三輪山
三輪山標高所在地位置
三輪山(箸墓古墳付近より) | |
467.1 m | |
日本 奈良県桜井市 | |
北緯34度32分06秒 東経135度52分01秒座標: 北緯34度32分06秒 東経135度52分01秒 | |
三輪山の位置 | |
プロジェクト 山 |
概要
三輪山は、縄文時代または弥生時代から、原始信仰(自然物崇拝)の対象であったとされている。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られたため、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。
200 - 300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされ、さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は『魏志』倭人伝に現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。『記紀』には、三輪山伝説として、奈良県桜井市にある三輪明神の祭神・大物主神(現在大神神社)の伝説が載せられている。よって、三輪山は神の鎮座する山、神奈備とされている。
三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがある。
頂上には高宮神社が祀られているが、延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。
頂上付近はかなり広い平地である。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんある。これが奥津磐座である。現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけである。
歴史
日本国創生の時代より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、神官僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされてきた。飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられた。鎌倉時代に入ってからは慶円が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山平等寺を建立した。江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できなかった。
明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。
入山の許可
登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければならない。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納める。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませる。道中このたすきを外すことは禁止されている。行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで下山できるが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。
また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもある。午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合がある。
雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもあるが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の確実な記入が求められる。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができない。
原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできない。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、杉、檜などの大樹に覆われている。
聖水思想
考古学者石野博信によって、三輪山麓には聖水思想が古代から存在したことが指摘されている。纏向遺跡尾崎花地区の井泉と家ツラの導水施設は、古典で言う井水を浄化して聖水とするための施設であると推測し、「三輪の磐井」と呼ばれる井泉があり、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)と「三輪の磐井」のほとりで戦った御馬皇子が、「この水は、百姓のみ唯飲むこと得む。王者は独り飲むこと能(あた)はじ」(『日本書紀』雄略天皇即位前紀)と呪詛したことを挙げ、5世紀頃の三輪山麓に聖水思想があったこと、それが纏向遺跡の「尾崎花の井泉」によって、3世紀にまで遡ることが分かるとしている[1](ただし、いくつか疑問点も残している)。
ヤマト王権の歴史
王権の成立
小国の発生
弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に107年の「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。
また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。