●瀬戸内海の歴史 ●文化の路としての瀬戸内海(万葉)
●戦の路としての瀬戸内海(源平合戦) ●戦の路としての瀬戸内海(水軍)
●信仰の路としての瀬戸内海(神社仏閣および金毘羅)
●多様な産業技術・文化の伝搬(関さば) ●生業・生活に使われた小船の往来
●瀬戸内の航路整備と日宋貿易 ●遺明船の派遣と日明貿易
●西廻り航路の開発と北前船 ●朝鮮通信使往来を通じた交流
●戦の路としての瀬戸内海(源平合戦) ●戦の路としての瀬戸内海(水軍)
●信仰の路としての瀬戸内海(神社仏閣および金毘羅)
●多様な産業技術・文化の伝搬(関さば) ●生業・生活に使われた小船の往来
●瀬戸内の航路整備と日宋貿易 ●遺明船の派遣と日明貿易
●西廻り航路の開発と北前船 ●朝鮮通信使往来を通じた交流
瀬戸内海の歴史
(1)海運を中心に展開される瀬戸内海の歴史
瀬戸内海は古来より、交通の大動脈となっていました。
縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
具体的には、古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
天平年間(729~748)には、行基により、ほぼ一日航程の間隔で、室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の5泊が開かれ、古代瀬戸内海航路の基盤となりました。縄文時代以来7世紀前半まで、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられていました。その後、律令国家は陸上交通を基本にした七道の行政単位を定め、駅家などの整備を進めました。しかし、8世紀になると、物流はまた輸送力で勝る海上交通に移行し、瀬戸内海は再び中心的な交通路としての役割を担うこととなったのです。それ以来現在まで、瀬戸内海は日本の中枢的な国土軸を構成してきました。
具体的には、古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内(難波津)の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしていましたが、それに加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内(難波津)から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。
そのため、大和朝廷は瀬戸内海一帯の港や船の整備に力を入れ、遣唐使および遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。
律令制においては、貢納物の積み出しは国津に限られていましたが、平安時代になり荘園制が発達するとともに、瀬戸内海航路は公租の運搬や荘園年貢の輸送の動脈として、また、大陸との交易の主要ルートとしてなお一層の繁栄を見ましたが、それに伴って海賊も横行しました。このころの主要な港は、室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、牛窓、児島、敷名、長井浦、風早、熟田津などです。
平安時代末期になると、平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築くなど、瀬戸内海航路を整備しました。清盛はその他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行ったと伝えられています。
また、室町幕府は応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配され、遣明船として用いられていたと記されています。
これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
大阪湾の主な港としては、時代や貨物の種類により変化はありますが、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場などがあげられます。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけですが、その間にはいくつもの町が風待ち港、潮待ち港として発達しました。
また、室町幕府は応永8年(1401)から17年にかけて6回、永享4年(1432)から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行いました。「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配され、遣明船として用いられていたと記されています。
これらの時代を通じて、瀬戸内海の航路は、大阪湾から関門海峡までの山陽側の航路でした。
大阪湾の主な港としては、時代や貨物の種類により変化はありますが、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場などがあげられます。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至ったわけですが、その間にはいくつもの町が風待ち港、潮待ち港として発達しました。
江戸時代になると船の往来はますます頻繁となり、瀬戸内海の海運は黄金期を迎えます。河村瑞賢は、寛文12年(1672)に西廻り航路を開発し、日本海の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津から、下関、大坂、太平洋の志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等を寄港地として整備しました。
江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場し、それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達しました。この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。
江戸時代になると、将軍の代替わりごとに朝鮮から朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10年(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
さらに、江戸時代には、遠浅海岸や内湾を利用して大規模な新田開発が進められ、そこでは米、麦をはじめ、綿、藺草、菜種油、大豆等の商品作物が盛んに栽培されました。特に、綿作は新しい農村工業としての木綿機業の発達をもたらすとともに、商品経済の発展を促しました。この綿作の肥料となったのが北前船で北海道から海送されたニシンの〆め粕でした。これら産物は、千石船、弁財船によって全国的に運ばれました。大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになりました。
明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
一方、都市周辺では、江戸時代の木綿機業の蓄積の上に繊維業を中心とする軽工業が発達し、さらにその後、化学工業、造船業等、海への依存度の高い産業が徐々に勃興して、戦後の臨海部を舞台とする重化学工業化に向けての準備がなされたのです。
江戸時代の中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場し、それ以降、沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達しました。この航路は鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流するルートをとるものであり、これに沿って弓削島、御手洗などに風待ち、潮待ちの港ができ、新たに町も形成されて活況を呈していきました。
当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だったわけです。
江戸時代になると、将軍の代替わりごとに朝鮮から朝鮮通信使が派遣されることになり、慶長10年(1605)から文化8年(1811)にかけて計12回朝鮮通信使が来朝し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていきました。
さらに、江戸時代には、遠浅海岸や内湾を利用して大規模な新田開発が進められ、そこでは米、麦をはじめ、綿、藺草、菜種油、大豆等の商品作物が盛んに栽培されました。特に、綿作は新しい農村工業としての木綿機業の発達をもたらすとともに、商品経済の発展を促しました。この綿作の肥料となったのが北前船で北海道から海送されたニシンの〆め粕でした。これら産物は、千石船、弁財船によって全国的に運ばれました。大阪が経済拠点として発展したことに加え、西廻り航路の開設もあいまって、瀬戸内海も全国的な流通経済の中に組み込まれ、瀬戸内海海運時代の最盛期を迎えることになりました。
明治期に入っても10年代までは北前船等帆船が用いられ、江戸時代の航路もほぼ維持されていましたが、蒸気船や機帆船の登場や、明治20年代の山陽鉄道の整備などにより、かつての帆船時代の寄港地は徐々に衰退していき、「瀬戸内の港は、まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほど寂れていきました。
一方、都市周辺では、江戸時代の木綿機業の蓄積の上に繊維業を中心とする軽工業が発達し、さらにその後、化学工業、造船業等、海への依存度の高い産業が徐々に勃興して、戦後の臨海部を舞台とする重化学工業化に向けての準備がなされたのです。
(1)歴史的みなとまちが豊かに息づく瀬戸内海の港湾
瀬戸内海には、ある所では石積みの防波堤や雁木などのかたちで、また、ある所では古い港町の一部として、歴史的な港湾施設やそれを中心とした歴史的環境が残っており、港の中、町の中に、豊かな歴史が脈々と息づいています。
さらに、港と町が一体となった歴史的港町も、規模の大小はあるものの、瀬戸内海には各地に残っており、倉敷(岡山県)、坂越(兵庫県)、鞆・竹原・豊町(広島県)、柳井(山口県)、笠島(香川県)など、著名な港町が多々あります。中でも、倉敷、竹原、豊町、柳井、笠島の町並みは、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、今では観光地として多くの人々が訪れたり、また、日常生活の中での地域住民の憩いの場となっています。
さらに、港と町が一体となった歴史的港町も、規模の大小はあるものの、瀬戸内海には各地に残っており、倉敷(岡山県)、坂越(兵庫県)、鞆・竹原・豊町(広島県)、柳井(山口県)、笠島(香川県)など、著名な港町が多々あります。中でも、倉敷、竹原、豊町、柳井、笠島の町並みは、文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、今では観光地として多くの人々が訪れたり、また、日常生活の中での地域住民の憩いの場となっています。
瀬戸内の航路整備と日宋貿易
平安時代の末、平家は日宋貿易による富を得るため瀬戸内航路の整備につとめ、日本と宋の交流、九州・瀬戸内と京との交流・連携を活発化させた。平家清盛はそれまで北九州までしか来なかった宋船を畿内まで導き入れるため、大輪田泊(兵庫港)や音戸の瀬戸の整備、さらに海上交通を守る厳島神社の建立を行った。
日本からは金や木材、美術品等が輸出され、中国から絹織物や陶磁器等、南アジアから香辛料等、高麗から人参や紅花等が輸入された。
平清盛は唐船と呼ばれた宋の商船を何隻も所有しており、上皇や貴族の厳島神社参詣の折りには大輪田泊からこの船で送迎したり自ら唐船に乗って航海を先導した。
日本からは金や木材、美術品等が輸出され、中国から絹織物や陶磁器等、南アジアから香辛料等、高麗から人参や紅花等が輸入された。
平清盛は唐船と呼ばれた宋の商船を何隻も所有しており、上皇や貴族の厳島神社参詣の折りには大輪田泊からこの船で送迎したり自ら唐船に乗って航海を先導した。
遺明船の派遣と日明貿易
室町幕府は応永8(1401)年から9年間で6回、永享4(1432)年から1世紀の間に11回の遣明船を派遣し、日明貿易を行った。
「入明諸要例(応仁2(1468)年)」には500石から2,500石の船が門司、富田、上関、柳井、尾道、鞆、田島、因島、牛窓に配され、遣明船として用いられたとしるされている。
この遣明船の事業は、室町幕府が主導し始めたものであるが、次第に細川氏と大内氏の競合となり、最後は大内氏の独占となった。しかし、この事業は一大名だけでなし得るものでなく、瀬戸内海沿岸各地の連携と協力のもとに行われていた。
「入明諸要例(応仁2(1468)年)」には500石から2,500石の船が門司、富田、上関、柳井、尾道、鞆、田島、因島、牛窓に配され、遣明船として用いられたとしるされている。
この遣明船の事業は、室町幕府が主導し始めたものであるが、次第に細川氏と大内氏の競合となり、最後は大内氏の独占となった。しかし、この事業は一大名だけでなし得るものでなく、瀬戸内海沿岸各地の連携と協力のもとに行われていた。
朝鮮通信使往来を通じた交流
朝鮮国から外交使節団として、慶長12(1607)年以来、12回にわたって通信使が来日し、延べ約400名の朝鮮使が瀬戸内海の港町を通っていった。
朝鮮通信使一行は、漢陽の都から陸路で釜山に向かい、そこから船で津島・壱岐を経由して下関に達する「海東への道」、下関から瀬戸内海を東上して大阪の淀川口に至る「瀬戸内の道」、そして淀川を川船で北上して京に入り、東海道五十三次を経て江戸へ向かう「東海道の道」というルートを通行したと言われる。
朝鮮通信使の往来を通じて、各地に行事や文化遺産が残され、岡山県牛窓町に残る「唐子踊り」、広島県福山市鞆の福禅寺などがその代表例である。
朝鮮通信使一行は、漢陽の都から陸路で釜山に向かい、そこから船で津島・壱岐を経由して下関に達する「海東への道」、下関から瀬戸内海を東上して大阪の淀川口に至る「瀬戸内の道」、そして淀川を川船で北上して京に入り、東海道五十三次を経て江戸へ向かう「東海道の道」というルートを通行したと言われる。
朝鮮通信使の往来を通じて、各地に行事や文化遺産が残され、岡山県牛窓町に残る「唐子踊り」、広島県福山市鞆の福禅寺などがその代表例である。
西廻り航路の開発と北前船
河村瑞賢は、江戸幕府の命を受け、日本海から瀬戸内海、大坂を結ぶに西廻り航路の開発を行った。具体的に、廻漕船の選定、物流拠点の整備、廻漕船の援助(入港税の免除等)、寄港地の限定と整備を行った。
西廻り航路の整備によって、幕府や諸藩の年貢米が輸送されるとともに、北陸等の船主による日本海から瀬戸内海を回っての交易の2つの交流が発生した。後者が北前船と呼ばれている。
北前船は、東北、蝦夷地から米や水産物を大阪に運び、禁忌や瀬戸内の特産物を北国に運んだ。上り荷はほとんど海産物であり、下り荷は大阪からの酒、油、衣料品、あわ粉、瀬戸内の塩、紙、鑞、境港の鉄、米等で、「瀬戸内で買った鑞を敦賀でろうそくに仕立てて蝦夷地で売る」こともあった。
西廻り航路の整備によって、幕府や諸藩の年貢米が輸送されるとともに、北陸等の船主による日本海から瀬戸内海を回っての交易の2つの交流が発生した。後者が北前船と呼ばれている。
北前船は、東北、蝦夷地から米や水産物を大阪に運び、禁忌や瀬戸内の特産物を北国に運んだ。上り荷はほとんど海産物であり、下り荷は大阪からの酒、油、衣料品、あわ粉、瀬戸内の塩、紙、鑞、境港の鉄、米等で、「瀬戸内で買った鑞を敦賀でろうそくに仕立てて蝦夷地で売る」こともあった。
瀬戸内海歴史民俗資料館(香川県立ミュージアム分館)
- 『瀬戸内地方の民俗・歴史・考古資料を収集し、これらの貴重な資料を整理・保管、総合的な研究を行い、その成果を展示・公開』する資料館。景勝地の瀬戸内海国立公園の一部である五色台にたち、まさに瀬戸内海を見渡すように設計された建物は公共建築百選にも選ばれたほど。多くの収集資料があるなかでも5千点以上が国の重要有形民俗文化財に指定されている。【お問い合わせ】瀬戸内海歴史民俗資料館
〒761-8001
香川県高松市亀水町1412-2
TEL:087-881-4707
FAX:087-881-4784
http://www.pref.kagawa.jp/setorekishi/
瀬戸内海地域は、昔から我が国の政治・経済・社会・文化のいろいろな分野にわたって、いつも先進的な歩みを進めてきました。 この大きな要因として、大陸の中国などの文化が主として北九州から瀬戸内海を通って、大和(今の奈良)の方面へと伝えられてきましたが、瀬戸内海地域がたえずこの橋渡しの役割を果たしてきたためです。
つまり、瀬戸内海地域は文化の伝わりの大動脈の役目をしてきました。
つまり、瀬戸内海地域は文化の伝わりの大動脈の役目をしてきました。
B.C6000年ごろほぼ、現在の瀬戸内海の海域が形成される
4000年ごろ縄文海進。現在より約3m高い所まで海だった
3000年ごろほぼ現在の海面の高さとなる
300年ごろ弥生文化の時代が始まる
A.D57年倭の奴国の王が後漢に使者を派遣し、光武帝から印綬を受ける
147年倭国大乱。このころ、瀬戸内海の沿岸、島嶼部の山頂などに高地性集落が作られる
188年女王卑弥呼の邪馬台国が成立
290年ごろ古墳文化の時代始まる
350年ごろ大和政権が成立する
396年日本が朝鮮出兵。高句麗の好太王軍に破られる
538年仏教伝来。百済の聖明王が仏像・経巻を我が国に献ずる
607年遣隋使の派遣始まる
630年遣唐使の派遣始まる
645年大化の改新
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804年遣唐使船で空海、最澄が唐へ
867年伊予の海賊、宮崎付近に集まって掠奪を行う
894年菅原道真が遣唐使の中止を建議
934年海賊が瀬戸内海などに横行したため、朝廷が追捕海賊使を任命する
935年紀貫之の「土佐日記」が出来上がる
939年藤原純友が伊予国日振島を拠点に反乱を起こす
940年平将門の乱が終結
1152年平清盛が安芸、厳島神社の社殿を修復
1167年平清盛が太政大臣となる
1168年尾道が備後大田庄の倉敷地に認定される
1172年宋の明州刺史が後白河法皇・平清盛に物を献上。このころ清盛が大輪田泊の築港や音戸瀬戸の修理などして日宋貿易を振興
1185年屋島の合戦。壇ノ浦の戦い、平家滅亡。河野通信、兵船を率いて源義経軍に加わる
1192年鎌倉幕府が成立
1281年元寇-弘安の役。伊予の河野通有、博多へ出陣して奮戦
1308年幕府、河野通有に西国と能野浦の海賊を追捕させる
1324年弓削島荘の住民、小山弁房承誉の非法を訴える
1338年足利尊氏、征夷大将軍になる。懐良親王、西国へ
1371年今川了俊が九州探題として現地赴任
1404年足利義満、明との勘合貿易を開始
1434年室町幕府、大島村上氏に遣明船の海上警固を命じる
1450年村上吉資の級官宮地氏ら、因島に金蓮寺を造営
1462年能島村上氏が小早川一族の小泉氏らと弓削島荘を押領する
1483年室町幕府、大内氏に貿易の全権を委任する
1489年このころ、今治的場の海賊、厳島神社から太刀、鎧を盗むが河野氏が取り戻す
1552年陶氏、厳島での村上氏の関銭徴収権を停止させる
1555年厳島の戦い。毛利元就が村上水軍の来援を得て、陶晴賢を厳島で討つ
1581年ルイス・フロイスが瀬戸内海を航行
1588年豊臣秀吉、海賊禁止令を出す
1592年秀吉、朝鮮侵攻を始める
1600年関ヶ原の戦い
1604年村上武吉が周防大島で死去。藤堂高虎が今治城を築城
1607年朝鮮通信使が初めて来日
1672年河村瑞賢が西廻り航路を開く
1762年このころから瀬戸内の塩田で石炭の使用が始まる
1853年ペリー艦隊が浦賀に人港
1868年明治維新
1886年このころ、石炭使用量の51%を塩田で占める
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