Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all 1050 articles
Browse latest View live

[転載]玉藻公園 高松1 2009年如月


[転載]栗林公園 高松2 2009年如月

$
0
0
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_0?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_1?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_2?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_3?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_4?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_5?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_6?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_7?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_8?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_9?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_10?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_11?20090210232809

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/17/49294117/img_12?20090210232809

栗林公園は、江戸期、歴代高松藩主が力を入れて100年かけて作り上げた庭園。
国の特別名勝に指定されているとか。
本当は、偕楽園、兼六園、後楽園とならび、日本四名園と呼ばれるものであったけど、
藩主の松平家は、水戸藩出身だったので遠慮したとか。












   

転載元: いざかやとかほうろうき

[転載]京都紅葉2010 光明院

$
0
0
イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

先週末、家の用事で大阪に帰省、その途中京都に寄りました。
しかし、今年の紅葉は進行が早かったようで、軒並み落葉という状況。
それでも、WEBの京都新聞の紅葉情報を睨み検討、まだ見ごろ表記なのは・・・、次の三つ。
光明院
下鴨神社糺の森
北野天満宮

幸い晴天に恵まれたので、うん。
がんばってこれら脈絡の無い地点を完遂する紅葉見物決意。

まずは、身軽になるために、京都駅で荷物を預け、
JR奈良線で一駅、東福寺下車、
東福寺の南隣となる、光明院に向かいました。

光明院は、小さな寺ではありましたが、紅葉の穴場として知られるようです。
そうだ、京都いこう
のポスターにも採用されているようです。

イメージ
寺門にも見事な紅葉。
ずいっと中に入ると、玄関からあがりこめます。
イメージ
薄暗い邸内のなかを抜けると、そこに、見事な庭園が。
見事な枯山水の日本庭園に、紅葉が映えます。
思わず佇んでしまう自分。
いやぁ、いいもの見せてもらったな。



詳しい地図で見る




転載元: いざかやとかほうろうき

[転載]鎌倉紅葉 2010年秋

$
0
0
鎌倉行ってきました。
情報によると、北鎌倉が見ごろを迎えているとのこと。
JR横須賀線で、北鎌倉駅下車、
円覚寺→明月院→建長寺といういつものルートをたどります。

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージイメージ円覚寺の紅葉は、なかなかです。
七部程度といったところでしょうか。
ちょっと鮮やかさにかけるのです。日差しは十分なんですけどね。
うーむ、赤黒い葉と、黄、緑の葉が一本で混在してます。
今年の猛暑が原因でしょうかねー。もしかしたら、今年はこの程度で終わりなのかも。
寺内一番奥の佛日庵で、茶で一服。
イメージイメージ
帰り際に、弁天堂の階段も登って、そこの茶屋でも、ゆずジュースで一服。
午後の暖かい日差しの中で、なかなかに快適でした。
弁天堂茶屋から、線路向こうの東慶寺の大きな銀杏の木も見えます。
「東慶寺は、桜の季節にいくことにしよう」
ということで、次は、明月院に向かいます。

イメージ
途中、橘の前で立ち止まりました。
ちょうど14時なのですけど、まだランチをやっているようです・・・
橘は和食の名店で各種ガイドブックで紹介され、「橘弁当」が有名なのです。
思い切って入ると、ちょうど店員さんが看板を下げるところでした。
「まだ大丈夫ですよ。一食残ってます」
とのことでしたので、あやうく滑り込みました。

厨房では、お母さん達がきびきびと立ち回っています。
主婦の店のようです。
料理は基本、橘弁当のみで、1900円。
見た目もシンプルながら、上品な仕上がり。ふむ。
丁寧で、癖が無く、絶妙な塩加減。
やさしい味わいですが、どれもこれもなかなかに切れています。
さすがです。
食後のデザートも付きます。今日は自家製シュークリームでした。

イメージ

イメージ

イメージ

さて、明月院についたころは、15時前となっていました。
あたりは、薄暗くなっています。
鎌倉は、山に囲まれた土地で、山際の寺社は、日が暮れるのも早いのです。
「失敗した」
特に、山間に位置する明月院は日が差す時間も短いと思われます。
訪れるのならば、昼ごろが良かったですね。

イメージ

イメージ

イメージ

さてさて、気を取り直し、
次は、建長寺を目指します。建長寺は巨大な寺院なので、日差しがかげる心配よりも、
夕刻の暖かい日差しで、かえって映えているかもしれません。

ふむ。強烈な日差しで、写真が白けます。むむむ。
というより、紅葉に勢いが感じられません。
まだはやいのか、
というより、円覚寺で感じたように、赤黒い葉と緑葉が混ざっているのが気になります。
半増坊まで登りましたが、あまり収穫はありませんでした。

時間が16時くらいとなりましたので、
海蔵寺に回るプランはあきらめて、鶴岡八幡宮に向かうことにしました。
北鎌倉から歩いていくと、八幡宮へは、本殿左手の方からすぐに入れるようになっています。
参拝後、本殿前の階段を下りていくと、
イメージ
今年の春に強風で倒れた銀杏の跡が見えます。
しかし!
すごい!春もちらちらと芽吹いているのは見ましたが、
秋となり、もう鬱蒼と緑の枝枝が盛り上がっています。
どうするんだろう?たくさん枝分かれして四方八方に伸びるのだろうか?
要らぬ心配をしてしまうほどの生命力。(笑)
もしかしたら、樹の移植を考えていたかもしれないけれど、ご神木のこの生命力を見ると、
これは見守るしかありませんね。(^-人-^)ありがたや~

その後は、源氏池の旗上弁天社をお参りし、
帰路に着きました。
イメージ



  







転載元: いざかやとかほうろうき

[転載]下鴨神社糺の森 入り口 京都紅葉2010

$
0
0
イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

イメージ

光明院の次は、京阪鳥羽街道駅から出町柳駅を目指します。
隣の東福寺を見送るとは、惜しい判断ですが、
時間が無いので、先を急ぎます。
何より、紅葉でも桜でも一番映えるのは、午前中の景色です。
有名寺院をパスする価値はあります。

出町柳駅から高野川の橋を渡り、そこがすぐ糺の森となります。
高野川と賀茂川が交わり、鴨川になります。その合流地点に下鴨神社は鎮座します。
下鴨神社境内の糺の森は、世界遺産に指定される古代から人の手の入ることの無かった貴重な自然。この森が、紅葉の盛りを迎えようと言う情報。

しかし、何度か下鴨神社は行ったはず。
紅葉なんてあったっけ?

なんて馬鹿な考えは、吹っ飛びました。
素晴らしい、紅葉。
それも、名高い糺の森の自然の紅葉は、ただただ見事でした。
下鴨神社入り口には、鴨長明の生家として有名な河合神社がありますが、
その付近の景色に、やられまくり。

いやあ、すごい。
ただただ心地よかったです。









転載元: いざかやとかほうろうき

[転載]佐倉城址公園 2010年GW

$
0
0
イメージ佐倉の歴史博物館に行ってきました。
関裕二氏の著書にたびたび登場し、前から気になっていたところです。
めちゃくちゃでかい、一日で回れないとか。

その通りでした。くたびれ果てて、
最後は巻きで通り過ぎるだけ、それでも4時間はかかりました。
すごく面白かった。何度か通って、しっかり見たい。

その後、博物館周辺の佐倉城址公園を散策。
新緑も美しくその中で、八重桜が最後の盛り。あちらこちらで咲き誇っていました。

温かい日差しの中、なんかいいなぁ。
一日のんびりしてもいいかも。
毎年、GWにはここに来ることにしよう。
イメージ
イメージ
イメージ
イメージ

 
 
 
 
 




転載元: いざかやとかほうろうき

[転載]信州上田の旅2 2009年初夏

$
0
0
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_0?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_1?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_2?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_3?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_4?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_5?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_6?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_7?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_8?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_9?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_10?20090812123434

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c6-21/goemo_n2000/folder/392894/54/53484054/img_11?20090812123434

ふむ、中禅寺といえば、日光?って考えたけど、まあいいか。良くある寺名なんだろう。
小ぶりな寺には、重要文化財の薬師如来像が祀られているはずなのだけど、
お賽銭箱の奥は薄暗く、良く見えない・・・残念。

そして、隣の塩野神社へ移動。
珍しい、二階建ての拝殿がある。拝殿にいたる屋根付の橋も趣があり、
森林の中の古社はなかなかのたたずまい。

塩野神社からは、あじさいの道という小道をたどって、
龍光院、塩田城址の入り口を経て、前山寺にいたる。

前山寺にも三重塔があり、
こちらは、未完成となっていて、飾り付けが質素。
未完成の完成といわれる、シンプルさに魅力を感じる人もいるそうだ。
出猩猩?の赤い葉が綺麗だ。

その後は、バスで、塩田駅まで移動し、
二つとなりの下之郷駅にある生島足島神社へ。
神社前の蕎麦屋で昼食をとり、
池のほとりにある神社参拝。
出雲から勧進と歴史にあり、磐座があったので、神社としては古い時代のものだ。
ただし、社内ちょっと雑然としており、
これは、経営者のセンスが無いのだと思う。こういうの気になっちゃうんだよな。

その後は、電車で上田に戻り、
信濃国分寺へ行く。
学者も不思議に思っているそうで、何ゆえ信濃の国分寺が上田にあるのか?
信濃の国府は昔から松本にあり、国分寺を作るならそちらのはずなのだけど。

※説明すると、奈良平城京の時代、聖武天皇は、仏教に深く帰依し、東大寺を建立した。
それに伴い、全国の国府にも国分寺建立を命じたのである。
一説によると、当時は信濃は一国ではなく、いくつかに別れていたのかもしれないとのこと。

この信濃国分寺は、何度か再建されており、本堂は江戸時代に、重文の三重塔は室町時代の作。
こちらも、出猩猩の赤い葉が綺麗である。

最後に、上田市街に戻り、
池波正太郎真田太平記館を訪ねる。
展示最初の年表に食い入るように見入り、
昔読んだ真田太平記を懐かしく思い出す。
オリジナルキャラクターの甲賀忍者お江や、壺谷又五郎・・・、居たなぁって感じだ。
あと池波正太郎の絵画の展示もあたのだけど、なかなかシンプル洒脱な画風はセンスが良い。
ファンにはたまらない展示であった。

さて、
新幹線の時間までは、例によって、居酒屋で一杯。
一軒目はさかなや、地酒と魚介の店だ。
まあ、山国で魚介ってどうなの?ってのはもう最近、気にしないことにしたのだ。山国の料理は、鮎の塩焼きときのこ鍋とか山菜の天ぷらって定番があって、どこでも一緒になりやすい・・・。
だったら、当地で評価されている、日本酒を置いてる店に行ったほうがいいやと。
さかなやは、シンプルながらも切れのある料理が好感でした。
そして、二軒目は、〆に蕎麦をということで、駅前ビルの東都庵へ。信州の旅の最後が蕎麦で、うまくまとまった感じ。

ご馳走様、信州上田。
また来ます。



転載元: いざかやとかほうろうき

[転載]第21回 備中高松まほろば祭り

$
0
0
何ヶ月ぶりかの更新です。
高松地区恒例の備中高松まほろば祭りが開催され。 会場まで約4km加茂小学校から歩いていきました。
イメージ


途中かわづヶ鼻堤跡公園で小休止 (此処は高松城水攻めの堤が一部残っています。)
イメージ

会場に到着 庄内小学校・加茂小学校・鯉山小学校から歩いてきた子どもたちが舞台で開会の鬨の声を上げました。
イメージ

市長も来賓で挨拶、高松地区の文化観光資源の重要性を認めているとのことでした。
イメージ

今年は天気も良く また大河ドラマ(黒田官兵衛)の影響もあり多くの参加者でにぎわいました。
イメージ

イメージ


パトカー乗車の記念撮影も子どもたちに人気でした。
イメージ

会場への通り道、高松最上稲荷の大鳥居もお化粧直しが終わって美しくなりました。
イメージ


ウォーク参加の抽選で一等が当たりました。ラッキー
中身はマッサージクッションでした。腰が疲れた時お世話になります。
イメージ

転載元: 借り物の身です、大事にしよう!


[転載]とんかつ都(海老とロースカツ定食)@八幡浜市沖新田

$
0
0
佐田岬ハーフマラソン2014で,壊れた筋肉を修復するには・・・
 
そう!
 
肉しかないっ!
 
ということで,
 
マラソン終了後,そそくさと車で八幡浜港フェリーターミナルまで移動しました。
 
(^^)/
 
 
 
フェリーターミナル内に入り,年季の入ったゴトゴトと音のするエレベーターに乗り,4階で降ります。
 
その海側の奥の方にお店はあります。
 
 
イメージ
 
 
 
さあて,暖簾をくぐって入店するか・・・
 
って,
 
暖簾はなかった
 
(^^;)
 
 
イメージ
 
 
 
その代わり
 
ご飲食されない方のご入店はお断りします
 
って張り紙があります。
 
(^^;)
 
 
 
店内は,カウンター席に,4人テーブル席。
 
 
イメージ
 
 
 
そして,
 
6人がコの字に座れる小上がり卓が2つといったこじんまりスペース。
 
どうも,お父さんとお母さんの2人でされている模様。
 
 
 
イメージ
 
 
 
ともかく,メニューを眺めます。
 
ほうほう・・・
 
 
イメージ
 
 
 
ハーフマラソンのあとだから,ノンアルコールビールありますか?
 
ってきいたんだけど,ないとのこと。
 
う~ん,残念。
 
しかたない,
 
じゃあ,
 
「とんかつの店」だから,
 
「とんかつ」に集中しよう!
 
と気分を取り直し,
 
さて,
 
問題は,ロースカツか,ヒレカツだが・・・
 
としばし悩むも・・・
 
まずは,
 
やっぱり,
 
ロースカツかな。
 
で,
 
贅沢に,
 
海老なんか乗っけちゃいましょう!
 
(^^)/
 
 
 
しばし,待ちます。
 
 
 
イメージ
 
 
 
海が見える店なので,八幡浜港に着岸するフェリーも見えちゃったりします。
 
(^^)/
 
なんて,待ってるとやってきました。
 
 
 
●海老とロースかつ定食(1200円)
 
 
 
イメージ
 
 
 
おおお,
 
結構大きめなロースカツに無頭海老が2本
 
ですか。
 
 
で,
 
 
イメージ
 
 
ロースカツは結構な厚さがあります。
 
では,いただきま~~す!
 
 
 
ロースカツを一切れとり,ソースにちょんちょんつけて,そして,ご飯に乗っけます。
 
 
イメージ
 
 
 
そうすると,ご飯にソースがからまり,また,このご飯がうまくなるんだよな~~
 
と思いつつ,ロースカツをひとくち。
 
うん。
 
染み渡るじゃないか。
 
壊れた筋肉を修復するには肉だぜ。
 
やっぱ。
 
 
 
あ,ソースは結構辛口。
 
後半,うなじから汗が噴き出てきたぜ。
 
 
 
ロースカツは8きれ。
 
海老フライは2本。
 
なので,4きれごとに1本だな・・・
 
と,自分なりに配分を決めて,海老フライをパクリ。
 
うんうん。
 
さくさく,ぷりぷり感がたまらんね。
 
 
 
しあわせ。
 
 
 
付け合わせのキャベツの千切りには,
 
酸味がよく聞いたポン酢がかかっています。
 
後半は,このポン酢にロースカツをちょんちょんして,
 
さらに,ソースにちょんちょんして,
 
頂くと,
 
また別のお味になるんだな・・・
 
と,一人ほくそ笑んで,
 
後半のロースカツをいただきましたよ。
 
(^^)/
 
 
 
 
 
ハーフマラソン。
 
後半自分なりに頑張ったから,
 
なおさらうまい!
 
雨だからって,不参加にしなくてよかった。
 
な~~んて,
 
考えながらごちそうさん。
 
(^^)/
 
 
 
したら,
 
 
 
なんと,
 
 
 
お母さんが,
 
 
 
持って来てくれました。
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
コーヒーにプリン。
 
おお,サービスいいじゃないの!
 
って,またコレ自家製っぽいプリンだなあ・・・
 
プリンをひとくちたべて,ブラックのコーヒーをゴクリ。
 
 
 
いい感じでお口がさっぱりしたぜ。
 
 
 
 
 
次回は,「大海老とヒレカツ」なんか,気になるけども。
 
なんか,「カツカレー12月より」ってカウンター上に張り紙がしてあって,
 
「カツカレー」
 
も気になる。
 
 
イメージ
 
 
う~~ん。
 
また行かなきゃ。
 
 
 
 
 
 
あ,
 
変わった,爪楊枝入れから,爪楊枝をとりだして・・・
 
 
イメージ
 
 
 
 
ごちそうさ~~ん。
 
 
 
店名 とんかつ都
電話 0894-24-5967
住所 八幡浜市沖新田1586八幡浜観光センター4F
営業 11:00~14:30,17:00~21:00
定休 木曜日(祝日の場合は営業)

転載元: 燦道楽綴り

[転載]沖縄そば博物館へ♪

$
0
0
今日は、旦那っちがお休みだったので、そば博物館へ。本当は明日の「そばの日」に行きたかったけど、今日にしましたアヒャヒャヘ(゚∀゚*)ノヽ(*゚∀゚)ノアヒャヒャ

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_0?20061019113127
沖縄そば博物館の看板


















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_1?20061019113127
 旦那っちが食べた「すば家 川」のトロトロ軟骨ソーキすば(とんこつ風味)


















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_2?20061019113127
「麺そーれ」のじゅうしいー


















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_3?20061019113127
美らが食べた「すば家 川」の炙り豚バラすば(とんこつ風味)


















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_4?20061019113127
このお箸!いいでしょ~~♪

















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_5?20061019113127
 沖縄そばの説明パネルがありました。時間がなかったので、読みませんでしたが・・・

















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_6?20061019113127

















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_7?20061019113127

















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_8?20061019113127

















http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-79-c4/tyuraumisora/folder/393344/72/3356172/img_9?20061019113127

転載元: ウチナー(沖縄)

はじめまして

$
0
0
ブログをはじめました!
コメント大歓迎です。
これからどうぞよろしくお願いします!

海女ちゃん、世界遺産をめざす サミットPRのチャンス

$
0
0


海女ちゃん、世界遺産をめざす サミットPRのチャンス

2016年2月28日11時52分


 
 NHKの朝ドラで話題を呼んだ「海女」が、世界から注目されそうだ。“本場”の三重県で5月に主要国首脳会議が開かれ、ユネスコの世界無形文化遺産登録をめざす動きもある。
 海女がいるのは世界で日本と韓国だけといわれる。韓国は約1万人いて、特に済州島が約4千人を占めるという。三重県の自治体や海女らでつくる「海女振興協議会」は09年からほぼ毎年、日韓の海女が集まる「海女サミット」を開いたり、韓国の海女の祝祭に日本の海女が招かれたりして交流を進めている。
 日韓が共同して、ユネスコの世界無形文化遺産の登録を目指す動きもある。ただ、微妙な政治状況の影響で、韓国政府は単独でユネスコに申請したことがあり、政府レベルでの協調に至っていない。海女サミットの開催にかかわる「海の博物館」(鳥羽市)の石原義剛館長は「かつては、日本の海女が朝鮮半島に出稼ぎに行った歴史もある。日韓での登録を目指したい」と話す。
 5月に三重県志摩市である伊勢志摩サミットは海女の認知度を高めるチャンス。地元では、海女の写真集や外国語で説明した海女のパンフレットを各国首脳に配るという。(河野通高)
■そもそも海女とは
 潜水漁は古くからあったようだ。縄文・弥生時代の遺跡では、大量のアワビの殻や、岩からアワビをはがす道具「アワビオコシ」が出土。「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」(3世紀)は「倭(わ)の水人、好んで沈没して漁蛤(ぎょこう)を捕らえ」と記している。平安時代の律令の施行細則「延喜式(えんぎしき)」(10世紀)には、朝廷に海産物を献上した志摩の「潜女(かずきめ)」が登場する。なぜ女性が潜るのか。
 皮下脂肪が多く寒さに強いという理由や、船舶の発達とともに男性は沖合に漁に出たからなどといわれる。1883(明治16)年の「三重県水産図解」には「女子は呼吸が長く、自分の限界を知っているので過ちが少ない」とある。
 戦後、海女は一時的に増えた。ウェットスーツなど装備の充実や、中華料理の普及でアワビの需要が増えたためだ。1956年の調査では約1万7千人に達し、高知、新潟、東京にもいたが、その後減少。2010年の調査では2174人(平均年齢65歳超)で三重県が4割強を占める。
関連ニュース

やんばる地域、国立公園指定へ 環境省が意見公募

$
0
0


やんばる地域、国立公園指定へ 環境省が意見公募


2016年2月27日14時07分

 



 環境省は、国内最大級の亜熱帯照葉樹林が広がる沖縄県北部のやんばる地域を国立公園とする方針を決め、27日から意見公募を始めた。新規の国立公園指定は2014年3月の慶良間(けらま)諸島(沖縄県)以来で、指定されれば33カ所目となる。意見公募は30日間。中央環境審議会で議論後、7月に官報告示する。
 公園計画書の原案では、面積は陸域1万3632ヘクタール、海域3670ヘクタール。やんばる地域には絶滅の危機にあるヤンバルクイナなどの固有動植物が生息し、石灰岩のがけやカルスト地形に、マングローブ林など多様な生態系がある。
 政府は、やんばる地域を含む「奄美・琉球」地域について、早ければ18年にユネスコ世界自然遺産への登録を目指している。登録は、予定地を国立公園にするなどの自然保護の体制を取ることが条件となっている。

ネアンデルタール人

$
0
0

ネアンデルタール人

   
ネアンデルタール人地質時代分類学名和名英名
生息年代: 0.25–0.028 Ma更新世中期-更新世後期
Homo sapiens neanderthalensis.jpg
ネアンデルタール人の頭骨
更新世
:動物界Animalia
:脊索動物門Chordata
亜門:脊椎動物亜門Vertebrata
:哺乳綱Mammalia
:霊長目(サル目Primates
亜目:真猿亜目Haplorhini
上科:ヒト上科Hominoidea
:ヒト科Hominidae
亜科:ヒト亜科Homininae
:ヒト族Hominini
亜族:ヒト亜族Hominina
:ヒト属Homo
:H. neanderthalensis
Homo neanderthalensis
ネアンデルタール人
Neandertal

 ネアンデルタール人(ネアンデルタールじん、ホモ・ネアンデルターレンシスHomo neanderthalensis)は、約35万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したヒト属の一種である。シベリアアルタイ地方で発見されたデニソワ人はネアンデルタール人の兄弟である可能性が高い。なお、インドネシアフローレス島で発見されたフローレス人ホモ・エレクトスである可能性が高い。

 ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの一亜種であるホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス (Homo sapiens neanderthalensis) と分類する場合もある[1]。この場合ネアンデルタール人と現世人類との分岐直前(約47万年前)の共通祖先もまたホモ・サピエンスということになる。本項ではいずれの学名でも通用する「ネアンデルタール人」を用いる。

  かつて、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする説があった。しかし、遺骨化石)から得られたミトコンドリアDNAの解析結果に基づき、現在ではネアンデルタール人は我々の直系先祖ではなく別系統の人類であるとする見方が有力である。
 両者の遺伝子差異は他の動物種ならば当然別種と認定されるレベルであり、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは混血できなかったとする考え方が有力であった[2]。しかし、2010年5月7日のサイエンスに、われわれホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%混入しているとの説が発表された[3]

概要

ネアンデルタール人(ラ・フェラシー1)の骨格標本と復元模型。国立科学博物館の展示。ポーズの状況設定は「現代につれてこられて動揺しているが、平静を装っている」[4]

 ネアンデルタール人は、ヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布しており、旧石器時代石器の作製技術を有し、を積極的に使用していた。
 なおネアンデルタール人は過去に「旧人」と呼称されていたが、ネアンデルタール人が「ホモ・サピエンスの先祖ではない」ことが明らかとなって以降は、この語は使われることが少ない。

 現生人類であるホモ・サピエンス誕生は約25万年前であるが、ホモ・サピエンスの直接の祖先のうち、25万年前以上前に活動・生息していた人類祖先も旧人段階にあったと考えられるため、ネアンデルタール人だけが「旧人」に該当するわけではない。ホモ・ヘルメイホモ・ローデシエンシス、そしてホモ・サピエンス・イダルトゥ発生以前の古代型サピエンスも旧人段階に該当する人類であると考えられる。
 また、上記の通りネアンデルタール人は広い地域に分布して多数の化石が発見されており、それらは発見地名を冠した名称で呼ばれる。例として、ラ・シャペル・オ・サン人(La Chapelle-aux-Saints、以後は「ラ・シャペローサン人」とする)、スピー人、アムッド人などが挙げられる。

 本稿では、以後それらの人類の総称として「ネアンデルタール人類」の用語を用いる。ネアンデルタール人から最も拡張した学術用語として旧人段階の人類全てをネアンデルターロイドと呼ぶこともあり、ホモ・ローデシエンシスまでをも含むこともある(世界大百科事典[要文献特定詳細情報])が、命名の経緯はどうであれ実質は進化段階を示す用語であり、ネアンデルターロイドは生物学的単一種を意味しない。本項ではネアンデルタール人類について記述する。

研究史

ネアンデルタール人の化石が発見された地点(赤丸)。薄紫色の部分は氷床に覆われていた。

発見

 最初に発見されたネアンデルタール人類の化石は、1829年ベルギーのアンジスで発見された子供頭骨である[5]1848年にはスペイン南端のジブラルタルからも[6]女性頭骨が見つかっている。しかしこれらの古人骨が発見された当時は、その正体はわからないままであった。

 最初に科学研究の対象となったネアンデルタール人類の化石が見つかったのは1856年で、場所はドイツデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷 (Neanderthal) にあったフェルトホッファー洞窟であった。これは石灰岩の採掘作業中に作業員によって取り出されたもので、作業員たちはクマの骨かと考えたが念のため、地元のギムナジウムで教員を務めていたヨハン・カール・フールロットの元に届けられた。フールロットは母校であるボン大学解剖学を教えていたヘルマン・シャーフハウゼンと連絡を取り、共同でこの骨を研究。1857年に両者はこの骨を、ケルト人以前のヨーロッパの住人のものとする研究結果を公表した[7]:217-219
 ちなみにこの化石は顔面四肢遠位部等は欠けていたが保存状態は良好であり、低い脳頭骨や発達した眼窩上隆起などの原始的特徴が見て取れるものである。

ウィルヒョーらによる批判と進化論の登場

 フールロットとシャーフハウゼンによる研究は多くの批判に晒された。ボン大学のオーギュスト・マイヤーはカルシウム不足のコサック兵の骨ではないかと主張し、病理学の世界的権威であったベルリン大学ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーくる病痛風にかかって変形した現代人老人骨格と主張した。

 しかし1858年から1859年にかけて、アルフレッド・ラッセル・ウォレスチャールズ・ダーウィン進化論を発表すると、問題の古人骨も進化論の視点から再検討された。1861年にはフールロットとシャーフハウゼンによる論文が英訳され、1863年にはトマス・ヘンリー・ハクスリーが自著においてこの古人骨を類人猿とホモ・サピエンスの中間に位置づける議論を行った。1864年にはゴールウェイのクイーンズカレッジ(現在のアイルランド国立大学ゴールウェイ校)で地質学を教えていたウィリアム・キングがこの古人骨に「ホモ・ネアンデルターレンシス (Homo neanderthalensis)」 の学名を与えた。

 1901年から1902年にかけては、当時シュトラスブルク大学で教鞭を執っていたグスタフ・アルベルト・シュワルベ (Gustav Albert Schwalbe, M.D.) がジャワ原人とネアンデルタール人との比較研究を行い、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする論文を発表した[7]:218-220

研究の進展

 20世紀前半には、ネアンデルタール人類の完全に近い骨格化石がフランスのラ・シャペローサン、ラ・フェラシー、ラ・キーナその他ヨーロッパ各地から幾つも発見されて彼らの形質が明らかになった。それとともに、彼らとホモ・サピエンスとの関係が議論されるようになった。
 ラ・シャペローサン出土の完全骨格を調査したフランスのマルセラン・ブールは1911年から1913年にかけての論文で、ネアンデルタール人類は現生人類と類人猿との中間の特徴を持ち、曲がった下肢と前かがみの姿勢で歩く原始的な人類(原始人)とした。ブールはシュワルベとは異なり、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とは考えない立場を採った。また、は大きいが上下につぶれたように低いので知能も低く、野蛮的であるとの説も広まった[8]
 1929年から1933年にはイスラエルカルメル山にあるナハル・メアロットの洞窟群でネアンデルタール人類とホモ・サピエンスの中間的な形質のある化石人骨が次々に発見された。第二次大戦後にはラ・シャペローサン人の化石が再検討され、類人猿的とされた特徴は老年性の病変もしくは先入観による誤認であることが明らかとなった[7]:214-215
 1951年から調査が始まったイラクシャニダールでは、発掘されたネアンデルタール人類の第4号骨格の周辺のをラルフ・ソレッキが調査したところ、少なくとも8種類の花粉花弁が含まれるとの結果が出た。ソレッキはこの結果を、遺体献花されたものであると解釈した。しかしながら、この解釈に対しては異論も提出されており、ネアンデルタール人が仲間の遺体に花を添えて埋葬したのかどうか、はっきりとした結論は出されていない[7]:224-225

単一起源説の登場と分子生物学における研究

 ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先と見る立場の場合、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへの進化は世界各地で行われたと考える(多地域進化説)。これに対し、ウィリアム・ハウエルズ (William White Howells) は1967年の著書Mankind in the makingにおいて、単一起源説を主張し、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの祖先ではないとした[7]:228
 1997年にはマックス・プランク進化人類学研究所スヴァンテ・ペーボらがフェルトホッファー洞窟で見つかった最初のネアンデルタール人の古人骨からDNAを抽出し、ホモ・サピエンスとの関係を検討した研究を発表。ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする立場は否定された[9]

特徴

1888年時点の最初期の復元図(原人的特徴を強調しすぎとの批判[誰?]もある)
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較写真
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較図

 典型的なネアンデルタール人類の骨格は、上記のラ・シャペローサンからほとんど完全な老年男性のものが発見されたほか、西アジア東欧からも良好な化石が出土している。それらに基づくネアンデルタール人類の特徴は次のようなものである。
  • ネアンデルタール人の容量は現生人類より大きく、男性の平均が1600 cm3あった(現代人男性の平均は1450 cm3)。しかし、頭蓋骨の形状は異なる。脳頭蓋は上下につぶれた形状をし、前後に長く、は後方に向かって傾斜している。また、後頭部に特徴的な膨らみ(ネアンデルタール人のシニョン)がある。なお、性差人種差を除外した同質な人類集団の中では脳の大きさは知能指数相関係数0.4程度の相関があることが知られる[10]。このことから、現生人類と比較しても遜色のない知能を有していた可能性もある。[

現代人に受け継がれたネアンデルタール遺伝子

$
0
0


現代人に受け継がれたネアンデルタール遺伝子(最新の研究による)

2010年5月7日のサイエンス誌に、アフリカのネグロイドを除く現生人類の核遺伝子には絶滅したネアンデルタール人類特有の遺伝子が1 - 4 %混入しているとの研究結果が発表された[3]。これは、現生人類直系祖先であるホモ・サピエンスが出アフリカした直後すなわち10 - 5万年前の中東地域で、そこに既に居住していたネアンデルタール人類と接触し、混血したこと、一方でアフリカ大陸を離れなかった現生人類はネアンデルタール人類と接触しなかったことによる。 すなわち、出アフリカ後の中東で混血しその後にヨーロッパやアジアなど世界中に拡がった現生人類は、約3万年前に絶滅してしまったネアンデルタール人の血を数パーセント受け継いでいることが明らかになった[32]
さらに2014年の研究では、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人と混血したのは今から6万年くらい前のこととしている[33][34]。 ネアンデルタール人からの混入遺伝子は、現生人類の皮膚形成などの繁殖に重要でない遺伝子部分に細分化されて多く残っており、白っぽい皮膚、金髪赤毛青い目などはネアンデルタール人から受け継いだ可能性が高いとしている[35]
またこれとは別に、シベリアのアルタイ山脈の遺跡で発見されたデニソワ人はネアンデルタール人の兄弟種にあたり、現生のアジア民族特にポリネシア人メラネシア人にはデニソワ人遺伝子も混入しているとの研究が、2010年12月に発表されている[36]

免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったと今年の1月に明らかになった遺伝学の科学誌「The American Journal of Human Genetics」で独の研究チームが発表した。

人類の進化でエポックメイキングな最近の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられている
ネアンデルタール人と人間が交配していたことと第3の人類デニソワ人の発見だ。この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人は ヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がった。ネアンデルタール人をヒトが滅ばして、人類の中でヒトだけが今の繁栄を築いたわけだ。

独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは現代人の遺伝子の中に、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていた。目をつけたのがTLRの遺伝子。これまでの研究データもとにピックアップした。TLR(Toll Like Receptor)は
細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質。免疫で非常に重要な役割を果たす。

体を外敵から守るには、まず外敵の侵入を関知しなくてはならない。この防犯センサーの役割を担うのがTLRというタンパク質なのだ。体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLRにくっつくとセンサーが作動し、外敵をやっつける細胞が集まったりと、さまざまな免疫システムが動く仕組みだ。

複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの領域を調べると7つのタイプに分類された。このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。

理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む領域がほとんどみられなかった。
このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。

実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。
どの集団よりも高く、約51%が持っていた。


ネアンデルタール人の特徴

1888年時点の最初期の復元図(原人的特徴を強調しすぎとの批判[誰?]もある)
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較写真
現生人類(左)とネアンデルタール人(右)の頭蓋骨の比較図
典型的なネアンデルタール人類の骨格は、上記のラ・シャペローサンからほとんど完全な老年男性のものが発見されたほか、西アジア東欧からも良好な化石が出土している。それらに基づくネアンデルタール人類の特徴は次のようなものである。
  • ネアンデルタール人の容量は現生人類より大きく、男性の平均が1600 cm3あった(現代人男性の平均は1450 cm3)。しかし、頭蓋骨の形状は異なる。脳頭蓋は上下につぶれた形状をし、前後に長く、は後方に向かって傾斜している。また、後頭部に特徴的な膨らみ(ネアンデルタール人のシニョン)がある。なお、性差人種差を除外した同質な人類集団の中では脳の大きさは知能指数相関係数0.4程度の相関があることが知られる[10]。このことから、現生人類と比較しても遜色のない知能を有していた可能性もある。[独自研究?]
  • 顔が大きく、特に上顔部が前方に突出して突顎である。鼻根部・先端部共に高くかつ幅広い。これらの形質に呼応して上顔部は現生人類のコーカソイドと同じか、さらに立体的(顔の彫が深い)である。顔の曲率を調べる方法の一つとして「鼻頬角(びきょうかく)」があり、これは左右眼窩の外側縁と鼻根部を結ぶ直線がなす角度で、コーカソイドで136度から141度であり、モンゴロイドでは140度から150度であるが、ネアンデルタール人類では136.6度であった。他に、の部分が張り出し、眼窩上隆起を形成している。また、(おとがい)の無い、大きく頑丈な下顎を持つ。
  • 現生人類と比べ、の奥(上気道)が短い。このため、分節言語発声する能力が低かった可能性が議論されている。
  • 四肢骨は遠位部、すなわちであれば前腕下肢であればの部分が短く、しかも四肢全体が躯体部に比べて相対的に短く、いわゆる「胴長短脚」の体型で、これは彼らの生きていた時代の厳しい寒冷気候への適応であったとされる。
  • 男性の身長は165cmほどで、体重は80kg以上と推定されている。[要出典]骨格は非常に頑丈で骨格筋も発達していた。
  • 成長スピードはホモ・サピエンスより速かった。ただし寿命性的成熟に至る年齢などは、はっきりとしない。1歳2ヶ月ほどで乳離れをしており、出産間隔も短かったとの説がある[11]
以上のような相違点はあるものの、遠目には現生人類とあまり変わらない外見をしていたと考えられている。また、思春期に達して第二次性徴が現われるまではネアンデルタール人としての特徴はそれほど発現せず[12]、特に女性の場合には(ネアンデルタール人類に限らず、現生人類を含む全ての進化段階で)形質の特殊化が弱いと考えると、我々現生人類はネアンデルタール人から見て幼児的・女性的に見えたかもしれないとも指摘されている[13]
その他、高緯度地方は日射が不足するため黒い肌ではビタミンDが不足してしまうこと[14]、およびDNAの解析結果より[15][16]、ネアンデルタール人は白い肌で赤い髪だったとの説がある。

文化

ネアンデルタール人の石器
彼らの文化はムステリアン文化と呼ばれ、旧石器時代に属している。また、この項目で記されている内容は、ネアンデルタール人の生息年代や生息地域が広大であることからも分かるように、全ての時代・地域で共通してみられる文化であることを必ずしも意味しない。

石器

ネアンデルタール人は、ルヴァロワ式と呼ばれる剥片をとる技術を主に利用して石器を制作していた。フランソワ・ボルドは石器を60種類ぐらいに分類しているが、実際の用途は非常に限られていて、狩猟用と動物解体用に分類できる。左右対称になるよう加工されたハンドアックス(握)や、の先にアスファルト接着させ穂先とし、狩りに使用したと考えられている石器などが発見されている[17]

石川県羽咋の「渚(なぎさ)の正倉院」に行きたい 

$
0
0




羽咋市歴史民俗資料館
〒925-0027
石川県羽咋市鶴多町鶴多田38番地1



■交通

[徒歩] JR羽咋駅東口下車、10分
[ 車 ]  千里浜ICより10分(当館付近の駐車場をご利用ください)

 google mapを表示する

inoues.net/ruins2/jikeiseki.html - キャッシュ
... 一時「渚の正倉院」とも呼ばれた、古代史上特筆すべき遺跡なのである。大陸との 交流や気多(け た)大社との関連性もうかがうことができる。 ちなみに「海の正倉院」と 呼ばれるのは福岡県の「沖の島」であり、「地下の正倉院」は奈良の「千塚 ...

2015最新発掘情報 新庄カキノキダ遺跡 - 石川県埋蔵文化財センター

www.ishikawa-maibun.or.jp > ... > 最新発掘情報2015 - キャッシュ




柳田猫ノ目・柳田シャコデ・柳田台地遺跡、寺家遺跡
(やないだねこのめいせき・やないだしゃこでいせき・やないだだいちいせき、じけいせき)
地図データ
地図データ ©2016 Google, ZENRIN
地図データ地図データ ©2016 Google, ZENRIN
地図データ ©2016 Google, ZENRIN
地図
地形
航空写真
ラベル
遺跡の位置
所在地
羽咋市寺家町~柳田町地内
時代
縄文~中世
内容
 羽咋市寺家遺跡は、昭和53年に能登有料道路(現在の「のと里山海道」)建設に関わる工事の際に発見された、海岸砂丘に埋もれた奈良・平安時代を中心とする遺跡です。古代の祭祀(さいし)の跡や、関連する施設、使用された祭祀遺物が多数発見され、「渚(なぎさ)の正倉院」とも呼ばれており、平成24年1月に国の史跡に指定されました。
 今回の調査では、隣接する柳田猫ノ目遺跡、柳田シャコデ遺跡、柳田台地遺跡も含め弥生時代から中世の集落域や水田などの生産域が洪水砂等の堆積を挟み重複している状況を確認しました。遺構では掘立柱建物、柱穴、井戸、土坑、畦状遺構、畝溝、溝などを検出し、縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、木製品、石製品、金属製品などの遺物が多く出土しました。特に、寺家遺跡の史跡隣接地点で検出された、直線状に延びる中世の土塁と側溝は、寺家遺跡の変遷を考える上でも貴重な発見となります。





「なぎさの正倉院」国指定史跡 寺家遺跡

「渚(なぎさ)の正倉院」 国指定史跡 寺家遺跡(じけいせき)

寺家遺跡は、市内の寺家町と柳田町の海岸砂丘に埋もれた奈良・平安時代を中心とする祭祀遺跡です。
「祭祀(さいし)」とは、祭りや祈りのことを言います。
この遺跡では、古代の神社に関わるさまざまな発見がありました。


●遺跡の発見

寺家遺跡は、昭和53年に能登有料道路(現在の「のと里山海道」)建設に関わる工事のさいに発見されました。その後、石川県と羽咋市によって、長い期間をかけて発掘調査が続けられ、範囲とその重要性が明らかとなり、平成24年に国の史跡に指定されました。


石川県による有料道路路線部分の発掘調査(1980)


●何が発見されたのか?
古代の神社にかかわる祭祀の跡や、関連する施設の跡、使用された祭祀遺物が多数発見されました。
これらは、奈良・平安時代の地方神社のあり方を知るうえで、全国でも数少ない貴重な考古学的成果となっています。
祭祀の跡(祭祀場)
大きな火を焚いて祭祀を行ったとみられる大規模な焼け土の跡が発見されました。
全国的に他に類例のない発見です。
このほか、大量の土器(供膳具)と直刀・勾玉・銅鏡を用いた祭祀の跡も見つかっています。
遺跡のなかでも、祭祀専用の場所として利用していたと考えられます。

発見された大規模な焼け土の跡

関連施設群(竪穴建物群)
8世紀前半の竪穴式の建物群がたくさん見つかりました。
建物跡からは、銅鏡をはじめとするたくさんの祭祀遺物が出土しました。
こうした発見から、祭祀に従事する人々の集落跡と考えられており、古代神社に仕える「神封戸(じんふこ)」と呼ばれる人々の集落やその活動をうかがうことができます。


竪穴建物あとから出土した銅鏡などの祭祀遺物

関連施設群(宮厨と宮司舘)
9世紀代の複数の掘立柱建物が立ち並ぶ建物群が見つかりました。
この周囲からはたくさんの銅鏡をはじめとする祭祀遺物が出土し、「宮厨」と墨書された土器が見つかりました。
このほかにも、「宮」「司」「司舘」「奉」「神」などの文字が墨書された土器も出土しています。
これらの存在から、遺跡内には、祭祀をつかさどる「宮司」(みやのつかさ)が存在したと考えられます。
遺跡内には、祭祀の道具の保管や準備をするための厨施設(くりやしせつ)や、祭祀を管理する宮司の舘跡があったと考えられます。

 
「神」、「宮厨」と墨書された土器

祭祀に使用された道具(祭祀遺物)
遺跡からは、8世紀・9世紀の律令時代の祭祀に使用された銅鏡などがたくさん出土しています。
銅鏡のほか、銅製の鈴、飾り金具、刀装具、和同開珎などの銅製品のほか、鉄製の鏡や刀などもみられます。
さらに、地方ではほとんど出土しない、三彩陶器やガラス生産道具も見つかっており、この遺跡が当時の国家と関わりを持っていたことを示しています。
これらは、この遺跡で行われた祭祀で実際に使用された祭具であり、学術的に重要です。



さまざまな祭祀の道具とガラス生産関連資料


●「渚(なぎさ)の正倉院」とは?
以上の発見は、奈良平安時代の古代神社がどのように存在し、どのような祭祀を行っていたのかを総合的に検討できる価値を持っています。
遺跡の発見当初、こうした古代祭祀に関わる遺構と遺物が続々と出土し、新聞等で連日発表されました。
こうした遺構と遺物が海岸砂丘の地下に非常に良好な状態で保存されていることから、奈良にある正倉院になぞらえて名づけられました。


●何のための祭祀だったのか?
古代の能登半島は、東北の蝦夷やさらに北方民族がいる北方世界への海路の基地として重要視されていました。
また、日本海対岸の古代国家である渤海国との交流拠点のひとつでもあり、富来町の福良港がその基地でもありました。
古代の日本では、海外からの使節(蕃客)には、「異国の神」が付着して国内に入ってくると信じられていました。
使節は入京することもあり、その管理は国家にとって重要な課題でした。
寺家遺跡では、こうした能登を発着する使節に対して、その異国の神を祓うための祭祀儀礼を行っていたのではないかと考えられています。




●古代気多神社との関わり

寺家遺跡は、発見当初から「古代の気多神社」との関連性が指摘されてきた遺跡です。
六国史をはじめとする文献史料をみると、古代の気多神社は、地方神社では非常に厚遇され、国家から重要視されていていました。
寺家遺跡で発見された考古学的成果は、その内容から、当時の国家が管理する「官社」として成立していたことをうかがうことができます。
これが文献史料の古代気多神社の記述と年代的な整合性が高く、寺家遺跡は古代気多神社に関わる祭祀を行っていた遺跡と考えることができます。


気多神社拝殿(国指定重要文化財)


●周辺の関連遺跡群

能登半島の入り口にあたる羽咋は、日本海沿岸流に乗った古代文化の漂着地として、重要遺跡が成立する地理的環境に恵まれていました。
弥生時代には、いちはやく能登で稲作を開始した邑知潟周辺集落の拠点的集落と考えられる「吉崎・次場遺跡」が成立しています。
古墳時代には、滝地区、柳田地区、柴垣地区で多数の古墳づくりが行われ、なかでも「滝大塚古墳」は、日本海側でも屈指の大きさの大型帆立貝式古墳として知られます。
また、寺家遺跡と同時期の奈良時代には、古代白鳳寺院である「柳田シャコデ廃寺」が隣接していました。
さらに、この地域では、現在でも「能登国一宮気多神社」が鎮座しており、中近世の遺跡群や文書史料が豊富に保存されています。
寺家遺跡も、こうした歴史的空間のなかで成立した重要遺跡の一つと言えます。


空からみた寺家遺跡の範囲と関連遺跡群


●寺家遺跡のこれから
羽咋市教育委員会では、この寺家遺跡の「保存管理計画」を策定しました。
この計画は、遺跡の価値や重要性を整理し、史跡指定地を現地に「保存」する方法と、将来の「活用」に向けた基本方針を示すものです。

遺跡の「保護」は、「保存」と「活用」により成り立っています。
まず、現地に遺跡を確実に「保存」しないことには、「活用」することはできません。
そして、「活用」して価値を知ってもらうことで、地元をはじめとする皆さんの意識を「保存」に循環させることができます。
この両者を結び付け、持続可能なものとするためには、史跡の「整備」が必要です。
「保存」するにも、「活用」するにも、現地の整備は不可欠です。

市内には、すでに国指定史跡「吉崎・次場遺跡」が遺跡公園として整備され、市内小学校をはじめとする多くの利用があります。
寺家遺跡でも、こうした環境整備をはかり、遺跡の価値や重要性を広く発信して「保存」と「活用」を進めていきます。
そして、その成果を地域のまちづくりにもつなげていきたいと考えています。
これらを支えるのは、今後の継続的な調査研究活動による価値の整理と把握です。
遺跡の価値を明らかにする調査活動を、地元の皆さんととともに進め、活用についても一緒に考えていきたいと考えています。


※『史跡寺家遺跡保存管理計画書』は、以下のURLでダウンロード・閲覧が可能です。

http://www.city.hakui.ishikawa.jp/sypher/www/info/detail.jsp?id=5435

石川県羽咋の「渚(なぎさ)の正倉院」に行きたい 

$
0
0




羽咋市歴史民俗資料館
〒925-0027
石川県羽咋市鶴多町鶴多田38番地1



■交通

[徒歩] JR羽咋駅東口下車、10分
[ 車 ]  千里浜ICより10分(当館付近の駐車場をご利用ください)

 google mapを表示する

inoues.net/ruins2/jikeiseki.html - キャッシュ
... 一時「渚の正倉院」とも呼ばれた、古代史上特筆すべき遺跡なのである。大陸との 交流や気多(け た)大社との関連性もうかがうことができる。 ちなみに「海の正倉院」と 呼ばれるのは福岡県の「沖の島」であり、「地下の正倉院」は奈良の「千塚 ...

2015最新発掘情報 新庄カキノキダ遺跡 - 石川県埋蔵文化財センター

www.ishikawa-maibun.or.jp > ... > 最新発掘情報2015 - キャッシュ




柳田猫ノ目・柳田シャコデ・柳田台地遺跡、寺家遺跡
(やないだねこのめいせき・やないだしゃこでいせき・やないだだいちいせき、じけいせき)
地図データ
地図データ ©2016 Google, ZENRIN
地図データ地図データ ©2016 Google, ZENRIN
地図データ ©2016 Google, ZENRIN
地図
地形
航空写真
ラベル
遺跡の位置
所在地
羽咋市寺家町~柳田町地内
時代
縄文~中世
内容
 羽咋市寺家遺跡は、昭和53年に能登有料道路(現在の「のと里山海道」)建設に関わる工事の際に発見された、海岸砂丘に埋もれた奈良・平安時代を中心とする遺跡です。古代の祭祀(さいし)の跡や、関連する施設、使用された祭祀遺物が多数発見され、「渚(なぎさ)の正倉院」とも呼ばれており、平成24年1月に国の史跡に指定されました。
 今回の調査では、隣接する柳田猫ノ目遺跡、柳田シャコデ遺跡、柳田台地遺跡も含め弥生時代から中世の集落域や水田などの生産域が洪水砂等の堆積を挟み重複している状況を確認しました。遺構では掘立柱建物、柱穴、井戸、土坑、畦状遺構、畝溝、溝などを検出し、縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、木製品、石製品、金属製品などの遺物が多く出土しました。特に、寺家遺跡の史跡隣接地点で検出された、直線状に延びる中世の土塁と側溝は、寺家遺跡の変遷を考える上でも貴重な発見となります。





「なぎさの正倉院」国指定史跡 寺家遺跡

「渚(なぎさ)の正倉院」 国指定史跡 寺家遺跡(じけいせき)

寺家遺跡は、市内の寺家町と柳田町の海岸砂丘に埋もれた奈良・平安時代を中心とする祭祀遺跡です。
「祭祀(さいし)」とは、祭りや祈りのことを言います。
この遺跡では、古代の神社に関わるさまざまな発見がありました。


●遺跡の発見

寺家遺跡は、昭和53年に能登有料道路(現在の「のと里山海道」)建設に関わる工事のさいに発見されました。その後、石川県と羽咋市によって、長い期間をかけて発掘調査が続けられ、範囲とその重要性が明らかとなり、平成24年に国の史跡に指定されました。


石川県による有料道路路線部分の発掘調査(1980)


●何が発見されたのか?
古代の神社にかかわる祭祀の跡や、関連する施設の跡、使用された祭祀遺物が多数発見されました。
これらは、奈良・平安時代の地方神社のあり方を知るうえで、全国でも数少ない貴重な考古学的成果となっています。
祭祀の跡(祭祀場)
大きな火を焚いて祭祀を行ったとみられる大規模な焼け土の跡が発見されました。
全国的に他に類例のない発見です。
このほか、大量の土器(供膳具)と直刀・勾玉・銅鏡を用いた祭祀の跡も見つかっています。
遺跡のなかでも、祭祀専用の場所として利用していたと考えられます。

発見された大規模な焼け土の跡

関連施設群(竪穴建物群)
8世紀前半の竪穴式の建物群がたくさん見つかりました。
建物跡からは、銅鏡をはじめとするたくさんの祭祀遺物が出土しました。
こうした発見から、祭祀に従事する人々の集落跡と考えられており、古代神社に仕える「神封戸(じんふこ)」と呼ばれる人々の集落やその活動をうかがうことができます。


竪穴建物あとから出土した銅鏡などの祭祀遺物

関連施設群(宮厨と宮司舘)
9世紀代の複数の掘立柱建物が立ち並ぶ建物群が見つかりました。
この周囲からはたくさんの銅鏡をはじめとする祭祀遺物が出土し、「宮厨」と墨書された土器が見つかりました。
このほかにも、「宮」「司」「司舘」「奉」「神」などの文字が墨書された土器も出土しています。
これらの存在から、遺跡内には、祭祀をつかさどる「宮司」(みやのつかさ)が存在したと考えられます。
遺跡内には、祭祀の道具の保管や準備をするための厨施設(くりやしせつ)や、祭祀を管理する宮司の舘跡があったと考えられます。

 
「神」、「宮厨」と墨書された土器

祭祀に使用された道具(祭祀遺物)
遺跡からは、8世紀・9世紀の律令時代の祭祀に使用された銅鏡などがたくさん出土しています。
銅鏡のほか、銅製の鈴、飾り金具、刀装具、和同開珎などの銅製品のほか、鉄製の鏡や刀などもみられます。
さらに、地方ではほとんど出土しない、三彩陶器やガラス生産道具も見つかっており、この遺跡が当時の国家と関わりを持っていたことを示しています。
これらは、この遺跡で行われた祭祀で実際に使用された祭具であり、学術的に重要です。



さまざまな祭祀の道具とガラス生産関連資料


●「渚(なぎさ)の正倉院」とは?
以上の発見は、奈良平安時代の古代神社がどのように存在し、どのような祭祀を行っていたのかを総合的に検討できる価値を持っています。
遺跡の発見当初、こうした古代祭祀に関わる遺構と遺物が続々と出土し、新聞等で連日発表されました。
こうした遺構と遺物が海岸砂丘の地下に非常に良好な状態で保存されていることから、奈良にある正倉院になぞらえて名づけられました。


●何のための祭祀だったのか?
古代の能登半島は、東北の蝦夷やさらに北方民族がいる北方世界への海路の基地として重要視されていました。
また、日本海対岸の古代国家である渤海国との交流拠点のひとつでもあり、富来町の福良港がその基地でもありました。
古代の日本では、海外からの使節(蕃客)には、「異国の神」が付着して国内に入ってくると信じられていました。
使節は入京することもあり、その管理は国家にとって重要な課題でした。
寺家遺跡では、こうした能登を発着する使節に対して、その異国の神を祓うための祭祀儀礼を行っていたのではないかと考えられています。




●古代気多神社との関わり

寺家遺跡は、発見当初から「古代の気多神社」との関連性が指摘されてきた遺跡です。
六国史をはじめとする文献史料をみると、古代の気多神社は、地方神社では非常に厚遇され、国家から重要視されていていました。
寺家遺跡で発見された考古学的成果は、その内容から、当時の国家が管理する「官社」として成立していたことをうかがうことができます。
これが文献史料の古代気多神社の記述と年代的な整合性が高く、寺家遺跡は古代気多神社に関わる祭祀を行っていた遺跡と考えることができます。


気多神社拝殿(国指定重要文化財)


●周辺の関連遺跡群

能登半島の入り口にあたる羽咋は、日本海沿岸流に乗った古代文化の漂着地として、重要遺跡が成立する地理的環境に恵まれていました。
弥生時代には、いちはやく能登で稲作を開始した邑知潟周辺集落の拠点的集落と考えられる「吉崎・次場遺跡」が成立しています。
古墳時代には、滝地区、柳田地区、柴垣地区で多数の古墳づくりが行われ、なかでも「滝大塚古墳」は、日本海側でも屈指の大きさの大型帆立貝式古墳として知られます。
また、寺家遺跡と同時期の奈良時代には、古代白鳳寺院である「柳田シャコデ廃寺」が隣接していました。
さらに、この地域では、現在でも「能登国一宮気多神社」が鎮座しており、中近世の遺跡群や文書史料が豊富に保存されています。
寺家遺跡も、こうした歴史的空間のなかで成立した重要遺跡の一つと言えます。


空からみた寺家遺跡の範囲と関連遺跡群


●寺家遺跡のこれから
羽咋市教育委員会では、この寺家遺跡の「保存管理計画」を策定しました。
この計画は、遺跡の価値や重要性を整理し、史跡指定地を現地に「保存」する方法と、将来の「活用」に向けた基本方針を示すものです。

遺跡の「保護」は、「保存」と「活用」により成り立っています。
まず、現地に遺跡を確実に「保存」しないことには、「活用」することはできません。
そして、「活用」して価値を知ってもらうことで、地元をはじめとする皆さんの意識を「保存」に循環させることができます。
この両者を結び付け、持続可能なものとするためには、史跡の「整備」が必要です。
「保存」するにも、「活用」するにも、現地の整備は不可欠です。

市内には、すでに国指定史跡「吉崎・次場遺跡」が遺跡公園として整備され、市内小学校をはじめとする多くの利用があります。
寺家遺跡でも、こうした環境整備をはかり、遺跡の価値や重要性を広く発信して「保存」と「活用」を進めていきます。
そして、その成果を地域のまちづくりにもつなげていきたいと考えています。
これらを支えるのは、今後の継続的な調査研究活動による価値の整理と把握です。
遺跡の価値を明らかにする調査活動を、地元の皆さんととともに進め、活用についても一緒に考えていきたいと考えています。


※『史跡寺家遺跡保存管理計画書』は、以下のURLでダウンロード・閲覧が可能です。

http://www.city.hakui.ishikawa.jp/sypher/www/info/detail.jsp?id=5435

豊鍬入姫命

$
0
0


豊鍬入姫命   

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと[1]生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本皇族
日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。
第10代崇神天皇皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

系譜

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる[2]
  なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる[2]

記録

  『日本書紀崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。
  そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという[2]
 一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。

  同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)[2]

  『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。

考証

  豊鍬入姫命と倭姫命とは、ともに伊勢神宮斎宮の起源に求められる(ただし、制度上の最初の斎宮は天武皇女の大来皇女[3]。また上記伝承から、伊勢神宮の神格成立の要素として、豊鍬入姫命が出自とする紀国造の氏神の日前神や、三輪山(一説に笠縫邑祭祀と関連)での日神信仰の存在が指摘される[1]
そのほか名前の「豊(とよ)」から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与(壹與/臺與)に比定する説がある[2]


元伊勢

   
元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮皇大神宮(内宮)豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所。

概要

伊勢神宮内宮の祭神天照大御神皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『倭姫命世記』においてより詳しく記されている。

  外宮の祭神である豊受大御神は、『古事記』『日本書紀』に記載を欠くものの、『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世記』によれば、第21代雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国丹後国)から遷座したと伝えられている。

  天照大御神が遍歴する説話は、『常陸国風土記』の筑波山の話に登場する祖神や民間説話の弘法大師伝説に類するものとされる。一般の神社の縁起でも鎮座地を求めて神が旅する話は多いので、「旅する神」の典型的な類型であるとされる。


一覧

皇大神宮

(凡例)
1)遷幸順に宮名(地名)と候補地(神社)または伝承地を記す。
2)「日本書紀」は『日本書紀』、「儀式帳」は『皇太神宮儀式帳』、「世記」は『倭姫命世記』における記載を表す。
3)「世記」欄の括弧内は奉斎(滞在)年数。
国名 宮名(地名) 候補地(伝承地)日本書紀 儀式帳 世記 対象名 所在地 座標豊鍬入姫命巡歴大和国
(倭国)
丹波国
(但波国)
倭国木乃国
(紀伊国)
吉備国[a 1]
笠縫邑笠縫邑
(33年)
檜原神社(大神神社摂社)奈良県桜井市三輪位置
巻向坐若御魂神社(穴師坐兵主神社右殿)奈良県桜井市穴師位置
奈良県桜井市茅原周辺位置
笠縫神社(多神社境外末社)奈良県磯城郡田原本町秦庄(秦楽寺境内)位置
志貴御県坐神社付近奈良県桜井市金屋位置
笠山荒神宮奈良県桜井市笠位置
天神社奈良県桜井市小夫位置
飛鳥坐神社奈良県高市郡明日香村大字飛鳥位置
  吉佐宮
(4年)
真名井神社籠神社摂社)京都府宮津市江尻位置
皇大神社京都府福知山市大江町内宮位置
笶原神社京都府舞鶴市紺屋位置
竹野神社京都府京丹後市丹後町宮位置
伊豆加志本宮
(8年)
「笠縫邑」と同所
三輪山奈良県桜井市三輪
与喜天満神社奈良県桜井市初瀬字与喜山位置
長谷寺奈良県桜井市初瀬位置
奈良県桜井市初瀬(鳥居跡)位置
  奈久佐浜宮
(3年)
濱宮和歌山県和歌山市毛見位置
  名方浜宮
(4年)
伊勢神社岡山県岡山市北区番町位置
内宮岡山県岡山市南区浜野1丁目位置
穴門山神社岡山県倉敷市真備町妹位置
穴門山神社岡山県高梁市川上町高山市位置
神明神社岡山県総社市福井字神明240番地位置
今伊勢内宮外宮広島県福山市神村町位置
伊勢部柿本神社[a 1]和歌山県海南市日方位置
国主神社[a 1]和歌山県有田郡

桧原神社

$
0
0

ホーム
社寺を巡る

頭文字で探す

は行

桧原神社(ひばらじんじゃ)

桧原神社(ひばらじんじゃ)

桧原神社画像

見どころ 特徴

西に続く檜原台地は大和国中を一望する絶好の地。春分、秋分のころ、神社の正面に見える二上山に夕日が沈む様子は、幻想的である。

歴史 由来

皇居に祭っていた天照大神の神霊を、崇神天皇が豊鍬入姫命に託して祭ったと言われる。元伊勢の伝承地である。
桧原神社の正面画像

分類

社寺

散策路

山の辺の道

地区

山の辺・纒向エリア

住所

633-0001桜井市三輪

関連情報

万葉歌碑

地図情報


長谷寺

$
0
0


長谷寺

   
長谷寺所在地位置山号宗派寺格本尊創建年開基正式名別称札所等文化財
長谷寺外観
奈良県桜井市初瀬731-1
北緯34度32分9.2秒
東経135度54分24.6秒
座標: 北緯34度32分9.2秒 東経135度54分24.6秒
豊山(ぶざん)
真言宗豊山派
総本山
十一面観音(重要文化財)
奈良時代(8世紀前半)
道明
豊山 神楽院 長谷寺
花の御寺
西国三十三所8番
真言宗十八本山16番
神仏霊場巡拝の道第35番
本堂、長谷寺経、銅板法華説相図(国宝)
木造十一面観音立像、仁王門ほか(重要文化財)
テンプレートを表示
二本の杉
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。
大和伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院おふさ観音談山神社久米寺)の一つに数えられる。

歴史[編集]

長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年12月21日定額寺に列せられ、天安2年(858年5月10日三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺華厳宗)の末寺[1]であったが、平安時代中期には興福寺法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

伽藍[編集]

登廊(中登廊と下登廊)
初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。本堂が国宝に、仁王門、登廊5棟(下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊)、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。現存の本堂は8代目で、慶安3年(1650年)の竣工。登廊は長暦3年(1039年)に春日社の社司・中臣信清が我が子の病気平癒の御礼で寄進したとされるが、現存するものは近世以降の再建である。現存する蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊は本堂と同じ時期の建立。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建で、仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の建立である[2]。これら明治再建の建物も、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。

Viewing all 1050 articles
Browse latest View live