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Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
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[転載]土佐清水病院 末期がん闘病記 土佐清水に来たわけは

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私たちが、土佐清水病院にやってきたのは、不思議な縁によるものです
 
18年前に、私は、重症のアトピー性皮膚炎のため、学校も休みがちになり、精神的にもおかしくなった当時高校2年生の息子を説得して、土佐清水病院にやってきました
 
当時は、大阪南港から土佐清水港までフェリーが出ていました(今は、乗客数減で廃止)
船上から黒潮の流れを見たこと、重症アトピー性皮膚炎のために体中包帯だらけでまるでミイラのような女性を連れて居た男性のことなど、今でも鮮明に覚えています
 
2週間後に、息子の症状はかなり軽快して戻ってきました
 
その後の生活態度が良くなかったので(食事、ストレス、空気など)何度も再発しましたが、処方された軟膏をつけ、小康状態を保ちつつ、今は、社会人として立派に生活しています
 
新しい伴侶の娘が、30も近いというのに、皮膚が荒れていて悩んでいました
皮膚科で何十万円もかけて、レーザー治療を含めて何をやっても良くならないと聞いて、ここを思い出し、丹羽院長が新横浜のサテライト診療所に来られる11月4日(火)に予約して連れていきました
 
母親である、すい臓がん患者も、付き添いでくることになり、途中で具合が悪くならないかと不安を抱えながらも、連れて行きました
 
診療所に入って気がついたのは、ここは、重症アトピー性皮膚炎患者の治療がメインだと思っていたら、がんや、膠原病や、白血病などの患者が多く集まっていたのです
 
急きょ、診察を申込みましたが、「セカンドオピニオンを求める」位置づけで診察を受けたのです
 
診察の時に、「入院す患者の内、10人に3人は早期に死ぬ。でも、あなたは、データを見ると、抗がん剤が効いたと見えて良くなっている。見込みはあるからすぐ入院しなさい、今なら何とかなる」と言われました
 
千葉の船橋から土佐清水までは、新幹線で行くと、10時間、飛行機で行っても6時間くらいかかる長距離なので、患者本人は迷っていたのですが、11月8日(金)に、私が広島に向かう新幹線の中で、患者から私の携帯に電話がありました
 
「丹羽院長から電話があり、何を迷っているのか、治療するからすぐに来なさい!と直接電話があった、どうしようか」
 
「わかった、行こう!これも何かの縁だ、こんなこと言ってくれた医者は、ほかには居ない。こっちに居ても、TS-1を飲んで後遺症に苦しむだけだ。回復の見通しも立たない。ここは、土佐清水病院の治療にかけてみよう。すぐに支度するように」
 
10日(月)夜帰宅した私は、15日(土)朝に伴侶を連れて、飛行機でここへ来たのです
 
高知空港に、病院差し向けのバンが待っており、病院まで3時間の道を送ってくれました
 
実費の7750円は、空港-高知駅-中村駅-土佐清水までのバス・電車・バス代、二人分とほぼ同額であり、3回も荷物を持って乗り換えないで済む分だけ、得でした
 
病院に着いたら、土曜午後にもかかわらず、すぐに診察がありました!
ここは、土日も、年末年始もないのです
 
もし、18年前に、重症アトピー性皮膚炎で苦しんでいた息子が世話になっていなければ、もし、伴侶の娘の肌が弱くなければ、伴侶が病気を圧して付き添いで新横浜に来なければ、悪性すい臓がんの伴侶をここに連れてきて、生きる希望が湧いてくることはありませんでした
 
不思議な縁が、私たちを、この地に招きよせたとしか、考えられません
 
今日はここまでです

転載元: recoveryfromcancer2014のブログ


[転載]道の駅~めじかの里土佐清水(高知県土佐清水町)。

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こんばんは。ぶなしめじです。
久々の道の駅紹介、今回は先週末に訪問した「めじかの里土佐清水」。

宿毛にて国道56線から分岐し国道321号線へ。
奇岩群で有名な竜串を少し過ぎたところにある道の駅です。

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案内看板。
実は一昨年の元旦、足摺岬にて初日の出を拝んだ帰りに立ち寄ったのですが、
殆どの道の駅は元旦はお休み。ここも例にもれずお休みでした。

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案内看板その2。

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道の駅全景。お店は大きくわけて2軒。
海産物を取り扱うお店と、さんに市と呼ばれる産直物からお土産までを取り扱う
ごった煮のお店。
しかしちょっと様子が変・・・

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左側のお店は既に店じまい。
どうも翌日より改装工事が行われるようで、右側には既に仮足場のパイプなどが
置かれています。営業を続けていたさんに市の方へ。

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気さくなお姉さんとしばし談笑。
こちらは飼い犬なんだそうです。品種はグレートテンと言う大型犬。
手前のぶちくんは4歳で体重はなんと65kg!
奥でぐっすりの黒すけくんと仲良く寝ています。
非常におとなしい性格で、全く吠えたり噛んだりせず、お客さんになでなで
されていました。そのうち眠くなったのか、毛布の上にごろり。

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新しいお客さんがやって来て、興味津々のご様子。

ちなみに、改装期間中にも道の駅スタンプは押すことが出来るそうですので
これから訪れる予定のある方、ご安心を。

転載元: お日様パワーでまたーりガーデニング日記・・・?

愛南町 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

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みしょうMIC国道56号

§名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

現在、町としては観光に関してはあまり積極的ではない。原因は南予レクリエーション都市の項を参照のこと。
紫電改展示館
観自在寺
  • 名所
御荘・城辺地区
平城山観自在寺四国八十八箇所 40番札所)
南レク施設群 城辺公園、松軒山公園、御荘公園(サンパール、ホテル)、馬瀬公園(紫電改展示館、宇和海展望タワー
道の駅みしょうMIC
山出憩いの里温泉
かつては御荘湾ロープウェイもあったが、2006年平成18年)4月1日に廃止された。
内海地区
由良岬
船越運河
南レク須ノ川施設群 ゆらり内海、グリーンパークすのかわ、ウバメガシ群生
西海地区
宇和海海中公園観光船(ガイヤナ号、ユメカイナ号)
鹿島
元は宇和島伊達藩の狩猟地。1955年(昭和30年)に愛媛県の名勝に指定。同年に足摺国定公園に指定され1972年(昭和47年)に現在の国立公園になった。
石垣の里 外泊(そとどまり)地区
高茂岬
一本松地区
篠山(標高1065m)、篠山森林公園、アケボノツツジの群生が有名
一本松温泉あけぼの荘
愛南町農村運動広場あけぼのグランド
  • まつり、イベント
トレッキング・ザ・空海 - 11月
サンゴ週間 - 3月、船越にて
南レクさくらまつり - 3月下旬~4月、南レク城辺公園にて
愛南大漁まつり - 御荘湾立て干し網(例年GWに開催していた)と「かつおフェア」を2006年から統合。
南レク杯高校サッカー大会(5月)
どろんこサッカー
海中公園まつり
花とり踊り(増田、正木)
街道灯籠祭り愛南「酒蔵の道をゆく」「海街道をゆく」「山街道をゆく」 -7月から9月
  • 特産物
水産物(カキ(御荘湾)、カツオ(深浦港)、ヒオウギ貝(内海湾ほか)、真珠ウツボはまち、モイカ)
水産加工品(カツオ刺身・たたきじゃこ天蒲鉾スルメいりこ目刺、ふぐちょうちん)
農産物
かんきつ類(甘夏美生柑(みしょうかん、愛南ゴールド)、ハウストマト、ブドウ、カモ米)
野菜(オランダエンドウ)
由良媛っ子地鶏(内海地区)


 南予レクリエーション都市(なんよレクリエーションとし)は、愛媛県の南部(南予)のうち、北宇和郡吉田町(現・宇和島市)から南宇和郡城辺町(現・愛南町)の沿岸部において昭和40年代後半から昭和60年代にかけて、愛媛県が計画し、建設省の補助を受け、一部地域において整備を行った観光レクリエーション開発。略称は南レク
施設運営は、愛媛県ほか出資の第三セクターである南レク株式会社が行っている。




開発の経緯

愛媛県の南予地域は地理的な不利もあって、高度経済成長期においても経済発展から取り残され、著しい過疎化が進展するなど、行政主導の地域開発事業によるテコ入れが必要とされていた。そこで、白石春樹知事のもと愛媛県では、この地域の豊かな自然を活用して地域の開発の新風を巻き起こし、四国西南地域の拠点、レクリエーションの拠点を整備する方針を立てた。1972年には建設省の「地方型レクリエーション都市」として指定を受けた。宇和島、津島、御荘、城辺の地域を開発の中心地とし、快適なレクリエーション都市をつくることを目標とし、県主導で1972年から整備が進められた。
高度成長末期の右肩上がりの経済社会を前提に計画、整備が進められたものの、オイルショックや海洋性レクリエーション需要の不発、幹線交通網の整備の遅れなどの見込み違いもあり、集客は芳しくなく、運営のための第三セクターも赤字続きで、テコ入れが必要とされ、行政主導による公園の整備のみが進められた。
平成に入り、用地取得も中止、整備事業も休止状態で、ほぼ維持管理のみとなっている。

現況

紫電改展示館

 本来、構想では北宇和郡吉田町(現・宇和島市)から南宇和郡西海町(現・愛南町)にかけて12地区あるが、計画決定されたのはそのうち7地区、585ヘクタールである。その施設が全て完成したわけではない。北宇和郡津島町(現・宇和島市)国永地区のように用地取得は一部行ったものの、まったく工事に着手していない地区もある。比較的工事が進んだのは、津島町御荘町(現・愛南町)、城辺町(同)の地区である。一方、宇和島市吉田町(現・宇和島市)の予定地においては用地の取得以前の段階に止まっている。
 今日までに完成しているのは、下記のとおりなど一部に留まっている。用地取得が虫食い状であるなどの理由で、手を付けられずにそのままになっている土地(ほとんどが雑木林)もある。
  • 近家地区:こども広場、日本庭園「南楽園」(南レク株式会社本社を併設)、南楽園ファミリーパーク、南レクオートキャンプ場
  • 国永地区:開設施設なし
  • 馬瀬地区:馬瀬山公園(宇和海展望タワー御荘湾ロープウェイ(現在廃止)、こども動物園、紫電改展示館、展望園地、花木園、香木園)
  • 大森山地区:おおもり児童公園、城辺公園(野球場、テニスコート、多目的広場、桜園、サイクリング道、ピクニック広場、展望園地、球技広場)
    • 正式には、馬瀬地区と大森山地区とを合わせて3号地区と呼ばれ、上記の計画決定の7地区というのは合わせてカウントした数である。
  • 本干拓地区:津島プレーランド(テニスコート、南レクサーキット、バードアイランド、トッポ池、多目的広場)
  • 貝塚地区:御荘公園(御荘プール、水の広場、コミュニティー広場、テニスコート、多目的広場、噴水広場、ちびっこ広場、児童園)
  • 日振地区:展望台、遊歩道、日崎園地、大入園地
  • 松軒山地区:松軒山公園(太陽の広場、ジャンボスライダー、スロープカー、梅林、梅見本園、長洲園地) 

功罪

  • 県主導の開発
県主導の構想・計画であり、地元市町村は「県のすること」と受け止め、地元のとりまとめ等の協力はするが、構想・計画作りにおいて主体的に参画することはなかった(当時の開発スタイルそのものであった)。そのため、地元市町村はもちろん、地元住民も一歩離れた立場から傍観者的であり、もともと県への一任という姿勢は抜きがたいものがあった、県への依存感が一層強まり、自ら考えアイデアを搾り出すことによる地域の自立的な発展が阻害されたことは否定できない。
本来、地元に救いの手を差し延べることを意図していたが、後述のように養殖業という生活の手段が生まれ、しかも当時養殖業は高収入が得られたことから、一気に傾斜し、本事業への関心は一層低下した(今日では養殖も低迷しているが、本事業の事実上の失敗を目にしているだけに、町村自らの地域振興を目的とした観光事業への取組みには、二の足を踏む傾向がある。また観光開発のノウハウや人材も育っているとはいえない)。
  • 本来目指した海洋性レクリエーションが実現できず
開発が始まってまもなく、開発予定地域で魚類・真珠等の養殖業が勃興し、海域が養殖場として使用されるにいたって、生活の手段ではなく、余暇利用のため海域を使用することに対して漁業者を中心に忌避的な風潮が強まり、本来目指すべき、海洋性レクリエーションの導入が進まなかった。
結果として海洋と関係の薄い「公園」ばかりとなり、しかも維持管理費用がかさむ結果となっている。
  • 見通しの甘さ
高度経済成長期の計画にありがちではあるが、西日本一帯から集客を見込む広大な集客圏の設定など、過大な需要見通しを立て、整備に突き進んだ。当時、所得の増加等による余暇需要の拡大はあったものの、都市部から遠く離れた当地までは恩恵がほとんど及ばなかった。
また、開発着手後に発生したオイルショックによる観光需要冷え込みも痛手であった。
高速道路や本四架橋など、整備された交通網によって西日本一円から集客するという構想であったが、代表的な施設である御荘プールが開設された1978年現在、松山市から自動車で3時間半以上要した。そのうえ鉄道でのアクセスも宿毛線の計画が頓挫したことで望めなくなった。2012年になってようやく宇和島市まで高速道路が延伸されたものの、開設済み公園のある同市津島地区までは通じていない(今後の予定は松山自動車道津島道路を参照)。
  • 地元に残したもの
地元も観光にかけるという、同じ「夢」を見てきたことから、県に一貫して整備を要望してきており、賛否をめぐって地元を二つに割るような亀裂は生じていない。ただ、その成果は期待したものと大きくかけ離れたものに終わった。こうしたことから、地元市町村では観光開発に対して、将来を賭けた大事業に取り組もうとする動きはなく、一定の自制が効き、結果として痛手を負っていない。

その他

  • 大分放送テレビが1980年代後半に放送していた「OBSニュースワイド・Todayおおいた」に協賛して、海を隔てて隣接する大分県の観光客を呼び込む試みもあった。

外部リンク


歴史・文化レジャー・観光トップに戻る王朝時代にゆかりの深い愛南町には貴重な歴史遺産が数多く残されています
自然の中で遊ぶ。そこで得られる体験は心の豊かさを育みます。都会では得ることのできない貴重な体験を愛南町で!

写真:愛南町の文化財●愛南町の文化財(PDFファイル)

国指定文化財

特別天然記念物

国選択文化財

登録有形文化財

県指定文化財

町指定文化財

建造物
考古資料
石造美術
有形民俗文化財
史跡

横浜みなとみらい21

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横浜みなとみらい21(よこはまみなとみらい21、Minato Mirai 21)は神奈川県横浜市西区中区にまたがり[注 1]横浜港に面している地域である。略称は、「みなとみらい21」、「みなとみらい」、「MM21」など。都市景観100選受賞地区。さらに細かい区分として、ランドマークタワー日産本社ビルなどがありオフィスビル開発を推進する「中央地区」と赤レンガ倉庫コスモワールド[注 2]などがある「新港地区」、そごうスカイビルがある68街区の「横浜駅東口地区」(出島地区)に分けられる[1]。当地区全体の面積は約1.86km²(約186ha)、そのうち埋め立て部は約0.76km²(約76ha)である。
みなとみらい中央地区の広範囲における町名、住所表記としてもみなとみらいが使用されている。また、2009年4月に設立された一般社団法人横浜みなとみらい21は、同地域における土地や建物の所有者、施設の管理・運営者などによって構成され、街づくりの企画・調整、プロモーション活動などを行っている[2]。前身は横浜市、神奈川県、独立行政法人都市再生機構(旧:都市基盤整備公団)、地権者、地元経済界の出資により作られた第三セクター株式会社横浜みなとみらい21(同年3月解散)である。

当地区全域は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである横浜都心に指定されている[3]。また、みなとみらい中央地区は横浜都心・臨海地域として、都市再生特別措置法による特定都市再生緊急整備地域に指定されている[4]


概要

 みなとみらい地区は、横浜都心部の一体化と強化をめざしたウォーターフロント都市再開発として建設されている街である。1980年代に再開発が行われる以前は、当地に三菱重工業横浜造船所国鉄高島線貨物支線)の東横浜駅および高島駅・高島ヤード(操車場)高島埠頭新港埠頭などがあった[5][6][7]
飛鳥田一雄横浜市長が1963年に当選し、横浜の五重苦と呼ばれていた関東大震災昭和恐慌太平洋戦争による空襲、米軍による占領と市内都心部の接収、および人口急増によるスプロール現象を克服することが、地域としての大きな課題となっていた。そのため1965年横浜市六大事業が提案され、都心部強化として三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線の東横浜駅(貨物駅)・高島ヤード(操車場)、高島埠頭、新港埠頭の一帯を再整備し横浜駅周辺と関内伊勢佐木町という二つに分断された横浜都心部を一体化させる「都心部強化事業」として、就業人口19万人・居住人口1万人を目標とした事業計画が打ち出された。

 これは横浜市において、二つに分断された都心を一体化させ都市機能を充実し、昼間人口や就業人口を増やすことで市内経済の活性化を目指し、地域社会の成長をめざした施策である。また東京都心一極集中から首都圏での展都という趨勢の中で、東京都心の負荷を軽減し、神奈川県の経済拠点として首都圏経済を牽引する役割を分担し、企業法人本社機能や事業所等の立地促進、企業法人の集積の波及として起こる中小企業の活性化や、新規起業者の増加などを目指している。以降、オイルショックを始めとする経済情勢の影響などにより計画が暫く進行していなかったが、1979年細郷道一横浜市長のもとで「横浜市都心臨海部総合整備計画」基本構想が発表され、三菱重工業横浜造船所等の移転完了と共に1983年に「みなとみらい21」事業としてようやく着工に至った。

 当地区の中核には、高さ296mの当時日本一高いビルの横浜ランドマークタワーがある。ランドマークタワー横の「ドックヤードガーデン」は、造船所で実際にドックとして使われていたもので、1997年(平成9年)12月に国の重要文化財に指定されている。1911年1913年にそれぞれ竣工した新港地区の横浜赤レンガ倉庫(1号館・2号館)は5年以上かけて修復工事および周辺の整備が行われ、2002年に赤レンガパークとしてオープン、現在では横浜を代表する観光スポットとなっている。また、2004年にはみなとみらい線が開通し、当地区でも新高島駅みなとみらい駅が開業した。2010年横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)にてアジア太平洋経済協力首脳会議(APEC)が開催。


 当地区の整備は、あらかじめ決められた基本的方針によって計画的に行われており、「21世紀にふさわしい未来型都市」を目指して開発が進められている。電線電話線光ファイバー)は共同溝により、上下水道などと一緒に埋設され、さらに共同溝によるごみ集積(廃棄物管路収集、2017年度末までに廃止予定)[注 3][8][9]地域冷暖房みなとみらい21熱供給が運営)を導入しており、省エネにも配慮している。また、災害・非常時の対策として臨港パーク高島中央公園ヨーヨー広場カップヌードルミュージアムパーク(新港パーク)の地下に災害用地下給水タンク(4基合わせて約4,500[注 4]、50万人分の飲料水3日分を貯水)が設置されている[10]。全ての幹線道路の歩道には街路樹が植えられ(後述)、建設される建物は白を基調(新港地区は茶色系統)とし統一感を持たせている。

 当地区の道路は、「みなとみらい大通り」・「国際大通り」の2本の大通り(主要幹線道路)[注 5]と、それらを結ぶ、さくら通り・けやき通り・いちょう通り・すずかけ通り・とちのき通り[注 6](幹線道路)で構成されている[10]。これらの通りにはそれぞれ四季を代表する種類の異なった街路樹が植えられており、みなとみらい大通りがクスノキ、さくら通りがソメイヨシノ、けやき通りがケヤキ、いちょう通りがイチョウ、すずかけ通りがプラタナス、とちのき通りがベニバナトチノキとなっている(みなとみらい大通りを除き、通りの呼び名は街路樹の種類に因む)[12]。また道路とは別に歩行者専用通路として、クイーン軸・グランモール軸・キング軸(整備中)という三つの軸が整備されている(詳細は後述)。一方、横浜港を周回する「臨港幹線道路」の一部として、山内埠頭コットンハーバー)方面へ至る連絡橋(みなとみらい橋、コットン大橋)が予定より大幅に遅れ2008年12月に開通しており、さらに同道路の国際大通り地下部分にあたる整備計画では、みなとみらい橋手前から横浜ワールドポーターズ付近まで長さ約1.3kmのトンネルが1986年度より着工され、1999年度には既に竣工していたものの交通量が見込めず維持管理費の問題等で長らく供用が延期されていたが、2013年3月に「みなとみらいトンネル」としてようやく開通に至った[13][14]。この他に今後整備予定の道路として、みなとみらい大通り(栄本町線)の橋で帷子川下流・港湾上に架かるみなとみらい大橋とそごうやスカイビルが建設されている68街区の横浜駅東口地区(出島地区)を結ぶ「栄本町線支線1号」がある。

当初は2000年頃までに街全体の完成を目指していたが、経済状態(バブル崩壊)の影響などにより計画が延長されている[17]2000年代より中田宏横浜市長や松沢成文神奈川県知事の積極的な企業誘致とともに、横浜市では企業立地促進条例が制定され、神奈川県もインベスト神奈川を策定し、市税の減額や助成金など企業の負担を軽減する措置により優良な企業立地環境の整備を行っている。2000年代半ばには日産自動車グローバル本社等、多くの企業法人の立地が進んだ。2008年末の世界的な景気後退の影響を受けいくつかのオフィスビル建設計画では中止・延期等もあったが、後任の林文子横浜市長は引き続き企業誘致に向けたトップセールスを行い、上場企業の本社機能立地が着実に進んでいる。

 当地区は現在も事業中であり2014年3月末時点の事業進捗率は約84%、暫定利用施設を除く本格利用地区の割合は約65%となっている。近年では、これまで一定期間で打ち切っていた開発事業者の公募を継続して行うようにしたり、横浜市の指定地域における環境アセスメントの緩和(条例改正)などにより開発条件の柔軟性と共に、経済状況に左右されがちだった当地区の開発にスピード性を持たせている。2013年12月時点の就業人口は約93,000人(前年比約4,000人増)と増加傾向にある。さらに首都圏における観光地、行楽地としての人気が高く、同年の来街者数は約7,200万人(前年比約500万人増)と増加を続けている。



施設

主な施設

商業施設・劇場・テーマパーク

オフィス[編集]

日産自動車グローバル本社

[転載]平成27年3月15日 大阪湾フォーラム 大阪市旭区市民交流センタ あさひ西で開催されます

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第11回 大阪湾フォーラム


第11回ほっといたらあかんやん!大阪湾フォーラム 河川(かわ)からのおくりもの
1.ねらい
 大阪湾見守りネットでは、大阪湾沿岸で活動する市民や団体の情報共有・情報交換を目的として、これまでに10回(毎年1回=10年)のフォーラムを開催してきた。この積み重ねによって、見守りネットが設立当初にめざした「大阪湾沿岸部で活動する市民・団体におけるゆるやかな連携」については十分に達成できた。と考えている。
 また、ホームページやメーリングリストの整備によって、活動紹介、参加案内、さらには団体間で連携を図っていくための基盤(インフラ)も整ってきた。
 しかし、大阪湾と接する機会の少ない大多数の市民にとって、大阪湾の現状や我々の活動に対する認知度は低いと言わざるを得ない。この原因としては、大阪湾沿岸には活動場所が少なく、メンバーも少ないことが真っ先にあげられるが、単純に場所や人数の問題だけではなく、「まだ我々にできることがあるんちゃうの?」とも考えている。我々の活動内容、情報発信方法などをもう一度見直すことによって、大阪湾の魅力、重要性(偉大さ)、我々の活動(メッセージ)をより多くの人に伝えることができるのかもしれない。
 そこで、今回のフォーラムでは、大阪湾沿岸で活動するメンバーを中心とした情報交換にとどまらず、大阪湾に流入する河川や里山など内陸部の活動についても広く学び、大阪湾に関係する地域(大阪湾圏)で広く情報交換・連携を図っていくためのきっかけとする。
 
 
2.内 容
①名  称  第11回ほっといたらあかんやん!大阪湾フォーラム
河川(かわ)からのおくりもの
②日  時  平成27年3月15日(日曜日) 9:00〜17:30
③場  所  市民交流センターあさひ西(大阪市旭区生江3−17−2)
④対  象  見守りネットのメンバー、大阪湾に流入する河川や里山で活動する団体や市民、一般の市民や事業者 など
⑤参加者目標 300人程度
⑥主催者等
・後援については今後関係する団体・組織に声かけをしていく
主  催:大阪湾見守りネット、大阪湾環境保全協議会、国土交通省近畿地方整備局神戸港湾空港技術調査事務所
後援(予定):(一財)港総合研究財団、(一財)大阪湾ベイエリア開発推進機構、(公財)国際エメックスセンター、(公社)瀬戸内海環境保全協会、(一社)大阪湾環境再生研究・国際人材育成コンソーシアム、近畿環境館 他
 

 
⑦プログラム
■午前(9:00〜12:00)
A.大阪湾と淀川をつなぐバスツアー
・ディレクター  : 山西代表、鍋島さん(技調さんがサポート)
・定 員     : 大型バス2台(80人)程度で調整
・ルートイメージ : 8:45コスモスクエア駅集合→9:00南港野鳥園湿地見学
              →10:30十三干潟見学→11:30城北ワンド見学→12:00終了
※十三干潟の見学については駐車の関係など要調整
・説明等     : 野鳥園:石井さん、十三干潟:山西さん・山西さん、
城北ワンド:河合さん
・参加者募集   : 大阪湾見守りネットホームページおよびFAX(チラシ)で
2/12(木)〜3/8(日)の期間
 
B.未来の地域コーディネーター交流会(ワークショップ)
・ディレクター  : 橋本さん(上甫木研究室がサポート)
・場  所    : 202会議室(2階) ホール(2階)も使用可能
          ※人数の都合により別の部屋を借りる可能性有
【参加団体の候補(一部調整中)】
・大阪湾  尼崎小田高校、泉鳥取高校、貝塚高校
・河 川  京都教育大学(土屋研究室)→小学生を対象とした取り組みなど
・琵琶湖  生きもの見つけたい(滋賀県甲賀市)→中高生が中心
※近畿子どもの水辺交流会の学生ボランティアが参加の可能性あり
 
C.うまい!「べっこうしじみ」のしじみ汁 試食会
・ディレクター : 大阪市漁協の方(湾協さん、釣り文化さんがサポート)
          ※漁協と調整必要、イカナゴ漁の都合によるが最低1名は対応してもらえそう
・場  所   : 403調理室(4階)
・提供時間   : 11:00〜14:00頃など分散して提供できるようにして混雑緩和
 
■午後(13:00〜17:30)
・司   会  : 中島静香さん(大阪海さくら)に依頼予定
イ 開会、趣旨説明(山西代表)【10分】
 
ロ 午前中の報告(バスツアー、ワークショップ)【30分】
 
ハ 記念講演 「(仮)生活者の目線で大阪湾の再生をめざそう」【40分】
嘉田さん(びわコミ会議、前滋賀県知事)
    場 所 : ホール(2階)
 
ニ ポスターセッション「わたしたちの川自慢」【60分】
   場 所 : 201会議室、ホール前など(2階)
・メッセンジャー(中島さん)をたてて説明付きで実施予定
・大阪湾沿岸部の取り組み/河川流域の取り組み紹介で時間を分けるなど
※会場でパーティション(2m×1.5m程度)30枚程度(A1ポスター60枚分程度)を借りることができそう。
※参加団体の募集は、別途MLや各河川の流域ネットワーク経由で行う予定だが、具体的には検討中。
 
    〜 休 憩 〜【10分】
 
ホ 話題提供 「うなぎ目線で海と川の環境を考える」【30分】
揖(かじ)さん(和歌山県立自然博物館、うなぎ専門家)
   場 所 : ホール(2階)
 
ヘ フリートーク フリートーク「海と川をつなぐには」【90分】
   場 所 : ホール(2階)
   ・コーディネート:中西さん
【フリートークイメージ】
・海側の目線、陸側の目線を理解し合う
・見守りネットとしては、今後、海と陸人が一緒に取り組んでいくきっかけにしていきたい
・今年から大阪湾再生行動計画の第二期がスタートする。
“これを機に海と川の往き来を考えていこう!”
・主な発言者はあらかじめ決めておく
    大阪湾沿岸側:花野さん(成ヶ島)、石津川の方 等
    陸    側:二枝さん(桂川流域ネットワーク)、上田さん(寝屋川)、
本庄さん(佐保川)等
 
[フリートークに関する実行委員会での議論(参考)]
・往き来を考えたときに、生物は今でも往き来している。
・昔は人も海から川を上って上流に行っていた。
・今は上流から水とごみが流れてくるだけで一方通行になっている。
・人間は往き来していない。
・生き物も河川の堰などによって行き来がしにくくなっている。これを改修すれば。
・生き物の往き来から人間の生活や文化を考えてみる
   
 

■交流会(18:30〜20:30)
 ケータリングにより会場内(201会議室または別の部屋)で行う予定
 ※別の部屋の場合、ワークショップ用の部屋を交流会で使用するなどで対応





お申し込みはこちらよりお願いします。
 
チラシのダウンロードも可能です。
Atacched File



どしどし、皆様の参加申し込みをお待ちしております。...
特にバスツアーは、事前の申し込みを必ずお願いいたします。
また、シェア拡散も重ねてよろしくお願いいたします。
【フォーラムチラシPDFファイル】
http://www.osaka-mimamori.net/info/file/chirashi2015.pdf
もっと見る


大阪湾見守りネット

   
 大阪湾見守りネット(おおさかわんみまもりネット)は、大阪湾に関心のある個人や団体からなる、ゆるやかなネットワークで、大阪湾という広域で、大阪湾再生をミッションとし、かつ大阪湾に関わる官民を問わない個人や団体をメンバーとするネットワークである。

概要

 2005年2月に開催した「ほっといたらあかんやん!大阪湾フォーラム」(主催:国土交通省近畿地方整備局)に集まったメンバーを中心に大阪湾に関心のある個人や団体からなる、ゆるやかなネットワークで、2005年11月に設立された。多様な主体がメンバーになることから、大阪湾再生に向けた情報交換や共有の場、相互理解の場としての大阪湾フォーラム開催などの活動を行っている。
 平成18年度日本港湾協会企画賞を国土交通省近畿地方整備局 神戸港湾空港技術調査事務所と連名で受賞している。仮事務局は大阪市長居公園大阪市立自然史博物館[1]

大阪湾見守りネットがめざすもの

「大阪湾見守りネット」設立趣意書には下記が示されている。
  • 魅力と活力のある、美く豊かな大阪湾の再生
  • 大阪湾の環境再生を願う個人と関係団体によるゆるやかな交流と連携
  • 「楽しく面白く」を基本に、自発的で自立的な取り組み
  • 見守りネットは、地域の市民団体、小中高校と大学、漁業関係者、企業、行政機関などと幅広い協働の取り組み

大阪湾フォーラム

2005年から毎年大阪湾のイベントとして大阪湾フォーラムを開催しており、開催場所とテーマは下記の通り。

主な会員・支援団体等



転載元: 水・土壌心の汚染対策 住金日向産廃恫喝裁判から主婦を救出しよう

[転載]住友金属鉱山日向精錬所 不法投棄恫喝裁判 第2回口頭弁論以降に、原告、被告双方から提出されました書面、証拠

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住友金属鉱山日向精錬所 不法投棄恫喝裁判
第2回口頭弁論以降に、原告、被告双方から提出されました書面、証拠


【被告】
2015年2月25日付け証拠「計量証明書」宮崎県環境科学協会
・第1工区沈殿池
・環境計量士 M.K.氏
・結果(単位はmg/l)
カドミウム  0.0096
総水銀    0.0073
セレン    0.030
鉛      2.1
六価クロム  0.02
ヒ素     0.52
シアン    0.1未満
フッ素    20
ホウ素    0.23
水素イオン濃度  6.9(27℃)

・説明
 池の様子は、水の色が黒く、吐き気のする耐え難い臭いがありました。採取した水を容器に入れるとき、地面に少しこぼれたのですが、その黒い水がくるくるっと丸く固まり、丸くなった状態でコロンコロンとしていたのを覚えています。

 第1工区沈殿池はセメント張りではなく、山の地肌にそのまま黒い水が溜まっていました。沈殿池には排水するホースがつながっており、ホースをつたい、黒い水が垂れ流しになっています。その水は西川内川にそのまま流されています。

 平成24年8月10日に受け取りました。検査をされた技師から、非常に高い数値で有害金属が検出されているので、この結果をもって相談したほうが良いと言われました。


【原告】
2015年2月25日付け「第1準備書面」
・株式会社サンアイ金丸氏に対する名誉毀損の件について、求釈明。
・グリーンサンドの有害性に関する求釈明。
・グリーンサンドが有害なゴミであることの求釈明。

・日向精錬所産廃問題ネットワークのHP資料の提示(前回の裁判で裁判長からURLの提示を、と言われた分)

2015年2月27日付け「第2準備書面」
・被告の1月27日付け、2月2日付け書面についての反論。

 被告が原告に対して何度も工事の停止を求めたことは認め、その余は否認叉は争う。

・西川内地区グリーンサンド説明会において、早川部長の発言は否認する。

・その余の部分については、被告の独自の考えに基づく意見又は本件請求とは関係ない質問に過ぎないため、認否・反論は行わない。

・被告が提出した「計量証明書」の結果には、鉛、総水銀、カドミウム、砒素など、グリーンサンドに全く含まれていない成分が検出され、フッ素やホウ素などごく微量にしか含まれない成分が大量に検出されている。全く別の場所で採取されたものを宮崎県環境科学協会に持ち込んだ可能性が高い。

 同協会に対し当該試料の入手方法等について、調査嘱託を申し立てる予定である。

・日向精錬所産廃問題ネットワークは、2回に渡り地権者に無断で調査行ったが、2回とも国の基準以下の結果が示されている。

・宮崎県は、平成24年10月、平成26年8月に検査を行っているが、国の基準値を越える結果は出ていない。

・子どもの咳については、医師の診断書等の客観的な証拠の提出を求める。

・2月2日付けで出された被告の時系列での説明に対する認否(量が多すぎるので割愛)。


【原告からの証拠一覧】
・日向精錬所産廃問題ネットワークのHPのコピー

・西川内地区グリーンサンド説明会メモ(2012年7月12日)
 この説明会ではグリーンサンドの説明をすることになっていたが、被告の夫より「グリーンサンドの安全性」の説明を求められた。また、夫からは「グリーンサンドは産廃である」「スラグで害がある」と繰り返し言われた。

 被告夫婦はグリーンサンドを「鉄鋼スラグ」と思い込み、フェロニッケルスラグとの違いを説明するも、受け入れなかった。

 地権者のうちの一人の奥さんが、「この地区に住みたいのであれば、この地区への入り方を間違っている。自分たちで波風を立てるようなことをして、この地区で生活ができると思っているのか。ここでずっと生活していくあなた方の子どものことを考えたことはあるのか?」に対して、被告夫妻は沈黙。

 被告の夫、「私は父親から勘当され、ここまで一人でやってきた。長男として、父の畑を継いでこの土地で生きていかなければならない」(意味不明、夫泣く)と、記録されている。

・被告夫妻への追加説明(平成24年8月22日18:00~19:30)

・被告からの電話メモ(2012年8月29日20:00~20:15)

・日向市と当社の同時サンプリング実施メモ(2012年10月10日10:00~12:10)

・コンクリート用骨材又は道路用等のスラグ類に化学物質評価方法を導入する指針に関する検討会(平成24年3月)

・港湾・空港工事における非鉄スラグ利用技師マニュアル(案)(平成24年3月)

・被告夫妻宅訪問議事録(2012年12月27日19:00~21:00)
 夫の発言影響力大。→「一筆書け!」

・平成25年4月16日被告夫妻アポなし来社メモ
 不退去罪を視野に入れて日向警察署が動いた日。

 最初、夫はだんまりで被告が話をしていたが、夫に「不退去罪で日向警察署が動く」と伝えると、夫は目が泳ぎ、落ち着きがないような態度だったが、騒いでいる妻に対して、「妻を説得して欲しい」と夫の要請で、なんとかおさまる。



【追記】
 第2回口頭弁論で裁判所から原告に出された宿題(被告の2月2日付け書面に対する反論書面)だけではなく、被告からも証拠として「計量証明書」が出されました。

 また、この被告の「計量証明書」についても原告から書面が出されました。

 これらの書面及び証拠を、明日の第3回口頭弁論で裁判所がどう判断するかです。

 今回の書面で、2013年4月16日までは被告の夫の影響力もかなりあったことが伺えられます。今回、独自に調査したとされる「計量証明書」が証拠として提出されましたが、原告は「医師の診断書」の提出を求めています。

 また、2月2日付けの被告の書面にあった「米の検査結果」「県工業技術センターでのフェロニッケルスラグの検査結果」等の提出も、原告から求められる可能性もあります。

http://ch.nicovideo.jp/cmm/blomaga?page=2

転載元: 日向市住友金属鉱山の不法投棄不法占拠対策

[転載]宮崎知事元秘書、100万円超提供受ける 産廃業者から

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宮崎知事元秘書、100万円超提供受ける 産廃業者から


河野(こうの)俊嗣(しゅんじ)・宮崎県知事の政務秘書(当時)が2012年ごろから今年にかけて、県内の産廃会社から計100万円超の資金提供を受けていたことが、関係者への取材でわかった。秘書は受領を認めながら、資金提供の趣旨は不明とし、今年3月に秘書を辞めた際に「(同社に)資金の残金は返した」と話している。
 産廃会社を巡っては、12年12月に同社が管理する最終処分場の水質検査記録の改ざんが、県の定期検査で発覚。同社は13年3月に県から30日間の事業停止処分を受けた。その前には同社の元社長が「何とかならないか」と秘書に要請。秘書は知事に「柔軟な対応」を求める趣旨の話をしたという。秘書は「元社長から何度も頼まれ、知事に伝えた。でも『行政的にどうにもならない』と言われた」と語った。
 知事は朝日新聞の取材に、産廃会社から秘書への資金提供について「知らなかった」と述べた。一方、知事は、水質検査記録の改ざん発覚後、同社への対応について秘書が「いろいろ柔軟な対応があるんじゃないかという趣旨のことを言っていた」と認めつつ、「行政判断が影響を受けたことはない」と語った。
 秘書は、10年12月の河野氏の知事初当選前後から後援会に勤務。県職員ではなく、知事の公務とは別に、知事の政治家としての政務を支えていた。




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産廃会社元社長ら、宮崎知事側に資金 計300万円

2014年9月1日

河野俊嗣(こうのしゅんじ)・宮崎県知事の政務秘書(当時)に100万円超の資金提供をしていた県内の産廃会社の元社長ら2人が2011年と12年、知事の後援会に会費として計288万円を出していたことが31日、知事らへの取材でわかった。両年に後援会が集めた会費総額は計383万円。元社長と同社関係者の2人で会費総額の約8割を占めた。2人は知事の別の政治団体にも両年で計12万円寄付していた。
 元社長は今年2月、火山灰処理の委託料を巡る詐欺事件で逮捕され、その後、起訴された。知事は取材に「ルールの範囲内で支援を受けたが、(元社長が逮捕・起訴され)道義的に問題がある」と述べ、元社長側に返金する意向を示した。
 知事の後援会幹部や収支報告書によると、会費を受けたのは「みやざき新生の会」。会費は月1口5千円で、元社長ら2人は11年に計48万円(8口で6カ月分、1人24万円)、12年に計240万円(20口で12カ月分、1人120万円)を出した。2人はさらに「河野しゅんじ後援会」にも、11年に計2万円、12年に計10万円を寄付した。


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宮崎県知事、政治資金収支報告の分散記載を謝罪

2014年9月5日

河野俊嗣(こうのしゅんじ)・宮崎県知事の元政務秘書が県内の産廃会社の元社長から受けていた100万円超の資金提供について、知事は5日の県議会で「政務秘書の立場で資金提供を受けるのは適当ではなかった」と述べた。後援会が2011年に元社長らから受け取った300万円を2年に分けて政治資金収支報告書に分散記載した問題では、不適切な処理だったと謝罪し、収支報告書を修正する考えを示した。
 知事によると、元政務秘書への資金提供は計160万円。12年12月~今年3月に月10万円ずつ、元秘書の口座に振り込まれていたという。元秘書への調査を踏まえ、知事は「元社長らの異業種交流会の経費で、それ以外には使っていない」と説明。今年3月の時点で残っていた約120万円を同社側に返金したという。「(元秘書は)給料の補充ではないという認識だった」と述べた。
 一方、知事は、後援会が11年に元社長らから受け取った300万円を、11年と12年に分けて二つの政治団体の収支報告書に記載していた問題については「11年の単年で会計処理すべきで収支報告書の修正を指示した。適切でない点があり、申し訳ない」と謝罪した。
 12年12月に産廃会社が管理する最終処分場の水質検査記録の改ざんが発覚し、県は同社を30日間の事業停止処分にしたが、「(元社長の)資金提供で行政判断を曲げたことは一切ない」とした。
 知事は県議会終了後の記者会見で、実態と異なる収支報告書の記載を把握していたことを明らかにした。ただ、報道されるまでこの記載が不適切とは思わなかったという。政治資金を所管する総務省出身であることを指摘されると「認識不足だったと反省している」と述べた。



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転載元: 平和で明るい街づくりのため、市民が違法行為を公安や警察に連絡

[転載]環境省 不法投棄ホットライン御中 住友金属日向精錬所の裏山と西川内地区の不法投棄について、法と正義に則って不法投棄を防止するよう環境省としてご指導いただきますよう切にお願いします。

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環境省 不法投棄ホットライン御中


いつもお世話になりありがとうございます。
 さて、住友金属鉱山のグループ会社である日向精錬所が、ステンレス原料を製造する過程から排出されるフェロニッケルスラグを付近に保育園のある丘陵部へ埋立ています。
周辺の主婦から健康被害や大気・水質・土壌汚染で困っています。 さらに、醜いのはその主婦が営業妨害等により訴えられていることです。
日向市は、日向精錬所の言いなりです。宮崎県も産業廃棄物であるか否かの議論を行わず、下流の綺麗な水を採取して分析データを公開することにより、不法投棄を黙認しています。

 フェロニッケルスラグは、コンクリート等の骨材として使用する場合は、製品ですが、一般環境中に排出する場合は産業廃棄物であり、日向精錬所は不法投棄をしていると思慮いたします。
このスラップ訴訟で、近隣住民の主婦が敗訴すると、我が国の不法投棄が、一層深刻化することを大変心配いたします。

 なにとぞ、環境省の見解をお教え頂くと共に、この不法投棄をやめさせると共に、主婦に対する理不尽なスラップ訴訟に対して、法と正義に則って不法投棄を防止するよう環境省としてご指導いただきますよう切にお願いします。





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不法投棄ホットライン

環境省廃棄物・リサイクル対策部

 大量の産業廃棄物の不法投棄など緊急に対応を要する事案についての情報を国民から直接受ける窓口として、環境省廃棄物・リサイクル対策部適正処理・不法投棄対策室に、通報専用のメールボックス及びFAXを設けております。
 大規模な産業廃棄物の不法投棄を防止するためには、不法投棄の早期発見、拡大防止に努めることが必要です。
 大規模な産業廃棄物の不法投棄や、このまま放置しておくと大規模な不法投棄につながるおそれがあると思われる現場を発見した場合等には、上記メールボックス・FAXもしくは、各自治体の「産業廃棄物不法投棄情報受付専用窓口」まで御連絡ください。
 (なお、空き缶、家庭ごみ、電化製品、自転車などの小規模な投棄事案は対象としておりません。)

宮崎県
環境森林部循環社会推進課0985-26-70830985-22-9314メール


土壌汚染対策法

第四条
   土地の掘削その他の土地の形質の変更(以下「土地の形質の変更」という。)であって、その対象となる土地の面積が環境省令で定める規模以上のものをしようとする者は、当該土地の形質の変更に着手する日の三十日前までに、環境省令で定めるところにより、当該土地の形質の変更の場所及び着手予定日その他環境省令で定める事項を都道府県知事に届け出なければならない。ただし、次に掲げる行為については、この限りでない。

 軽易な行為その他の行為であって、環境省令で定めるもの

 非常災害のために必要な応急措置として行う行為

 都道府県知事は、前項の規定による土地の形質の変更の届出を受けた場合において、当該土地が特定有害物質によって汚染されているおそれがあるものとして環境省令で定める基準に該当すると認めるときは、環境省令で定めるところにより、当該土地の土壌の特定有害物質による汚染の状況について、当該土地の所有者等に対し、前条第一項の環境大臣が指定する者(以下「指定調査機関」という。)に同項の環境省令で定める方法により調査させて、その結果を報告すべきことを命ずることができる。


環境省Q&A

土壌汚染のおそれがある土地の形質の変更が行われる場合の調査(法第4条関係)

質問:複数年にわたるような大規模な公共事業の取扱いについて現時点で複数年契約を締結済
みであり、事業自体は着工済みであるものの工区が分かれている場合、未着手の工区以降
の改変行為について、届け出るよう指導を行っても差し支えないか。
回答:差し支えない。


質問: 掘削土壌を敷地内に一時的に仮置きする場合、その場所も盛土する場所として届け出る
           必要があるか。
           また、シートや鉄板で養生し、地面と接触しないように仮置きを行う場合の届出につい
           ても届け出る必要があるか。
回答:前段及び後段ともに、盛土には該当するため土地の形質変更面積に含めて考えられたい。

質問:再生砕石を砂利にして、地面に盛る場合、法第4条第1項上、盛土扱いになるのか。




第八章 罰則

第六十五条 次の各号のいずれかに該当する者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
 第三条第三項、第四条第二項、第五条第一項、第七条第四項、第十二条第四項、第十六条第四項、第十九条、第二十四条、第二十五条又は第二十七条第二項の規定による命令に違反した者
 第九条の規定に違反した者
 第二十二条第一項の規定に違反して、汚染土壌の処理を業として行った者
 第二十三条第一項の規定に違反して、汚染土壌の処理の事業を行った者
 不正の手段により第二十二条第一項の許可(同条第四項の許可の更新を含む。)又は第二十三条第一項の変更の許可を受けた者
 第二十六条の規定に違反して、他人に汚染土壌の処理を業として行わせた者

第六十六条 次の各号のいずれかに該当する者は、三月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する
 第三条第四項、第四条第一項、第十二条第一項、第十六条第一項若しくは第二項又は第二十三条第三項若しくは第四項の規定による届出をせず、又は虚偽の届出をした者
 第十七条の規定に違反して、汚染土壌を運搬した者
 第十八条第一項(同条第二項において準用する場合を含む。)又は第二十二条第七項の規定に違反して、汚染土壌の処理を他人に委託した者
 第二十条第一項(同条第二項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、管理票を交付せず、又は同条第一項に規定する事項を記載せず、若しくは虚偽の記載をして管理票を交付した者
 第二十条第三項前段又は第四項の規定に違反して、管理票の写しを送付せず、又はこれらの規定に規定する事項を記載せず、若しくは虚偽の記載をして管理票の写しを送付した者
 第二十条第三項後段の規定に違反して、管理票を回付しなかった者
 第二十条第五項、第七項又は第八項の規定に違反して、管理票又はその写しを保存しなかった者
 第二十一条第一項又は第二項の規定に違反して、虚偽の記載をして管理票を交付した者
 第二十一条第三項の規定に違反して、送付をした者


第六十七条 次の各号のいずれかに該当する者は、三十万円以下の罰金に処する。
 第二十二条第八項の規定に違反して、記録せず、若しくは虚偽の記録をし、又は記録を備え置かなかった者
 第五十条の規定に違反した者
 第五十四条第一項若しくは第三項から第五項までの規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又はこれらの規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した者


第六十八条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、前三条(前条第二号を除く。)の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して各本条の罰金刑を科する。




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廃棄物・リサイクル対策

産業廃棄物の不法投棄等の不適正処分の現状と、その防止や支障等の除去のための対策について紹介しています。




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転載元: 水・土壌心の汚染対策 住金日向産廃恫喝裁判から主婦を救出しよう


[転載]土壌環境・地盤環境の環境影響評価と住友金属鉱山の日向精錬所と日向市西川内地区の不法投棄

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大気・水・環境負荷分野の環境影響評価技術(III)<環境保全措置・評価・事後調査の進め方>(平成14年10月)


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第3章 土壌環境・地盤環境の環境影響評価・環境保全措置・評価・事後調査の進め方

1 総論
 土壌は地殻の最表層生成物であり、地表の岩石(母岩)等がその場の気候、生物、地形、人為と経過した時間(年代)の相互作用のなかで、一定の形態と機能を獲得した自然物である。岩石の風化物は土壌の母材であるが、母材に生物-気候要素が作用すると土壌ができる。森林などにおける土壌層位は、有機物層のA0層と土壌作用に応じてA、B、C層に区分され、母岩(基盤)はR層と表記される。ただし、一般に造成工事などの改変を受けた土地および大雨による土砂流出が起きた土地等ではこのような土壌層位は認められない。
地盤は建設や防災等で対象とする人類の生活基盤・活動範囲として関係する地層部分を指し、各種構造物を支える土台としての地面および地下のある範囲をいう。地盤は、狭義には自然地盤の中の未固結地盤(土砂地盤、土質地盤)を指し、広義には自然地盤の固結地盤(岩石地盤、岩盤)や人工地盤を含めて呼称することがある。

 地質は、ある地域の土地を構成する岩石・地層の種類、重なり方の順序、空間的な配置のしかた、現在の状態にいたるまでの歴史などを包括的に示す語である。
 土壌、地盤、地質は、それぞれ明確に分けられるものではなく、図3-1-1に示すように、その扱いには共通する部分と区別すべき部分がある。
 土壌と地盤は、本来、多面的な機能(荷重支持機能、保水機能、通気機能、浄化機能、養分の貯蔵機能など)とそれに基づく様々な役割(生活・社会基盤施設を整備する場、多様な生物が生存する場、地下水を涵養する場、食料等を生産する場、廃棄物を受け入れる場など)を有しており、次世代に引き継がねばならない人類の貴重な財産である。

 本検討においては、「土壌環境」では、土壌層位が認められない人工改変地等も含めて対象とする。「地盤環境」では、人工地盤も含めて対象とする。なお、重要な地質は、別途「地形・地質」(「自然環境のアセスメント技術(III)」(環境省総合環境政策局、2001))で扱っている。
図3-1-1 土壌、地盤、地質の関わり
1-1 土壌環境の環境影響評価の進め方

1)土壌環境の環境影響評価の基本的な考え方


(1)土壌環境の特徴

 土壌は地殻の最表層生成物であるが、それは、物質循環、特に水循環やエネルギーフローに関与し、降水の流動や貯留、地下水の涵養、生態系の維持などに重要な役割を果たしている。

 土壌は、自然環境を保全する上でも重要な役割を持っている。物理的には生物の生息・生育基盤として必要な通気性や保水性を維持 し、 化学的には生物の生存に不可欠な有機物や有効成分を保持し、また、土中の土壌動物、バクテリア、菌類はその生物活動のなかで有機物の分解に深く関与している。土壌の持つこのような機能は、生物にかけがえのない生息・生育基盤を提供している。

 したがって、環境影響評価を進めるにあたっては、土壌が「環境」の基盤をなしていることや、その機能が多様でかつ相互に関与しつつ成り立っていることなどを考慮に入れておくことが重要である。

 実際の土壌環境の環境影響評価においては、物理的、化学的及び生物的な要素に係る機能として、「保水通水機能」「生態系の構成要素としての機能」「生産機能」「物質収容機能」などが代表的なものとして取り扱われることが多いので、留意が必要である。また、土壌にはレッドデータに類するような学術的・希少性の見知から評価すべきものがあり、これらの土壌の保全についても環境影響評価では考慮される必要がある。


【留意事項】環境影響評価を行うにあたっての留意事項
 土壌の有する各機能は、従属するミクロ的要素である土性や三相分布、保水性、土壌の構成等の集合体としての結果である。このため、単一のミクロ的要素にのみ焦点をあてた環境影響評価を行うことは、全体あるいは各機能としての評価に結びつかない恐れがあることに留意が必要である。
 土壌汚染は、有害物質を含む原材料や溶剤などを保管した場所、使用した場所、廃棄物を処理した場所、及びばい煙等に含まれている汚染物質が降下した範囲など、汚染物質の移動経路に沿って発生する。したがって、これらの発生源や移動経路における汚染物質の環境中への負荷を回避・低減することにより、事業実施による新たな土壌汚染の発生を未然に防止することができる。
 その他、鉱脈や地層特性に起因する自然由来の土壌汚染や、温泉開発等の施工により周辺環境に新たな環境負荷を及ぼす場合があることに留意が必要である。

 土壌汚染が発生することによる周辺環境への影響は、人の健康への影響だけでなく、生活環境への影響、生態系への影響など多様である。また、土壌汚染対策を行なうことによる土壌環境の変化が、周辺環境の土壌機能などに影響を及ぼす可能性もある。したがって、周辺の土地利用や水系等の地域特性や事業特性を十分に踏まえた環境影響評価が必要である。
 環境影響評価の対象となる開発事業においては、切土、盛土、埋立などによる土地の改変行為や地下水環境の変化などにより土壌の持つ機能や構造が変化する。したがって、土壌環境の環境影響評価は、生産活動や自然由来による土壌汚染と地下水環境や多様な生態系の保全などに関係する土壌機能の側面から捉えることが必要である。



図3-1-2 土壌環境と生態系の関わり
A層:土壌の最上部で、有機物の集積によって生成され、腐植にとみ、植物が直接生活する土層である。
B層:A、C層の中間で、C層よりも風化が進み、A層からの酸化物が集積する層である。
C層:母岩の風化したもので、A、B層のベースとなる。土壌生成を受けていないため、土壌の母材とされる。
R層:風化されていない岩石の組織を残した、固い部分の母岩層である。







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(2)調査・予測・評価のあり方

 土壌環境への影響は、土壌機能の劣化という形で現れる。土壌機能の劣化は、例えば土壌の質的な劣化をもたらす土壌汚染や土壌構造の撹乱という視点からとらえることができる。
 地表面の改変などの行為や施設の存在などの土壌機能に影響を与える「影響要因」は、事業特性を踏まえて想定する必要がある。そして、これらの影響要因が、土壌機能の他、地域の水環境や生態系などの環境に与える影響も考慮して環境影響評価の対象とする環境要素を検討する。
 その際、影響要因及びそこから派生する影響については、事業による影響の時間的変化や長期における累積的な影響などの時間的な側面を捉えていくことが重要である。
 従来から利用されている環境要素-影響要因マトリクスによる項目の整理、項目間の関連等の検討に加え、検討漏れを防止する観点等からはインパクトフロー図を利用して検討することも有効である。インパクトフロー図により、事業が土壌機能や他の環境要素にどのような過程を経て影響を与えるか、また、相互に関係を持っている影響要因と環境要素との伝播経路を示すことができるからである。
 なお、主務省令では標準的な影響要因が示されているが、これを参考にしつつも、これにこだわらず土壌環境を構成する環境要素に対する影響を捉える観点から、幅広く抽出することが必要である。また、効率的でメリハリの効いた調査項目等の設定をするために、環境要素・影響要因の抽出において、「重点化」「簡略化」を意図して項目の追加と削除を適宜実施することも重要である。
表3-1-1 影響要因と環境要素の変化とマトリクスの例
注)表中○印は、影響を受ける可能性があることを示す。


【留意事項】土壌構造の撹乱について
 土壌は、図3-1-2にあるような断面形態等の撹乱により劣化する。撹乱は、[1]土壌が消失する場合、[2]断面構造等が乱される場合、[3]構造は存在するが被覆等が行われる場合等に大別される。水循環や植生等の着目する項目により、取り扱う際の考え方が異なることに留意が必要である。
図3-1-3 インパクトフロー図の例

 土壌汚染による環境影響の回避・低減のためには、汚染状況によっては、単に、環境基準達成の有無を調査するだけではなく、汚染物質の移動・拡散経路や汚染物質の暴露経路について検討の上、周辺環境等への影響を予測・評価することが必要となるケースもある。また、人の健康への影響を第一義的に対象とすることが重要であるが、周辺の環境条件によっては、生活環境への影響、さらには生物の生息・生育等への影響も対象とすることが必要な場合もある。なお、土壌汚染による環境影響の回避・低減のための取組みが、他の環境要素に対する新たな環境影響の原因となる可能性もあることに留意した評価が必要である。

 以上のことを考慮し、土壌の質的な劣化をもたらす土壌汚染の環境影響評価にあたっては、次の事項に留意が必要である。

・対象地における土壌汚染のとらえ方

・土壌汚染の実態

・事業実施前における周辺環境への影響

・事業実施(施工・土壌汚染対策工事)による環境リスクの発生

・事業活動による新たな土壌汚染の発生及び周辺環境への影響

 なお、土壌汚染は大気汚染や河川・海域等の水質汚濁とは異なり、残留性・蓄積性の高い汚染であるという特徴を持っているため、事業実施前に発生していた土壌汚染が、事業実施時点で顕在化することが多い。そのため、事業実施前の土壌汚染の状況については、スコーピングにおける既存資料調査による把握が困難な場合も多い。従って、地域特性の調査段階で十分な現地調査を行うことや環境影響評価実施段階におけるフィードバック、項目・手法の見直し、目的や視点の修正についても、留意することが重要である。

 また、土壌汚染対策法等の法令の整備が進められていることから、特に土壌汚染に起因する直接摂取および地下水溶出による環境への影響に配慮した調査・検討が必要である。









【留意事項】
事業実施区域における土壌汚染のとらえ方について

一般に土壌汚染とは、環境基準等に定められた有害物質が基準値を超過して土壌中に存在することをいい、原因としては人為的要因による場合と自然的要因の場合とがある。
しかしながら環境影響評価の観点においては、周辺の土地利用、水系等の地域特性や建設発生土の外部への搬出の可能性など事業特性を踏まえた土壌汚染のとらえ方が必要となる。
事業実施区域の土壌汚染の実態

環境基準等に照らし合わせた土壌汚染状況の把握が基本となるが、事業実施区域の特性を踏まえた実態を把握することが必要となる。
また、環境影響の低減を図るためには、特に汚染源の位置、汚染物質の地中への浸透・移流および拡散のメカニズムを把握することが重要である。
事業実施前における周辺環境への影響

事業計画以前の人為的要因によって発生した土壌汚染の周辺環境への影響について把握する。その際、事業実施区域の土壌汚染の状況を踏まえて、影響を受ける対象(人の健康、生活環境、生物の生息・生育等)の特定と対象までの移動経路及び影響の程度について調査、検討する。
また、この検討結果に基づいて、何らかの環境保全対策が必要であるかどうか、必要な場合にはどのような方法があるかを検討する必要がある。
事業実施(施工・土壌汚染対策工事)による環境影響の発生

事業実施時に汚染物質が移動する可能性や新たな土壌汚染の発生、土壌汚染対策工事による環境への影響の可能性について評価する必要がある。

<汚染物質が移動する例>
[1]掘削工事や解体工事に伴う汚染土壌の運搬や、大気中への飛散によって汚染物質が周辺環境に移動する。
[2]浄化対策工事中の排気や排水によって汚染物質が周辺環境へ移動する。
[3]不適切な汚染土壌の場外への搬出により汚染物質が周辺環境へ移動する。

<新たな土壌汚染が発生する例>
[1]埋立や盛土として搬入した土壌が汚染されており、新たな土壌汚染が発生する。
[2]事業現場内の有害物質が封入されている施設の破壊により、土壌汚染が発生する。
[3]薬液注入等で使用する薬剤の不適切な取り扱いにより、土壌汚染が発生する。
<土壌汚染対策工事により新たな環境影響が発生する例>
[1]土壌の入れ替えにより、従前の土壌が有していた機能が損ねられる。
[2]遮水構造の施工等により、帯水層の遮断等、地下水環境への影響が発生する。
[3]土壌改良による土壌の物理性や間隙水の水質の変化により、生態系への影響が発生する。
事業活動による新たな土壌汚染の発生及び周辺環境への影響

事業内容に応じて、新たな土壌汚染の発生の可能性について評価する必要がある。

<新たな土壌汚染が発生する例>
[1]排水経路やピット、タンクからの漏洩により、土壌汚染が発生する。
[2]廃棄物浸出液の地下浸透により、土壌汚染が発生する。
[3]排ガス、ばいじん等の降下により、土壌汚染が発生する。
[4]配管・タンク等の破損や火災、輸送時の事故等により、土壌汚染が発生する。
(3)土壌環境と他の環境影響評価項目との関係

 土壌環境の劣化は、「水循環系」の構成要素としての水環境に対する影響や、生物の生息・生育の基盤としての「生態系」への影響など、他の環境影響評価で対象とする環境要素と密接に関係する。土壌環境の調査・予測・評価は他の項目の調査・予測・評価と深く関わる場合もあることから、関係が想定される環境要素を視野に入れた検討をすることなども必要である。
 例えば、土壌汚染に対しての環境リスク低減方策が、土壌が本来有していた環境上の機能(保水・通水機能や生物の生息・生育基盤としての機能等)を損ねる可能性がある。また、土壌は高等植物から土壌動物、土壌微生物にいたる陸上生物の重要な生息・生育基盤であるため、生物多様性分野に係る環境影響評価を行う場合には、土壌機能と「生態系」との相互関係に配慮した検討が必要となる。

【留意事項】関連が想定される環境要素の例
[1]
「土壌機能」⇔「水循環」


土壌の保水・通水機能と水循環は相互に密接な関係を有しており、水循環の状態を規定する要因となることに留意が必要である。例えば、不圧地下水を貯留する帯水層の下部に分布する難透水性の古土壌は、水循環に関わっているなど。

[2]
「土壌機能」⇔「生態系」


生態系は生物の生息・生育環境ならびに生物相互の関係を通じて多様な機能を有するが、特に土壌の調査・予測・評価においては、高等植物の生産機能、土壌動物、土壌微生物の生物分解機能、土壌吸着等の浄化機能等の環境保全機能に着目する必要がある。

[3]
「土壌汚染」⇔「地下水」


土壌汚染は地下水汚染の原因となるおそれがある。地下水汚染があると溶出した汚染物質が地下水の移流等によって周辺環境へ移動するおそれがある。従って、土壌汚染の調査・予測・評価は地下水汚染の調査・予測・評価と深く関わる場合もある。


[4]
「土壌汚染」⇔「大気」


汚染物質を含む土壌の飛散は、局所的な汚染の原因となるおそれがある。また、揮発性物質や悪臭成分を含む汚染土壌が施工等により露出した場合には、これらの成分が周辺に移動し、人の健康への影響及び生活環境への影響(悪臭)を及ぼすおそれがある。

[5]
「土壌汚染」⇔「表流水」


汚染された土壌中に含まれた汚染物質の降雨浸透に伴う溶出・移流による直接流出、汚染物質を含む土粒子の流出などによる表流水の汚染のおそれがある。また、油による汚染土壌と接した水域に油膜が発生するなどの生活環境への影響のおそれもある。

[6]
「土壌汚染」⇔「土壌機能」


土壌汚染による環境保全対策としての覆土、舗装や土の入れ替えによって、降雨の浸透等の条件が代わることにより保水機能や通水機能が損なわれるおそれがある。また、遮水壁など、汚染土壌・地下水封じ込め施設の施工により、帯水層が遮断されるなど地下水環境への影響が発生するおそれもある。

[7]
「土壌汚染」⇔「生態系」

生態系は生物の生息・生育環境並びに生物相互の関係を通じて多様な機能を有するが、土壌汚染の環境保全対策により、土壌水等の物理性や間隙水の水質等が変化することにより、生態系が乱されてしまうおそれがある。


(4)調査・予測・評価の「重点化」「簡略化」

 土壌環境は種々の要素が互いに影響を及ぼしつつ成り立っていることから、調査・予測・評価の項目・手法を選定するにあたっては、広い視点に立って検討していくことが必要である。検討に当たっては、事業特性、地域特性を十分考慮して、必要に応じて重点化、簡略化を行うことが重要である。
 重点化、簡略化の検討にあたっては、環境影響の程度、環境影響を受けやすい地域または対象の有無、および既に環境が著しく悪化している地域の存在の有無等を考慮する。この際、どのような理由により重点化、簡略化したかを検討の経緯を含め整理しておくことが重要である。

2)土壌環境の環境影響評価の手法

(1)地域特性把握の調査

 地域特性把握のための調査は、対象地域の環境特性を把握し、適切な環境影響評価のための調査・予測・評価の項目と手法を決定するための基礎資料を整理するものである。
 特に現地踏査とヒアリングは環境影響評価や土壌調査に十分な経験を有する技術者が担当し、既存資料調査で把握した情報の確認・修正や、既存資料からは把握することができなかった地域情報の補完を行う必要がある。
 土壌汚染に関する調査は、基本的に土地利用や操業活動の履歴等について既存資料の収集整理及び現地踏査により行う。一方、土壌機能に関する調査は、直接的に事業を行う範囲にこだわらず、例えば水循環系の構成要素である地形・地質や陸域生態系の基盤としての土壌として考えた場合の影響範囲という視点で地域特性を調査することも重要である。


【留意事項】地域特性把握の調査項目(例)

<自然的状況>

周辺の水文地質(地形、地質、水文地質、地下水流動)
水系の分布
土壌の状況
植生の状況


<社会的状況>
過去の土地利用(登記簿、過去の地形図、過去の航空写真)
操業活動の履歴(汚染物質の使用状況、汚染物質の保管・運搬状況、排水・廃棄物の発生・処理状況、施設の破損や事故の履歴)造成の履歴(切土、盛土、埋立の記録)
地下水利用(井戸の有無及び位置、地下水質)
周辺の土地利用(過去、現在における敷地外の事業活動に関する情報 [業種、排気塔の位置等])
法令・基準の状況(土壌汚染等に係る各種の法令・基準、自治体等による条例・要綱等の規制)

(2)環境影響評価項目の選定

 環境影響評価項目は、事業特性から抽出された影響要因と、事業実施区域及びその周辺の地域特性から抽出された環境要素との関連に基づき設定する。
 土壌環境についての環境影響評価項目を選定する場合には、直接的な土壌の喪失、解体工事、施設建設工事及び供用後の汚染物質の使用や廃棄等が原因となって発生するものの他、事業を行うことによる地表面被覆形態の変化や地下水流の分断に起因したものや、生態系への影響が想定されるもの等にも着目することが必要である。
 土壌機能に関する環境要素は、「土壌の保水通水機能」や「物質収容機能」の保全を考慮して、土の保水性、土性や養分保持力等の物理的・化学的な変化に関連する項目を選定する。

 土壌汚染に関する環境要素は、主に法令等により基準の設けられている有害物質が対象となるが、新たに有害物質として認知されるようになった物質や、法令等の規制対象外の物質であっても生活環境に影響を与える物質(悪臭物質、油等)や住民等の関心の高い物質等については留意が必要である。
 なお、主務省令で定められた環境影響評価項目は、対象となる事業毎に標準的な事業内容について実施すべき項目を定めたものであり、事業特性や地域特性は個々の事業で異なることから、常に項目の追加・削除の必要が生じることに留意が必要である。

(3)土壌環境の調査

[1]調査項目の検討

 調査項目は、環境影響評価項目の選定における検討内容を踏まえ、重要と考えられた項目についてその現況を調べ、事業による影響要因が時間的・空間的にどのように環境要素に作用するかを予測・評価できるように選定することになる。従って、この段階において事後調査を考慮にいれた調査項目等の検討を行うことが必要である。
 現況調査においては、地域特性把握の調査結果及び対象事業の特性から、事業実施により影響を及ぼすと想定される環境要素に係る項目の現況を詳細に把握することが必要である。さらに、対象となる環境要素以外にも、環境要素と関連性の高い項目や予測・評価において用いるパラメータの設定等において必要となる項目についても、地域特性把握調査で得られたデータが不十分な場合には調査を実施する必要がある。

 土壌汚染については、社会特性および地域特性を考慮しつつ表3-1-2に示す項目について留意し、土壌機能については、多くの環境要素と多様に関連するため、土壌機能を構成する重要な要素について着目し評価することが必要である。この際、各構成要素は互いに密接に関連していることから、単一の構成要素にとらわれることなく、対象地域の土壌機能の特徴を把握できるような項目を選定することが重要である。


【留意事項】土壌汚染に係る調査項目の例
<水文地質に関するパラメータ等>
 地質構造、帯水層区分、地下水位、地下水成分、地下水流動方向、帯水層定数等
<汚染物質に関する情報>
 汚染物質の種類、土壌・地下水中の汚染物質濃度分布等
<土壌・帯水層中の物質移動に関するパラメータ等>
 汚染物質の吸着特性、汚染物質の分解特性、透水係数、透気係数等
<土壌汚染対策に伴う周辺環境への影響予測のために必要なパラメータ等>
 粘土層の分布と土質定数(圧密特性)、土壌の不飽和浸透特性、土壌水の成分等


【留意事項】土壌機能(保水・通水機能、生産機能、物質収容機能)に係る調査項目の例

<保水・通水>
 土性、土壌硬度、三相組成、浸透能、保水力、透水性、腐植等

<物質収容>
 pH、EC、窒素、リン酸、塩基類、CEC、微量元素等

<生育機能>
 表土の厚さ、有効土層、礫含有量、土地の乾湿、肥沃度等

<生物の生息・生育>
 種数、存在数等

<土壌の構成>
 土壌の断面、土壌の層位・層厚、鉛直方向の構成、堆積腐植層厚等


表3-1-2 主な有害物質
 土壌環境基準で定められている物質 公共用水域等における要監視項目
カドミウム、全シアン、有機燐、鉛六価クロム、砒素、総水銀、アルキル水銀、PCB、銅、ジクロロメタン、四塩化炭素1,2-ジクロロエタン、1,1-ジクロロエチレン、シス-1,2-ジクロロエチレン、1,1,1-トリクロロエタン、1,1,2-トリクロロエタン、トリクロロエチレン、テトラクロロエチレン、1,3-ジクロロプロペン、チウラム、シマジン、チオベンカルブ、ベンゼン、セレン、ふっ素、ほう素、ダイオキシン類
ニッケル、モリブデン、アンチモン、クロロホルム、トランス-1,2-ジクロロエチレン、1,2-ジクロロプロパン、p-ジクロロベンゼン、イソキサチオン、ダイアジノン、フェニトロチオン(MEP)、イソプロチオラン、オキシン銅(有機銅)、クロロタロニル(TPN)、プロピザミド、EPN、ジクロルボス(DDVP)、フェノブカルブ(BPMC)、イプロベンホス(IBP)、クロルニトロフェン(CNP)、フタル酸ジエチルヘキシル、トルエン、キシレン
注)土壌環境基準は、ダイオキシン類を除き環境基本法に基づく。ダイオキシン類の土壌環境基準は、ダイオキシン類特別措置法に基づく。
公共用水域等における要監視項目は、水質汚濁に係る環境基準についての一部を改正する件及び地下水の水質汚濁に係る環境基準についての一部を改正する件の施行等について(平成11年2月22日環水企第58号・環水管第49号)に基づく。


[2]調査地域の設定

 土壌環境の調査地域は、直接的に事業を行う範囲とその周辺地域の他、地域特性把握の調査及び環境影響評価項目として選定した項目の影響が想定される範囲とする。
 土壌機能の場合は、事業により改変を受ける範囲のみならず、水循環における土壌機能の果たす役割は大きいことを考慮して、地下水位が変化する範囲や地形変化などにより日照条件や大気環境が変化する範囲を考慮して設定する必要がある。
 土壌汚染の場合、対象事業の特性や地域特性を踏まえた上で、影響が及ぶ可能性のある範囲を設定することとなるが、距離で一律に範囲を設定するのではなく、事業実施による地下水汚染や大気経由で汚染が拡散するおそれが考えられる範囲や生態系への影響を考慮した範囲を設定する必要がある。また、汚染土壌を事業区域外に搬出して処理する場合には、搬出先も調査地域に含むことも必要である。


[3]調査手法の考え方

 土壌機能の調査は、対象地域における土壌の分布と特性を明らかにするための調査であり、代表的な地点を選定して土壌断面調査を実施し、土壌の層位など鉛直方向の特性を把握する。土壌断面の形態的特徴や選定された土壌機能を構成する物理的・化学的な特性を把握した上で土壌分類を行うとともに、分類された各土壌単位の境界線を現地踏査により明らかにして土壌図を作成する。作成した土壌図を基本とし、必要に応じて焦点を当てた環境要素を土壌図に織り込んでいくことが基本的な調査手法となる。この際、他の「水環境」や「生態系」との整合を考慮した調査の他、近年、開発が進んでいる傾斜地等については、密接な関連を持つ「地形」についても把握することが必要である。


【留意事項】基本的な調査手法
[1]地形と土壌
岩石の風化作用や水による侵蝕作用により形成された地形は、土壌型に影響を与えていることに留意することが必要であり、特に傾斜地等の土壌型の分布は、微地形等と密接に関係している。
[2]土壌断面調査
調査地域に分布する主要な土壌を網羅するように、地形・地質及び植生等と土壌の分布との関連に留意し調査地点を設定する。調査地点に試坑を掘り、土壌断面について色、土性、土壌構造、堅さ、根の分布等について観察する。
[3]土壌の物理的・化学的特性調査
各調査地点について、その代表的な土壌を可能であれば土壌層位別に試料をサンプリングし、物理的・化学的な特性の分析を行う。
[4]土壌分類
上記[1][2]に基づき、類似の断面形態を示す土壌をグルーピングして土壌タイプの分類判定を行う。この際、わが国における土壌分類(「土地分類基本調査による統一的土壌分類、経済企画庁」「林野土壌分類、林業試験場」「農耕地土壌分類、農業技術研究所」等)に準拠して土壌分類を行う。
[5]土壌の分布状況
対象地域を踏査しながら上記で分類した各土壌タイプの分布境界線を決定し、土壌分布図を作成する。境界線の決定に際しては、地形や母岩、植生等も考慮しつつ、検土杖などを利用して行うと効果的である。この際、利用する地図の縮尺は、事業規模等などを考慮して、できる限り大縮尺のものとする。
[6]土壌動物を用いた環境診断
近年、土壌動物を利用した方法も注目されている。この方法は、重要種に注目するのではなく、環境変化に対する感受性(適応力)の差によってあらかじめ3群に区分した動物の出現状況に着目するものである。感受性の高い動物群がより多く存在すれば、自然の豊かさが大きいと判定される。(詳細は技術シートを参照のこと)
[7]植生を用いた環境診断
植生は土壌特性によっても規定される。このことから、植生を調べることにより逆に土壌の特性が大まかに推測できる。
[8]

保水性(pF)試験
保水性試験結果から、保水形態による土壌水の分類(毛管水、重力水、膨潤水、吸湿水等)が可能である。また、得られるpF値によって、土壌水分の移動状況や植物生育との関連状況が大まかに推測できる。



 土壌汚染調査は、調査によって得られたデータと事業特性や地域特性から汚染機構の解明と、汚染物質の移動経路の特定を行い、これらの結果より土壌汚染及び土壌汚染対策による環境への影響を評価することを目的とする。

 土壌汚染調査によって、土壌汚染の実態を把握し、汚染物質の移動経路を特定するには、調査対象地域の条件(既存資料の充実度、土壌汚染が発生している可能性、地域の地形・地質・地下水の特性、予想される周辺環境への影響)が様々であるため、地域特有の条件に合わせた進め方で調査を行うことが必要となる。このような極めて複雑な諸条件に合わせて客観的かつ合理的に調査を進めるためには、調査をいくつかの段階に区分し、それぞれの段階毎に目的をもった調査を実施することが重要である。





転載元: 公徳心は、みんなが力を合わせて徳を積む心がけです

[転載]水産資源保護法  罰則

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水産資源保護法
(昭和二十六年十二月十七日法律第三百十三号)

最終改正:平成二六年六月一三日法律第六九号

第三十六条 次の各号のいずれかに該当する者は、三年以下の懲役又は二百万円以下の罰金に処する。
 第四条第一項の規定による禁止に違反して漁業を営み、又は同項の規定による許可を受けないで漁業を営んだ者
 第五条から第七条までの規定に違反した者

第三十六条の二 第十三条の二第一項の許可を受けないで、同項の輸入をした者は、三年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。

第三十七条 次の各号のいずれかに該当する者は、一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
 第十三条の三第一項、第十三条の四又は第二十四条第一項の規定による命令に違反した者
 第十三条の三第二項若しくは第三項又は第二十五条の規定に違反した者
 第十八条第一項の許可を受けないで、同項の工事をした者
 第二十三条第一項又は第二項の規定による制限又は禁止に違反した者


第三十八条 第三十六条又は前条第二号(第二十五条に係る部分に限る。)の場合において、犯人が所有し、又は所持する漁獲物、漁船又は漁具その他水産動植物の採捕の用に供される物は、没収することができる。ただし、犯人が所有していたこれらの物件の全部又は一部を没収することができないときは、その価額を追徴することができる。


第三十九条 第三十六条から第三十七条までの罪を犯した者には、情状により、懲役及び罰金を併科することができる。


第四十条 次の各号のいずれかに該当する者は、六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。
 第十三条の五第一項の規定による報告をせず、若しくは虚偽の報告をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した者
 第二十三条第三項の規定に違反した者
 第二十七条の規定による届出をせず、又は虚偽の届出をした者
 第三十条第一項の規定による報告をせず、又は虚偽の報告をした者


第四十一条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務又は財産に関して、第三十六条から第三十七条まで又は前条の違反行為をしたときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対し、各本条の罰金刑を科する。



転載元: 平和で明るい街づくりのため、市民が違法行為を公安や警察に連絡

日向精錬は1974年ごろには山を削っていた。2009年にはドンどん削っていた

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日向精錬は1974年ごろには山を削っていた


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1975年

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2009年にはドンどん削っていた
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ジョン万次郎資料館って良かったですよ

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ジョン万次郎


ジョン万次郎、1880年頃


  ジョン万次郎(ジョン まんじろう、文政10年1月1日1827年1月27日) - 明治31年(1898年11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての人物。日米和親条約の締結に尽力し、その後通訳教師などとして活躍した。ジョン・マン(John Mung)とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、昭和13年(1938年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたため広まったもので、それ以前には使用されていない。




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生涯

生い立ち、漂流と渡米

萬次郎少年と仲間達の群像(海の駅あしずり)


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  文政10年(1827年)、土佐国中濱村(現在の高知県土佐清水市中浜)の半農半漁の家の次男に生まれた。万次郎が8歳の頃に死去した父や、病弱な母と兄に代わって幼い頃から働き、家族を養った。寺子屋に通う余裕が無かったため、読み書きも殆ど出来なかった。
 
 天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。

 同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校、1844年弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語数学測量航海術造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。


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捕鯨生活と帰国

万次郎らが上陸した琉球の大度海岸(現在の沖縄県糸満市)


 学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれた(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位は譲った)。1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。1850年嘉永3年)5月、日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。

 嘉永4年(1851年2月2日薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。

 薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2ヶ月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰る事が出来た。


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帰国後の活躍

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 帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎岩崎弥太郎などを教えている。
 嘉永6年(1853年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。 この頃、大鳥圭介箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。


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 藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、もともと士分でない万次郎が、アメリカ人とも臆することなく対等に交友することをやっかむ者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは万次郎1人だったため、ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中スパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳[1]の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。

 万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。

 万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

 文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。万次郎が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。 文久2年、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、細川潤次郎などの士民に英語の教示を行っている。

 慶応2年(1866年)、土佐藩開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入。
 慶応3年(1867年)には、薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。
雑司ヶ谷霊園の墓

  明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機した。帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。更に帰国途上にハワイにも立寄、旧知の人々と再会を果たした。

 帰国後に軽い脳溢血を起こし、数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。

明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷ついている。

社会的影響

ジョン万次郎像(足摺岬)
  • 嘉永5年(1852年)、土佐藩絵師河田小龍(川田維鶴)により漂流記『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』がまとめられた。
  • 坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われ、激動の幕末における影の重要人物である。
  • アメリカの様々な文物を紹介し、西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与えた。

人物

  • 奢ることなく謙虚で、晩年は貧しい人には積極的に施しを行い、役人に咎められても続けていたという。
  • 甘いものや、うなぎ蒲焼が好物だったという逸話が残っている。
  • 外国の文物を説明する際、鉄道など言葉に置き換えて説明することが難しいものは絵を描いて図解を試みたものの、絵が不得意で幼児並の絵を描くことしか出来ずにずいぶん苦労したようである。

日本初

  • ABCの歌』を日本に初めて紹介した。
  • 日本で初めてネクタイをしたとも言われる。
  • 初めて鉄道蒸気船に乗った日本人でもある。
  • 日本人で初めて近代式捕鯨に携わった。
  • 日本人で初めてアメリカのゴールドラッシュといわれる金の採掘に携わった。
  • 『新アメリカ航海術』を和訳している。

アメリカとの交流

  • 日本にいる万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けている。
  • また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォードフェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられている。


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ジョン万次郎と英語

  • ジョン万次郎は、英語を覚えた際に耳で聞こえた発音をそのまま発音しており、現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっている。万次郎が後に記述した英語辞典の発音法の一例を挙げると、「こーる」=「cool」・「わら」=「water」・「さんれぃ」=「Sunday」・「にゅうよぅ」=「New York」など[2]。実際に現在の英米人に万次郎の発音通りに話すと、多少早口の英語に聞こえるが、正しい発音に近似しており十分意味が通じるという実験結果もあり、万次郎の記した英語辞書の発音法を参考に、日本人にも発音しやすい英語として教えている英会話教室もある。
  • 万次郎は武士階級ではなく漁民であり、少年期に漢文などの基本的な学識を身に付ける機会を得ずに米国に渡ったため、口語の通訳としては有能だったが、文章化された英語を日本語(文語)に訳することが不得手だったとされる。そのため西洋の体系的知識を日本に移入することが求められた明治以降は能力を発揮する機会に恵まれなかった。

著名な家族

  • 中濱東一郎 - 万次郎の長男。医師。
  • 中濱絲子 - 万次郎の孫。与謝野鉄幹の門下生。「白藤の君」と謳われ、晶子と同時期「明星」等で活躍した歌人。

著書

  • 『英米対話捷径』 - 日本最初の本格的英会話教本とされ、全213の日常会話対訳を掲載。1859年刊。

脚注

  1. ^過去二度のペリーとの通訳を務めた、嘉永6年(1853年)の際の堀達之助は役目を外され、嘉永7年(1854年)の際の森山栄之助は既に幕府から退いていた。
  2. ^一番有名な例は「掘ツタ芋イヂルナ」What time is it now?なのだが、『英米対話捷径』にはなく、原典は発見されていない。
  3. ^猪瀬 直樹 『黒い雨』と井伏鱒二の深層

関連項目

舞台
楽曲

外部リンク


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[転載]細島港の日向精錬所裏山の廃棄物不法投棄と海の汚濁が分かる写真

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細島港の紹介
 細島港は、古くから東九州の海上交易拠点として、また、日向延岡地区新産業都市の中核港として重要な役割を果たしてきました。
平成5年に韓国・釜山港との間に外貿コンテナ定期航路が開設されて以来、神戸航路(経由)、台湾航路が次々に開設されています。これらの航路開設に伴い、コンテナ取扱量も順調に伸び続けてきております。
 また、平成12年には国際化に伴う貨物船の大型化等に対応するため、国及び県が整備を進めてきた多目的国際ターミナルが完成し、益々国際貨物輸送の中核として期待されています。
本港の背後圏においては、東九州自動車道等の陸上交通網の整備が進められており、本港の東九州における交通の結節点としての重要性が今後飛躍的に見込まれます。
 細島港はこのような背後圏の要請に対応した物流機能の充実を図るとともに、港内静穏度の向上を図るための外郭施設等を整備し、新たな21世紀の国際港を目指しています。





■実施事業の概要


外郭施設南沖防波堤 600m
係留施設岸壁水深-13.0m(40,000t級)延長260m 1バース
水域施設泊地水深-13.0m

●所在地 日向市
●港湾区域告示 昭和28年3月
●港湾区域面積 1,289ha
●重要港湾指定 昭和26年1月
●入港船舶数(H25)3,322隻
●入港船舶総トン数(H25)4,776千トン
●貨物取扱量(H25)4,435千トン(速報値)


細島港の定期航路


■細島港の取扱貨物量の推移

■細島港のコンテナ取扱量の推移



■細島港の取扱貨物量(平成25年)(速報値)


細島港の取扱貨物品目別シェア(平成25年)(速報値)


 
 
  



細島港

   
細島港 所在地 国 所在地座標詳細 開港 管理者 種類 泊地面積 陸地面積 面積 重要港湾指定 水路深度 統計 統計年度 発着数 貨物取扱量 主要輸出品 主要輸入品 公式サイト
日本の旗日本
宮崎県日向市
北緯32度26分3秒
東経131度39分4秒
1587年
宮崎県
重要港湾
12.89km2 (4.98 sq mi)
2.63km2 (1.02 sq mi)
15.52km2
1951年(昭和26年)1月19日
13メートル (43 ft)
2009年
3,415(2008年)[1]
減少4,350,886トン[2]
化学薬品
染料・塗料・合成樹脂
金属鉱、石炭
細島港 Hososhima Port - 宮崎県
細島港湾合同庁舎

  細島港(ほそしまこう)は、宮崎県日向市大字細島、竹島町、船場町、大字日知屋周辺に広がる港湾である。港湾管理者は宮崎県。港湾法上の重要港湾重点港湾)、港則法上の特定港に指定されている。古くから利用されてきた細島商業港漁港)と、その北方約1キロメートルの位置に増設された細島工業港及び白浜港からなる。
 商業港は東へと開けた入り江の奥にあり、港を囲むようにして南北に半島が突出している。細島港は宮崎県で唯一税関支署(門司税関細島支署)が設置されている港湾であり、海外(韓国釜山港台湾基隆港高雄港など)と国際定期コンテナ船が就航している。


主な施設

国際コンテナターミナル

釜山 - 馬山 - 下関 - 大分 - 細島 - 釜山
釜山 - 博多 - 釜山 - 志布志 - 油津 - 細島 - 釜山
釜山 - 門司 - 那覇 - 志布志 - 細島 - 大分 - 釜山
基隆 - マニラ - 高雄 - 基隆 - 那覇 - 志布志 - 門司 - 中関 - 松山 - 広島 - 細島 - 基隆

歴史

 日向市にある鉾島神社の縁起書には神武天皇東征の途中ここに立ち寄り鉾を祀ったとの記述がある。細島の名称は港を囲む細長い半島に由来するという説に加えて鉾島が転訛したという説がある。
 美々津港とともに大隅薩摩方面と瀬戸内海を往還する船の中継地として栄え、日明貿易の船やポルトガル船も立ち寄ったという。[3]また、倭寇もたびたび港を利用したといわれている。1933年(昭和8年)年に洪武通宝3貫が発掘されている。

 1587年天正15年)に足利義昭の使者がこの港を利用したという記録があり、1600年11月4日(慶長5年9月29日)には関ヶ原の戦いから薩摩国へ撤退する島津義弘が寄港している。

 江戸時代初期は延岡藩の管理下に置かれたが、藩内で起きた山陰・坪谷村一揆の処分によって1692年(元禄5年)から江戸幕府の直轄領(天領)となった。
 日向国大隅国薩摩国の諸大名は参勤交代においてこの港から海路を取り大阪へ向かうことが多く、大名が宿泊する本陣は領国の名を受けて「飫肥屋」「薩摩屋」「高鍋屋」などと呼ばれていた。港の入口には船舶を検分するための番所が設けられており、高さ約3.6メートルの灯台が設置されていた。



 1891年(明治24年)7月にこの港を視察したヨハニス・デ・レーケの整備方針に従って1894年(明治27年)から近代化工事が始まった。同年に験潮場が設置され、1910年(明治43年)5月には西洋式の灯台が完成している。
 明治時代後期から昭和時代初期にかけて捕鯨基地として利用された。1921年(大正10年)10月11日には日豊本線とともに支線の細島線が開通し東九州における主要な輸送拠点の一つとなった。

 1942年6月、閣議決定に基づき宮崎県では、延岡・富島地方、宮崎地方、都城地方の3ヶ所が工業建設候補地に指定される。同年末、陸軍省・海軍省・内務省・企画院・逓信省・商工省と軍需産業関係会社による調査が行われ、三菱石油富島工場、九州造船日向工場の建設が決定する。 三菱石油富島工場は、南方から海上輸送してきた石油を精製して航空用ガソリンを確保する目的だったが、1945年初めの空襲で壊滅した。
  九州造船のドック建設が1943年に、梶木の浜で開始されたが、完成しないまま放棄された。

 戦後、まず整備されたのは、現商業港である。1947年から港湾整備計画に基づいて改修が行われ、1954年に第2埠頭250mが完成し、県営倉庫も整備された。1951年(昭和26年)に行われた初の重要港湾指定も受けている。
 その後は、竹島築港(現工業港)が課題とされ、早くも1951年に「細島港域竹島築港期成同盟会」が設立され、陳情を開始した。この結果、1952年に竹島築港と商業港改修のための国庫補助が認められ、竹島築港(工業港建設)では、1964年までに約150haの工業用地を埋め立てて造成されている。これが、日向・延岡地域が1964年新産業都市に指定される推進力となった。指定後、工場進出は必ずしも順調には進まなかったものの、1971年には宮崎カーフェリー(初代)が神戸航路を開設するなど、次第に整備が進んできた。現在、旅客フェリーの運航は休止されているものの、コンテナ船を中心に貿易拠点としての重要性は一層高まりつつある。
2010年8月、重点港湾に指定される。

関連項目





コンテナ貨物
細島港

コンテナ取扱量を着実に伸ばし、外国貿易の拠点港としてますます期待される港。
細島港

細島港の概要
  • 所在地 日向市
  • 港湾区域告示 昭和28年3月
  • 港湾区域面積 1,289ヘクタール
  • 重要港湾指定 昭和26年1月
  • 入港船舶数(平成25年)3,322隻
  • 入港船舶総トン数(平成25年)4,776千トン
  • 貨物取扱量(平成25年)4,436千トン(うち外貨物 2,158千トン)
  • コンテナ取扱量(平成25年)32,096 TEU

細島港は古くから海上交通の要衝として、また、日向延岡地区新産業都市の中核港として重要な役割を果たしてきました。太平洋に直接面する細島港は、日本国内と東アジアをつなぐ航路の経由地になっているため、輸入ではFIRST PORT、輸出ではLAST PORTとして機能する港です。


..細島港の背後地域の現状
3.2 社会的・経済的条件

(1)主要経済社会指標
􀀹 細島港の位置する日向市と県北地域の主要経済社会指標は下記に示すとおりで、人口や就業者
   では概ね県内全体の2割を超えるシェアを有していることがわかる。なお、65 歳以上の高齢
   者の比率は、宮崎県全体よりも高い割合を示している。

􀀹 一方、県北地域の産業をみると、漁業は約5割の高いシェアとなっているほか、製造品出荷額
  等についても3割を超えるシェアとなっている。

􀀹 逆に、農業産出額のシェアは約 13%となっていることからもわかるように、一般に農業県と
  いわれている宮崎県の中にあって、県北地域は農業よりも製造業に特化した地域であるといえ
  る。(因みに、宮崎県の農業産出額は全国7位=2010 年)


(2)産業
􀀹 宮崎県の産業特性を示すものとして、産業別特化状況をみると全国の産業構成割合と比べて、
  農林水産業が非常に特化している状況がうかがえ、農産品の中では全国シェアトップ5に入る
  ものも少なくなく、例えば「きゅうり」の収穫量は全国1位、「ブロイラー」の出荷羽数、「豚」
の飼養頭数はぞれぞれ全国2位となっている。


􀀹 一方、宮崎県の製造業については、下表に示すように製造品出荷額等の規模でみると全国、九
  州の中でも下位にあるが、製造業種別では農業と関連のある食料品製造業の割合が全製造業の
  2割を占めている。

􀀹 農林漁業が盛んな宮崎県では、生産者が自ら生産した農林水産物を用い、生産(1 次産業)に
  とどまらず加工(2次産業)、販売・流通(3 次産業)を一体的に行う6 次産業への取組がみ
られ、加工品の港湾利用も期待される。

(3)観光
􀀹 宮崎県は県北部の高千穂峡、県央部の西都原古墳群、県南部の鵜戸神宮等に代表されるように、
  県内広範にわたり著名な観光資源が点在している。年間観光客数は約2,000 万人で平成22 年
  は前年と比較して約1割観光客数が減少したが、これは口蹄疫による影響が大きいものと思わ
  れる。

􀀹 高千穂峡のある高千穂町は県内4位の観光客数を占めていて、県北地域は県全体の1/4 の観光
  客数が訪れている。

􀀹 現在、細島港に寄港する大型クルーズ客船のオプショナルツアーでは、高千穂峡や美々津周辺
  から宮崎市内(青島等)までが主な行き先となっているが、今後東九州自動車道の県内区間が
  全線開通すれば、さらにツアー先の選択肢が拡がるものと思われる。


細島港の将来に向けた課題の整理
7-1
􀀹 細島港の現状と現状に対する要請、また細島港を取り巻く諸情勢や考慮すべき上位関連計画を基に、細島
  港が将来担うべきと思われる役割を挙げて、その実現のために対応すべき事項を課題として整理した。




細島港を取り巻く諸情勢
・中国を中心としたアジアの経済成長
・今後も拡大が見込まれる世界交流人口(アジアの比重が高まる)
・人口減少社会への突入(ただし東京圏等は増加・集中)
・持続可能な社会実現に向けた地球温暖化対策の推進
・東日本大震災で受けた地震・津波災害への対応
・今後も増加が見込まれる我が国の港湾取扱貨物
・バルク貨物船等の世界的な大型化傾向
・港湾整備の選択と集中(重点港湾の選定)


細島港に係る上位関連計画
・東日本大震災を教訓とした災害に強い国土づくり
・東アジアの成長と連動して自立的に発展する九州圏の形成
・東アジアに向け、県産品輸出促進、観光交流推進、交流基盤整備
・県内の農林水産業を核とした総合的なフードビジネスの展開
・グローバルな視点で宮崎のポテンシャルを生かした取組の推進
・陸、海の交通体系をいかした「物流拠点都市」の確立(日向市)
・地域の「経済と産業」を支え、「賑わいと潤い」をもたらし、「安全と安心」を確保する港湾整備


細島港への要請

物 流
・国外、国内海上定期航路の拡充
・大型バルク貨物船対応の岸壁整備
産 業
・工場・事業所の誘致
・臨海部における産業用地の新たな確保
交 流
・港の歴史や景観を生かした観光拠点の整備
安全・安心
・津波来襲時に減災効果を発揮する施設の整備
・荷役障害を招いているうねり対策

細島港の特性と問題点
特 性
・東九州沿岸のほぼ中央に位置し、九州内では海上路で首都圏に最も近い港
・外国貿易では、県内随一の実績を誇り、宮崎県の貿易額の8 割近くを占める
・外貿コンテナ航路は、釜山航路と台湾航路が寄港。輸出では中国向けが3割
・高速交通網整備による立地条件向上(県内アクセスの向上、熊本との結びつき強化の期待)
・クルーズ客船寄港の増加と商業港地区周辺の魅力的な観光・レク資源の存在
問題点
・利用度が高い施設と、供用が古く水深が浅く利用度が低い施設が混在
・細島港の外貿コンテナ個数は輸出>輸入、一方県発着のコンテナは県外港湾利用が多い
・内貿ユニットロードについては、大都市圏からの帰り荷が少ない
・耐震強化岸壁は1バースのみ。津波による最大の浸水高は5~10mと想定

細島港が将来担うべき役割(案)

細島港が対応すべき課題(案)

【将来像検討にあたって具体に留意すべき事項】
物流
・国際戦略港湾との連携も含む国際海上コンテナ輸送網の充実強化
(→P2-11~13)
・国内大都市圏との近接性を生かした複合一貫輸送網の充実強化(→P2-14)
・低利用、老朽化施設の利用転換等による施設の有効活用(→P2-7、P6-7)
・民の視点の導入による港湾運営の効率化の推進
・輸送船舶が大型化している国際バルク貨物輸送への対応(→P6-8)
産業
・産業誘致のための用地確保による地域経済への貢献(→P2-15)
・地域の水産業を支える漁船対策の推進(→P2-20)
交流
・地域と連携した魅力ある水際空間の創出(→P2-22)
・周辺の観光資源とのネットワーク構築による賑わいの場の形成(→P2-23)
・大型化するクルーズ客船寄港への対応(→P2-21)
・暫定的なプレジャーボート係留に対する適正な管理の実現(→P2-24)
安全
・東日本大震災の教訓を生かした地震津波対策の推進(→P2-25~26)
※( )内は、関連する本資料の頁





転載元: 日向産廃スラグ不法投棄恫喝訴訟、住友Gr土壌底質汚染研究会

鳥羽の贄遺跡は縄文から平安時代の4000年間に遺跡

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鳥羽の贄遺跡は縄文から平安時代の4000年間に遺跡

縄文から平安にいたる遺物が層になって
 贄遺跡は縄文中期の始めから平安時代にいたる各時代の遺物が層をなして発見された学術的にも貴重な遺跡です。
 各種の土器、石器、銅製品、鉄器類、玉などの装身具、更に、金メッキのある革帯金具、古銭などが多数発見されました。

 発掘は1972年11月から5ヶ月にわたって行われ、発掘品は現在、市の教育委員会に収蔵されています。また現場は埋め戻され、ホテルの庭園になっています。


製塩のための土器
 発掘品の1つ、製塩のための土器です。ある程度濃度を上げた塩水をこの器に入れ、下から火であぶり、塩を造ったと考えられ、平安初期のものとされています。
(拡大表示にホテルの庭の製塩の説明板を載せました)

 この遺跡で興味を引くことは、
 ・人骨や獣骨、貝殻等が全くでなかったこと、
 ・多種類の金メッキされた革帯金具や祭祀用に使われた銅鏃の出土、
 ・品位の高い土器などの出土,    
などです。こうした事実からこの遺跡が古代では特別な場所だったのではないかと想像されています。
 (参考:鳥羽市教育委員会発行贄遺跡報告書)
http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_data.phpQkirari_cd=03975.html



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伊射波神社

   
伊射波神社 所在地 位置 主祭神社格等 創建 本殿の様式別名 例祭 主な神事
伊射波神社 拝殿
大漁祈願祭時の拝殿
三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210
北緯34度28分22.44秒
東経136度52分27.66秒
座標: 北緯34度28分22.44秒 東経136度52分27.66秒
稚日女尊
伊佐波登美命
玉柱屋姫命
狭依姫命
式内社(大)論社
志摩国一宮
無格社
不詳
神明造
かぶらこさん
1月9日6月7日[1]
大漁祈願祭(11月23日



  伊射波神社(いざわじんじゃ)は、三重県鳥羽市安楽島町(あらしまちょう)の加布良古崎にある神社式内社(大社)論社で、志摩国一宮旧社格無格社
別称として「志摩大明神」・「加布良古大明神」・「かぶらこさん」等とも呼ばれる。


祭神

『諸国一の宮』[2]によれば、祭神は以下の4柱。
『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』[3]では天照大神に仕えた神と紹介。
  • 伊佐波登美命(いざわとみのみこと)
平安時代末期から鎌倉時代中期の成立とされる『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御世に皇女倭姫命皇大神宮の朝夕の御贄を奉る地を探して志摩国を訪れたとき、この神が出迎えたとする。『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』[3]によれば、安楽島の二地(ふたぢ)の鳥羽贄遺跡がこの神の本宮跡で、平安時代後期に現在地へ移ったと言う
  • 玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
伊雑宮の『御鎮座本縁』などでは天叢雲命の裔、天日別命の子である。『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』[3]では伊佐波登美命の妃神と解説。
  • 狭依姫命(さよりひめのみこと)
『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』[3]では宗像三女神の1柱市杵島姫命の別名で、近くの長藻地と言う島に祀られていたが、島が水没したので当社に合祀されたと言う。
御崎の先には、別に領有神が祀られている。当社の玉垣内には丸白石が敷き詰められており、古くから漁民はこの白石を船霊として船中に安置し、豊漁を祈る習慣がある。船守りとして白石を持ち帰った際は、必ず2倍3倍にして社地へ返さねばならないとされる。

歴史

  創建の時期は不詳だが、1500年以上の歴史を持つといわれる。『諸国一の宮』[2]によれば、当社は稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源で、志摩国の海上守護神として古代から崇敬されたと言う。
 延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」と記載がある。『諸国一の宮』[2]では、志摩市磯部町から鳥羽市安楽島町にかけての粟嶋と呼ばれた地域で、伊射波神社2座のうち1つは当社、1つは伊雑宮と述べる。しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[4]では、伊射波神社2座は合祀されて伊雑宮に祀られたので、当社は式内・伊射波神社ではないとする。

 建久3年(1192年)の『皇大神宮年中行事』[5]に「悪志。赤崎。加布良古明神」とあり、また『外宮旧神楽歌』に「志摩国知久利が浜におわします悪止・赤崎・悪止九所のみまえには、あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤碕のり玉う。舳先には大明神(加布良古神)のり玉う。加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし、加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。加布良古の大明神に遊びの上分を参らする請玉の宝殿」とあるため、『日本の神々』[1]では古くから阿久志神社や赤崎神社と共に知られていたと述べる。

 当社は伊雑宮と共に志摩国一宮とされる。志摩国に一宮が2つあった理由について、『日本の神々』[1]では伊雑宮が伊勢神宮の別宮兼官社だったため、民社で同じ祭神の当社を一宮にすべき事情があったか、鳥羽藩が神領再興を叫ぶ伊雑宮の神職を牽制するためにもう1つの一宮をつくったのではないかと推測している。
また、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[4]では、次の5つの理由から伊雑宮こそが志摩国の一宮とする。
  1. 和名類聚抄』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。
  2. 『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮ト宮号ヲ以テ称シ、志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、神宮と国司で伊雑宮の呼び方が異なったこと。
  3. 加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料に伊射波神社の名がないこと。
  4. 明治7年(1874年)に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、文化4年(1807年)から当社を伊射波神社と称したこと。
  5. 一宮は、一般に国府に近い大社とされる慣例だったが、国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より近いこと。
 『志陽略誌』には「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也。(略)往古社頭地あると雖も、戦国より以来之を亡失す」とあり、戦国時代に社地を失ったとされる。また、安政元年(1854年)11月の大地震と大津波[6]、火災によって記録が流失・焼失したと言う[2]
明治の近代社格制度では無格社とされた。昭和31年(1956年)籠堂が再建され、昭和51年(1976年)本殿と拝殿が造営。平成13年(2001年)神明造の本殿と拝殿を現在地に造営して遷座した。

境内

主な祭事

  • 明神祭(7月7日に近い日曜日)
  • 大漁祈願祭(11月23日)
大漁祈願祭では御魚取り神事(みととりしんじ)が行われる。神事では素襖烏帽子姿の五人年寄りが神前で刺し網を張り、「大漁じゃ」の掛け声と共に新鮮な魚を投げ入れる。神事終了後、魚は焼いて食べられる[3]

現地情報

所在地
交通アクセス

志摩国一宮 伊射波神社


安楽島の加布良古崎にある御食つ国・志摩の一宮





志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ)   通称 かぶらこさん

〔鎮座地〕  三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020

〔社格〕  旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)

〔御祭神〕  稚日女尊(わかひめのみこと)
        伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
        玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
        狭依姫命(さよりひめのみこと)

〔御由緒〕  天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。 

  倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたおされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。 発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる
 この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。 玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。 狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。 境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
-『全国一の宮めぐり』から-



昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、その全
貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査』に報告されています。その内容が、由緒に
は、簡単にまとめられています。
「遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの連続した復々合遺跡で、
おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃(矢じり)、神水を得るた
めケヤキの巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡
が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたこ
とから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な贄持つ神であった
ことの証と言えましょう」と記しています。
二地の贄--- 
http://www.kirari1000.com/base_data/base_data.php?kirari_cd=03975
又、次のようなことも書かれています。祭神の伊佐波登美尊は、後に大 歳神と号され尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されま  した。

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  志摩地方は、その種類も豊富で、古代には「御食つ国」、すなわち天皇の食料を献上する国として知られていました。『万葉集』には、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌で「御食つ国 志摩の海女ならし真熊野(まくまの)の小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ」という歌があります。この歌の意味は「小舟に乗って沖へ漕いでゆくのが見えるが、それは志摩の海女であろう」というもので、「御食つ国」が志摩の枕詞として使われるほどでした。

 また、平城宮跡からは、鰒(あわび)6斤(名錐(なきり)郷)、海松(みる)6斤(船越郷)、海鼠(なまこ)(船越郷)・海藻六斤(和具郷)等が記された木簡が出土しており、志摩国から朝廷に海産物を納めていたことが裏付けられます。さらに、平安時代初期の法律書である『延喜式』には、志摩国に税として鰒や海藻・ところてん・真珠等を納める義務のあることが記されています。

 こうした朝廷への食料の献上は、飛鳥・奈良時代以前にも行われていたようで、『古事記』の中にも「島之速贄(しまのはやにえ)」という言葉が出てきます。この「贄」という言葉も「朝廷(神)に捧げるみやげの魚など」という意味ですが、鳥羽市内の海辺には「贄遺跡」と呼ばれる古代の遺跡があります。開発事業に伴い、昭和47・48年及び60年に発掘調査が実施され、多くの貴重な遺物が発見されました。
 特に金銅製の帯金具は、極めて身分の高い役人が身に着けていたもので、この地にこういった人物が足を踏み入れていたことを物語っています。それに、国の役所等に納めたとされる「美濃」という地名の刻まれた須恵器(土器)や和同開珎をはじめとした古銭なども出土しており、朝廷への海産物献上に関連する施設が存在した可能性がうかがえるものです。



伊射波神社本宮?
伊射波神社の本宮なんて「一社しかないのになぜ本宮?」と、安楽島の人でも以外に知らない話。
その昔、本宮は安楽島町字二地(ふたじ)の贄(にえ)、つまり贄遺跡。
今のエクシブアネックスがあるあたり。
贄遺跡は、昭和47年から昭和61年にかけて発掘調査され、縄文中期から平安中期までの連続した複合遺跡であることがわかり、製塩土器、祭祀用土器、儀式用の矢尻などが多数発掘されました。(日本で最初の銭化「和銅開珎」や奈良・平安時代の身分の高い役人が身に 付けていた帯金具が多数出土したことでも有名)
中でも神水を得るためにケヤキの巨木をくりぬいて作られた、全国的にも稀な二重濾過式井戸が発掘され、神様へのお供え物もこの水で調理されたそうです。
この井戸が使用された時代は奈良中期から平安後期にかけてであったと報告されています。
そしてその近くの一番高いところに伊射波神社の社殿があったそうです。
これが神名帳に登載された大二座のうちの一座で、伊佐波登美尊が祀られ、もう一座は、加布良古崎の伊射波神社を指し、この贄は伊射波神社の斎場でもありました。
つまり伊射波神社は独自に贄(神や天皇に供える塩やアワビなどの魚介類を調整するところ)を持つ神様だったのです。
参考:志摩国の一の宮 式内 伊射波神社 豆知識 刊行:安楽島氏子会


  鳥羽には、いつごろから人が住んでいたか。神島に石器(尖頭器)が残されているが、それらは、縄文時代、1万年程前のもので、その頃から人が生活をしていたと推測される。昭和30年代後半のデータではあるが、鳥羽には遺跡が334ヶ所ある。その遺跡の中で今までに発掘調査を行ったのは、たったの4ヵ所。
 それは、エクシブ鳥羽近くの海岸にある贄遺跡(にえいせき)、タラサ志摩近くの海岸にある白浜遺跡、答志島の大畑遺跡、答志島近くの大築海島(おつくみじま)の貝塚。
 それらの出土品はどうかと言うと、大畑遺跡からの出土品は残念ながら整理がなされていない。大築海貝塚からの出土品にベンケイ貝の腕輪があるが、現在立教大学に保管されている。白浜遺跡のものは、海の博物館に、贄遺跡のものは図書館に保管されている。
 贄遺跡からは金銅製の帯金具が20点出土しており、全国的に見ても1箇所でこれだけの量が出たのはここだけ。 白浜遺跡は、古墳時代の終わり3世紀後半までと推定される。かなり精巧な骨角器が出土していて、デザイン的にもめずらしく全国的に注目されている。高さ20cmくらいの小銅鐸も発掘されている。

鳥羽贄遺跡: 発掘調查報告. 第2次

前表紙
鳥羽市育委員会, 1987

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書誌情報



贄遺跡 : 鳥羽 発掘調査報告 第2次
鳥羽市教育委員会

詳細情報

タイトル 著者標目 出版地(国名コード) 出版地 出版社 出版年 大きさ、容量等 注記 注記 JP番号 巻次 出版年月日等 件名(キーワード) 件名(キーワード) NDLC NDC(8版) 対象利用者 資料の種別 資料の種別 資料の種別 言語(ISO639-2形式)
贄遺跡 : 鳥羽 発掘調査報告
鳥羽市教育委員会
JP
[鳥羽]
鳥羽市教育委員会
1987
153p ; 26cm
三重県所在
参考文献: p70
87034089
第2次
1987.3
鳥羽市
三重県--遺跡・遺物
GB121
210.2
一般
図書
政府刊行物
地方公共団体刊行物
jpn : 日本語


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古代人が見た朝日も同じだったのだろうか

宇和町卯之町は、小京都とのような趣がある街です

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宇和町卯之町

   
宇和町卯之町


和町卯之町(うわちょううのまち)は愛媛県西予市にある重要伝統的建造物群保存地区である。


概要

  卯之町は市内宇和地区の中心地で、幕藩時代は宇和島藩の在郷町として栄えた。この地は戦国時代には西園寺氏の支配下にあった。

  西園寺氏は地区北方の山上にある松葉城を居城としており、卯之町はもともと松葉城の城下町であった。西園寺氏は後に居城を肱川の対岸(地区の南方)の山上の黒瀬城に移したが、卯之町は引き続き城下町として存続した。

  廃城後は在郷町となり、四国八十八箇所札所の明石寺の門前町、宇和島街道の宿駅としての性格ももつようになった。当初の卯之町は現在地よりも南西にあり、現在地に移ったのは慶安4年(1651年)と伝える。近代になって、卯之町駅の開設や国道56号の開通に伴って、町の中心が南方へ移動したことにより、卯之町には伝統的建造物が良好に残されることとなった[1]


  町内には江戸中期から昭和初期までに建てられた商家が並び、白壁・うだつ・出格子といった伝統的な美しい町並みが続いている[2]。保存地区の中には国の重要文化財である開明学校、市指定文化財の末光家住宅・鳥居門、大正期の建築である卯之町キリスト教会がある[3]2009年12月に全国で86番目の重要伝統的建造物群保存地区として選定された[2]





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白井雨山 しらい・うざん

元治元年3月1日(1864年4月6日)~昭和3年(1928年)3月

白井雨山記念碑



白井雨山・記念碑

(愛媛県西予市宇和町卯之町・宇和先哲記念館





(平成19年11月7日)
彫刻家 日本画家
白井雨山  元治元年~昭和3年

本名は保次郎
当時鬼窪村であったこの地で佐平となみの四男として生まれ幼年期を過ごす
開明学校の開校と共に入学し暇ある時は絵を描きその才能を発揮していたと云う
明治18年上京し教員をする傍ら絵の修業を続け東京美術学校第一期生となり、入学の際には清水静十郎や牧野純蔵の推挙、また費用においても静十郎、末光三郎、本多好禮らの援助があった
専修科進級は彫刻科に入り、竹内久一に師事しヨーロッパに留学後は塑像を研究し我が国に新しい彫刻の世界を広げた
美術学校教授を退いた大正9年頃には文人画の復興に力を注ぎその作品を多く残しており県美術館で展示会も開催された
郷土の偉大なる芸術家を構成に傳える為、雨山公園の神武天皇像とともにこの碑を建立す

平成18年4月
白井雨山会会長 宮本友重

(碑文より)
神武天皇像



神武天皇
(愛媛県西予市宇和町卯之町・雨山公園)





(平成19年11月7日)
神武天皇像



神武天皇像
(愛媛県西予市宇和町卯之町・雨山公園)





(平成19年11月7日)
宇和の生んだ彫塑界の祖
白井雨山先生

白井雨山は、元治元年(1864)3月1日、雨山公園下に父佐平・母なみの四男として生まれ、保次郎と命名された。
明治22年地元有志方々の後援と推挙により、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。
彫刻を専修し、同校教授竹内久一先生の知遇を得る幸運に恵まれ、明治26年優秀な成績で卒業された。
雨山は常に日本の彫刻界が西洋に遅れていることを憂え、意見書を当時の校長岡倉天心を通じて文部省に建白し許可され、塑像科が新設された事は我が国彫刻界に一時期を画した偉業と言える。
その後、ドイツ・フランス等に2年間留学し、帰国後東京美術学校教授に任命され、母校の塑造を指導された。
在職中に建畠大夢・朝倉文夫・北村西望等彫刻界の第一人者となる弟子を育成された。
この神武天皇立像は大正6年に雨山が制作し、ほかに明治天皇騎馬像・東洋三聖人等の作品が先哲記念館に展示されている。
雨山は昭和3年3月に没し、ここ郷里白井家の墓地に眠る。

宇和郷土文化保存会
製作 宇和ライオンズクラブ     結成40周年記念
平成12年4月23日

(説明板より)


歴史上の人物

しらい うざん
白井 雨山
(1864~1928)

東京美術学校彫刻科に塑造(そぞう)科を開設した日本彫刻界の父
 
 平成13年、宇和先哲記念館敷地内に、日本彫塑界の重鎮・白井雨山の石碑が建立された。
 最近では雨山の生家跡を知る人も少なくなり、それを懸念した「雨山会」の会員により雨山の原点を後世に伝える目的で建立されたものである。

 白井雨山は、元治元年(1864)3月1日、現在の宇和町(現:西予市)卯之町四丁目雨山下に、父佐平、母なみの四男として生まれ、保治郎と命名された。
 家は代々山内屋という米商をしていたが、家柄がよく、藩主から帯刀を許されていた。母は雨山14歳の時に不幸にも亡くなってしまったので、その後雨山は厳格な父に育てられ、手習いから漢書の素読に至るまで教えられたという。
 父佐平は、元来同情心の厚い人で、困窮している人を見ると助けずにはいられず、何かと世話をした。また明治維新の騒然とした世の中で家業は傾いていき、最終的には家業を廃業しなければならなくなってしまった。
 しかし雨山はそんな生活にあってもそれを苦とせず、明治13年(1880)、東宇和郡講習科を終え、その冬17歳にして公立小学校教員認定城を受けた。その翌年には、宇和島南予中学校に進む。
 当時は交通の便も悪く、また下宿もなかったので、雨山は自宅から中学校に通うために狭い法華津峠の山道五里(約20km)を毎日往復しなければならなかった。朝は午前2時に出発、夜は午後8時するという毎日にもかかわらず、雨山はそれをものともせず中学に通い続けた。これも雨山の堅忍不抜の志と、強健無比の体でなければできないことであった。
 しかし翌年の明治16年(1883)、18歳の時には学資が途絶え、わずか一年でやむを得ず中途退学しなければならなくなった。そこで雨山は松尾馬場先生に従って、南宗画(なんしゅうが)を学びながら、ともに各地を遊歴して過ごすことになった。これは仕方のないことだったが、一方では雨山の好きな画の道でもあった。
 普通ならば耐え難いこれらの不幸に見舞われつつも、どういう訳か道が開かれていき、その後の功績につながっていくというのは偶然なのだろうか。天が才能ある雨山に味方をしたということであろうか。
 明治17年(1884)六月、東宇和郡小学校六等訓導に任じられ、月俸7円を支給されることになった。雨山はその月俸を貯めて、明治18年(1885)、東京への遊学の旅に発った。
 東京遊学というと聞こえはいいが、実際には東京の生活は自給自足の苦学であった。状況翌月からは麹町区私立堀江小学校の教師となって働き、一方では本田錦吉郎先生の彰義堂画塾に通い、西洋画の修行をはじめたのである。
 その後も、いくつもの小学校の教師を転々と勤め、塾にも次々と変わって修行したが、苦境は変わらず結局第一回の遊学は終わってしまった。
 明治22年(1889)、卯之町の有志清水清十郎氏や当時衆議院議員であった牧野純蔵氏、尾見五郎先生の推挙を受けて東京美術大学に入学することができ、再度上京することになった。美術学校では彫刻家を専修し、明治25年(1892)には、学力品性ともに優秀ということで特待生になり、彫刻術研究のため奈良地方を歴遊した。この時初めて正倉院の御物を拝観し、その研究に没頭した。そして明治26年(1893)7月、雨山は優秀な成績で美術学校を卒業した。
 卒業後は美術行脚をしたり、厳島物産競技会の審査員などをしながら、専門の研究を続けていたが、明治31年(1898)、母校美術学校の助教授として教壇に立つことになった。
 雨山は常に日本の彫刻会が西洋に遅れていることを気にしていたが、このことについての意見書を、校長を通じて文部省に建白、これが受け容れられ、東京美術学校彫刻家の中に新たに塑像科が特設されることになった。この塑像科の新設は日本彫刻界に一時期を画した偉業といえよう。
 明治34年(1901)、文部省から彫刻研究のために2年間のドイツ・フランス留学を命じられた。まずフランス、次いでドイツ・イタリアと巡遊し、この間波長国研究にのみ没頭したようである。
 そして明治37年(1904)には、東京美術学校の教授に進み、塑像科を担当することになった。
 明治40年(1907)頃からは、学校の教授以外に駒込千駄木町に家塾を開き、建畠大夢、北村西望、横江嘉純、吉田久継、大西三四郎、杉本伝などの英才教育に力を入れ、慈父の眼をもって教え子の成長を楽しんだ。これは、かつて雨山が恩師から受けた愛撫の恩を想起して、その志を永久に伝えようとしたものであろう。
 明治41年(1908)八月、父佐平が郷里で遠逝した。享年73歳。少年時代に母を失った雨山にとっては、厳父であると同時に慈母であった父の死が孝心深い雨山をどれだけ悲しませただろう。雨山はあれほど好きだった酒も当分口にせず、傍らで見守るのも痛ましかったそうである。
 続いて大正4年(1915)には東京の自宅で妻ヌイ子が亡くなった。享年51歳。この時の雨山の心境を察すると痛ましい気持ちになる。
 しかしいつまでも寒風ばかりではなかった。大正7年(1918)、梶本チセを後妻として迎えることになった。チセもつぶさに辛酸をなめた人で、よく雨山の人となりと事業を理解し、協力を惜しまなかった。それだけでなく、後年雨山から酒杯を絶ち、瀕死の重病から救って65年の天寿を全うさせたことは後に皆から目睹するところであった。
 大正9年(1920)、教え子である建畠大夢、北村西望に進路を開くべく教授を勇退。その後は関西に居を移し、悠々自適、風月を友としてもっぱら画筆を寿して遊んだ。画は邦画、洋画、漢画などをみな楽しんだが、中年頃からは南宗画の気韻の高いものを喜んだ。特元人倪雲林の画風に私淑し、高雅清痩の画を作ったが、晩年にはさらに一峯老人の風を慕い、幽遠野逸、時流を遠く抜く物があった。しかし、雨山は画は自ら楽しむだけで、あえて売ることをしなかったが、その人となりと共に漸次見る人の賞賛するところとなり、ついに大正11年(1922)、大久保利武、本山松陰、村山香雪、永田盤舟らの発起のもと、雨山絵画展覧会を大阪美術倶楽部で催すことになった。それをきっかけとして雨山の名声は一気に上がり、その後雨山の画を求めるものが多くなったという。
 雨山没後、遺作が本山松陰の斡旋で昭和3年(1928)11月、久邇宮殿下の台覧に浴した。雨山門下の名誉、雨山もって瞑すべきである。
 昭和3年(1928)3月23日、兵庫県の自宅で心臓病のため永眠。享年65歳であった。
 豪放の反面とても細心で、些細な旧恩にも必ず報謝した。美術学校に入学した際、雨山は先輩に補助をしてもらったが、それを常に忘れず後に礼を厚くして返済し、その記録を家に残して子孫に伝えようとした。当たり前のことだが、軽薄になりがちな現代の子弟を戒めるには十分な逸話である。
 また、酒を愛したが悪い酒ではなく、雨山にとっては人間関係を円滑にするための潤滑剤になっていたようである。
 ものに執着することもなく、居を変え気を代えて新たな気持ちで作品に望んだ雨山。その豪放かつ繊細な性質は我々が失い掛けているもののような気がする。その辛抱強く、何事にも恐れず挑戦していく姿勢をぜひとも見習いたいものである。
 現在、宇和先哲記念館近くの雨山公園には雨山作の神武天皇立像がある。現在残る雨山の作品の中で、当時の姿をほぼ忠実に再現した数少ない像の一つである。先哲記念館と合わせて訪れてみてはいかがだろうか。
 

白井雨山略歴
元治元年3月1日伊豫国東宇和郡鬼窪村に生まれる、保治郎と命名、四男
6年開明小学校へ入学
12年雨山と号す
東宇和郡講習所へ入る
13年小学講習課卒
愛媛師範制定教員試験に合格
卯之町上甲宗平に書を学ぶ
14年宇和島南予中学へ入学
鬼ヶ窪村河野吉三郎養子となる
16年松尾馬城に南画を学び共に各地を遊歴(20歳)
県より初等科教員免許状を受く
17年小学中等科の教員免許状を受く
東宇和郡新定小学校六等訓導に任、月俸7円
師範学校校長より所定の試験に合格し初等師範科卒業証書を受く
別号を真城、又晩翠主人と号す
18年河野家より離縁、復籍
東京へ出る
19年東京府より小学中等教員免許状を受く谷田小学校六等訓導兼校長、月俸8円
渡辺省亭に容斎派の画を学ぶ
20年坂本女子小学校訓導
渡辺省亭画塾退
21年9月京都に遊び望月玉泉に四条派の絵画を学ぶ(12月迄)
22年上京、東京美術学校に入り彫刻科を専修
25年彫刻研究のため奈良に遊ぶ
9月特待生(26年9月迄)
26年美術学校卒、再び奈良で研究
厳島物産協議会審査員
石川県工業学校教諭(30歳)
28年美術研究のため京都遊歴
31年東京美術学校助教授
美術学校に塑造科新設を建議し容れられる
32年春三島中洲翁の銅像を製す
34年9月彫刻研究のため2ヶ年独仏両国へ留学を命じられ、11月2日出帆
37年2月帰朝、3月教授になる
38年故陸軍騎兵少尉長岡護全銅像
土方久元伯の像
東京彫刻工会北条時宗像で金賞
40年学術研究のため京都大阪愛知岐阜奈良県へ出張
大正2年 宇和町(現:西予市)小学校へ乾漆製額面を寄附(50歳) 
3年西宇和郡三島村井上森太郎二男荘平を養子とする
故橋本雅邦銅像制作
4年故佐竹侯爵銅像制作
8月2日婦人ヌイ子死没、心臓病、寿51
6年卯之町坪ヶ谷へ神武天皇の銅像を建立
11年大阪で雨山絵画展
兄彦太郎没
雨山作品集刊
14年山家素行の銅像作
晩秋夫人と寒霞渓に遊ぶ
昭和3年3月23日午後1時55分兵庫県御影町で没
郷里白井家の墓地に眠る


参考文献

  • 「新選定の文化財」『月刊文化財』555号、第一法規、2009

関連項目

愛媛県の保存地区
西予市の施設


愛南町和口遺跡は西南四国最大の遺跡で魚の美味しい綺麗なところです

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和口西の駄場遺跡
歴史・文化

町指定文化財 史跡

 この遺跡は旧石器時代の西南四国最大の遺跡で、和口地区西の駄場という、ゆるやかな台地上に広がる遺跡で、早くから横剥ぎの翼状剥片や瀬戸内式国府型ナイフ形石器など、多くの瀬戸内技法関連資料が発見されていた。
 これらの旧石器が数百点発見されたことから、岡山大学考古学研究室が、平成元年に試掘調査を実施した。
試掘溝から出土したものは、すべて剥片であり、石材は頁岩である。これまでに採集された瀬戸内技法を含む石器群や堆積する火山灰層をもつことなどから、四国西南部における重要な遺跡である。


和口西の駄場遺跡





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西四国の旧石器文化

  当地域の旧石器時代の遺跡は、木村2001によると約20箇所で確認されています。ここでは、展示の中心である愛南町和口遺跡について、紹介します。

和口遺跡採集資料の展示状況

和口遺跡採集資料の展示状況


■発見の経緯


1987年に考古学研究者によって発見された遺跡です。木村氏は10数年間、休日を利用して表面採集を行なわれました。採集された石器は約1000点を数えます。著書(1995年)で約150点、著書(2003年)で約450点、追悼論集(2009年)で約300点が報告されています。



■立地


豊後水道に面した御荘湾の背後に形成された低丘陵上に位置し、標高は80m~90mを測ります。


和口遺跡位置図(『考古学の源流』2009年より)

和口遺跡位置図(『考古学の源流』2009年より)


採集された場所は南に舌状に延びる丘陵部の5地点で確認され、以下の点が指摘されています。


1)第1・3地点では製品が認められない。


2)第2地点のA区に小型ナイフ形石器が多い。


3)第2地点のB区に横長剥片素材のナイフ形石器が多い。


4)第4地点で最も多く遺物が採集されている。


5)角錐状石器は第4・5地点で採集される。


和口遺跡における遺物採集地点(木村2003より)

和口遺跡における遺物採集地点(木村2003より)



■特徴


 本遺跡では、近畿地方から備讃瀬戸地域にかけて発達した2万年前の石器製作技術である、「瀬戸内技法」と呼ばれる技術が存在したことがわかっています。これは採集された石器の分析から判断されたことであり、四国における旧石器時代研究史の上では非常に重要な指摘となりました。「瀬戸内技法」関連遺物には、国府型ナイフ形石器、翼状剥片、翼状剥片石核があります。石材は地元で産出する頁岩ですが、形態は備讃瀬戸地域のものに酷似しており、備讃瀬戸地域からの直接的伝播が考えられ、後期旧石器時代における集団の移動・植民が示唆されます。



国府型ナイフ形石器文化ルート推定図(木村2003より)

国府型ナイフ形石器文化ルート推定図(木村2003より)






 この他にも、宇和島市池ノ岡遺跡、鬼北町興野々遺跡、愛南町広見遺跡採集資料について紹介しています。

[転載]国土交通省の「リサイクル材料を利用する際の法令上の留意事項」でフェロニッケルスラグは、産業廃棄物(鉱さい)であると明記されています。だから日向精錬所は主婦より国土交通省を名誉棄損で提訴すべき

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リサイクル材料を利用する際の法令上の留意事項


  リサイクル材料には廃棄物としての性格を有するものもあるため、港湾・空港等の工
事において利用する際には、関連法規の規定に基づき、環境保全上支障の生じないよう
適切に取り扱わなければならない。

(解説)
  我が国における環境対策は、「環境基本法(1993年11月19日法律第91号)」により、そ
の基本的方向が定められており、循環型社会の形成を推進する基本的枠組みとして「循
環型社会形成推進基本法(2000年6月2日法律第110号)」が制定された。

  その中で、港湾・空港等工事でリサイクル材料を利用するにあたり関係する主な法令
としては、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法)(1970年12月25日法律
第137号)」、「海洋汚染及び海上災害の防止に関する法律(海防法)(1970年12月25日法律
第136号)」、循環型社会形成の一環として、「資源の有効な利用の促進に関する法律(リ
サイクル法)(1991年4月26日法律第48号)」、「建設工事に係る資材の再資源化等に関す
る法律(建設リサイクル法)(2000年5月31日法律第104号)」、「国等による環境物品等の
調達の推進等に関する法律(グリーン購入法)(2000年5月31日法律第100号)」等が挙げ
られる。これらの関係を整理すると、廃棄物処理法と海防法は、主に廃棄物をどの様に
処分するのかという観点で捉えているのに対して、リサイクル法は廃棄物を再生資源と
して積極的に利用して廃棄物の発生をいかに抑制するのかという観点で捉えている。

 また、建設リサイクル法は、建設廃棄物の発生抑制、分別解体及び再資源化等の促進を規
定する個別規制法である。グリーン購入法は国や地方公共団体等にリサイクル製品等の
調達を推進させるものであり、公共工事における材料等の調達についても対象となって
いる。埋立にリサイクル材料を利用する場合には通常の埋立と同様に「公有水面埋立法」
の適用受ける。また、埋立にリサイクル材料を使用する場合は、リサイクル材料に含ま
れる物質の含有量、溶出量を十分把握した上で、関係法令に基づき適切な埋立を行う必
要がある。表1.4.1に対象となるリサイクル材の発生要因等と廃棄物処理法及びリサイク
ル法等における適用について示す。

 なお、リサイクル材料の廃棄物としての取り扱いについては、廃棄物処理法と海防法
等における法的規制を受けるか否かの判断が必要であり、その上でリサイクル材料が廃
棄物である場合は、その規定に従い取り扱うことになる。以下にリサイクル材料を工事
で使用する上での廃棄物処理法及び海防法上の留意事項を示す。





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表1.4.1 対象リサイクル材の発生要因、適用法令

非鉄金属スラグ

非鉄金属を製錬する際に発生するスラグで、銅スラグやフェロニッケルスラグ等がある

産業廃棄物(鉱さい)
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(3)環境保全上の検討事項
 リサイクル材を利用する場合は、環境保全上支障を生じないことが前提であり、有害
物質の溶出やpH等の検討を十分に行うことが必要である。

① 有害物質
 リサイクル材料の環境安全性の評価基準としては含有量と溶出量による方法があり、
含有物の中には含有はするが溶出はしない成分がある。従って、リサイクル材料を埋立
利用する場合は、溶出量及び含有量を把握した上で、関係法令に基づき適正に扱うこと
とされたい。(海域に投入する場合は不溶性のものに限る。)

 浚渫土砂を港湾・空港等の埋立工事に利用する場合の有害物質の溶出については「海
洋汚染及び海上災害の防止に関する法律」の水底土砂判定基準を満足するものでなくて
はならない。更に一部の自治体では建設発生土等の受入基準を「土壌の汚染に係る環境
基準」を採用しているところもあるため、これらに係る条例等についても留意する必要
がある。

 特に産業廃棄物等は有害物質が溶出する場合もあることから、排出事業者から溶出試
験結果の提出を求め安全性を確認する等の配慮が必要である。また、セメント及びセメ
ント系固化材を使用した改良土(建設発生土、浚渫土砂、建設汚泥)については、六価
クロムの溶出が懸念されることから、「セメント及びセメント系固化材の地盤改良への
使用及び改良土の再利用に関する当面の措置について(港建第119号 平成12年3月27日
及び空建第54号 平成12年3月27日)」、「セメント及びセメント系固化材を使用した改良
土の六価クロム溶出試験実施要領(案)の一部改定について(港建第118号 平成13年4
月20日)」によって、その取り扱いの方法が規定されている。


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② その他
 有害物質の溶出の他に環境保全上留意する事項として、海域の水質や底泥に関係する
ものとして次のような基準があり、これらはリサイクル材料を対象とした基準ではない
が、海中や底泥中でリサイクル材料を利用する場合に工事区域の海域の利用特性を考慮
して工事中の監視目標値を定め、その目標値を満足できるように配慮が必要である。
 特に安定処理材料やコンクリート破砕物等の建設副産物および産業副産物等は総じて
pHが高いため計画・設計段階で対策を含め十分な検討が必要である。

・ 「水質汚濁に係る環境基準」(水質:pH、ノルマルヘキサン抽出物質等)

・ 「水産用水基準(財団法人日本水産資源保護協会)」(水質:SS・着色・油分等、底質:ノルマルヘキサン抽出物質・硫化物等)



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海が汚れています。


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日向精錬所は、水質汚濁防止法の特定施設がありますが、その届出を県に提出していません。


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転載元: 水・土壌心の汚染対策 住金日向産廃恫喝裁判から主婦を救出しよう

[転載]宮崎県ホームページに示された「グリーンサンド(フェロニッケルスラグ)に関することについて」の記事は、底質の含有量分析を行っていないので、残念ながら信用できない。日向精錬所の環境管理はもっと信用できない

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宮崎県ホームページに示された「グリーンサンド(フェロニッケルスラグ)に関することについて」の記事は、底質の含有量分析を行っていないので、残念ながら信用できない


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提言

グリーンサンド(フェロニッケルスラグ)に関することについて

( 性別:女性 年齢:不明 )

 グリーンサンド(フェロニッケルスラグ)の件ですが、県として何か対策を講じることはされないのでしょうか?廃棄物が検査して基準値以内だから安心とのことですが、人それぞれ感受性も違うので一概に当てはまらないと思います。
宮崎県が有害物質に関してずさんな管理をしているというのは、他県のものからすると宮崎県全体だと捉えてしまいます。ぜひ、何か対策を講じていただきたいです。

回答
 宮崎県日向市の株式会社日向精錬所が、ステンレス鋼等の原料であるフェロニッケルの製造過程で産出されるスラグを加工して商品化したもので、検査機関による溶出試験等の結果、環境省の基準に適合していることが確認されており、コンクリート用細骨材として日本工業規格(JIS)の認証を取得して、幅広い用途で販売されている人工砂製品であります。

平成24年7月、日向市西川内地区における「グリーンサンド」を使用した造成工事について、一部住民の方から、日向保健所に対し、「西川内地区の造成工事で使用しているグリーンサンドは、環境に影響を及ぼす廃棄物ではないのか。」等の申出があったため、県、日向市をはじめ関係機関による調査や検査を実施しました。
このうち、県では周辺環境への影響を確認するため、複数の報道機関等の立会いの下、平成24年10月に、「グリーンサンド」で土地造成された西川内地区周辺水域の水質検査(カドミウム、総水銀、セレン、鉛、六価クロム、ヒ素、全シアン、フッ素、ホウ素)を実施しました。

 その水質検査の結果については、別表1(PDF:51KB)の検査結果のとおり、水質汚濁に係る環境基準(人の健康の保護及び生活環境の保全の上で維持されることが望ましい基準)に照らし、基準値を超えるものは、一切検出されませんでした。

 また、日向市においても、平成24年10月、同地区造成工事現場内の土壌検査等を実施しましたが、県の検査結果と同様、基準値を超えるものは検出されませんでした。
さらに、県では、平成26年8月にも再度、平成24年10月と同様の水質検査を実施し、別表2(PDF:45KB)の検査結果のとおり、水質汚濁に係る基準値を超えるものは検出されていないことを確認しております。

【 担当部署 】
環境森林部 循環社会推進課







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日向保健所

所在地:〒883-0041 日向市北町2-16
電話:(0982)52-5101 FAX:(0982)52-5104
管轄区域:日向市、東臼杵郡

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日向精錬所の前の海は汚れています。



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廃棄物処理法の届出なし



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土壌汚染対策法の届出なし


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水質汚濁防止法の特定施設があるけど、届出なし

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転載元: 水・土壌心の汚染対策 住金日向産廃恫喝裁判から主婦を救出しよう

[転載]破綻の要件

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【写真;栗東市中央公民館でのRD処分場・周辺自治会合同説明会(09/5/29)のようす。国中、各地の産廃処分場で、当たり前の事業者指導が行われていたなら…こんな怒号渦巻く‘修羅場’がアッチでも、コッチでも、なんて事態にはならなかったハズだ。】



 クニよりケンが現場を見ている。

 ケンより市町村がその惨状を知っている。

 市町村より地域が…地域より周辺生活者がその暴挙に耐えている。

 現地に住んで、長年にわたって土地に身をおいてきた者の知見が尊重される環境回復のシクミ。

 その当たり前のシクミが採れないばかりでなく…組織を上げ、言を左右にして、住民の‘地域エ

 ゴ’を言うなら…それは、さらなる弱い者いじめと言うべきだろう。

 筑紫野・平等寺でも、豊島でも、栗東でも、竹の内でも、県境でも…一方的に現地が痛めつけら

 れる未必の故意的な不祥事の後フ始末なのだから…現地の声が最大限に生かされる‘政策権の環

 流’が配慮されるのが当たり前なのだ。

 社会保険庁の年金不祥事とその後始末のようすを持ち出すまでもなく…国中いたるところで公務

 員の怠業を原因とする地域生活者との修羅場が現出しているのだから、これはまさに、このクニ

 の巨大行政機構の破綻の一部と言うしかないだろう。

 開き直ってしまっては、怠業して昇進・退職した仲間らをさらに卑しめ、自分らの仕事を否定す

 ることになる。











 

転載元: 産廃のアト不始末に見るこのクニのかたち

「聖徳太子の時代の東大阪」 市立郷土博物館で展示会

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「聖徳太子の時代の東大阪」 市立郷土博物館で展示会 土器などが展示されている「聖徳太子の時代の東大阪」=大阪府東大阪市
 大阪府東大阪市立郷土博物館(同市上四条町)で、展示会「聖徳太子の時代の東大阪」が開催されている。約1400年前の東大阪の様子を紹介するパネルや、当時使われていた土器や武器などが展示されている。9月6日まで。
 館内には、聖徳太子が創建したと伝わる長栄寺(同市高井田元町)をはじめ、聖徳太子にゆかりのある寺院などを紹介するパネル20点が展示されている。
 また、聖徳太子が活躍した6世紀後半から7世紀前半に使用されていた土器や瓦など約120点が並ぶ。展示されている環頭大刀(かんとうたち)の把頭(つかがしら)や大刀などは、聖徳太子が河内国渋川郡(現在の同市衣摺付近)で物部氏との戦いで勝利をおさめたころに使用されていたもので、当時の戦いの様子などが見てとれる。
 同館学芸員の中西克宏さんは「時の権力者が古墳づくりに熱中した時代から、寺づくりが始まった時代への移り変わりを感じながら楽しんでほしい」と話している。
 午前9時半~午後4時半。入館料は一般50円、高校・大学生30円、小・中学生20円。月曜と祝日翌日が休館。問い合わせは同館((電)072・984・6341)。

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 奈良県王寺町の達磨寺に聖徳太子の愛犬として伝えられ、同町の公式マスコットとして活躍している「雪丸」の童話『聖徳太子と愛犬雪丸のものがたり』(B5判48ページ、千円)が完成した。10日から販売され、13日には購入者を対象にした雪丸サイン会も開かれる。
 達磨寺には雪丸の石像がまつられ、雪丸が言葉を理解して経を唱え、達磨大師の墓のそばに葬ってほしいと遺言した-などとの伝承が残されている。
 童話は、町教育委員会の岡島永昌学芸員(39)が文章を、雪丸キャラクター考案者のデザイナー、松永路さんがデザインや絵を担当した。伝承をもとに、斑鳩宮に迷い込んだ雪丸が、太子が毎日経典を読む姿を眺めるうちに言葉や経を覚え、2人の交流が深まっていく-という物語を、ほのぼのとした墨絵の挿絵とともに描いている。
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 本は王寺町役場や町商工会、リーベル王寺東館3階のキャップ書店で販売。13日にはキャップ書店で午前11時、午後1時、3時の3回、購入者を対象にした雪丸のサイン会を行う。問い合わせは町地域交流課((電)0745・33・6668)。

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 聖徳太子が開いた古刹(こさつ)・四天王寺(大阪市天王寺区)と、大阪の若手実業家らが連携して企画した街おこしイベント「大阪国際マンガグランプリ」が、8、9両日に同寺に近い同区の大阪国際交流センター周辺で行われる。主催者は太子をテーマにしたオリジナルキャラクターや漫画作品を募集。優秀作品を活用して継続的に地域振興につなげる狙いがあり、周辺の寺社も協力する。寺社と漫画は一見ミスマッチだが、同寺は「漫画をきっかけに太子や信仰に関心を持ってもらえたら」と期待している。
 催しは「日本を代表する文化となったマンガと、聖徳太子という抜群の知名度を生かして大阪を世界に発信したい」という実行委員会側と、「門戸を広げ、多くの人に親しんでもらいたい」と願う四天王寺など寺社側の考えが一致して実現。太子をテーマにした作品やキャラを募集したところ、全国から120点が寄せられた。



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