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後醍醐天皇

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後醍醐天皇

後醍醐天皇
第96代天皇
後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に二度の廃位譲位を経ている。尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。

生涯

 大覚寺統後宇多天皇の第二皇子。生母は、内大臣花山院師継の養女・藤原忠子(談天門院、実父は参議五辻忠継)。正応元年11月2日1288年11月26日)に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下嘉元元年(1303年)12月20日に三品に叙品。嘉元2年(1304年)3月7日に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれた。また、徳治2年(1307年)5月15日には、中務卿を兼任している。

即位

 徳治3年(1308年)に持明院統花園天皇の即位に伴って皇太子に立てられ、文保2年2月26日1318年3月29日)花園天皇の譲位を受けて31歳で践祚3月29日4月30日)に即位。30代での即位は1068年後三条天皇の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が院政を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。
 このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることは否定された。後醍醐天皇は不満を募らせた。それが後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の親政が開始される。前年に邦良親王に男子(康仁親王)が生まれて邦良親王への皇位継承の時期が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の治天の君となったことは大きな謎とされる。

倒幕

太平記絵巻』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇)
埼玉県立歴史と民俗の博物館

 正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。この変では、幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺文観法勝寺円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺延暦寺など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(ただし、有力権門である西園寺家所生の親王は邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得るため、実際に御産祈祷が行われていた可能性もある)。
 大覚寺統に仕える貴族たちはもともと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府も基本的に彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第に窮地に陥ってゆく。そして邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、退位の圧力はいっそう強まった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の乱(元弘の変)と呼ぶ。

流罪、そして復帰

 幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させた。捕虜となった後醍醐は、承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / 正慶元年(1332年隠岐島に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王河内楠木正成播磨赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。
 このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。

建武の新政

後醍醐天皇像
三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』より)

 帰京した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位及び在位を否定し、光厳朝で行われた人事を全て無効にするとともに幕府・摂関を廃していわゆる建武の新政を開始する。また、持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。

 建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な二条河原の落書にみられるようにその無能を批判され、権威を全く失墜した。また、倒幕に功績のあった護良親王征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の言を受けて親王を鎌倉に配流している。

足利尊氏の離反

 建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。

南北朝時代

 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。
 廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。
 しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳)。
摂津国住吉行宮にあった後村上天皇は、南朝方の住吉大社の宮司である津守氏荘厳浄土寺において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営している。

島後(どうご)は、日本の島根県隠岐郡隠岐の島町、かつ隠岐諸島における主島。島根県庁の出先機関である隠岐支庁が置かれている。

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島後島

島後(どうご)は、日本島根県隠岐郡隠岐の島町、かつ隠岐諸島における主島。島根県庁の出先機関である隠岐支庁が置かれている。
西側の島前西ノ島中ノ島知夫里島)と対を為し、島後と呼ばれる。尚、島自体の名称として本州や九州などと同じように後ろに島と付けず単に島後である。島後島(どうごじま)と呼ばれる事は地元住民、行政機関を問わずない。



隠岐空港周辺
隠岐空港周辺


隠岐の島町(おきのしまちょう)は、島根県隠岐郡隠岐諸島島後(どうご)全域を占める。

交通

空港

道路

港湾

西郷港
定期旅客航路:隠岐汽船
  • フェリー:隠岐諸島各港と七類港境港を結ぶ
  • 超高速船:隠岐諸島各港と七類港、境港を結ぶ

バス

名所・旧跡

岩倉の乳房杉
浄土ヶ浦(じょうどがうら)は島根県隠岐諸島の島後、東部に位置する海岸。浄土ヶ浦海岸ともいう。風光明媚な景勝地で知られ、また隠岐布施海岸の名で、国の名勝にも指定されている。大山隠岐国立公園に含まれる。なお、名は一休宗純がこの地を訪れ、さながら極楽浄土のようだと謳ったということにちなんでいるという。

 島後東部に突出した崎山岬に位置し、一帯には隠岐地方随一の多島海風景が見られる。島前の国賀海岸と比較すると規模は大きくないが、小島、岩礁の密度が高い。赤褐色の流紋岩、安山岩、堆積岩が混在しているため、地肌が赤褐色であるのが特徴。小島には老が潮風に耐え、逞しく生育しており、それが多島海風景と相まってさながら山水画のような美しさを見せる。国立公園切手の題材にも採り上げられたことで、名が知られるようになった。
また、この一帯は布施海中公園にも指定されており、スキューバダイビングが盛ん。

ローソク島は、隠岐諸島を構成する島の1つとして数えられる、日本海に存在する無人島である[1]。島の面積は、0.0033km2[2][1]。この島は、鮮新世前期(約500万年前)に噴出して出来た火山岩で形成されている[3]。名前の由来は、ろうそくのような細長い岩の形状、特に夕日が先端に重なった時に灯がともっているように見えるさまから。大山隠岐国立公園の一部に指定されていて[1]奇岩として観光地となっている。
 ローソク島の存在は、隠岐諸島内では古くから知られていた。しかし、島外でも知られるようになったのは第二次世界大戦後に観光地化が進んで以降である。現在では島内で指折りの観光スポットとなっており、島で作られている藻塩炊き式のの商品名にも「ローソク島」の名が使われている。その反面、長らく隠岐を代表する景勝地として知られていた白島海岸への遊覧船の客がローソク島観光に吸収されてしまっているとの指摘もある[4]
 以前は個人観光客の依頼に基づきボランティアが案内する形態だったが、平成14年からは予約制の有料遊覧船が就航している。岩から20分ほどの距離にある重栖港と福浦港が主な遊覧船の出航地となっており、4月から10月のみ運航されている。

壇鏡の滝(だんぎょうのたき)は、隠岐諸島島後島島根県隠岐郡隠岐の島町)にある横尾山を源流とする那久川のである。
日本の滝百選に選定されているほか、滝からほど近い水源の湧水は壇鏡の滝湧水として、1985年(昭和60年)名水百選[1]に選ばれた。また、日本の秘境100選隠岐ジオパークを代表的する滝である。
 岩壁に立つ壇鏡神社の両側に落差約40mの雄滝と雌滝があり、雄滝は滝を裏側から見ることのできる「裏見の滝」となっている。
地元では、長寿の水、勝者(女神)の水、火難防止の水として名が知られており、島の行事に出場する関係者は必ずこの水で清めて行事に臨む慣習が続いている。
  1. ^名水百選(壇鏡の滝湧水) - 名水百選 - 環境省


隠岐国分寺 所在地
隠岐国分寺
島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5
隠岐国分寺(おきこくぶんじ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町にある東寺真言宗仏教寺院聖武天皇の勅願によって建立された国分寺の1つである。山号は、禅尾山。本尊釈迦如来。境内は国の史跡
美しい景観から、隠岐島の象徴的な存在として知られる。


 寺伝によれば、天平729年 - 749年)の頃、聖武天皇の勅願により創建されたと伝わるが、創建に関わる史実は全く残っていない。また寛文1661年 - 1673年)作成の『隠州視聴合紀』には、「四天王寺、仁王門、鎮守山王二十一社などを有する」と書かれ、かなりの繁栄を誇ったと見られる。 
 南北朝時代に作成された歴史物語の『増鏡』には、元弘2年/正慶元年(1332年)に後醍醐天皇元弘の変に敗れ、隠岐島に流された際に、「海岸から少し奥に入ったところにある国分寺を行在所とした」という意味のことが書かれている。なお、後醍醐の隠岐での行在所は西ノ島町の黒木御所跡だったとする伝承もある。

 明治2年(1869年)に明治政府が発布した太政官布告神仏判然令により、廃仏毀釈が実行され、本堂三重塔が焼失した。その後、昭和25年(1950年)に本堂は再建されるも、平成19年(2007年)2月25日の出火により本堂が全焼した。
 平安時代から続く古典芸能隠岐国分寺蓮華会舞が伝承され重要無形民俗文化財に指定されている。なお、奈良時代に中国から伝わったとされる「蓮華会舞の面9面」は島根県の有形民俗文化財に指定されていたが、2007年2月25日の本堂の火災で道具一式とともに焼失し指定を解除された。

地勢

  • 面積 241.64km2
  • 周囲 約211km
  • 人口 約15,500人

沿革


 律令制下では島後の南部が隠岐国周吉郡(すきぐん)、北部が穏地郡(おちぐん)であった。南北朝時代後醍醐天皇が隠岐へ流された際、隠岐国分寺御在所にしたと伝えられる。

交通

 隠岐空港から出雲縁結び空港大阪国際空港への便が発着している。また、隠岐汽船西郷港から本土(七類港境港)と島前方面へのフェリー高速船を就航させている。
 島内の移動は、隠岐一畑交通路線バス隠岐の島町公営バスコミュニティバス)が利用可能。

主な施設・観光名所

玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)は島根県隠岐郡隠岐の島町下西にある神社である。式内社で、旧社格県社。古くは「若酢大明神」、「総社明神」と称した。
玉若酢命神社
玉若酢命神社 拝殿
拝殿

    祭神

    社伝によると、景行天皇皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわると考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。
    『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』[1]によれば、玉若酢命は記紀には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではないのだと言う。しかし、同書では、島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている。

    歴史[編集]

    創建の年代は不詳である。寛文7年(1667年)の成立と言われる『隠州視聴合紀 巻之二』の下西村の条には「(当社の)社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇の勅命ありて之を奉ず。」と記されている。
    日本三代実録貞観13年(871年)閏8月29日の条に正六位上蕤若酢神の神階従五位下へ陞叙すると言う記事があるが、『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』[1]によれば「蕤」は花が垂れたる様、または冠・旗などに付ける垂れ飾りの意なので、これをタマと訓み、蕤若酢神を当社のこととする意見が強いのだという。上記の『日本三代実録』における記事が当社のことであるなら、これが史料における初見となる。
    延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では周吉郡4座の1つとして小社に列格された。
    当社は隠岐諸島島後(どうご)の旧西郷町の西郊、甲尾山麓の甲野原に鎮座するが、甲野原は「国府の原」の転化であり、当地は古代から隠岐国の中心地であった。国府の近くにあった当社は隠岐国総社とされたが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]によれば、当社が何時どのような過程を経て隠岐国総社へ転化されたかについては、平安時代末期の中世的国衙体制の成立にともなうであろうと推定される以外、史料が欠けていて明らかではないのだと言う。『神道大系 神社編1 総記(上)』[3]解題では、同島に鎮座する有木神社に合祀されている総神社が隠岐国総社であったが、いつしか当社と混同したとの説を紹介している。
    吾妻鏡建久4年(1193年12月20日の条では、隠岐国地頭として佐々木定綱が任じられているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]によれば、以後、国府地域は佐々木氏の直轄領とされ、強力な国衙在庁による支配が展開されたのだと言う。その後、国府地域は西郷として再編成され、国衙在庁官人の系譜を引くと推定される公文が西郷地域の支配に当たったのだと述べている。
    正和元年(1312年)8月の「玉若酢神社棟札写」[4]から、この時の造営は西郷公文が聖教泉坊と語らい、島前を含む多くの人々へ勧請活動を行って実現したものであることがわかるが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]では、これが総社が国衙権力機構の行政機関的なあり方から、直接地域社会に基盤を置く独自の宗教施設へ大きく転換する契機となったのではないかと考察されている。
    貞治7年(1368年)4月15日の「左衛門尉義親奉書写」[4]では、藤原朝臣義介が「隠岐国惣国造職」に任じられているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]では、「惣国造職」とは惣社国造職のことを指し、総社の宗教的権威向上と再編成を推進するため当社神官を新しく国造と呼ぶこととし、在庁官人と推定される藤原朝臣義介をその任に当てたと考察している。
    当社棟札写や『隠岐家古文書抄録』の内容から、応安7年(1374年)以後、当社の造営は絶えず守護もしくは守護代によって行われたことがわかる。この体制は戦国時代末期まで続いた。
    弘治3年(1557年)7月4日の「惣社五月五日祭礼立用注文案」[4]の記述から、東郷・飯田・犬来の3地域の公文が連盟で当社へ納めるべき費用の内容と数量を確認し、御霊会がこれら周辺村落の寄進で行われていたことがわかる。これに関し『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]では、当社が守護・戦国大名権力との関係とは別に、直接その周辺地域の村落に基盤を置く宗教施設としての性格を強めてきたことを意味するもので、そうした新しい情勢への対応の故

    [転載]玉若酢命神社

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    隠岐の総社である「玉若酢命神社」です。

    総社であることから「惣社大明神」とも呼ばれます。

    玉若酢命を祀り、1793年に建立されました。

    本殿は「隠岐造り」ですね。

    境内には樹齢2000年とも言われる「八百杉」があり、周りには古墳群も。

    玉若酢命がどういう人物だったのかは分からないですが、国造りに大いに貢献した

    神様だったのでしょうね。

    転載元: ピカブロ

    [転載]美保神社

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    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-21-84/natukasikushiro/folder/1417705/73/32222273/img_0?20070813213152

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    境港市へ行ったので、ちょっと足を伸ばして・・・

    美保神社です。



    http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/21/84/natukasikushiro/folder/1417705/img_1417705_32222273_0

    大鳥居





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    狛犬









    御祭神は「三穂津姫命」
    大国主命神の御后神ですね。
    それと「事代主神」は大国主神の御子神様で「ゑびす様」として広く生業の神様として知られます。
    ここは全国に3,000余あるゑびす社の総本社として存在します。
    「出雲国風土記」には、この二人の御祭神の名は登場しないんですが、中世頃から登場したようです。






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    拝殿







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    本殿





    この本殿は大社造りの本殿を装束の間で繋いだ珍しいもので、国の重文に指定されています。
    美保造りと呼ばれますね。
    神社神道からいくと向かって左側が「一ノ御前」となるのですが、何故か「事代主命」なんですね。
    で、右側が「三穂津姫命」となっています。
    まあ神名列記では、これが逆になるようなので色々とあるのでしょう。





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    本殿を裏側から見たところ






    ここの宝物殿には「ゑびす様は鳴り物がお好き」だったことから古来より「楽器」が数多く奉納され
    日本最古のアコーディオンとかもあるらしいんですが、時間が・・・






    境内には「総工費12億円」をかけての大改修の計画図が掲げられていました。



    http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/21/84/natukasikushiro/folder/1417705/img_1417705_32222273_5






    何にせよ、島根半島の先端にこのような神社が存在するという島根県



    古代出雲に思いを馳せ、壮大な世界の一端を垣間見たような気がします。

    転載元: ピカブロ

    [転載]西郷~都万~五箇@隠岐の島島後の旅5

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    今日もいい天気、土日はこのまま全国的に晴れそうですね。

    さて、今日は、10月12日の隠岐の島島後の旅、西郷から時計回りにご紹介していきます。


    ↓西郷・下西にある玉若酢命神社。
    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-40-9c/keebow121/folder/1748911/69/45096469/img_0?20090915225628



    ↓八百杉。樹高30m、根元の周囲20m、樹齢2千年を超える!とか。
    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-40-9c/keebow121/folder/1748911/69/45096469/img_1?20090915225628



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    ↓都万・釜谷の闘牛のオブジェ。
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    ↓同じく都万・釜谷の屋那の松原と船小屋。
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    ↓都万・那久の壇鏡の滝。水量が少なく、迫力は全くなし。。
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    ↓都万・油井の油井の池。
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    ↓赤とんぼが静かに羽を休めてました。
    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-40-9c/keebow121/folder/1748911/69/45096469/img_8?20090915225628



    ↓五箇・福浦の福浦トンネル。
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    ↓手堀りのトンネルです。
    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-40-9c/keebow121/folder/1748911/69/45096469/img_10?20090915225628



    この福浦港から、ローソク島遊覧船に乗って出かけました。

    ↓先日もご紹介したローソク島。
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    一日目は、これでおしまい。二日目は次回に続きます~(引っ張りすぎで、すいません)

    転載元: 散歩と、サイクリングと、ちょっとドライブ♪

    [転載]新居浜の土壌汚染を考える

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    新居浜の土壌汚染を考える
    1. mako671178 ‏@mako67117812月20日

    2. 【再掲】【住友金属鉱山とは】資料3 『四阪島煙害問題の記録』




      1.               

      【再掲】【住友金属鉱山とは】資料2 『煙害克服(?)への挑戦』… …








        




      1. 河野俊嗣宮崎県知事



      別子銅山   




      戦前の別子銅山


      別子銅山の銅で献納された皇居前広場楠木正成銅像


      楠木正成銅像背面「別子銅山」記


       別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜の山麓部にあった銅山1690年元禄3年)に発見され、翌年から1973年昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。


      概要


        最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700メートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。
       皇居前広場の公園内に現存する楠木正成像は、1900年明治33年)に別子銅山ので献納された。 また、1900年の銅山川鉱毒事件など、鉱毒事件が数回発生した。
       閉山後の今は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻って、夢の跡のような産業遺跡がひっそりと佇んでいる状態であるが、近年はそれらの歴史的意義を風化させないことを目的として活用したマイントピア別子など観光開発が進み、新居浜市の新たな資源として甦りつつある。また、別子山村の合併により一体的な観光開発にも弾みがついている。

      世界遺産登録への動き


       近代産業遺産の宝庫として文化財関係者等からは注目されていたが、そのほとんどが住友グループに属することもあって、活用が進んでいなかった。こうした近代日本を切り開く礎となった産業開発の歴史さらにはその後の環境の復元という人の営みに着目し、また石見銀山2007年平成19年)6月28日ユネスコ世界遺産文化遺産)へ登録が決定されたこともあって、別子銅山も世界遺産登録を目指す動きがある。日本を代表する金銀銅の産地である、新潟県佐渡市(金山)、島根県大田市(銀山)、愛媛県新居浜市(銅山)の3市長が集まって「金銀銅サミット」が2006年5月開催された。

      沿革


      鉱山の発見
      大坂屋久左衛門経営の伊予国立川銅山で働いていた切場長兵衛は立川銅山に隣接する足谷山(別子)に銅鉱が連鎖しているのを覚り、備中吉岡鉱山に住友の田向重右衛門を訪ね、見込みを告知した。田向は部下とともに長兵衛を案内人に、大坂屋に気づかれないように天満村から険しい山中を踏み越えて足谷山に入り、大鉱脈が横たわることを確認した。
      • 1690年元禄3年)秋 - 田向重右衛門一行が別子銅山を検分。

      開坑の計画
      • 1691年(元禄4年)4月、住友家は開坑を願い出たが、その条件は下記のとおり。

      1. 元禄4年6月から9年5月まで満5箇年請負

      2. 運上は銅1000貫につき130貫、代金は銅100貫目につき銀500目

      3. 炭窯運上は10口につき1箇年銀30枚、ただし毎月上納、

      4. 銅山付近の材木は残らず銅山付、

      5. 奥山大難所の林木で年々枯れ捨てる分は銅山用材として下付 など

      であった。「1」は成績が不良であった場合は請負を辞退することを保留したもので、永代請負となったのは1702年(元禄15年)3月である。これよりさき元禄15年1月、住友友芳勘定奉行荻原重秀に呼び出され、成績不良で1698年(元禄11年)に請負を辞退した吉岡鉱山の経営を高圧的に命じられたが、これは江戸幕府の貨幣政策で丁銅不足に悩んでいたためであるが、友芳はその交換条件を提出したが、それは下記のとおり。
      1. 別子銅山と吉岡銅山に対して鉱業助成金10000両を貸し下げ

      2. 西国筋天領のうちから吉岡別子両従業員食糧用に米6000石払い下げ、ただし10ヶ月延買

      3. 別子銅山永代請負   など



      第一通洞南口 新居浜市旧別子山村
      住友による開坑
      • 1691年5月 - 別子銅山請負稼行認可。


      鉱山鉄道




      鉱山鉄道の廃線跡予讃線新居浜〜中萩から

        住友別子鉱山鉄道が、石ヶ山丈〜角石原、惣開〜端出場に走っていた。1893年開業、1952年に旅客営業廃止、1977年鉱山鉄道としても廃止となった。

      筏津


        筏津坑は赤石山系の南斜面に位置し、1878年(明治11年)開坑され、最初は弟地坑(おとじこう)と呼ばれていた(弟地は付近の地名)。一時休止された時期もあったが、別子銅山の一支山として機能を果たしてきた。最初の坑口とは銅山川をはさんだ対岸に1940年(昭和15年)に筏津新坑口として開坑された坑口は1973年の別子銅山閉山まで使われた。
       新坑口の近辺には、当時、社宅、クラブ、娯楽場、診療所、小売商店などが軒を連ね殷賑を極めていたが、閉山とともに人は去り、静かな山に戻った。旧:宇摩郡別子山村(合併により現在は新居浜市)では、この筏津を観光間拠点の一つとして位置づけ、観光開発を進め、坑口跡近くに、筏津山荘、キャビン、遊歩道などがある。なお、坑口内は立ち入り禁止となっている。

      東平地区




      東平選鉱場跡


      東平索道基地跡


      旧東平第三変電所


       東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。このような山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校まであった「街」があったのかと信じられないように現在は山中に静まり返っているが、閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡などが残っている。
       付近は再整備され、歴史資科館や、保安本部跡を利用したマイン工房、花木園、高山植物園、子供広場などがある。また東平小学校、中学校の跡地には銅山の里自然の家がある。

       『東洋のマチュピチュ』と新聞に取り上げられ、観光会社がツアーを企画するなど人気を集めつつある。

      端出場地区


       端出場(はでば)地区は、採鉱本部が1930年(昭和5年)に東平地区から移転され、1973年(昭和48年)の閉坑まで使用された地区である。現在、ここにはマイントピア別子が整備されている。 マイントピア別子では、鉱山鉄道敷跡を活かした観光用鉱山鉄道、火薬庫跡を活かした観光坑道などの地中展示施設のほか、砂金採り体験パーク、温泉保養センター、売店・レストランなどを備えている。道の駅に指定されている。

       地区に南には1915年(大正4年)に開通した端出場坑口と大立坑を結ぶ第四通洞や1912年(明治45年)に完成した端出場水力発電所(登録有形文化財)が現存している。内部には電気機械が残っているが、一般の人は立ち入り禁止となっている。

      四阪島


       四阪島にも多数の産業遺産・遺構が存在するが、住友金属鉱山の私有地であり一般の人は許可なく立ち入ることはできない。詳細は四阪島の記事を参照のこと。

      住友別子鉱山鉄道


         


      下部鉄道の廃線跡
      予讃線新居浜 - 中萩から


       住友別子鉱山鉄道(すみともべっしこうざんてつどう)は、かつて1977年(昭和52年)まで愛媛県新居浜において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。

       伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道(山岳鉱山鉄道としては日本初)として1893年(明治26年)に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。


      駅一覧


      端出場本線新居浜港駅 - 昭和橋駅 - 星越駅 - 多喜ノ宮信号所 - 多喜ノ宮駅 - 土橋駅 - 山根駅 - 板ノ元駅 - 黒石駅 - 端出場駅専用鉄道区間端出場駅 - 打除駅惣開支線星越駅 - 原地臨時駅 - 原地駅 - 惣開駅国鉄連絡線星越駅 - 多喜ノ宮信号所 - 新居浜





      マイントピア別子


         
      マイントピア別子 施設情報 前身 テーマ キャッチコピー 面積 来園者数 開園 所在地 位置 公式サイト別子銅山別子銅山世界的産業遺産の里約6万m2約32万人(2003年度)1991年6月5日792-0846
      愛媛県新居浜市立川町707-3
      http://www.besshi.com/
      マイントピア別子(マイントピアべっし)は、愛媛県新居浜の産業基盤の礎となった別子銅山の施設跡などを利用したテーマパーク道の駅マイントピア別子を併設する。
      最後の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区を開発した端出場ゾーンと、最盛期の拠点であった東平(とうなる)地区を開発した東平ゾーンがある。


      大阪のOAPの三菱マテリアルの汚染土壌が、愛媛県新居浜辺りで埋立に使われたそうですが、詳しい情報を募集します。







        地盤環境は、地盤の持つ多面的機能を環境的側面から捉えるものである。人間活動の広がりとともに、地盤の利用範囲は面的にも深度的にも拡大しつつあり、地盤環境も著しく多様化している。
       地盤は自然地盤としての岩石地盤(岩盤)、土砂地盤、軟弱地盤などに分類され、盛土や埋立地は人工地盤とよばれる。自然生成物、人工生成物を問わず、地表および地下に存在する建造物・生物等、全ての荷重を支える能力を有しており、建設資材としての機能と相まって生活基盤、生産基盤となる諸施設を整備する場として利用されている。

        一方、地盤は様々な大きさの土粒子とその間隙から成り立ち、間隙には水と空気が存在していて、大気・水・多様な生物と連携しており、極めて多面的な機能をもって自然環境そして生活環境に重要な役割を果たしている。すなわち、水循環系における地下水の涵養・流動・貯留の場であるとともに、本来、環境の変化によく順応していく力を備えている。したがって、地盤環境における環境影響評価の視点は、地域の「地形・地質」、「地下水」とともに広く「流域特性」も視野にいれて、他の環境要素との関連性にも配慮することが重要である。

       環境影響評価の対象となる開発事業においては、切土、盛土、埋立等による土地の改変行為や地下水環境の変化などにより、地盤の持つ機能が変化する。また同時にこれに関連する環境要素にも影響を与えることとなる。したがって、地盤に係る環境影響評価項目は、従来から行われてきた地盤沈下のほか、地すべり・斜面崩壊・液状化・地盤陥没といった開発行為による土地の安定性の変化、あるいは地下構造物による地盤の熱環境の変化、有害ガスの発生等物理化学的変化についても、広く考慮する必要がある。




      文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)
      住友家初代・住友政友(涅槃宗に帰依し文殊院の称号を得た・1585〜1652)が晩年に家人の勘十郎に宛てた書状
      商人の心得を簡潔に説いたもので、仏教の教えを基に、政友の処世観が表れている。住友精神の原点。 前文に「商事は不及言候へ共万事情に可被入候」とあり、何事も粗略にせず、心をこめて丁寧慎重に取り扱うよう説いています。



      文殊院旨意書文殊院旨意書



       住友の源流は16世紀に遡ります。出版業や薬店などを営んだ家祖・住友政
      友(1585〜1652)は、仏教の信仰に篤く、宗教家(称号・文殊院)としても多く
      の教えを遺しました。なかでも家人に商売の心得を説いた「文殊院旨意書」
      は、代々その精神が受け継がれ、1882(明治15)年にまとめられた「住友家法」
      の基盤となっています。政友の教えが星霜に紛れることなく人々の心に深く
      刻み込まれてきたのは、そこに時代環境の変化にも耐えうる普遍的な価値が
      あったからにほかなりません。

       「文殊院旨意書」は5カ条からなりますが、そのうちの4カ条は当時、政友
      が暮らしていた京都の奉行所の御触書と共通しています。現代風に言えば、
      コンプライアンス(法令遵守)の重要性を説いたわけです。残りの1カ条には
      短気を戒め、「誰に対しても、重ねてつぶさに話をするように」としています。
      これは経営の説明責任を果たすように求めたものといえるでしょう。ビジネ
      スの根幹を支えるこれらの金言は、後に「信用を重んじ、確実を旨とし」とす
      る「住友の事業精神」へと結実しました。

       また、住友グループ中興の祖とされる広瀬宰平(1828〜1914)は、「100年
      の徳は木を植うることにあり」と述べ、その後を引き継いだ第2代総理事伊
      庭貞剛は、銅製錬で疲弊した山に大規模な植林を展開しました。広瀬は「自
      分たちは種を蒔く世代であり、実を得るのは次の世代である」との言葉を遺
      しています。

       人間個体でいえば遺伝子に相当するものが、組織体では理念にあたります。
      当社が400年にのぼる歴史を紡ぎ、世界に類例を見ない伝統を築いてきたの
      も、しっかりとした企業理念を継承してきたからにほかなりません。近年注目
      されているサスティナビリティ(持続可能性)の概念も、企業理念の継承を通
      して、すでに私たちの事業活動に実践されているのです。当社は連綿と受け
      継がれてきた事業精神の重みを尊重し、その叡知をSMMグループ経営理念、
      SMM環境理念としてまとめ、現代の事業の中に生かしています。

      住友「歴史探訪」
      第1回 京都編 その1  住友の事業精神の源「文殊院旨意書」
      住友家初代政友が晩年、商人の心得を説いた文殊院旨意書は、冒頭文のほか五ヶ条にわたって家業の永続や発展のほか、人間の努力や誠実さを求める内容にもなっている。以下は旨意書の文言です。
      商事は不及言候へ共万事情ニ可被入候
      一、何ニ而もつねのそうばよりやすき物 持来候共根本をしらぬものニ候ハゝ少もかい申間敷候左様之物ハ盗物と可心得候
      一、何たるものにも一やのやともかし申まし又あミかさにてもあつかましく候
      一、人のくちあいせらるましく候
      一、かけあきないせらるましく候
      一、人何やうの事申候共気ミしかくことはあらく申ましく候何様重而具ニ可申候巳上
      冒頭文の「商事は不及言候へ共万事情ニ可被入候」は、「何事も粗略にせず、すべてのことについて心を込めて丁寧慎重に励むように」ということである。この言葉は、現在でも住友の事業精神として受け継がれている。
      五ヶ条では、普段の相場より安いものが持ち込まれても、出所がわからないものは盗品と心得よ。誰であろうと宿を貸したり物を預かったりするな、などの禁止条項が並ぶ。そして最後の項で、他人がどのような(ひどい)こと言っても短気になって言い争うようなことはせずに、繰り返し詳しく説明するように、と人と接する場合の心がけも記されている。
      住友史料館副館長の末岡照啓氏は、旨意書についてこう語った。
      「政友は当時の不穏な社会情勢を的確に把握したうえで、堅実な商売と法令の遵守ということを諭しています。さすが住友初代の事業精神には説得力があります。現代にも十分通じるのではないでしょうか。」

      転載元: 学問の自由のブログ

      [転載]黒曜石 隠岐

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      黒曜の 光に照らされ 我らあり





      黒曜石
         
      アメリカ合衆国オレゴン州レイク郡で採取された黒曜石

       黒曜石(黒耀石)(こくようせき、: obsidian)は、火山岩の一種、及びそれを加工した宝石岩石名としては黒曜岩(こくようがん)という。 英語名の「オブシディアン」は、エチオピアでオブシウス(Obsius)なる人物がこの石を発見した、という、大プリニウスの『博物誌』の記述による。

      成分・種類

       化学組成上は流紋岩(まれにデイサイト)で、石基はほぼガラス質で少量の斑晶を含むことがある。流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出することで生じると考えられている。同じくガラス質で丸い割れ目の多数あるものはパーライト(真珠岩)という。 二酸化珪素が約70~80%で酸化アルミニウムが10%強、その他に酸化ナトリウム、酸化カリウム、酸化鉄、酸化カルシウム等を含む。外縁部と内側では構造が異なる。また、内部に結晶が認められるものもある。
       黒曜石のモース硬度は 5。比重は 2.339 - 2.527。水を 1 - 2% 含む。

      性質・特徴

      米国カリフォルニア州のObsidian Dome
      採掘坑遺跡がある高原山・剣ヶ峰(画像中央山頂)

       外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある)ガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから先史時代より世界各地でナイフや(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用された。日本でも後期旧石器時代から使われていた。当時の黒曜石の産地は大きく3つに分かれており、その成分的な特徴から古代の交易ルートが推測できる。

      産出地

      • 黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、伊万里腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。
      日本最古と推定される黒曜石採掘坑遺跡がある高原山
      • 栃木県北部にある活火山高原山を構成する一峰である剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器矢板市より200km以上離れた静岡県三島市長野県信濃町の遺跡で発見され研究が進められている。産出時期は古いものでは石器の特長より今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)は日本最古のものと推定されている。氷河期の寒冷な時期に人が近付き難い当時の北関東の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[4]で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような活動・交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたこと等が分かってきて注目が集まっている。またこの新しい発見により日本人の起源、人類の進化をたどる手掛かりになるという研究者の発言も報道もされている。
      • 黒曜石は流紋岩が噴出した所に見られ、世界ではアルメニア、カナダ、チリ、ギリシャ、アイスランド、アルゼンチン、イタリア、ケニア、メキシコ、ニュージーランド、ペルー、スコットランド、米国などで知られる。米国ではカスケード山脈のニューベリー火山やメディシン・レイク火山、カリフォルニア州シエラネバダ山脈のイニョ火口、イエローストーン国立公園ほか数多く分布する。
      国別黒曜石原産地数(国際黒曜石学会サイトの原産地カタログによる)

      用途

       上述の通り、石器時代において、その切れ味の良さから石器素材として広く使われた。刃物として使える鋭さを持つ黒曜石は、金属器を持たない民にとって重要な資源であった。現にヨーロッパ人の来訪まで鉄を持たずに文明を発展させた南アメリカは、15世紀頃まで黒曜石を使用していた。メキシコのアステカ文明などではマカナなどの武器を作り、人身御供で生贄の身体に使う祭祀用メスもつくっていた。一説にはアステカが強大な軍事力で周辺部族を征服し帝国を作れたのは、この黒曜石の鉱脈を豊富に掌握していたからだともいう。

       現代でも実用に供されている。その切れ味の良さから、海外では眼球/心臓/神経等の手術でメス剃刀として使われることがある。また、黒曜石を1000℃で加熱すると、含有された水分が発泡してパーライトとなる。白色粒状で軽石状で多孔質であることから、土壌改良剤などとして用いられる。
       様々な色の混じった美しいものは、研磨されて装飾品や宝飾品として用いられている。

      文化

      • 石とも黒耀石とも表記される場合がある。「耀」の字が常用漢字外であるため、慣用的に黒曜石と表記したと言われることがあるが、常用漢字の制定以前から黒曜石の表記はあった。安永2年(1773年)に初めて黒曜石を取り上げた木内重暁の『雲根誌』では黒曜石としており、Obsidian の訳語として採用した和田維四郎も黒曜石としている。黒耀石という用字が現れるのはおそらく太平洋戦争後で、藤森栄一など考古学者の一部が好んで用いる。
      • サウジアラビア・メッカにあるカーバ神殿黒石は古くは石質隕石などと言われてきたが、黒曜石と判明している。
      • 石言葉は、摩訶不思議。




      山陰研究サロン(29):「隠岐諸島黒曜石原産地と遺跡の踏査報告」
      2013年11月06日10:30  センターの活動写真あり
      2013年10月23日、第29回山陰研究サロンを開催しました。今回は社会文化学科(考古学)の及川穣先生に、「隠岐諸島黒曜石原産地と遺跡の踏査報告」と題して、今年9月に隠岐で共同調査をされた成果をもとにお話しいただきました。


      及川穣先生

      後期旧石器時代(約4万年前)から隠岐の黒曜石が石器の製作に使われるようになっていったことの背景に、現生人類が陸づたいに拡散し、さらに好奇心をもった人々が海洋にまで出て行ったということが見て取れるとのことです。すなわち隠岐の黒曜石の産出と利用の軌跡を辿ることは、ホモ・サピエンス(現代人)の行動の特質を描き出すのにきわめて有効であるということになります。

      そして、西日本では隠岐しか黒曜石の供給地がないというのも注目すべき点です。

      s_P1010888.jpg
      石刃技法(スライドより)

      隠岐の黒曜石の原石は、op層と呼ばれる火砕性の堆積物の層の中に陥入するようにして存在しており、非常に大きなスケールでの生成が考えられるそ うです。及川先生は地質学研究者とも連携しながらこれらの調査を進められており、来年以降さらにop層を集中的に調査される中で黒曜石原産地が新たに見つかる可能性が高いとのことです。

      黒曜石の中にも、原産地によって性質に違いがあり、実際の石器がどの地で採れた黒曜石を使用しているかがつきとめられています。隠岐原産の黒曜石がどのような地域にまで及んで使用されていたのかも、今後明らかになってくるものと思われます。


      隠岐の島町紹介ビデオ


      転載元: 学問の自由のブログ

      [転載]隠岐・海底遺跡? 隠岐「遺跡」が見せてくれる古代の風景

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      隠岐・海底遺跡?

      2002年9月、島根県隠岐ノ島で発見された海底構造物は未だに本格的な
      調査がされることなく今日に至っている



      先史・古代

       隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。
       サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。

       大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。
      隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。

       日本海の孤島隠岐は古代から渤海新羅との交渉も記録されている。
       763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。
       日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。
       888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。

      『和名抄』の郡郷

      和名抄』によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
      • 知夫郡 知夫里島及び西ノ島
        • 宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷
      • 海部郡 中ノ島
        • 布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷
      • 周吉郡 隠岐島後(どうご)南部
        • 賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
      • 穏地郡 隠岐島後北部
        • 都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷
      の各郷である。穏地郡は古い時代には役道郡と呼ばれていた。

      延喜式内社

      延喜式神名帳』に見える隠岐国式内社は16座15社あり、名神大社は以下の4社。
       僻遠の地にもかかわらず名神大社が多いのは新羅に近いため、国防上の見地から朝廷の尊崇を受けたためとされる。 このほか周吉郡(隠岐の島町西郷地区下西)の式内社玉若酢命神社は国府所在地にあり、隠岐惣社とされる。

      中世

       建久4年(1193年)、隠岐一国地頭職に佐々木定綱が補任されたことが吾妻鏡に見える。承久3年(1221年)には後鳥羽上皇が海士郡に流され、19年間配所で過ごし、元弘2年(1332年)年には後醍醐天皇が配流される。天皇の配流地は隠岐島後の国分寺説と島前黒木御所説があり、決着が付いていないが、天皇はやがて脱出する。
       室町時代の守護は京極氏で、隠岐守護代となったのは京極氏一門の隠岐氏で、東郷の宮田城、後に下西の甲ノ尾城を本拠地とした。これに対して在地勢力は隠岐氏に対立する毛利氏の支援を得て、両者間に戦いも起こったが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。


      「遺跡」が見せてくれる古代の風景

       古代の人の営みを知るには、遺跡の発掘で見つかるものが重視されていますが、その遺跡があった頃のその場所の風景は今と違っていた可能性も考える必要があります。
       例えば縄文時代のなかば、約6000年前は今よりもずっと暖かい気候がひろがり、海面が今よりも2〜3m高く(縄文海進)、現在の平野のかなりの部分が海の下になっていました。古代の人々が魚介類を食べて残った貝殻や魚の骨などが捨てられた貝塚が、今の海岸線の近くにはなく、ずっと内陸にあるのはこのためです。 貝塚だけでなく、住居跡などの縄文時代の遺跡も同じように、少し小高い場所にしかありません。また、古い神社も同様です。
       実は縄文時代、どれくらい海面が高くなり、海岸線がどこまで内陸に入り込んでいたかを知る方法は多くありません。貝塚や縄文遺跡など、人の営みの痕跡の分布から、逆に過去の風景、地域の環境変化を読みとることもできるのです。

      現在の集落と縄文時代の遺跡と縄文海進期の海岸線

      ポイント

      • 海水準変動と古代史
      • 遺跡の持つ地球科学的な価値
      『いにしえの島根』/島根古代文化センターの資料によると
      黒曜石

        山から採掘されたときは表面が風化して、
       ざらざらした灰色や灰黒色をしているものが多いが、  
       割るとこのように黒く輝く表面が現れる。

      今から1万年以上前の旧石器時代から2300年前の縄文時代まで、物を削ったりする道具の
      ほとんどは石を使用していた。
      特に黒曜石は刃物、鏃等によく使われていた。
      しかし利用の割に原産地が限られるため貴重なものであった。
      出雲では隠岐で採掘されたものを利用していた。
      現在の科学は黒曜石の原産地を解明するところまで進歩した。
      それによると隠岐島産の黒曜石は中国地方だけに止まらず、朝鮮、さらにはウラジオストク、
      ナホトカ周辺まで運ばれて使用されていたことが判明している。
      隠岐の国土、人口を考えれば、かって朝鮮やロシアまで航海する国力を持っていたとは
      到底考えられない。
      とすれば隠岐に一番近い出雲がその任を負っていた可能性も考えられる。
      この事は出雲王国の存在といわないまでも、出雲にこの黒曜石を移動させるほどの
      人口と技術が存在したということを微かに匂わせている。
          

            広範囲な黒曜石の分布状況



      JpGU2012 隠岐ジオパーク ~不思議な自然環境と歴史を探る~  


           島根の史跡 >  おもな史跡等 >  大城遺跡

      島根の史跡

      島根の史跡ロゴ大城遺跡
      復元整備された弥生墳丘墓の画像
      復元整備された弥生墳丘墓
      隠岐の島で初の発見!
      四隅突出型弥生墳丘墓

      大城遺跡
      山陰地方の弥生時代のお墓といえば四隅突出型弥生墳丘墓ですが、隠岐島でもこの大城遺跡で唯一発見されています。お墓は約18m×10m程の長方形の墓で、土器や管玉が見つかっています。現在、造られた弥生時代後期の姿に復元整備されています。
      大城遺跡地図
      大城遺跡の地図
      【お問い合せ】
      隠岐の島町教育委員会

      島根の史跡ロゴ隠岐郷土館
      隠岐郷土館の画像
      隠岐郷土館
      隠岐島の全てが分かる!
      総合資料館

      隠岐郷土館
      明治に建てられた県指定建造物(旧周吉外三郡役所庁舎)で今では資料館として利用されています。中には考古資料から民俗資料、さらには動植物や岩石まで隠岐島の全てが分かる展示品が並べられています。ここに来れば隠岐島の全てが分かるようになっています。
      隠岐郷土館の画像
      隠岐郷土館地図
      隠岐郷土館の地図
      問い合わせ
      隠岐郷土館TEL.08512-5-2151
      開館時間
      9:00〜17:00
      入館料
      300円
      休館日
      12月28日〜1月3日を除いて年中無休
       



      遺跡一覧表示

      隠岐郷土館
       
      大城遺跡
      147件ヒットしました (1件目 ~ 20件目)


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      遺跡名称所在地時代遺跡種別
      宮尾遺跡 隠岐郡 隠岐の島町 東郷 宮尾 縄文 古墳 平安 中世 近世 時代不明   集落跡  
      神米古墳群 隠岐郡 隠岐の島町 東郷 神米   古墳  
      妙光寺跡 隠岐郡 隠岐の島町 原田 寺中   社寺跡  
      奥田I遺跡 隠岐郡 隠岐の島町 今津 奥田 奈良   集落跡  
      奥田II遺跡 隠岐郡 隠岐の島町 今津 奥田   集落跡  
      奥田III遺跡 隠岐郡 隠岐の島町 今津 奥田 古墳   集落跡  

      東船遺跡 日本海より遺跡を望む
      東船遺跡 日本海より遺跡を望む
      著作権:
      島根県教育委員会





      この遺跡の調査 (2件)



      隠岐郡 隠岐の島町 今津 東船 



      東船遺跡 出土中世陶磁器
      東船遺跡 出土中世陶磁器
      著作権:
      島根県教育委員会
      縄文 近世 奈良 古墳 中世 弥生 近現代 旧石器 時代不明  




         東船遺跡 SI01・SD01出土弥生土器
      東船遺跡 SI01・SD01出土弥生土器
      集落跡  


         東船遺跡 SK22出土金属製品
      東船遺跡 SK22出土金属製品
      森遺跡 隠岐郡 隠岐の島町 今津 森 縄文 古墳 近世 時代不明   集落跡  
      大床遺跡画像あり 隠岐郡 隠岐の島町 岬町 大床 近現代   その他  
      御崎谷遺跡画像あり 隠岐郡 隠岐の島町 岬町 御崎谷 奈良 平安 古墳 中世 弥生 近現代   その他  
      御崎谷II遺跡画像あり 隠岐郡 隠岐の島町 岬町 御崎谷 近現代   その他  
      八王寺遺跡 隠岐郡 隠岐の島町 下西 八王子   集落跡  
      宮尾古墳群 隠岐郡 隠岐の島町 東郷 宮尾   古墳  
      大座西古墳 隠岐郡 隠岐の島町 下西 大座 古墳 奈良 近現代 時代不明   古墳  
      半崎横穴 隠岐郡 隠岐の島町 東郷 風早 古墳   横穴墓  
      西郷公園古墳 隠岐郡 隠岐の島町 西町   古墳  
      西郷小学校古墳群 隠岐郡 隠岐の島町 西町 大城   古墳  
      西郷小学校1号墳 隠岐郡 隠岐の島町 西町 大城   古墳  
      西郷小学校2号墳 隠岐郡 隠岐の島町 西町 大城   古墳  
      下元屋海岸古墳 隠岐郡 隠岐の島町 下元屋   古墳  
       [1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6] 




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      平成24年度 第2回普及講演会を開催しました。

      平成24年11月10日(土)に、黒曜石の原産地として有名な島根県隠岐の島町で、第2回の日本旧石器学会普及講演会を実施しました。島根県古代文化センター、隠岐ジオパーク戦略会議と共催で行い、55名の方々の参加をいただきました。詳細は次の通りです。
      • 1.実施場所:隠岐島文化会館研修室(島根県隠岐の島町西郷)
      • 2.主催:  日本旧石器学会、島根県古代文化センター、隠岐ジオパーク戦略会議
      • 3.後援:  隠岐の島町教育委員会、隠岐ジオパーク推進協議会
      • 4.実施概要:以下の通り
      (1)開会あいさつ13:30~13:40 島根県教育委員会教育次長 米山 隆
      日本旧石器学会広報委員 丹羽野 裕
      (2)講演13:40~14:50 岡山大学名誉教授 稲田 孝司
      「隠岐の黒曜石と旧石器人」
      (3)報告14:50~15:10 島根大学准教授 及川 穣
      「原産地遺跡から分かること-信州の黒曜石原産地の調査から-」
      (4)ミニシンポジウム15:15~16:30 「隠岐の黒曜石の意義と今後の調査」
       コーディネーター 丹羽野 裕
       パネラー  八幡 浩二(隠岐ジオパーク戦略会議議長》
             稲田 孝司
             及川 穣
      (5)紙上発表 竹広 文明「隠岐の島町久見における黒曜石原産地遺跡の調査成果をめぐって
      ―後期旧石器時代の黒曜石採掘跡が存在か―」

      5.内容のあらまし

       まず、稲田孝司日本旧石器学会元会長が「隠岐の黒曜石と旧石器人と題して、講演。旧石器時代の遊動生活の中で、4万年前もの古い時代か」ら隠岐に人が訪れていたことや、恩原遺跡の調査成果などから東北地方の旧石器人も訪れていたことをお話しになり、聴衆の皆さんの関心を引いていました。
       次に及川穣島根大学准教授が、信州での調査事例を元に、原産地遺跡の重要性とその調査からわかることを報告されました。
       ミニシンポジウムでは隠岐ジオパーク戦略会議議長で黒曜石採掘権者でもある八幡浩二氏を加えて、短時間の議論を行いました。まずは隠岐の黒曜石の特徴について議論。八幡氏から他産地のものに比べて硬くて良質であることが示されました。及川氏は信州の黒曜石は隠岐に比べて透明感があるものが多いことを指摘されました。
       次に後期旧石器時代にさかのぼる可能性のある久見高丸地点について論議。八幡氏から遺構が発見された経緯について説明があり、採掘場の崖が大雨で崩れた時に全く違う色・質の落ち込みが現われたことを説明されました。及川氏は採掘跡である可能性が高いが、時期については慎重に調査をして判断する必要のあることを述べられ、稲田氏も結論を急がず、崖面の保護も含めて早めの調査を行い、多くの目で確認しながらじっくり判断すること、採掘跡であれば旧石器時代でなくても大発見であることを強調されました。なお、丹羽野委員からは来年度から島根県古代文化センターで隠岐の黒曜石をテーマに研究を始めることを述べました。
       最後に稲田氏が、まずは隠岐島内でしっかりと遺跡を探すことの重要性を強調。行政の調査だけでなく、島民からの情報や協力が大切であることが力説され、会場の視聴者も熱心に聞き入られました。
       
      稲田孝司元会長の講演
       
      会場の様子 熱心に聞き入る聴衆
       
      ミニシンポジウム(手前から及川氏、稲田氏、八幡氏、丹羽野委員)

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      島根県立古代出雲歴史博物館企画展「隠岐之国」展示替えリスト

      名    称
      展示期間
      1 駅鈴(重要文化財)
      2 倉印(重要文化財)

      1.隠岐の黎明
      (1)隠岐島の誕生と黒曜石
      3 黒曜石原石

      4 ナウマン象 牙

      5 ナウマン象 臼歯

      6 東船遺跡出土 台形様石器

      7 東船遺跡出土 細石刃核

      8 東船遺跡出土 石鏃

      9 宮尾遺跡出土 爪形文土器

      10 宮尾遺跡出土 石皿

      11 宮尾遺跡出土 磨石

      12 中山遺跡出土 黒曜石製尖頭器

      13 東船遺跡出土 石匙

      (2)御食国隠岐
      14 竹田遺跡出土銅剣(島根県指定文化財)

      15 大城遺跡出土スタンプ文土器

      16 大城遺跡出土弥生土器

      17 大城遺跡出土 管玉

      18 東船遺跡出土弥生土器

      転載元: 学問の自由のブログ


      [転載]宮崎県日向市の日向製錬所の奥(北)の海神社はとっても良いところですね! 日向岩陰湧水恵比寿さまが鎮座されておられます。

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      ホーム >  宮崎県の神社 >  日向市 >  海神社(かいじんじゃ)
      海神社(かいじんじゃ) 高ヒット [地図表示]

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      日向製錬所の前の道を北に進みます。

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      10トンダンプが走っている道路ですので、観光バスも通れそうですね。


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      鳥居の前は観光バスが駐車できるスペースがあります。


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       永二年、当地仏崎の浜に連夜不思議なる燈明を漁夫が発見し、現地を調査したところ、不思議なご尊体の鎮座したところを拝見した。
       村人等は、驚喜して直ちにこれを村中に議して永二年旧十一月十七日仏崎の浜に接する、字ナゴラに一宇を建立しご尊体を迎え奉安したところ、たちまちにして航海漁業等ご神威が顕れたので、村中が同日を以て大祭日(現、新暦十一月二十三日)と定め、儀礼を崩さず龍王権現と崇敬し、村中の氏神として今日に及んでいる。
       ご尊体座したところはいまなお、人に知られ殊に石の美しいことを不思議として伝えている。

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      地図  [KML] [地図表示]

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      本殿は、有名な  の設計です


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      権現神社ともいうようです






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      岩がオーバーハングしている下に、
      湧水のウォーターカーテンに守られて恵比寿様が鎮座しておられます。

      日向岩陰湧水恵比寿


      郵便番号883-0062
      住所宮崎県日向市日知屋15782-乙
      御祭神大綿津見神(おおわたつみのかみ)
      旧社格無格社
      御神徳
      社殿本殿(大社造)4坪 拝殿(大社造)6坪
      創立年月日永二年(1625)旧十一月十七日
      例祭日十一月二十三日
      主な祭典
      文化財
      駐車場有り
      最寄ICからのアクセス日向ICより車で約25分
      最寄駅からのアクセスJR日向市駅より車で約15分


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      道が広くなっているところが海神社です↑

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      白く見える辺りが本殿です↑


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      海神社前の海岸は素足で歩くと痛そうです




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      綺麗な海の横に日向製錬所があります



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      海神社は、水産業・農業をはじめ水によって生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神でもあります。

      水を汚すと逮捕されることがあります。
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      転載元: 観光立国のブログ

      [転載]津山事件1938年

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      津山事件

         
      津山事件 場所 日付 標的 武器 死亡者 負傷者 犯人 動機 対処
      犯人の都井睦雄
      岡山県苫田郡西加茂村大字行重
      1938年昭和13年)5月21日
      同村の村民
      日本刀猟銃
      30名
      3名
      都井睦雄
      怨恨
      犯人の自殺により終結
      津山事件の発生位置
      津山事件の発生位置
      津山事件の発生位置
      津山事件の発生位置

       津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件[1]。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。
       2時間足らずで30名(自殺した犯人を含めると31名)が死亡し、3名が重軽傷を負うという、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本犯罪史上前代未聞の殺戮事件である。

      事件発生以前

      幼少期からの生活

       犯人の都井睦雄(とい むつお)は1917年大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれた。2歳のときに父を、3歳のときに母を、ともに肺結核で亡くしたため[2]、祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。さらに、睦雄が6歳のときに一家(祖母・姉・睦雄、戸主は睦雄)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。

       都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができた。祖母は自身の体調不良などを理由に、都井に家にいることを要求したため、都井の尋常高等小学校への就学は1年遅れ、就学後もたびたび欠席を余儀なくされたが成績は優秀だった。その後担任教師に「上の学校」への進学を勧められたが、祖母に反対されたために断念せざるを得なくなった[疑問点]

       都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学したが、姉が結婚した頃から徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていき、同年代の人間と関わることはなかった。一方で、自身が子供向けに作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博した[疑問点]。さらに、近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになっていった。

       しかし都井は事件の前年の1937年(昭和12年)に徴兵検査を受けた際、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。その頃から、都井はこれまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになった[3]

      凶器の入手

       同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った[4]。都井はこの頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。

       しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀短刀匕首などを押収され、猟銃免許も取り消された。

       都井はこの一件により凶器類をすべて失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなどの方法により、再び凶器類を揃え、犯行準備を進めていった。
       そして、以前懇意にしていたものの、その後都井の元から去って他の村へ嫁いだ女性が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行が行われた。

      犯行当日

      犯行準備

       都井は事件の数日前から実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていた。さらに自ら自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど(当時、西加茂村駐在所の巡査は出征で欠員中だった)、犯行に向け周到な準備を進めていたことが後の捜査で判明している。自分の姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」という内容である。

       1938年(昭和13年)5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。

       翌5月21日1時40分頃、都井は行動を開始する。詰襟学生服に軍用のゲートル地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のナショナルランプ[5]を提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。

      決行

       都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首をではねて即死させた。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。

       被害者たちの証言によると、この一連の凶行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲した(老婆は致命傷を負い、後に死亡した)。

       しかしある宅の老人は、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。

       またある宅でも、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。

       都井の凶行はさらに続き、最終的に事件の被害者は死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名にのぼった。
       死者のうち5名が16歳未満である。計11軒の家が押し入られ、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家が生存者1名のみとなった。押し入られた家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れている。

      自殺と遺書

       そして約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。
       家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子供が以前から都井の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子供に頼み鉛筆と紙を譲り受けた。
       都井は去り際にこの子供へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。

       その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて[6]、追加の遺書を書いた後、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。

       都井は遺書の中で、この日に犯行を起こす決意をしたのは、以前都井と関係があったにもかかわらず他家に嫁いだ女性が、貝尾に里帰りしていたからとしている。しかし、この女性は実家に都井が踏み込んで来たときに逃げ出して助かり、逆に逃げ込んだ家の家人が射殺される場面もあった。
       他にもかねてから殺すつもりの相手が他所へ引っ越したり、他者の妨害にあったりして殺害することができなかったことと併せて、都井は「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」として反省している。

       また、同じく遺書には、真っ先に祖母を手に掛けたのは、「後に残る不びんを考えてつい」と書かれている。

      「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書

       愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、
       姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

       思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
      (犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)。


      事件後

      津山事件の犠牲者と遺族

       この事件は、前代未聞の惨劇として、ラジオ新聞などのマスコミがセンセーショナルに報道して、『少年倶楽部』までもこの事件を特集するほどだった。

       この事件が貝尾集落に与えた影響は大きく、前述のように、一家全滅したところもあれば一家の大部分を失ったところもあり、集落の大部分が農業で生計を立てているため、かなり生活が苦しくなったとされている。さらに、都井の親族であり、都井から襲撃を受けることのなかった一家が、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分に近い扱いを受けたともいわれている。

       また、当時の識者の間では、警察の取締りの不備を強く批判するものが多かったが、中には、1913年(大正2年)にドイツで起こった「ワグナー事件」との類似性を指摘し、都井の自殺を惜しんで「ぜひとも医学上の研究対象にすべきだった」との声もあった。
       事件後、犯人の都井が警察による取り調べを受ける前に自殺し、さらに多くの被害者が亡くなったため、生存者による証言しか残っていない。
       しかし、生存者のほとんどが亡くなった被害者の誰かしらと親類関係がある状態で、すべての罪を都井にかぶせるようなものが多いという意見もある。
       さらに、都井が死亡した以上、例えば都井と関係があったと噂される女性でも本人が否定してしまえば確認する方法はなく、事実関係が不明な部分も多く残った。また、この事件の発生から70年以上が経った現在でも、現地でこの事件に言及することはタブー視されている[7]

      近年

      事件発生現場の現在

       事件現場である貝尾集落は、周辺集落のなかでも一番山際にあたる部分にある。津山市から美作加茂を経由しアクセスすると、行重を通り抜けて南東の坂元集落へと至る。
       その道をさらに車で登っていくと途中に小さく貝尾と書かれた青い看板がある。そこが貝尾集落の入り口となる。その看板の先で道路が二股に分かれており、右が貝尾集落の中心部へ、左にいくと貝尾の集会所へと至る。いずれの道も貝尾部落を抜けると同時に車の通行が不可能な山道へと変わる。
       先の二股を右へ行くと左に折れる細い道と交わる交差点があるが、そこが貝尾集落の中心地である(この交差点を左にいけば、貝尾の集会所へと続く)。この交差点を中心にした付近の家々で津山事件は発生した。

       付近には、昔ながらの墓所が点在しており、多数の墓石没年月日が“昭和十三年五月二十一日”と刻まれている。このことから津山事件による被害者の墓であることがわかる[8]

      70年後の証言

       事件発生からちょうど70年後にあたる2008年(平成20年)、『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井睦雄は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている[8]

       なお、当時村に残っていたとされている夜這いの風習についてはこれを強く否定している[8]。ただし、彼の配偶者であった人物も当時、都井との関係があったとされており、また都井が残した遺書にその名前が記載されており、事件を決行することにした理由のひとつとして彼女の帰郷を挙げていることから、この証言については偏りがある可能性を否めない。

       この証言内容については明らかに誤った内容があり、証言も含めた記事内容は信憑性の薄いものである[9]

       2008年7月21日放送のテレビ朝日スーパーモーニングにて、実際の被害者数は36人[要出典]だと村人から証言を得た。夜這いの風習が当時はあったと村人は認め、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと村人が証言した。
       容疑者には当時幼なじみと婚約しており、肺結核に感染した容疑者と幼なじみの女性の結婚を反対した集落の人々のこともあり、二人は破局、女性は別の男性と結婚した。
       容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核の自身の悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は現在90歳を超えており、被害を作った張本人として集落からは、70年経った現在も孤立している。

      転載元: 正義を学ぶ教育のブログ

      [転載]「日本電気製鉄」富島工場 平成20年4月25日 宮崎県が、日向製錬所 旧細島工場跡地の地下水から、ヒ素、フッ素、セレンが基準を超えて検出されたので、防止対策と原因調査を指導する。

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      ?年 日向市及び宮崎県において、環境と経済の好循環が生まれ発展する。

      ?年 日向市及び宮崎県において、不法投棄が減少する。

      ?年 日向市及び宮崎県において、環境法規制順守の機運ひろまる。

      ?年 和解


      ?年 被告の主婦が、日向精錬所らを誣告罪で提訴


      ?年 被告の主婦の無罪が確定





      平成27年4月24日(金)午前11時00分、宮崎地方裁判所延岡支部にて第四回目の裁判が行われる。







      2015年(平成27年)4月1日 日向市長が、日向市西川内地区におけるグリーンサンドを使用した造成工事に係る騒音規制法及び振動規制法に規定する特定建設作業届出がなされていないことを文書で公開する。




      2015年(平成27年)4月1日 宮崎県知事が、日向市西川内地区におけるグリーンサンドを使用した造成工事に係る建設リサイクル法に基づく届出はなされていないことを文書で公開する。



      2015年(平成27年)3月4日 宮崎県知事が、日向市西川内地区におけるグリーンサンドを使用した造成工事に係る土壌汚染対策法第4条に基づく届出はなされていないことを文書で公開する。







      2015年(平成27年)3月4日 平成26年(ワ)第86号(ワ)第89号 損害賠償等請求事件の第3回口頭審理においてAが、水質等の検査を証する『計量証明書』を提出する[12]


      2015年(平成27年)2月4日 平成26年(ワ)第86号(ワ)第89号 損害賠償等請求事件の第2回口頭審理が実施される 。

      2014年(平成26年)11月 宮崎地方裁判所延岡支部が、原告の㈱日向精錬所及び有限会社サンアイから、訴訟を併合して審議することをAに通告した。


      2014年(平成26年)11月4日 宮崎県のホームページに、「グリーンサンド(フェロニッケルスラグ)に関することについて」を掲載する



      2014年(平成26年)8月 宮崎県は、「グリーンサンド」で土地造成された西川内地区周辺水域の水質検査(カドミウム、総水銀、セレン、鉛、六価クロム、ヒ素、全シアン、フッ素、ホウ素)を実施した。


      2014年(平成26年)1月10日付 被告の主婦の家族らが鈴木富士夫日向市議員に対して直訴状を送り、情報公開や被害が出た場合の責任の所在を明確にするように求める。


      2013年(平成25年)10月24日 日向市長が日向市富高字山下1959-1、1960、1961、1962の山林 8634m2における開発行為の種類を「盛土造成」として、土地開発届出書を条件付きで受理 。





      意見
      本開発行為面積の排水は調整池に流させる計画である。
      計算上は、調整池でカバーできるようになっているが、想定以上の豪雨があった場合(調整池を超えた場合)、県管理河川西川内川への影響が懸念される。
       県(日向土木事務所)は、この計画に関し、許可を出す立場ではなく、工事搬入路にかかる占用、工作物設置の許可を出しているが、将来、土砂などが西川内川へ混入した場合の土砂除去等の対応処理を確実に開発行為者であることを確認しておくことが必要と考えます。


      2013年 平成25年10月1日 富高字山下1959他の土地開発行為届出


      2013年6月3日 被告主婦は一人でに原告企業を訪れて、責任の所在を明確にすることを要求

      平成25年3月29日 環廃産発第1303299号「行政処分の指針について(通知)」
      廃棄物該当性の判断について

      環境省が、都道府県(「政令市」を含む)に対し、違反行為が継続し、生活環境の保全上の支障を生ずる事態を招くことを未然に防止し、廃棄物の適正処理を確保するとともに、廃棄物処理に対する国民の不信感を払拭するため、「行政処分の指針について(通知)」を踏まえ、積極的かつ厳正に行政処分を実施するようさらに通知する。




      2012年(平成24年)10月 宮崎県は、「グリーンサンド」で土地造成された西川内地区周辺水域の水質検査(カドミウム、総水銀、セレン、鉛、六価クロム、ヒ素、全シアン、フッ素、ホウ素)を実施した[6]




      2012年9月26日、被告、保健所へ行く。 子供の咳が出て困る。

      2012年9月25日、被告第二工区へ出向く。 子供の咳が出て困るので、造成工事をやめるように伝える。

      2012年8月?〜 この頃、建設リサイクル法の届出をせず

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      平成24年8月10日
      計量証明書
      (公)宮崎県環境科学協会  No 水質2012-01529

      試料名:宮崎県日向市大字富高字山下2003番地1

      ・環境計量士 かい


      カドミウム  0.0096 (mg/l)
      総水銀    0.0073(mg/l)
      セレン    0.030 (mg/l) 3倍
      鉛      2.1  (mg/l)210倍
      六価クロム  0.02 (mg/l)
      ヒ素     0.52 (mg/l)
      シアン    0.1  (mg/l)未満
      フッ素    20  (mg/l)
      ホウ素    0.23 (mg/l)
      水素イオン濃度  6.9(27℃)


      主婦は、携帯電話で採取方法を聞いて、採取しました。

      かし・・・さんは、主婦に計量証明書の内容を説明しました。



      平成24年7月末 日向市西川内地区
      【水質検査】採水したのは第一工区沈殿池です。「GREEN SAND」という日向製錬所のパンフレットに重金属の検査がしてありましたのでその項目で検査機関に相談しました。
       指導された通りのやり方で水を汲み、当時の沈殿池は水が黒く濁っており吐き気のする耐え難い臭いがありました。
      被告 陳述書より
      平成24年7月31日に、公益財団法人宮崎県環境科学協会に試料を持ち込む。
      宮崎県環境科学協会は、その水から高濃度の鉛や、環境基準を超えるセレンを検出した。


      2012年(平成24年) 7月12日 西川内地区グリーンサンド説明会 。

      2012年(平成24年)6月25日 宮崎県は、日向精錬所のある日向市船場町1番2の一部、2番1の一部及び3番3の一部並びに日向市大字日知屋字ウノハイ15807番2の一部の51,937平方メートルを六価クロム及び鉛が基準超過していることにより土壌汚染対策法における形質変更時要届出区域に指定した。

      2012年(平成24年)3月13日 日向市長が日向市富高字山下2003番地 山林 6424m2及び、日向市富高字永菖蒲2035番地 山林 7900m2における開発行為の種類を「グリーンサンドによる埋立」として、土地開発届出書を条件付きで受理。


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      2012年2月20日 富高永菖蒲2035及び富高字山下2003番地1 開発行為を届出



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      2009年頃 日向精錬所後背地の山林に精錬残渣を置いていることが空中写真で確認できる。

             海神社付近に精錬残渣が流出したようにも見え

      平成20年4月25日 宮崎県知事が、日向製錬所 旧細島工場跡地の地下水から、ヒ素、フッ素、セレンが基準を超えて検出されたので、防止対策と原因調査を指導する。

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      商号イビデン株式会社
      設立1912年(大正元年)11月25日
      本社所在地 岐阜県大垣市神田町2-1

      1918年(大正7年)12月
      揖斐川電化工業、東海電化工業、日本電気製鉄所の3社を合併、社名を「揖斐川電化株式会社」に変更 
      社員行動基準
      (1) 環境への配慮
      製品開発、生産、物流活動を行うにあたり、環境への影響、資源の保護、廃棄物やエネルギーの低減などを考え、事業活動に取り組みます。
      それぞれの立場で環境保全活動を行います。
      (2) 化学物質の適切な管理
       職場で扱う様々な化学物質の特性を理解し、決められた手順を守って管理、使用します。緊急の事態には、化学物質安全シートに基づいて適切な対応をとります。
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          日向市立図書館 (2310182)日向市-155
          2015年02月16日2015年02月16日 15時59分2015年02月21日 16時30分
          イオン日向の前には何があったのか知りたい。
          現在のイオン日向があった辺り(日向市日知屋古田町)は戦前は畑地と水田(資料①)

          1939年:現在のイオン日向があった辺りと思われる土地に「伏見鉄工」を宮崎県知事が誘致。(所在地住所などは確認できないため資料②記述より推測)

          1943年:同地に別会社として「日本電気製鉄」富島工場を設立(所在地住所などは確認できないため資料②記述より推測)

          1954年:「日本電気製鉄」富島工場閉鎖(所在地住所などは確認できないため資料②記述より推測)

          1956年:現在のイオン日向所在地(日向市日知屋古田町)に「日向製錬所」設立

          1968年:「日向製錬所」が古田町から日向市船場町へ移転。

          2000年10月7日:ロックタウン日向(現在のイオン日向)が古田町にOPEN

          上記内容を電話でお伝えし、参考資料を郵送した。
          イオン日向のHPをYahoo!JAPANで検索。
           ⇒照会先①:設立年など詳しい情報は記載がなかった。
            照会先②:(前略)日向精錬所跡地に(中略)2000年10月7日にロックタウン日向として開店した。

          「日向製錬所」を自館資料検索でフルテキスト検索。
           ⇒資料②が該当 p.13~15に「日向製錬所」設立までの概要についての記述あり。

          資料②には記載がない、1939年以前は何があったのかが分からなかったため、元日向市史編纂室の黒木さんに質問してみることに。
           ⇒資料①に戦前の富高平野(現在の日向市日知屋古田町辺り)は畑地と水田であったとの記事を書いた、と教えて頂き、資料のコピーを頂く。

          以上までの調査内容を利用者に電話で伝えたところ、「日向製錬所が古田町から移転したのはいつか?また参考にした資料も欲しい。」との要望を追加でいただいたので引き続き調査することに。

          資料②は昭和61(1986)年発行のため、現在までの「日向製錬所」の概要については記載がなく、日向製錬所のHP(照会先③)でも移転日付が分からなかったため、(株)日向製錬所に直接問い合わせることに(照会先④)。
           ⇒(株)日向製錬所 総務部 様より移転日は昭和43(1968)年3月と教えて頂き、現在のイオン日向がある土地は日向製錬所の所有で貸出をしていると教えて頂いた。

          念のため、自館所蔵のゼンリン地図で同地の変遷を確認することに。
           ⇒1967年:日向製錬所の工場建物所在確認(資料③p.16(自館所蔵で一番古いゼンリン))
            1983年:工場建物所在確認(資料④p.23,24,43,44)
             ※1984年、1985年版のゼンリンの所蔵が自館に無し
            1986年:工場建物が地図上から無くなる(資料⑤p.79、80 )
            1999年:グランド確認(日向製錬所の土地なので日向製錬所のものか?)(資料⑥p.79、80)
            2000年:ロックタウン日向(現在のイオン日向)建物所在確認(資料⑦p.79、80)

          内容をエクセル表にまとめて、参考資料と一緒に準備し、郵送した。
          九州地方  (219 9版)
          ①『じゅぴあ』2014年8-9月号 じゅぴあ財団 2014年 (530283324)
          ②『日向製錬所25年史』 日向製錬所25年史編集委員会/編 日向製錬所 1986年 (519171383)
          http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001877340-00
          ③『日向市』 67 善隣出版社 1967年 (519174585)
          ④『日向市』 ’83 善隣出版社 1983年 (519174726)
          ⑤『日向市』 ’86 ゼンリン 1986年 (519174718)
          ⑥『日向市』 ’99 ゼンリン 1999年 (519265557)
          ⑦『日向市』  2000 ゼンリン 2000年 (519302632)
          イオン日向
          ロックタウン日向
          日向製錬所
          日本電気製鉄 富島工場
          伏見鉄工
          〔イオン日向店公式HP/「イオン日向」〕① http://hyuga.aeonkyushu.com/ (2015年2月16日最終確認)
          〔イオンタウン日向(Wikipedeia)/「イオン日向」〕② http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E6%97%A5%E5%90%91 (2015年2月16日最終確認)
          〔住友金属鉱山株式会社 拠点紹介/「日向製錬所」〕③ http://www.smm.co.jp/business/refining/group_domestic/hyuga/kyoten.html (2015年2月16日最終確認)
          ④(株)日向製錬所 総務部(0982-52-8101)
          元日向市史編纂室 黒木 和政さん
          事実調査
          郷土
          社会人
          1000167781

          イオン日向店所在地調査の概略

          転載元: みんなできれいにしよう



          イオン日向の沿革

           1998年12月11日にロック開発が日向精錬所跡地に旭ジャスコ[1]を核とするショッピングセンターの出店計画を県に提出し[2]、2000年10月7日にロックタウン日向として開店した[3]
           2011年9月1日にロック開発がイオンの完全子会社となりイオンタウンと改称されたことに伴って、ショッピングセンターの名称を「イオンタウン日向」に変更した。

          特徴

           地上2階建て。イオン日向店は大型ショッピング施設イオンタウン日向の中核店舗の一つである。北側に隣接している道路は、廃線になった日本貨物鉄道(JR貨物)日豊本線貨物支線(通称細島線)の路線跡。

          細島線(ほそしません)は、宮崎県日向市日向市駅から細島駅の間を結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。

           日向市駅(当線開業当時は富高駅)から東進し、現在の日向市東端部の海沿いにある細島港へ至る路線として建設され、宮崎本線(現・日豊本線美々津 - 富高間と同時に開業した。
           戦後には区間内に新駅(伊勢ヶ浜駅)の設置も行われたが、1972年に旅客営業を廃止して日豊本線の貨物支線となった。

          国鉄分割民営化により日本貨物鉄道(JR貨物)に承継されたが、1989年に休止されたのち廃止となった。

          路線データ

          • 管轄:日本国有鉄道(細島線として旅客営業時)
          • 路線距離(営業キロ):3.5km
          • 軌間:1067mm
          • 駅数:3駅(起終点駅、伊勢ヶ浜駅含む)
          • 複線区間:なし(全線単線
          • 電化区間:なし(全線非電化
          • 閉塞方式:票券閉塞式

          歴史

          • 1921年(大正10年)10月11日富高 - 細島間を細島軽便線として開業。細島駅を新設
          • 1922年(大正11年)9月2日軽便鉄道法廃止により細島線と改称
          • 1928年(昭和3年)8月4日 蒸気動車運行開始(延岡-細島間)[1]
          • 1957年(昭和32年)2月1日伊勢ヶ浜駅を新設
          • 1963年(昭和38年)5月25日富高駅を日向市駅と改称
          • 1972年(昭和47年)2月1日 全線の旅客営業を廃止。同時に日豊本線に編入され同線の貨物支線となる。伊勢ヶ浜駅を廃止
          • 1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化に伴いJR貨物が第1種鉄道事業として承継
          • 1989年(平成元年)12月1日全線休止。(貨)細島駅を休止
          • 1993年(平成5年)12月1日 全線廃止。(貨)細島駅を廃止
           

           細島駅(ほそしまえき)は、かつて宮崎県日向市細島にあった日本貨物鉄道(JR貨物)日豊本線貨物支線(通称細島線)の貨物駅廃駅)である。
          前身の日本国有鉄道(国鉄)時代の1972年(昭和47年)まで、旅客営業も行っていた。

          1921年大正10年)10月11日 - 細島軽便線の駅として開業。 1922年(大正11年)9月2日 - 国鉄細島線の駅となる。 1968年昭和43年)4月10日 - 合理化により出札窓口無人化。 1972年(昭和47年)2月1日 - 旅客営業廃止。 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR貨物の駅となる。 1989年平成元年)12月1日 - 休止。 1993年(平成5年)12月1日 - 廃止。

          当社所有地における土壌汚染について

          伊勢ヶ浜駅
          (いせがはまえき)は、かつて宮崎県日向市にあった、日本国有鉄道(国鉄)細島線廃駅)である。
           1972年(昭和47年)の細島線旅客営業廃止により廃止となった。廃止時、朝の上り列車1本は通過していたため、夕方以降の2往復しか当駅からは利用できなかった。
           細島線が日豊本線の貨物支線として休止を経て1993年(平成5年)に廃止されて以後、しばらく路盤は放置されていたが整備され歩道になっており、近くには細島線があったことを示す案内碑が立っている。なお、駅名の由来である伊勢ヶ浜までは直線距離で1.3kmほどある。





          九州旅客鉄道株式会社所有地における土壌汚染について

          平成19 年3 月9 日

           豊肥久大運輸センター跡地(大分市)につきまして、跡地利用を考慮し、「土壌汚染対策法」(以下、「土対法」という。)の調査方法に準拠した任意による土壌汚染調査を行った結果、一部区域から土対法に指定された特定有害物質が基準値を超えて検出されました。措置につきましては、大分市環境部のご指導を受けながら、当社において適切に行って参ります。

          1. 調査結果
           大分駅南側にありました豊肥久大運輸センターは、大分駅付近連続立体交差事業により昨年3 月に移転し、現在、跡地の撤去工事を行っております。
           調査、措置につきましては、大分市環境部のご指導を受けております。

          ○調査結果
          ・調査対象面積約6.4ha を約100 ㎡/区画の708 区画に分割し、現在、その中の627 区画において調査が完了しております。
          ・627 区画中、44 区画において土対法の基準値を超える鉛が、また、1 区画において砒素が次表のとおり検出されました。
          調査対象面積 約6.4ha
          特定有害物質 鉛 砒素
          汚染面積 約0.4ha 
                 約0.01ha
          汚染深度 表層~1.0m
               表層~0.5m
          含有量の平均値(基準値*1) 414mg/kg*2 (150mg/kg)
               基準値以下(150mg/kg)
          溶出量の平均値(基準値*1) 0.04mg/L*2 (0.01mg/L)
                     0.013mg/L(0.01mg/L)
          *1:土対法における指定基準値
          *2:基準値を超えた区画の平均値
          ・水質調査:地下水においては、「環境基本法に基づく地下水に係る環境基準値」を超える特定有害物質は検出されていません。

          2. 推定される原因
          ・鉛については、跡地の履歴や作業内容などからSL等の旧型車両の部品などに使用されていたものと考えられます。
          ・砒素については、使用履歴がないため、自然由来と考えられます。

          3. 汚染土壌の措置について
          ・措置につきましては、大分市環境部のご指導を受けながら、当社において適切に行って参ります。

          イオン日向の環境保全

          2008年4月に環境基準を超過する地下水が存在することが報道された[4]。これを受け、宮崎県は地下水調査を行い、ヒ素、フッ素及び、セレンが環境基準を超過して検出されたことを確認した上で、日向製錬所に対して流出防止対策及び原因調査を行うよう通知した[5]


          イオンタウン日向の概略

          日向市内の行政の地下水調査において、この5年間にヒ素が検出されたのは環境基準の1.4倍までとの

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          日向市内の行政の地下水調査において、この5年間にヒ素が検出されたのは環境基準の1.4倍までとの報告が信頼される筋からあった。
          女神と呼ばれるようになった日向市の主婦が、平成24年7月西川内地区で採取した水は、環境基準の52倍のヒ素が含まれていた。日向市はヒ素の比較的高い地域であるが、環境基準の52倍は自然的原因によることは考え難く人為的な汚染であり、極めて高濃度であると考えざるを得ない。

          【鉛210倍ヒ素50倍フッ素20倍総水銀15倍カドミウム3倍セレン3倍検出】


          一工区

          平成24年8月10日
          計量証明書
          (公)宮崎県環境科学協会  No 水質2012-01529

          試料名:宮崎県日向市大字富高字山下2003番地1

          ・環境計量士 かい


          カドミウム  0.0096 (mg/l)
          総水銀    0.0073(mg/l)
          セレン    0.030 (mg/l) 3倍
          鉛      2.1  (mg/l)210倍
          六価クロム  0.02 (mg/l)
          ヒ素     0.52 (mg/l)
          シアン    0.1  (mg/l)未満
          フッ素    20  (mg/l)
          ホウ素    0.23 (mg/l)
          水素イオン濃度  6.9(27℃)


          主婦は、携帯電話で採取方法を聞いて、採取しました。

          かし・・・さんは、主婦に計量証明書の内容を説明しました。

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          宮崎県はセレンの水質汚は無いと言っていますが

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          旧日向製錬所 細島工場跡地からヒ素、フッ素、セレンが検出されています。
          鉛は、検出されていません。



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          青梅市 土壌汚染 で検索

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          www.kankyo.metro.tokyo.jp/.../contact_guide.html - キャッシュ
          届出先一覧. 事業所の所在する 区 ・ 市 (町村・留保工場は 多摩環境事務所 、島嶼は 都庁環境局 )に届出を行ってください。 ... 青梅市, 〒198-8701, 青梅市東青梅 ... 提言・ 要望等: 化学物質・土壌汚染対策に関する提言・要望等は、こちらからお寄せください。
          www.kankyo.metro.tokyo.jp > ... > 土壌汚染対策 - キャッシュ
          平成22年4月1日に改正された土壌汚染対策法が施行されました。 この改正により、 有害物質使用特定施設の使用を廃止したときなどに土壌汚染状況調査を実施すること のほか、一定規模以上の土地の形質変更の際に届出することが義務付けられました。
          東京都青梅市にある土壌汚染測定分析を紹介します。周辺のお店、施設、観光スポット 、イベント情報、天気予報、防災情報も検索できます。主な情報提供元はタウンページ、 ぐるなび、ホットペッパー、ゼンリン、日本気象協会、国土交通省、ウィキペディアなど。
          www.city.ome.tokyo.jp/.../41490101003400000000.ht... - キャッシュ
          (2) 公害 環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当 範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(雨水および地下水の汚染を含む。)、土壌汚染、騒音、振動、悪臭等によって、人の健康または生活環境に被害が生ずることを いう ...

          [転載]元寇750年イベントにご意見募集(転載歓迎)

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          元寇を忘れるな!
          元寇750年イベントにご意見募集
           
          1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
           
          ご意見を募集します。
           
           
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          元寇七〇〇年平和之碑
           
           
           
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          元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
           
           
           
           
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          壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
           
           
           
           
           
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          元寇750周年イベントに対するご意見
          ※下記のことをして欲しいと思います。
          <対馬>
          ・対馬厳原 元寇上陸地 小茂田神社における元寇750年平和記念碑建立
          ・       御胴塚 御首塚の整備
           
          <壱岐>
          ・島内各所に散在する千人塚の整備
          ・少弐の墓の整備
           
          <長門>
          ・元寇上陸地点標識整備
           
          <鷹島>
          ・世界史上最大の海軍が集結した状況の再現
           
           
          ※ご寄付受入れ先
          <対馬>
          ・小茂田神社、御胴塚、御首塚、対馬市
          <壱岐>
          ・壱岐神社、少弐の墓前、各千人塚
           
           
           
           

          転載元: 海洋文化交流のブログ

          [転載]日向市 富高鉱山。 平成26年度 休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託は不落です。なぜだろう?汚泥処理費は??

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          www.jstage.jst.go.jp/article/jagh/52/3/52_3.../ja/

          休廃止鉱山である宮崎県富高鉱山では、砒素を含む坑内水が未処理のまま河川へ排水されており、将来的な対策として中和処理が検討されている。地表踏査やボーリング調査、鉱山の既存情報から、梅ヒ断層及び二坑ヒ断層に挟まれた区域では高透水性領域が形成されていることが想定される。大王山斜面から涵養した降水は高透水性領域の不飽和部を経て地下水面に達した後、地形的に低い周囲の河川へ流動しているものと考えられる。概念モデルをベースに数値モデルを構築し、降雨と坑内水流量及び地下水位との応答再現を試みた。その結果、おおよそ実測値と整合的な計算結果が得られ、概念モデルの妥当性を示すものと評価できる。
          www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/shoko/.../402tomi.htm - キャッシュ


          鉱床名富 高
          位置・交通日向市日知屋。
          沿 革明治初年に開発。昭和27~30年代にかけて稼行。
          昭和43年廃山。
          地質・鉱床四万十累層群の砂岩・頁岩分布し、走向N60E゜~N70゜E、傾斜20゜~40゜Nを示す。近隣に花崗斑岩の小岩脈が露出。
          NS系断層があり、鉱床はこの断層に平行に走る。鉱脈は水平延長50~100m脈巾30~50cmで砂岩中で富化する傾向がある。
          盤際には硫化物を含む粘土がある。母岩は珪化。
          鉱 石黄鉄鉱を主とし、少量の磁硫鉄鉱・閃亜鉛鉱など。  S 30%±
          備 考 



          ci.nii.ac.jp/naid/10026623658 - キャッシュ


          休廃止鉱山である宮崎県富高鉱山では、砒素を含む坑内水が未処理のまま河川へ排水されており、将来的な対策として中和処理が検討されている。地表踏査やボーリング調査、鉱山の既存情報から、梅ヒ断層及び二坑ヒ断層に挟まれた区域では高透水性領域が形成されていることが想定される。大王山斜面から涵養した降水は高透水性領域の不飽和部を経て地下水面に達した後、地形的に低い周囲の河川へ流動しているものと考えられる。概念モデルをベースに数値モデルを構築し、降雨と坑内水流量及び地下水位との応答再現を試みた。その結果、おおよそ実測値と整合的な計算結果が得られ、概念モデルの妥当性を示すものと評価できる。
          In the Tomitaka abandoned mine, mine drainage containing arsenic has drained into the sea without any processing and a neutralizing process is discussed to be necessary. From the field study, boring investigation and the existing data, the rock between the Umehi fault and Nikohi fault is assumed to be a high permeability zone. It is considered that precipitation infiltrates from mountain-side of Mt. Daiosan, groundwater passes through unsaturated high permeability zone and then flows into the lower rivers around Mt. Daiosan and mine levels. The numerical model is built based on the conceptual model containing the influence of precipitation on both mine drainage flow rate and groundwater level. As the result is nearly consistent with the measured value, the conceptual model is thought to be moderate.

          www.47news.jp/CI/200910/CI-20091024-00182.html - キャッシュ
          富高鉱山の水からヒ素 日向市が対策工事へ. 日向市日知屋の旧富高鉱山から出た 水に環境基準を超えるヒ素や鉛が含まれ、細島港に放出されているとして… [記事全文]. 2009/10/24 08:05 【宮崎日日新聞】. Ads by Google ...
          www.city.hyuga.miyazaki.jp/chotatsu/shosai.php?fname=./...

          休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託 入札結果 詳細


          事項名休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託
          所管生活環境部 環境整備課 環境公害係
          入札日時平成 24年 2月 20日 午後 2時 0分
          期間 ~ 平成 24年 3月 30日
          予定価格********
          最低制限価格--
          落札額867,000 円

          番号入札者氏名第1回入札高第2回入札高適用
          1(有)クリーン日向875,000  
          2(株)日向衛生公社867,000 落札
          12022001
          担当課 所在地 電話番号
          総務部 総務課
          〒883-8555 宮崎県日向市本町10番5号
          0982-52-2111
          www.gsj.jp/data/.../GSJ_MAP_G050_15053_1956_D.p...



          I. 地   形
           本地域は宮崎県北部,日向灘に面する海岸地帯にあり,黒潮暖琉に洗われて,気候
          は温暖・湿潤,動植物景観も亜熱帯的要素を含んでいる。
           この地域の山系は,豊後水道から南西方へ熊本・宮崎県境沿いに九州南部を斜断す
          る九州山脈の南翼に当っているが,高度はあまり大きくなく,800 mを超えるところ
          はない。図幅地域北半部では,九州山脈の支脈に相当する山嶺がNE‒SW方向に並
          走している。殊に北西隅の駒瀬山(652 m)を主峯とするものおよび北中部の唐松山


          図版1 細島半島米ノ山から北西方,四万十層群からなる日向山地東緣部を望む
               2條に連なる山嶺はそれぞれ唐松山を主峯とする中部砂岩帯と,駒山を主峯とする西部
               砂岩帯を示している。中部砂岩帯にあたる前面の山嶺はあたかも断層崖のような急斜面を
               もって東部頁岩帯の丘陵に移化し,地形的に明瞭に区別できる。左方遠景は富高市街の一
               部。右方眼下は細島港。細島港を抱く前景の独立丘はそれぞれ尾鈴酸性岩類からなる。


          (428.2 m)を主峯とするものの2条の山嶺が著しいもので,いずれも中生層と思われ
          る砂岩・頁岩からなっている(図版1)。このような地形的配列は日向山地全域に見ら
          れ,地質の帯状溝造に支配されたものとみられる。

           これに対して図幅地域南東半では山地は主として石英斑岩および流紋岩からなり,
          その山形は全般的に緩やかで,処々に海抜100~200 mの丘陵状の地形が発達してい
          る。日平・鵜毛・籾木・鵜戸木および日田尾などには海抜100 m以上の所に,狭い
          けれども平地がつくられている。しかし西部では冠嶽などの海抜400~600 mのかな
          り急峻な山地が認められる(図版7)。なお,耳川がこの火成岩山地を貫流する所で
          は,両岸が急崖となっていることが多い。

           流紋岩および石英斑岩にはほゞ直立する柱状節理や,また水平ないしは緩く傾く曲
          面をつくる節理が発達している(第1図)。これらの節理面は侵蝕風化に際して影響を
          与えることが多い。すなわち水平方向の節理面に沿って風化が進行した結果,階段状
          の地形をつくっていることが少なくない(第2図)。こうしてできた狭い平地は細島な
          どで見られるように,耕地として利用されていることも多い。海岸・耳川沿岸および
          冠嶽,そのほかの山頂に近い部分の急崖は柱状節理に支配されていることが多い。

           山系は全般的にENE‒WSW方向に平行して走っているので,日向灘に注ぐ各河川
          は,いずれも山系を横断する方向に,先行性曲流に富む横谷を形成している。そのお
          もなものは五十鈴川・耳川である。

           各河川沿岸には段丘が発達し,特に耳川・坪谷川・塩見川沿岸には,更新世後期の
          河床面とみられる段丘の分布が著しい。段丘上には処々に,阿蘇火山噴出物であるい
          わゆる灰石が載っている。段丘面と現河床面との比高は20~30 mである。岩脇から
          美々津に至る石英斑岩が分布する海岸には,高さ約20 mの平坦面が認められるが,
          この平坦面には石英斑岩の砕屑風化物が載っているだけで,外来物質はみられない。
          しかしおそらくこの平坦面は上記の河岸段丘に対比される隆起海蝕台であろう。
           図幅地域南西隅の坪谷川から山陰を経て,東方塩見川沿いに富高に至る線,遠見山
          半島中央部を,SW‒NEへ貫ぬく線,および富高から鉄道沿いに門川を経て,図幅地
          域外北方土々呂に至る線は,いずれも明瞭な断層地形を呈しているので,それらを便宜

          II. 3. 2 尾鈴酸性岩類
           本図幅地域の南東部を占めて広く露出する本岩類は,日向市を頂点とする3角形を
          つくって宮崎県の中北部にほゞ350 km2に亘る広い範囲を占めるものの一部である
          (図版5,7,8)。
           本岩類は門川町庵川・日向市細島および塩見川を連ねる線に沿って四万十層群およ
          び庵川礫岩層と接し,それらを被覆し,あるいは貫入する関係にある。塩見川沿岸な
          どで観察される接触部では,変成作用は著しく弱く,数m離れた地点ですでにその影
          響は認められない。
           本岩の形成時代については,四万十層群を不整合に覆う庵川礫岩層に対して,被覆
          あるいは貫入関係にあり,かつ南隣都農図幅地域などで,中新世後半以後の堆積物で
          ある宮崎層群に不整合に覆われているので,中新世前半に噴出したものと思われる。
           野外で観察すると,岩石は石英斑岩から石英粗面岩にいたるいくつかの岩相を含
          み,包有物に富み,浅所で形成された酸性岩体である。
           各岩相は連続的に変化し,色は灰黒色または優白色で,粒度は細粒から中粒に及ぶ
          が細粒,緻密なものが多く,細粒のものほど優黒色となる傾向がある。斜長石または
          石英の斑晶が増加し肥大してくると,岩体はやゝ粗粒で優白色の外観を呈してくる。
           岩石の構造は全体としてはほゞ均質であ
          るが,美々津町鵜戸木附近のように捕獲物
          の多い場合はかなり不均質となり,また著
          しくはないが流理構造が塩見川沿岸の貫入
          接触部や,岩体内部の美々津町石並川下流
          などで部分的に見られるが,その方向には
          規則性が少ない。
           捕獲物は一般に普遍的に含まれていて,
          多くは著しい変成作用を受け,おもに珪質
          および礬土質ホルンフェルスとなってい
          る。稀にはやゝ塩基性の捕獲物を含むこと
          もある。本岩体の北部,日向市山田―高森
          山―日平附近には円礫を多量に包有する細
          粒,優白色の岩相が約20 km2に亘って分
          布している。この場含,礫様捕獲物は珪岩
          がおもであるが,その産状は接触部附近の
          庵川礫岩の礫と類似するが同じものかどうかわからない。
           野外で注目される本岩類の特徴の1つは,節理がよく発達していることである(図
          版8)。節理は全岩体に亘って発達し,地形に大きな影響を与えている。おもに柱状
          節理で,一般にほゞ直立し,20~30 cmの幅ではいり,その水平断面はやゝ不規則な
          4辺形または6辺形となっている。この柱状節理に対して水平な節理面が別に発達
          し,広く連続的で,水平に近い曲面をつくっている。岩体の中央部附近,東郷村横瀬
          附近などでは煉瓦状に節理のはいっている場合もある。

           鏡下でみると,本岩は部分ごとに構成鉱物の量比および粒度が著しく変化し,部分
          的な流理構造および捕獲物の影響で,全岩体としてばかりでなく,1個の薄片のなか
          でも,構造・組織がかなり不均質であることが多い。一般に斑晶としては斜長石・石
          英および緑泥石の集合体(黒雲母を交代したものと考えられる)が多い。緑泥石集合体
          が黒雲母片を含んでいたり,淡緑色角閃石を交代していたり,あるいはそれらの苦土
          鉱物の代りに紫蘇輝石がおもな苦土質斑晶となっている岩相も局部的に見られる。石
          基は中粒ないし細粒の石英およびカリ長石からなり,少量の緑泥石・鉄鉱・燐灰石・
          ジルコンおよび時としては黒雲母片を混えている。

           斑晶の斜長石は大きさ8 mmに達するものまであり,自形で累帯構造を呈し,数
          種の型の組み合った双晶を示している。その成分はほゞ灰曹長石である。石英斑晶は
          石基が酸性であるのに,斜長石斑晶に比較してきわめて少量である。しかし分布は普
          遍的である。日向市永田山附近のように,小区域であるが斜長石に較べて石英の斑晶
          が著しく多い場合もある。斑晶の石英は多くは自形で,大きさ7 mmに達するものま
          であり,著しく融蝕していることが多い。緑泥石集合体は常に鉄鉱の小粒を混え,径
          3~8 mmの6角形の外形を示し,他形の黒雲母片を含むこともある。美々津町田原
          附近のものでは淡緑色角閃石斑晶が緑泥石集合体を交代して現われ,鉄鉱粒などを多
          量に包有している。紫蘇輝石を斑晶にもつ岩相は美々津町鵜戸木附近に発達し,紫蘇
          輝石はやゝ不規則な半自形で常に細かな鉄鉱粒を包有している。この岩相は菫青石の
          大きさ8 mmに達する巨晶を含む点でも特異なものである。

           石基はおもに大きさ0.05~0.2 mmの石英およびカリ長石の他形または半自形結
          晶からなっている。微文象構造がよく発達し,殊に美々津町美々津・日向市権現山お
          よび岩脇附近のものでは石基全体が微文象構造様になり,部分的に石英および長石が
          放射状に配列することもある。

           捕獲物は普遍的にしかし不均質に分布し,形は丸味を帯び,径数cm前後で小さい
          ことが多い。珪質捕獲物は石英・長石および少量の鉄鉱・黒雲母などからなり,礬土
          質包有物は黒雲母・石英・長石および少量の鉄鉱などからなっている。稀ではあるが
          紫蘇輝石―斜長石という,やゝ塩基性の組み合せも知られている。美々津町鵜戸木附
          近の紫蘇輝石石英斑岩中には,尖晶石・珪線石および菫青石からなる捕獲岩塊が認め
          られる。
           岩石の構造はかなり不均質で,例えば粗粒の石英が集まって,径1~10 cmの円形
          集合体をつくったり,捕獲物の周辺で石基が粗粒になったり,あるいは捕獲物の多い
          場合には斑晶の苦土鉱物の分布が不均質になることが多い。流理構造はおもに石基に
          やゝ粗粒の石英粒が集合して,数cmの幅で縞状構造をつくるものである。流理はレ
          ンズ状に尖滅することもあり,捕獲物をとりまいて眼球状に流れていることもある。
           一般に岩石は変質作用をうけていて苦土鉱物の大部分が緑泥石となり,斜長石斑晶
          は絹雲母化作用をうけ,捕獲物の菫青石はピナイト化作用をうけていることが多い。
           この酸性岩類は周囲の堆積岩に対して一部は被覆関係にあるほどで,全般として浅
          所の貫入岩である。したがって接触変成作用はきわめて微弱である。しかしそれにも
          かゝわらず,その捕獲物が著しい変成作用を受けていることは注目すべき事実で,こ
          のことは紀伊半島南部の熊野酸性岩類と共通した特徴であり,本岩が西南日本外帯の
          代表的な浅成ないし半深成岩の一員であることを示している。


          図版7 山陰附近,耳川の河岸に屹立する尾鈴酸性岩山地の断層崖
                    寫眞中の峯は冠嶽。左側は四万十層群山地の一部

          図版8 細島半島に露出する尾鈴酸性岩類の柱状節理


          III. 1. 3 硫化鉄鉱
           日向市富高北北東約2.5 kmの四万十層群中に富高鉱床があり,現在日本硫化鉱業
          株式会社によって富高鉱山として硫化鉄鉱の採掘が行われ,調査当時月産約300 tで
          硫安原料として延岡の旭化成株式会社硫安工場に売鉱されている。
           鉱山附近は高度数10 m程度の丘陵地で,現在までに採掘されている部分はほゞ海
          水準か,それより上であるが,今後は深部開発の必要に迫られると思われる。
           四万十層群は砂岩・頁岩からなり,頁岩中にもしばしば厚さ数cm程度の砂岩の薄
          層ないしレンズを挟む。一般走向N60~70°E,傾斜30~40°Nを示し,一部を除い
          て概して単斜構造をなしている。
           鉱山附近には,地層の一般走向をほゞ直角に切る断層系があり,鉱床はこれに平行
          な裂罅を充塡し,多少交代作用を行って生じた鉱脈群であって,それぞれ細長いレン
          ズ状をなして胚胎する。鉱石は硫化鉄鉱を主とし,少量の磁硫鉄鉱および閃亜鉛鉱を
          伴なう。上・下盤は著しく珪化作用をうけている。
           そのほか一般概況は次の通りである。
            𨫤幅平均 30~50 cm
             〃 最大 2 m
            現在までに稼行された主要𨫤 7本
            各𨫤延長 50~100 m
            粗鉱品位 S≒30 %
            最高品位 S≒50 %,Fe≒50 %
           分析結果の1例: S =44.67 %, Fe =41.41 %, Cu =0.14 %,Au =0.7 g/t,Ag =71g/t
           なお,富高鉱山周辺では,しばしば石英斑岩の小塊または石英脈が四万十層群を貫
          ぬき,これに局部的な擾乱と鉱化作用とを与えている。



          富高鉱山(宮崎県日向市)
          鉄・砒素を含む酸性坑内水が流出、河口汽水域に流入
          →利水上の実害は無いが川底の泥に砒素等が濃集
          調査依頼者: 宮崎県日向市
          依頼内容: 未処理で流出し続ける坑内水に対する対策案の策定
          放流口直下As160(mg/kg)

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          富高鉱山の坑廃水発生の現況
          ・本坑(+6mL) +二坑(+10mL):
          流量50~200L/分、pH 2.5~2.9
          Fe 100~200mg/L、As 0.1~0.6mg/L
          ・他にも坑口多数→空気遮断、崩落/埋戻し
          ・地質:砂岩・頁岩中に断層・亀裂発達
          ・植生:山の上部は植生繁茂、周囲は宅地化

          http://mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2005/briefing_outline.pdf
          wing.wainet.jp/index.php/component/content/article/219 - キャッシュ
          県北雑学
          県北は日本有数の鉱物資源地帯
           
          かつて県北には、多くの鉱山があった。そこから産出・生産された鉱物・金属が県北経済の支えてきた半面、鉱害や強制労働などの悲劇も生んだ。
          鉱物の埋蔵量は少ないが、種類は豊富で、県北でも特に延岡市北方町から西臼杵郡にかけての大分県寄りは、日本屈指の鉱物資源地帯。古くは戦国時代から採掘が行われ、戦後もしばらくの間、盛んに採掘された。
          旧延岡藩主の内藤家は、江戸時代から大正時代にかけて領内の見立鉱山を所有、ここから産出される錫(すず)によって、一時は大きな収入を得ていた。
          また、明治から大正にかけては、日平鉱山(延岡市北方町)を所有していた。採掘・製錬された銅のインゴットは延岡に運び込まれ、北町から船で出荷された。この銅が内藤家に莫大な富をもたらした。
          内藤家は鉱業のほかに林業、電気業、醸造業などを営み、延岡女学校の授業料免除、亀井橋建設費の全額負担といった多くの社会貢献をした。その根幹をなしたのは、日平の銅だったことは言うまでもない。
          岡富中学校(旧延岡女学校・延岡高等女学校)や延岡市内藤記念館などに見られるカラミレンガの塀は、日平銅山の鉱宰を固めたもので、約100年前のものである。
          一方、見立鉱山は大正時代に英国人のハンス・ハンター氏が買収して採掘が続けられ、戦前は鉱山も見立の町もにぎわった。ハンター氏らが起居していた洋風のクラブは「英国館」(国の登録有形文化財)として、当時の写真や模型、ハンター氏の遺品などが多数展示されている。
          県北の鉱山のうち、戦後まで採掘された比較的規模の大きい鉱山は、高千穂町の秋元鉱山(マンガン鉱など=1982年休山)、土呂久鉱山(金、銀、銅、鉛、錫、砒鉱など=1962年閉山)、日之影町の見立鉱山(錫鉱など=1969年閉山)、延岡市北方町の槇峰鉱山(銅鉱など=1967年閉山)がある。
          ほかに延岡市の赤水鉱山、日向市の富高鉱山、梶木鉱山、大内鉱山(坪谷鉱山)、門川町の金磯鉱山などが小規模ながら戦後まで稼行していた。
          こうした鉱山には、土呂久鉱山の亜ヒ酸鉱毒、槇峰鉱山の煙害、中国人強制労働といった悲しい出来事も起こった。
          しかし、大きな鉱山には多くの労働者が働き、厚生施設が整い、映画館や商店が建ち並び大いに繁栄した。鉱山労働者は待遇もよく、地元の子供たちが学校に持参する弁当は、麦飯にタクワン・梅干という時代に、鉱山労働者の子供たちの弁当には卵焼きが入っていて、地元の子供たちをうらやましがらせたという話も残っている。
          それが高度成長期に入ると、安価な鉱物の輸入によって採算が合わなくなり、休山・閉山が相次ぎ、鉱山労働者は去り、商店なども次々と廃業に追い込まれていった。
          現在、県北で採掘が行われている鉱山は一カ所もない。旧北方町の場合、槇峰鉱山の最盛期には町人口は約1万2000人、現在(延岡市北方町)は約4400人と、3分の1に減った。鉱山はまさに栄枯盛衰。
           
          日之影町見立にある英国館
          ハンター氏
           
          見立鉱山採鉱社宅の一部
          見立鉱山当時の精錬社宅
           


          portal.sys.wakayama-u.ac.jp/dissertation/gakui2010_39.pdf
          は同様なスライム充填採掘法であっても2~3 桁の開きがある.これは母岩の透水係数 の違いを反映しているものと推. 察され,母岩の透水係数が,母岩の透水係数が近似 する馬上鉱山と富高鉱山は採掘領域の透水係数も同程度の値となっ. 坑内水の起源( ...
          413828.web.fc2.com/03-45.html - キャッシュ
          12, 椎葉村, 椎葉鉱山(しいば), 黄銅鉱 黄鉄鉱 ◎ジャスパー. 13, 天包山北方斜面, 天包 山鉱山(あまつつみやま), ◎火閃銀鉱 輝安鉱. 14, 田野町, 田野鉱山(たの), 輝安鉱. 15, 東米良村, 日比野鉱山(ひびの), 輝安鉱. 16, 日向市富高町, 富高鉱山(とみたか)


          16日向市富高町富高鉱山(とみたか)
          (現在は採取不可能)
          黄鉄鉱G39-3 磁硫鉄鉱 閃亜鉛鉱 毛鉱 四面銅鉱 藍鉄鉱 アロフェン
          17日向市富高町岩戸鉱山(いわと)
          (現在は採取不可能)
          ベスブ石G49-8

          配布資料

          (Adobe PDF) - htmlで見る
          mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2005/briefing_outline.pdf
          富高鉱山. たいお. 鯛生鉱山. おっぷ. 尾太鉱山. ×. ○. ○. ○. ○. ○. ○. ×. ×. ×. ×. ×. ×. ×. ×. ×○. 北海道鉱害防止支援事務所. 不老倉鉱山. 吉乃鉱山. 尾花沢鉱山. 馬上鉱山. かんなり. 完成鉱山. 九州鉱害防止支援事務所. とろく. 土呂久鉱山.


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          www.geocities.jp/bicdenki/narikiyohiroeou.htm - キャッシュ
          大正6年(1917)1月 、東洋一の高さを誇る煙突の久原鉱業佐賀関製錬所(大分市)が 誕生し、茨城県日立市に送られていた鉱石は、日出港から鉱石を積載した第一 ....
          昭和 14年(1939)、信愛は宮崎県日向市の富高鉱山(金・銀・アンチモニ-)を創業する。
          www.meti.go.jp/committee/summary/.../24_001_s01_00.pdf
          高旭. 西吾妻. 樫銀井谷. 鯛生. 土呂久. 伊達. ◑. 大揚. 相内. 大比立. 小山. 南沢. 赤山. 幸生永松. 尾富宝. 元山. 共栄、大盛、寿、中 ... 富高. 布計. 馬上. ➢「義務者不存在」: 47鉱山. ➢「義務者存在」 :62鉱山. ※鉱害防止工事と坑廃水処理の重複があるため、  ...

          宮崎県日向市富高にある選別機製造(鉱山用)を地図で紹介します。周辺のお店、施設 、観光スポット、イベント情報、天気予報、防災情報も検索できます。主な情報提供元は タウンページ、ぐるなび、ホットペッパー、ゼンリン、日本気象協会、国土交通省、 ...
          nico2-hyuga.kir.jp/chotatsu/k_day.php?base=141222... - キャッシュ
          事項名休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託
          所管市民環境部 環境政策課 環境公害係
          入札日時平成 26年 12月 22日 午後 1時 30分
          期間 ~ 平成 27年 3月 31日
          予定価格********
          最低制限価格--
          落札額0 円

          番号入札者氏名第1回入札高第2回入札高適用
          1(有)クリーン日向1,249,0001,060,000不落
          2(株)日向衛生公社1,100,0001,020,000不落
          14122201
          担当課 所在地 電話番号 FAX番号 メールアドレス
          総務部 総務課
          〒883-8555 宮崎県日向市本町10番5号
          0982-52-2111
          0982-54-8747
          somu@hyugacity.jp

          事項名休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託
          所管生活環境部 環境整備課 環境公害係
          入札日時平成 25年 1月 28日 午後 2時 0分
          期間 ~ 平成 25年 3月 29日
          予定価格********
          最低制限価格--
          落札額865,000 円

          番号入札者氏名第1回入札高第2回入札高適用
          1(有)クリーン日向865,000 落札
          2(株)日向衛生公社867,000 






          事項名休廃止富高鉱山鉱害防止等工事測量設計業務委託
          所管生活環境部 環境整備課 環境政策係
          入札日時平成 21年 9月 30日 午前 11時 0分
          期間 ~ 平成 21年 11月 6日
          予定価格********
          最低制限価格--
          落札額1,050,000 円

          番号入札者氏名第1回入札高第2回入札高適用
          1日向測量設計(株)1,090,000  
          2(有)岡田測建コンサルタント1,070,000  
          3(株)ケイディエム1,050,000 落札
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          www.city.hyuga.miyazaki.jp/chotatsu/k_byname.php?datadir...
          ... 26日執行). 休廃止富高鉱山鉱害防止等工事測量設計業務委託(平成 21年 9月 30 日執行) ... 市道富高3号線外配水管布設工事に伴う舗装復旧工事(平成 22年 3月 5日 執行) ... 平成21年度 富高財光寺通線改良工事1工区(平成 21年 10月 15日執行).
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          休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託(平成 25年 1月 28日執行). 全市公園化 ... 富高 慰霊塔敷地トイレ改修事業 建築主体工事(平成 24年 12月 27日執行). 富高財光寺通 ... 富高財光寺通線道路実施設計業務委託(平成 24年 12月 26日執行). 寺迫小学校 ...
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          休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託(平成 24年 2月 20日執行). 住民生活に光を ... 24年 2月 24日執行). 富高線舗装補修工事(平成 23年 5月 19日執行) .... 年 1月 26 日執行). 日向市駅周辺地区 富高財光寺通線歩道整備工事(平成 23年 9月 15日執行 ).
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          10, 御手洗地区小規模排水工事, 富高御手洗, 約3ヶ月, 土木一式, 変更(概要) 前期 № 26 ... 20, 市道中村西川内線配水管布設工事, 富高西川内, 約3ヶ月, 水道施設, 変更( 時期) .... 62, 富高鉱山鉱害防止対策工事, 日知屋大浜, 約6ヶ月, 土木一式, 追加.
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          【事後審査型条件付一般競争入札】日向市富高汚水中継ポンプ場沈砂池機械設備長 寿命化対策工事(平成 26年 9月 11日執行). 【事後審査型条件付一般 ... 休廃止富高鉱山排水路清掃業務委託(平成 26年 12月 22日執行). 住宅解体工事(平成 27年 2月  ...
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          2015年3月13日 ... 33 富高小学校. 52-2047. 34 日知屋小学校. 52-2849. 35 財光寺小学校. 54-2825. 36 細島小学校. 52-2606. 37 塩見小学校 ...... 大字富高 733. 800 ○. 5,477 S34,41. RC 2. 12 日向市総合福祉センター. 大字富高 207-3. ○ 500 ○. 1,429 S62. RC 2 ...... 東臼杵郡日平鉱山で落石のため人家の全潰2、破損3その他県内.
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          2015年4月29日 ...作業員等賃金(旧富高鉱山沈殿槽周辺草刈作業). ○出会謝金(産廃中間処理施設 監視モニター員出会謝金). ○普通旅費(宮崎県内外各担当者会議出席). ○印刷製本 費(日向市の環境事情新年度版作成). ○手数料(公害測定機器検定 ...


          転載元: 有害物質のブログ


          [転載]宮崎県でセレン検出されたのは、日向製錬所のグリーンサンド等で埋立てられた西川内地区の沈殿池と、旧日向製錬所の地下水だけ

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          宮崎県において、セレンが基準を超過して検出されたのは、
          日向製錬所から排出されたグリーンサンド等で埋め立てら
          れた西川内地区の沈殿池の水質と、旧日向製錬所の地下水
          だけで、他には土壌・地下水・排水・廃棄物にセレンが基準
          を超過して検出された事例はないと、
          宮崎県知事(宮崎県環境農林水産部環境管理課水保全対策
          担当0985-26-7085)が公にしました。



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          平成24年8月10日
          計量証明書
          (公)宮崎県環境科学協会  No 水質2012-01529

          試料名:宮崎県日向市大字富高字山下2003番地1

          ・環境計量士 かい


          カドミウム  0.0096 (mg/l)
          総水銀    0.0073(mg/l)
          セレン    0.030 (mg/l) 3倍
          鉛      2.1  (mg/l)210倍
          六価クロム  0.02 (mg/l)
          ヒ素     0.52 (mg/l)
          シアン    0.1  (mg/l)未満
          フッ素    20  (mg/l)
          ホウ素    0.23 (mg/l)
          水素イオン濃度  6.9(27℃)


          主婦は、携帯電話で採取方法を聞いて、採取しました。

          かし・・・さんは、主婦に計量証明書の内容を説明しました。


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          転載元: 社会のゴミや有害物質を学ぶ

          [転載]淡路島

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          http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-1b-9f/gznsmr/folder/361086/56/31302656/img_0?20060510061420

          http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-1b-9f/gznsmr/folder/361086/56/31302656/img_1?20060510061420

          http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-1b-9f/gznsmr/folder/361086/56/31302656/img_2?20060510061420

          奥様の実家のご招待で一泊二日で淡路島に行った。

          天気も良く、淡路島では桜があちらこちらで咲いていた。

          エクシブ淡路島内で昨晩食べたステーキは最高に美味かった。メインの後に出てくるガーリックライスが特に絶品だった。

          転載元: 楽ガキ帳

          [転載]マリーゼin淡路島8

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          このエクシブ淡路島は大浴場がない、温泉探しと夕飯のため洲本市街を散策しました。
          淡路島最大の町なので、巨大ジャスコ等ありました。島内は電車はないので、大きなバスターミナル
          がありました。
          赤レンガ倉庫チックな建物もありました。

          結局、温泉はなく、夕飯も豪勢に海の幸をいただく予定でしたが、良い店がなく、
          地元の和食ファミレスにしました。

          転載元: ダブルマリサポ

          [転載]マリーゼin淡路島8

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          本日の宿は「エクシブ淡路島」洲本市にあり、鳴門からは30分位。

          とっても高級な雰囲気で、短パンで穴あきスニーカーの俺はチャックインの時、とても恥ずかしく
          なってしまいました。

          部屋は2F。日曜日の」宿泊だし、もっと部屋空いているはずなのに・・・。

          まあ、しかたない。窓からの景色はオーシャンビューではなく、ハーバービュー。
          気持ちを切り替えれば、ボートのオーナー気分です。

          転載元: ダブルマリサポ

          [転載]「淡路鉄道」の歴史振り返る 廃線から半世紀、洲本で写真展

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          「淡路鉄道」の歴史振り返る 廃線から半世紀、洲本で写真展

           
           大正から昭和にかけて島内を走っていた淡路鉄道の歴史を振り返る写真展=洲本市本町
           大正から昭和にかけて走っていた「淡路鉄道」の歴史を振り返る写真展「廃線から半世紀 懐かしの淡路鉄道展」が5日、洲本市本町の「ぎゃらりー&かふぇ ほっと」で始まった。洲本市教委などが所蔵する写真約40点が展示されている。
           淡路鉄道は大正11(1922)年に営業開始し、14年に洲本-福良間の全線(23・4キロ)が開通した。昭和23年には電化されて島民の足として活躍したが、自動車の普及などで昭和41年に廃線となった。
           会場では大正11年に初めて購入した蒸気機関車の前で記念撮影する関係者、最後の営業運転となった昭和41年9月30日に5色のテープに見送られる花電車、昭和30年代の各駅の風景など、44年間の歴史を振り返る写真が展示されている。
           南あわじ市八木国分の武川美幸さん(42)と蓮さん(10)は親子で訪れ、興味深そうに見学。鉄道好きという蓮さんは「おばあちゃんから電車があったことをおとぎ話のように聞いていたけど、写真を見て本当やったと思った」。戦前から電車通勤していた洲本市物部の女性(85)は「毎朝いっぱい人が乗っていた。納駅では売店で切符を売っていたのよ」と懐かしがっていた。
           10月18日までの土日のみ開催で、午前11時~午後5時。入場無料。問い合わせは若山さん



          兵庫県洲本市街地の成り立ちをひもとく歴史講座「洲本のまちはこうして生まれた」が12日、洲本市宇原の市民交流センターであった。連続講座の最終回で、市立淡路文化史料館の元館長で、厳島神社の浦上雅史宮司(62)が、縄文時代から平安時代までの洲本平野の移り変わりを解説した。
           「洲本ロータリークラブ」創立60周年記念事業で、この日は3回目。



          「淡路島名誉大使」を務める落語家・桂文枝さんが、島の自然や歴史、食などから選んだ「淡路島文枝100選」が決まった。
           のどかな農村風景や四季折々の花、新鮮な海の幸など島の魅力が詰まったリストは、今秋発行のNTTタウンページ淡路地方版で概要が紹介されているほか、10月からはテレビCMでも流れる予定だ。
           観光で何度も島を訪れたという文枝さんは昨年3月、名誉大使に就任。PR活動の一環として、百選の作成も行うことになり、県や島内3市などが挙げた候補から選んだほか、自身が気に入ったものもリストアップしてきた。
           結果は24日に発表され、一覧は淡路島観光協会のホームページで紹介される。また、今月配布のタウンページ(約6万2000部)では、巻頭特集としてカラー10ページで約40点を掲載。10月から来年3月までは、朝日放送で毎週土曜日の午前6時25分から放送されている「おはよう朝日 土曜日です」のCMで計26回にわたって、映像とともに紹介される。
           10月3日の第1回は「鳴門海峡の渦潮」、2回目(10月10日)は「城下町洲本レトロなまち歩き」が予定されており、文枝さんはナレーションで登場する。県は「文枝さんの名前にあやかって、観光地などをどんどんPRしたい」としている。



          明石海峡の歴史や魅力を旅客船に乗って学ぶクルーズ体験会が6日、明石港(兵庫県明石市)と岩屋港(淡路市)を発着点とする2コースで行われ、小学生と保護者ら約140人が約30分間の船旅を楽しんだ。
           淡路ジェノバラインと明石市、淡路市でつくる実行委員会が次世代教育の一環として開催。全国で「海でつながるプロジェクト」を展開中の日本財団(東京)が支援


           国指定重要無形民俗文化財・淡路人形浄瑠璃の継承団体「淡路人形座」(兵庫県南あわじ市)について、結成から半世紀の歴史をまとめた冊子「淡路島の文化遺産-淡路人形座五十年のあゆみ」を、淡路人形協会が発行した。海外公演や劇場移転、後継者育成の動きなど郷土芸能の今昔を、写真や年表を交えながら詳細に伝えている。

          転載元: 学問の自由のブログ

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