
 まず継体天皇の父系の考察から始めよう。『紀』は彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫とするが、その系譜については何も記さない。また三尾の別業にいたと記すが、その本拠地についてはまったく触れていない。一方『上宮記』は、継体天皇の父を斯王とし、凡牟都和希王(一般的に応神天皇と考えられる)より四代の系譜を伝えているが、これは『記』の伝える系譜にきわめて近似したものである(図30)。『記』の系譜にはオキナガマワカナカツヒメが登場し、それが息長氏に関連する系譜であることは明らかである。 
『記』によれば、図の最後に出てくる大郎子(意富富杼)は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君などの祖になっている(各氏族の訓みについては異本・異説が多い)。大郎子は、『上宮記』によると意富富等とも記し、継体天皇の曾祖父にあたる人物である。
図30 継体天皇と息長氏の系譜

図30 継体天皇と息長氏の系譜

 『新撰姓氏録』左京皇別には、「息長真人」の名がみえ、「誉田天皇の皇子稚渟毛二俣王の後なり」と記されている。ワカヌケフタマタ王の子孫ということは、おそらくオホホトの子孫というにほかならないであろう。『新撰姓氏録』はこのあと、山道真人・坂田酒人真人・八多真人の三氏を掲げ、いずれもワカヌケフタマタ王の後と記している。
息長氏を含め、これらの四氏はいずれも前掲の系譜にオホホトの子孫として挙げられているものである。系譜上息長氏につながるという意味で息長グループともいうべき諸氏と、継体天皇とは、オホホトという共通の祖先をもっているとも考えられる。それゆえ、継体天皇の父系が、少なくとも息長グループに属する氏族であろうということは、かなりの確実性をもっていうことができよう。
継体天皇の母系
 『上宮記』の系譜は、継体天皇の母方の祖先を偉久牟尼利比古大王から始めている。イクムネリヒコとは『紀』の活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)をさすのであろう。『上宮記』系譜の第二代は、偉波都久和希である。これは『紀』の磐衝別命、『記』の石衝別王にあたるといえよう。『紀』によれば磐衝別は三尾君の始祖、『記』の石衝別は羽咋君と三尾君の祖と明記されている。
イハツクワケを祀る神社として、能登の羽咋神社(石川県羽咋市)、越前の大湊神社(三国町)、近江の水尾神社(滋賀県高島町)などがあり、イハツクワケの子イハチワケを祀る神社に、越前足羽郡の分神社(福井市)があり、振媛の父のヲハチ君を越前坂井郡の高向神社(丸岡町)が祀っている。これらの分布は、イハツクワケを祖とする一族の勢力範囲を語っていよう。
おそらくイハツクワケは能登から近江にかけて勢力を張った豪族の始祖であって、系譜上、垂仁天皇に結びつけられたのであろう。そうであるなら『記』にみえる二氏のうち、羽咋氏は明らかに能登の豪族であるから、三国出身の振媛は三尾氏につながる人物であろう。

表8 継体天皇の后と皇子・皇女

表8 継体天皇の后と皇子・皇女
 この推測をさらに強めるものは、継体天皇の妃のなかに、三尾氏の出身が二人までみられることである(表8)。一人は三尾角折君の妹稚子媛、もう一人は三尾君堅の女倭媛である。初めの稚子媛は、皇后手白香皇女、元妃目子媛の次に記載されるが(『記』では若比売として第一番目)、その所生の皇子が大郎皇子(『記』では大郎子)とされていることから、一番最初の妻だった可能性が強い。この点からも、振媛が三尾氏出身だった可能性が強まる。



若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     四 古墳からみた継体王権
      横山古墳群と継体王権
 横山古墳群(金津町・丸岡町)は、福井平野の北東隅に位置し、竹田川と清滝川に挟まれた南北約三キロメートル、東西約一キロメートルに横たわる丘陵性山地の山上および山麓に立地する古墳群である(図28)。そして、現在は前方後円墳一九基、円墳一五六基、方墳六三基からなる県内最大級の古墳群であり、とくに越前の前方後円墳の約四分の一が集中し注目されている古墳群である。
図28 横山・菅野古墳群の主な首長墳の分布

図28 横山・菅野古墳群の主な首長墳の分布

 横山古墳群の首長墳の系譜については、墳丘形態や出土品などからおおまかに編年すると図29のように考えられている。すなわち、その首長墳の系譜は、A・B・C・Dの四系統が考えられ、Aは五世紀前後から六世紀中ごろまで継続するが、とくに六世紀に栄えた。Bは四世紀後半から五世紀中ごろまで継続するが、五世紀後半からはDに移行して六世紀後半まで継続し、とくに六世紀代に栄えた。Cは四世紀後半ごろ前方後円墳が一基のみ築かれたが、すぐに円墳に変わり、AやBの従的位置におかれるようになったようである。ともあれ、横山古墳群は古墳時代前期末より栄えていたが、後期になって一段と隆盛をみることになり精彩を放ったといえよう。なお、横山古墳群の西北西約二キロメートルに位置する菅野古墳群(金津町)のタコ山古墳も、その墳丘形態のあり方より六世紀代の前方後円墳と考えられるなど、当該期に著しく前方後円墳が減少する北陸道域のみならず全国的な傾向のなかにあって、まったく特異な現象である。
図29 横山・菅野古墳群の首長系譜

図29 横山・菅野古墳群の首長系譜

 そこで、このような動向を多くの研究者が『日本書紀』『上宮記』の継体天皇関係記事と直接結びつけて考えた。その代表的な考えは、横山古墳群が多数の前方後円墳や円墳からなること、前方後円墳の数が若狭の前方後円墳の総数より多いこと、足羽山古墳群や松岡古墳群で出土している石棺がみられないことなどを指摘したうえで、とくに前方後円墳の数が多いことから県内最大の古墳群とした。しかも、前方後円墳が、古墳時代前・中・後各時期の形式を含んでいることから歴代の首長墳とした。さらに、『日本書紀』によれば継体天皇の母振媛は「三国の坂中井」の「高向」の出身であり、三国の故地にある古墳群のなかで、とくに抜きん出て異彩のある横山古墳群を三国国造墳墓の地とした(斎藤優「横山古墳群」『若越郷土研究』一)。そののち、古墳時代前期~中期の大型前方後円墳が松岡・丸岡古墳群にみられることから、第一次三国国造墳墓の地が松岡・丸岡古墳群であり、第二次三国国造墳墓の地を横山古墳群と修正した。また、越前の石棺が古墳時代前~中期にはみられるものの、後期になると影をひそめる事象や、前~中期に比べて後期にすぐれた古墳の少ない事象とを合わせて、継体天皇の即位と表裏する現象と考えた(斎藤優『改訂松岡古墳群』)。越前で長い間、古墳の分布調査や発掘調査を手がけてきた研究者の考えだけに、地元では現在もその考えを一部改めつつも同調する者が多い。
 しかし、そののち、越前の前方後円(方)墳や石棺・埴輪などについての研究が一層深められ、また全国的に古墳時代の研究が著しく進展した結果、新たな見解が開けてきた。



丹波市立春日歴史民俗資料館・春日郷土資料館 柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館

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丹波市立春日歴史民俗資料館・春日郷土資料館   市島

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年12月5日更新
 春日歴史民俗資料館では、野々間遺跡から出土した2個の銅鐸を中心として、春日地域の歴史とその文化遺産を収集保存し、広く一般に紹介することを目的としてつくられました。
 2万数千年の昔から人々の生活が営まれていた春日町の歴史を4つのテーマ(1.大むかしの春日 2.けむり立つ春部の里 3.中世の春日 4.近世・近代の春日)に分けて展示解説しています。
 郷土資料館は、ふるさとの先人達の生活ぶりや生業のいろいろな諸資料をあつめて展示しています。むかしの農家の姿や生活様式とその用具をはじめ、蚕を飼いマユをつむいで絹布を織り上げた機織りの様子やそれに用いた用具類その他消え去ろうとしているかつての農業形態や伝統の民俗行事の代表的なものを紹介しています。
春日歴史民俗資料館の外観の写真  春日歴史民俗資料館内観

開館時間

土・日・祝日  
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
※ 火~金曜日に入館の際は、事前に教育委員会文化財課までお申し込み下さい。

休館日

毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)
12月29日~1月3日
(展示替えにより臨時休館することがあります。)

入館料

大  人200円 (団体150円)
中学生100円 (団体 70円)
小学生  50円 (団体 30円)             
※団体は20人以上

交通案内

JR福知山線黒井駅より徒歩5分
舞鶴若狭自動車道春日インターより5分
駐車場(無料)がありますので車でもご来館ください。
所在地〒669-4192
兵庫県丹波市春日町黒井496-2
電話  0795-70-0819 (教育委員会文化財課)

丹波市立水分れ資料館

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丹波市立水分れ資料館

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年1月24日更新
 本館は、標高100mを切る本州で最も低い谷中の中央分水界がある氷上町石生・水分れの地勢・歴史を紹介する目的で設立されました。
 水分れ周辺の地形・地質、魚類を中心とした生物の生態・分布、加古川舟運の歴史等にテ-マをしぼり、解説展示がなされています。
 特に現在は絶滅しましたが瀬戸内海側水系と、日本海側水系の河川争奪の生きた証左とされる「ミナミトミヨ」についてはその標本とともに詳しく紹介され、その他の固有種も含め魚類の分布から水分れの地勢が詳しく解説されています。


トミヨ   

トミヨ分類
Pungitius pungitius.jpg
イバラトミヨ(Pungitius pungitius
:動物界Animalia
:脊索動物門Chordata
亜門:脊椎動物亜門Vertebrata
:条鰭綱Actinopterygii
:トゲウオ目Gasterosteiformes
:トゲウオ科Gasterosteidae
:トミヨ属Pungitius
本文参照
トミヨ(富魚、止水魚)とはトゲウオ科トミヨ属に属する。また、トミヨ属に属する魚の総称でもある。
冷帯を中心に分布し、世界で10種程度が知られ、日本にも数種が分布している。一般には、海水、汽水、淡水に生息するが、きれいな冷水(15度前後)を好むため、日本では北海道など以外では、水温の低い湧水池やそれに程近い流域などの淡水環境に生息している。このため、水質の変化や渇水の影響を受けやすい。各地で絶滅の危機に瀕している場合があり、美しい自然のシンボルとして保護活動が行われている。
背ビレの前半では、棘の間に膜がなく、ヒレではなく棘が並んでいる状態。棘の数は種によって7~10本。
産卵期(4 - 6月)になると、オスが水草類を集めて、水中にピンポン玉状のような大きさ数cmの巣を作り、メスを誘う。メスが巣の中に産卵すると、オスが受精させ、その後、オスは食べ物を摂らず、卵を守り、巣の中に新鮮な水を送るなどの世話をする。この仲間のオスがメスよりも短命なのは、この子育てが原因であるという説がある。


ミナミトミヨ

ミナミトミヨ標本
学名:Pungitius kaibarae
1960年代までに絶滅したと考えられている日本固有種京都府兵庫県の瀬戸内海側の流域、特に湧水の付近の小川や水田などから見つかっていた。一生を淡水で過ごすと考えられている。体長 4cm程度。ミナミトミヨをトミヨの亜種とする説もある。その場合の学名は P. sinensis kaibarae
絶滅環境省レッドリスト
Status jenv EX.png



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淡水魚類のアイコン淡水魚類
トゲウオ目 トゲウオ科

ミナミトミヨ

Pungitius kaibarae (Tanaka)
京都府カテゴリー2002年版環境省カテゴリー京都方言

絶滅種

絶滅種 2002年版を参照する
絶滅(EX)
サバジャコ
ミナミトミヨ

選定理由 形態 分布 生態的特性 生息地の現状 生存に対する脅威 必要な保全対策 特記事項
京都府南西部に生息していたが、1960年代以降記録がない。
体長2~4cm。背鰭棘はⅧ~Ⅸで、各鰭の棘は短く、鰭膜は黒い。体側の鱗板は完全。
京都府桂川水系と兵庫県加古川水系。朝鮮半島の日本海側にも分布する。
◎府内の分布区域 府内では南西部の七条村、吉祥院村、久世村、乙訓郡鶏冠井中の池・植野新堀(以上旧称)に分布していた。
全生活史を淡水で過ごす。湧水を水源とする水田・芹田・小川に生息。オスは鳥の巣状の巣をつくり卵仔稚を保護する。
兵庫県では1930年代、京都府では1960年代に絶滅したと言われる。
湧水の枯渇、過度の農薬散布、圃場整備による生息場所の消失が絶滅の原因と考えられる。
湧水の確保、生息場所の保全・回復を図る必要がある。絶滅した現状では残された標本の確保と管理が望まれる。
種小名は兵庫県柏原町に因んでつけられたものであるが、タイプ産地は京都市南区吉祥院で、タイプ標本は東京大学総合博物館に保管されている。その他、京都大学、同志社大学、大阪市立自然史博物館に合わせて約100個体の標本が保管されている。現存する朝鮮半島産の個体群と分類学的に比較検討する必要がある。
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京都府レッドデータブックに掲載されている野生生物や地形・地質、生態系などに関する情報がありましたら、情報提供フォームからお寄せください。
情報提供フォーム
お問い合わせ先:京都府環境部自然環境保全課




一般ひと・消息おくやみ東日本大震災丹波の恐竜医療

絶滅種の淡水魚「ミナミトミヨ」を捜せ

2012年07月15日
 

丹波市内で昭和初期まで生息し、 1960年代に日本産魚類では絶滅種第1号の淡水魚と指定された 「ミナミトミヨ」 の捜索活動を、 柏原ロータリークラブ内で組織された 「ミナミトミヨわくわく委員会」 (保尾洽三委員長、 13人) が行っている。 これまでに寄せられた情報から市内の湧水地などを調べている。 今後は周知活動として講演会なども開く。 保尾委員長は 「見つかれば、 一昨年発見され、 話題を呼んだクニマス (国鱒) 以来の出来事になる。 住民はミナミトミヨの名前は知っていても、 その生態を知らないことが多い。 一連の活動で伝えられれば」 と話し、 過去の生息情報や湧水地の場所などの情報を求めている。

 ミナミトミヨはトゲウオ科の1種で、 学名は 「柏原産」 を意味する語句がある 「ピゴステウス・カイバラエ」。 1915年(大正4)、 氷上町で旧制柏原中学校 (柏原高校) の生徒が見つけ、 当時、 日本の魚類学の権威が 「日本魚類の10新種」 として発表した経緯がある。

 水温17度以下の冷水にしか生息できず、 きれいな湧き水が絶えず流れている所に生息したとされる。 体長は3―5センチほど。 トゲのような背びれと横腹に一列となったウロコが特徴で、 地元丹波では 「カツオ」 と呼ばれていた。
 かつて生息が確認されていた氷上町成松では、 葛野川の伏流水が流れる水路に分布していたが、 大正期に行われたほ場整備などの環境変化で伏流水がかれ、 昭和初期には姿を消した。
 2年前、 同クラブはミナミトミヨについての講演会を開催。 講師から 「ミナミトミヨに目を向けてください」 と、 呼びかけられたのがきっかけになり、 同委員会を設立した。 5月には捜索情報を求めるビラを市内に配布。 これまでに2件の過去の生息情報が寄せられたが、 有力ではなく、 市内の湧水地などを調べている。 同委員会は今後も調査を続ける予定。
 保尾さんは 「あわよくば見つかってくれればという心境で、 捜索している。 今後も捜索を続ける一方で、 ほ場整備や河川改修で湧水地が絶え、 居場所がなくなったミナミトミヨの生態を伝えることで、 水保全の大切さを伝えたい」 と話している。 




水分れ資料館の外観の写真 水分れ資料館の展示室の写真

 開館時間

午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)

休館日

毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)
12月29日~1月3日

入館料

大  人  200円 (団体100円)
小中学生  50円 (団体 30円)             
※団体は20人以上

交通案内

JR福知山線石生駅より徒歩10分
舞鶴若狭自動車道春日インターより南へ5分
所在地〒669-3464
兵庫県丹波市氷上町石生1155
丹波市立 水分れ資料館
電話 0795-82-5911  

律令制下の若越 奈良・平安初期の対外交流 渤海使の来航と縁海諸国の対応 使節のメンバー 八世紀の事例

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律令制下の若越
 第五節 奈良・平安初期の対外交流
   一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      使節のメンバー

来航した渤海使のメンバーが具体的にわかる咸和十一年(承和八年、八四一)閏九月二十五日付「渤海国中台省牒案」(壬生家文書)によれば、一行は総勢一〇五人で使頭一人、副使一人、判官二人、録事三人、訳語二人、史生二人、天文生一人、大首領六五人、梢工二八人という構成であった。国史などによってもこれらのメンバーの存在が認められるほか、医師(一人)が加わったケースもあった。

渤海使は初めのころは二三人から二四人くらいの小規模であったが、そののち、三〇〇人を越える一行が来航したこともあり、弘仁年間ごろから一〇〇人から一〇五人の間に定着し、一〇五人が最も多いことから、これが定員かと想定される(船の数は二艘程度か)。このうち、使頭は大使のことである。大使は天平宝字二年(七五八)までは武官(武散官)が任命されたが、天平宝字六年以降は二例を除き、文官(文散官)が任命されるようになる(石井前掲論文)。副使は大使の次席で、判官は三等官、録事は書記官に相当し、訳語は通訳であり、史生は諸々の雑事にあたったらしい。



天文生は、羅針盤などがない当時、航海の際に天文の知識により航路を定めたり気象を予測したりする役目を担当していた。首領とは交易を目的に来航した商人的性格を帯びた靺鞨諸族の地方の首長たちである。また、梢工とは舵取りの船員のことである。
写真73 「渤海国中台省牒案」

写真73 「渤海国中台省牒案」

 さて、このようなメンバーのうち全員が入京できたかどうかははっきりしない。しかし、後述する宝亀七年の場合、遭難して生存者が四六人あったが、その内三〇人しか入京を許可されなかったため全員の入京を要請し、漸く認められていることからして、通常のケースは来航した全員が入京できたとは考えにくい。
首領や梢工の大部分は縁海国に滞在したと思われる。なお、参考までに日本から派遣された遣渤海使の構成は『延喜式』大蔵省によれば、入渤海使(大使)・判官・録事・訳語・主神・医師・陰陽師・史生・船師・射手・卜部・雑使・船工・師・人・挟杪・水手がいた。陰陽師が渤海使の天文生に、船師・船工・師・挟杪・水手らが渤海使の梢工に対応しよう。

二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      八世紀の事例

この項では、若狭・越前両国が渤海使および遣渤海使に関連して文献史料に現われる具体的な事柄を中心に、時代を追ってその対応を述べることにする。なお、数字は表35(渤海使の来航・帰国表)36の渤海使・遣渤海使の回数である。

 天平二年(七三〇) まず、遣渤海使が帰国したケースであるが、天平二年「越前国大税帳」(公二)の加賀郡条によれば、「渤海郡の使人を送る使らの食料五拾斛」とある。高斉徳らを送った引田虫麻呂らは天平二年八月二十九日に帰国するが、稲五〇斛(石)の支出はその一行を供給した経費である。
  来航地は不明であるが、加賀郡に帰着した可能性も十分ある。他の郡の記載がみえないのは残念だが、帰国した遣渤海使を逓送した加賀郡以南の路次の各郡も同様な負担があったと思われる。遣渤海使が単独で帰国したり、派遣されたケースは少ないが、このような場合も越前国の負担が予想されていた。

表36 遣渤海使の出航・帰国表

表36 遣渤海使の出航・帰国表
写真74 三国湊

写真74 三国湊



 天平勝宝四年(七五二) 九月二十四日、渤海使慕施蒙ら七五人が越後国佐渡嶋に来航した。そののち、十月七日に左大史の坂上老人らが越後国に派遣され、消息を問わせている。慕施蒙らは翌年五月二十五日、京で拝朝し、信物を献上している。
  入京の経緯はみえないが、おそらく渤海使は越後国より北陸道を経て入京したと想定されるので、その際、渤海使は越前国を通過し、供給と逓送とを受けたと思われる。



 天平宝字二年(七五八) 『万葉集』二〇―四五一四の題詞などによれば、藤原仲麻呂の私邸で餞別の宴が行われた二月十日以降、ほどなく、渤海に向けて日本を出発したと思われる遣渤海大使小野田守らの一行六八人は、九月十八日に渤海大使揚承慶ら二三人を伴って日本に帰国し、渤海使は越前国に安置された。
  この時、安置の場所のみで来航の地点は正確には不明であるが、越前国か能登国と思われる。渤海使らは十二月二十四日に入京するが、それまで約三か月ほど越前国内に滞在し、その間、渤海使への供給が越前国で行われたと思われる。



 天平宝字三年 正月三十日に任命された遣唐大使藤原清河を迎える使(迎使)の高元度らは、渤海使揚承慶らとともに渤海に向かい、そののち、唐に赴いたが、渤海使は先に述べたように越前国に来航したので、おそらくはその出港も越前国と想定される。渤海使の対応とともに遣唐使の出港の準備も越前国が行った可能性がある。



 天平宝字六年 天平宝字六年「造石山寺所食物用帳」によれば、三月二十八日以降に高麗大山を大使として日本を出発した遣渤海使は、十月一日に渤海使王新福ら二三人を伴い帰国し、渤海使らは越前国加賀郡において安置・供給される。しかし高麗大山は船中で病をえて、「佐利翼津」に到着後、死去した。「佐利翼津」は越前国加賀郡内に求める説と出羽国避翼(山形県最上郡舟形町付近)に比定する説がある。越前国内とすると、「さりはね」の地名がのこっておらず、具体的な比定地は不明であり、出羽国とすると、最初の来航地は越前国内ではないことになるが、次に述べるように出羽国に来航した場合、常陸国へ安置されている例もあり、入京の際に北陸道を通るとは限らず、また避翼は内陸部になり両説とも難点を抱えている。ここではその当否はともかく、渤海使は越前国加賀郡に安置されたあと、閏十二月十九日に入京しているので、三か月余り越前国内に渤海使は滞在したらしい。



 宝亀三年(七七二) 前年宝亀二年六月二十七日に出羽国の賊地野代湊に来航した壱万福ら三二五人は常陸国に安置・供給され(東海道経由か)、十二月二十一日に入京する。そののち、帰国に際して、壱万福らを送る「送渤海客使」武生鳥守は宝亀三年九月ごろに出港するが、暴風にあい、能登国に漂着し福良津に安置される。この時、最初の出港地は不明であるが、越前国か能登国かと考えられ、いずれにしろ壱万福および武生鳥守らは越前国を通過したと思われる。
  なお送渤海使の武生鳥守は宝亀四年十月十三日に無事帰国し(時に正六位上、姓は連)、その後の天応元年(七八一)四月十五日、桓武天皇の即位叙位で外従五位下に叙されている。これ以外に武生鳥守に関する記事はないが、『続日本紀』天平神護元年(七六五)十二月五日条に右京の人外従五位下馬登国人、河内国古市郡の人正六位上馬登益人ら四四人に武生連の姓を賜わったとあり、『続日本紀』延暦十年(七九一)四月八日条と『新撰姓氏録』左京諸蕃上などによれば、武生氏は延暦十年に宿と改賜姓された百済系渡来人(王仁の後裔氏族)で、河内国古市郡が本拠地と考えられている。

  さて、武生氏というと、現在の武生市との関係が注目される。武生という地名は、『源氏物語』浮舟に「たとえ武生の国府にうつろい給うとも」、催馬楽に「みちのくち 武生の国府」とあるように、平安中期から院政期には認められる古い地名である(現在の武生の地名は明治以降の命名であり、国府があったことから、中世では長く府中とよばれた)。武生鳥守が正六位上から外従五位下に昇進していることなどから、畿内の豪族および官人とするよりは、越前国の国府があった現在の武生市周辺の郡司クラスの豪族出身、すなわち武生鳥守の本貫地(出身地)を越前国の国府があった武生市近辺に求められるかもしれない。
 しかし武生という地名が奈良時代までさかのぼるという確実な史料はほかにはなく、憶測の域を免れないことも事実である。その当否はともかく、渤海使を送る船に乗り大陸に渡った越前国出身の梶取や水手などが存在した可能性は十分ありうる。

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 宝亀七年 この年の冬、渤海国使史都蒙ら一八七人(一説には一六六人)は、光仁天皇の即位の賀と渤海国王(文王・欽茂)の王妃の喪を告げるため、渤海の南海府吐号浦を出発した。
 南海府は渤海の五京の一つ南京で、朝鮮の咸鏡南道北清または咸興にあてる説があり、最近、北清から南京南海府跡とされる土城跡が発掘されている(河上洋「渤海の交通路と五京」『史林』七二―六)。
 
 一行は宝亀四年に大宰府への来航を義務づけられたため、対馬の「竹室之津」(長崎県下県郡美津島町竹敷)をめざすが、その途中悪風のため目標とする航路を失い、越前国の沿岸に至り、着岸を目前にしてが折れ帆が落ちて漂流し、十二月二十二日に加賀郡と江沼郡に漂着した。
  この遭難により生存者四六名は加賀郡に安置され供給をうけた。翌宝亀八年二月二十日に大使史都蒙ら三〇人の入京が許されるが、史都蒙の願いにより四六人全員の入京が許された。

  この間、一行は約三か月、越前国内に滞在し供給をうけている。なお、この時、一四一人もの人命が失われる惨事となったが(『続日本紀』宝亀八年二月二十日条によると犠牲者は一二〇人)、溺死して江沼郡・加賀郡に漂着した渤海使人三〇人の遺体は宝亀九年四月三十日、越前国に埋葬が命じられている。
  その所在がどこであるかは不明だが、越前国(のちの加賀国か)には異国の地に派遣され、そこで亡くなった渤海人が埋葬されているのである。



10 宝亀九年 前年宝亀八年の五月二十三日以降のことと思われるが、史都蒙らを送るため渤海に向かった高麗殿嗣らは、航海の途中航路を失い、渤海の辺境地帯「遠夷の境」に漂着し、船は破損したものの、なんとか使命を達したようで、この年(宝亀九年)の九月二十一日に渤海の送使張仙寿に送られ越前国坂井郡三国湊に船二艘で来航した。遣渤海使と渤海使は「便処」に安置され供給を受けたとされる。

 「便処」とは具体的には不明だが、坂井郡の郡衙(郡家)などであろうか。確実に現在の福井県内に来航したとわかる初めてのケースである。殿嗣は一人だけ一行より先に入京しているが(十月六日に叙位されており、この時までに入京していた)、渤海使は翌宝亀十年正月一日の元日朝賀の儀に参列している。おそらく十二月下旬ごろには入京したと思われ、約三か月ほど越前国内に滞在したらしい。


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豊岡市立博物館  兵庫県豊岡市は、兵庫県北部に位置する人口約9万人の町です。山に囲まれたこの町には、天平13年(741)に聖武天皇が建てさせた但馬国分寺や、延暦23年(804)に移転をした但馬国府跡(

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  2. 博物館について
  1. 豊岡市立博物館について

博物館について

 兵庫県豊岡市は、兵庫県北部に位置する人口約9万人の町です。山に囲まれたこの町には、天平13年(741)に聖武天皇が建てさせた但馬国分寺や、延暦23年(804)に移転をした但馬国府跡(祢布ヶ森遺跡)など、但馬の中でも多くの歴史遺産が眠る地域として知られてきました。
 当博物館は、平成17年3月、祢布ヶ森遺跡に隣接する場所に但馬国府・国分寺館として開館しました。そして、開館から10年後の平成27年4月、豊岡市の幅広い歴史を活かす施設をめざし、「豊岡市立歴史博物館ー但馬国府・国分寺館ー」として生まれ変わりました。今後も先人の残してくれた貴重な遺産を守り、次代の人たちに受け継いでいくために活動していきます。

博物館の特色

中庭のある開放的な展示室
 当館の常設展示室・総合学習室には、美術館・博物館としては珍しい中庭を設け、開放感を演出するとともに、人工光だけに頼らない自然光を取り入れた鑑賞スペースとなっています。
5000冊を超える蔵書
 当館の総合学習室には、5000冊を超える歴史・考古学関係の書籍があります。一般の書店では手に入りにくい専門書から、児童書や漫画まであり、小中学生の調べ学習にも役立ちます。書籍の貸出しは行っておりませんが、総合学習室は無料でご利用いただけますので、いつでも自由に学習することができます。
見て、触れて、感じる“本物の歴史”
 当館では、展示を「見る」だけでなく、本物の土器や石器に自由に「触れ」、古代衣装の試着や勾玉づくりなどの体験を通して、歴史を「感じて」いただけるようさまざまな工夫をしています。


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  3. 交通アクセス
  1. 交通アクセス

交通のご案内

積雪等により、交通規制が行なわれている場合があります。事前にご確認のうえお越しください。

博物館周辺地図

広域図

広域図

リオ・デ・ジャネイロは、1808年にナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった

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リオデジャネイロ   

リオ・デ・ジャネイロ
Rio de Janeiro
ブラジルの旗
位置座標 : 南緯22度54分30秒西経43度11分47秒 / 南緯22.90833度 西経43.19639度 / -22.90833; -43.19639歴史 建設 行政 地域  州  市 市長 地理   市域   都市圏標高人口人口  市域     人口密度  都市圏 その他等時帯夏時間市外局番
左上から: コルコバードのキリスト像、リオ・ニテロイ橋、セントロ地区、エスタジオ・ド・マラカナン、ポン・ヂ・アスーカル、コパカバーナビーチ、コルコバードから臨むパノラマ
左上から: コルコバードのキリスト像リオ・ニテロイ橋セントロ地区エスタジオ・ド・マラカナンポン・ヂ・アスーカルコパカバーナビーチ、コルコバードから臨むパノラマ
リオ・デ・ジャネイロの市旗リオ・デ・ジャネイロの市章
市旗市章
愛称 : Cidade Maravilhosa(素晴らしい街)、Rio(リオ)
リオ・デ・ジャネイロの位置(リオ・デ・ジャネイロ州)の位置図
リオ・デ・ジャネイロの位置(リオ・デ・ジャネイロ州)
1565年3月1日
ブラジルの旗ブラジル
南東部 (ブラジル)英語版
リオデジャネイロ州
リオ・デ・ジャネイロ
エドゥアルド・パエス
ブラジル民主運動党(PMDB))
面積 
1,260 km2
4,557.3 km2
0~380 m
(2010年現在)
6,323,037人
  4,781人/km2
12,387,000人
UTC-3 (UTC-3)
UTC-2 (UTC-2)
+55 21
公式ウェブサイト : City of Rio de Janeiro
リオデジャネイロの衛星写真
リオデジャネイロの衛星写真(夜間・ISS

  リオ・デ・ジャネイロ: Rio de Janeiro, ブラジルポルトガル語発音: ヒウ・ヂ・ジャネイル)は、ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロ州の州都。世界有数のメガシティであり、国内最大の観光都市である。港湾都市としても知られる。
 人口は600万人を超え、サンパウロに次いでブラジル第2位にランクされる。経済規模(域内総生産)でもサンパウロに次いで第2位にあり、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第56位、国内ではサンパウロに次ぐ第2位の都市と評価された[1]。都市周辺の美しい文化的景観は「リオデジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、2012年に世界遺産リストに登録された。
2016年第31回夏季オリンピックの開催都市である。


名称

"Rio de Janeiro"とはポルトガル語で「1月」という意味。
ブラジルポルトガル語発音では、ヒウ・ヂ・ジャネイル[ˌxiuʤiʒaˈnejɾu]となる。
一般的にポルトガル語で都市名を読み書きする場合は男性形・女性形の区別をつけないが、一般名詞と区別するためにリオ・デ・ジャネイロは必ず男性定冠詞"o"を付けた"o Rio de Janeiro"という男性形で呼ばれる。ただし、長距離バスや航空機の行先表示などでは単純に「Rio」と略記されることもある。

概要

カーニバルで有名。コパカバーナイパネマ英語版などの世界的に有名な海岸を有し世界3大美港の一つに数えられる美しい都市である。都市のGDPは2010億ドルであり世界第30位、南米ではサンパウロブエノスアイレスに次ぎ第3位である[2]
1960年ブラジリア遷都するまではブラジルの首都であった。また、1808年ナポレオンに本国領土を奪われたポルトガル王室が遷都してからブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。また、中南米有数の貿易港でもあるためにブラジルの経済的な中心地でもあった。近年は経済の中心地はサンパウロに移り、その地位が低下しているものの、依然として中南米有数の経済都市である。また、ブラジルのみならず世界でも有数の観光地としても、ショーロボサノヴァを生んだ音楽の都としても名高い。

地域

コルコバードからのリオデジャネイロのパノラマ

 左にやや傾いた平行四辺形の形状を呈した大陸部とグアナバラ湾内に分布する島嶼部の2つからなり、東西の長さは約70km、南北は37kmにおよぶ。公式的には全部で7つの大行政区と33の小地域、160の街区Bairroから構成されているが、街区の上位にある地区Distritoが存在しないのが特徴である[3]。慣用的には、セントロ、南部地域、北部地域、バラ・ダ・チジューカ地域、西部地域という区分がなされることが多い。


歴史

1565年のリオデジャネイロの創設を描いた画

 1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した[5]

 ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族英語版は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。

 1555年フランスの植民地開拓者が南極フランス英語版居留地をつくったが1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。

 17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。

 しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。

 この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスのダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地英語版の交通と富の中心となった。

このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオに移されブラジル植民地英語版の首府となった[6]

カリオカ水道橋、18世紀前半に建設された

 1808年半島戦争の勃発により、リスボンポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。

 翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。

 1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して1822年ブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。

 1832年4月4日から7月5日まで、ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が寄港している。ここでダーウィンは奴隷に対する酷い仕打ちを目撃した。このときの深い嫌悪感を終生忘れることがなかった[7]
リオデジャネイロの風景
(1825年頃)

 帝国の首都として行政機能の集中したリオの街は順調に発展していった。

 1854年にはブラジル初の鉄道14kmがリオに建設され、ガス燈や電信、上下水道といったインフラも整備され始めた。1889年帝政が廃止され共和制に移行するものの、リオは引き続きブラジル連邦共和国の首都となった。当時の市街はグアナバラ湾の入口にほど近い現在のセントロ地区のみであったが、19世紀末には人口は50万、1900年には81万に達し、市街は拡大していった。

 1902年に就任した第5代大統領のロドリゲス・アルヴェスは首都であるリオの改善に熱心に取り組み、都市計画家フランシスコ・ペレイラ・パソスを起用して都市計画を実施し、1903年には東西南北の幹線道路が整備された。黄熱病が撲滅され、衛生状況が大きく改善したのもこの時期である。南のボタフォゴ地区やさらに南のコパカバーナへと市街地が延びていった。コパカバーナやイパネマへと通じる直通トンネルも建設された。

 ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス時代の開発政策により、第二次世界大戦後に商工業が発展すると内陸部や北東部から職をもとめて大量の人々が流入した。

 しかし、経済の重心は徐々に内陸部のサンパウロ市に移っていき、1950年代にはリオの人口はサンパウロに抜かれ、現在に至るまでリオはブラジル第2の都市となっている。

 また1960年ジュセリーノ・クビシェッキ大統領によって首都はブラジリアに移され、リオは行政の中心地としての機能を失った。遷都後もそれまでの連邦直轄区の領域、すなわち今日のリオデジャネイロ市域はグアナバラ州としてリオデジャネイロ州と併存していたが、1975年にグアナバラ州とリオデジャネイロ州が合併し、ニテロイ市にかわって新リオデジャネイロ州の州都になった。1992年にはこの地で地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開催され、「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」(リオ宣言)とその行動計画であるアジェンダ21が合意された。

2009年10月2日東京シカゴマドリードとの投票に勝利して、第31回夏季オリンピックのリオ開催が決定した。これは南米大陸初、ラテンアメリカ全体でも1968年開催のメキシコオリンピックに次ぐ48年ぶり2回目のオリンピック開催となる。

人口動態

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リオデジャネイロ都心部の眺め

 白人(53.4%)、混血(33.5%)、黒人(12.6%)、その他(0.5%)。19世紀末から20世紀初頭の大量の移民によって人種構成は多様化し、ポルトガル人のほか、イタリア系、スペイン系、ドイツ系、日系(15000人)、ユダヤ系、レバノン系など、多種多様な人種が混在し、混交している。
 1872年に27万人だった人口は、1890年に52万人、1900年に81万人、1950年に237万人、2000年には585万人に達した。この人口増加の多くは国内移動、とくに貧しい北東部からの大量流入によるもので、これによりリオ市内各所にファヴェーラ(スラム)ができ、貧富の差や治安の悪化が問題となっている。

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