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三輪山は、縄文時代または弥生時代から、原始信仰(自然物崇拝)の対象であったとされている。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られたため、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、

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三輪山   

三輪山標高所在地位置
Mt.miwa from Hashihaka-kofun.JPG
三輪山(箸墓古墳付近より)
467.1 m
日本の旗日本
奈良県桜井市
北緯34度32分06秒
東経135度52分01秒
座標: 北緯34度32分06秒 東経135度52分01秒
三輪山の位置
Project.svgプロジェクト 山
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三輪山(みわやま)は、奈良県桜井市にある。奈良県北部奈良盆地の南東部に位置し、標高467.1m、周囲16km。三諸山(みもろやま)ともいう。なだらかな円錐形の山である。



概要

 三輪山は、縄文時代または弥生時代から、原始信仰(自然物崇拝)の対象であったとされている。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られたため、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。
 200 - 300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇行灯山古墳)、第12代の景行天皇渋谷向山古墳)のがあるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は『魏志』倭人伝に現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。『記紀』には、三輪山伝説として、奈良県桜井市にある三輪明神の祭神・大物主神(現在大神神社)の伝説が載せられている。よって、三輪山は神の鎮座する山、神奈備とされている。

 入山する際は、後述の規則を遵守する必要がある。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採る。大神神社には本殿がなく、拝殿から神体である三輪山を直接拝むことになる。

 三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがある。

 頂上には高宮神社が祀られているが、延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。

 頂上付近はかなり広い平地である。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんある。これが奥津磐座である。現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけである。

歴史

 日本国創生の時代より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、神官僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされてきた。飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられた。鎌倉時代に入ってからは慶円が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山平等寺を建立した。江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できなかった。

 明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。

入山の許可

 登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社狭井神社社務所で許可を得なければならない。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納める。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませる。道中このたすきを外すことは禁止されている。行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで下山できるが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。
 また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォータースポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもある。午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合がある。
 雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもあるが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の確実な記入が求められる。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができない。

 原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできない。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山はなどの大樹に覆われている。

聖水思想

 考古学者石野博信によって、三輪山麓には聖水思想が古代から存在したことが指摘されている。纏向遺跡尾崎花地区の井泉と家ツラの導水施設は、古典で言う井水を浄化して聖水とするための施設であると推測し、「三輪の磐井」と呼ばれる井泉があり、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)と「三輪の磐井」のほとりで戦った御馬皇子が、「この水は、百姓のみ唯飲むこと得む。王者は独り飲むこと能(あた)はじ」(『日本書紀』雄略天皇即位前紀)と呪詛したことを挙げ、5世紀頃の三輪山麓に聖水思想があったこと、それが纏向遺跡の「尾崎花の井泉」によって、3世紀にまで遡ることが分かるとしている[1](ただし、いくつか疑問点も残している)。



ヤマト王権の歴史

王権の成立

小国の発生


 弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。

 また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。

 縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことが伺える。

 墓制の面でみて、最も進んでいたのは山陰地方の出雲地域において作られた四隅突出墳丘墓であって、後の古墳時代の方墳や前方後円墳の原型となったと思われる。九州南部の地下式横穴墓九州北部における甕棺墓中国地方における箱式石棺墓近畿地方日向宮崎県)における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態を持ち、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。
 方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主として西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現する故、各地に有力な首長があらわれたことが伺える。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸瀬戸内地方銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類のちがいにもあらわれている。

天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた

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天武天皇

   
 天武天皇(てんむてんのう、生年不明 - 朱鳥元年9月9日686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。

概要

 舒明天皇皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。

 天智天皇の死後、672年壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される[1]。文化的には白鳳文化の時代である。

 天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。

 道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。

彼のレイラインに対するこだわりも風景写真への興味や、イギリスの片田舎を愛していた心から自然に芽生えたものだ

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レイライン

   

 レイライン(ley line)は、古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説のなかで、その遺跡群が描く直線をさす。レイラインが提唱されているケースには古代イギリスの巨石遺跡群などがある。
 レイラインの存在は1921年イギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンス(en:Alfred Watkins)によって提唱され、その著書『The Old Straight Track』(古い直線路)によって遺跡の直線的配置性が世間一般の注意を引きつけることとなった。


概要

 地図を開けば、遺跡が一列に並んでいるように見える直線を見つけることはそう難しいことではない。にもかかわらず、レイラインの存在を認める動きは学術的には主流とは言えない。
 その理由としては、レイラインが実在するならば、古代の人々がどうしてそのような直線性を持たせたのかが不明であり、さらには存在するかに見えるその直線性はまったくの偶然にでも発生するのではないかという疑いをぬぐえないためである。こうした事態について解釈を試みる領域はいくつかあり、次のとおりである。
  • 考古学:考古学の新領域である考古測地学は、測地学を有史以前のものに適用し考古学的な知見を得るものである。近代測地学が優位であるのは一面にはその測量技術がある。測地学を用いて解析すると、レイラインと呼ばれるものは古代人が測量し、所有権を主張するために引いたか単に一般的な街道を作ったかしたものであろうと推察される。時代の新古を問わず多くの社会において、重要な地点同士を結ぶまっすぐな線は作られており、考古学者はこうした伝統があることを指摘している。近代的な測量により、地形においてもこうした直線性があることも確認されている。人の建造物と活動拠点の並びが、人が直線というものを利用していたということを反映しているのは妥当だといえる。
  • 文明論:多くの文化において、特徴的な地形を横切る直線というものは発見できる。南米では山頂を結ぶ直線がしばしば見受けられる。ナスカの地上絵は古代の長大な直線を語る上で有名な例だといえる。このまっすぐな道というのは今日ではメキシコテオティワカンにある遺跡にも存在する。古代の道の上に作られた近代の道は二つの巨大なピラミッドの間を今は通っていないが。ニューメキシコ州北西のチャコ文明(Chaco Culture)においては、道をまっすぐに作るために砂岩絶壁を階段状に切り開いている。
  • ニューエイジ:レイラインやレイライン同士の交点は、風水ダウジングUFOのようなものを含む神秘的、超自然的なエネルギーに共鳴する地点だと考える人々がいる。およそ、UFOはレイラインに沿って航行する(車が道路を利用するように)、という風に。こうした主張はレイラインが電磁気的なエネルギーを有しているという想像の元に仮定されている。
  • 懐疑派:レイラインの存在に懐疑的な者は往々にしてレイラインを疑似科学に分類する。彼らは古代文明がレイラインというものを意図的に作ったという説に懐疑的であり、レイラインなるものは超科学疑似科学を必要とすることなしに説明できるだろうと考えている。

ワトキンスと『古い直線路』

 レイという概念は1921年6月30日、アルフレッド・ワトキンスによって提案された。 ワトキンスはイギリス中部のヘレフォードシャー州にあるブレッドウォーディン(en:Bredwardineを訪れ、近くにある丘陵が連なる地へと車で出かけた。
 そのとき、丘の頂上をつなぐ小道同士が一直線につながっているように見えることに気付き、地図を確かめ、それらの場所が一直線に連なっていることを確認した。彼は後に息子にこの体験を「あらゆるものが瞬くように私の中へ入り込んだ」と語った。これを聞いた人の中には、彼の感じた「瞬き」というのはいわゆる神秘的な体験なのだろうと言ったものもいた[要出典]

 しかし、ワトキンスより以前の1870年9月にウィリアム・ヘンリー・ブラック(William Henry Black)がヘレフォードにあるイギリス考古学協会に「Boundaries and Landmarks(大地に引かれた境界と名所旧跡)」という説を主張していた。その中で、彼は「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てた。ワトキンスが上記のように感じたのは、彼がこの仮説を読み、それを頭の片隅においていたからかもしれない。

 古代、イギリスがもっと深い森に覆われていた頃、村と村はこの直線状の道が織り成すネットワークによってつながっており、小高い丘は案内板の役目を果たしていたのではないか、とワトキンスは考えた。
 目印となる立石や塚、人造池などは古代ブリトン人の手によって作られたもので、ワトキンスはこれらの繋がりをレイ(妖精の鎖)と名付け、綿密に調査すれば太古の風景を蘇らせる事が可能になると考えた[1]。 この考察は1921年9月にヘレフォードのウールホープクラブ(Woolhope Club。ヘレフォードシャー州の郷土史、考古学などへの支援団体)で公に発表された。ワトキンスの功績は後に1882年発行の同クラブ会誌"G.H.Piper's" に取り上げられ、その中で、次のように書かれた。

 アスガリッド・ヴァウル山から北のアーサー石までひいた線は、ハタロルの丘、オールドキャッスル村、ロングタウン城、ユリシェイ城跡、スノッドヒル城を通る。これらの線を考え出したと想像される古代の測量士たちはドッドマン dodman(カタツムリの男[2])と呼ばれた。

 しかし、その後の研究でドッドという言葉は道造りではなくを真っ直ぐする行為を意味することが分かり、ドッドマンに関する仮説は誤りである事が分かった[3]
ワトキンスは自身の考察を『Early British Trackways(古代英国の軌道路)』と『The Old Straight Track(古い直線路)』という本に著した。
 しかし、考古学学会からは懐疑的な目で見られ一般にはあまり受け入れられなかった。
 考古学者O.G.S.カウフォード(en:O. G. S. Crawford)は学術誌『Antiquity』にこの本の宣伝を掲載することを拒み、これが一般の学者に受け入れられない事態を助長した。 学閥から否定された後もワトキンスは独自の研究会を組織し地図研究や情報交換を続けたが、その研究はラインが直線になっていないなど、重大な事実誤認が含まれている。

 2004年ジョン・ブルーノ・エア (John Bruno Hare)は次のように記している。
「ワトキンスはレイラインと超自然的なものの関わりがあると主張したことはなかった。彼はレイラインが単に交易や記念碑的な意味合いで作られたものだと思っていたし、大変な昔まで遡ることができ、もしかすれば新石器時代、少なくともローマ時代以前に既に存在していたと考えていただけだ。彼のレイラインに対するこだわりも風景写真への興味や、イギリスの片田舎を愛していた心から自然に芽生えたものだ。古代の英知に対しても努めて論理的であろうとしたし、今日レイライン説が晒されている風当たりには少々残念な思いでいるのではないだろうか[4]。」

 レイライン説に対する批判的な見方が強い一方で、専門家の中にはワトキンスと同じ考えを持つものもいる。巨石文化の研究者であるアレクサンダー・トム(en:Alexander Thom)は、複数の巨石の配置が直線的かどうかを詳細に検討することで、その巨石群を誰が作り上げたかを推し量ることが出来るのではないかと提案している。しかし、トムは巨石群の直線的配置に対しレイラインという用語を使うことは避けている。西欧人が南ペルーで発見した砂で描かれたナスカの地上絵が、巨石群のなす桁外れに長い直線に関する研究の助けとなっている。

ニューエイジ思想的アプローチ: 不可思議で聖性あるライン

ワトキンスの提唱したレイラインの存在は、次のような作家達に取り上げられていった。
神秘学者のディオン・フォーチュン1936年に自著である『The Goat-dooted God(山羊足の神)』という小説の中でレイライン説をいくらか紹介した。
大英博物館に所属する二人のイギリス人ダウザーダウジングにより地下水脈や鉱脈を探し当てる探求家)ロバート・ブースビー(en:Robert Boothby)とレジナルド・スミス(Reginald Smith)は、レイラインと地下水脈や地磁気の間には関係があるだろうと予想した。ガイ・アンダーウッド(Guy Underwood)は「負」の水の流れとダウジングに影響を与えるアクアスタット(apuastat)との線の交点が聖なる地となるという推論を主張した。彼は2つの線の重なりを聖なる点の上でいくつも発見し、holy lines(聖なるライン)と名付けた。
ナチスドイツの研究者であるヴィルヘルム・トイト (Willhelm Teudt) とヨーゼフ・ハインシュ (Josef Heinsch) らもまた、古代のチュートン民族が聖なる地を結んでできる"Heilige Linien"(聖なるライン)と呼ばれる桁外れに長い直線のネットワークを作り上げたと主張した。トイトはニーダーザクセン州トイトブルクの森をドイツの中心として en:Externsteineという特定の位置に巨大石群を配置した。ナチは、考古学的あるいは歴史学的な事実とは無関係に、古代高度文明とその子孫であるアーリア民族を関連付け優越性を観念化しようとした。 詳細は英語版en:Nazi occultism(ナチにおけるオカルト思想)を読まれたい。
1960年代には、まっすぐな線が交差する点があるという考えと世界の様々な地相術的伝統に由来する思想とを関連付けて考えるようになった。 1961年、イギリスの発明家トニー・ウェッドは「UFOはエネルギーの渦が発生するスポットを目印にしている」という説をもとにUFO現象とレイ説を結びつけ、レイラインという名称を作り出し世に広めた[5]
ニューエイジ派の地相学者たちによると、レイラインを描くことで大地を"調(ととの)え"られたり、有史以前の交易路を明らかにすることが出来ると言われている。これらの例はジョン・ミッシェルの著作に見ることが出来る。彼は地理的配置に重きを置く風水の考え方に影響を受けていた。ミッシェルは新石器時代の人々は社会の調和が大地の調和に大きく関わっていると考えていたと考えた。その例として、中国古代ギリシャアイルランドスコットランドの人々は自らの寺院を大地の力が最も強い場所に立てたと主張した。ロスリンにあるロスリン寺院[6]テンプル騎士団が大地のエネルギーを調整して作った寺院であった。彼らは磁気的な力の分布を的確に把握した人であったし、彼らの残したものの一つとして羅針盤が今も残っている。

懐疑的アプローチ: 確率論的に直線は引けてしまう

懐疑論者の中には、レイラインというものは存在せず、人間の想像の産物だと主張する者[誰?]もいる。 ワトキンスがレイラインを発見した時期というのは、イギリス地理院が余暇を楽しむ人たちのために地図を発売し、それまでより地図の値段が安くなり人々が入手しやすくなった時期と重なっている。そのためレイラインの存在が人々の間で広く受け入れられた。
80本の直線がランダムな137点に対して描ける
次のようなことを主張する者[誰?]もいる。イギリスやその他のヨーロッパ諸国では、有史あるいはそれ以前の史跡が高密度に点在しているため、それらを結ぶ直線が引ける(往々にしてそういうものはわざわざ合うように引かれる)というのはごく当たり前のことであるし、おそらくは単に偶然だといえるだろう、と。
右に示した図は、試しにランダムに点を打ちその近くを通る線を引いていくという作業を行ったものだ[誰によって?]。このテストの目的は、ランダムな点の間にでもおよそ”精確な”線を引くことが出来る、ということを示すことだ。ごく自然なこととして、このレイラインというものが人為的でなくとも確率的に発見できるものなのか、それとも確率論を超えた人の意思によって作られたものなのか、これは論議の対象となっている。 (数学的な考察に関しては、ランダムに配した点がなす直線を参照されたい。)
レイラインが交易路だとする説に対しては、山岳や河川があり水路や橋を必要とする場合は特に、目的地間を結ぶ直線状の道というのが必ずしも理想的な経路を描かない、ということを懐疑論者たち[誰?]は指摘している。

地図に引ける線は全てレイラインと呼べるか

地図上を眺めればそこにレイラインが浮かび上がってくることは、多くの人が賛同できるだろう。レイラインについて提唱されている古代の魔術的理論の信奉者、そしてそれに対する懐疑派どちらもが巨石群や遺跡をつないだ線が見えうるということには同意している。
懐疑派の多くは、ランダムに点描してもレイラインらしく見える直線が引けるという意見と、地図上に直線が見えることは矛盾しないし、矛盾しないが故にこの直線を別な方法で説明する必要もないと考えている。混沌魔術師[誰?]にはこの統計学的なアプローチと矛盾しない思想を持ち、自身の自然発生説と調和が取れていると主張する者[誰?]がいる。しかし、多くは上記のような統計学的アプローチは地図上に見える事実をきちんと説明できなければならないと考えている。詳細な検討は仮説検定反証可能性オッカムの剃刀に詳しい。
レイラインという並びの偶然性の真偽を議論するうえで、"直線"というものの定義を精確に行うことは有意義だ。ワトキンスのレイラインの精確な定義として一般に受け入れられているものとして以下が挙げられる[7]
遺跡などの数地点が少なくとも0.25度の円弧に含まれること
ワトキンスはさらに、ラインの偶然性について、
図中に3点だけ描いたとき、その3点が直線をなしている可能性は1/720である
しかし、こうした偶然の一致が起こる確率は打つ点数を増やせば速やかに増大する。ランダムに10点を打ったなら、平均して1本は3点が乗る直線が描けるし、12点打てば2本は引けるようになる。
3点が乗る直線が引けるからといって、それがすぐレイラインの存在を証明できるわけではない。しかし、綺麗に整ったそれらしい線が目の前に存在するではないか。
レイラインの存在は、少なくともそれらしい4点以上をもって確認すべきである。3点だけなら、価値の下がるほかのもの、直交する道やそれらしい街道などとともに確認するのが効果的だろう。
レイラインを地図の上で探していく上では、次のことにも充分注意を払わねばならない。1/10万の縮尺の地図上に幅0.5ミリメートルの線を引いたとして、それは実寸では幅50メートルの線になるのである。また、引いた線が0.25度ずれたとして、その直線を4.5キロ分(すなわち地図上で4.5センチ)延ばせば、地図上では200メートルずれることになる。

論争

レイラインと呼ばれているものは遺跡偶然そう見えるように並んだ結果に過ぎないという、レイラインを認めるうえで否定されなければならないこの仮説を裏付けるために提唱されている前述の理論は、実のところレイライン説を否定する的確な説だというわけではない。しかし、懐疑派の人間に、ランダムに点を打ち直線を引いてみるあのテストに裏付けられた主張は現実に見受けられるレイラインの存在の前に否定されてしまう、と考えさせるにいたってもいない。
懐疑派の大半は、もし伝説逸話などではなく、物理的な、つまり地磁気の存在だとか考古学的な検証だとかがレイライン上にあるのであれば、自らの懐疑的な立場を再考してもいい、と思っている。しかし懐疑派はこうした疑う余地のない証拠というものをレイラインは持ち合わせていないだろうと考えている。
レイラインについては幅広い信仰や理論があるが、それらの多くは反証可能でなく、基本的に科学的な検証方法に則っていない。中にはレイラインが科学的な根拠をもちうると主張する人もいるが、そうした説は大半がレイラインに関心のない人や積極的に否定説を唱える人々の唱えるものである。

学術調査

レイライン説についての検証の中では、レイラインが通る地点のいくつかでは地磁気の影響が平均値よりも強いと言われている。こうした説は『Places of Power(力ある場所)』(en:Paul Devereux著、ブランフォード社1990年発行)と『Lodestone Compass: Chinese or Olmec Primacy?(磁鉄鉱のコンパス:中華文明やオルメカ文明の卓越した技術か?)』(John B. Carlson,サイエンス,1975)に詳しい。

フィクションでのレイライン

多くの剣と魔法の世界に於いて 世界はレイラインをわずかな魔力の一分野として扱っている[要出典]。またレイラインが交差する点においては、魔力は普段より強くなる。この例はカードゲームであるマジック:ザ・ギャザリングシリーズの中においても見ることができる。

[転載]大阪市ライス油毒事件に関する販売経路と製造方法

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大阪市ライス油中毒事件に関する販売経路と製造方法

カネミ倉庫kk大阪支店
植田商店 東区東淡路町 
耕誠商店 西区阿波座
大阪第一食糧事業協同組合


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転載元: 土壌・底質を学ぶ

[転載]「カネミ油(廃棄分)の販売について」小出油業 若松区、当栄ケミカル 大阪市西区江戸堀、八代油脂株式会社 大阪市東住吉区加美、双樹化学工業株式会社 埼玉県草加市谷塚町、吉川製油株式会社 大阪市天王寺区北

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カネミ油(廃棄分)の販売について


小出油業 若松区

当栄ケミカル 大阪市西区江戸堀北通り

八代油脂株式会社 大阪市東住吉区加美新家町

双樹化学工業株式会社 埼玉県草加市谷塚町

吉川製油株式会社 大阪市天王寺区北河堀町






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会社概要. 社名: 株式会社 八 代; 事業所: 本社 〒547-0003 大阪市平野区加美南5 丁目5番17号 営業本部 〒550-0014 大阪市西区北堀江1丁目2番19号 大阪工場 〒 547-0003 大阪市 ... 1961年10月: 「八代油脂株式会社」と改組。(資本金500万円); 1963 ...


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〒340-0023 埼玉県草加市谷塚町1404 (工場・事務所)八潮市西袋662-2. 工場・ 事務所・・・谷塚・草加駅徒歩20分. 048-925-1311, 9時00分~17時00分. 048-925- 1314, 土、日曜日. http://www.soju-kagaku.co.jp.
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2481, 三昇建設株式会社, 富山県砺波市矢木479番地, 平成2年12月10日から平成3 年12月9日まで. 2482, 有限会社 .... 年11月18日まで. 2529, 吉川製油株式会社, 大阪 府大阪市天王寺区北河堀町10番3号, 平成3年11月26日から平成4年11月25日まで.

転載元: 土壌・底質を学ぶ

鞠智城は、文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場する

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鞠智城

       
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鞠智城
熊本県城郭構造 築城主 築城年 廃城年 遺構 指定文化財 再建造物 位置
歴史公園・鞠智城
古代山城(朝鮮式山城)
(推定)大和朝廷
建物基礎
国の史跡「鞠智城跡」
米倉・板倉・兵舎・鼓楼

鞠智城(くくちじょう/くくちのき[1])は、現在の熊本県山鹿市菊池市にあった日本の古代山城(朝鮮式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
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概要

文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場するが、築城年は記載がなく現在も確定されていない。しかし、7世紀後半、軍が朝鮮半島の白村江新羅の連合軍に敗れたため、その来寇に備える軍事拠点と位置づけられて築城されたものと考えられている。古代史の資料『六国史』の記述や百済系の出土例などから、鞠智城は百済の亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。
大宰府管轄下にあった6城の中でもっとも南に位置しており、前線の大野城基肄城に物資を供給する兵站基地として築かれた城と考えられている。城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。



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1959年昭和34年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。1967年(昭和42年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。
平成6年(1994年)より「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備が開始された。校倉造り米倉や兵舎が1997年(平成9年)に、八角形鼓楼が1999年(平成11年)に復元され公開されている。2004年(平成16年)に国の史跡に指定された。


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関連文献

続日本紀』文武天皇二年(698年)五月二十五日条
「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治(ぜんち)せしむ」
三代実録』元慶三年(879年)三月十六日条
「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸が自ら鳴る」


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白村江の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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白村江の戦い 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
戦争:白村江の戦い
年月日
旧暦天智天皇2年8月27日 - 同年8月28日
グレゴリオ暦663年10月4日 - 10月5日
場所:朝鮮半島、白村江(現在の錦江近郊)
結果新羅連合軍の勝利

新羅
倭国
百済遺民勢力
劉仁軌
文武王
上毛野君稚子
阿倍比羅夫
扶余豊璋
不明
唐軍:130,000?[1]
唐船舶:170余以上
新羅軍:50,000?[1]
倭国軍:42,000
倭国船舶:800余
百済軍:5,000
不明船舶:400
兵:10,000
馬:1,000
(中国)白江口の戦い 各種表記繁体字簡体字拼音注音符号英文
白江口之戰
白江口之战
Báijiāngkǒu zhī zhàn
ㄅㄞˊ ㄐㄧㄤ ㄎㄡˇ ㄓ ㄓㄢˋ
Battle of Baijiangkou
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(朝鮮)白江の戦い 各種表記ハングル漢字発音日本語読み:2000年式
MR式
英語表記:
백강 전투
白江戰鬪
ペッガンチョントゥ
はっこうせんとう
Baekgang jeontu
Paekkang chŏnt'u
Battle of Baekgang
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白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、新羅連合軍との戦争のことである。

名称

 日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれることが多い。「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ[2]。「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」で城や柵を指す[2]。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった[2]。ただし、大槻文彦の『大言海』では「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。
漢語では白江之口と書く(旧唐書[2]



背景

朝鮮半島と中国大陸の情勢

6世紀から7世紀朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津(くまなり)への遷都によって復興し、538年には泗沘(しび)へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている[3]
一方、581年に建国されたは、中国大陸を統一し文帝煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国されたは、628年に国内を統一した。唐は二代太宗高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。

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唐による新羅冊封

新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[4]649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。

百済の情勢

百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[5]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[6]。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[7]。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた[7]
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[7]



倭国の情勢

この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
遣唐使
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。

百済の役

660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[8]

百済滅亡

 660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[9][10]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[10]。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった[1]
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[10]。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[10]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた[10]
黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、階伯(かいはく)将軍の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた。新羅側は太子法敏(のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品日(ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した[10]。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された[11][12]
唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った[13]。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した[13]
7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否[13]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した[13]
660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘(しび、サビ)城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督として派遣した[14]熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた[7]。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている[2]

百済復興運動

唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かう[15]と、百済遺民鬼室福信黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した[16]。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[16]。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた[16]。熊津都督王文度も着任後に急死している[16]
唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[17]。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した[17]
しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信、僧侶道琛(どうちん)、黒歯常之らの任存城や、達率余自信周留城(スルじょう)などが抵抗拠点であった[17]

倭国による百済救援

百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。
661年、斉明天皇は九州へ出兵するも邦の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

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古代山城(こだいさんじょう)は、飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である

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古代山城

   
古代山城の分布
緑色は文献に見える山城(狭義の朝鮮式山城)、青色は見えない山城(神籠石式山城)。
古代山城(こだいさんじょう)は、九州地方北部・瀬戸内海周辺にあった古代日本の山城の総称。



概要[編集]

飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう))」、見えない山城は「神籠石式山城(こうごいししき-、神籠石系山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある[1]
文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(神籠石式山城)あり、合計28ヶ所を数える[2]。これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なもので区画の外郭線は数キロメートルを測る[1]。これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている[2]

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分類

狭義の朝鮮式山城

「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく[2]。『日本書紀』によれば、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答ホン春初[3]が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城椽城を築城したという[2]近江大津宮遷都や水城築城と同様に、新羅からの侵攻を意識した施設になる[2]
文献では高安城茨城常城長門城屋島城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない[2]。所在の明らかな城の遺構としては、石塁・土塁・建物跡などがある[2]
なお、『日本書紀』の壬申の乱の記事では三尾城(滋賀県高島市付近か)の存在が見えるが、これも近江大津宮の北方守備として築かれていた朝鮮式山城の1つとする説がある[4]

中国式山城

怡土城跡(福岡県糸島市
「中国式山城」または「大陸系山城」の名称は、文献に見えるも朝鮮式山城には属さない怡土城福岡県糸島市)を指す[2]。築城時期は朝鮮式山城(7世紀後半頃)から下る8世紀中頃で、その背景としては唐の安禄山の乱の影響に備えたとする説や、藤原仲麻呂による新羅征討計画の拠点とする説などがある[5]。ただし、後者の新羅征討計画は実行に移されることはなかった[2]。この怡土城の築城には、吉備真備が入唐時の知識を活かしたと見られている[2]。遺構としては土塁・望楼跡・城門跡などがある[2]
朝鮮式山城が攻撃相手に城内を見せない構造を採るのに対して、怡土城では山の斜面にたすき状に築き城内を見通される構造を採るなどの特徴があり、攻撃的性格の強い城とされる[6][7]

神籠石式山城

御所ヶ谷神籠石
(福岡県行橋市ほか)
神籠石式山城」の名称は、初めて発見された高良山の遺跡の呼称に由来する[2]。その後各地で高良山に似た列石や石塁の遺構が見つかり、これらを巡り霊域説・山城説に分かれて議論(神籠石論争)が展開されたが、現在では山城跡が定説となっている[1][2]。百済の技術を基にした山城と見られる点では、この神籠石式山城も「広義の朝鮮式山城」の範疇に入る[2]。現在見つかっているものは16ヶ所[2]。遺構の特徴としては、切石を並べた列石を土塁の土留め石とする点や、列石区画の内側には特に建物跡が見られないという点が挙げられる[2]
これらの山城では年代を示す遺物の出土が少ないため、その存続年代が明らかでない[2]。上記の朝鮮式山城と同様の7世紀後半頃と推測する説などがあるが定かではなく、朝鮮式山城・神籠石式山城の年代の前後関係が注目されている[1][2](詳細は「神籠石」を参照)。



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一覧

[表示]全ての座標を示した地図 - OSM
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200地点までの座標を示した地図 - Bing国 名称 所在地 座標 主な遺構 史跡指定 文献 備考 文化庁
古代山城の一覧[2][8]
文献に見える城(狭義の朝鮮式山城)
大和国高安城奈良県生駒郡平群町
ほか
位置倉庫建物跡なし天智天皇6年(667年)11月条(築城)
天智天皇8年(669年)是冬条(修造)
天智天皇9年(670年)2月条(修造)
文武天皇2年(698年)8月20日条(修造)
文武天皇3年(699年)9月15日条(修造)
大宝元年(701年)8月26日条(廃城)
備後国茨城(推定)広島県福山市(未判明)なし養老3年(719年)12月15日条(廃城)
常城(推定)広島県福山市・府中市(未判明)なし養老3年(719年)12月15日条(廃城)
長門国長門城(推定)山口県下関市(未判明)なし天智天皇4年(665年)8月条(築城)
天智天皇9年(670年)2月条(築城)
讃岐国屋島城香川県高松市位置石塁・土塁・水門跡・貯水池跡国の史跡天智天皇6年(667年)11月条(築城)[1]
筑前国大野城福岡県糟屋郡宇美町太宰府市
大野城市
位置石塁・土塁・城門跡・倉庫建物跡国の特別史跡天智天皇4年(665年)8月条(築城)
文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
[2]
基肄城(椽城)佐賀県三養基郡基山町
福岡県筑紫野市
位置石塁・土塁・水門跡・倉庫建物跡国の特別史跡天智天皇4年(665年)8月条(築城)
文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
[3]
肥後国鞠智城熊本県山鹿市菊池市位置土塁・城門跡・倉庫等建物跡国の史跡文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)[4]
対馬国金田城長崎県対馬市位置石塁・水門跡・城門跡国の特別史跡天智天皇6年(667年)11月条(築城)[5]
不明
(筑前国?)
三野城(推定)福岡県福岡市(未判明)なし文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
不明
(筑前国?)
稲積城(推定)福岡県糸島市(未判明)なし文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
近江国(三尾城:参考)(推定)滋賀県高島市(未判明)なし天武天皇元年(

菊池神社 (菊池市)

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菊池神社 (菊池市)

   
菊池神社所在地位置主祭神社格等創建本殿の様式例祭地図
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菊池神社
熊本県菊池市隈府1257
北緯32度59分16.4秒
東経130度48分58.2秒
座標: 北緯32度59分16.4秒 東経130度48分58.2秒
菊池武時
菊池武重
菊池武光
旧別格官幣社・別表神社
明治3年(1870年
三間社流造銅板葺
4月5日10月15日
菊池神社の位置(熊本県内)
菊池神社
菊池神社
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菊池神社(きくちじんじゃ)は、熊本県菊池市に鎮座する神社である。南北朝時代南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る。建武中興十五社のうちの一社である。旧社格別格官幣社で現在神社本庁別表神社
境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されている。の名所としても知られている。

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摂社 城山神社は2度の元寇(文永の役、弘安の役)に出陣し、「蒙古襲来絵詞」にもその姿が描かれている第10代当主菊池武房公と、菊池の文教の祖ともいわれる第21代当主菊池重朝二柱を祀っています。
境内東側に位置します。


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菊池武房

   
 
菊池武房時代生誕死没別名官位幕府主君氏族父母兄弟子
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蒙古襲来絵詞』で元寇防塁に座る武房
鎌倉時代中期
寛元3年(1245年
弘安8年3月26日1285年5月2日
次郎
従三位(1915年)
鎌倉幕府
惟康親王
菊池氏
父:菊池隆泰 母:託摩能秀女(大友氏
武房赤星有隆直隆頼隆隆顕
隆冬康成重宗
隆盛甲斐武本堀川道武長瀬武成
島崎武経迫間武門重富武村
菊池 武房(きくち たけふさ)は、鎌倉時代中期の武将菊池氏の第10代当主。第9代当主・菊池隆泰の次男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。

生涯

文永11年(1274年)の文永の役では弟の菊池有隆とともに、上陸して赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原(そはら)へ、一部は別府(べふ)の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。

文永10年(1273年)5月に執権連署を務めた北条政村が死去した際に、政村の甥で娘婿である北条実時に宛てて「お悔やみを申し上げたいが、異国の事により鎮西の地頭御家人は参向してはならないとの御教書ですので、参拝する事できず残念です。」との書状を送っている。
弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞がなく、武房は反幕府へ傾いていたという。役の4年後の弘安8年(1285年)3月26日に41歳で死去し、後を孫の菊池時隆が継いだ。
大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られた[1]


菊池 重朝(きくち しげとも、宝徳元年(1449年)- 明応2年10月29日1493年12月7日))は、菊池氏の第21代当主。第20代当主・菊池為邦の嫡男。子に菊池武運(のち能運)、米良重房。官位は従四位下。肥後守。幼名は藤菊丸。通称は十郎。菊池氏隆盛期時の当主・武重より一字取って重朝を称す。この偏諱は、一族の菊池重安政隆の父)とその弟重順重基父子や宇土重光為光の子)も賜っている。
一説によれば、父・為邦は晩年、次男(重朝の実弟)である武邦に豊福城を奪われており、為邦の子である重朝が武邦から奪還したとされている。このように父の代から菊池氏の衰退が始まる中、1466年に家督を継いで当主となる。翌年から始まる応仁の乱では東軍に与したが、それは表面上のことであり、実際は筑後国などへの勢力拡大を目論み、応仁の乱の勢力争いとは別に自領の拡大を図るが、結局は失敗に終わる。その後は寺社勢力の統制に力を注ぐ一方で、桂庵玄樹を招聘して学問の普及などに努めた。連歌の才にも優れ、肥後の豪族を招いては連歌会を開催した。1493年10月29日、45歳で死去し、後を嫡男・武運(たけゆき)が継いだ。法名は竜雲院梅屋祥英。墓地は玉祥寺。
大正6年(1917年)11月10日、従三位を贈られた[1]



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祭神

菊池氏後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。

歴史

慶応4年(1868年)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた[1]。そこで熊本藩は、清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。菊地神社の鎮座祭は明治3年(1870年)4月28日に行われ[2]、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした[3]

明治6年(1873年)5月に郷社に列され、8年(1875年)7月には県社に昇格したが、その10月24日に楠木正成を祭る楠社(現湊川神社)が別格官幣社なのに菊池神社が県社では不公平だと白川県教部省に願い出た。3年後の同11年(1878年)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した[4]。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった[5]。同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた[6]
大正12年(1923年)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた[7]
昭和26年(1951年)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952年)9月13日に宗教法人菊池神社となった。

年表

  • 慶応4年(1868年明治元年)7月18日 - 太政官が熊本藩に菊地氏の祭祀を命じた。
  • 1873年(明治6年)5月 - 郷社になった。
  • 1875年(明治8年)7月 - 県社になった。
  •   10月24日 - 白川県が別格官幣社への昇格を教部省に願い出た。
  • 1878年(明治11年)1月10日 - 太政官が菊池神社を別格官幣社に昇格させた。菊池武重以下の将士を配祀するよう指示した。
  •   1月31日 - 熊本県大書記官北垣国道が勅使代理として菊池神社で別格官幣社被列祭典を執行した[8]
  •   6月3日 - 例祭日を5月5日に定めた。
  • 1879年(明治12年)10月30日 - 太政官が別格官幣社の中での菊池神社の順序を護王神社の次にすると定めた[9]
  • 1923年大正12年) - 菊池武重と武光を主祭神にした。
  • 1952年昭和27年)9月13日 - 宗教法人菊池神社となった。
  • 2012年平成24年)4月1日 - 熊本県の旧県民歌菊池盡忠の歌」を奉納する集いが開催される。

社殿

本殿は三間社流造、棟に千木・鰹木を置く。拝殿は桁行5間梁間3間の入母屋造平入、正面中央に3間の向拝を付す。ともに屋根は銅板葺

摂末社

文化財

(件名後の括弧内は指定の種別と年月日)
重要文化財(国指定)
  • 絹本著色伝菊池能運像
  • 菊池神社文書 4巻(41通)
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孔子公園は、泗水町の町名由来が中国思想家である孔子生誕の地中国山東省泗水県にちなんだといわれることから、町名百年を記念して平成四年に完成しました

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孔子公園について

泗水町の町名由来が中国思想家である孔子生誕の地中国山東省泗水県にちなんだといわれることから、町名百年を記念して平成四年に完成しました。建物には本格的な中国宮廷建築様式が採用され、異国情緒漂う雰囲気です。


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孔子

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生誕 死没 時代 学派 主な概念
孔 丘
紀元前552年
紀元前479年
中国・春秋時代
儒教
仁、君子
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儒教儒家思想儒学者経書儒教の歴史 関連項目
孔夫子の像
孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐ; ウェード式: K'ung-tzu紀元前552年9月28日紀元前479年3月9日)は、春秋時代中国思想家哲学者儒家の始祖。 は孔、は丘、は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった末、国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[1]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回閔子騫冉伯牛仲弓、言語に宰我子貢、政事に冉有子路、文学(学問のこと)に子游子夏である。その他、の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目としたに加え、実践が可能とされる徳目の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて治主義を主張した。『』『』『』『』『』『春秋』といったの書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集であるが整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開[2]。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥孔子学院を参照)。


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時代背景

周公旦と礼学

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟である。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たっていた。
周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。
魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制がよく保存されていた[3]。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

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魯国の状況

春秋時代に入ってからの魯国は、といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父叔牙季友は第16代荘公重臣となり、慶父から孟孫氏仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。
孔子の生まれた当時は襄公紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季孫宿(季武子)の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [4]

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生涯

出自

紀元前552年(一説には551年)に、国昌平辺境の陬、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[5]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[6]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[7]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[8]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[9]
『史記』によれば、孔子の祖先はの人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の公の兄である弗父何の十代後の子孫であり、孔子の曾祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。
孔子は3歳の時に父の叔梁紇を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。
弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[10]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[11]



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青年期[編集]

紀元前542年6月、襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。
紀元前537年に季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。
紀元前534年、孔子19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する[12]。翌年、子の(り) (字は伯魚)が誕生。
紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず倉庫を管理する委吏に、次に牧場を管理する乗田となった[13]紀元前518年には、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っている[14]。またこの年、孔子は周の都である洛陽へと遊学している。
紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[15]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。この途上で「苛政は虎よりも猛なり」の故事が起こった[16]。この間、魯は紀元前509年定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。紀元前516年、斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰がこれを阻んだ。また、孔子はの首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。紀元前517年、孔子は魯へと戻った[17]。魯に戻ってからの孔子は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励んだ。顔回や仲弓、子貢などの主要な弟子の多くはこの時期に入門している。
紀元前505年季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[18]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は紀元前502年叔孫氏孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。


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大司寇時代

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[19]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[20]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[21]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[22]

紀元前498年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を誅殺する[23]
紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[24]。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って下剋上を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、季孫氏の本城城壁は破壊できたものの家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した[25]


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亡命から晩年まで

翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのはであり、ここに5年ほど滞在した。ついで紀元前493年、いったんに向かったが衛にいったん戻り、へ向かおうとしてで妨害されたためにへと逃れ、ついでに赴き、いったんに向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。紀元前489年、孔子はに向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた。

紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国のに攻められるも奮戦し、和解した。その後、斉に攻められ敗北した。前485年には呉と共に斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。
紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。

孔子の思想を石碑で感じる

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孔子の思想

仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面とという家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

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孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある[26]。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
湯島聖堂にある孔子像

封号
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孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。
時 代 贈った為政者 封 号 年月(西暦)
孔子の封号一覧[27]
春秋時代哀公尼父哀公16年4月(紀元前479年
前漢平帝(実質王莽の差し金)褒成宣尼公元始元年夏5月(1年
北魏孝文帝文聖尼父太和16年2月(492年
北周静帝鄒国公大象2年3月(580年
文帝先師尼父開皇元年(581年
太宗先聖貞観2年(628年
宣父貞観11年(637年
高宗太師乾封元年1月(666年
武則天武周隆道公天授元年(690年
玄宗文宣王開元27年(739年
北宋真宗元聖文宣王大中祥符元年11月(1008年
至聖文宣王大中祥符5年12月(1012年
成宗大成至聖文宣王大徳11年7月(1307年
世宗至聖先師孔子嘉靖9年(1530年
世祖大成至聖文宣先師孔子順治2年(1645年
至聖先師順治14年(1657年
中華民国国民政府大成至聖先師
民国24年(1935年

人物

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身長は96、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。
飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉を細く切った物)などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[28][1]


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[転載]知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016 平成28年6月4日(土曜日)

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知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタホームページ> 知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016

知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016


更新日:平成28年5月2日

知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016

エコ

イベント概要

【日時】
 平成28年6月4日(土曜日)11時から16時まで(予定)
【会場】
 ATC ITM棟アトリウム、おおさか南港ATCグリーンエコプラザ
【主催】
 大阪府、大阪市、




イベント内容のご紹介

(1) 環境学習・体験ブース(2階、11階)

 環境活動に取組む企業や団体等が、楽しみながらエコについて学び、体験できるブースを出展します。
 出展予定数 41(今後追加・変更・中止の場合があります)
 
 出展企業・団体及び出展内容 [Excelファイル/35KB] 出展企業・団体及び出展内容 [PDFファイル/84KB]

(2) おおさかのマスコットキャラクター大集合

 大阪府広報担当副知事「もずやん」、りそなグループコミュニケーションキャラクター「りそにゃ」をはじめ、企業や自治体のマスコットキャラクターが、ダンスショーやクイズ大会等のステージイベントでみなさまとふれあい、会場やATCをめぐってイベントを応援!
もずやんモットキットえこにえねまるおうてもん
くっすんたいしくんもぐらのコージりそにゃ
左上から、大阪府広報担当副知事「もずやん」、大阪府エコアクションキャラクター「モットちゃんキットちゃん」、大阪厚生信用金庫「こうせいエコエコキャンペーン」イメージキャラクター「エコにぃ」、「えねまる」、追手門大学大学公式キャラクター「おうてもん」、四條畷市イメージキャラクター「くっすん」、太子町キャラクター「たいしくん」、阪神高速オリジナルキャラクター「もぐらのコージくん」、りそなグループコミュニケーションキャラクター「りそにゃ」、

(3) スタンプラリー

 スタンプラリーに参加いただいた方には、集めたスタンプ数に応じて企業・団体からの協賛による素敵な景品をプレゼントします。
 たくさんブースを回ると、もらえる景品の数も増えます。いっぱい回って景品をゲットしよう!
 ハイアットリージェンシー大阪の『ベイサイドバーベキュー』ペアご招待券 ×1組や、エースコック株式会社の大阪ラーメン・こぶたのノベルティなどの景品の中から抽選します。

(4) メインステージイベント(2階)

 学生団体の企画による、キャラクターと環境クイズで対決するコーナーや、みなさまからの環境への一言メモでメッセージツリーをつくるコーナーを設けます。メインステージに集まって、みんなで参加しよう!

環境クイズ大会

 
メッセージツリー
キャラクターと環境クイズで対決
 イベントを体験したみんなの思い出が
メッセージツリーに
タイムスケジュール(予定) 内容(予定)
11時00分
オープニング
(詳細が決まり次第掲載します。)(詳細が決まり次第掲載します。)
11時00分から16時00分までメッセージツリーをつくろう!

(5) 電力自由化に関するセミナー等(同時開催)(11階)

 電力自由化に関する基本的な知識を学べるミニセミナーや、環境について学べるセミナーを行います。
 また、おさいふにやさしいおうちの省エネをアドバイスする「うちエコ診断」も行います。差し支えなければ電気料金の請求書をお持ちください。
タイムスケジュール(予定) 内容(予定)
11時30分から12時まで
電力自由化に関するミニセミナー(1回目)
13時から14時30分まで環境セミナー(詳細が決まり次第掲載します。)
14時30分から15時まで電力自由化に関するミニセミナー(2回目)
15時30分から16時30分まで環境セミナー(詳細が決まり次第掲載します。)
11時から16時まで
「うちエコ診断」
おさいふにやさしいおうちの省エネをアドバイス!
 

「カーボンオフセット・イベント」

「大阪南港エコフェスタ2016」は、カーボン・オフセット制度(※)を活用、CO2排出量“0”で開催します!できるかぎりCO2を排出しないよう、公共交通機関でのご来場をお願いいたします。
※カーボン・オフセットとは・・・どうしても削減できない量の全部又は一部を他の場所での排出削減・吸収量でオフセット(埋め合わせ)することです。
*イベント内容については、都合により変更になる場合があります。

協力企業・団体

イベント運営に関するご協力

池田泉州銀行池田泉州銀行(外部サイト)        イベントを周知するチラシ1万5千枚の印刷協力
産業廃棄物協会様公益社団法人大阪府産業廃棄物協会(外部サイト)  イベント会場で配布するスタンプラリーカードの印刷協力

スタンプラリー景品のご提供

ご協力いただく企業・団体の情報を随時更新します。

募集情報

○ 「知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016」へのブース出展、協賛企業・団体を募集します! (平成28年3月23日から平成28年4月6日まで) ※募集は終了しました。

問い合わせ

大阪府環境農林水産部 環境農林水産総務課

交通アクセスもグンと便利に

コスモスクエアと大阪築港地区を結ぶ咲洲トンネル(自動車道、地下鉄)が1997年に開通し、大阪市の中心本町地区から、地下鉄で約18分と交通アクセスもグンと便利になりました。
 

●地下鉄とニュートラムご利用の場合

梅田・本町・心斎橋・なんば方面から地下鉄中央線「本町」からコスモスクエア経由で約18分
※地下鉄四つ橋線住之江公園から約16分「トレードセンター前」下車直結

●電車をご利用の場合

大阪・天王寺方面から環状線「弁天町」駅から地下鉄中央線に乗り換え
コスモスクエア経由で約15分「トレードセンター前」下車直結
地下鉄・ニュートラム路線図


更新日:平成28年2月15日

豊かな環境づくり大阪府民会議とは

 豊かな環境都市・大阪の実現に向けては、一人ひとりの取り組みをはじめ、社会を構成する各主体がパートナーシップをもって、協働して取り組んでいくことが重要となっています。
 こうした認識のもと、豊かな環境づくり大阪府民会議は、府民・事業者・行政の協働による豊かな環境の保全と創造に関する施策を積極的に推進していくことを目的に、大阪府環境基本条例に基づいて、平成6年11月に設置されました。

トピックス

 
 

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  • 知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016
    6月4日(日)、南港のATCで「知ろう!学ぼう!大阪南港エコフェスタ2016」を開催します。
    廃材を使った工作でエコを実感できるブース、発電体験や夢の自転車試乗会などの楽しく体験できるブース、地場野菜即売会、エコカーの展示、素敵な景品がもらえるスタンプラリーなど、一日中、楽しみながらエコを体験していただけます。
    主催:大阪府、大阪市、豊かな環境づくり大阪府民会議、なにわエコ会議、おおさかATCグリーンエコプラザ
    詳しくはこちらをご覧ください → HP
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転載元: 綺麗な水と大地が好きです

[転載]沖縄は先住民、それとも日本人?

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難しい問題ですよね。 基本的に日本人とは何かという定義そのものが存在しませんから

議論は迷走するしかありません。 日本人の中には非国民とか宇宙人とか暇人に加えて

美人や外国人に囚人までいますからね。ことばにしたって私は共通語の東京語の他に

大阪語を話しますし、東北語や鹿児島語は私には理解不可能でロシア語やフランス語

同様お国なまりはわかってもさっぱり分かりません。

    まあ暇そうな国連も存続するためには国際紛争が存在しなければ成りませんから、一つでも

二つでも民族問題は多い方が良いという事は間違いなさそうです。

  以下は予算の不足する国連が日本から負担金を巻き上げようとして、新たな先住民問題を

捜し出して国連の存在意義を声高に叫んでいる浅ましさを報じるネットニュースです。

「先住民族」撤回要求 琉球王国の認識に違い

琉球新報 4月28日(木)11時52分配信
「先住民族」撤回要求 琉球王国の認識に違い
 国連が沖縄の人々を日本の「先住民族」と認識していることに対し、外務省が否定しているのは、歴史認識の違いによるものが大きい。それは1879年の琉球併合(「琉球処分」)まで琉球王国が独立王国として存在していたかどうかへの評価に深く関わっている。
 国連が規定する「先住民族」は、他者によって土地を奪われた、もともとその土地に住んでいた人々を指す。血統や言語といった人種や民族的同一性や違いも指標にはなるが、最も重要なポイントは、そこの土地はそもそも誰のものだったかという「土地の権利」だ。
 国連が沖縄の人々を「先住民族」と認めたのは(1)琉球王国が1850年代に米国、フランス、オランダと修好条約を結び、国際法上の主体=主権国家として存在していた(2)79年に日本によって併合され沖縄県が設置された(3)その後日本に支配され差別の対象とされた―主にこの3点を事実として認定したからだ。
 一方、日本政府側は琉球王国が国際法上の主体としての独立国家だったかどうかについて「『琉球王国』をめぐる当時の状況が必ずしも明らかでなく、確定的なことを述べるのは困難」という判断を避ける答弁を繰り返してきた。つまり公式には琉球王国の存在を確定的なものとして認めていない。
 ただ、今回の国会答弁のように日本の先住民族は「アイヌの人々以外にいない」ということであれば、少なくとも1879年以前、琉球人は存在せず、琉球王国の国民は日本人だったことになる。琉球王国の存在を認めた場合、先住民族論に最も重要な根拠を与えることもあり、判断を避けているとみられる。
 2007年に国連で採択された先住民族権利宣言は、先住民族の合意がない限り先住民族の土地を軍事に利用することを禁じている。日本政府が沖縄の人々を先住民族として認めると、日本政府は米軍基地問題などこれまでの沖縄政策で多くの「不正」を是正せざるを得なくなることも、認めたくない理由の一つだろう。(新垣毅)
琉球新報社
【関連記事】

政府「沖縄は先住民ではない」 県内の反応は?

沖縄タイムス 4月28日(木)6時8分配信

       沖縄の人々を「先住民族」とする国連人種差別撤廃委員会などの見解について「事実上の撤回や修正を行うよう働きかけたい」とした木原誠二外務副大臣の国会答弁。28日、沖縄は「屈辱の日」を迎えるが、「連綿と続く差別」を顧みないことへの不満や「極端な同化主義」との批判が上がる一方で「県民は日本人」と評価する声も聞かれた。
       国際機関で沖縄問題を取り上げてきた「琉球弧の先住民族会」の宮里護佐丸代表は「琉球国の時代や、その後日本に併合された歴史を振り返れば、国連が示す先住民族の定義にあてはまるのは誰が見ても明らかだ」と指摘する。
       その上で「住民を本土と同等に扱っていたのなら、先住民だという人は一人もいない。差別が連綿と続いているから、自ら先住民と名乗って権利を主張している。きちんと歴史を見てほしい」と不満を訴えた。
       ヘイトスピーチなどの問題を取材し、昨年9月には翁長雄志知事の国連演説も傍聴したジャーナリスト安田浩一さんも、沖縄の人々の人権が侵害されてきた歴史や、過重な基地負担をめぐって国と県が対立する現状を踏まえ「先住民と主張する意見はもっともだ」と理解を示す。
       今回の政府の姿勢を「本土の意見に逆らうな、国益に反するようなことはするなという極端な同化主義だ」と批判し「沖縄の人は、復帰以降も変わらない過重な基地負担の軽減を訴えているにすぎず、政府は沖縄側の気持ちを無視している」と指摘。
       さらに「政府は同じ日本人というのなら、沖縄の基地負担を本土も分かち合う方策を積極的に模索するべきではないのか。安全保障の名の下に不公平な立場に置かれ続けている沖縄の現状を、政府は理解していない」とした。
       この問題をめぐって、豊見城市議会は昨年12月、国連勧告撤回を求める意見書を賛成多数で可決した。
       提出者の新垣亜矢子市議は木原副大臣の発言について「県民は日本人であることが前提だ。意見書を後押ししてもらう答弁に感謝している」と評価。
       その上で「少数意見が国連で通ったことは問題であり、勧告が間違っていることを県民に理解してもらいたい」と要望した。
      最終更新:4月28日(木)11時52分
      琉球新報
       

      転載元: 原典聖書研究

      [転載]元冠の役 フビライハーン 大艦隊の遭難

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      06/12/4二○○七年八月二日(木)

      元冠の役 フビライハーン 大艦隊の遭難

      台風 は1281年8月21日に突然と襲来した。
      1281年5月 わずか準備期間1年で4400隻の大艦隊を率いて 日本に進撃した元 フビライハーンの大艦隊は勝利を確信していた。
      が台風によって元 モンゴルの大艦隊は姿を消す。鷹島沖の調査が進められ
      その証拠とし沈没船の碇とロープは みな一定の方向を向き沈没しているのだという検証がなされた。 これは 一定方向から強い風を浴びた
      という事実である。
       けれど 要因は これだけではなかった。
      フビライハーンは わすが1年で4400艘の大艦隊を編成した。
      わずか1年で4400艘の船を建造すると言うことは 当時最新の造船技術をもつ中国とは言え 不可能である。 この4400艘の大艦隊は 多分に史上最高の大艦隊である。
       近来、これに匹敵する大艦隊と言えば4000隻を保有した第2次世界大戦 フランス のノルマンディ 連合軍上陸作戦である。
      では何故、これほどの船を調達できたのか。
      日本への進撃を急ぐフビライハーンは当時の中国の川船 朝鮮の川船を多く調達したのだ。 難破船の海底調査の結果、これら川船の残骸が多く発見された。遠洋航海に適する船には みな船底が竜骨構造になっているが。川船は 平面化かしているため 台風の風を受ければ ひとたまりもなく転覆する。
      さらに 、船長 当時として最高は70メートル 水密区画の設計をほどこしてあるものの その船は みな改造船だったのである。
       さらにマストシップの構造にも欠陥が認められ その構造は 横―波に対して脆弱な構造だったのである。
      元には 当時最新の武器があった、爆薬 砲弾である。 当時の日本にはなかった 爆薬の効果は絶大なものであり、さらに 弓術は300メートル先をも射ることのできる協力な武器であった。
       これらの武器を駆逐し 上陸を試みる元軍に対して、日本は 剣のみである。
      しかし、剣は接近戦に強い。武術に優れている日本の武士団は元上陸に際しての接近戦においては 圧倒的に優勢をほこり その上陸を許さなかった。元軍はここでも大きな過ちを起こした。全体を攻撃するあまり、
      自国の武器と戦力に対して過信していたのである。
      もし、元軍が上陸地点をきずき そこを処点として攻撃していたならば
      日本軍は敗北していたかも知れない。
      再上陸を試みる元軍の将軍 アラカンは 陸上船においては卓越した指揮官であった。しかし艦隊を率いての海上戦に対しては 知識も経験も乏しい。
      上陸を失敗して 再上陸する前 突如として 台風に襲われたのである。
      推定では風速50メートルから70メートルの台風が突然と博多沖は 鷹島周辺に去来したのである。避ける手段はない、
      4400隻の大艦隊は大半失われた。当時の中国側の資料によれば
      戦死者は7万人近くに及んだといわれる。

      フビライハーン のモンゴル軍の不滅神話はここに崩れた。
      それ以降 ブビライハーンの統治能力にかげりが見え
      やがて 元帝国は 滅びて 再びモンゴルの平原に帰っていったのだ。

      余記
       戦争中日本軍は神風を信じた、この元冠の役における偶然性が
      日本に不滅の幻想を抱かせた。経済の発展 人工膨張による食糧確保は
      大陸進出を抱かせ その結果 多くの民が困難に瀕して あるものは それを理容して巨大財閥を造り栄華を極めた。 人の幸福は 決して経済だけではない、アフリカ住民の一部には その日の食糧のために働き
      その日を生きている。文化芸術スポーツは人の心を豊かにするというが
      その影も存在するという事実を忘れてはならない。
      07/7/12 22時27分44秒 

      転載元: 徒然 あさやんの史記と四季 金閣寺

      伊勢・鳥羽の歴史(伊勢神宮

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      伊勢神宮

      神宮 所在地 位置 主祭神社格等 創建 本殿の様式別名 札所等 主な神事 地図
      Naiku 04.jpg
      内宮(皇大神宮)
      内宮(皇大神宮)
      三重県伊勢市宇治館町1
      外宮(豊受大神宮)
      三重県伊勢市豊川町279

      内宮:天照坐皇大御神(天照大御神
      外宮:豊受大御神
      式内社(大)
      二十二社(上七社)
      神宮(近代社格超越-対象外)
      内宮:垂仁天皇26年
      外宮:雄略天皇22年
      唯一神明造
      伊勢神宮
      神仏霊場巡拝の道特別参拝
      伊勢神宮の祭事を参照
      伊勢神宮の位置(三重県内)
      内宮
      内宮
      外宮
      外宮
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       伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)[注釈 1]。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり[1]、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される[2]神社本庁の本宗(ほんそう)である。


      創祀神話

       天孫・邇邇芸命が降臨した際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。

       崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

       崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

       崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

       天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動した。
       垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 3]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

       『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。
       この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
      なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳』(とゆけじんぐうぎしきちょう)[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

      古代

       皇室氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)[6]天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。

      中世

       朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬された[9]神仏習合の教説において神道側の最高神とされる[10]。また、外宮側の度会家行より伊勢神道度会神道)が唱えられた[10]。戦乱により神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮(後述)が行えない時代もあった[9]。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭した[9]
      伊勢参宮名所図会(1797年)による内宮の正宮。当時は内宮・外宮ともに板垣も外玉垣もなく、参拝客は玉串御門(現在の内玉垣南御門)前まで行けた。

      近世

       お蔭参り(お伊勢参り)が流行した[6]。庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝した[9][6]

      崇神天皇

        
      崇神天皇
      先代 次代
      陵所 異称 父親 母親 皇后 子女 皇居
      『大日本帝紀要略』(1894年)
      在位期間
      崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
      開化天皇
      垂仁天皇
      山邊道勾岡上陵
      御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
      開化天皇
      伊香色謎命
      御間城姫
      垂仁天皇彦五十狭茅命国方姫命千千衝倭姫命倭彦命五十日鶴彦命豊城入彦命豊鍬入姫命大入杵命八坂入彦命渟名城入媛命十市瓊入媛命
      磯城瑞籬宮
      テンプレートを表示
      崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。
      和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。


      人物

       記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。

       日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。このように崇神天皇を大和朝廷の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神天皇のかかわりをどう考えるかが問題になってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好による「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与摂政だった」という説、西川寿勝の「崇神天皇は『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などが提唱されている。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国は大和朝廷とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠などの説などが存在している。

       『日本書紀』の記述では、神武天皇が畿内で即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて日本の広範囲の出来事の記述が出てくる(崇神天皇による四道将軍の派遣派兵など)ことから、崇神天皇が初代天皇ではなく欠史八代が史実を反映していると見る立場から、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。

      略歴

      年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

      開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位

      崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

      崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

      崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

      天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 1]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

      崇神天皇7年2月、大物主神倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。

      祟神天皇7年8月7日、倭迹速神浅茅原目妙姫大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

      崇神天皇10年9月、大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

      崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。

      崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。

      崇神天皇48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

      崇神天皇60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

      崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

      崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。
      『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。


      豊鍬入姫命   

      豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと[1]生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本皇族
      日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。
      第10代崇神天皇皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

      系譜

      (名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
      日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる[2]
      なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる[2]

      記録

      日本書紀崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという[2]。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。
      同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)


      倭姫命   

      『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。

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      扶桑略記   

      扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。
      寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。
      内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。



      『扶桑略記』の特徴とその享受―仏教関連記事の検討から―
      はじめに
      中世は多くの歴史叙述が行われた時代である。たとえば歴史書に限っても、日本の始原を基点とする通史である『日本紀略』や『扶桑略記』、鎌倉幕府の公的歴史書という性格を持つ『吾妻鏡』、さらには類聚という院政期を代表する行為による『本朝世紀』など多様な内容のものがある。
      このような歴史書については、これまで多くの研究がなされている。それらは主に、叙述

      の特徴を明らかにするものや、歴史史料として記事の内容を検討するものであった*
      1
      しかし、それらの研究で検討の対象とされるテクストは、中世において書写されて流通し、各地の文庫に所蔵されていたのである。そのような中世における歴史書のおかれた状況を踏まえて、どのように享受され利用されたのかという視点からも歴史書の中世における位置付けを考察していくことが必要なのではないだろうか。 。これらの研究は、成立時期や編者などを明らかにしていることから基礎研究として重要であり、また歴史意識の特徴を指摘していることから思想史研究として看過できないものである。
      中世における歴史書の代表的なものとして、院政期に成立した日本通史である『扶桑略記』が挙げられる。『扶桑略記』は神武天皇より堀河天皇に至る日本の歴史を記した史書である。本来三〇巻であったと考えられるが、現存は巻第二から第六、巻第二十から巻三十の十六巻と、神武天皇から平城天皇までの抄本が遺るのみであり、その多くが失われている。その伝本については堀越光信氏が検討を行っている。『国書総目録』に掲載される八十五の伝本のうち七十八本を検討した結果、(イ)真福寺本系、(ロ)高野山系、(ハ)多数巻残存本系、(ニ)混淆体本系、(ホ)抜書本系の五系統に分けることができるということである*2。それによると、どの系統であっても全巻揃っているもの存在せず、部分的に流布していたと考えられる。そのような流布・伝存の状況からは、テクストの統一的な性格を理由に受容されていたとは考え難い。たとえば、『扶桑略記』の特徴として末法観に基づいた歴史叙述ということが指摘されているが*3
      本稿では、第一章と第二章で『扶桑略記』の特徴について分析する。第一章では、注記の分析をもとに、編者が特に関心を持っている点について検討を行う。第二章では、明らかとなった編者の関心点がどのように描かれているのかを分析する。次いで、第三章で『扶桑略記』が引用される際、その編者の関心点がどのように引き継がれているのかについて検討する。その際、『扶桑略記』は全貌が現在では不明であるため、その全体に言及することは難しい。そのためここでは、真福寺本系が巻二、三、五、六を残していることに注目し、巻第二から巻第六までを『扶桑略記』前半として検討の対象とする。 、そのような歴史書として受容されていたのであろうか。この『扶桑略記』の受容という問題を検討することから、『扶桑略記』の中世における位置付けについて考察していきたい。
      予め結論を述べると、『扶桑略記』は仏教史としての特徴を有しており、また、諸説を併記するところに特色がある。しかし、その『扶桑略記』が受容される際には、必ずしも仏教史としての特徴が受容されたわけではなく、歴史についての諸説を類聚した資料集として用いられた可能性を指摘したい。

      結論
      『扶桑略記』は、日本仏教史に強い関心を持って書かれている。その特徴は多くの資料を用いつつも、典拠を明らかにして併記するという点である。そのような特徴ゆえに、中世において評価の高い歴史書として、多くの場面で利用されていたと考えることができる。
      以上のように『扶桑略記』の受容の特徴を捉えると、中世において『扶桑略記』が置かれた位相もみえてくるのではないだろうか。『扶桑略記』は書写がくり返される一方で、部分的な書写がなされたと考えられる。それは、『扶桑略記』を利便性の高い資料として捉えられていたために、必要な箇所のみを所蔵し利用することを目的として、書写がくり返されたと考えることができよう。ここに、必ずしも通史として、全巻を有することを求められない、需要に則した『扶桑略記』の流通を想定することができる。中世における歴史書の位置付けを検討する際、このような利用を踏まえた思想性の検討も必要であろう。





      関連項目

      外部リンク

      『扶桑略記』


      扶桑略記 撰寫: 阿闍梨皇圓

      第二、起神功皇后紀盡武烈天皇紀


      [転載]花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊(伊弉冊尊、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る

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      花窟神社

         
      花窟神社 所在地 位置 主祭神神体創建 例祭 主な神事
      参道入口の鳥居
      鳥居
      三重県熊野市有馬町上地130番地
      北緯33度52分47.5秒
      東経136度5分36秒
      伊弉冉尊軻遇突智尊
      磐座
      不詳
      2月2日(春季)
      10月2日(秋季)
      御縄掛け神事
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      花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社伊弉冉尊(伊弉冊尊[1]、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る[1]

      概要

      七里御浜から見た神体の巨岩

       『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである[2]

       神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる[3]高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの[4]大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ[3]、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている[4]。一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.3キロメートル先にある産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。花窟神社では、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている[5]

       延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。
      今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である[2]。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市神倉神社の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ[3][4]、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。

       2004年世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部(熊野参詣道伊勢路の一部)として登録された。

      例大祭

      神体の巨岩から渡された綱
       特別な田で作られたもち米縄7本を束ねた長さおよそ170メートルの大綱に[3]、季節の花(2月はツバキを入れ、10月はケイトウを入れる[3])を結びつけた3つの縄幡および扇を吊して、磐座の頂上(ウバメガシに結ばれる[3])から七里御浜の海岸へと大綱が引かれ、境内の南隅にある柱(かつてはマツの神木)の先端へと引き渡される。その大綱の先端は地面の支柱に結びつけられる。大綱として束ねられる7本の細い藁縄は、伊弉冉尊の子で自然神である級長戸辺命(しなとべのみこと、風の神)、少童命(わたつみのみこと、海の神)、句句迺馳(くくのち、木の神)、草野姫(かやのひめ、草の神)、軻遇突智尊(火の神)、埴安神(はにやすのかみ、土の神)、罔象女(みつなのめ、水の神)を意味する[6]
       また3つの縄幡は、三流の幡(みながれのはた)と呼ばれ[6]、岩側より、伊弉冉尊の黄泉の穢れをはらった際に生まれた三神天照大神(あまてらすおおみかみ、太陽神)、月読尊(つくよみのみこと、月神)、素戔嗚尊(すさのおのみこと、暗黒神)を表している[3]。この3つの縄幡は、朝廷より毎年奉献されていた「錦の幡」が運ばれるとき、舟が熊野川の増水により転覆したため、変わり「縄の幡」が作られたものであるといわれる[3][4]。綱は掛け替えることなく自然に切れるまで残されるため、新たな綱と2本見られることもあり、縁起がよいものとされる[3]


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      指定文化財

      国指定文化財

      記念物(史跡
      • 熊野参詣道 花の窟 - 2002年(平成14年)12月19日指定[7]

      県指定文化財

      民俗文化財無形民俗文化財
      • 花の窟のお綱かけ神事 - 1969年(昭和44年)3月28日指定[7]

      市指定文化財

      民俗文化財(有形民俗文化財
      • 花の窟神社の版木 - 1999年(平成11年)1月28日指定[7]
      版木原画、菱川廣隆。版木の花の窟図には、お綱掛け神事による綱が御神体に掛けられた景観が示されている[8]
      (版画の文)[8]
      日本書紀曰
      伊弉冉尊生火神時被
      灼而神退去矣故葬於
      紀伊國熊野之有馬村
      焉土俗祭此神之魂者
      花時亦以花祭又用鼓
      吹幡旗歌舞而祭矣
      (日本書紀に曰く 伊奘冉尊が火の神を生む時 灼かれて神退去りましぬ 故 紀伊國熊野の有馬村に葬る 土俗(くにびと)此の神の魂を祭る者は 花の時に花を以て祭り 又 鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用いて歌い舞いて祭る)
      花の岩屋の御祭はしも二月 十月の
      二日の日 縄をもて旗をつくり千尋
      のみしめな ゆひそえ いかめしき巖
      の上より濱松のこずゑに引延ばし神
      主をはじめ縣の奴祢男女等種々
      の花横山の如く備え奉れるなむ 神代
      よりの風俗にはありける 是れより
      十丁ばかり西の方に産田の社とて
      二神の鎮り座す社あり すべては此
      地のさま 万の書にみえたればもらしける
      よみ人志らず
      春風に梢さきゆく紀の国や有馬の村に神祭せよ
      西行上人
      みくまのの御浜によする白浪は花の巌屋のこれぞ白木綿
      (裏面)[8]
      天保十五年甲辰三月成
      筆者 若山 自寛斉
      画工 平安 菱川廣隆
      彫刻 若山 加市堂
      各画料 金百匹
      彫刻料 銀壱枚
      樛屋蔵版
      • 花の窟の湯立釜 - 1999年(平成11年)1月28日指定[7]
      記念物(天然記念物
      • 花の窟神社社叢 - 1964年(昭和39年)4月28日指定[7]

      短歌

      • 「紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ」 本居宣長[2]
      • 「紀の国や有馬の村にます神に 手向る花は散らじとそ思ふ」 徳大寺公能[2](大炊御門右大臣[4]
      • 「三熊野の御浜によする夕浪は 花のいはやのこれ白木綿(しらゆう)西行[2]
      • 「神まつる花の時にやなりぬらん 有馬の村にかかるしらゆふ」 光俊朝臣[2][4]
      • 「春風に木すゑさきゆく紀の国や ありまのむらにかみまつりせよ」 よみ人しらず[2]

      交通


      花窟神社参拝のご案内

      花窟神社と熊野

      花窟神社がある熊野市は、三重県南部に位置し、北西部は標高500メートルを超える山々が連なり、奈良県および尾鷲市に接しています。
      東南部は熊野灘に面して変化に富んだ景観に恵まれ、南西部は和歌山県、奈良県と接しています。平成16年7月7日に熊野市の歴史文化遺産である松本峠や大吹峠などの熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。熊野古道とは、三重、奈良、和歌山の三県にまたがり、伊勢や大阪・京都と紀伊半島南部にある熊野の地とを結ぶ道です。古くは「くまのみち」、「熊野街道」とも呼ばれ、「熊野参詣道」として国の史跡に指定されています。
      「紀伊山地の霊場と参詣道」は、古代以来、自然崇拝に根ざした神道、中国から伝来し我が国で独自の展開を見せた仏教、その両者が結びついた修験道など多様な信仰の形態を育んだ神仏の霊場であり、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、修験道の拠点である「吉野・大峯」、真言密教の根本道場である「高野山」の3つの霊場と、これらを結ぶ「熊野参詣道(熊野古道)」・「大峯奥駈道」・「高野山町石道」からなっており、三重県・奈良県・和歌山県の合計29市町村にわたる広範囲にわたっている遺産は日本で唯一、世界でも比類のない資産として価値が高いといわれております。
      熊野市内地図と熊野古道

      花窟神社周辺のご案内

      鬼ケ城
      鬼ケ城熊野酸性岩が隆起や海面の上昇・下降に伴う海蝕・風蝕によって形成された奇岩が並ぶ場所である。毎年8月に行われる、熊野大花火大会の「鬼ケ城大仕掛け」でも有名。
      (三重県熊野市木本町)
      獅子巌
      獅子岩獅子巖は熊野酸性岩の風蝕洞で、南側から見ると獅子の頭部に似た景観をみせる。
      高さ25mの奇岩。国の名勝・天然記念物。
      (熊野市井戸町 JR熊野市駅から徒歩7分)
      七里御浜(ひちりみはま)
      七里御浜熊野市から鵜殿村に至る約22Km続く日本で一番長い砂礫海岸。これまでに「日本の渚百選」や「21世紀に残したい自然百選」などにも選ばれた景勝地。
      (三重県熊野市・御浜町・紀宝町)
      産田神社
      神社の名は伊弉冊尊がこの地で軻遇突智神を生んだとの伝説からつけられたといわれている。
      (三重県熊野市有馬町1814 JR熊野市駅から車で5分)

      花窟神社所在地

      • 鎮座地
        • 〒519-4325 三重県熊野市有馬町上地130
      • 駐車場
        • あり(茶屋 花の岩屋横 )20台 無料

      花窟神社までの交通機関

      花の窟神社までの交通案内図
      名古屋からのアクセス

      車でお越しの場合

      名古屋ICから
      東名阪~伊勢自動車道(勢和多気IC経由~大宮大台I.C)⇒国道42号線にて熊野市まで約3時間(約200km)

      電車でお越しの場合

      名古屋駅から
      JR紀勢本線 特急「ワイドビュー南紀号」で熊野市駅まで約2時間50分
      JR松阪駅から
      JR紀勢本線特急ワイドビュー南紀で熊野市駅まで約1時間50分
      熊野市駅から
      三重交通バス 「熊野市駅前」停⇒「花の窟」停まで約5分

      バスでお越しの場合

      名古屋駅から
      名鉄バスセンターのりばより三重交通バスにて「熊野市駅前」停まで約4時間
      大阪からのアクセス

      車でお越しの場合

      大阪から
      西名阪自動車道(郡山IC)~橿原~国道169号~国道42号経由~熊野市まで約3時間30分(約180km)
      白浜から
      国道311号~168号経由- 新宮市街地から国道42号を北上(約130km)

      電車でお越しの場合

      JR新大阪駅から
      特急「スーパーくろしお号」で新宮駅まで約3時間50分
      近鉄 上本町から
      近鉄阪伊乙特急で松阪まで1時間28分⇒JR特急南紀で熊野市駅まで約1時間49分
      JR天王寺駅から
      きのくに線特急オーシャンアローで新宮駅まで約3時間20分
      JR京都駅から
      きのくに線特急オーシャンアローで新宮駅まで約4時間10分
      JR新宮駅から
      普通列車で熊野市駅まで30分
      JR熊野駅から
      三重交通バス 「熊野市駅前」停⇒「花の窟」停まで約5分


      www.hananoiwaya.jp/ - キャッシュ
      花の窟神社公式サイト。イザナミノミコトの御陵。世界遺産・熊野古道・紀伊山地の霊場 と参詣道。御縄掛け神事。(三重県熊野市)
      サイト内リンク:
      交通のご案内 - 御祭神 - 由緒書 - 例大祭
      hananoiwaya.com/hananoiwaya/iwaya_index.html - キャッシュ
      神々が眠る日本最古の地・花の窟 花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミ ノミコト)が火神・軻遇突智尊(カグツチノミコト)を産み、灼かれて亡くなった後に葬られた 御陵です。平成16年7月に花の窟を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録 され ...
      hananoiwaya.com/ - キャッシュ
      花の窟活性化地域協議会公式サイト。イザナミノミコトの御陵。世界遺産・熊野古道・ 紀伊山地の霊場と参詣道。御縄掛け神事。(三重県熊野市)

      転載元: ストリートフォトグラファークラブのブログ

      [転載]エクシブ鳥羽の庭にある贄遺跡は縄文中期の始め から平安時代にいたる各時代の遺物が層をなして発見された学術的にも貴重な遺跡 です。

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      www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_da... - キャッシュ
      遺跡はホテルの庭園となっています(2003-12-8撮影) ... 贄遺跡は縄文中期の始め から平安時代にいたる各時代の遺物が層をなして発見された学術的にも貴重な遺跡 です。 各種の土器、 ... 贄遺跡鳥羽市の生浦湾に面した小さな入り江、ニ地浦に あります。


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      www.amazon.co.jp/鳥羽贄遺跡-鳥羽市埋蔵文化財調査報告3... - キャッシュ
      Amazon.co.jp: 鳥羽贄遺跡 (鳥羽市埋蔵文化財調査報告3): 鳥羽市教育委員会: 本.
      www.city.toba.mie.jp/.../tobajyousekihakkutu/houkokus... - キャッシュ
      鳥羽市教育委員会刊行の発掘調査報告書. 鳥羽城跡 ... 市内遺跡. おばたけ遺跡(第1・ 2・3次)発掘調査概要 残部なし. おばたけ遺跡発掘調査報告(第4次) 残部なし. 鳥羽 贄遺跡残部あり. 鳥羽贄遺跡第2次発掘調査報告 残部なし ...
      www.bunka.pref.mie.lg.jp > ... > 県史あれこれ - キャッシュ
      こうした朝廷への食料の献上は、飛鳥・奈良時代以前にも行われていたようで、『古事記 』の中にも「島之速贄(しまのはやにえ)」 ... この「贄」という言葉も「朝廷(神)に捧げる みやげの魚など」という意味ですが、鳥羽市内の海辺には「贄遺跡」と呼ばれる古代の ...
      ci.nii.ac.jp/ncid/BN09006114
      書誌事項. 鳥羽贄遺跡. 鳥羽市教育委員会編. (鳥羽市埋蔵文化財調査報告, 3). 鳥羽市教育委員会, 1975.3. タイトル別名. 贄遺跡 : 鳥羽. タイトル読み. トバニエ イセキ. 大学図書館所蔵 11件 / 全11件. すべての地域, 北海道, 東北地方, 青森, 岩手, 宮城, 秋田 ...
      ja.wikipedia.org/wiki/伊射波神社 - キャッシュ
      伊射波神社
      地理院地図 Googleマップ 伊射波神社. 伊射波神社(いざわじんじゃ)は、三重県鳥羽市 安楽島町(あらしまちょう)の加布良古崎にある神社。式内社(大社) ... 公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』によれば、安楽島の二地(ふたぢ)の鳥羽...
      kurosaki-shoten.shop-pro.jp/?pid=87815436 - キャッシュ
      鳥羽贄遺跡鳥羽市埋蔵文化財調査報告3. 分類 : 考古学・調査報告書・城郭関係書. 鳥羽市教育委員会 函(背ヤケ・スレ・少シミ)付 本体少シミ 小口ヤケ・少汚れ 昭50 1冊. 販売価格, 1,000円(税込). この商品について問い合わせる · この商品を友達に教える

      転載元: ストリートフォトグラファークラブのブログ

      [転載]熊野の徐福ノ宮(徐福神社)は、 徐福伝説に因んで祀られている。駅から徒歩約10分。御神宝はすり鉢であり、同時に発見された秦の時代の半両銭の実在が、この地の徐福伝説の大きな根拠とされている。

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      徐福ノ宮

         
      徐福ノ宮 所在地 位置 主祭神
      Jofukunomiya.jpg
      三重県熊野市波田須町
      北緯33度54分51秒
      東経136度8分24.7秒
      徐福

      徐福ノ宮(じょふくのみや)は、三重県熊野市波田須町にある徐福が祀られている神社である。新宮市に徐福を記念する公園がある。

      交通






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      波田須駅


         
      波田須駅 所在地所属事業者所属路線 キロ程電報略号駅構造ホーム乗車人員
      -統計年度- 開業年月日 備考
      ホーム(2005年7月)
      ホーム(2005年7月)
      はだす - Hadasu
      新鹿 (2.4km)
      (2.0km) 大泊
      三重県熊野市波田須町713
      東海旅客鉄道(JR東海)
      紀勢本線
      153.2km(亀山起点)
      ハス
      地上駅
      1面1線
      22人/日(降車客含まず)
      -2014年-
      1961年昭和36年)12月11日
      駅員無配置駅
      テンプレートを表示
      波田須駅(はだすえき)は、三重県熊野市波田須町にある、東海旅客鉄道(JR東海)紀勢本線である。
      紀勢本線全通後に増設された駅で、開業当初から無人駅である。熊野市駅の管理下にある。

      駅周辺

      波田須集落の南にある斜面の最下部に位置しており、斜面の上を通る国道311号からは細く曲がりくねった坂道を下らなければならない。
      東に向かって坂道を登ると、太平洋をバックに線路を見下ろすことができるポイントがあり、鉄道撮影の名所となっている[3]
      • 徐福ノ宮(徐福神社) - 徐福伝説に因んで祀られている。駅から徒歩約10分[4]。御神宝はすり鉢であり、同時に発見された秦の時代の半両銭の実在が、この地の徐福伝説の大きな根拠とされている[5]
      • 波田須児童館
      • 波田須神社
      • 熊野市立波田須小学校 - 2004年に熊野市立新鹿小学校波田須分校となった後、2005年度以降は休校となっている[6]
      • カイタロー鼻

      バス路線

      国道311号に沿って熊野市自主運行バスが「潮風かほる熊野古道線」を運行しており、「波田須小学校前」バス停が最寄りとなる。


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      徐福


         
      徐福像(新宮市徐福公園内)
      徐福(じょふく)は、中国秦朝紀元前3世紀頃)の方士[1]国の琅邪の出身。別名は徐巿(じょふつ[2])。


      『史記』による記述

      司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、始皇帝に、「東方の三神山に長生不老不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。
      又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
      司馬遷 「淮南衝山列伝」『史記』巻118。
      東方の三神山とは、蓬莱方丈瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる[3]。瀛州はのちに日本を指す名前となった[3]。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。
      同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている[4]。現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたものである。

      出航地

      『列仙酒牌』より
      出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市[5]が有力とされる。途中、現在の韓国済州道西帰浦市[6](ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。

      伝承

      日本における伝承

       青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である[7]
       徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。

       徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。
       徐福が信濃の蓼科山に住んでいた時に双子が誕生した。双子が遊んだ場所に「双子池」や「双子山」がある[8]

       徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し[9]、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり[9]、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。
       ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。

      イメージ

      中国における伝承

      北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。

      朝鮮における伝承

      朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。



      転載元: ストリートフォトグラファークラブのブログ

      四道将軍

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      四道将軍

         
      四道
      四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す[1]


      概要

      『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸東海西道丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国丹後国但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ[1]、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている[2]。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている[3]
      古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。
      また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。
      四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

      神話での記述

      大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社福井県鯖江市)、敢国神社三重県伊賀市)、伊佐須美神社福島県会津美里町)、古四王神社秋田県秋田市)等に祀られている。
      武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社岐阜県岐阜市)、健田須賀神社茨城県結城市)等に祀られている。
      また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。
      吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社吉備津彦神社岡山県岡山市)、田村神社香川県高松市)等に祀られている。
      丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社京都府京丹後市)等に祀られている。

      考古学上の成果

      大彦命に関しては、埼玉県稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意冨比垝(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である[4]。このことから、四道将軍が創作された神話ではなく、実際に伝承された祖先伝説を元に構成されたことを示しているとも考えられている。
      崇神天皇陵に比定されている行燈山古墳(墳丘全長約242m、後円部直径約158m、後円部高さ約23m)と吉備津彦命の陵墓参考地(大吉備津彦命墓)である中山茶臼山古墳(墳丘全長約120m、後円部直径約80m、後円部高さ約12m)はサイズがほぼ2対1の相似形であることが指摘されている[5]

      備考

      • 前田晴人は四道将軍の神話自体は史実とは認めないものの、ここに描かれた「四道」を五畿七道成立以前のヤマト王権の地域区分であったとし、四道将軍はその成立を説明するために創作された説話であるとする説を唱えている。
      • 前田春人の2014年時点での見解は、四道という語は6世紀国造制再編による影響によって導入された中華思想的な概念とする[6]。論拠として、5世紀倭の五王の一人である武(雄略天皇)が出した上表文には、「東西南北」ではなく、「東西」を平定したといった内容が記され、東西を基軸とした国家統治を基本として、本来、こちらが弥生期から続く伝統的な観念であり[7]、『古事記』においても、「西道」(吉備国)の記述がなく、これにともなって「四道」の語もない[8]ことから、4世紀時点に四道の語はなかったとする。

      『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。

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      日本書紀

         
      日本書紀(平安時代の写本)

        『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文編年体をとる。全30巻。系図1巻が付属したが失われた[1]


      成立過程

      日本書紀成立の経緯

       『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、
      「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
      とある。その意味は

      「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
      ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。

       また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる[2]

      記紀編纂の要因

       乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。
        『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。
       天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し、記紀編纂の余裕はなかった。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。
       そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

      原資料

       『日本書紀』の資料は、記事内容の典拠となった史料と、修辞の典拠となった漢籍類(『三国志』、『漢書』、『後漢書』、『淮南子』など)にわけられ、さらに、史料には以下のようなものが含まれると考えられている[3]
      • 帝紀[4]
      • 旧辞
      • 古事記
      • 諸氏に伝えられた先祖の記録(墓記)
      • 地方に伝えられた物語(風土記
      • 政府の記録
      • 個人の手記(『伊吉連博徳書』、『難波吉士男人書』、『高麗沙門道顯日本世記』、(釈日本紀に挙げられている『安斗宿禰智徳日記』、『調連淡海日記』))
      • 寺院の縁起
      • 日本国外(特に、百済の記録(『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』))
      • その他
       なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。
       『日本書紀』は本文に添えられた注の形で多くの異伝、異説を書き留めている。「一書に曰く」の記述は、異伝、異説を記した現存しない書が『日本書紀』の編纂に利用されたことを示すといわれている[5]。また『日本書紀』では既存の書物から記事を引用する場合、「一書曰」、「一書云」、「一本云」、「別本云」、「旧本云」、「或本云」などと書名を明らかにしないことが多い。ただし、一部には、次に掲げるように、書名を明らかにしているものがあるが、いずれの書も現存しない。
      • 日本旧記』(雄略天皇21年〈477年〉3月)
      • 高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年〈660年〉5月、斉明天皇7年〈661年〉4月、11月、天智天皇9年〈669年〉10月)
      • 伊吉連博徳書』(斉明天皇5年〈659年〉7月、斉明天皇7年〈661年〉5月)
      • 難波吉士男人書』(斉明天皇5年〈659年〉7月)
      • 百済記』(神功皇后摂政47年〈247年〉4月、神功皇后摂政62年〈250年〉2月、応神天皇8年〈277年〉3月、応神天皇25年〈294年〉、雄略天皇20年〈476年〉)
      • 百済新撰』(雄略天皇2年〈458年〉7月、雄略天皇5年〈461年〉7月、武烈天皇4年〈502年〉)
      • 百済本記』(継体天皇3年〈509年〉2月、継体天皇7年〈513年〉6月、継体天皇9年〈515年〉2月、継体天皇25年〈531年〉12月、欽明天皇5年〈544年〉3月)
      • 譜第』(顕宗天皇即位前紀)
      • 『晋起居注』(神功皇后摂政66年〈267年〉)

      編纂方針

       『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。

      文体・用語

       『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。
       その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭安康紀までであり、その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明崇峻紀まである。残る巻第二十二・二十三の推古舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。

      倭習による分類

       『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[6]
       またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。

       『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済聖明王釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。

      紀年・暦年の構成

      那珂通世の紀年論

       古い時代の天皇の寿命が異常に長いことから、『日本書紀』の年次は古くから疑問視されてきた。明治時代に那珂通世が、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づくという説を提唱した。三善清行による「革命勘文[7]で引用された『易緯』での鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲爲一元 四六二六交相乗 七元有三變 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」から一元60年、二十一元1260年を一蔀とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書での辛酉革命思想[8]によるという。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇9年(601年)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされる。この那珂による紀年論は、定説となっている[9][10]
      日本書紀の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論で、様々な説がある[11][12]

      元嘉暦と儀鳳暦

       小川清彦の暦学研究によれば、『日本書紀』は完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、干支による紀年で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいて、その記事が月の何日に当たるかを計算できる[13]
       また、小川清彦は中国の元嘉暦[14]儀鳳暦[15]の2つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅年十一月丙戌朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、儀鳳暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい儀鳳暦を古い時代に、古い元嘉暦を新しい時代に採用している。これは、二組で撰述したためと推測され、また日本書紀における日付が後代の捏造であることの証拠である。詳細は、小川清彦 (天文学者)#暦学研究を参照のこと。

       応神紀には『三国史記』と対応する記述があり、干支2順、120年繰り下げると『三国史記』と年次が一致する。したがって、このあたりで年次は120年古くに設定されているとされる。しかし、これも『三国史記』の原型となった朝鮮史書を参考にした記事だけに該当するもので、前後の日本伝承による記事には必ずしも適用されないし、その前の神功紀で引用される『魏志』の年次との整合性もない。

      古事記の崩御年干支

      一方、『古事記』は年次を持たないが文注の形で一部の天皇について崩御年干支が記される。『日本書紀』の天皇崩御年干支と、古い時代は一致しないが、
      は一致する。

      本文と一書(あるふみ)[編集]

      本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては世界にも類をみない画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。ただし、『釈日本紀』の開題部分には「一書一説」の引用を「裴松之三国志注の例なり」と記されており、陳寿が著した『三国志』に対して宋(南朝)裴松之が異説などを含めた注釈を付けた形式のものが日本に伝来され、『日本書紀』のモデルになった可能性はある[16]
      なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。
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