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欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人

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欠史八代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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天皇系図 初代 - 10代

 欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。


概要[編集]

これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を提唱したのは、歴史学者・津田左右吉1873年 - 1961年)である。津田が始めに主張した説では欠史八代の8人の天皇達と、それに次ぐ崇神天皇垂仁天皇景行天皇成務天皇仲哀天皇及びその后である神功皇后も存在を否定されており、津田は「欠史十三代」を主張していた。津田のこの説は不敬罪に当たるとして提訴され、1942年に裁判で敗北するものの、第二次大戦後にGHQの指導によって(神道指令)津田説が古代史学の主流となり、以後学校教科書からも初代神武天皇から神功皇后までの記述が削除されることとなった。
しかしその後に津田説に次々と矛盾点が指摘され、崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と神功皇后の非実在性が薄らぎ、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が歴史学の主流となっている。一方で反論意見も根強くあり、実在説を唱える学者も少なくない[注 1]

欠史八代の天皇[編集]

  1. 綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
  2. 安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
  3. 懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
  4. 孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
  5. 孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
  6. 孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
  7. 孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
  8. 開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)

非実在説

欠史八代の天皇を非実在と考える代表的な根拠は以下の通り。
これらの八代の天皇は中国革命思想辛酉革命)に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測がある。
  • 辛酉とは干支のひとつで中国では革命の年とされる。21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされ、日本では聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされるが、表立った活動の記録はない)が辛酉の大革命の年である。すると21×60=1260よりAD601-1260=BC660(西暦0年はない)が神武天皇即位年と算出される。
 2~9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。
 『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる。

 また、神武の称号の「天下」という抽象的な語は、崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、やはり後代に創作された疑いが強いといえる。

 1978年、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている。

4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものであり、神武・綏靖のように伝えられる名が実名とするとそれに「神」がつくのも考え難く、やはりこれらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である。

系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても綏靖天皇手研耳命(たぎしみみのみこと)を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。これらは伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合に多く見られる例である。
総て父子相続となっており兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、歴史的に逆行することにもなってしまう。

陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。

実在説

欠史八代の天皇を実在と考える代表的な根拠は以下の通り。

記紀歴史書説

 記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは稗田阿礼が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。

葛城王朝説

 初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城(現在の奈良県奈良盆地南西部一帯)の地に比定する説。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。
 この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連させて考えることができ、この説を発展させて邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国とする説などもある。

プレ大和王権説

 古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命孝霊天皇の後裔、大彦命建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。

古代天皇の異常な寿命について

 2~9代に限らず古代天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が有力視される21代雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう[1]。古代天皇達の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる[注 2]
 また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇(大王)は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。

半年暦説[2]
 日本の伝統行事や民間祭事には(大祓や霊迎えなど)一年に二回づつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦説』(一年二歳暦)もある。『魏志倭人伝』の裴松之注には「『魏略』に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。
 そのことを踏まえれば天皇達の異常な寿命にも不自然さがなくなり、『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば旧約聖書創世記に出てくるアダムのような(930歳まで生きたとされる)飛び抜けた長命にしてもよいのに二分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦が使用されていたことを窺わせる。また、17代履中天皇以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代継体天皇も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる。


倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと[1]/やまとととびももそひめのみこと[2]、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

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倭迹迹日百襲姫命

   
倭迹迹日百襲姫命の宮内庁治定墓
奈良県桜井市箸墓古墳(箸中山古墳)。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと[1]/やまとととびももそひめのみこと[2]生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族(王族)。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。



名称

日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される[1]。名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある[2][3]
なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される[4]。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる[1]

系譜

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
第7代孝霊天皇と、倭国香媛(やまとのくにかひめ、意富夜麻登玖邇阿礼比売命<おほやまとくにあれひめのみこと>/絚某姉<はえいろね>/蠅伊呂泥<はえいろね>)との間に生まれた皇女である[1]
同母兄弟として、『日本書紀』によると彦五十狭芹彦命(比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命(日本書紀なし)の名を記載する。
『日本書紀』では、百襲姫は大物主神三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという[1]

記録

日本書紀崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳[注 1])に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという[1]
同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される[1][4][注 2]

また同書崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を死せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消した。
大彦命は引き返してこのことを天皇に報告した。百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという[1]。この説話部分は、前後の記述関係から某かの神が童の口を借りて詠わせたともとれる内容である。

三輪山(奈良県桜井市)
大物主神は三輪山の神とされる。

 続けて、同書では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという[1]
古事記』では母母曽毘売(百襲姫)の事績に関する記載はない。同書では、三輪山の伝説は意富多々泥古(大田田根子)と活玉依毘売(活玉依媛)の説話として語られている[1]
なお、『多氏古事記』逸文[5]においても「倭迹迹媛皇女」と大三輪大神との神婚譚が記されている[1]

倭迹迹日百襲姫命 大市墓
(奈良県桜井市)
倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている[6][7]。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。
前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている[8]。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式諸陵寮諸陵式)では記載を欠いている[8]。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された[8]
この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説がある(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている[9]。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される[9]

考証

『日本書紀』の記す伝承は、人と蛇神との三輪山型(苧環型)の神婚を表すとともに、妻問婚の習俗を表すとされる[3][1]。また、『古事記』での活玉依媛伝承のように神・人が結ばれて子が産まれる型(神人交流型)ではなく、別離し死去する(神人隔絶型)であるという特徴を持っている[3]
また百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、前述のように箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある[1](詳細は「卑弥呼#倭迹迹日百襲媛命説」を参照)。

信仰

上記の通り彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域(主には備前国備中国備後国讃岐国)に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。特に讃岐国一宮である田村神社では地域の水神と習合し、主祭神として扱われている。

『日本書紀』目次

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『日本書紀』目次

日本書紀、巻第一、神代上(慶長勅版)
  • 卷第一
    • 神代上(かみのよのかみのまき)
      • 第一段、天地開闢と神々 天地のはじめ及び神々の化成した話
      • 第二段、世界起源神話の続き
      • 第三段、男女の神が八柱、神世七世(かみのよななよ)
      • 第四段、国産みの話
      • 第五段、黄泉の国、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み
      • 第六段、アマテラスとスサノオの誓約 イザナギが崩御し、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から子を産む。
      • 第七段、天の岩戸スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。(岩戸隠れ
      • 第八段、八岐大蛇 スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。大己貴神(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)
  • 卷第二
  • 卷第三
    • 神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)神武天皇
      • 東征出発
      • 五瀬命の死
      • 八咫烏
      • 兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)
      • 兄磯城(えしき)、弟磯城(おとしき)
      • 長髄彦と金し
      • 宮殿造営
      • 橿原即位
  • 卷第四
    • 神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)綏靖天皇
    • 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)安寧天皇
    • 大日本彦耜友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)懿徳天皇
    • 観松彦香殖稲天皇(みまつひこすきとものすめらみこと)孝昭天皇
    • 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)孝安天皇
    • 大日本根子彦太瓊天皇(おほやまとねこひこふとにのすめらみこと)孝霊天皇
    • 大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと)孝元天皇
    • 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)開化天皇
  • 卷第五
  • 卷第六
  • 卷第七
    • 大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)景行天皇
    • 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)成務天皇
      • 天皇即位と国、の制
  • 卷第八
    • 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)仲哀天皇
      • 天皇即位
      • 熊襲征伐に神功皇后同行
      • 啓示
  • 卷第九
  • 卷第十
    • 誉田天皇(ほむだのすめらみこと)応神天皇
      • 天皇の誕生と即位
      • 武内宿祢に弟の提言
      • 髪長媛(かみながひめ)と大さざきの命
      • 弓月君、阿直岐、王仁
      • 兄媛の歎き
      • 武庫の船火災
  • 卷第十一
    • 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)仁徳天皇
      • 菟道稚郎子の謙譲とその死
      • 仁徳天皇の即位
      • 民のの煙
      • 池堤の構築
      • 天皇と皇后の不仲
      • 八田皇女の立后
      • 鷹甘部(たかかいべ)の定め
      • 新羅、蝦夷などとの抗争
  • 卷第十二
    • 去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)履中天皇
      • 仲皇子(なかつみこ)黒媛を犯す
      • 磐余(いわれ)の稚桜宮(わかさくらのみや)
    • 瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)反正天皇
  • 卷第十三
  • 卷第十四
    • 大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
      • 眉輪王の父の仇
      • 市辺押磐皇子を謀殺
      • 即位と諸妃
      • 吉野の猟と宍人部の貢上
      • 葛城の一事主
      • 嶋王(武寧王)誕生
      • 少子部(ちいさこべ)スガル
      • 吉備臣(きびのおみ)たち
      • 今来(いまき)の才伎(てひと)
      • 高麗軍の撃破
      • 新羅討伐
      • 月夜の埴輪馬
      • 鳥養部(とりかいべ)、韋那部(いなべ)
      • 根使王(ねのおみ)の科(とが)
      • 秦のうずまさ
      • 朝日郎
      • 高麗、百済を降ろす
      • 天皇の遺言
  • 第十五
    • 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)清寧天皇
    • 弘計天皇(をけのすめらみこと)顕宗天皇
      • 弘計、億計兄弟の苦難
      • 二皇子身分を明かす
      • 皇位の譲り合い
      • 弘計王の即位
      • 老婆置目の功績
      • 復讐の思い
      • 任那、高麗との通交
    • 億計天皇(おけのすめらみこと)仁賢天皇
      • 億計天皇の即位
      • 日鷹吉士高麗に使す
  • 卷第十六
    • 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇
      • 影媛(かげひめ)としび
      • 武烈天皇の暴逆
  • 卷第十七
    • 男大述天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇
      • 継体天皇の擁立
      • 那四県の割譲
      • こもん帯沙(たさ)をめぐる争い
      • 磐井の反乱
      • 近江野毛の派遣
      • 近江野毛の死
      • 継体天皇の崩御
  • 卷第十八
    • 広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)安閑天皇
    • 武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)宣化天皇
      • 那津(筑紫)宮家の整備
  • 卷第十九
    • 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇
      • 秦大津父(はたのおおつち)
      • 大伴金村の失脚
      • 聖明王(せいめいおう)、任那(みまな)復興の協議
      • 任那日本府の官人忌避
      • 任那復興の計画
      • 日本への救援要請
      • 仏教公伝
      • 聖明王の戦死
      • 任那の滅亡
      • 伊企なの妻大葉子
      • 難船の高麗使人
  • 卷第二十
    • 渟中倉太珠敷天皇(ぬなかくらのふとたましきのすめらのみこと)敏達天皇
  • 卷第二十一
  • 卷第二十二
  • 卷第二十三
    • 長足日広額天皇(おきながたらしひひぬかのすめらみこと)舒明天皇
  • 卷第二十四
  • 卷第二十五
    • 天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)孝徳天皇
      • 皇位の互譲
      • 新政権の発足
      • 東国国司の派遣
      • 鐘櫃及び男女の法
      • 古人大兄の死
      • 大化の改新
      • 鐘櫃の反応
      • 朝集使
      • 厚葬と旧俗の廃止
      • 品部(しなじなのとものお)の廃止
      • 新冠位制
      • 蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)
      • 白雉の出現
      • 皇太子、飛鳥に移る
  • 卷第二十六
  • 卷第二十七
  • 卷第二十八
  • 卷第二十九
  • 卷第三十

日本書紀の記述の信頼性

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日本書紀の記述の信頼性


『隋書』、『晋書』との対応

 中国の史書『晋書安帝には、266年倭国の関係記事があり、その後は5世紀の初めの413年東晋義熙9年)に倭国が貢ぎ物を献じたと記載がある。この間は中国の史書に記述がなく、考古学的文字記録はないことから、「謎の4世紀」と呼ばれている(4世紀後半以前の皇室の成立過程についてはヤマト王権の項を参照)。
 倭王武の上表文や隅田八幡神社鏡銘、千葉県稲荷台1号古墳出土の鉄剣銘文埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文などから、5世紀代には文字が日本で使用されていると考えられている。
 しかし、当時、朝廷内で常時文字による記録がとられていたかどうかは不明である。また『隋書』卷八十一・列傳第四十六 東夷には次のようにある。
「無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
文字なく、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬わば、百済に於いて仏経を求得し、初めて文字あり。

稲荷山古墳鉄剣銘文との対応

 稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の発見により、5世紀中頃の雄略天皇の実在を認めた上で、その前後、特に仁徳天皇以降の国内伝承に一定の真実性を認めようとする意見も存在する。

 金錯銘鉄剣からは、5世紀中頃の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成していたことがわかる。その銘文には「意富比垝(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図が記されており、「意富比垝(オホヒコ)」を記紀の第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」(四道将軍の一人)と比定する説がある。また、川口勝康は「乎獲居(ヲワケ)」について、「意富比垝(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」とし、豐韓別命武渟川別の子と比定しているが、鉄剣銘文においては弖已加利獲居(テヨカリワケ)は多加利足尼の子であるとする。

『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連

 聖徳太子による国史の成立以前にも各種系図は存在した[22]。これらを基礎にして、継体天皇の系図を記した『上宮記』や、『古事記』、『日本書紀』が作られたとする説もある。仮に、推古朝の600年頃に『上宮記』が成立したとするなら、継体天皇(オホド王)が崩御した継体天皇25年(531年)は当時から70年前である。なお、記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』は7世紀ごろの成立と考えられている。

 『日本書紀』には、推古天皇28年(620年)に、「是歲 皇太子、島大臣共議之 錄天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」(皇太子は厩戸皇子(聖徳太子)、島大臣は蘇我馬子)という記録がある。当時のヤマト王権に史書編纂に資する正確かつ十分な文字記録があったと推定しうる根拠は乏しく、その編纂が事実あったとしても、口承伝承に多く頼らざるを得なかったと推定されている。なお、『日本書紀』によれば、このとき、聖徳太子らが作った歴史書『国記』・『天皇記』は、蘇我蝦夷入鹿が滅ぼされたときに大部分焼失したが、焼け残ったものは天智天皇に献上されたという。

百済三書との対応

 現代では、継体天皇以前の記述、特に、編年は正確さを保証できないと考えられている。それは、例えば、継体天皇の没年が記紀で三説があげられるなどの記述の複層性、また、『書紀』編者が、『百済本記』(百済三書の一つ)に基づき、531年説を本文に採用したことからも推察できる。

 百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。百済三書は、6世紀後半の威徳王の時代に、属国としての対倭国政策の必要から倭王に提出するために百済で編纂されたとみられ、日本書紀の編者が参照したとみられてきた[23]。それゆえ、百済三書と日本書紀の記事の対照により、古代日朝関係の実像が客観的に復元できると信じられていた。三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く[24]、また、任那日本府に関する記述(「百済本記に云はく、安羅を以て父とし、日本府を以て本とす」)もその中に表れている。

 また、『神功紀』・『応神紀』の注釈に引用された『百済記』には、「新羅、貴国に奉らず。貴国、沙至比跪(さちひこ)を遣して討たしむ」など日本(倭国)を「貴国」と呼称する記述がある[25]山尾幸久は、これまでの日本史学ではこの「貴国」を二人称的称呼(あなたのおくに)と解釈してきたが、日本書紀本文では第三者相互の会話でも日本のことを「貴国」と呼んでいるため、貴国とは、「可畏(かしこき)天皇」「聖(ひじり)の王」が君臨する「貴(とうとき)国」「神(かみの)国」という意味で、「現神」が統治する「神国」という意識は、百済三書の原文にもある「日本」「天皇」号の出現と同期しており、それは天武の時代で、この神国意識は、6世紀後半はもちろん、「推古朝」にも存在しなかったとしている[26]

 現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている[27]山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして[28]、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている[29]。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある[30][31][32][33][34][35]

倭・倭人関連の朝鮮文献(わ・わじんかんれんのちょうせんぶんけん)は、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭・倭人と関係する部分のみを書き出している。

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倭・倭人関連の朝鮮文献

   
倭・倭人関連の朝鮮文献(わ・わじんかんれんのちょうせんぶんけん)は、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭人と関係する部分のみを書き出している。

好太王碑文

好太王碑文(414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉9月29日 (旧暦))建立)
  • 391年辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
    • そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
  • 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
  • 400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
  • 404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

三国史記(百済本紀)

  • 397年夏五月 倭国と友好関係を結び、太子腆支人質として倭に送った。
  • 402年五月 使者を倭国につかわして、大きなを求めた。
  • 403年春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
  • 405年腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
  • 418年夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
  • 428年倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
  • 608年文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
  • 653年秋八月、王は倭国と修交した。
  • 662年七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。
百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。

三国史記(新羅本紀)

  • 紀元前50年倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
  • 紀元前20年春二月に、瓠公馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめを腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
  • 14年倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
  • 57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。)
  • 59年夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
  • 73年倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
  • 121年夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
  • 123年春三月に倭国と講和した。
  • 158年倭人が交際のために訪れた。
  • 173年倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
  • 193年倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。
  • 232年夏四月に倭人が金城を包囲。
  • 233年五月 倭兵が東辺を攻めた。
  • 249年夏四月に倭人が舒弗邯于老を殺した。
  • 287年夏四月に倭人が一礼部を襲う。
  • 289年夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
  • 292年夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
  • 294年夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
  • 295年春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
  • 300年春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
  • 312年春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡急利の娘を倭国に送った。
  • 344年倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
  • 345年二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
  • 346年倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
  • 364年倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
  • 393年倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
  • 402年三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣人質として倭に送った。
  • 405年倭兵が明活城を攻める。
  • 407年春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
  • 408年春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、兵器・武具・資財・食糧を貯え、我が国を襲撃することを企てているとの情報を手に入れた。倭兵が出動する前に、精兵を選んで兵站をしようと考えたが、舒弗邯の未斯品曰く「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません」王はこの意見に従った。
  • 418年高句麗と倭国への人質(未斯欣)が逃げ帰った。
  • 431年倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
  • 440年倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
  • 444年夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
  • 459年夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
  • 462年夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
  • 463年倭人が歃良城梁山)を攻めるも勝てずして去った。
  • 476年倭人が東辺を攻める。
  • 477年倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
  • 482年五月に倭人が辺境を攻める。
  • 486年夏四月に倭人が辺境を攻める。
  • 500年春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
  • 663年倭国の水軍が来て、百済を助ける。
  • 670年十二月 倭国が国号日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。

三国史記(列伝)

  • 任那強首伝「臣、もと任那加良の人。名は字頭。」
  • 233年助賁王の四年の七月に、倭人が侵攻して来たので、于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。
  • 253年倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に訖解尼師今(十六代王)になった。未鄒王(十三代王)の代に倭国の大臣が来た時、于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。
  • 402年壬寅の年に、倭国と和親を結ぶ時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人質としてつかわした事をうらんでいたので、その恨みをその子ではらそう思っていた。それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣を倭国に派遣した。


三国遺事

  • 390年第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる

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【日本史】飛鳥①仏教伝来と蘇我氏・物部氏




飛鳥時代

   
日本の歴史
  飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる。

  狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
この時代に倭国(倭)から日本国号を変えたとされている。

名称

  現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に、美術学者の関野貞岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用。大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。


イメージ 1

概要

推古朝

 538年宣化天皇3年)に、百済聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年用明天皇2年)、天皇の仏教帰依について物部守屋蘇我馬子が対立。後の聖徳太子蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。
 物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。
 588年崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
 592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒を遣い、崇峻天皇を暗殺すると、日本初の女帝となる推古天皇を立てた。
 593年(推古天皇元年)、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となったという。
 603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。
法隆寺金堂(西院伽藍)

 607年(推古天皇15年)、小野妹子らを遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。
 620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。

 国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、大和政権の地方行政的な性格を持つものである。

 推古天皇29年(621年)に摂政であった厩戸皇子が、同34年(626年)には蘇我馬子が、さらに、推古天皇は36年(628年)に没す。36年間の長期に渡った日本歴史上初めての女帝の時代が終わる。

舒明・皇極朝

 聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは、舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に舒明天皇を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。
 舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。

孝徳朝

 645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。
 新たに即位した孝徳天皇は、次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣右大臣内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、(こおり)の制を定める[1]650年白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。

天智朝

 孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位には就かず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。
 663年(天智天皇2年)、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。


わかる歴史【飛鳥時代】白村江の戦い  





 664年(天智天皇3年)、筑紫大宰府を守る水城を造り、対馬隠岐筑紫に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、百済人2000余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれている。

 668年(天智天皇7年)に、皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。
670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。

天武・持統朝

 天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

 672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

 681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年朱鳥元年)に、天武天皇は没する。8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。

 人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

 694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。

 持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。

 中央行政組織太政官神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国・郡・里制が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

 文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年和銅3年)に、平城京遷都した。

飛鳥・白鳳文化

年表

宝塚古墳 (松阪市)

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宝塚古墳 (松阪市)

   
松阪市文化財センター・はにわ館に展示される船形埴輪
宝塚古墳(たからづかこふん)は三重県松阪市にある古墳。1号墳と2号墳の2基が現存している。

  1. 文化情報 >

  1. 宝塚古墳公園 >

  1. ようこそはにわの世界へ >

  1. 宝塚1号墳から出土した日本最大の船形埴輪

宝塚1号墳から出土した日本最大の船形埴輪

お問い合わせ先電話番号:0598-26-7330
公開日:2012年6月1日

日本最大、唯一立体的な飾りをもつ船形埴輪

 宝塚1号墳の発掘調査では、古墳のマツリの場とされる「造り出し」の周囲からたくさんの埴輪がみつかりました。とりわけ、船形埴輪は第一級の埴輪資料の発見として、全国的な話題となりました。
 
船形横 
宝塚1号墳出土 船形埴輪 
 宝塚1号墳の発掘調査でみつかった船形埴輪は、ほぼ完全な形で復元することができました。船形埴輪は、大阪府や奈良県をはじめとして全国各地でみつかっています。しかし、宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ90cm、最大幅25cmと、これまでにみつかっているものの中では最大規模のものです。
 さらに特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾がほどこされていることがあげられます。船首と船尾には、権威を象徴する複数の鰭(ひれ)状突起で飾られています。また、船体中央には同じく権威を象徴する蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘、王のもつ杖とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀(たち)が立てられていました。このような装飾がほどこされた船は、古墳石室に描かれた壁画、円筒埴輪に描かれた線画で知られていましたが、立体的な形で確認されたのは、今回が初めてとなります。この発見は、古代の葬送儀式で使われた船は権威を示す様々な品物を船上に立てて飾る風習を立体として表現したものとして、学術的に最高水準の資料であると評価されています。
船形各部位
船形埴輪  各部分の名称
 
  この船形埴輪をくわしく観察すると、表面のくぼみに赤色の塗料(ベンガラ)が残っていることがわかりました。このことから、造られた当時の船形埴輪は赤色に塗られていたと考えられます。昔から、赤色には「神聖なものを護り、邪悪なものを退ける」力があると考えられていました。船形埴輪に塗られた赤色は、宝塚古墳に葬られた人物の魂が何者にもじゃまされず黄泉(よみ)の国【死後の世界】へ旅たつことができるようにとの願いが込められていたのかもしれません。
 
線画 東殿塚 
   【参考資料】東殿塚古墳(奈良県天理市)から出土した 円筒埴輪に描かれた船(トレース図)

 埴輪からかいまみる古墳時代の船

 大木を半分に割って中をくりぬいた、丸木舟と呼ばれる船は、縄文時代から使われていました。弥生時代になると、丸木舟を土台としてその上部に部材を足して大型化を図った「準構造船」が造られるようになりました。
 宝塚古墳が造られた、およそ1600年前の古墳時代中期にも準構造船が使われていました。この船は、大きな波も乗り越えられるように船首と船尾が大きくせりあがった形をしており、波の荒い外海での航海も可能でした。船を進める艪(ろ)を差し込むピボットは、左右3対ずつ計6ヵ所あり、艪穴は一定方向に開けられており、船が進む方向もわかりました。ただし、宝塚1号墳の船は船首・船尾のせりあがりが極端であること、ピボットの数が少ないこと、船体中央に立てられた飾りも大きくつくられていることなどから、実際の船の形を忠実に再現したものではありませんが、当時使われていた船の構造などを研究する上で貴重な資料であるといえるでしょう。
 準構造船

「船形埴輪」をはじめとする宝塚1号墳出土品が国重要文化財に指定されました

  国の文化審議会は、平成18年3月17日に開催された「文化審議会文化財分科会」の審議を経て、「宝塚1号墳出土品」を重要文化財に新規指定することについて文部科学大臣に答申、平成18年6月9日、文部科学省告示第79号により船形埴輪をはじめとする宝塚1号墳出土品は、一括して国重要文化財に指定されました。
 170点からなる宝塚1号墳出土品は、伊勢地域最大の前方後円墳である国史跡  宝塚1号墳(全長111m)の墳丘及び造り出しから、当時の埴輪配列の全体像を保った良好な状態で出土しました。とりわけ、大型の埴輪船は、立体的な立ち飾りをもつ他に類例のないものであり、美術的にも大変優れた造形物です。これらの出土品は、古墳時代における首長の葬送儀礼を考えるうえで重要な意味を持つ埴輪資料です。さらに、遺物包含層から出土した埴輪・土器・土製品101点が附(つけたり)として加えられた結果、合計271点が国重要文化財の指定をうけました。
  三重県宝塚一号墳出土品 (271点)  平成18年6月9日指定
  一、埴輪船        一点
  一、埴輪       百十九点  (以上 造り出し出土)
  一、埴輪         五十点  (以上 墳丘出土)
    附  埴輪        九十点
     土器・土製品 十一点  (以上 包含層出土)
 その後、国重要文化財「宝塚一号墳出土品」のうち、家形埴輪は解体修理の結果員数変更が生じ、平成23年3月18日の文化庁通知を経て、点数が下記のとおり276点に改められました。
  三重県宝塚一号墳出土品 (276点)  平成23年6月27日員数変更
  一、埴輪船        一点
  一、埴輪       百十九点  (以上 造り出し出土)
  一、埴輪         五十点  (以上 墳丘出土)
    附  埴輪      九十五点
     土器・土製品 十一点  (以上 包含層出土)
 囲形集合 家形 蓋形 甲冑 盾集合
   重要文化財に指定されたさまざまな埴輪(左から順に 囲(カコイ)形、家形、蓋(キヌガサ)形、甲冑(カッチュウ)形、盾形)
   柱状 壷形 壷形(二重口縁) 円筒
   重要文化財に指定されたさまざまな埴輪(左から順に 柱状、壷形、二重口縁壺形、円筒) 
 
  船形埴輪をはじめとする「宝塚1号墳出土品」は、松阪市民だけでなく国民全体の貴重な宝・財産として、後世まで大切にまもり伝えていかなければなりません。
 現在、宝塚1号墳出土品は松阪市文化財センターで収蔵され、その一部は博物館施設「はにわ館」で公開しています。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。

はにわ館へのアクセス

●松阪駅から
 鈴の音バス「市街地循環線 左回り」乗車 約10分 『市民文化会館』下車すぐ
 三重交通バス「松阪中央病院行き」乗車 約10分 『文化会館』下車徒歩5分
 タクシー 約10分
■伊勢自動車道松阪インターから
 車で約10分

地図情報

 

1号墳

宝塚古墳1号墳所在地位置形状規模築造年代被葬者出土品史跡指定
Takaraduka-1go-fun 01.JPG
宝塚古墳1号墳
三重県松阪市宝塚町・光町
北緯34度32分59.63秒
東経136度30分55.38秒
前方後円墳
全長111m
5世紀初頭
伝・乙加豆知命
埴輪ほか(国の重要文化財
1932年(昭和7年)国の史跡
テンプレートを表示
この地の豪族であった飯高氏の祖先の乙加豆知命(おとかずちのみこと)の墓とする説がある。墓の北西約1キロメートルにある阿形を本拠地とした飯高氏は、大和朝廷に接近することで繁栄したと考えられている。平安時代には衰退したものの、松阪市飯高町にその名を残している。
松阪市と松阪市教育委員会を主体として1999年(平成11年)6月 - 2000年(平成12年)3月に発掘調査が行われた。調査結果を以下に列記する。
  • 調査前は100メートルと考えられていた全長が111メートルであることが確認された。伊勢地方(旧伊勢国)最大である。
  • 古墳時代中期初頭(5世紀初頭ごろ)の築造の首長墓であると考えられる。
  • 墳丘は前方部を東に向けて造成されている。この前方部の北側には、祭事の場であったと考えられている方形台状の「造り出し」が設けられ、「造り出し」と前方部の間を繋ぐ橋状の通路が日本で初めて確認された。この通路は「土橋(どばし)」と呼ばれている。この「造り出し」部と土橋の周囲で円筒埴輪列と多くの形象埴輪が出土した。
  • 畿内以外の地域では珍しく円筒・朝顔形の円筒埴輪、船形・盾形・家形・靫形・囲形・甲冑形・蓋形・大刀形などの豊富な種類の形象埴輪が出土した。
対岸にあたる三河湾愛知県西尾市正法寺古墳も本古墳と類似した形状をしており、両古墳は、伊勢湾、三河湾などの水上交通で覇権を得て、強大な勢力を有した関西系豪族により作られたものとみられる[2][3]

船形埴輪

この調査で土橋の西側から出土した船形埴輪は、全長140センチメートル、高さ90センチメートルとそれまでに出土した中では日本最大であると同時に独特の装飾がなされていたため第1級の埴輪資料であるとされ、2006年(平成18年)6月9日に他の1号墳からの出土品と併せて国の重要文化財に指定された。指定対象は造り出し付近出土の埴輪120点(船形埴輪を含む)と墳丘出土の埴輪50点であり、包含層出土の埴輪90点と土器11点が附(つけたり)指定となっている[4]。この発掘調査ののち、当時を想定し埴輪の模型を並べるなどの整備が行われ、2005年(平成17年)4月27日に「宝塚古墳公園」となり一般に公開されている。

2号墳

宝塚古墳2号墳所在地位置形状規模築造年代出土品史跡指定
Takaraduka-2go-fun 01.JPG
宝塚古墳2号墳
三重県松阪市宝塚町
北緯34度33分3.78秒
東経136度30分54.75秒
帆立貝式古墳
全長90m、高さ10.5m
5世紀
埴輪
1932年(昭和7年)国の史跡
テンプレートを表示
1号墳の北に位置する全長90メートルの前方後円墳である。前方部が極端に小さいため帆立貝式古墳と呼ばれる。1号墳より後に築造されたと考えられている。当初は円墳とみなされていたが、のちに帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。1号墳と同様、1932年に国の史跡に指定されたが、墳丘が史跡指定範囲外にも広がっていることが判明したため、1978年に指定範囲を拡大して国の史跡に追加指定された。
後円部は径89メートル、高さ10.5メートルで、前方部は幅約40メートル、長さ17メートル、高さ2.9メートルである。2号墳も周囲に埴輪が並べられていたことが確認された。墳丘の一部が当初史跡として指定した範囲外に及んでいたため、1969年(昭和44年)に一部が宅地として造成されたり、前方部が道路になってしまうなどの損傷を受けている。

1970年にカンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生した。

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アジア

カンボジア王国国旗
カンボジア王国
Kingdom of Cambodia

平成28年4月4日
  • カンボジア王国地図

リンク



カンボジア

   
カンボジア王国
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
カンボジアの国旗カンボジアの国章(画像無し)
国旗(国章)
国の標語:CambodiaMotto.svg
(クメール語:国民、信仰、国王)
国歌素晴らしき王国
カンボジアの位置
公用語首都最大の都市通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
クメール語
プノンペン
プノンペン
政府
国王首相
ノロドム・シハモニ
フン・セン
面積
総計 水面積率
181,035km287位
2.5%
人口
総計(2013年人口密度
15,135,000人(68位
81.8人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2013年
62兆5,592億[1]リエル
GDP (MER)
合計(2013年
157億[1]ドル(114位
GDP (PPP)
合計(2013年) 1人あたり
397億[1]ドル(102位
2,576[1]ドル
独立
フランスより
1953年11月9日
リエル (KHR)
UTC +7(DST:なし)
KH / KHM
.kh
855

  カンボジア王国(カンボジアおうこく、クメール語: ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា)、通称カンボジアは、東南アジアインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家ASEAN加盟国、通貨はリエル、人口1,513万人、首都はプノンペン
  1970年カンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生した。

  南はタイランド湾に面し、西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接する。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教上座部仏教)を奉ずるクメール人カンボジア人)である。

国名

 正式名称は、クメール語ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プレアは王の称号。リアチアは王、ナーチャックは国で、両方合わせたリアチアナーチャックは王国と言う意味。隣国のタイの正式名称とよく似ている。

 公式の英語表記は、Kingdom of Cambodia(キングダム・ァヴ・カンボゥディア)。略称は、Cambodia

 日本語表記は、カンボジア王国、通称は、カンボジア。漢語表記柬埔寨広東語発音でGan-pou-chia[k],北京語発音でJien1-puu3-chai2)。カンボジアでは自分の国を「カンプチャ」と呼んでいて、建国者といわれるインドバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来するとされる。
 カンボジア華人の間では、高棉(漢語発音でGāo-mián)と呼ぶ人もいる。

有史以前

古代

扶南王国

中国の書物によると、1世紀ごろ、ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯に跨る地域に扶南(フナン)という王国があった。1942年フランス人考古学者ルイ・マルレフランス語版によって、ベトナム南部アンザン省バテ山とその付近の港市跡オケオから、装身具や交易品多数が発掘された。当地の後背地では後期新石器時代から人々が居住していた。プレ・オケオ文化の土器や遺跡がアンザン省ゴーカイトゥン遺跡やロンアン省付近の遺跡から発見されており、そこから西方に拓かれていたカンボジア平原まで人々が居住し、往来があった。
3世紀までは未開の地であったが、インドと中国の中間地点にある水路の要衝に位置していたため外国文化が流入し、商業国家として繁栄した。稲作が発達していた。

真臘王国

6世紀には、カンボジア国家の起源とみなされている国、すなわち中国史料にいう北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興した。この国は扶南の属国であったが、7世紀には扶南を滅ぼし、さらに真臘王イシャーナヴァルマン1世フランス語版611年-635年)に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、ラヴォー王国英語版ロッブリーに出来た。[1]
真臘王国はジャヤーヴァルマン1世フランス語版(657年 - 681年)の治世の頃に最大となった。インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用したが、クメール文字も使われ始めた。真臘は、現在のカンボジアとラオス南部、つまりメコン川流域を領土としていたと推測されている。

シャイレーンドラ朝

しかし、ジャヤーヴァルマン1世の死後、古代カンボジアは、中国の記録に見える北の陸真臘(現在のラオスチャンパーサック県)と南の水真臘に分裂し弱体化し、8世紀には水真臘がシャイレーンドラ朝ジャワ王国の支配下に入った。シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、扶南のプノン(山)と関係があり、シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で、扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。

中世

クメール王朝

クメール王朝
シャイレーンドラ朝からの独立は、ジャヤーヴァルマン2世英語版(802年 - 854年)により行われた。ジャヤーヴァルマン2世はプノン・クレン丘陵の頂上で即位[2]を行い、シャイレーンドラ朝からの解放を宣言した。これがアンコール王朝(クメール王朝)の始まりである。9世紀の末、ヤショーヴァルマン1世(889 - 910年頃)がアンコールに新都城「ヤショーダラプラ英語版[3](889-1190)を築いた。このときの勢力範囲は、現在の東北タイ地域まで広がっていた。その後何代かの王が続くが、勢力争いや逝去で、どの王朝も長くは続かなかった。
1113年スールヤヴァルマン2世が即位し、国内各地の敵対勢力と戦い国内を統一、国外においても西方のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人と戦い、南隣のチャンパ王国や東隣の李朝へ攻め入った。王国の範囲は、タイ中部、マレー半島ベトナム南部に及び、また、彼は寺院建築にも熱心で、クメール美術の最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノンバンテアイ・サムレBanteay Samré)などのヒンドゥー教寺院を建築した。この王の治世も平穏安泰ではなかった。1150年頃死去した。
スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り争いが続いた。さらに1177年には、チャンパ王国の大軍が都であったヤショーダラプラを破壊した。
タ・プローム
1181年、チャンパに遠征していたジャヤーヴァルマン7世が帰国し、即位した。彼は粘り強く国づくりを進め、1190年には宿敵チャンパを降伏させた。また、8メートルの高さの堅固な城壁の「輝ける新都城」アンコール・トム(1190-1431)を都として造成した。アンコール王朝の最盛期であった。熱心な大乗仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨンを建設し、バンテアイ・クデイBanteay Kdei)、1186年にタ・プローム(僧院)、1191年にプリヤ・カーンなどの仏教寺院を建設した。

 また、ジャヤーヴァルマン7世は、国内に102箇所の病院と主要街道に宿場を建設し、庶民の生活も重視した。しかし、大規模な寺院建設と領土獲得の遠征のため、死後(1220年)は国力が衰退していったと考えられている。その後、インドラヴァルマン二世、ジャヤーヴァルマン8世(1243-1295)が継いだ。1283年クビライモンゴル帝国の軍がアンコール・トムに侵攻した。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。この治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン三世英語版がジャヤーヴァルマン8世を殺害し、王位に就いた。
13世紀にはいるとの侵攻が始まり、後半からは、シャム(アユタヤ王朝)の侵攻が始まった。

カンボジアの暗黒時代

スレイ・サントー(1431年 - 年)

1431年、シャムの度重なる侵攻により、首都アンコールが陥落し、栄光の時代は終わりを告げた。時の王ポニャー・ヤットはアンコール・トムからコンポンチャム州スレイ・サントー英語版に遷都し、シャム(現在のタイ)に近いアンコールを含むトンレサップ湖の北部を放棄した。その後、首都は転々とした。

プノンペン(年 - 1553年)

スレイ・サントーは河川の氾濫があまりにたびたび起こるのでプノンペンへ再遷都した。西洋の資料としては、1511年のポルトガル人による手記に記されるプノンペンがカンボジアについての最初の記録である。既に日本人との貿易が始まっていたことが記されている。

ロンヴェク(1553年 - 1618年)


1世紀ごろ、ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯に跨る地域に扶南(フナン)という王国があった

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有史以前

古代

扶南王国

 中国の書物によると、1世紀ごろ、ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯に跨る地域に扶南(フナン)という王国があった。1942年フランス人考古学者ルイ・マルレフランス語版によって、ベトナム南部アンザン省バテ山とその付近の港市跡オケオから、装身具や交易品多数が発掘された。当地の後背地では後期新石器時代から人々が居住していた。プレ・オケオ文化の土器や遺跡がアンザン省ゴーカイトゥン遺跡やロンアン省付近の遺跡から発見されており、そこから西方に拓かれていたカンボジア平原まで人々が居住し、往来があった。
 3世紀までは未開の地であったが、インドと中国の中間地点にある水路の要衝に位置していたため外国文化が流入し、商業国家として繁栄した。稲作が発達していた。

扶南国の地図
驃国(Sri Ksetra)
ドヴァーラヴァティー
扶南(Fou-Nan)
チャンパ

真臘王国

6世紀には、カンボジア国家の起源とみなされている国、すなわち中国史料にいう北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興した。この国は扶南の属国であったが、7世紀には扶南を滅ぼし、さらに真臘王イシャーナヴァルマン1世フランス語版611年-635年)に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、ラヴォー王国英語版ロッブリーに出来た。[1]

 真臘王国はジャヤーヴァルマン1世フランス語版(657年 - 681年)の治世の頃に最大となった。インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用したが、クメール文字も使われ始めた。真臘は、現在のカンボジアとラオス南部、つまりメコン川流域を領土としていたと推測されている。

チャンラの位置
真臘の位置

シャイレーンドラ朝

 しかし、ジャヤーヴァルマン1世の死後、古代カンボジアは、中国の記録に見える北の陸真臘(現在のラオスチャンパーサック県)と南の水真臘に分裂し弱体化し、8世紀には水真臘がシャイレーンドラ朝ジャワ王国の支配下に入った。シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、扶南のプノン(山)と関係があり、シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で、扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。

中世

クメール王朝

クメール王朝

 シャイレーンドラ朝からの独立は、ジャヤーヴァルマン2世英語版(802年 - 854年)により行われた。ジャヤーヴァルマン2世はプノン・クレン丘陵の頂上で即位[2]を行い、シャイレーンドラ朝からの解放を宣言した。これがアンコール王朝(クメール王朝)の始まりである。9世紀の末、ヤショーヴァルマン1世(889 - 910年頃)がアンコールに新都城「ヤショーダラプラ英語版[3](889-1190)を築いた。このときの勢力範囲は、現在の東北タイ地域まで広がっていた。その後何代かの王が続くが、勢力争いや逝去で、どの王朝も長くは続かなかった。

 1113年スールヤヴァルマン2世が即位し、国内各地の敵対勢力と戦い国内を統一、国外においても西方のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人と戦い、南隣のチャンパ王国や東隣の李朝へ攻め入った。王国の範囲は、タイ中部、マレー半島ベトナム南部に及び、また、彼は寺院建築にも熱心で、クメール美術の最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノンバンテアイ・サムレBanteay Samré)などのヒンドゥー教寺院を建築した。この王の治世も平穏安泰ではなかった。1150年頃死去した。

 スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り争いが続いた。さらに1177年には、チャンパ王国の大軍が都であったヤショーダラプラを破壊した。
タ・プローム

 1181年、チャンパに遠征していたジャヤーヴァルマン7世が帰国し、即位した。彼は粘り強く国づくりを進め、1190年には宿敵チャンパを降伏させた。また、8メートルの高さの堅固な城壁の「輝ける新都城」アンコール・トム(1190-1431)を都として造成した。アンコール王朝の最盛期であった。熱心な大乗仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨンを建設し、バンテアイ・クデイBanteay Kdei)、1186年にタ・プローム(僧院)、1191年にプリヤ・カーンなどの仏教寺院を建設した。

 また、ジャヤーヴァルマン7世は、国内に102箇所の病院と主要街道に宿場を建設し、庶民の生活も重視した。しかし、大規模な寺院建設と領土獲得の遠征のため、死後(1220年)は国力が衰退していったと考えられている。その後、インドラヴァルマン二世、ジャヤーヴァルマン8世(1243-1295)が継いだ。1283年クビライモンゴル帝国の軍がアンコール・トムに侵攻した。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。この治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン三世英語版がジャヤーヴァルマン8世を殺害し、王位に就いた。

 13世紀にはいるとの侵攻が始まり、後半からは、シャム(アユタヤ王朝)の侵攻が始まった。

カンボジアの暗黒時代

クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを

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クメール王朝

   
クメール王朝
អាណាចក្រខ្មែរ
真臘802年 - 1431年カンボジアの暗黒時代
:en:Longvek
阮朝
クメール朝の位置
900年頃のクメール王朝の版図(赤)
公用語首都
クメール語
ハリハラーラヤ英語版(802-889) 
ヤショーダラプラ英語版(889-928)
チョック・ガルギャー(928-944)
ヤショーダラプラ英語版(944-1190)
アンコール・トム(1190-1431)
国王
802 - 850 889 - 900 1002 - 1050 1113 - 1150 1181 - 1218
ジャヤーヴァルマン2世英語版
ヤショーヴァルマン1世
スーリヤヴァルマン1世英語版
スーリヤヴァルマン2世
ジャヤーヴァルマン7世
変遷
ジャヤーヴァルマン2世、シャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国からの独立、神聖カンボジア王を自ら名乗る。第一次ヤショーダラプラ陥落第二次ヤショーダラプラ陥落アユタヤ王朝、ヤショーダラプラ占領
802年
1352年1357年
1398年
1431年
カンボジアの歴史
Angkor Wat W-Seite.jpg
この記事はシリーズの一部です。
扶南国 (68–550D)
真臘 (550–802)
クメール王朝 (802–1431)
カンボジア王国英語版 (1431-1863)
フランス領インドシナ (1863–1953)
日本占領時期のカンボジア英語版 (1941–1945)
カンボジア王国 (1953–1970)
1970年クーデター
クメール共和国 (1970–1975)
民主カンプチア (1975–1979)
カンボジア・ベトナム戦争 (1975–1989)
カンプチア人民共和国/カンボジア国 (1979–1993)
カンボジア暫定国民政府/UNTAC/SNC (1991–1993)
カンボジア王国 (1993–現在)
年表

カンボジア ポータル
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クメール王朝(クメールおうちょう、アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアのもととなった国であり、これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。

歴史

802年頃、ジャヤーヴァルマン2世英語版王がシャイレーンドラ朝から解放し、プノン・クレン丘陵で即位した[1]。これがクメール王朝の始まりである。王都はハリハラーラヤ英語版


928年から944年の期間、ジャヤーヴァルマン4世英語版の時代に一時チョック・ガルギャーに遷都していた。

950年頃、スーリヤヴァルマン1世英語版王がラヴォー王国英語版を占領した。1010年から約十年間、ハリプンチャイ王国がラヴォー王国に援軍を送り、ラヴォー王国を再びモン族勢力下に取り戻そうとクメール王朝と何度も争ったが、マレー半島のナコーンシータンマラートのクメール人の王が船でクメール王朝に援軍を派遣したことによりハリプンチャイ王国軍は撤退した。1023年にもクメール軍はハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃した。

1113年スーリヤヴァルマン2世が、西隣のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人、南隣のチャンパ王国や、東隣の李朝と戦い、王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部におよんだ。彼は寺院建築に熱心で、アンコール・ワットアンコール遺跡)、トマノンバンテアイ・サムレピマーイ遺跡などのヒンドゥー教寺院を建築した。

1177年、チャンパ王国の大軍が王都ヤショーダラプラを破壊した。1181年にはジャヤーヴァルマン7世がチャンパ王国に徹底抗戦して王都ヤショーダラプラを奪還し、王として即位。1190年にはチャンパ王国を降伏させた。12世紀から13世紀にかけて、クメール王朝はヴィジャヤ王朝英語版ともしばしば戦争を行った。一時はヴィジャヤ王朝を占領したこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ人兵士の浮彫が残されていることが知られている。12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世の時代に最盛期を迎え、現在のタイ東北部ラオス、およびベトナムのそれぞれの一部をも領有していた。ジャヤーヴァルマン7世はそれまでの王が掲げていたヒンドゥー教ではなく、仏教を信仰し、アンコール・トム(ノーコー・トム)を始めとする一連の仏教寺院を建立した。また、灌漑設備を建設して農業の振興をはかり、強大な勢力となった。
ジャヤーヴァルマン7世が死去して激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立した。

1283年クビライモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年1292年に元朝に朝貢した。宗教的には、13世紀に上座部仏教インドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていた。クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えていった。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン3世英語版が8世を殺害し、王位に就いた。

1351年アユタヤ王朝が近隣のタイで建国された。

1353年、アンコール・トムへ留学していたファー・グム英語版を支援し、ラーンサーン王国が建国された。

1378年、スコータイ王国がアユタヤ王朝に征服された。
14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。

1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落した。

関連項目

扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家

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扶南国

        
扶南国の版図
カンボジアの歴史
Angkor Wat W-Seite.jpg
この記事はシリーズの一部です。
扶南国 (68–550D)
真臘 (550–802)
クメール王朝 (802–1431)
カンボジア王国英語版 (1431-1863)
フランス領インドシナ (1863–1953)
日本占領時期のカンボジア英語版 (1941–1945)
カンボジア王国 (1953–1970)
1970年クーデター
クメール共和国 (1970–1975)
民主カンプチア (1975–1979)
カンボジア・ベトナム戦争 (1975–1989)
カンプチア人民共和国/カンボジア国 (1979–1993)
カンボジア暫定国民政府/UNTAC/SNC (1991–1993)
カンボジア王国 (1993–現在)
年表

カンボジア ポータル
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 扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジアベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教仏教(5世紀以降)の古代国家。


歴史

扶南の起源

 3世紀頃の南京にあったの官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。
 しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。
 後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。629年に完成した梁書によれば、扶南をたてた人物は「徼」(マレー半島かインドネシアの島と言われている)から来た外国人「混塡」(Kaundinya I)である。混塡は土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えると、その子供は七つの町[1]を作ったと伝えられている。
 同様の話は晉書にも伝えられている。4世紀頃からチャンパ王国ミーソン聖域の建設が開始され、扶南滅亡後の658年の日付で同様の話が記録されている。

 インドシナ半島では1世紀ころからインド文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受けていた。ヒンドゥー教が伝わると官僚として多くのインド人が採用され、サンスクリット語が法律用語として使われた。
扶南国の地図
驃国(Sri Ksetra)
ドヴァーラヴァティー
扶南(Fou-Nan)
チャンパ

 扶南はインド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄え、とりわけタイランド湾に面した外港オケオには交易による商品と後背地からの様々な産物が集積され、活況を呈していたと考えられている。

扶南の滅亡

 550年から628年にかけて、扶南と真臘の間に戦争があった。550年頃、扶南は真臘を属国としていた。
 628年に真臘のイシャーナヴァルマン1世フランス語版が扶南を占領し、滅亡した。

民族

 扶南をたてた民族については、従来クメール系と考えられていたが、近年ではオーストロネシア系ともされる。

中国史書による記録

 梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷のなかに記載されている。以下、原文を記し、適宜解説する。

 同伝には、頓遜國、毘騫國などと並んで記述されている。


オーストロネシア語族

オーストロネシア語族
話される地域:東南アジア沿海部、オセアニアマダガスカル台湾
原郷:台湾
言語系統:広範に見られる語族
下位言語:
ISO 639-2639-5:map
Austronesian languages.PNG
東南アジア周辺の言語分布
Oceanic languages.svg
大洋州周辺の言語分布
  アドミラルティ諸島諸語&ヤップ語
  St Matthias
  西大洋州諸語&中部メラネシア諸語
  テモツ諸語
  南東ソロモン諸語
  南大洋州諸語
  ミクロネシア諸語
  フィジー・ポリネシア諸語
黒の円は北西の限界地でスンダスラウェシ諸語パラオ語チャモロ語である。緑の円の中の黒い円はパプア諸語を表している。
オーストロネシア語族の拡散。台湾からフィリピンへ、インドネシアへ、太平洋へと拡散した

 オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。アウストロネシア語族とも。日本語では南島語族とも訳される。

 かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾原住民諸語との類縁性が証明された。この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピンインドネシアマレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。
 ただしパプア・ニューギニアの大部分(パプア諸語)とオーストラリアの原住民の言語(オーストラリア・アボリジニ諸語)は含まない。

概要

 オーストロネシア語族は千前後の言語[1]から構成され、西はマダガスカル島から東はイースター島まで、北は台湾ハワイから南はニュージーランドまでと非常に広く分布している。近代のインド・ヨーロッパ語族の拡大まで、最大の範囲に広がる語族であった。しかし範囲の広さに関わらず言語間の類縁性がきわめて高く、語族として確立している。

 話者が最も多いのはインドネシアで、この国の国語と定められているインドネシア語マレー語をもとにして人工的に作られた言語であるが、各地域にはジャワ語スンダ語マドゥラ語ミナンカバウ語バリ語ブギス語マカッサル語アチェ語などが分布し、インドネシア語はこれらマレー系諸言語の共通語として生まれた。マレー語がインドネシアの共通語となった歴史的背景としては 15 世紀から 16 世紀初頭にかけてマレー半島南岸に繁栄したマラッカ王国の影響が挙げられる。マラッカ王国からイスラームが広がり、その言語が商業用語としても広く用いられたからである。マレーシアの国語はバハサ・マレーシアといい、マレー語を基礎とするものだが、マレーシア語とインドネシア語は 90% 共通する。

 フィリピンの共通語はルソン島南部のマレー系言語であるタガログ語だが、フィリピンも各地域にセブアノ語イロコス語パンガシナン語などマレー系言語が分布している。マレー系言語はインドシナ半島にも分布する。古くからチャンパ王国を建国したチャム族の言語チャム語である。チャンパ王国はベトナムに滅ぼされたが、民族としてのチャム族はベトナム中部からカンボジアに今も存続している。

 アフリカ東部のマダガスカルにまでマレー系言語が分布しているのは驚くべきことだが、これは全く海洋民族であるマレー系民族の移住によるものである。距離が遠く離れているにもかかわらず、マダガスカル語(マラガシー語)とマレー語との言語学的な親縁関係は強いとされる。マダガスカルのマレー系民族は人種的にはアフリカ黒人のバンツー民族混血していて、言語にもその影響が見られる。

 オーストロネシア語族の祖形を残す台湾原住民(中国語では高山族、日本語では高砂族)諸部族の言語はアタヤル語(タイヤル語)群、ツオウ語群、パイワン語群に大別され、このうちパイワン語群に属するアミ語の話者が 10 万人前後と最も多く、その他の言語の話者は数千人以下である。現代の台湾では中国語の影響が強く、原住民言語は消滅する傾向がある。

 太平洋のオーストロネシア語族(海洋系)はニューギニア北部沿岸地域の言語から派生した。メラネシア系とポリネシア系に大別され、前者から後者が派生した。メラネシア系は中部太平洋のソロモン諸島ニューヘブリディーズ諸島バヌアツ)、フィジーなどに分布し、ポリネシア系はアメリカ合衆国のハワイ諸島、チリイースター島サモアトンガニュージーランドに分布する。ニュージーランドのポリネシア系原住民マオリ族の言語がオーストロネシア語族の南限となる。


クメール人

   
クメール人居住地域ベトナムの旗 ベトナムタイ王国の旗 タイアメリカ合衆国の旗 アメリカフランスの旗 フランスカナダの旗 カナダオーストラリアの旗 オーストラリアフィリピンの旗 フィリピンマレーシアの旗 マレーシアニュージーランドの旗 ニュージーランドラオスの旗 ラオスベルギーの旗 ベルギー言語宗教関連する民族
Khmer Traditional Dancing.jpg
(1,600 万人 (2008年))
カンボジアの旗 カンボジア      1,280 万人[1]
170 万人
140 万人
200,000
50,000
25,000
20,000
16,000
11,381
5,000
4,000
3,000
クメール語ベトナム語タイ語
Dharma Wheel.svg上座部仏教
モン族ワ族および他のモン・クメール語派
クメール人(クメールじん)は、カンボジアを中心とする東南アジア民族。カンボジアの総人口の約90パーセントを占めるほか、タイ東北部、ラオス南部、ベトナム南部などにも住む。身体的特徴では一般に、波状の頭髪体毛の多さといった特徴が比較的多く見られるが、皮膚は比較的濃色である。

歴史

 6世紀真臘(後のクメール朝(アンコール朝))を建国し、アンコール・ワットに象徴される壮大なカンボジア文化英語版を築いた。当時の最盛期の人口は100万人以上。アンコール朝は1431年にタイのアユタヤ王朝に侵攻されてであるアンコール・トムを攻略されたのち、転々と

[転載]伊勢・日本の聖地 神域 美しい日本の原風景 目に見えない世界と自然と人間の、調和と継続と循環 新嘗祭 「ご給桑(きゅうそう)」 時空 礼 霊性

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【頑固亭異聞】伊勢・日本の聖地[桜H28/5/23]↓


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【皇室】皇后陛下、恒例の伝統行事「ご給桑」↓

伊勢神宮に世界が注目 「素晴らしい聖地」海外メディアの取材相次ぐ 三重県伊勢市↓


御利益ある? 真っ白なカモシカ↓

元来神社は願掛けするところではなく、禊ぎ、汚れを祓うところ。

転載元: いろこのはとば

日本はアジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。元アムステルダム市長 エドゥアルド・ヴァン・ティン氏

大東亜戦争 東京大空襲 死者数10万人以上 国内各都市の空襲被害状況 研究用 1945. 3. ⒑

歴史年表(日本・朝鮮・シナ・ペルシャ・地中海)

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前漢時代の楚王墓から出土した璧

 璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた[1][2]。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。
 璧の起源は良渚文化まで遡り[3]、当時はと共に神権の象徴として扱われていた[4]。良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、代に再び現れる[5]代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された[1][6]。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している[7]。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ[1]春秋戦国時代代においても装飾性を加えて盛んに用いられた[3]
 北京オリンピックメダルの裏面には、翡翠を使った璧があしらわれた[8]



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大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した

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家康討死伝承

堺市にある南宗寺には「大坂夏の陣茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝を伝えている(『南宗寺史』)。当地にはかつて東照宮もあり、元和9年(1623年)の将軍宣下の折に2代秀忠(7月10日)、3代家光(8月18日)が相次ぎ参詣している。戦災で失われ、現在の「東照宮 徳川家康墓」と銘のある墓標は、かつての水戸徳川家家老裔の三木啓次郎が昭和42年に(1967年)に再建したものだが、墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文も残る。[32]


家康は大坂夏の陣岡山の戦い)で戦死してその後の1年間は影武者であったとする説がある。この説によると、真田信繁(幸村)の奮戦により恐慌状態に陥った家康は、自害すると叫んで部下に誡められ、駕籠に乗せられて逃亡中に後藤基次が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺の寺に運ばれてそこで死亡したとするものである。堺市南宗寺に「家康の墓」と称されるものがあり[8]、その説を裏付けるものとして語り継がれている。南宗寺に徳川秀忠・家光が上洛した際に自ら参拝していることや、東照宮[9]が勧請されていたこともその傍証とされることがある[10]。家康の代役として小笠原秀政が選ばれ、その後、正史で家康が死んだ時期まで影武者として家康を名乗っていたと言われる[11]。作家の加賀淳子は、上記の諸事実を調査した上で小説「消えた矢惣次」(『有情無情』収録)を発表したが、小笠原秀政ではなく百姓の矢惣次としている[12]。この中で矢惣次は河内国吉田村出身で、榊原康政に見出されて関ヶ原以前から影武者を務めていたが、用無しとなり毒入り天ぷらで殺されたという。

[転載]先島諸島の歴史

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先島諸島

   
地理 場所 座標 諸島 島数 主要な島 面積 最高標高 最高峰 所属国都道府県市町村最大都市 人口統計 人口 人口密度
先島諸島
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NASAによる撮影(2015年7月30日)
先島諸島の位置(南西諸島内)
先島諸島
宮古島
宮古島
石垣島
石垣島
那覇市
那覇市
与那国島
与那国島
魚釣島
魚釣島
先島諸島 (南西諸島)
先島諸島(尖閣諸島を含む)の位置
東シナ海太平洋
北緯24度00分 - 26度00分
東経122度45分 - 125度45分
南西諸島
44島(うち20島は有人島)[1]
西表島(289.27km²)[2]
石垣島(222.63km²)[2]
宮古島(159.25km²)[2]
818.45 km2 (316.01 sq mi)
国土地理院、2010年10月1日現在)[2]
526 m (1,726 ft)[3]
於茂登岳[3]
沖縄県
宮古島市石垣市
宮古郡多良間村
八重山郡竹富町与那国町
宮古島市 (人口 52,039人[4])
105,708人
国勢調査、2010年10月1日現在)[4]
129.2 /km2 (334.6 /sq mi)
先島諸島(さきしましょとう)は、日本南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。



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歴史

復元された首里城
沖縄県の歴史年表



沖縄諸島先島諸島
旧石器時代先島
先史時代
貝塚時代


グスク時代
三山時代
北山中山南山



第一尚氏王統
第二尚氏王統

薩摩藩支配)

沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
主な出来事
関連項目
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近代以前


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先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
  約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。 1609年、徳川幕府の了解を得た薩摩藩島津氏による琉球王国に侵攻し、服属した琉球王を徴税代理人として年貢を徴収した。琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入した。

近代

明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。しかし、清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。日本は台湾先住民による琉球人殺害宮古島島民遭難事件の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった。この事件は、1871年(明治4年)、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾先住民によって殺害されたものである。

1879年(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置(琉球処分)するが、との間に琉球の領有権問題が発生し、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし八重山諸島宮古島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。清も一度は応じ仮調印したが、「清は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで、清と冊封関係を維持したままの琉球王国を再興させる」という李鴻章の意向によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。琉球再興に動かない清の態度に抗議した脱清人名城春傍(林世功)の自害もこの時のことである。日清戦争の結果、旧琉球王国領の全域が日本領であることを清は事実上認めざるを得なくなった。

政府による近代化は本土や沖縄本島よりもかなり遅れ、人頭税を中心とした王国の制度は20世紀初頭まで温存された。また1937年まで日本標準時より1時間遅い西部標準時が適用されていた。

転載元: 海洋文化交流のブログ

[転載]超古代文明173 伊勢の夫婦岩1-9「大注連縄張神事」『日本は世界文明の発祥地』竹取翁博物館(国際かぐや姫学会) 2016.5.5

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【YouTube】https://youtu.be/n5EWVxk1Ei0
伊勢志摩 二見興玉神社の夫婦岩3「大注連縄張神事」開催日 2016年5月5日(木) 10:00~
夫婦岩の大注連縄(おおしめなわ)は年に3回張り替えられている。 (5月5日・9月5日・12月中旬土日曜日) 夫婦岩は、二見興玉神社の御祭神・猿田彦大神縁りの興玉神石(夫婦岩の沖合約700M先にある霊石)と日の大神を遙拝する鳥居の役目。
◆「日本の夜明け」と題して竹取翁博物館と国際かぐや姫学会が究明!した物を列記する。
1. ムー大陸と邪馬台国は徳之島「ノア箱舟・エデン園」
2. 日本最古の『竹取物語』かぐや姫は「京田辺」 
3. 『竹取物語』作者は空海。姫誕生はイエスの復活
4.『記紀』は偽文書で『竹内文書』が正当と判明!
5.『記紀』『17条の憲法』は藤原不比等が書いた
6. 聖徳太子は物部氏(法隆寺)でペルシャ方面の人
7. 超古代「日本は世界の中心」世界最古文明だった
8. 古代日本は世界16国を統治、その後「里帰り」
9. ムー大陸・五色人・10部族は、日本が統治!
10. 日本「神代文字」世界最古、世界4代文明はウソ
11.日本のピラミッドは世界最古! エジプトへ伝わる
12.世界最古文字は、日本の「ペトログラフ」と判明
13.封印されていた「十種神宝」の物部氏と徐福
13.神道から世界宗教へ、御輿はユダヤのアーク
14.イエス・モーゼ・釈迦…は、日本に来て教え請う
15.ムー大陸「沖縄(海底神殿)ハワイ・モアイ(火山)」
16.シュメール文明は日本人が作り、文字は神代文字
17.スメラ命が世界16国を統治、証拠は「菊16紋章」
18.出雲大社の神殿は、「ジックラシオ」だった!
19.ペルー・メキシコ・タヒチ…は、モンゴロイド人
20.日本ユダヤ同祖論、逆S字紋は古モンゴロイド人
「竹取翁博物館」「国際かぐや姫学会」http://taketori.koiyk.com/
 竹取翁博物館本館https://goo.gl/maps/aAKkFeg3PaT2

【内容項目】かぐや姫 誕生シーン キリスト誕生 聖書 イエスの復活 作者空海 奈良 大安寺 海外 僧侶 中国 サンスクリット ゾロアスター教 ヘブライ語 勉強 遣唐使 古神道 三教指帰 竹取物語 空海 竹取翁博物館 竹ノ内文書 物部 空海 徐福 古神道 シュメール ギルガメシュ イスラエル12 ユダヤ人 レビ族 大伴氏 佐伯氏 物部氏 加茂氏 賀茂氏 陰陽道 弓月君 キリスト教 新約 旧約 竹取翁博物館 竹取翁博物館 ヒンズー教 佛教 神道 拝火教 ゾロアスター教 密教 景教 原始キリスト教 道教 儒教 訪問 国際都市 長安 遣唐使 派遣 弓月君 大秦寺 原始キリスト教 景浄 復活 竹取翁 博物館 ガンジー ブッダ マザーテレサ ラーマーヤナ 縄文人 石器人 徐福 秦の始皇帝 ペトログラフ 階段式ピラミッド ナスカ地上絵,UFO,卑弥呼,銅鐸,弥生時代,南太平洋,世界最古 神々ゲーム,異星人,遺伝子工学,マヤ文明,インカ帝国,奴隷,DNA,核兵器,大西洋の謎(Bermuda)バミューダ ゾロアスター ,古事記の謎 出雲大社 戦争 GOD,古代ギリシア人,爬虫類 悪玉,シュメール文明,土偶,地球,出雲、諏訪、宝巖寺、大蛇の国々,鳥頭人間,計画都市,支配者,ダビンチ,エイリアン基地,ミケランジェロ疑惑,ライン理論,ガンダーラ仏ギリシア像,兵馬俑兵士,UFO目撃報告,縄文文明は環太平洋文明の発祥地,北朝鮮 普賢寺 籠宮 元伊勢神社 楊貴妃と熱田神宮 ロシアに墜落 小惑星 イースター島 モヘンジョダロ謎線,イスラムの謎 Islam 神々の幾何学,聖徳太子の正体,ヤンシャオ,謎の石画,縄文土器,長頭人間,アマテラス,フリーメーソン ヨーロッパ,,宇宙人 与那国島,レプティリアン,謎の巨石,アポロ,マレーシア航空機,ナチス・ドイツ,古墳,釈迦哲学,地図,謎の物体X,猿石はエンリル,エホバ,トーンヘンジ,イースター島モアイ,スコットランドの縄文土器,ビィーナス

転載元: 学生・民俗・経済

[転載]竹富島・町のあゆみ

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歴史

 竹富島の出土品でもっとも古いものはカイジ浜遺跡の貝塚で紀元1000年頃と推定される。竹富町の史跡に指定されている島東北部の新里村遺跡からは陶磁器の破片や穀物の種子、石積みの跡が出土している。年代は竹富島最古の井戸といわれる花城井戸(ハナックンガー)を境に東側が12世紀頃、西側が14世紀から15世紀頃と推定される。
 竹富島中世の遺構として石積の状態も良好とされている花城・久間原遺跡は15世紀から16世紀頃と推定される。現在は茂みに覆われてその遺構は見学することはできない。

オヤケアカハチ  オープニング


 竹富島では、1500年のオヤケアカハチ戦争の際、宮古軍の総大将であった仲宗根豊見親が東集落南東部にある小高い丘に城を築いたと伝えられている。その地はトゥールングックと呼ばれ、豊見親の掘り当てた井戸をトゥンナーカーと云われている。
 また、そのオヤケアカハチ戦争の際に島の偉人として敬愛されている西塘は、首里王府軍の総大将であった大里親方に首里に連行されたと伝えられており、やがて西塘は石工として大成しその名を知られるようになった。首里城に建立されている園比屋武御嶽石門の扁額によると、園比屋武御嶽石門は1519年に竹富島の西塘が建立したとある。

  西塘は、1524年頃に琉球王国第二尚氏王朝第3代国王である尚真王より八重山の頭職である竹富大首里大屋子(たけとみうーしゅりうーやく)の官位を授かり、竹富島のカイジ浜に蔵元(行政府)を置き、八重山を統治すると伝えられている。


オヤケアカハチの乱   

遠弥計赤蜂の像(石垣市大浜)
  遠弥計赤蜂の乱(オヤケアカハチの乱)は、1500年に八重山島大浜村[1](現在の石垣市大浜)の豪族オヤケアカハチ[2]と、琉球王国尚真王代)との間で行われた戦争である。琉球が勝利し、赤蜂を殺害した。

原因

  琉球の正史[3]は、攻撃の理由として2点を挙げている。曰く、八重山は洪武年間より毎年朝貢していたがこの2、3年間断った。おまけに宮古を攻めようとした。だからこっちから攻めた。そして諸史料は一致して、八重山の朝貢が断たれたのは、大浜の赤蜂が謀叛したせいだと述べている。八重山の誰が毎年朝貢していたのかは不明である。

  当時の宮古の最有力豪族は空広(ソラビー。いわゆる仲宗根豊見親)であった。家譜に曰く、「宮古の民俗は争いを好んだ。空広は考えて、これは米粟が豊饒なためである。主国に賦税をお願いして年貢を納めよう。こうして命令を請うて役人を置き、諸村に人頭税[4]を定めたところ、農業を怠らなくなった。このとき空広は八重山に航し、八重山の酋長に諭して曰く、相共に附庸の職分を守り、年々貢物の員数を定め、琉球に朝見し、臣子の忠誠を尽くそうとする意志を述べよう[5]」この時、大浜のアカハチ兄弟は同意せず、かえって宮古島を襲おうとしたので、琉球に訴えたとする。

 これは毎年朝貢していたという先の記述とは、さしあたって矛盾する。誰を指して八重山の酋長と述べているのかは不明である。

 稲村賢敷は、以上の「空広が諸村に税制を定め、中山に年貢を納めるようにした」という記述と、「球陽(141号)」に尚真王の事績として載る「又三府及び三十六島をして重ねて経界を正し、税を定め貢を納れしむ」を根拠として、八重山の何者かが朝貢していたのは認めつつ、これまでの朝貢関係が強化されて、八重山諸村に定租を課そうとした[6]とし、これがアカハチを挑発した、と説明している。
 八重山の諸史料も一致して「アカハチホンカワラという二人[7][8]」などとアカハチホンカワラは二人いたとしている。さらに「長榮姓家譜大宗」は、「ホンカワラ及びアカハチという者二人、[9]」と明言し、ホンカワラと赤蜂は別人であるとの見解を示している。少なくとも宮古においては、かわらというのは人名として珍しくない[10]。空広の先祖には「祢間津のかわら[11]」という者がいる。

 またこれら八重山の史料は、赤蜂に島民全部が同心した事も一致して記述している。

開戦前

 赤蜂は急いで檄文を各所に発して、衆民を集めて曰く「中山の大兵が、来たって我が境を侵さんとしている。
 汝ら、よく鋭気を奮い、速やかに出で迎戦せよ。もし、命令に違いて怠惰すれば、法に依りてただちに斬り、敢えて許さない」[12]先述の如く、島民全部がアカハチに同心し服従したが、次の5人は服従しなかった[13]。島の長者、石垣村の長田大主(ナータフーズ)、その弟二名、那礼当、那礼重利、川平村仲間丘の首領、仲間満慶山(ミツケーマ)、波照間住人明宇底獅子嘉殿(シシカトノ)である。那礼当、那礼重利、満慶山、シシカトノは殺された。
 長田大主はあちこち逃げ隠れして度々危地を脱し、ようやく古見(西表島)まで逃亡して洞窟の中に隠れた[14]

 仲間満慶山の子孫を称するのが憲章姓一門である。その家譜は満慶山について「元祖の曽祖父は満慶山である」という事としか述べていない[15]。1950年代に調査を行った稲村賢敷は「アカハチは満慶山をケーラ坂で殺し、さらに仲間丘住人の井戸であった仲間井を埋めた。しかし、うるか屋まやまとが代わりの井戸を発見し、人々は彼にちなんでこれをうるか井と名付けた。その後転訛して、今ふがー(保嘉井)と称しているのがその井戸である[16]」という現地の伝説を紹介している。
 また、1809年に憲章姓一門の者が作成した文書[17]では「アカハチ謀叛の際、アカハチと満慶山は、仲すみと申す所で寄合を持ったが、物別れに終わり、満慶山は帰る途中でアカハチが仕掛けた落とし穴に落ちて死んだ」とされている。

 波照間のシシカトノに対し、赤蜂は平得村の嵩茶、大浜村の黒勢等を遣わして慰諭させようとした。嵩茶等が到着したとき、シシカトノはたまたま海辺で魚釣りをしており、逃げ隠れできなかった。シシカトノは従わなかったので、嵩茶はこれを刺殺して海中に遺棄した[18]

 先述の如く、赤蜂は第一に中山と我との間には境がある、第二に琉球がそれを侵そうとしているとの認識を示しているが、琉球は一貫して、赤蜂の行為は中山に対する「謀叛」「叛逆」であるとし、アカハチ攻撃の正当性を主張している。
 また高良倉吉は、赤蜂が琉球の「侵」と定義する行為は、あくまで琉球による「地方統治の強化[19]」であるとの見解を示している。ちなみにこの高良倉吉は、逆に琉球が攻撃を受けた琉球征伐に関しては、「琉球側にとってはまぎれもなく侵入・侵寇・侵略の事件だった[20]」などと根拠も挙げずに力説している。

戦闘

 琉球船団は空広が先導した[21]。ちなみに先述のごとく、琉球まで行って通報したのも空広である。空広なしに、八重山まで行く航海能力が、果たして中山にあったかどうかは不明である。以下、基本的に「蔡鐸本中山世譜」に依る。日付が最も詳しいため。

 琉球王府は9員を将と為した。将軍としては、筆頭大里親雲上の他、9番大将として、安波根里主直張が知られる[22][23]
 軍船大小46艘、3000人[24]で、弘治13年(1500年)庚申2月2日、那覇より出発した。

 13日に八重山石垣に至る。長田大主は大喜びで、小舟で古見から出てきて、中山軍の道案内を務めた[25]
 19日その地界陣勢を見んと欲して、小船に乗って上岸した。之を見たところ、その陣、前に大海に向かいて、後に嶮岨があった。その地の婦女は、皆、草木の枝を持って、天に号し、地に呼んで官軍を呪罵していた。乗船が上岸したのに、ほとんど畏惧する様子は無かった。賊首の堀川原赤蜂は、真先に出てきて[26]戦を挑戦してきた。我が兵は、崖に近づいて、お互いに罵りあった。
 しかし悪日を忌んだので戦わず、軍を引いて退いた。大里が言うには[27]賊奴の鋭気、軽がるしくは敵すべきではない。そこで20日甲辰、46艘を分けて両隊と為し、一隊は登野城を攻め、一隊は新川を攻め、その地で、両辺相戦った。アカハチは応じる事ができず、官軍はこれに乗じて攻めまくった[28]。終に官軍が勝った。

 新川・登野城は現用されている地名で、石垣四箇字の左右の端にあたる。このように離れた場所で同時に攻撃をかけたので、赤蜂は対応できなかったと述べられている。

戦後処理

 「球陽」162号によれば、琉球は初めて空広を宮古頭、二男マチリンガニ(真列金)を八重山頭に任命した。
 ただし「忠導氏正統家譜」「球陽」109号は、この時はマチリンガニの八重山守護奉命のみを認めている。
 この二者は、尚真王代の宮古頭云々は無視する一方、空広は尚円王に朝見した際に「宮古島主長」職を奉命した事を述べており、この職が一貫して継続しているとの見解を示している。
 「家譜」によれば、マチリンガニは4年勤めた後、三男チリマラ(知利真良)と代えられた。「球陽」162号は、マチリンガニは人民を虐待したのでクビにしたと述べている[29]。空広は八重山平治慶賀のために朝見した際、宝剣治金丸一振、宝珠一個を献上し、中山は簪一個と白絹衣一領を下賜した。また彼は漲水御嶽に「逆徒を追討できたら御嶽の周囲に石垣を新築します」との願をかけていたので、帰島のときに実行した[30]、。

 長田大主は古見大首里大屋子に抜擢された。これは後に改称されて石垣八重山頭職となった。これが八重山の頭の始まりとなった[31]
 ここでいう「八重山頭職」の始めと、先のマチリンガニの「八重山頭」奉職との整合性は不明である。当時の「八重山頭」にどこまで実態があったのかも不明である。

 那礼当の幼子、保利久思は美良底首里大屋子となった。仲間満慶山の男子は、8人とも首里大屋子になった。シシカトノの男子三人は与人になった。女子三人は女頭職になった[32]

 長田大主には二妹あり、古市、真市[33]と言ったが、そのうち古市は赤蜂の妻だったので夫と共に殺害された。他方、真市はイラビンガニという神様の神人に任命された。姪の宇那利[34]は大阿母職に任命された。姪の方が高位であるが、これは真市が譲ったためである[35]

 真市が俸米を授かった経緯は以下の通り。ある日、官軍のところに真市がやって来て「永良比金の神の託宣があったのですが、今船に乗れば早く那覇に到るでしょう」などと言った。
 しかし官軍は次のように答えた。「その神託はまだ深くは信じられない。兵船が一斉に国に着けば褒賞するが、託宣と違って前後して国に至ることが有れば、重く罪して恕さない」真市は答えた。「蒼天は定めがありません。風波は測り難いです」真市は美崎山に入り、日夜断食して祈願した。そうこうするうち、船は神様のおかげで一斉に国に到着した。
 王は真市を抜擢して、大阿母にしようとしたが、真市は姪の遠那理に譲った。
 そこで王は、真市は永良比金の神人にした。大阿母には俸米一石五斗を賜い、永良比金には俸米一石を賜うた。[36]

 このように当時の中山兵は神託をあまり信じていなかった。神託全般を信じなかったのか、真市の神託だから信じなかったのかは不明である。そもそも神託を受けたと称する当人からして、神託の実現可能性に対する不信の念を表明している。しかしこのような不信心にも関わらず、イラビンガニは蒼天を定められ、神妙な御霊威を顕された事が述べられている。

君南風について

 「球陽」163号によれば、久米島の巫女・君南風も従軍し、その功績によって代々世襲が認められた。きっかけは首里神なる神の「八重山の神と久米山の神とは、元々姉妹である。もし君南風が官軍に従って八重山にいって諭せば、必ずや信服するであろう」などというお告げであった。
 言われたとおりにして八重山に行ったところ、賊衆が多くて上岸し難かった。しかし君南風に奇謀あり、竹筏を作って上に竹木を取り付け、焼いて放流させたところ、賊衆はこれにつられて移動し、官軍は上岸できた。さらに宇本嶽君真物神が君南風のところに来て信服した。賊衆もこれを見て服従した。こうして大将軍は人民を鎮撫する事ができた。帰還後、細疏の他、奇謀が聖聴に上達し、褒美を貰った。

奇謀云々と「蔡鐸本中山世譜」その他との整合性については一切不明である。あちらではとりあえず19日に上岸したと書かれているが、君南風は全編一貫して無視されている。また聖聴には奇謀だけが達し、宇本嶽君真物神が信服したという主張は無視されている。さらに、二柱の神と交信し、一柱を帰服までさせるなど瞠目すべき成果を収めているが、特に餓死寸前まで祈る必要も無かった点で、真乙姥との違いがみられる。

逸話

 遠弥計赤蜂が討たれた結果、八重山は王府に恭順する仲宗根豊見親と赤蜂と対立していた石垣の豪族、長田大主の勢力圏に収められることとなった。敗れはしたものの、王国の侵攻から現地の民俗を守ろうとした遠弥計赤蜂は、地元の英雄として現在に伝わっているほか、イリキヤアマリ神を伝える御嶽が石垣島に残っている。なお、小浜島には、戦いに敗れた遠弥計赤蜂が逃げ込んだという伝説のある、遠弥計赤蜂の森がある。

 一方、戦功をあげた君南風ノロは、王府より大阿母(一地方の最高位のノロ)に匹敵する格づけで、久米島ノロの最高位の地位を与えられた。加えて勾玉を授けられ、「おもろさうし」にも謡われる英雄となった。
 この戦争から500年以上たった現在も、君南風ノロは久米島最高位のノロとして久米島の祭祀を司っている。またこの史実から、君南風は勝利の軍神とされ、久米島キャンプをしたプロ野球チームが君南風神殿に参拝することが知られている。

 また、石垣からの王府軍の帰路の安全を祈り、安全な航海のための神託を与えた石垣の神女マイツバ(長田大主の姉)は、その後王府より褒賞として金のかんざしと現地のノロを統括する八重山初の大阿母職(高級神女職)に任命されるが、大阿母職を固辞し、代わりにイラビンガミ神職(イラビンガミ神に仕える神女)を拝命した。
 彼女が王府軍の帰路の無事を願った場所は美崎御嶽となり、石垣島の重要な御嶽となった。また、彼女の墓地にはマイツバ御嶽が作られ、ともに現在も信仰を集めている。

 この戦いで石垣島に遠征した将軍の大里親方は、竹富島の西塘(にしとう)なる人物を見出し、首里へ連れ帰った。西塘は首里で学問を修めて土木建築家となり、1519年に国王が首里城を出るたびに御願(うぐぁん:祈祷)を行う園比屋武御嶽の礼拝所となる石門を建築したことで知られる。
 その後、八重山を統治する身分(竹富大首里大屋子)として竹富島に戻り、その後石垣島に移って八重山地方の蔵元(琉球王国の地方行政官庁)をおいた。
 竹富島には園比屋武御嶽の神を勧請して国仲御嶽(フイナーオン)を造成した。この御嶽は八重山で唯一、王府の神につながる御嶽であり、竹富島の村御嶽として国の守り神とされている。彼の死後、竹富島の墓地には西塘御嶽が置かれ、その功績を讃えて現在も信仰されている。




 琉球王朝時代には、八重山地方の政庁(蔵元)が置かれていた時期もある。旧八重山村が分村し、竹富村(1948年に町制施行)が発足した当初も本島に村役場が置かれていたが、1938年に村外の石垣島へ移転して以来、現在も町役場は石垣市に置かれている。

 稲作に向かない土地であったため、船で西表島に渡って耕作する、出作が行われていた。1945(昭和20)年の終戦後、台湾からの引揚者が帰島したため、一時は2,000名を超える人口がいた時期もある。
 その頃に島全体が畑と化したため、古来から保たれている森林は御嶽の周辺だけである。


竹富町のあゆみ


概要

 竹富町出身の西塘は首里王府(尚真王時代)において25年間も司法官につかえて、その忠勤(園比屋武御嶽の石門創造、首里城壁の設計などの功績)により1524年(大永4年)竹富大首里大屋子の頭職に(八重山人として初めて)命ぜられ蔵元を創設して20年間は竹富島で八重山の政治を統治したが該地は狭小にて良い港がないため石垣島の大川に移転するに至った。

 明治30年(1897年)4月勅命第56号間切島吏員規定の発布により蔵元は間切役場と改称され、八重山は特例を設け一郡一間切として職務は島司これを行い各村の村頭は補助機関とした。西塘が蔵元を竹富島に創設してから373年という長い歴史をもって蔵元は廃庁となった訳である。
 明治40年(1907年)勅命第45号をもって沖縄県間切島は各村と改正、勅命第46号をもって沖縄県島嶼町村制が施行され翌41年4月1日からこれを実施した。その結果従来の間切は村に、村は字に改称されたが本郡は特別に八重山村として一村となった。

 一村では自治統治上不便であるとの理由から、大正3年(1914年)県令で八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国の4ヶ村に分村。竹富村は、竹富、黒島、新城、小浜、鳩間、西表、波照間の7ヶ字が行政区画となった。
 昭和23年(1948年)南部琉球軍政府の認可を得て町に昇格し、現在に至る。

前史(永正16年~大正元年)

年 内容
1519年(永正16年)・竹富島出身の西塘、首里城の石門並びに石垣を築造する。
1524年(大永4年)・西塘、竹富大首里大屋子の頭職に命じられ竹富島に蔵元を設置、八重山を統治する(20年間)
1543年(天文12年)・蔵元、石垣へ移転(竹富島は狭小にて良い港がないため)。
1550年(天文19年)・西塘天命を終わる(その墓が西塘お嶽である)。
1637年(寛永14年)・人頭税施行。
1640年(寛永17年)・西表島に南蛮船漂着。
1648年(慶安元年)・波照間島平田村の村民男女40人逃亡する(人頭税の重圧に堪えられず南波照間の楽園を目指して船出したと伝えられる)。
1700年(元禄13年)・黒島から鳩間島へ寄百姓60人。
1702年(元禄15年)・鳩間村、古見村より独立。
1703年(元禄16年)・黒島から鳩間島へ寄百姓500人。
1711年(正徳元年)・竹富、新城から伊原間、黒島から平久保へ移住。
1713年(正徳3年)・波照間から白保、桃里へ寄百姓300人余。
1715年(正徳5年)
・古見村の三離橋、大枝橋の架橋竣工。
・古見の勢田に造船所を創設。
1723年(享保8年)・上原村に会所(村学校)創立。
1726年(享保11年・古見村に会所創立。
1728年(享保13年)・租納村に会所創立。
1732年(享保17年)
・極道無慈悲な『道切り』強行、移民政策始まる。
・高那村創立、小浜島より移民。
1734年(享保19年)
・南風見村創立(波照間島から400人の寄百姓)。
・竹富島から74人が移住し、屋良部村創立。
1738年(元文3年)
・古見の造船所改築。
・竹富島から150人桴海村へ移民。
1749年(寛延2年)・古見造船所を船浦へ移転。
1755年(宝暦5年)・崎山村創立、波照間島から280人、網取村から63人、鹿川村から93人、祖納村から10人、その他の村から13人の計459人が移民。
1768年(明和5年)・上原村創立、慶田城村を西表村に、西表村を上原村に改称。
1771年(明和8年)・明和大津波(津波襲来前の人口10,575人、津波襲来後9,701人)△874人。
1843年(天保14年)
・英国軍艦サマラン号西表島調査。
・黒島の多良間モーサ漂流、フカに助けられる。
1853年(嘉永6年)
・ペルリー一行の地質技術師アール・ジー・ジョーンズ西表島の石炭を発見する。
・西表島の石炭を異国人に紹介することを厳禁。
1857年(安政4年)・間切り改正される。黒島から桴海村へ50人、上原村へ150人移民。
1860年(万延元年)・小浜島から8人高那村へ移民。
1872年(明治5年)
・琉球王朝琉球藩となる。
・薩摩の伊地知小十郎(万年丸)西表の石炭調査で来島(八重山へ初の汽船入港)。
1873年(明治6年)・西表島南風見にルソン島人4人漂着。
1879年(明治12年)・琉球藩を廃して沖縄県誕生(廃藩置県)。
1885年(明治18年)
・工部省西表島石炭調査。
・三井物産、西表石炭採掘を開始。
1887年(明治20年)・軍艦金剛、八重山測量。
1890年(明治23年)
・西表島に医師竹下態氏任命される。
・西表島に分教場創立。
1892年(明治25年)・竹富島に分教場創立。
1893年(明治26年)
・黒島に分教場創立。
・浦内村廃村。
1894年(明治27年)
・日清戦争ぼっ発する。
・波照間島に分教場創立。
1895年(明治28年)
・日清戦争終結する。
・小浜島に分教場創立。
1896年(明治29年)
・八重山に郡制施行。
・鳩間、新城両島に分教場設立。
1900年(明治33年)・仲間村廃村。
1902年(明治35年)・人頭税廃止。
1904年(明治37年)
・日露開戦。
・鹿川部落廃村。
1906年(明治39年)
・竹富、黒島、小浜、西表、波照間の各分教場は独立小学校となる。
・高那村廃村。
1907年(明治40年)
・新城・鳩間の分教場は独立小学校となる。
・勅令第45号をもって沖縄県間切島は村に改正される。
1908年(明治41年)・沖縄県及嶼町村制に基づく、特別町村制に基づく、特別町村制で八重山村が誕生(勅令第46号)。
1909年(明治42年)・上原村廃村。
1911年(明治44年)・米国軍艦アルバーニ号、西表島西部の舟浮港に入港。

竹富町の沿革

年 内容
1913年(大正2年)・八重山村より分村に関する申請書を沖縄県知事に提出。
1914年(大正3年)
・2月、県令をもって八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国の4ヶ所に分村布達された。
・同年4月1日竹富404番地において竹富村の行政執行を開始(当時の総戸数1,057戸、人口5,662人で竹富・黒島・小浜・新城・西表・鳩間・波照間の7ヶ所に行政区画、職員5名)。
1916年(大正5年)
・黒島口、黒島住民によって閉削。
・古見、崎山が西表字より区画され区長制度を設けて村制の補助機関とした(第1次世界大戦ぼっ発)。
1917年(大正6年)
・八重山マラリア撲滅期成会設立。
・先島新聞創刊(新聞の始め)。
1919年(大正8年)・第1次世界大戦終わる。
1920年(大正9年)
・特別町村制による特例撤廃、普通町村制適用。
・11月8日、村役場の庁舎落成並びに自治執行記念式典。
・南風見村廃村。
1925年(大正14年)・石垣島に村役場出張所を設ける。
1938年(昭和13年)
・離島行政を円滑にするため石垣町字登野城に役場移転(分村してから25年目)。
・新城島(上地島)の住民、西表島南風見に移住。
1939年(昭和14年)
・消防団結成される。
・南風見開墾視察のため県議団大挙来島。
1941年(昭和16年)
・新城島(下地)より西表島南風見に移住、西表開発官民調査団来島(米英に対し宣戦布告)。
・太平洋戦争ぼっ発する。
1945年(昭和20年)
・村行政を一時小浜島に移し、同8年終戦とともに石垣町所在の役場に移した。
・太平洋戦争(沖縄戦)終わる(6月)。
1947年(昭和22年)
・黒島、竹富より移住し、由布部落を創設。
・崎山部落廃村。

竹富町の沿革 ※1948年~

 年 月日 内容
1948年(昭和23年)7月2日
・南部琉球(米軍)郡政府の許可により、竹富村は町に昇格。(当時の戸数1,746戸、人口9,387人)(町長、助役、収入役、事業課長、書記11名、技手2名、使丁1名計18名)
・初代町長 与那国善三氏

転載元: 海洋文化交流のブログ

[転載]港川人

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港川人

   
港川人の復元模型。国立科学博物館の展示[1]。模型制作時は港川人は縄文人の祖先と思われていたため、日本人に似せて模型が作成されたが、後年、最新機器を使った人骨再調査によりこの模型とは異なり、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近い復元図が発表された [2]

 港川人(みなとがわじん、Minatogawa people)は、約20000~22000年前に日本沖縄県に存在していたとされている人類
港川人(港川1号)の化石(レプリカ)。国立科学博物館の展示。

 1967年[2]から1970年[5]、沖縄県島尻郡具志頭村港川(現在の八重瀬町字長毛)の海岸に近い石切場で骨が発見された。この人骨は、全身骨格の形で残っている日本の人骨の中で最も古いものである[3]

 身長は男性で約153〜155cm[6]、女性で約144cm[要出典]であった。全体的に小柄で腕は細めで胴長なのに対して手は大きく、下半身がしっかりとしていたとされている。また、顎ががっしりしていて、硬いものも食べていたとされている。

 かつて港川人は縄文人の祖先ではないかと考えられてきた[7]が、2009年の研究で、港川人を縄文人の祖先とする考えに疑問を投げかけるような分析結果が出ている。港川人は現在の人類ならば、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いのではないかという説である。 国立科学博物館の海部陽介研究主幹によると、港川人は本土の縄文人とは異なる集団だった可能性がある。つまり、港川人は5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来したことになる。その後に、農耕文化を持った人たちが東南アジアに広がり、港川人のような集団はオーストラリアなどに限定されたのではないかと述べられている[2][5]

 沖縄県立博物館・美術館には「港川人復元像」が所蔵されている。また、八重瀬町立具志頭歴史民族資料館には、常設展示の1つとして港川人コーナーがあり、全身骨格のレプリカやこれまでの研究成果が紹介されている。
2014年には、港川と近距離の沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で少なくとも9000年以上前の人骨が発掘され、調査が進められている[3]



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市内線 3・7・10番線 県立博物館前バス停下車
市内線 6番線 那覇メインプレイス東口バス停下車 徒歩5分
市外線 バイパス経由 おもろまち駅前バス停下車  徒歩10分
おもろまち行 おもろまち1丁目バス停下車  徒歩3分
沖縄都市モノレール
ゆいレール おもろまち駅下車 徒歩10分
中北部から
空港線及びおもろまち行各社バスで交通広場下車徒歩5分
南部から
バスターミナルから沖縄モノレール乗り換えおもろまち下車徒歩10分
空港から
沖縄モノレールおもろまち下車徒歩10分
タクシーで、博物館・美術館まで、約30分



常設展(総合展示)

 常設展は、総合展示と専門分野ごとの部門展示からなり、沖縄の自然・歴史・文化を、「海洋性」と「島嶼性」という二つの側面から読み解いていきます。
古来より、沖縄の島々は海によってたがいに隔てられると同時に、海によってアジア、太平洋地域と深く結びつけられてきました。島には固有の自然があり、人々の営みがあり、そのひとつひとつが沖縄県の特徴ある自然・歴史・文化を形作っています。島に息づく豊かな自然と、島をとりまく海を媒介とした人々の営みを紹介するとともに、トー(唐:中国)とヤマト(日本)との間で花開いた琉球王朝文化、そして目まぐるしい世替わりを体験してきた沖縄の近代史と戦中、戦後史を射程に入れ、常設展のメインテーマを「海と島に生きる-豊かさ、美しさ、平和を求めて-」としました。

総合展示

 常設展へのアプローチでは、イノー(ラグーン)に広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験することができます。そして正面のサークルホールでは、琉球列島の成り立ちと生物の進化をテーマとした映像とともに、1万8千年前の原始の沖縄に暮らした港川人とその時代の動物相の再現模型が展開します。これに続く総合展示では、「海で結ばれた人々」から「沖縄の今、そして未来へ」まで各テーマに沿って、沖縄の豊かな自然と海からの恵み、そしてそこにくらした先人たちの歴史・文化をたどっていきます。
 また、展示室中央に設けられた「シマの自然とくらし」のコーナーには、鹿児島から台湾まで東西1000キロ、南北400キロの海域に散在する琉球列島の大小の島々を壮観できる大型ジオラマを配置し、島々の特徴ある自然・歴史・文化を情報端末機を用いて紹介しています。また、人工衛星によって撮影された画像を用いて、島々を観察することができます。
■島の自然と暮らし
■島の自然と暮らし

プロローグ ニライカナイの彼方から

 常設展へのアプローチです。足下にサンゴ礁を見ながら、沖縄へ上陸するイメージを演出しています。

1 海で結ばれた人々
サークルホールの展示

 「化石の宝庫・沖縄」から発見された、さまざまな化石を展示しています。クジラやアンモナイトなど、原始の海にくらした生き物をはじめ、1万8千年前の日本人のルーツと目される「港川人」や、その頃に生きていたリュウキュウジカ、ヤンバルクイナなどの化石が、ステージ上に展開します。また、正面のスクリーンでは、古生代から現在に至るまでの琉球列島の地史を映像で概観し、沖縄の自然・歴史・文化の旅へと誘います。
■サークルホール
■サークルホール
古我地原貝塚模型
 うるま市石川で発見された古我地原貝塚の発掘調査にもとづき、縄文人の生活を復元しています。東側に海を望む台地上に、小さなグループで暮らしていた縄文人たちの竪穴式住居や、ゴミ捨て場である貝塚など、縄文人の生活をみることができます。

2 貝塚のムラから琉球王国へ

グスク時代になり、それぞれの地域に有力者が登場するようになると、防御などを目的とした、さまざまなグスクがつくられていきます。また、有力者たちは中国への朝貢を通して文化の移入や交易に努め、富が築かれていきました。各地の勢力は、やがて北山、中山、南山の3つに収斂し、激しい抗争を繰り広げます。これらの3つの勢力は、15世紀はじめまでに尚巴志によって統一され、琉球王国が築かれました。ここからおよそ500年の長きにわたり、首里を拠点とする王国の歴史がはじまります。

3 王国の繁栄

 琉球王国は独自の国家として成立しましたが、国内権力基盤の不安定さによって、第一尚氏から第二尚氏へ王統の交代が起こりました。この時代、中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球は、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行います。東アジアの大海原の架け橋として船を操り、国際色豊かな産物が国中にあふれるさまを謳った旧首里城正殿鐘の銘文は、往事を偲ぶ貴重な資料です。ここでは、東アジア有数の貿易国家として繁栄したあと、より強固な国家体制がつくられた琉球王国の時代を紹介します。
■進貢船
■進貢船

4 薩摩の琉球支配と王国

 1609年、薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれましたが、中国との関係は引き続き維持されました。羽地朝秀、蔡温など政治家の強力なリーダシップによって、王国の経営が行われ、近世文化が創造されていきます。またこの時代、貝摺奉行所などによって優秀な工芸品が多くつくられるとともに、「中山世鑑」、「球陽」などの歴史資料が数多く著されました。

5 王国の衰亡

 中国・日本という両大国との関係を維持しながら、王国を維持してきた琉球ですが、19世紀に入ると矛盾が深まります。農村の疲弊や首里王府の財政難などが原因で、王国の経営は行き詰まりが顕著となりました。さらに、アジア進出を目指す欧米諸国の外圧が琉球に押し寄せ、王国は危機的な状況に陥ります。

転載元: 海洋文化交流のブログ

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