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[転載]【五島列島ルポ】衰退する漁業…中国漁船の乱獲で追い打ち 「状況は尖閣と同じ」嘆く漁業者

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http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130809/dms1308091158013-n1.htmより転載
【五島列島ルポ】衰退する漁業…中国漁船の乱獲で追い打ち 「状況は尖閣と同じ」嘆く漁業者 (1/3ページ)
2013.08.09
玉之浦湾に緊急避難してきた中国の虎網漁船。その威圧感に島民はおののいた=昨年8月、長崎県五島市【拡大】
 中国の虎網漁船やかぶせ網漁船などによる乱獲が深刻化する東シナ海。
その被害をもっとも受けているのが九州本土最西端に位置する五島列島だ。長年の漁業不振で漁業者が減り続ける中、中国漁船の乱獲により漁業も街も寂れるばかり。「日本の海」を守ってきた離島の漁業者たちの嘆きに胸が痛んだ。
 
 アジ、サバ、イワシなど遠洋巻き網漁業の基地である五島列島・奈良尾港(長崎県新上五島町)。夏休み中にもかかわらず観光客の姿はほとんどなく、港近くの「あこう通り商店街」は閑散としていた。
 「昔は『巻き網漁船に3、4年乗れば家が建つ』と言われるほど繁盛していたんですよ。今は若い人も『陸(おか)の仕事の方がよっぽど収入がいい』と言って漁師をやめてしまった。すっかり廃れてしまい、寂しい限りです…」
 奈良尾港を拠点に遠洋巻き網漁業を行う「まるの漁業」の野村俊郎社長(63)はこう嘆いた。
 
 奈良尾港に来訪したのは、「月夜間(つきよま)」と呼ばれる毎月6日間ほどの休漁期間だった。かつては岸壁に巻き網漁船がひしめき合っていたというが、停泊していたのはまるの漁業の第28野村丸など数隻のみ。
 
 それもそのはず。巻き網漁最盛期の昭和50年代、水産会社12社が五島列島に拠点を置き、25船団125隻が奈良尾、浜串両港を母港としていた。今は4社6船団30隻。両港界隈(旧奈良尾町)には5千人が暮らし、商店街も活気にあふれていたという。
 
 だが、現在の人口は半分以下。しかも高齢化率は41.4%と全国平均(23.3%)をはるかに上回る。
地域医療拠点だった奈良尾病院は平成23年4月、医師不足のため入院できない無床診療所となった。
 
× × ×
 
 港が寂れた理由は一つ。漁業がすさまじい勢いで衰退しているからだ。
 
 昭和52年の両港の水揚げは21万7千トン(249億円)に上ったが、平成23年は5万3千トン(73億5千万円)と3割に満たない。
輸入増によりサバなどの魚価が下落した上、地球温暖化により漁獲量が減り続けている影響が大きいが、これに追い打ちをかけたのが、中国漁船による乱獲だ。
 
 特にここ3、4年は日中両国の排他的経済水域(EEZ)が重なり合う日中中間水域で中国漁船が急増している。五島列島の西約120キロにあるこの海域は、サバやアジの良好な漁場だったが、昨年だけで280隻以上の中国漁船が確認された。
 
 中でも悪質なのは虎網漁だ。日本の巻き網漁漁船よりはるかに大きい400~500トンの漁船が強力な集魚灯と全長1キロもある長大な網で魚群を一網打尽にする荒っぽい漁法であり、漁場は荒らされ放題。日本漁船が見つけた魚群を横取りすることも日常茶飯事で、最近は巨大なアームに付けた網で魚群をかっさらう「かぶせ網漁」も急増している。
 
 古くなった網を切断し不法投棄するケースも増加している。ここ数年、日本漁船のスクリューに浮遊する網がからまり、身動きできなくなる被害も相次ぐ。
 
 だが、EEZと違って中間水域では、水産庁の漁業取締船が取り締まることはできない。中間水域での日本漁船の操業は、虎網漁船の出現により、ますます減ってしまった。
 
 長崎県平戸市・生月島を拠点とする東洋漁業の徳永幸廣常務は悔しそうにこう打ち明けた。
 「中国漁船のやり方では東シナ海がどんどん枯れてていく。燃料代も高騰しているので、中国漁船がやりたい放題の中間水域までわざわざ漁に出るのは割に合わないのが現状です。本来はよい漁場なんですが…」
 
× × ×
 
 五島列島の漁業者の大半は、近海での刺し網漁やはえ縄漁を営んでおり、沖合で中国漁船を目にする機会は滅多にない。
 
 ところが、昨年7月18日未明、東シナ海への台風接近を受け、操業中の虎網漁船106隻が玉之浦湾(五島市福江島)に避難してきた。
事前連絡の上での緊急避難は合法であり、上陸しない限り問題はないが、過去には湾内に設置したハマチなどの養殖筏(いかだ)や定置網に中国漁船の錨(いかり)が引っかかる被害が出たり、船員が勝手に不法上陸して警察が捜索する騒ぎもあった。
 
 昨年はこのようなトラブルはなかったが、106隻はいずれも日本の巻き網漁船よりはるかに大きかった。かつて中国漁船は50トンほどのオンボロ船ばかりだっただけに島民たちは恐怖におののいた。
 
 その後も中国漁船の来襲は続き、8月24日にも89隻が大挙して押し寄せた。
昨年中の緊急避難は計4回、延べ268隻に上る。
 
 避難先の入り江から2~3キロ離れた湾内には日本漁船が停泊する漁港がある。五島漁協玉之浦支所の山下真澄支所長はこう語った。
 
 「もし間違ってこっちの漁港に入ってこられたら被害はもっと大きい。五島は昔からずっとこういう思いをしているんです」
 
   × × ×
 
 平成23年11月、沿岸漁業者のテリトリーである五島列島沖の領海内で、海上保安庁巡視船が、停船命令に従わずに逃走した中国中型漁船の船長を漁業法違反容疑で逮捕した。
 
 尖閣諸島をめぐり日中間の緊張が続く中、海上保安庁の活動も尖閣周辺に集中している。
当然、五島列島沖は手薄となっており、これに乗じて中国漁船が急増しているとみられる
 
 代わりに海の監視役を担ってきたのが日本漁船だが、国による補償はなく、乱暴な中国漁船とトラブルになり、船が損傷しても泣き寝入りするしかない。まるの漁業の谷綾一取締役総務部長はこう語った。
 
 「商売上、損をしてまで中間水域には行けない。ますます監視が手薄になり、相手は横暴になるという悪循環です。こういった問題が積み重なり、行き着いた先が尖閣諸島なんでしょうが、五島も同じような状況にあるんです」
 
 平成24年に改正された離島振興法では、対象となる離島を「わが国の領域、排他的経済水域の保全、海洋資源の利用(中略)などわが国の利益に重要な役割を担っている」と定めている。第28野村丸の吉本洋一郎漁労長(66)は自船を見上げながら嘆いた。
 
 「魚価は下がり続けているのに円安政策で燃料代は上がる一方です。漁師はみんな大変なんだが、国からの支援はあまりにも少ない。領海を守る力になりたいとは思うけど、国は農業に比べて漁業にあまりに冷たいんじゃないかな…」(田中一世)
 
転載終わり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尖閣を守るということは、あくまで、日本の領土、領海、領空を守るということの代名詞に過ぎない。
 
尖閣に、資源を集中投下するあまり、五島のように、守れない事態が、発生している。
ならば、早急に、手を打つべきだろう。
いまのところ、ここの守りを、尖閣のために手薄になる以前の状態まで戻すことには、
別に、憲法改正も、憲法解釈の変更も必要はない。
 
予算をつけて、人員を増員をするだけのことだ。
 
必ずしも、守るというのは、軍事力を否定して、存在し得ないけれど、
だからといって、軍事力だけの問題ではない。
 
なぜ、政治は、できることから、さっさと手をつけないのだろうか?
 
広範囲わたる防衛について、小さなことから積み重ねていく姿勢を、持つべきだろう。
 
いわゆる、周辺国を刺激するな、という方々が、守ろうとする周辺国の存在によって、
日本の資源が、強奪され、枯渇するかもしれないときに、国家として、ただ指をくわえてみているだけなのは、
無能すぎる。
 
この漁業の姿勢一つ見ても、中国の勢力が拡大していくことは、
この地球を食い荒らすことでしかない、のが見てとれる。
すべての国にとって、中国は危険な国であるということであり、
この国を、押しとどめる力を、周辺国が持たない限り、
地球人として、不幸を避けることはできない。
 
 
 

転載元: hara123のメモ書き


[転載]中韓「蜜月」のはずが“激突”…「東シナ海」海洋権益、双方譲る気配なし

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http://www.sankei.com/west/news/151108/wst1511080003-n1.html

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 韓国・ソウルで行われた日本、中国、韓国による首脳会談では、日本を牽制(けんせい)するために歴史問題で共闘するのではないかという中韓両国の姿勢に注目が集まった。しかし、そんな中韓両国の間にも簡単には抜けそうにもないトゲが刺さっているようだ。その一つが、東シナ海における排他的経済水域(EEZ)の境界線画定問題だ。中韓両国はこれまでも境界線画定交渉を行ってきたが、双方の主張は対立したままで、成果は挙がっていない。

「欠落」した発表

 朝鮮日報日本語版(電子版)によると、中国外務省の発表では10月31日の中韓首脳会談で、中国の李克強首相がEEZの境界線を画定するための会談を早期に開くように求め、中国側メディアはこのことを盛んに伝えたが、韓国側の発表にはその部分が欠落していたという。

 中韓両国のEEZの境界線画定問題は、済州島の南にある離於島(イオド、中国名・蘇岩礁)をめぐる問題に起因する。韓国は中韓両国のEEZが重なる部分の中間線を境界線とすべきだとしている。しかし、中国は離於島は国際法上、島ではなく岩礁であると主張。国連海洋法条約では島であればEEZを設定できるが、岩礁の場合はできない。

東シナ海“全域”の独占狙う

 もともと大陸棚延長論を唱え、東シナ海ほぼ全域の海洋権益を独占しようとしていた中国は離於島周辺の管轄権も自らにあると主張し、韓国側と対立していた。

 中韓両国は1996年から2008年まで14回にわたってEEZの境界線画定交渉を続けてきたが、お互いの主張は平行線のままで中断している。昨年7月の首脳会談でも今年中に協議を再開することで合意していたが、10月31日に開かれた李首相と朴大統領との首脳会談に関する発表内容の違いに双方の対立の根深さがうかがえるともいえる。

 韓国のKBSによると、近く高官級会談が開かれて協議が再開される見通しだというが、過去の経緯をみると、そう簡単に着地点が見いだされそうにない。

転載元: noirのミリ活(ミリオタ活動)ブログ(`・ω・´)ゞ

[転載]支那は自国の敗戦の歴史を勉強すべし!アヘン戦争の敗戦が再び支那に再現される可能性大

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【シドニー時事】日本、オーストラリア両政府は22日、シドニーで外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)を開催した。
 各閣僚は、日豪の防衛協力の深化を確認。閉幕後に共同声明を発表し、南シナ海での中国による人工島造成を念頭に、「現状を変更し得る威圧的、一方的な行動に強く反対する」と強調し、埋め立てや軍事使用を停止するよう求めた。
 日豪2プラス2は6回目で、9月の豪ターンブル内閣の発足後は初めて。日本からは岸田文雄外相、中谷元防衛相、豪からはビショップ外相、ペイン国防相が出席した。
 共同声明では、海洋における「法の支配」の重要性に言及。沖縄県・尖閣諸島周辺海域への中国公船の侵入が続く東シナ海にも触れ、一方的な行動への反対を明記した。
 豪政府が計画する次期潜水艦調達計画をめぐっては、日本側は「そうりゅう」型潜水艦の能力の高さや、地元企業の参画を重視する方針を説明し、受注への意欲を伝達。豪側は「選考手続きへの参加を歓迎する」と評価した。
 日豪の安全保障協力に関しては、自衛隊と豪州軍の共同訓練、米国を含めた3カ国の防衛協力などの強化に取り組むことで合意。また、パリの同時テロを非難し、国際的なテロ対策の取り組みが重要だとの認識でも一致した。 

最終更新:11月22日(日)17時4分

転載元: 強い日本 優しい日本 賢明な日本

[転載]歴史を直視・・・・中国の南シナ海侵略問題は尖閣諸島問題と同じ

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 南シナ海におけるアメリカの艦船派遣だけがクローズアップされているが、これには前段階がある。それを見ないと判断を誤る。

 中国は1970年代以降、南シナ海全域への侵略を強化し、南シナ海を自国の領海にする行動を進めてきた。これは、南シナ海だけでなく、東シナ海の問題と密接不可分なのだ。

 東シナ海の領海化のためには、尖閣諸島を自国のものにする必要があり、そのために日本から尖閣諸島を奪うことを考えていると見てよい。

 もちろん尖閣諸島という無人の小さな島が最終目的ではない。東シナ海の海底資源が目的でもない。

 軍事侵略国家の中国は海洋進出の必要から、尖閣諸島が日本の領土であることが邪魔になるということだ。尖閣諸島を中国のものにしてしまえば、台湾は統合したも同然となる。

 さらに台湾を統合した後、日中中間線あたりに軍事施設を作り、沖縄の独立運動を煽って沖縄を中国の支配下に置けば、沖縄も奪える。そうなれば西太平洋は中国の支配下に置けるということだ。

 中国は相手国の軍事力が弱いと見たら、言いがかりをつけて武力衝突して軍事占領することを繰り返してきた。南シナ海の歴史は、それを証明している。

 話し合いで分かる相手でないことは、ベトナムやフィリピンが中国に自国の「領土」を奪われた歴史を見れば、明らかだ。暗礁だから領土と言うには問題があるが、中国は暗礁を奪って人工島を作り、その人工島の周囲12カイリを自国の領海だと主張しているのだ。国際法もヘチマもあったものではない。いかに無法な主張をしているかということだ。

 南シナ海での中国の無法行為をみれば、東シナ海でも同様のことを考えていると見るのが自然である。日本としては、これは防ぐ必要がある。そのためには、南シナ海で起こっていることを検討する必要がある。

 南シナ海で中国の侵略を受けた国の特徴として、海軍力が弱いうえに同盟国がなかったということがある。そこを中国に付け込まれたのだ。
 ベトナムもフィリピンも海軍力は弱体である。しかも同盟国がなかった。ベトナムはベトナム戦争後にアメリカが撤退した直後、中国から陸と海の両方で侵略を受けている。フィリピンはアメリカの基地を追い出した間隙を突かれた形になっている。

 日本は海上自衛隊という海軍力を持っている上、アメリカと同盟を結んでいる。ベトナムやフィリピンよりも武力衝突という手段に出るのは、格段に難しく厄介だ。だから、今のところ、そういう手段では出ないが別の手段で出ることを考えている。このことについては、別の機会に譲る。


中国の尖閣諸島奪取と長期計画については、下の記事参照

 中国は南シナ海において1970年代から着々と実効支配を拡大してきた。1974年に西沙諸島でベトナムと武力衝突し、軍事占領した。1988年には南沙諸島でベトナムと衝突し、実効支配を広げた。占領後は軍主導で建造物を建てるなどして既成事実化を進めてきた。1995年にはフィリピンが領有権を主張していた南沙諸島のミスチーフに間隙をぬって進出し、軍事施設を建設してしまった。
 東シナ海の尖閣諸島は中国から見て第1列島線の内側にあり、近海防衛戦略の対象に含まれる。しかも中国には南シナ海の前例があるだけに「次は東シナ海、尖閣諸島がターゲット」と日本は警戒せざるを得ない。実際、実効支配化へのプロセスもよく似ている。初めに漁船が出没する。その漁船保護の名目で海軍など公船がやってくるというパターンだ。尖閣諸島付近でも漁船の強引な行動が目立つようになっており、2010年9月には海上保安庁の艦船との衝突事件が起きた。
 フィリピンと領有権を争う南シナ海に出没する中国漁船には、中国政府から補助金を出していることがわかっている。政府が積極的に問題海域へ出漁させ、既成事実化を図っているのだろう。尖閣諸島付近に出漁する漁船にも同様の措置が取られているようだ。
 また海軍は漁民の中に民兵組織を構築している。漁民を国防に動員させるためだ。南シナ海や東シナ海の問題海域へ出漁する漁民が民兵の肩書を持っている可能性も否定できない。・・・・・・・・・
     「中国人民解放軍の実力」 塩沢英一著 ちくま新書 2012年 p115






転載元: 自然と歴史と 2

[転載]<中国の歴史認識とどう向き合うのか> 2015.03.08 初出

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初出2015-03-08

赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』(7)

戦後70年の歴史認識をめぐって(1)




「国策」の歴史認識に「真実」の照射を

戦後70年」を巡る日本の「歴史認識問題」に対する中国と韓国のプロパガンダがはじまりました。日本人に贖罪感を植え付け、国際社会での孤立化を図ろうとする意図によるものです。また、一部のマスコミがこの動きに連動し、「歴史の真実」が「捏造の歴史観」の中に押し込まれる危険性があります。

そこで、この歴史認識問題にどう対処すべきなのかを考えたいと思います。

中国や韓国の対日プロパガンダは「国策」です。彼らは国際社会を巻き込んだ情報戦で対日圧力をかけ、自国に有利な立場を築いていこうとしています。このような動きにどう対応してくのかということが重要になってきます。

日本としては戦後70年の節目を好機と捉え、問題の解決を図らねばならないと思います。正面から向き合って「正しいことは正しい、間違いは間違い」と認めることから、明日のよりよい国際社会を作れるのではないかと思います。

ただし、これはかつてのように妥協や迎合をせよということではありません。本気で日本の考えを表明していかねばなりません。それが理解されるかどうかは問題ではありません。「それぞれの立場が違うということを理解する」ことが、国際社会においての多様性を認めあうことであり、国際平和の基礎となるのです。違うことばかり言い合い、立場を認めない態度こそ紛争の火種となるからです。


歴史認識問題は冷静な対応と事実の表明を

さて、この歴史認識を巡る問題について、結論から先に申しますと、第一に、「対日プロパガンダには大騒ぎして反応はしない。あくまでも冷静な目で論点を見る」、第二に「歴史の真実を一切の脚色なく、ありのままに情報として発信する」、という二点に尽きると思います。冷静に対処して、真実の光を照射することで、捏造の闇は消えざるを得なくなるからです。

それではなぜ、中国や韓国は執拗なほどに歴史認識問題を持ち出してきているのか、その歴史的背景や裏に隠された意図を最初に知っておく必要があります。また、それに対して日本はどう反応し、どう対応してきたのかも確認していく必要もあります。ここを理解し、本質を見抜いた先に、問題解決の糸口がみつかるのではないでしょうか。



<中国の歴史認識とどう向き合うのか>

「反日政策」が効かなくなった!

中国による「反日路線」の始まりは、一般的に江沢民氏の日本に対する強烈な対抗意識に基づくものだといわれています。江沢民氏の日本敵視路線は、結果として中国をまとめるのに役立ったようで、その後も胡錦濤政権、現在の習近平政権下でも継続されています。しかし、これは「国策」としての反日で、民衆レベルまでの反日ではないといわれています。中国の人にとっては、その大多数が反日感情を抱いているわけではなく、中国共産党の号令のもとに行動しているにすぎないようです。現に、反日デモは、「中国政府への転覆活動に転化する可能性」が大きくなっていますので、行われなくなりました。すでに、反日というだけでは中国を統合する効果が薄れているようです。


恥辱の歴史に対する「中国の苦悩」
「中国の苦悩」は、単に、日本が中国大陸に進出した「満州事変」や「日支事変」にようものではないようです。中国出身の政治学者の汪錚 (ワン・ジョン)氏によると、中国人の歴史に対する悲しみは「勿忘国恥(国の受けた恥辱を忘れるな)」にあると指摘しています。19世紀なかば以降100年間にわたっての侵略、領土の割譲、賠償金の支払い、国権の喪失 (不平等条約)を強いられ、辱められてきたという 「歴史的記憶(※1)」に基づくもののようです。
(※1)1840年アヘン戦争:イギリス、香港島を割譲。1856年アロー戦争:イギリス、九龍を割譲、ロシアは外満州を割譲。1884年清仏戦争勃発:フランス、ベトナム全土を植民地化。1894年日清戦争:清、朝鮮の独立を承認、台湾と澎湖諸島が日本に割譲。

なお、当時の中国人の苦しみは、かつての日本人も共有していました。とくにアヘン戦争で清国が敗北したとの衝撃は幕末の日本にも伝えられ、維新の志士たちに西欧列強への大きな危機感を抱かせるものとなりました。

したがって、中国にとって恥辱を晴らしたいという思いは、本来的には日本だけに向けられるべきものではないのですが、中国は強い姿勢で臨んで来る国には反発ができない(※2)という精神的な弱さがあります。
※2 中国の国家主席胡錦濤氏が訪米時、ホワイトハウスの歓迎式典で国旗が逆さまに掲げられ、中華民国(台湾)の国歌が演奏されたが、胡錦濤氏は抗議もせす、ニコニコとしていたと伝えられている。

そのために、第二次世界大戦で敗戦国であり、しかも外交的な圧力に極めて弱い日本に対して、全ての「恨み」を集中してぶつけている可能性も高いと考えられます。しかも、日本の戦後の急速な経済的繁栄に対する強い嫉妬心も加わり「怒り」を増幅させていたのではないでしょうか。


覇権をめざす中国のもうひとつの狙い

また、中国にはアメリカの後継者としての地位を築きたいという野望があります。そのためには、まず、アメリカと太平洋の東西を二分化したいという意思をもっていました。アメリカに簡単に退けられましたが、それでも外洋進出を諦めているわけではありません。

中国が外洋に進出するには東シナ海から太平洋に出ざるを得ません。しかし、そこには日本が存在し、沖縄には最強の米軍が控えています。
沖縄は東アジアの主要都市に航空機で4時間以内で到達できる戦略的な要衝です。中国にとっても沖縄は喉から手が出るほど欲しい戦略地点でもあるのです。



沖縄を中国の意のままにするには、沖縄を日本から分離させること、そして米軍基地を沖縄から排除させることが必要になります。そのために、中国は日本に「軍国主義復活阻止」を叫び、集団的自衛権の行使をさせないように、しかも、日米同盟に亀裂が入るように工作活動をしています。沖縄の反米基地闘争はその一環です。

また、沖縄には、「琉球独立」という幻想をあたえて沖縄を日本から分断しようとしています。その工作のために、沖縄はかつては中国の支配下にあったのだという嘘の主張(※3)や、かつての沖縄戦の惨禍を日本のせいにして、中国の主張には抵抗しづらい心理環境を作ろうとしています。
※3 日本書紀に、「和銅8年(715年)正月、立太子礼をすませた首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)の朝賀の儀が執り行われた際、大極殿の前には北は陸奥、出羽の蝦夷たちが25人、南は奄美大島をはじめ、屋久島、徳之島、そして、沖縄の石垣島や久米島から、それぞれの代表52名が参列した」と書かれている。


国策としての歴史戦にのぞむ中国

2月23日の国連安全保障理事会の討論会合(※4)で、中国の王毅外相は「(第2次大戦について)いまだに真実を認めたがらず、侵略の犯罪をごまかそうとする者がいる」と語っています。直接の名指しを避けていますが、これは日本を念頭に置いているのは明らかです。
※4 これに対して日本は、吉川元偉国連大使が「日本は戦後、大戦の深い反省に立ち、平和国家としての道を歩んできた」と強調した。その姿勢は「日本人の誇りであり、決して変わらない」とも言明した。菅義偉官房長官は2月24日の記者会見で「国益を懸けてしのぎを削る場面だ。日本として主張すべき点は、主張していく」と強調した。

また、5月には対ドイツ、9月には対日戦勝記念日に合わせ、習近平国家主席とプーチン大統領が、モスクワと北京を相互訪問することになっています。9月の式典については、共産党の機関紙『人民日報』で「パレードで中国の軍事力を示し、日本を震え上がらせる」と報じています。また12月13日を南京事件の「国家哀悼日」として、大規模な反日キャンペーンを展開する予定のようです。

今年の春から1年間は、歴史認識問題の言及が吹き荒れそうです。すでに、NHKのニュース番組の中でも歪んだ見解が出始めているようです。中国や韓国が声高に主張を展開し始めると、一部の新聞、歴史学者、政治家が便乗して、積極的に彼らをバックアップすると思われます。この影響で、真実の声はかき消されがちになり、国内では悲観論が漂い始めるかもしれません。

その時、私たちは、冷静に一つ一つの歴史的真実を伝えていくべきです。歴史的事実を検証したとき、必ずしも日本が全て正しいわけではないはずです。評価すべきは評価し、反省すべきは素直に反省しながら、「真実の歴史」に向き合わねばなりません。

遠回りかも知れませんが、それが問題を解決する王道であろうと思います。

(つづく)


  お問い合わせ先 akaminekaz@gmail.com 
  FBは https://www.facebook.com/akaminekaz です

転載元: 赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』 ミラーサイト

[転載]7 日本のルーツは中国東シナ海沿岸部2

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 天皇は今も田植えをし皇后は蚕から絹織物します、これは日本人の主流になった弥生人と天皇家が古代稲作地の中国揚子江河口域や東シナ海沿岸部の出身だという証拠ではありませんか?
 日本では紀元前2世紀の弥生時代から弥生人であれば民衆でもお米のご飯を食べていた。
 内陸出身の元(モンゴル)中国帝国の時でも、揚子江河口域の中国人に船を造らせて東シナ海を渡って日本に攻めて来ました。
 それに対して韓半島では10世紀までコーリャンなどの雑穀しかなかったとか韓国(朝鮮)の中国文化は儒教文化しかないなどの多くの文化がまったく違うのだから、過去において韓半島からの文化の影響はほとんどなかった。
 
 この質問提示を出してみた。いや~あ、上記の質問を初提示したら、3人の回答者がなんと3人とも、中国文化は韓半島を経て日本に来たと。うわ~あ、この回答者たち。皆、井沢元彦なんだ。「海の道」「中国東シナ海沿海部の民」という発想がまったくないんだ。韓国(朝鮮)の実際の中国属国の歴史も、中国に押し付けられた儒教道徳の奴隷だった歴史も、中国帝国様に収奪されて来た貧しい歴史も、彼らは何も知らないままに。ただ陸地だけを見て、中国文化は韓半島を経て日本に来たと。
 いや~あ、私は今、日本人たちのほとんどが韓国(朝鮮)の実際も知らないくせに、中国文化が韓半島経由で来たと、単純に思い込んでいることに、あきれ果てる。単純にただ陸地だけを見て思い込んでいる。
 馬鹿日本人ども、ただ陸地の地図だけを見て、中国文化→韓半島経由→日本列島へ、とばかり勝手に思い込んでいる、思い込んで来た。そこに“海・船・海路・海の中国人”という発想がまったくないから。しかも勝手に中国文化→韓半島経由→日本列島へ、とばかり思い込んでいる連中は、韓半島の中国文化というものがどんなものなのかということすら知らない・知ろうともしないのだ。韓半島の中国文化は、中国帝国に押し付けられた儒教文化、中国帝国=ご主人様、韓半島=属国・奴隷というものだった、ということをその連中は知らないのだ。中国帝国に抑圧された奴隷属国としてしか生きることを許されなかった悲惨な歴史の国、それが韓国(朝鮮)だという事実を、馬鹿日本人どもは誰も知らない。
 韓国(朝鮮)のことなど、何も知らない連中が、ただ陸地の地図だけを見て、中国文化→韓半島経由→日本列島へ、とばかり勝手に思い込んでいる。あきれ果てた旧来の日本古代史の連中ども。日本人の大多数は実際には、韓国(朝鮮)のことなどその歴史も文化の中身も何も知らないのだ。
 怒り心頭だ、馬鹿無能日本人ども、ただ陸地の地図だけを見て、中国文化→韓半島経由→日本列島へ、とばかり勝手に思い込んでいる。しかも実際の韓国(朝鮮)の歴史も文化も彼らは何も知らない。実際の韓国(朝鮮)の歴史も文化も何も知らないくせに、ただ陸地の地図だけを見て、中国文化→韓半島経由→日本列島へ、とばかり勝手に断定して思い込んでいるのだ。
 

転載元: 古事記のリアルな解明Ⅱ

[転載]6 日本のルーツは中国東シナ海沿岸部

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 韓国(朝鮮)には米作はなかった、コーリャン・稗・粟のような雑穀しか栽培できなかった。韓国(朝鮮)の人々がお米を食べれるようになったのは、10世紀の高麗時代に韓国で米作が始まったらしい。まぁ日本と比べて、圧倒的に遅いことに違いはない。しかも民衆はそれ以後もコーリャンなどの雑穀が依然として韓国では主流だった。だから韓国では箸を使わずにスプーン(レンゲ)で食べる。
 一方日本では、紀元前2世紀には西日本に広く弥生稲作が広まって行った。スサノヲの時(前1世紀)にすでに「箸」の記述が出ているわけだから。日本人は弥生人であれば民衆レベルで紀元前からお米のご飯を食べていたのだ。この基本的な食文化の違いのことだけでも、日本(倭国)と韓国(朝鮮)がまったく民族としても文化としても接点のない隔絶した異文化どうしであることが分かる。
 我々日本人は、実は韓国(朝鮮)のことを何も知らずに来たのだ。韓国がずーっと中国帝国様の属国として生きて来たことも、知らなかった。韓国の文化が中国帝国様によって属国として虐げられて来たことによる「恨み(ハン)の文化」であることも知らなかった。
 しかも中国帝国によって韓国(朝鮮)に押し付けられた中国文化は、孔子の儒教道徳で、それは中国=主人、韓国=下僕という道徳支配(被支配)文化だった。一方日本の天皇家には、儒教道徳思想などどこにもない。天皇家の継承は長男継承ではなくて、天皇家の男子の中で最も優れた人物が実力で皇位を継ぐ。
 それほど日本と韓国(朝鮮)とは、まったく違った文化の国であり、交流は皆無に近かったのだ。なのに旧来は今も日本人のルーツは韓半島だと思い込んでいる人が井沢元彦など多いのは、単純に東アジアの海域の多い東部地域を、陸地だけで見てしまう人たちが多いからだ。陸地だけで見てしまえば、中国→韓半島→日本列島となってしまう。そういう人達には、海・航路・船という発想はまったくないのだ。またそのような人達には、実際には韓国文化と日本文化が何の接点もないほど全く別々の文化だという事実認識さえないのだ。
 実際には中国人の大多数は内陸中国人だが、中国の東シナ海沿岸部の人達は、海の中国人という特別な中国人たちだった。その“東の中国人”が日本列島に渡って日本に“東の中国”を建国したのだ。さらに日本は古代から海路で直接船で中国文化を取りに行けたわけだから、韓国経由の劣った中国文化など必要なかった。
 日本人は古事記のスサノヲの場面ですでに“箸”を使って人々が食事していた。つまり日本人の主流になった弥生人は中国の揚子江河口域の最も稲作文化の強い“東の中国人”たちだった。もちろんお米は、中国の揚子江河口域からその人々とともにもたらされた。
 民族が移動する場合、結局似たような風土の場所に行けば同じ文化をそのまま持って行けるからラクなんだよね。北欧のスウェーデンのルーシ族がユーラシア大陸の北方を東へ東へと進んで行ったのがロシアだ。アフリカに近いスペイン・ポルトガルが新大陸に渡ったのは中南米で、北国のイギリス人が渡った新大陸はアメリカ合衆国・カナダの北米だった。気候風土が似ている場所に移住すれば、元の文化をそのまま使えるわけだから。
 日本人の主流になった弥生人も、中国の東シナ海沿岸部の人達で初めから“稲作の文化”だから、日本列島の九州・西日本に渡ってそのまま“瑞穂の国日本”をすればよかったという、なんとも同じ風土なんだよ。

転載元: 古事記のリアルな解明Ⅱ

東シナ海

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東シナ海

   
東シナ海 中国語繁体字簡体字別名繁体字簡体字英語英語: 朝鮮語ハングル漢字
East China Sea.PNG
東シナ海
東海
东海
[表示]発音記号官話 - 漢語拼音 - 注音符号閩語 - 閩南語 白話字粤語 - 粤拼呉語 - 呉語ローマ字表記客家語 - 客家語拼音
東中國海
东中国海
[表示]発音記号官話 - 注音符号閩語 - 閩南語 白話字粤語 - 粤拼呉語 - 呉語ローマ字表記客家語 - 客家語拼音
East China Sea
동중국해
東中國海
[表示]発音記号 - MR式 - 2000年式
東シナ海(ひがしシナかい、東支那海)は、太平洋西部の南西諸島ユーラシア大陸で挟まれている。

概要

福江島・大瀬崎から眺めた東シナ海

  太平洋西部にある縁海であり、北は対馬海峡を通じ日本海と接し、東は南西諸島を挟んで太平洋(フィリピン海)に接する。南南西に台湾海峡を通じ、南シナ海と結ばれているほか、北西は黄海に接している。大規模河川として長江が流入している。

 海域の中央部には島嶼は無いが、北辺から東を経て南辺にかけて周囲に島弧がある。主な島嶼として、北から済州島九州南西諸島台湾となっている。ユーラシア大陸縁辺部には舟山群島などの小島嶼がある。海底はほとんどがユーラシア大陸から続く大陸棚で、深度200mより浅いが、東部は沖縄トラフであり深度約2,000mと深くなっている。海流としては黒潮およびその分流の対馬海流が流れている。

 日本と中国の間では尖閣諸島問題のほか東シナ海ガス田問題に絡んで経済水域の設定に争いがある。また、韓国と中国の間でも蘇岩礁にからみ争いがある。

表記

日本において

  第二次世界大戦までは東支那海と表記した。また戦後の一時期は東中国海と表記されていた。現在の日本の外務省の公式文書等では東シナ海と表記され、日本国内では一般化している。

その他の国・地域において

  • 国際水路機関発行の「大洋と海の境界(第三版)」[1]では、Eastern China Sea (Dong Hai)としている。
  • 中華民国中華人民共和国 - 東海(トンハイ)と表記する。 ただし、この表現は中国語でしか用いられていない。
  • 韓国 - 東シナ海のうち、朝鮮半島および済州島の南方の海域は「南海남해、ナムへ)」と呼ぶ。東シナ海全体については「東中国海동중국해、トンチュングケ)」とも呼ぶ。

漁業

 この海域は、1960年頃までは、大変よい魚場であったが、漁獲規制がまったく行われなかったために、日本漁業者の乱獲により水産資源が激減した。
  戦後間もない1951年時点で水産資源の減少は明らかであったが、有効な漁獲規制は今日まで導入されていない。農林水産省の「漁業・養殖業統計年報」によれば、1960年の日本の漁獲量は370tほどあったが、それをピークに直線的に減少し始め、近年は20t足らずにまで落ち込んでいる。
  1980年代からは日本漁船は、採算が取れなくなり撤退、その後に操業コストの安い中国漁船が進出し、さらに資源は減少し続けている[2]

備考

  • 中国報道機関などの日本語サイトは、 「シナ(支那)」を日本人がかつて中国に対する優越意識・差別意識をこめて使用した語であるとして日本語表記の東シナ海も使用せず、かわりに東中国海の表記が用いる事がある。
  • 中国の学者凌純声は「東亜地中海」(東アジアの内海)と呼んだこともある[3]
  • その他、東シナ海全域をとらえる概念として環東シナ海[4]、または環シナ海[5]という概念もある。
  • 東シナ海の領域内である北緯30度43分東経128度4分戦艦大和が沈んでいる。

関連項目




東シナ海ガス田問題

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東シナ海ガス田問題

   
東シナ海ガス田問題(ひがしシナかいガスでんもんだい)は、東シナ海での日本国中華人民共和国中国)のガス田開発に関わる問題である。

概要

 問題となっている海域には、中国側の調査で春暁(日本名:白樺)、断橋(日本名:楠)、天外天(日本名:樫)、平湖、冷泉(日本名:桔梗)、龍井(日本名:翌檜)、残雪、残雪北の8ガス田が確認されているが、春暁(白樺)、断橋(楠)においてはその埋蔵地域が日中中間線の日本側海域に掛かっているため両国間の問題になっているほか、日本政府は天外天(樫)、龍井(翌檜)についても資源が中間線を越えて広がっている可能性を指摘している。

 日本は2005年に経済産業省が中国に対抗し民間開発業者への試掘権付与手続きを行うなどしていたが、その後通産大臣に親中派議員が配置されたこともあり一転してソフト路線となってしまい、現場に海軍を配置して強硬に開発を推し進める中国に対して傍観するするしかない状況となった。
 地区の限定して共同開発する話もあったが、その後一方的に共同開発より格下の「出資」扱いとされてしまった。対中関係を配慮するばかりに、この問題における出遅れや対応の遅さが指摘されている。

主張する海域の違い

ガス田の位置と日中中間線。日本名:春暁は「白樺」、断橋は「楠」、冷泉は「桔梗」、天外天は「樫」、龍井は「翌檜(あすなろ)」

 問題となっているガス田は、両国の排他的経済水域内にあり、日本はその権益の範囲を現在国際的に一般的な日中中間線とするのに対し、中国は1970年代頃までの国際法上の解釈に基づく大陸棚の先端沖縄トラフまでを主張している。

 こうした排他的経済水域に関わる問題は、国連海洋法条約において「関係国の合意到達の努力」に委ねられているが、解決が見られない場合は調停を要請できる。それでも解決が見られない場合は各裁判所に要請する事ができる。
 当条約は平和的解決を要求しているが、条文には強制力がないため、関係国がこれに応じない場合調停や裁判所での解決ができない。日本・中国共に国連海洋法条約に批准しており、日本は国際司法裁判所国際海洋法裁判所に付託する事を中国に要請しているが、中国はこれに応じていない。

経緯

 中国政府は、この海域の資源開発研究を30年以上前から続けており、1999年に平湖ガス田(全体が日中中間線より中国側にあるガス田)で天然ガスの生産を開始している。

 中国は経済成長により電力需要が逼迫していることから、春暁(白樺)、天外天(樫)両ガス田でも日本の抗議にもかかわらず採掘施設の建設を進め、2005年9月下旬には、日中中間線から4キロメートルの位置で天外天ガス田の生産を開始した。なお、11月にも操業を始めるとみられる春暁(白樺)の採掘施設は、中間線から1.5キロメートルしか離れていない。

日本政府の対応と中国の反応

2004年

 6月、中国が春暁(白樺)の本格開発に着手したことがわかり、春暁(白樺)・断橋(楠)付近の海域を独自に調査。春暁(白樺)・断橋(楠)は地下構造が中間線を挟んで日本側につながっており、天外天(樫)、龍井(翌檜)もその可能性があることを日本政府は確認した。
 このため、中国が日中間で地下構造がつながっているガス田の採掘を始めると日本側の資源まで吸い取られてしまう可能性が高いとして問題視している。そして、外交ルートを通じて当該海域での開発作業の即時中止と、地下構造のデータ提供を求め続けているが、2005年現在、中国側はデータ提供を拒んでいる。

2005年

 7月、当時の中川昭一通産大臣は帝国石油に試掘権を付与した。日本の資源を守る目的があるとされた。試掘権付与手続きと平行して、日本政府は中間線付近の5ガス田に日本名を命名した。
 春暁は「白樺」、断橋は「楠」、冷泉は「桔梗」、天外天は「樫」、龍井は「翌檜(あすなろ)」とし、公文書などでも使用を始めた。しかし小泉首相は中川昭一を農水大臣に移動し、親中派として知られる二階俊博を通産大臣に任命する。二階俊博は中国を刺激しないように外交ルートを通じての話し合いに終始し、結果的に日本による試掘は頓挫することになった。

 中国側は日本の抗議に対し日中共同開発を提案してたが、日中中間線より日本側の領域のみの共同開発としているため、日本政府は受け入れを拒否した。2005年10月、同問題についての日中局長級協議で、日中中間線をまたぐ春暁など4ガス田に限って共同開発する提案を中国側に行った。中国政府は「日本の行為(試掘権付与)は中国の主権と権益に対する重大な挑発かつ侵害」「強烈な抗議」と自国の行為を棚に上げて反論している。
 中国は、中国海軍の最新鋭艦であるソヴレメンヌイ級駆逐艦を含む5隻程度の艦隊でガス田周辺の警備を行っており、管轄の南京軍区や東海艦隊は、ガス田開発問題が表面化して以降、日本との突発的な軍事衝突に備えて第一級警戒態勢を布き、幹部の無許可での移動を禁じていると言われている。

2008年

 6月8日、中国政府は春暁ガス田の共同開発相手として日本企業の参加も認めると伝えてきた。
 東シナ海ガス田が全て操業を開始したとしても、大消費地の上海周辺の需要量から、1-2年の需要を賄なう程度の埋蔵量しかないのではないかと推定されており、日本はもちろん、中国側から見ても決して採算性のある事業ではない。そのことから、中国の真の狙いは、ガス田の開発それ自体より、日中中間線付近に複数のプラットフォームを建設することにより、日中中間線近くの海上に「事実上の中国領土」を人工的に作り上げ、第一列島線の一部でもある東シナ海の制海権と軍事的優位を確立することにあるのではないかと推定されている[1]
6月18日、日中両政府がガス田問題で合意。共同プレス発表で、
(1)「白樺(しらかば)(中国名・春暁)」に日本が開発に参加する
(2)「翌檜(あすなろ)(中国名・龍井)」南側の日中中間線をまたぐ海域での共同開発区域付近での共同開発--との合意内容を明らかにした。
 両政府は、具体的な合意内容は条約交渉を経て確定するとした。「樫(中国名・天外天)」と「翌檜」本体、「楠(くすのき)(中国名・断橋)」は共同開発の合意に至らず、「共同開発をできるだけ早く実現するため、継続して協議を行う」とした。

2009年

 1月4日、『産経新聞』が、2007年6月18日の日中両政府間の政治合意後も、中国が「樫」(天外天)で単独開発をしている事実をスクープした。
 2008年7月、海上自衛隊のP3C哨戒機が、樫(天外天)のプラットホーム周辺の海域が茶色く濁っているのを確認し、変色した海域が拡大したり、海面が激しく泡立ったりしたのも把握した。また、同月頃にパイプやドリルを使い、樫(天外天)で掘削を開始した。掘削は最短で1カ月程度で終わるとされることから、石油と天然ガスの採掘に入ったとの見方が強いと報じた。
 そして、同日、中国外務省の報道局長は「天外天(樫)が中国の海域であることは争いがなく、作業を行うのは固有の権利で日本との間に共同開発の問題は存在していない」と強く反発した。

2010年

 5月16日、『産経新聞』は、中国が2010年から圧力外交に転じ、日本に対して「白樺」ガス田(中国名・春暁)を共同開発より格下の「出資」とするように要求したと報じた。親中派の鳩山由紀夫首相は関係閣僚と協議してこの要求を受け入れ、出資比率の5割超を中国側に譲る方針を決めたことを報じた[2]

 3月18日中国海軍は、沖縄沖ノ鳥島近海で軍事訓練を実施、艦載ヘリによる日本の海上自衛隊護衛艦への異常接近行為や、日本側哨戒機に中国艦が速射砲の照準を合わせるなどの武力示威行為をおこなった[3]。4月10日にも東シナ海で中国海軍の武力示威行動が発生した[4][5]
 
 4月20日海上自衛隊のP3C哨戒機に速射砲の照準を合わせ、撃墜の威嚇行動を取っていたことも判明した[6][7]
 5月3日、中国の海洋調査船が日本の排他的経済水域EEZ)内で調査中の海上保安庁測量船に接近し、調査の中止を要求する事態が発生したため、日本側は中国政府に厳重抗議をおこなった[8]

関連する国連海洋法条約の条文

国連海洋法条約
第5部 排他的経済水域
第74条 向かい合っているか又は隣接している海岸を有する国の間における排他的経済水域の境界画定
  1. 向かい合っているか又は隣接している海岸を有する国の間における排他的経済水域の境界画定は、衡平な解決を達成するために、国際司法裁判所規程第38条に規定する国際法に基づいて合意により行う。
  2. 関係国は、合理的な期間内に合意に達することができない場合には、第15部に定める手続に付する。
  3. 関係国は、1の合意に達するまでの間、理解及び協力の精神により、実際的な性質を有する暫定的な取極を締結するため及びそのような過渡的期間において最終的な合意への到達を危うくし又は妨げないためにあらゆる努力を払う。暫定的な取極は、最終的な境界画定に影響を及ぼすものではない。
  4. 関係国間において効力を有する合意がある場合には、排他的経済水域の境界画定に関する問題は、当該合意に従って解決する。
第6部 大陸棚
第77条 大陸棚に対する沿岸国の権利
  1. 沿岸国は、大陸棚を探査し及びその天然資源を開発するため、大陸棚に対して主権的権利を行使する。
  2. 1の権利は、沿岸国が大陸棚を探査せず又はその天然資源を開発しない場合においても、当該沿岸国の明示の同意なしにそのような活動を行うことができないという意味において、排他的である。
  3. 大陸棚に対する沿岸国の権利は、実効的な若しくは名目上の先占又は明示の宣言に依存するものではない。
  4. この部に規定する天然資源は、海底及びその下の鉱物その他の非生物資源並びに定着性の種族に属する生物、すなわち、採捕に適した段階において海底若しくはその下で静止しており又は絶えず海底若しくはその下に接触していなければ動くことのできない生物から成る。
第78条 上部水域及び上空の法的地位並びに他の国の権利及び自由
  1. 大陸棚に対する沿岸国の権利は、上部水域又はその上空の法的地位に影響を及ぼすものではない。
  2. 沿岸国は、大陸棚に対する権利の行使により、この条約に定める他の国の航行その他の権利及び自由を侵害してはならず、また、これらに対して不当な妨害をもたらしてはならない。
第79条 大陸棚における海底電線及び海底パイプライン
  1. すべての国は、この条の規定に従って大陸棚に海底電線及び海底パイプラインを敷設する権利を有する。
  2. 沿岸国は、大陸棚における海底電線又は海底パイプラインの敷設又は維持を妨げることができない。もっとも、沿岸国は、大陸棚の探査、その天然資源の開発並びに海底パイプラインからの汚染の防止、軽減及び規制のために適当な措置をとる権利を有する。
  3. 海底パイプラインを大陸棚に敷設するための経路の設定については、沿岸国の同意を得る。
  4. この部のいかなる規定も、沿岸国がその領土若しくは領海に入る海底電線若しくは海底パイプラインに関する条件を定める権利又は大陸棚の探査、その資源の開発若しくは沿岸国が管轄権を有する人工島、施設及び構築物の運用に関連して建設され若しくは利用される海底電線及び海底パイプラインに対する当該沿岸国の管轄権に影響を及ぼすものではない。
  5. 海底電線又は海底パイプラインを敷設する国は、既に海底に敷設されている電線又はパイプラインに妥当な考慮を払わなければならない。特に、既設の電線又はパイプラインを修理する可能性は、害してはならない。
第80条 大陸棚における人工島、施設及び構築物
第60条の規定は、大陸棚における人工島、施設及び構築物について準用する。
第81条 大陸棚における掘削
沿岸国は、大陸棚におけるあらゆる目的のための掘削を許可し及び規制する排他的権利を有する。

安倍首相、技術革新で貢献表明=途上国支援1.3兆円―COP21演説

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第21回締約国会議(COP21)

第21回締約国会議(COP21)

気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)、
京都議定書第11回締約国会議(CMP11)開催

2015年11月30日から12月11日まで、フランス・パリで、気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)、京都議定書第11回締約国会議(CMP11)が開催されます。

今回の会議は、京都議定書に続く、2020年以降の新しい温暖化対策の枠組みが、すべての国の合意のもとにどのようにつくられていくかがポイントとなりますになっています。

昨年ペルー・リマで開かれたCOP20では、COP21に十分先立って提出を招請されている約束草案を提出する際に示す情報の内容等を定めるCOP決定(「気候行動のためのリマ声明」(Lima Call for Climate Action))が採択されました。COP21での合意に向けて、各国は新たな枠組みに対する約束草案(INDC:Intended Nationally Determined Contributions)を国連気候変動枠組条約事務局に提出しています。各国の提出するINDCが、合意のカギを握っているといえます。
 
図「各国の削減目標(国連気候変動枠組条約事務局に提出された約束草案より抜粋)」
各国の削減目標(国連気候変動枠組条約事務局に提出された約束草案より抜粋)

(クリックすると大きく表示されます。)

さらに他の国の削減目標について知りたい方は、下記条約事務局のウェブサイトをごらんください。
INDCs as communicated by Parties(英文)
http://www4.unfccc.int/submissions/indc/Submission%20Pages/submissions.aspx
日本は2030年度に2013年比で温室効果ガスを26%削減する約束草案を提出しています。なかでも、私たちの暮らしに関係する家庭部門CO2については約40%の削減目標を掲げています。

2020年以降の枠組み「パリ合意」に向けて、どのような議論が行われるのでしょうか。
関係リンク

JCCCAによる会議レポート

今回のCOP21も、現地からリアルタイムにレポートをお届けする予定です!
・・・しばらくお待ちください・・・

COP21~注目ポイントと課題

COP21の注目ポイントは、すべての国が合意できる、2020年以降の新たな国際的枠組みができるか、という点です。日本は、国際社会の変化を踏まえ、全ての国が参加する公平かつ実効的な新たな国際枠組みの合意に向けて、積極的に国際交渉に参加していくことが必要になるのです。

開催される会議

  • 気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)
    Twenty-first session of the Conference of the Parties(COP)
  • 京都議定書第11回締約国会議(CMP11)
    Eleventh session of the Conference of the Parties serving as the meeting of the Parties to the Kyoto Protocol(CMP)
  • 科学的、技術的な助言に関する第43回補助機関会合(SBSTA43)
    Forty-third session of the Subsidiary Body for Scientific and Technological Advice(SBSTA)
  • 実施に関する第43回補助機関会合(SBI43)
    Forty-third session of the Subsidiary Body for Implementation (SBI)
  • 強化された行動のためのダーバン・プラットフォーム特別作業部会 第2セッション
    Second session of the Ad Hoc Working Group on the Durban Platform for Enhanced Action (seventh part)(ADP)
  • 会議スケジュール
    UNFCCC事務局発表 Schedule of Meetings(英文)
    http://unfccc.int/meetings/paris_nov_2015/meeting/8926/php/view/schedule.php

気候変動枠組条約とは

国連のもと、大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させることを究極の目的とし、地球温暖化がもたらすさまざまな悪影響を防止するための国際的な枠組みを定めた条約。締約国数は、2015年7月現在、195か国・機関。「気候変動に関する国際連合枠組条約(UNFCCC:United Nations Framework Convention on Climate Change)」として1994年3月に発効したもの。温室効果ガスの排出・吸収の目録(インベントリ)、温暖化対策の国別計画の策定等を締約国の義務とし、地球温暖化対策に世界全体で取り組んでいくために、同条約に基づき、1995年から毎年、気候変動枠組条約締約国会議(COP)が開催されています。

安倍首相、技術革新で貢献表明=途上国支援1.3兆円―COP21演説

時事通信 12月1日(火)1時53分配信
 【パリ時事】安倍晋三首相は30日夕(日本時間12月1日未明)、パリ郊外で開幕した国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)の首脳級会合でスピーチした。
 首相は低炭素社会の実現に向け、日本が得意とする水素エネルギーなどの技術力で地球温暖化対策に貢献する考えを表明。対策に取り組む途上国支援として、2020年までに官民合わせて年間1兆円から1兆3000億円に増額することも示した。
 首相は演説で「気候変動対策と経済成長を両立させるかぎは革新的技術の開発だ」と指摘。日本の具体的な貢献策について「二酸化炭素(CO2)フリー社会に向けた水素の製造・貯蔵・輸送技術や、電気自動車の走行距離を現在の5倍にする次世代蓄電池」を挙げた。その上で「エネルギー・環境イノベーション戦略」を来春までに策定すると打ち出した。
 首相は今回のCOP21について「今こそ先進国、途上国が参画する新たな枠組みを築くべき時だ」と強調。「京都議定書」に代わる新たな枠組みに関し、「長期目標の設定や、(温室効果ガスの)削減目標の見直しに関する共通プロセスの創設を盛り込みたい」と述べ、定期的に各国が削減目標を見直すなどの規定を設けるよう求めた。
 演説ではパリ同時テロにも言及。首相は、犠牲者に哀悼の意を示すとともに、「世界の首脳はテロに屈することなくここに集まった。今こそ新たな枠組みへの合意を成し遂げ、国際社会の連帯を示そう」と呼び掛けた。 

[転載]長崎県五島列島三井楽 岐宿町 の今昔物語

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長崎県五島列島三井楽の今昔物語




三井楽町

   
三井楽町 廃止日 廃止理由 現在の自治体 廃止時点のデータ 国 地方 都道府県 郡団体コード面積 総人口 隣接自治体 町の木 町の花 三井楽町役場 所在地 座標
2004年8月1日
新設合併
福江市富江町玉之浦町三井楽町
岐宿町奈留町五島市
五島市


長崎県  
南松浦郡
42403-0
33.81km²
3,660
推計人口、2004年7月1日)
南松浦郡玉之浦町岐宿町
ツバキ  
スイセン
853-0692
長崎県南松浦郡三井楽町濱ノ畔郷1473番地の1
北緯32度44分33.3秒  東経128度41分23.6秒
 
三井楽町(みいらくちょう)は長崎県南松浦郡にあった町。2004年8月1日に福江市南松浦郡富江町玉之浦町岐宿町奈留町と合併し五島市となった。


地理

五島列島福江島の北西部に位置する。

隣接していた自治体

歴史

地名

五島市合併時に末尾の「郷」を廃止。
  • 丑ノ浦郷(合併時に丑ノ浦、塩水に分かれる) 大川郷(合併時に大川、高崎に分かれる) 貝津郷  柏郷  嵯峨島郷  岳郷  波砂間郷  浜窄郷(はまさこ)  浜ノ畔郷(はまのくり) 渕ノ元郷

教育

中学校  三井楽中学校   嵯峨島中学校(小学校と併設)
小学校  三井楽小学校  岳小学校  浜窄小学校   嵯峨島小学校(中学校と併設)

観光・名所

高浜海水浴場(魚籃観音展望所より)
  • 高浜海水浴場  白良ケ浜海水浴場  カトリック墓碑群  ふぜん河(遣唐使遺跡)
  • さざなみの化石  魚籃観音展望所  千畳敷  火山海食崖 
遺跡名

 三井楽貝塚(みいらくかいづか)

所在地 五島市三井楽町浜畦桑ノ木
緯度 北緯32°44′37″経度 東経128°41′32″
標高 5m地形 砂丘
種別 貝塚時代 弥生時代
資料所在地 九州大学指定状況 未指定
参考文献等 「三井楽貝塚」『五島遺跡調査報告』 長崎県文化財調査報告 第2集 1964
遺跡・史跡の概略
 遺跡は現海岸部に近い古砂丘縁辺部に位置する。九州大学などによって1963年に発掘調査が実施された。貝層の厚さは0.6m程度で貝種は23種類。岩礁製の貝が多い。自然遺物ではブリなどの魚類に加え、イルカの骨が目立っている。陸獣としてはシカ、イノシシがある。一般的に弥生時代は稲作を基本とする社会であるが、五島列島においてはその痕跡を示す石庖丁などの農耕具が無く、むしろ豊かな海産物や漁業を主とした生業であったことが推定される。
主な遺構
 
    
主な遺物
 弥生土器(中期前半)、石斧、凹石、石鏃、鹿角製ヤス、貝輪
ファイル出土土器(1) ファイル出土土器(2) ファイル貝塚出土の石器(1~17石鏃,18~19石斧,20~22削器) ファイル貝塚出土の骨角器 
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル貝層断面 ファイル遺物出土状況 ファイル遺物出土状況




五島市 岐宿町~三井楽町~玉之浦町


遺跡名

 福江堂崎遺跡(ふくえどうざきいせき)(ふくえどうざきいせき)

所在地 五島市奥浦町2010及び 地先公有水面
緯度 北緯32°45′18″経度 東経128°50′14″
標高 5m地形 砂丘上
種別 遺物包含地時代 縄文時代
資料所在地 長崎県教育員会指定状況 未指定
参考文献等 「福江・堂崎遺跡」 福江市文化財調査報告書 第4集 1991
遺跡・史跡の概略
 遺跡は、福江島東半北方の戸岐湾と奥浦湾挟まれた狭小の半島堂崎先端部に位置し、トンボロ状の砂丘を中心とする。遺跡は海岸の浸食が激しい部分について1990年に県と福江市によって調査された。堆積土は6層認められ、この内第3層が縄文中期と後期、第4層が縄文前期の包含層であることが確認された。
主な遺構
 
ファイル地形・調査区    
主な遺物
 縄文土器(前期~後期)、貝輪、石斧、石錘、叩石、石鏃、石匙
ファイルI-13区出土土器 ファイル出土石器   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル土層 ファイル出土遺物(土器) ファイル出土遺物(石器)

年代(約)時代記 事
2万年前頃旧石器時代五島に人が住み着いた
城ガ岳遺跡(宇久島)オオサコ遺跡玉石鼻遺跡(小値賀島)
1万2千年前頃縄文時代草創期 
9千年前頃同 早期ハモギ遺跡、目崎遺跡(小値賀島)
7千年前頃同 前期頭ガ島遺跡(有川町)大板部島洞窟遺跡江湖貝塚、堂崎遺跡(福江市)
5千年前頃同 中期頭ガ島遺跡(有川町)鰐川遺跡(岐宿町)、殿崎遺跡(小値賀町)、
4千年前頃同 後期鰐川遺跡(岐宿町)、殿崎遺跡(小値賀町)、白浜遺跡(福江市)、宮下貝塚(富江町)
3千年前頃同 晩期白浜貝塚、水の窪遺跡、中島遺跡(以上福江市)
2300年前頃弥生時代前期 浜郷遺跡(有川町)白浜貝塚(福江市)、寄神貝塚(岐宿町)、殿寺遺跡(小値賀町)
約2100年前頃同 中期大浜遺跡(福江市)、寄神貝塚(岐宿町)、神の崎遺跡(小値賀町)
約1900年前頃同 後期大浜遺跡(福江市)、神の崎遺跡(小値賀町)



遺跡名

 茶園遺跡(ちゃえんいせき)

所在地 五島市岐宿町岐宿茶園・白餅田
緯度 北緯32°44′58″経度 東経128°45′54″
標高 10~20m地形 台地
種別 遺物包含地時代 旧石器時代・縄文時代
資料所在地 長崎県教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 『茶園遺跡』 岐宿町文化財調査報告書 第3集 1998
遺跡・史跡の概略
 遺跡は福江島北部唐船の浦に突き出た低溶岩台地に位置する。畑地帯総合土地改良事業に伴って平成9年(1997)岐宿町教育委員会によって発掘調査された。遺物は3~6層に含まれ、3層は縄文時代早期、4層が縄文時代草創期、5層が旧石器時代末の細石刃文化そして最下層が6層でナイフ形石器文化である。本遺跡の意義としては開地遺跡において旧石器時代末の野岳・休場型細石刃核を主体とする細石刃文化と縄文時代草創期の細石刃文化が層位的に確認されたことである。この事実によって九州地方での細石刃文化の変遷が確認されたことになる。また縄文時代草創期の細石刃文化の石器群と石槍・局部磨製石斧が共伴することも重要である。
主な遺構
 配石炉、ピット
ファイル遺物出土状況    
主な遺物
 細石刃、細石核、石槍、スクレイパー、局部磨製石斧、石鏃、打製石斧、石皿、叩石、縄文土器 草創期土器 押型文
ファイル第3試掘坑出土土器 ファイル第1試掘坑出土土器   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル土層断面 ファイル出土石器 ファイル出土石器

福江堂崎遺跡(ふくえどうざきいせき)

遺物包含地縄文時代五島市

水の窪遺跡

遺物包含地縄文時代中期・晩期五島市

橘遺跡

集落跡弥生時代後期五島市

江湖貝塚

貝塚縄文時代前期五島市

白浜貝塚

貝塚縄文時代~弥生時代前期五島市

中島遺跡

遺物包含地縄文時代・古墳時代五島市

大板部洞窟

洞穴・岩陰・貝塚縄文時代(前期)五島市

鰐川貝塚

貝塚縄文時代(後期)五島市

茶園遺跡

遺物包含地旧石器時代・縄文時代五島市

寄神貝塚

貝塚・集落跡弥生時代五島市

三井楽貝塚

貝塚弥生時代五島市

宮下貝塚

貝塚縄文時代五島市

石田城跡

城館跡江戸時代五島市

一本木遺跡

墳墓・遺物包含地縄文時代・弥生時代五島市

大浜遺跡

遺物包含地縄文・弥生・古墳・古代・中世五島


遺跡名

 大浜遺跡(おおはまいせき)

所在地 五島市浜町大浜
緯度 北緯32°39′14″経度 東経128°48′40″
標高 1m前後地形 砂丘
種別 遺物包含地時代 縄文・弥生・古墳・古代・中世
資料所在地 長崎県教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 「大浜遺跡」『五島遺跡調査報告』 長崎県文化財調査報告 第2集 1964
「大浜遺跡」 長崎県文化財調査報告書 141集 1998
遺跡・史跡の概略
 1997年道路改良工事に伴い、県教育委員会が調査を行った。 土層の堆積は7層あり、5層から縄文土器が出土した他、 3層から古代・中世の遺物が多量に出土している。当該地の採集資料には墨書土器も含まれている。古代における官衙的な性格も考えられる。また 7~ 8世紀代の多量の馬の骨が出土しており、古代の牧の可能性が指摘されている。また、 8世紀頃の新羅印花文陶器の出土は当時の朝鮮半島との交流を示唆する重要な資料である。

転載元: 海洋文化交流のブログ

主な遺構
 配石墓
ファイル大浜遺跡古環境復元概念図    
主な遺物
 縄文土器(後・晩期)弥生土器(中・後期)、須恵器、土師器、鼓型器台、緑釉陶器、貝輪、石鏃、石斧、凹石、石錘、骨製漁労具、獣骨製装身具、鯨骨製アワビ起し



遺跡名

 一本木遺跡(いっぽんぎいせき)

所在地 五島市下大津町一本木
緯度 北緯32°40′59″経度 東経128°51′16″
標高 27m地形 台地
種別 墳墓・遺物包含地時代 縄文時代・弥生時代
資料所在地 五島市教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 「一本木遺跡」 福江市文化財調査報告書 第 7集 1993
遺跡・史跡の概略
 遺跡は鬼岳から派生する緩やかな玄武岩台地上に位置する。1992年、農道拡幅工事に伴い、福江市教育委員会の依頼を受け、県教育委員会が緊急調査を実施した。調査の結果、配石土坑の上に積石を行う珍しい形の墳墓 3基と甕棺 2基を確認した。何れも弥生時代後期後半頃のものである。弥生時代の墳墓とは別に縄文時代晩期の遺物がまとまって出土している。土器は組織痕文土器を中心とした単純組成であり、比較的短期間に営まれた遺跡であるということが出来る。
主な遺構
 集石遺構 3基、甕棺2基、柱穴群
ファイル集石墓・焼土検出状況図

[転載]五島列島

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五島列島


五島列島の位置


  五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて140あまりの島々が連なる列島[1][2]。全島が長崎県に属し、人口は約7万人となっている。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。
 島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、いまも漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。

 「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶことが多い。


地理

  五島列島は長崎県に属し、九州西端の長崎県本土の西に位置し、北東側から中通島若松島奈留島久賀島福江島の五つの大きな島などからなる。国際水路機関による定義では、最も南西の福江島西端が日本海東シナ海の境界とされている[3]。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである[4]

  長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って溺れ谷となった複雑なリアス式海岸線をもつ地形である。

  五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では下五島が五島市、上五島が南松浦郡新上五島町に属する。「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。また、中通島の北にある宇久島小値賀島などの島々も、行政区域としては佐世保市北松浦郡小値賀町に属するもののフェリー貨物船航路や警察の管轄区域など上五島と共通することも多いため、五島列島の一部とみなされることが多い。

五島列島を構成する島

五島列島の島々。太字は有人島。配色は市町に対応する。
黄:佐世保市、緑:小値賀町、青:新上五島町、桃:五島市、オレンジ:西海市
それぞれの島の面積・人口は、2005年(平成17年)10月1日現在である[5]。なお、佐世保市(旧北松浦郡宇久町)・北松浦郡小値賀町の範囲についても記述する[6]

佐世保市

  • 宇久島 - 面積:24.92km² 人口:3,216人
  • 寺島 - 面積:1.27km² 人口:23人

北松浦郡小値賀町

  • 小値賀島 - 面積:12.22km² 人口:2,758人
  • 黒島 - 面積:0.24km² 人口:82人
  • 小黒島 - 面積:●km² (無人島)
  • 大島 - 面積:0.71km² 人口:93人
  • 斑島 - 面積:1.57km² 人口:272人
  • 納島 - 面積:0.65km² 人口:31人
  • 六島 - 面積:0.69km² 人口:31人
  • 野崎島 - 面積:7.10km² 人口:1人

南松浦郡新上五島町

  • 中通島 - 面積:168.34km² 人口:22,834人
  • 頭ヶ島 - 面積:1.88km² 人口:19人
  • 折島 - 面積:0.32km² (無人島)
  • 桐ノ小島 - 面積:0.04km² 人口:8人
  • 若松島 - 面積:30.99km² 人口:1,935人
  • 漁生浦島 - 面積:0.65km² 人口:30人
  • 有福島 - 面積:2.97km² 人口:161人
  • 日島 - 面積:1.39km² 人口:52人

五島市

歴史

上古時代から平安時代まで

  五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代にすでに人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。
  日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は最近でも中国ベトナムからの難民を乗せた船が何度も流れ着き、また台風の時は中国漁船の避難場所にもなっており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。肥前国風土記にも、五島の海士は「容貌、隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は俗人に異なれり」と記されている。五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。
 このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地とするなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。

 古事記国産みにおいて、イザナギイザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。
 古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残とされる。

 『日本書紀』天武天皇4年夏4月18日(675年5月17日)の条に「三位麻続王に罪があって因幡に流罪とした際、その子らを伊豆大島とともに「血鹿嶋」に流した」とある。
 「両児島(ふたごのしま)」についても、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
 740年天平12)に大宰少弐藤原広嗣が乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の宇久島)で逮捕され、断首されている。876年(貞観18)には、それぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。


中世以降から五島藩の成立まで

 その後中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、中世に至ると松浦水軍の松浦党に属した宇久氏鎌倉時代以降に勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。
また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。このように、中世以降の歴史においてもは大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。
その後、豊臣秀吉が九州を征服すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。

朝鮮出兵における五島勢

ここでは、豊臣秀吉朝鮮出兵における、肥前国五島藩(福江藩、現長崎県五島列島)の動きについて述べる。

朝鮮出兵の下準備

  天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉九州を平定した(九州征伐)。その際、宇久純玄(第20代当主)は、1万5,530石の本領を安著された。
  天正17年(1589年)、秀吉は奥州伊達政宗を降し、翌年北条氏直小田原に囲み滅ぼし(小田原征伐)、徳川家康関東に移封し天下統一をなした。
 国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。まず、朝鮮入貢を命じ、開かなければ討つ、と脅し対馬宗義調に折衝させ、同様にルソン高山国台湾)にも使者を出した。

 天正19年(1591年)、秀吉は配下武将に出兵軍役を命じ、甥の内大臣豊臣秀次関白を譲って自らは太閤となり、肥前名護屋に城を築きそこに入った。9月、平戸城松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、日野江城有馬晴信大村城大村喜前、五島城主五島純玄であった。宇久純玄はこの年、姓を五島に改めている。

 小西行長と、宗義調の子・義智は、対朝鮮平和的計画進行を秀吉に献策し許されると話し合いで解決しようと朝鮮に渡ったが成果が無かった。秀吉はその間に加藤清正らの九州の諸将を壱岐と対馬に待機させ、文禄元年(1592年)3月13日、予定通り、一番隊小西行長、宗義智ら1万8,700人を渡海させて朝鮮半島に上陸させた。

 続いて加藤清正の二番隊、黒田長政の三番隊というように九番隊まで総勢15万8,000人と九鬼嘉隆らの船奉行9,200人(後に水軍編成へ順次移行)を組織した。肥前の名護屋城には徳川家康前田利家上杉景勝伊達政宗ら兵十余万の予備軍団を待機させた。五島領主の五島純玄は、一番隊小西行長に属し、軍役担当に従って兵700を出陣させ、五島八郎兵衛盛長を城代留守役に命じた。

五島勢が属する一番隊の編成
総計 18,700人

文禄の役での五島勢

 文禄元年(1592年)4月12日、朝鮮に進撃した五島勢は10月3日一番隊の先鋒となって奮戦し、釜山鎮城を即日攻略した。翌日には慶尚道東菜城を落とし、17日には密陽府を攻めてこれを落とし、さらに進撃して慶尚道、忠清道、京畿道の諸城は戦わずして攻略した。秀吉侵攻軍はわずか19日で朝鮮の首都漢城を落とした。首都漢城占領に先立ち朝鮮国王は首都を捨てて逃亡し、民衆は暴徒化し景福宮奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院などに放火し消失させた。

 朝鮮水軍の李舜臣が釜山西方に展開中の日本船を攻撃し、数千の日本陸軍と水軍が対応の為に拘束された。また、釜山から漢城までの輸送路がゲリラ攻撃されると内陸部では兵糧備蓄の不安が起きた。7月には朝鮮の救援要請に答えた明の遼東副総兵・祖承訓北京の命令を待たず援軍を発した。祖承訓は朝鮮の義州から南下をはかり平壌城を攻めるが小西行長らに撃退された。

 文禄2年(1593年)正月、明は李如松を総兵官として4万3000の兵をもって、平壌の小西行長を包囲した。この戦いの際、一番隊の戦死者1600名で、五島勢でも太田弾正、江十郎、青方新八らが討ち死にした。行長は撤退を強いられ、漢城まで後退した。

 漢城では、六番隊の小早川隆景軍も撤退して来て食糧事情が紛糾を極めた。そんな中勢いに乗った李如松が南下して漢城に迫った。隆景は宇喜多秀家立花宗茂吉川広家らとともに李如松を碧蹄館に迎え撃ち破った(碧蹄館の戦い)。この際、五島純玄も出陣していた。

 しかし兵糧不足に陥った日本軍は漢城を撤退し、釜山方面に集結した。両軍とも講和の機運が高まり、明から使者が来たのにともなって、和平交渉に入ったが折り合いがつかず難航した。
 このような最中、五島勢に一大事が起こった。陣中で疱瘡にかかった純玄が、7月28日逝去した。純玄は夫人との間に子がなかったので、陣中で五島家承統を早速にも決せねばならなかった。大浜孫右衛門玄雅は、平田甚吉青方善助らと協議し小西行長を訪れ、純玄の遺言を伝えた。行長はすぐに名護屋城に使いを走らせたが家臣一同の不安が解けないので、玄雅を呼び寄せると、純玄の遺言に従って五島家を相続するように勧めた。玄雅は一度拒み、行長はさらに甚吉を召して再協議し、玄雅を再度召して、留守役五島八郎兵衛の息子を養子として受け入れた上で五島家を相続することを勧めた。その条件で玄雅は第21代五島家当主になった。

 北京から明の使節がきた。慶長元年9月1日、大坂城において明使を引見した秀吉は明の国書のなかの、「茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)」の部分を見て激怒し、小西行長の和平交渉が詐欺であったことがわかり、この場で誅殺しようとした。西笑承兌の取り成しと行長自身の陳謝で行長は命を取り留めた。
秀吉は再度出兵を命じた。

慶長の役での五島勢

 慶長元年(1596年)9月、秀吉は再度朝鮮出兵の命を下した。秀吉の作戦目標は全羅道を徹底的に撃滅し、なるべく忠清道と京畿道にも進撃し、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を決め、その他の諸将は帰国させるというものだった。[1]在朝鮮の2万の守備軍を含め、総勢14万1500人が朝鮮半島に進撃を開始した。五島玄雅は、小西行長の軍に属し閑山島の攻略に参加し打ち破っている。

 日本軍は全羅道から忠清道の掃討を順調に行い、反撃してきた明軍を稷山の戦いで蹴散らし首都の漢城を脅かし、京畿道にも進撃して作戦目標を達成すると朝鮮南岸へ撤収して城郭の建設を始めた。

 慶長2年(1597年)12月、建設中の蔚山倭城が明の援将経理楊鎬の率いる5万7千の大軍に包囲された。蔚山城の守将浅野幸長と援軍に駆けつけた加藤清正は未完成の城と兵糧の備蓄など籠城の準備が整わない状態により苦しい戦いを強いられたが、幾度も明軍を撃退し、多くの死傷者を出した明軍の戦意を喪失させた[2]五島玄雅毛利秀元らの援軍に参加し、得意の水軍を率いてこれを救援、明軍の背後を突き突撃した。これを見た加藤・浅野の篭城軍は打って出て、明軍を破り追撃した。明軍の戦死者は2万にも達した[3]。慶長3年(1598年)1月1日のことだった。

 秀吉は、1月17日、寺沢広高を通じて玄雅に、「今度大明人蔚山取還之由注進付 而為後巻雖押出候敵引退之由 既に自此方も安芸中納言増田右衛門因幡但馬大和紀伊九鬼父子等可取立旨雖被仰付候右之分候間不及是非候 云々」の朱印状とともに、小袖一服、道服一服を与えた。
 さらに8月、玄雅がいったん帰朝して家督相続の御礼のために大坂城に伺候したさい、秀吉は抜群の戦功を愛でて「豊臣」の姓を名乗ることを許した。

 慶長3年(1598年)五島勢は、小西行長松浦鎮信有馬晴信大村喜前とともに順天の東南10kmの光陽湾岸に築かれた順天倭城を守っていた。10月2日から4日にかけて明・朝鮮軍が水陸から順天倭城を攻撃したが、これを撃退する(順天の戦い)。
 この戦いに先立つ事8月18日、既に秀吉は逝去していたが、このことは在朝鮮日本軍には秘匿されていた。10月15日、五大老の名において在朝鮮日本軍に撤退命令が出され、朝鮮より撤退する事となったが、小西軍に属していた五島勢は共に明水軍・朝鮮水軍の海上封鎖を受けて撤退を阻害された。五島勢を含む小西軍を救うため、島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢広高は水軍を編成し救援に赴く。島津らの救援水軍に明・朝鮮の水軍が攻撃に向かって露梁海戦が起きた。

転載元: 還暦の健康管理のブログ

[転載]新上五島町(しんかみごとうちょう)は、長崎県五島列島の中通島・若松島とその周囲の島を町域とする町である。現在では南松浦郡唯一の地方自治体となっている。

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上五島地域で旧石器時代、縄文時代、弥生時代の遺跡が発見されていることから、これらの時代から人類が生活を営んでいたと推測されています。平安時代には遣唐使船の寄港地にもなるなど、大陸交流の拠点として栄えました。江戸時代、幕府の厳しい弾圧によって信仰を隠さなければならなかったキリスト教徒が、新天地として移住した場所でもあります。

カトリック教会や寺社をはじめとして、地域内には多くの遺跡や文化財が残っています。上五島神楽や青方念仏踊り、捕鯨の伝統を伝える鯨唄や羽差踊り等の郷土芸能、弁財天などの伝統行事等が継承され、独特の地域文化を形成しています。

明治22年4月1日に町村制が施行され、上五島地域は若松村・日ノ島村・青方村・浜ノ浦村・魚目村・北魚目村・有川村・奈良尾村の8村で構成されていました。昭和に入って、青方村・有川村・奈良尾村がそれぞれ町制を施行し(青方町、有川町、奈良尾町)、また、全国的に市町村合併が促進され、「昭和の大合併」と呼ばれた昭和30年代には、上五島地域でも合併が進み、若松村と日ノ島村が若松町に、青方町と浜ノ浦村が上五島町に、魚目村と北魚目村が新魚目町にそれぞれ合併しました。

そして、平成16年8月1日、5町(若松町、上五島町、新魚目町、有川町、奈良尾町)が合併して新上五島町が誕生し、現在に至っています。


新上五島町の歴史的変遷


 五島列島の縄文、弥生時代の遺跡は島内いたるところに見ることができ、現在確認されている
ものは200 箇所以上にのぼります。これまでの調査で最も古い時代の遺跡は6000 年前の縄文前
期です。島内からは縄文前期の土器片や旧石器時代の石器も発見されており、五島人の歴史は
1万年以上にさかのぼるのではないかと推測されています。

 五島列島は古代「値嘉島(ちかしま)」といわれ、「古事記」のイザナギの大八島(おおやしま)の
生成に「次に知訶(ちか)島(しま)を
生みき。亦の名は天之(あめの)忍男(おしお)と謂ふ。」とあり、
また「肥前風土記」にも値嘉郷として地名の由来、
住民、産物などが書かれています。

 現在の五島という地名になったのは平安時代末期の頃からで、当時日本へ渡航して来る中国人によって「五峰」或いは「五島」と呼ばれるようになったといわれています。

 五島列島は中国に最も近い日本の島として、中国大陸との関係は非常に古く、奈良及び平安時
代初期には遣唐使船の日本最後の風待ちの地として、遣唐使制度廃止後も中国商船の博多大宰府
への中継地として国際的にも重要な島とされていました。

【宇久氏統一以前の五島列島】
 鎌倉幕府成立当初の12 世紀末、上五島地域の宇久島、小値賀島、中通島、若松島の四島に
は御厨があり、松浦直が惣追捕使の任務にあたり、松浦一族は唐津方面から松浦、平戸、上五
島にかけて一大集団を形成しました。
 この頃、松浦一族であった初代宇久家盛は、宇久島に城を築き、以来支配圏を広げました。
(当時、五島列島には宇久氏のほか、小値賀島の平戸松浦氏、有川の馬場氏と江氏、青方の青
方一族、奈留の奈留一族、日之島・若松の藤原氏一族、椛島の桑原一族、戸島(富江)の田尾
一族、玉の浦の玉の浦一族、岐宿の貞方氏、大浜の大浜一族などの豪族が分離割拠していまし
たが、宇久氏は権威をもって五島列島を制覇していました。)

 14 世紀終りには、第八代宇久覚は宇久島から下五島にある大値賀島(現在の福江島)の岐宿
に拠点を移し、勢力を広げました。

【福江島を拠点とした宇久氏の五島列島の統一】
 元中5 年(1388)、第九代宇久勝が岐宿から深江(現在の福江)へ移り、辰の口に城を築き、
五島列島全体を支配するようになりました。

 16 世紀初頭、第十六代宇久囲の家臣であった玉の浦納が、福江において15 年間にも及ぶ反
乱を起こしました。第十七代宇久盛定は玉の浦納の乱を終息させるとともに、旧領地を回復さ
せ、五島列島を統治するため福江の江川に江川城を築きました。

 永禄7 年(1564)第十八代宇久純定を治療するため、キリシタンの医者が福江に招かれまし
た。その2 年後の永禄9 年(1566)、宣教師のアルメイダとロレンソが福江で布教を始め、2 年
後には信者の数は3,000 人を数えるに至ったと伝えられています。その後、第十九代宇久純堯
が洗礼を受ける一方で、第二十代宇久純玄はキリシタン迫害を行うなど、キリスト教が地域の
歴史に影響を及ぼすようになりました。この宇久純玄は、宇久姓を五島姓に改め、以降五島を
名乗るようになりました。

 なお、紀州、中国、四国の漁業家が五島にマグロ網、カマス網、カツオ網、捕鯨などの漁場
を求めて来島し、五島漁業の基礎を築いたのも江戸時代の末期頃でした。

【五島藩としての統治】
 慶長17 年(1612)、第二十二代五島盛利は初代五島藩主となりました。盛利は、在郷家臣団を福
江城下に移す「福江直り」によって中央集権的な制度を固め、領内で検地を実施し、家臣の知行高
を決定しました。

 盛利は寛永14 年(1637)、大値賀島を福江島と久賀島(ひさかじま)に、また深江を福江に、戸
島(福江市史では「殿浦」)を富江と改称しました。

 五島氏は御朱印を賦与する特権を慶長18 年(1613)まで有していましたが、鎖国令によって
朱印船制度は廃止され、オランダや唐との貿易は長崎に限定されました。その後、密貿易を企てる
外国船が五島領海に増加したため、五島藩では、遠見番所を増設し11箇所とするなど、藩内の防
御体制を整えました。

 第二十三代藩主五島盛次の弟、盛清に対して、福江藩の領地が分知され、寛文元年(1661)
盛清は初代富江藩主となりました。幕末の嘉永2 年(1849)幕命により福江城を築城し、文久
3 年(1863)に完成しましたがそのわずか5 年後には明治維新となりました。また、寛政9 年
(1797)大村領外海から108 名のキリシタンが六方の浜へ着くなど多くのキリシタンが移住しま
した。

 明治2 年(1869)、富江藩は五島藩に合藩されてその姿を消しました。

【明治以降の上五島地域における行政区域の変遷】
 明治4 年(1871) 廃藩置県により五島藩は福江県となったが、同年12 月には長崎県に合併。
 明治11 年(1878) 郡区町村編成法により、五島列島は南松浦郡に編入。
 明治22 年(1889) 町村制施行により、上五島地域は若松村・日ノ島村・青方村・浜ノ浦村・魚
             目村・北魚目村・有川村・奈良尾村の8 村の構成となった。
昭和 7年(1932) 町制施行により有川村が有川町となった。
昭和16 年(1941) 町制施行により青方村が青方町となった。
昭和18 年(1943) 町制施行により奈良尾村が奈良尾町となった。
昭和31 年(1956) 新設合併と町制施行により、青方町と浜ノ浦村が上五島町に、若松村と日ノ
            島村が若松町に、魚目村と北魚目村が新魚目町となった。
平成16 年(2004) 若松町・上五島町・新魚目町・有川町・奈良尾町が新設合併し、新上五島町
            が発足。




文化財
新上五島町の国・県・町指定文化財は下記のとおりです。

国・県別指定区分区分名称

国指定重要文化財建造物青砂ヶ浦天主堂
 頭ヶ島天主堂「教会堂・司祭館」
 美術工芸品銅造如来立像
 記念物天然記念物奈良尾のアコウ
 民俗文化財無形(国選択) 五島神楽
 県指定有形文化財建造物大曾教会
 民俗文化財無形上五島神楽
記念物史跡日島の石塔群
天然記念物新魚目曽根火山赤ダキ断崖
五島青方ウバメガシ
奈良尾のヘゴ自生地

指定区分区分文化財名
有形文化財建造物五輪塔
政彦神社棟札
六地蔵塔
今里平家塚と中世墳墓群
御船様
伊藤美俊家住宅
榊ノ浦龍音龍尊堂
旧鯛ノ浦教会堂
冷水天主堂
江袋教会
彫刻福寿庵地蔵堂の木造仏
長福寺木造仏
相河薬師堂薬師仏
相河薬師堂十二干支仏
山中観世音像
美術工芸品銅像薬師如来座像
荒川観音像
秘仏十一面観音
工芸品弁財天像
絵画魚目浦絵図
歴史資料老松神社裏出土の鰐口及び古銭
江戸控訴時の有川湾浦絵図
江口甚右衛門正利肖像画
古文書元禄二年の幕府裁許状
元禄三年の幕府再裁許状
史跡妙典無縁墓碑群
遠見番岳のろし台跡
民俗文化財有形六角地蔵石憧
潮之目恵比須の三枚網羽
書籍江之濱薬師如来縁起
工芸品江之濱薬師御堂「御厨子」
江之濱薬師日光・月光十二神将像御堂
信仰・絵画釈迦涅槃図
無形青方念仏踊り
青方石づき唄
みんかけ
鯨唄・羽差し踊り
鯛ノ浦薙刀踊り
有川神楽
十七日祭り
江ノ浜念仏踊り(きゃあ念仏踊り)
記念物史跡続代官所跡
魚目城跡
富江藩中通代官役所跡役所井戸
鯨供養碑
白魚千軒跡(千人塚)
金比羅神社境内の板碑
荒川郷本倉寺屋敷の石塔群
真浦遺跡(モエン様)
老松神社境内の岩陰遺跡
玄加玄徳の碑
坂本龍馬ゆかりの碑
鯨供養塔と観音石仏二体
天然記念物青方神社社叢
源寿院の銀杏の木
曲崎海岸のはま沈ちょう群落
祖母君神社のアコウ樹
応護島のアコウ樹を中心とした自然林
アコウ樹
遺跡上原遺跡
浜郷遺跡(弥生墳墓)
名勝地芦山の滝



新上五島町

   
しんかみごとうちょう
新上五島町 国 地方 都道府県 郡団体コード面積 総人口人口密度隣接自治体 町の木 町の花 町の鳥 新上五島町役場 所在地 外部リンク
Flag of Shinkamigoto Nagasaki.JPG
新上五島町旗
Shinkamigoto Nagasaki chapter.jpg
新上五島町章
2004年平成16年)10月19日制定
日本の旗日本
九州地方
長崎県
南松浦郡
42411-1
213.94 km²
19,537
推計人口、2015年11月1日)
91.3人/km²
五島市西海市北松浦郡小値賀町
ツバキ
ツバキ
メジロ
857-4492
長崎県南松浦郡新上五島町青方郷1585番地1号
Office building of shinkamigotouchow.jpg北緯32度59分4秒東経129度4分24秒座標: 北緯32度59分4秒 東経129度4分24秒
新上五島町
新上五島町位置図
― 市 / ― 町

頭ヶ島教会
新上五島町(しんかみごとうちょう)は、長崎県五島列島中通島若松島とその周囲の島を町域とする町である。現在では南松浦郡唯一の地方自治体となっている。
2004年(平成16年)8月1日有川町上五島町若松町新魚目町奈良尾町5町が合併して誕生した。



名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事


転載元: 海洋文化交流のブログ

[転載]五島で海ごみサミット開幕

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五島で海ごみサミット開幕

長崎新聞 10月24日(土)9時16分配信
 各地で漂流、漂着している海洋ごみ問題について、国内外の関係者が意見を交わす「第13回海ごみサミット2015長崎・五島会議」が23日、五島市で始まった。25日まで事例報告やグループ討議などで理解を深める。初日は参加者が海岸清掃のフィールドワークなどに取り組んだ。

 海ごみサミットは、一般社団法人「JEAN」(東京)が2003年から毎年全国各地で開き、県内開催は04年の対馬市以来2回目。今回は「国際連携の進展」を主テーマに掲げ、国内外の研究者ら約150人が3日間意見を交わす。

 五島市では昨年度、市内約70カ所で海岸清掃を実施し、約220トンの漂着ごみを回収。中国や韓国など外国からのものが多いという。

 この日は、同市岐宿町の八朔海岸で参加者が清掃活動に取り組んだ。海岸に流れ着いたペットボトルや発泡スチロールなどを拾い、漂着ごみの現状を目の当たりにしていた。同市池田町の福江文化会館では、各地の状況などを報告し合うワークショップもあった。

 JEANの金子博代表理事は「海洋ごみのほとんどがプラスチックで、自然に消えることはない。発生させないよう各国が連携することが大切」と語った。
長崎新聞社
最終更新:10月24日(土)9時16分
長崎新聞

転載元: nk8**6eのブログ

[転載]五島列島の方言DVD発売

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五島列島の方言DVD発売

長崎新聞 10月22日(木)9時17分配信
 長崎県五島市幸町の町内会長、永冶(ながや)克行さん(67)が、五島列島の方言をまとめたDVD「五島弁で読む五島の物語」を制作した。同市や新上五島町、北松小値賀町、佐世保市宇久町の地元住民ら総勢29人が、五島にまつわる民話などを朗読。独特の抑揚やアクセントを文字だけで伝えることは難しく、永冶さんは「五島の方言を音声で残しておきたかった」と話している。

 DVDは、五島文化協会の元会長、故郡家眞一氏の著作「五島方言集」の中に登場する民話や小話47話を、各地域の方言で朗読。一部は、朗読者が読みやすいよう修正してもらうなど地元の「生の声」にこだわり、5年ほどかけて完成させた。再生時間は4時間を超える大作となった。

 「人んざーまに(人がたくさん)」や「おっどんが(俺たちの)」といった今でもよく耳にする言葉から、「ほっぽほうらい(勝手気まま、むやみやたらに)」、「てってこってあまっ(持て余して)」など、やや難易度が高い方言も数多く収録。単語の解説集を付け、どの部分を読んでいるかが一目で分かるように、映像には字幕も入れた。

 永冶さんは岐阜県出身で、45年前に移り住んだ。当初は、五島の方言が「笑い声しか理解できなかった」と笑うが、今では「表現が繊細で、残していくべき言葉」と思うようになったという。

 DVDは千枚制作し、1枚2500円(税別)。五島市内の書店などで購入でき、五島列島のほかの島でも販売予定という。永冶さんは「若い世代の人たちにも聞いてもらい、地元の言葉を見詰め直すきっかけにしてほしい」と語った。問い合わせは(電0959・72・4560)。
長崎新聞社
最終更新:10月22日(木)9時17分
長崎新聞

転載元: nk8**6eのブログ


[転載]新上五島町の遺跡

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遺跡名

 西ノ股遺跡(にしのまたいせき)

所在地 南松浦群新上五島町浦桑郷西ノ股・宮ノ脇
緯度 北緯32°59′12″経度 東経129°4′58″
標高 1m~2m地形 干潟
種別 遺物包含地時代 縄文時代・弥生時代
資料所在地 長崎県教育委員会・上五島高等学校指定状況 未指定
参考文献等 「西ノ股遺跡」 新魚目町文化財調査報告書 第 2集 1987
遺跡・史跡の概略
 海岸埋立工事に伴い1985年県教育委員会によって調査された。縄文土器は前期から後期にかけての資料があり、前期と中期が中心である。石器は多種にわたり、特に漁労に関係する石器が多く、遺跡の立地と併せて興味深い。
主な遺構
 
    
主な遺物
 縄文土器(前期・中期・後期)、弥生土器、ナイフ形石器、石鏃、くさび形石器、石槍、石錘、石匙、石斧、石錐、礫器、叩石、削器、石鋸
ファイル遺物実測図(1) ファイル遺物実測図(2)   
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル調査風景 ファイル土層堆積状況 ファイル出土遺物土器



遺跡名

 頭ケ島白浜遺跡(かしらがじましらはまいせき)

所在地 南松浦郡新上五島町有川郷友住頭ケ島白浜
緯度 北緯33°0′50″経度 東経129°10′58″
標高 5m地形 砂丘
種別 その他の遺跡・遺物包含地時代 縄文時代・近世
資料所在地 新上五島町教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 「頭ケ島白浜遺跡」 有川町文化財調査報告書 第 1集 1996
遺跡・史跡の概略
 遺跡は頭ケ島北西部有川湾に面する砂丘に位置する。1995年町営アワビ養殖場建設に伴い、有川町教育委員会が主体となり県教育委員会が緊急調査を行った。基本的な層序は 7層あり、何れも砂層であるが、この内 5層が縄文前期海進後に堆積した風成砂で包含層として確認された。縄文土器は前期から後期初頭を中心とし、1954点が出土した。また、前期轟B系土器に伴い韓国系隆起文土器が出土したことは日韓新石器時代の土器を比較出来る上で重要である。近世人骨は保存状態が極めて良好で、西北九州地区の貴重な近世の標準人骨となりうる資料である。
主な遺構
 近世埋葬遺構(土坑墓・カメ棺墓、木棺墓)
    
主な遺物
 縄文土器(前・中・後期)、韓国隆起文土器、石銛、石鋸、石鏃、石斧、叩石、礫器、石核、削器、近世人骨45体(18世紀中頃以降)、陶器、六道銭、かんざし、数珠
ファイル出土土器(1) ファイル出土土器(2) ファイル出土石器  
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル出土土器(韓国系) 
 





遺跡名

 浜郷遺跡(はまごういせき)

所在地 南松浦郡新上五島町有川郷浜
緯度 北緯32°59′4″経度 東経129°7′4″
標高 2m~ 5m地形 砂丘
種別 墳墓時代 弥生時代
資料所在地 長崎大学解剖学第 2教室指定状況 町指定
参考文献等 小田富士雄「五島列島の弥生文化-総説編-」 人類学考古学研究報告第 2号別冊 1970
遺跡・史跡の概略
 1951年、地下貯水工事の際、人骨と共にベンケイ貝製貝輪と貝製垂飾品が出土したのを始め、1966年には道路工事中に弥生時代の甕棺や箱式石棺が出土した。このような状況を受けて、1967年には長崎大学医学部と別府大学・九州大学の合同調査が実施され、甕棺や箱式石棺などから人骨61体が出土した。結果的に甕棺 6基、壺棺12基、箱式石棺 8基、石蓋土坑 1基、土坑13基が検出されている。特筆すべきは石棺構造が南九州の古墳時代に見られる地下式板石積石室の形態ものがあり、九州西側海岸域に共通な墳墓が築かれていることが判った。副葬品としては南海産のイモガイやゴホウラガイ製の貝輪が多く、南方との供給ルートが確立していた事が判明した。
主な遺構
 甕棺 6、壺棺 12、箱式石棺 8、石蓋土坑 1、土坑 13
ファイル1号石棺実測図    
主な遺物
 ベンケイ貝製貝輪、貝製垂飾品
ファイル壺・甕棺実測図 



遺跡名

 頭ケ島浜泊遺跡(かしらがじまはまどまりいせき)

所在地 南松浦郡新上五島町有川郷友住頭ケ島浜泊
緯度 北緯33°0′32″経度 東経129°10′40″
標高 地形 砂丘
種別 遺物包含地時代 縄文時代・弥生時代
資料所在地 新上五島町教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 「浜泊遺跡」『長崎県埋蔵文化財調査集報II』 長崎県文化財調査報告書 第45集 1979
遺跡・史跡の概略
 遺跡は頭ケ島南部砂地海岸に位置する。1976年上五島空港建設に先立つ架橋工事に際し、遺跡の範囲確認のため、県教育委員会が試掘調査を実施した。堆積層は 4層あり、この内3、4層が縄文時代の包含層である。縄文土器は前期・中期の資料が最も多く、遺跡はこの時代が中心である。石器もこの時期に属する資料が大部分である。石鋸や鋸歯状の石鏃、あるいは尖頭状礫器など、漁労や貝類捕獲道具が多く、海浜部に立地する遺跡の性格を良く示している。
主な遺構
 
    
主な遺物
 縄文土器(前・中・後・晩期)、石鏃、石鋸、削器、尖頭状礫器、弥生土器(中期)
ファイル第5層出土縄文土器実測図(2) (S=1/3) ファイル第5層出土縄文土器実測図(4) (S=1/3) ファイル第5層出土の石器実測図(1) (S=1/2) ファイル第5層出土の石器実測図(4) (S=1/2) 
ファイル第5層出土の石器実測図(5) (S=1/2) ファイル第6・7層出土縄文土器実測図(1) (S=1・3, 3はS=1/2)       
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル土層断面 ファイル遺物出土状況 




遺跡名

 滝河原遺跡(たきごうらいせき)

所在地 南松浦郡新上五島町有川郷若松町間伏滝河原
緯度 北緯32°52′19″経度 東経129°58′50″
標高 5m地形 砂丘
種別 墳墓時代 弥生時代
資料所在地 新上五島町教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 桑山龍進「一般調査」『五島遺跡調査報告』 長崎県文化財調査報告書 第 2集 1964
遺跡・史跡の概略
 1963年に行われた五島列島分布調査の際砂丘に箱式石棺群が発見された。その後1967年に道路建設によって石棺群は破壊された。その折、数点の弥生土器片が発見された。この時発見された小壺は弥生時代の初期にあたる特徴を持っていたことから、五島列島における弥生文化初頭の状況を知る上で重要な遺跡と言える。
主な遺構
 箱式石棺
    
主な遺物
 弥生土器:前期壺・中期甕
ファイル板付I式小壺    
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル石棺 



遺跡名

 桐古里遺跡(きりふるさといせき)

所在地 南松浦郡新上五島町若松郷桐古里
緯度 北緯32°52′11″経度 東経129°0′29″
標高 5m前後地形 沖積地
種別 遺物包含地時代 弥生時代
資料所在地 長崎県教育委員会指定状況 未指定
参考文献等 「県内主要遺跡内容確認調査報告書Ⅳ」 長崎県文化財調査報告書 第159集 2001
遺跡・史跡の概略
 県内主要遺跡の内容確認調査の一環として2000年に県によって調査された。遺跡の基本土層は 2層で表土下が地山となる。土坑は長軸50cm、深さ23cmの不定形の遺構で、中から炭化物、獣骨、土器片、黒曜石片、磨製石斧などが出土している。時期的には弥生中期と判断されるが性格は不明である。小穴は直径15cm程のもので中から弥生土器片が出土している。石器は、石鏃などの狩猟具に加え、石錘や石斧が出土している。海や山に近い自然条件を生かした生産形態を反映したものと考えられている。
主な遺構
 土坑、小穴
    
主な遺物
 弥生土器(前期)、石斧、石錘
ファイル桐古里遺跡出土遺物 (S=1/3)    
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル遺物出土状況 ファイル出土遺物




遺跡名

 日島の石塔群(ひのしまのせきとうぐん)

所在地 南松浦群新上五島町日島郷字曲 12番地及び字釜崎281番地
緯度 北緯32°54′54″経度 東経128°57′25″
標高 6m~8m地形 礫丘
種別 墳墓時代 中世(14世紀~15世紀)
資料所在地 新上五島町教育委員会指定状況 県指定
参考文献等 「曲古墓群」 若松町文化財調査報告書 第 1集 1996
遺跡・史跡の概略

 15世紀の朝鮮の書『海東諸国紀』には、日島の太守である藤原盛(ふじわらさかり)という人物が対馬宗家宗貞国の斡旋で1469年に朝鮮国に来朝したとある。朝鮮貿易を行っていたものであろう。石塔群はリアス式の海岸が連なる若松瀬戸の奥部に築かれている。復元した石塔の数は宝篋印塔 2基五輪塔18、板碑15基であるが、本来の数は不明である。
 石塔は14世紀頃関西で製作されたものをであるが、その運搬したのはいわゆる倭寇である可能性が高い。また、石塔は花崗岩(かこうがん)と安山岩系凝灰岩(ぎょうかいがん)で何れも島外産である。
主な遺構
 五輪塔(ごりんとう)、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、板碑(いたひ)
ファイル調査前の曲古墓群遺構位置図 (1/400) ファイル釜崎宝篋印党実測図及び紀年銘拓影   
主な遺物
 中国輸入陶磁器、土師質土器、瓦質土器、素文鏡
ファイル出土遺物実測図(2) ファイル出土遺物実測図(3) ファイル出土遺物実測図(4)  
        
遺構・遺物の写真
 
ファイル遺跡近景 ファイル整備状況 ファイル遺構全景 ファイル人骨出土状況

新上五島町(しんかみごとうちょう)は、長崎県五島列島

転載元: 海洋文化交流のブログ

[転載]長崎市の文化財一覧

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文化財一覧


国宝

(そうふくじだいいっぽうもん)

国宝

崇福寺第一峰門
指定年月日 昭和28年3月31日
所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号

  中国寧波(ニンポー)で材を切組み、元禄8年(1695)唐船数隻に分載舶来(ぶんさいはくらい)し再建された。軒下の構造組物(くみもの)に特徴があり、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組(つめぐみ)は他には例がなく、華南地方にも稀という。垂木(たるき)を平(ひら)に使った二軒の扇垂木(おうぎたるき)・鼻隠板(はなかくしいた)・挿肘木(さしひじき)・柱上部の籘巻(とうまき)等は寺内他の建物にも見られる。軒下軒裏には極彩色の吉祥(きっしょう)模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗にしてある。当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)この下段西向きに、新たに三門が建立されて、ここは二の門となった。別名は唐門(からもん)・海天門・中門(ちゅうもん)など。第一峰と海天の名称は扁額(へんがく)の文字による。
備考
地図検索(新しいウィンドウで開きます)
  1. 路面電車「正覚寺下」下車徒歩3分
  2. バス「崇福寺入口」下車徒歩3分
(そうふくじだいゆうほうでん)

国宝

崇福寺大雄宝殿
指定年月日 昭和28年3月31日
所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号

  福州出身の在留唐人が中心となって、福州から僧超然を招き創立した寺。釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、大檀越(有力な財物施与者)何高材の寄進により、中国で切組み唐船で運び正保3年(1646)上梁建立された。
  当初は単層屋根(たんそうやね)。35~6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となった。下層部分は軒回りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしづか)の持送りや、前廊部分が俗に黄檗(おうばく)天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調とし、しかも両者は違和感なく調和している。この上層部の意匠は福済寺大雄宝殿(原爆焼失)のそれに類似する。

地図検索(新しいウィンドウで開きます)
  1. 路面電車「正覚寺下」下車徒歩3分
  2. バス「崇福寺入口」下車徒歩3分

    国指定重要文化財

    (きゅうとうじんやしきもん)

    国指定重要文化財

    旧唐人屋敷門
    指定年月日 昭和36年6月7日
    所在地 長崎市寺町4番32号 興福寺境内
      寛永13年(1636)の出島埋築に遅れること54年、 元禄2年(1689)十善寺郷御薬園跡に唐人屋敷が完成。来舶唐人の民宿を禁じて、皆ここに居住させることとした。
    約3万平方メートルの敷地には住宅・店舗・祠堂その他が軒を連ね一市街地を形成した。その後数度の火災があったが、天明4年(1784)の大火で関帝堂を残し他は悉く焼失、以後唐人自前の建築も許された。この門の用材は中国特産の広葉杉(こうようざん)で、 建築様式も中国式特有のものであり、天明大火以後の唐人住宅門と思われる。 旧唐人屋敷内に遺存していたのを、保存のため、 昭和35年(1960)現位置に移築された。扉は二重で、内門は貴人来臨専用。
    備考
    地図検索(新しいウィンドウで開きます)
    路面電車・バス「公会堂前」下車徒歩5分

    崇福寺媽姐門

    (そうふくじまそもん)

    国指定重要文化財

    崇福寺媽姐門
    指定年月日 昭和47年5月15日
    所在地 長崎市鍛冶屋町7番5号

      媽祖堂の前にあり、大雄宝殿と方丈(ほうじょう)玄関をつなぐ渡廊下を兼ねた巧みな配置になっている。現在の媽祖門(媽祖堂門)は文政10年(1827)再建されたもの。媽祖は、ぼさ(菩薩)ともいい、ぼさ門とも呼ばれる。
      八脚門(はきゃくもん)3間3戸形式で、扉の前面は黄檗(おうばく)天井、背面は山形天井。木割が大きく、外観は雄大。細部に僅かの塗料を用いるほかすべて素木(しらき)のままとし、建築様式は大体和様が基調である。

      興福寺媽祖堂には門がなく、福済寺では観音堂が媽祖堂にあたるが、これには門があった。聖福寺及び宇治の黄檗山萬福寺(まんぷくじ)には媽祖堂がない。媽祖堂の門というのは、その意味でも数少ない遺例である。

    地図検索(新しいウィンドウで開きます)
    1. 路面電車「正覚寺下」下車徒歩3分
    2. バス「崇福寺入口」下車徒歩3分


    国指定重要無形民俗文化財


    国指定史跡


    曲崎古墳群

    (まがりざきこふんぐん)

    国指定史跡

    曲崎古墳群 
    指定年月日 昭和53年12月21日
    所在地 長崎市牧島町
    この古墳群は、5世紀末から7世紀初めにかけて、つくられた古墳群である。平成16年度末現在で、101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所が確認された。 又ガラス製の玉類や、 当時の人々が使用した壺や、甕が発見された。古墳は、一般的に遺体を入れる室を石で築き、その上に土を盛りあげているが、ここのものは、土ではなく丸い石ころを積みあげているところに特徴があり、このようなものを積石塚と呼んでいる。
    石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明した。
    備考
    地図検索(新しいウィンドウで開きます)
    バス「臼の浦」下車徒歩20分

    国指定天然記念物


    国認定旧重要美術品


    国選定重要文化的景観


    国選定重要伝統的建造物群保存地区


    県指定有形文化財


    県指定有形民俗文化財


    県指定無形文化財


    県指定無形民俗文化財


    県指定史跡


    県指定名勝


    県指定天然記念物


    市指定有形文化財


    市指定有形民俗文化財


    市指定無形民俗文化財


    市指定史跡

    (ふくさいじのとうそうぼち)

    市指定史跡

    福済寺の唐僧墓地
    指定年月日 昭和53年8月1日
    所在地 長崎市筑後町2番56号 福済寺墓地内
    石壁にはめ込み型式の墓碑が三基並んでいる。向かって右の墓が、寛永5年(1628) 長崎に渡来して福済寺を開基した唐僧覺悔(かくかい)の墓碑で、弟子の了然(りょうねん)と覺意(かくい)も併せて祀られている。 この人の代には未だ福済寺はお寺らしい体裁は整っていなかった。中央の墓が、 福済寺の重興開山唐僧蘊謙(うんけん、おんけん)禅師の墓である。この人の代に、観音堂・仏殿・庫裡(くり)・大門などすべて完成した。寛文13年(1673)64歳で示寂した。 向かって左の墓が、 二代住持唐僧慈岳(じがく)禅師の墓である。天和元年(1681)の大飢饉にあたっては、 率先して施粥(せじゅく)を行った。 元禄2年(1689)58歳で示寂した。
    備考
    地図検索(新しいウィンドウで開きます)

    (とうじんかいなんしゃかいそうくようとう)

    市指定史跡

    唐人海難者改葬供養塔
    指定年月日 平成17年1月4日
    所在地 長崎市香焼町1034番地 圓福寺境内

      延享(えんきょう)元年(1744)長崎に入港した唐船が、同3年(1746)帰国の途中、香焼と深堀の間で暴風のため遭難し、船主馬奉天(ばほうてん)以下54名が犠牲になった。そこで、以前、溺死した中国人1名とともに遭難場所に近い海岸に埋葬されたが、後に風雨により荒廃したため、宝暦(ほうれき)2年(1752)長崎在住の高山輝(こうさんき)ら15名の中国人によって現在地に改葬された。本供養塔は、合葬塔であるだけに、長崎に所在する唐人墓碑の中でも規模が大きく、装飾なども当時の形態をよく残している。また、遭難者名はもとより、建立した中国人商人の氏名・出身地なども刻まれており、日中交易史に関する資料としても価値が高い。
    備考
    地図検索(新しいウィンドウで開きます)
    バス「香焼行政センター前」下車徒歩10分


    市指定名勝


    市指定天然記念物

    転載元: 海洋文化交流のブログ

    [転載]長崎市の歴史年表 室町時代・安土桃山時代・江戸時代/長崎歴史文化博物館に行こう

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    歴史年表 室町時代・安土桃山時代・江戸時代


    1,西洋との出会い〜南蛮貿易とキリスト教〜 

    歴史年表

    年月日 西暦 できごと
    室町時代
    元亀元年1570年長崎開港協定成立
    元亀2年1571年
    ポルトガル船初めての入港、町建て始まる(6か町)


    年月日 西暦 できごと
    安土桃山時代
    天正 8年4月1580年大村純忠、長崎6か町と茂木をイエズス会に寄進
    天正10年1月18日1582年天正遣欧少年使節長崎を出航
    天正12年1584年有馬晴信、浦上村をイエズス会に寄進
    天正15年6月19日1587年豊臣秀吉、バテレン追放令を出す
    天正16年4月2日1588年豊臣秀吉、イエズス会知行所を没収し公領とする
    天正18年6月20日1590年天正遣欧少年使節一行長崎に帰る
    文禄元年1592年豊臣秀吉、長崎奉行を置く
    慶長元年12月19日1597年キリスト教宣教師と信者26人を西坂で処刑(日本二十六聖人)
    年月日 西暦 できごと
    江戸時代
    元和2年8月8日1616年中国船を除く外国船の平戸、長崎以外での貿易を禁止
    寛永3年1626年キリスト教徒を改宗させるため、踏み絵を行う
    寛永11年1634年眼鏡橋完成
    寛永11年5月1634年出島埋築着工
    寛永11年9月1634年長崎くんち始まる
    寛永12年5月28日1635年日本人の海外渡航と帰国を禁止、外国船の入港地を長崎1港に限定
    寛永13年5月10日1636年出島完成、ポルトガル人を収容し市中雑居を禁止
    寛永16年7月5日1639年ポルトガル船の日本渡航を禁止
    寛永18年6月18日1641年平戸のオランダ商館を出島に移す(鎖国体制完成)
    寛文3年3月8日1663年長崎大火、66町中全焼57町、半焼6町(寛文の大火)
    寛文7年1667年倉田次郎右衛門、給水工事に着手(倉田水樋)
    寛文12年1672年寛文の大火の再建に当たり都市計画を行い、長崎の町を80か町に分く
    延宝元年1673年倉田水樋完成
    元禄元年1688年入港唐船194、史上最高記録
    元禄2年4月15日1689年唐人屋敷完成
    正徳5年1715年長崎貿易新令を発布し、輸入を制限
    天明4年7月24日1784年唐人屋敷全焼
    享和3年7月8日1803年アメリカ船が長崎に来て通商を求めるが、許可されず
    文化元年9月6日1804年ロシア使節レザノフ長崎に来航、通商を求める
    文化5年8月15日1808年イギリス艦フェートン号、長崎入港を強行
    文政6年7月6日1823年ドイツ人シーボルトが蘭館医として着任、翌年鳴滝に塾を開く
    文政11年8月9日1828年シーボルト事件起きる
    文政12年9月25日1829年シーボルト日本追放、再渡来を禁ず(12月5日に日本を出航)
    天保12年5月9日1841年高島秋帆が武州徳丸原で洋式銃隊の訓練を行う
    弘化元年7月2日1844年オランダ軍艦パレンバン長崎に来航、開港を勧む
    弘化2年8月13日1845年幕府、長崎奉行を通じオランダへ開国拒絶
    嘉永4年1851年本木昌造流し込み活字を作る
    嘉永6年7月18日1853年ロシア使節プチャーチンが来崎
    安政元年8月23日1854年日英和親条約を長崎で調印
    安政2年7月29日1855年西役所に海軍伝習所を置く
    安政2年12月23日1855年日蘭和親条約を長崎で調印
    安政4年8月4日1857年オランダ海軍医ポンペ来崎
    安政4年9月26日1857年長崎医学伝習所でポンペ講義開始
    安政5年7月1858年英語伝習所始まる
    安政6年2月9日1859年海軍伝習所閉鎖
    安政6年4月1859年外国人居留地として大浦海岸の埋め立て開始
    安政6年5月28日1859年長崎・神奈川・箱館3港で露英仏蘭米に貿易を許可
    安政6年8月23日1859年グラバー来崎
    文久元年3月25日1861年長崎製鉄所工場完成
    文久元年8月16日1861年小島養生所を開所、医学所を開校
    文久2年11月1862年上野彦馬が写真館を開く
    文久3年1863年外国人居留地の埋立工事完成、グラバー邸建つ
    元治 2年1月24日1865年大浦天主堂献堂式(国宝)
    慶応元年5月1865年グラバーが大浦海岸でイギリス製蒸気機関車を試運転
    慶応元年5月1865年坂本龍馬亀山社中をつくる
    慶応4年8月1日1868年日本最初の鉄橋(くろがね橋)完成

    3,長崎貿易〜唐船・オランダ船と行き交う商品〜 



    歴史

    年表

    1764年出版の古地図
    1764年出版の古地図
    1801年出版の古地図
    1801年出版の古地図
    1858年出版の古地図
    1858年出版の古地図
    大正の市役所本館、手彩色絵葉書
    大正の市役所本館、手彩色絵葉書
    戦国時代から天正期まで


    7,オランダとの交流〜出島と蘭学〜 


    交通アクセス

    交通案内

    周辺マップ


    アクセス

    JR利用の場合
    JR長崎駅(ファミリーマート前バス停)より、県営バス(風頭町~夢彩都線)「歴史文化博物館」下車。
    バス利用の場合
    路線バス「桜町公園前」下車。徒歩3分。
    県営バス(風頭町~夢彩都線)「歴史文化博物館」下車。※2013年4月1日より 詳しくはこちら
    路面電車利用の場合
    「長崎駅前」電停下車。桜町方面へ徒歩10分。
    ※2015年10月より「桜町」電停および3号系統電車は事故のため運休中です。
    車利用の場合
    長崎自動車道(長崎芒塚IC)より諏訪神社方面へ10分
    駐車場(有料)台数/一般車両:62台、大型観光バス:5台 合計67台
    ※駐車場に限りがございますので、できる限り公共交通機関をご利用ください。



    江戸時代


    4,中国との交流〜唐寺と唐人屋敷〜
    5,長崎の暮らし〜長崎の賑わいと町の仕組み〜



    明治期から第二次大戦まで
    第二次大戦後

    転載元: 海洋文化交流のブログ

    [転載]長崎県五島の考古遺跡

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    より

    福江堂崎遺跡(ふくえどうざきいせき)

    遺物包含地縄文時代
    五島市

       五島市奥浦町2010及び 地先公有水面

    遺跡・史跡の概略
     遺跡は、福江島東半北方の戸岐湾と奥浦湾挟まれた狭小の半島堂崎先端部に位置し、トンボロ状の砂丘を中心とする。遺跡は海岸の浸食が激しい部分について1990年に県と福江市によって調査された。堆積土は6層認められ、この内第3層が縄文中期と後期、第4層が縄文前期の包含層であることが確認された。
    主な遺構
     
    ファイル地形・調査区    



    主な遺物
     縄文土器(前期~後期)、貝輪、石斧、石錘、叩石、石鏃、石匙
    ファイルI-13区出土土器 ファイル出土石器   
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡近景 ファイル土層 ファイル出土遺物(土器) ファイル出土遺物(石器) 
    遺構・遺物の地図

    水の窪遺跡

    遺物包含地縄文時代中期・晩期五島市
       五島市下大津町山口(通称水の窪)

     遺跡は市南部を占拠する鬼岳火山山麓の低溶岩台地上に位置する。市道建設工事に伴い、1974年に県によって緊急発掘調査が実施された。土層は4層に分かれる。この内攪乱を受けていないのは第3層のみであった。3層は黄褐色粘質土で厚さ30cm程である。この3層から4層にかけて長さ5m、8箇所からなる礫群が認められる。出土土器は中期と晩期の土器であるが、中期土器は少量で晩期土器が中心である。土器の中には五島唯一の組織文土器が含まれ、扁平打製石斧と共に農耕の存在が認められる。
    主な遺構
     礫群
    礫群実測図    
    主な遺物
     縄文土器(中期・晩期)、石鏃、扁平打製石斧、砥石、削器
    ファイル縄文中期・晩期土器実測図 ファイル打製石斧実測図   
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡近景 ファイル礫群全景 ファイル土層 ファイル出土遺物 








    橘遺跡

    集落跡弥生時代後期五島市
        五島市上大津町字五社の上150番地

     1973年、文部省科学研究費による総合研究「弥生系高地性集落址の研究」の一環として九州大学によって調査が行われた。第2地点において、6個の柱穴を持つ2×2.4mの竪穴が検出された。この中からは弥生土器と共に石斧、凹石、砥石、台石が一括遺物として出土しており、住居に付属する工房的な施設の可能性が指摘されている。
    主な遺構
     竪穴遺構 1
    ファイル第II地点竪穴および遺物出土状態    
    主な遺物
     弥生土器、石斧 1、凹石 1、砥石 1、台石 1
    ファイル竪穴内出土遺物実測図    
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺構出土状況 ファイル遺物出土状況 




    江湖貝塚

    貝塚縄文時代前期五島市
       五島市大津町江湖地先公有水面

    江湖貝塚は干潮時にのみ姿を現す海底遺跡である。1969年長崎大学医学部解剖学第II教室を中心に調査が行われた。土層は4層に分けられ、1層は大小の溶岩の礫層、2層は縄文前期の貝塚、3層は貝混じりの砂層、4層は白色の砂層となっており、2層が縄文時代前期の単純層となっている。貝の種類は85種類に上るが、現在付近にいない汽水性のマガキが多く含まれており、縄文時代前期頃の地形は現在と異なり、江湖の池を中心とする広い入り江のような状態であった事が考えられる。
    主な遺構
     
    ファイル貝塚と周辺の標高    
    主な遺物
     曽畑式土器1423点、石器(石鏃、石錐、彫器、石斧、石皿、砥石、礫器)、貝輪、骨角器
    ファイル曽畑式土器 ファイル石器実測図(1) ファイル石器実測図(2) ファイル骨角器・貝輪・貝製什器

    白浜貝塚

    貝塚縄文時代~弥生時代前期五島市
        五島市向町

     遺跡は五島市東岸白浜浦の古砂丘上に位置する。1979年に県によって発掘調査が行われた。 遺跡の時期は縄文時代後期・晩期、弥生時代前期後半からなる。縄文後期に伴う石器として大型魚類捕獲を目的とした石鋸が特徴的である。弥生時代には抉入石斧や片刃石斧など大陸製で農耕に伴う石器類が共伴しているが、稲作などの痕跡は認められず、生活の糧は以前として海の幸に頼る割合が高かったことが推定されている。
    主な遺構
     土坑墓 1(人骨2体合葬:屈葬)
        
    主な遺物
     縄文土器(後期・晩期)、石鏃、石鋸、石錘、磨製石斧、礫器、弥生土器(前期)、磨製石鏃、抉入石斧、扁平片刃石斧、鯨骨製アワビオコシ、貝輪、貝製装飾品
        
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡遠景 ファイル土層図 ファイル遺物出土状況 ファイル出土遺物(縄文土器)

    中島遺跡

    遺物包含地縄文時代・古墳時代五島市
        五島市浜町大坪

     水田改良工事に伴い1985年福江市教育委員会によって調査された。土層は5層に分けられ、この内3層の青灰色砂層が縄文時代後期の包含層とされている。貯蔵穴は直径0.9m前後、0.8m程度の穴で、中にカシの実が貯蔵されていた。この種の貯蔵穴は縄文前期から近世に至るまで活用された水を利用した堅果類の貯蔵施設であるが、五島列島では初例である。
    主な遺構
     貯蔵穴(ドングリピット)12基
    ファイル2号堅果加工施設    
    主な遺物
     縄文時代土器(後期)、石斧 40、叩石 20、石錘 6、石鏃、石鋸、尖頭状礫器16
    ファイル縄文土器(1前期,2・3中期,4~7後期)    
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡遠景 ファイル土層断面 ファイルドングリ貯蔵穴出土状況 ファイル出土遺物(石器)


    大板部洞窟

    洞穴・岩陰・貝塚縄文時代(前期)五島市

    鰐川貝塚

    貝塚縄文時代(後期)五島市

    茶園遺跡

    遺物包含地旧石器時代・縄文時代五島市

    寄神貝塚

    貝塚・集落跡弥生時代五島市

    三井楽貝塚

    貝塚弥生時代五島市

    宮下貝塚

    貝塚縄文時代五島市

    石田城跡

    城館跡江戸時代五島市

    一本木遺跡

    墳墓・遺物包含地縄文時代・弥生時代五島市

    大浜遺跡

    遺物包含地縄文・弥生・古墳・古代・中世
    五島市

    転載元: ご隠居さんの正義感のブログ

    [転載]新上五島町の考古遺跡

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    西ノ股遺跡

    遺物包含地縄文時代・弥生時代新上五島町




    浜郷遺跡

    墳墓弥生時代
    新上五島町
    有川郷浜
      

    西ノ股遺跡

    遺物包含地縄文時代・弥生時代新上五島町

    新上五島町浦桑郷西ノ股・宮ノ脇

    海岸埋立工事に伴い1985年県教育委員会によって調査された。縄文土器は前期から後期にかけての資料があり、前期と中期が中心である。石器は多種にわたり、特に漁労に関係する石器が多く、遺跡の立地と併せて興味深い。
    主な遺構
     
        
    主な遺物
     縄文土器(前期・中期・後期)、弥生土器、ナイフ形石器、石鏃、くさび形石器、石槍、石錘、石匙、石斧、石錐、礫器、叩石、削器、石鋸
    ファイル遺物実測図(1) ファイル遺物実測図(2)   
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡近景 ファイル調査風景 ファイル土層堆積状況 ファイル出土遺物土器 

    頭ケ島浜泊遺跡

    遺物包含地縄文時代・弥生時代新上五島町
       新上五島町有川郷友住頭ケ島白浜

    遺跡は頭ケ島北西部有川湾に面する砂丘に位置する。1995年町営アワビ養殖場建設に伴い、有川町教育委員会が主体となり県教育委員会が緊急調査を行った。基本的な層序は 7層あり、何れも砂層であるが、この内 5層が縄文前期海進後に堆積した風成砂で包含層として確認された。縄文土器は前期から後期初頭を中心とし、1954点が出土した。また、前期轟B系土器に伴い韓国系隆起文土器が出土したことは日韓新石器時代の土器を比較出来る上で重要である。近世人骨は保存状態が極めて良好で、西北九州地区の貴重な近世の標準人骨となりうる資料である。
    主な遺構
     近世埋葬遺構(土坑墓・カメ棺墓、木棺墓)
        
    主な遺物
     縄文土器(前・中・後期)、韓国隆起文土器、石銛、石鋸、石鏃、石斧、叩石、礫器、石核、削器、近世人骨45体(18世紀中頃以降)、陶器、六道銭、かんざし、数珠
    ファイル出土土器(1) ファイル出土土器(2) ファイル出土石器  
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡近景 ファイル出土土器(韓国系) 

    滝河原遺跡

    墳墓弥生時代新上五島町

    桐古里遺跡

    遺物包含地弥生時代新上五島町
       県内主要遺跡の内容確認調査の一環として2000年に県によって調査された。遺跡の基本土層は 2層で表土下が地山となる。土坑は長軸50cm、深さ23cmの不定形の遺構で、中から炭化物、獣骨、土器片、黒曜石片、磨製石斧などが出土している。時期的には弥生中期と判断されるが性格は不明である。小穴は直径15cm程のもので中から弥生土器片が出土している。石器は、石鏃などの狩猟具に加え、石錘や石斧が出土している。海や山に近い自然条件を生かした生産形態を反映したものと考えられている。
    主な遺構
     土坑、小穴
        
    主な遺物
     弥生土器(前期)、石斧、石錘
    ファイル桐古里遺跡出土遺物 (S=1/3)    
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡近景 ファイル遺物出土状況 ファイル出土遺物



    山神神社(やまがみ、やまのかみじんじゃ)は、長崎県新上五島町桐古里(きりふるさと)郷に鎮座する神社である。

    祭神

    大山祇尊を主祭神に祀る。

    歴史

    創建は享保元年(1716年)11月。当郷は明治維新まで宿ノ浦郷内であり、郷民が当地の山林を伐採して生計を営んでいたので、山の神の祟りを恐れ大山祇尊を勧請し、石祠を奉祀した。
    明治7年(1876年)5月、無格社に列せられる。

    キリシタン神社として

    五島藩安永元年(1772年)以降、 大村藩より約3,000名の百姓を開拓民として迎え入れた。寛政9年(1797年)、桐古里地区には大村藩外海地方黒崎より14名の潜伏キリシタンが移住している。当社はいつのころからかその子孫たちによって祀られ、現在でも例祭などの祭祀に氏子として参加する者のほとんどが、「カクレ」の門徒であるという。また、御神体には『バスチャン様』の御像を祀っていると伝えられる。『バスチャン様』とは16世紀から17世紀に、大村藩外海地方を中心にキリスト教を伝道した日本人伝道師であるが、実在の人物であるか定かではない。なお、この『バスチャン様』が残した数々のものの中に、「バスチャンの日繰り」がある。「バスチャンの日繰り」とは、1634年太陰暦によるカトリック教会暦であり、外海、五島の潜伏キリシタンはこの日繰りをもとに、「カクレ」の年間行事を今日まで維持している。
    なお、旧若松町有福島に鎮座する『頭子神社』も、「キリシタン神社」と認められている。


    日島の石塔群

    墳墓中世(14世紀~15世紀)新上五島町
    日島郷字曲 12番地及び字釜崎281番地

    15世紀の朝鮮の書『海東諸国紀』には、日島の太守である藤原盛(ふじわらさかり)という人物が対馬宗家宗貞国の斡旋で1469年に朝鮮国に来朝したとある。朝鮮貿易を行っていたものであろう。石塔群はリアス式の海岸が連なる若松瀬戸の奥部に築かれている。復元した石塔の数は宝篋印塔 2基五輪塔18、板碑15基であるが、本来の数は不明である。石塔は14世紀頃関西で製作されたものをであるが、その運搬したのはいわゆる倭寇である可能性が高い。また、石塔は花崗岩(かこうがん)と安山岩系凝灰岩(ぎょうかいがん)で何れも島外産である。
    主な遺構
     五輪塔(ごりんとう)、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、板碑(いたひ)
    ファイル調査前の曲古墓群遺構位置図 (1/400) ファイル釜崎宝篋印党実測図及び紀年銘拓影   
    主な遺物
     中国輸入陶磁器、土師質土器、瓦質土器、素文鏡
    ファイル出土遺物実測図(2) ファイル出土遺物実測図(3) ファイル出土遺物実測図(4)  
            
    遺構・遺物の写真
     
    ファイル遺跡近景 ファイル整備状況 ファイル遺構全景 ファイル人骨出土状況 






    日島(ひのしま)は、長崎県五島列島若松島の北西に位置するである。全島が長崎県南松浦郡新上五島町に属する(2004年8月1日の同町発足までは若松町)。

    概要

    地理

    五島列島の若松島の北西約1km沖に位置し、若松島から漁生浦島有福島と島づたいに橋と防波堤によって繋がっている。小さな島ながら最高点は244m(バンヤノ峠)と高く、島のほとんどが山地である。集落は南の海岸に集中し、外洋に面する北西の海岸は断崖になっている。

    歴史

    古くから海上交通の要衝であり、遣隋使遣唐使の寄港地でもあった。室町時代には大陸との貿易船の寄港地であったと考えられ、江戸時代には漁業で繁栄した[2]。過疎化により現在では極端に人口が減少しているが、かつて1956年(昭和31年)までは若松島の西側と漁生浦島、有福島とを行政区域とする日ノ島村の役場が置かれる中心地だった。現在は野生の鹿(ニホンジカ)が多く生息する島として知られる。

    交通

    前述のとおり若松島と繋がっているので、若松大橋を経由して中通島の奈良尾港や有川港から陸路で通行できる。最近まで道路事情が悪く、若松島からの町営旅客船が通学などの生活の足となっていたが、2004年以降は若松島の若松港から町営の新上五島町スクールバス、2014年以降は西肥自動車の一般路線バスが運行されている。

    名所・観光スポット

    • 曲遺跡古墓群 - 西隣の有福島から渡ってすぐの曲崎海岸にある石塔群。東シナ海を望む海岸に、鎌倉から室町時代のものと思われる五輪塔宝篋印塔などが多数並んでいる。
    • ハマジンチョウ群落 - 曲崎の東側の波静かな海岸にあるハマジンチョウの自生地。旧若松町の町花になっていた。
    • 若松ディアパーク - 廃校になった旧日島中学校の校舎を利用した宿泊施設。

    転載元: ご隠居さんの正義感のブログ

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