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プロカメラマンからの100のこと。コピペ

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プロカメラマンに限らず
1.無能な人々は、自分のスキルのレベルを過大評価する傾向がある。
2.無能な人々は、他者が持っているスキルを正しく認識できない。
3.無能な人々は、自分の無能さがどれほどのものかを認識できない。
4.こうした人々も、本質的にスキルが向上するような訓練を施されれば、それまでのスキル不足に気づき、それを認めることができる。
 
 
 カメラマンは社会的に供給過多なようです。だから、ギャラが低くてもとりあえず引き受けとく、という仕事が発生するのも仕方ない側面もあります。だから、そんな額で業務委託を募集するな、とは僕は言えません。仮にも小遣い稼ぎ程度にはなるのですから。
 ただ、ブライダルカメラマンなんてそんなもんだと夢を見るなと僕は結婚式を挙げる人に言っておきたいのです。もっとも、ブライダルを専門にやっているフリーランスカメラマンさんならそこそこの撮影代(アルバム込みでホテルに払う全額ではなくてカメラマンだけに払うギャランティ)になるでしょうから、その辺りと予算であなたにぴったりのカメラマンを探すと現代的でいいですね。
 一度、ウエディングプランナーでも誰でも知ってそうな人に聞いてみてください。「わたしたちを撮ってくれるカメラマンはこれまでどのくらいウエディングを撮っていて、普段はどんな仕事をしてて、今回のギャラはいくら支払われるんですか」と。
 
 
 
プロカメラマンからの100のこと


1)高価な機材を使っているからと言って、腕のいいカメラマンとは限らない。(しかし、フルサイズは必要。キャノンなら 6D、5DmarkⅡなど)
2)常にRAWで撮影すること。(修正が容易で、画質が変わらない)
3)単焦点レンズでの撮影は、腕磨きになる。(ズームレンズだけのカメラマンはイマイチ)
4)写真編集はそれだけで、1つのアートだと言える。
5)三分割法は99%の場合において効果的である。
6)マクロ写真は誰でもできるわけではない。
7)UVフィルターはレンズキャップの役割もある。
8)写真フォーラムなんかに何時間も行くよりは、外に出て写真を撮った方がいい。
9)平凡な日々の生活の中にある美しい一瞬を切り取ること。それが、入賞作品になる。
10)フィルムがデジタルより良いというわけではない。(現在の技術では、デジタルの方が画質が良い)
 

11)デジタルがフィルムより良いというわけでもない。
12)魔法のカメラやレンズなんてものは存在しない。
13)良いレンズを使ったからと言って、良い写真が撮れるとは限らない。
14)他の人の作品を見続けるよりも、自分の写真を撮りに行くこと。
15)パーティーにデジタル一眼レフは持って行くな。(プロは持っていくべし)
16)女はカメラマンに弱い。
17)写真を白黒にしたからといって、アーティスティックな感じになるわけではない。
18)Photoshop使ったというと、なぜか人は急にあなたの写真の価値を下げる。こういう時は、「Photoshop」ではなく「デジタル暗室」という言い方をすること。
19)何でもかんでも写真に撮れば良いというわけではない。(たくさん撮って選べば良い)
20)少なくとも2つバックアップをとっておくこと。戦争での、2は1、1は0という考え方と同じ。
 

21)ネックストラップはやめて、ハンドストラップを使うこと。(首筋を圧迫すると手がしびれる)
22)被写体に近づくこと。大抵の場合、その方がいい写真が撮れる。(グーと寄ってバシャバシャ撮る)
23)撮影中はその場の一員となること。傍観者にはなるな。(次の状況を予測せよ)
24)かがむ等して目線を下げて写真を撮ること。大抵の場合、その方がより面白い写真が撮れる。
25)技術的な心配をするよりも、フレーミングや写真の構成に注視すること。(トリミングでカバーできることも多いが)
26)機材にあるロゴを黒いテープ等で隠してしまうこと。これによって自分があまり目立たなくなる。
27)明るい日中に撮影する場合は、常に露出少なめ、2/3程度で撮影すること。
28)撮れば撮るほど、上手くなる。(カメラが体の一部になる)
29)露出や、アングル、F値を変えて同じ場所で数枚撮影するのを恐れないこと。
30)ベストの1枚だけを人に見せること。
 

31)コンデジもカメラである。(カメラはコンピューターの端末器かも知れない)
32)オンラインの写真フォーラムに参加してみること。
33)他の人の作品を批評してみること。
34)撮る前によく考えること。
35)良い写真に説明はいらない。(しかし、時に背景にある情報が画に意味合いを持たせることはある。)
36)お酒と写真の相性は良くない。
37)他のカメラマンから影響を受けるのはいい。しかし、崇拝してはいけない。
38)粒子は美しい。
39)カメラ用バッグは捨てて、メッセンジャーバッグを使うこと。レンズやカメラが取り出しやすくなる。
40)シンプルさが鍵。
 

41)フォトグラフィーは、「光で描く」という意味。光を操ること。(逆光を操る)
42)自分のスタイルを見つけて、貫くこと。
43)セカンドモニターは便利。
44)Silver EFEX Proは最適の白黒加工ツール。
45)どこに行くにもカメラを持って行くこと。
46)写真が人生を楽しむ障害になってしまってはいけない。
47)カメラを過保護に扱ってはいけない。使い倒すこと。
48)ストレートフォトグラフィーを撮ること。(世界のストリートの子供たちの眼は輝いている)
49)自信を持って撮影すること。
50)写真と並列配置の相性は抜群。
 

51)写真は大きくプリントすること。見てると嬉しくなる。
52)写真を友人にプレゼントすること。
53)写真を他人にもプレゼントすること。
54)フレームに入れるのも忘れずに。
55)コストコのプリントは安いけど、質が良い。
56)友達と出掛けて写真を撮ること。
57)写真クラブに参加すること、又は自分でクラブを始めること。
58)写真は素敵なプレゼントになる。
59)他人の写真を撮るのはスリルがある。
60)自然体>ポーズとる。
 

61)自然光は最高の照明。
62)35mmはベストなウォークアラウンド焦点距離。
63)必要があれば、ISOを上げるのを恐れないこと。
64)どこにでも三脚を持って行く必要はない。
65)露出高めよりも低めで撮影する方が良い。
66)ホームレスの人を撮影すればアートっぽいと思っているのは、実に利己的だ。
67)全く期待していない時ほど、シャッターチャンスはやってくるものだ。
68)人間が写っている写真の方がより面白みがある。(風景写真はどこにでもある)
69)ダメな写真をいくらPhotoshopしたところで、いい画になるわけはない。
70)最近では、誰でもかれでもカメラマンである。
 

71)パリに行かないと良い写真が撮れない、なんてことはない。良い写真は裏庭でだって撮れる。
72)デジタル一眼でポートレートを撮影する時に、グリップが下を向いている人は馬鹿みたいに見える。
73)カメラは道具だ、オモチャではない。
74)構成という点において、写真と絵画に大きな違いはない。
75)写真は趣味ではない。ライフスタイルだ。
76)言い訳はなし。
77)オリジナルな写真を撮ること。他人のスタイルをマネしてはいけない。
78)良い写真とは、見る人がもっと聞きたくなるようなストーリーを持っているものだ。
79)黒以外のカメラは、人目を惹きすぎる。
80)機材を多く持ち歩けば持ち歩く程、写真を楽しむ余裕がなくなる。
 

81)上手い自画像を撮るのは、思っているよりも難しい。
82)笑わせることで、モデルの人柄を引き出せる。(スマイル ハンター)
83)撮影中に怪しい人と思われないように。周りの環境に馴染むこと。
84)風景写真は飽きる。
85)写真を撮っている時は、まず楽しむこと。
86)撮った写真は消さないこと。
87)人や場所を撮影する時は、敬意を表すること。
88)路上で自然に人々を撮影する場合は、望遠レンズよりも広角レンズを使うこと。
89)旅行と写真は、最高のカップル。
90)ヒストグラムの読み方は知っておくこと。
 

91)ノイズのある写真は、ボケ写真よりもマシである。
92)雨の中で写真を撮ることを怖がらないこと。
93)完璧な写真を撮ろうと必死になるよりも、その瞬間を楽しむこと。
94)お腹がすいている時は、写真をとらないこと。(披露宴や立食パーティなどの食事を供する場所で、空腹のカメラマンは地獄)
95)写真を通して、自分を再発見することは多い。
96)写真で得たインサイトを秘密にせずに、世界と共有すること。
97)写真を撮るのをやめないこと。
98)写真はただ単純に写真を撮るだけではない。人生における哲学である。
99)決定的な瞬間を切り取ること。
100)自分自身の写真ティップスリストを書くこと。
 
 
 
 
 
 
 

[転載]プロカメラマンに良い写真を撮ってもらおうと思えば、そのプロカメラマンが受け取るギャラを上げることを考えるべきです。ご意見募集

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プロカメラマンに良い写真を撮ってもらおうと思えば、そのプロカメラマンが受け取るギャラを上げることを考えるべきです。
 
プロカメラマンはお金を貰って写真を撮るのが仕事で、写真を撮ることで生活を支えています。
 
手取りギャラが高ければ、プロカメラマンのやる気が上がり、さまざまな気配りを行い、写真の質が上がります。
 
手取りギャラが安ければ、プロカメラマンのやる気が下がり、適当に写真を撮り、写真の質が下がります。
 
気を付けなければいけないのは、客が払っている金額と、プロカメラマンが受け取る金額に差があることです。
 
例えば、結婚式の写真であれば、客の払った金額の約半分を結婚式場がマージンとして天引きし、さらに残り半分を写真館が経費として頭はねすると言われています。
 
即ち、写真撮影代金として、結婚式場に8万円払っても、結婚式場が4万円を頭はね、写真館が中間で2万円を受け取り、プロカメラマンにわたるお金は2万円程度。プロカメラマンはそこから交通費・電話代を払い。百万以上するカメラ機材や、データ処理するパソコンやソフトの経費をねん出しています。
 
一万円代の日当は、バイトより高いけれど、結婚式写真の仕事は休日にしかないので、月収にすれば、月に8回仕事があっても10万そこそこの月収しかなりません。これでは、プロと言えないですね。アルバイトのカメラマンや学生さんの小遣い稼ぎのカメラマンが集まります。
 
 
では、どうしたらよいか?
 
直接カメラマンにギャラを支払うべきです。
 
8万円を結婚式場に払うのでは無く、カメラマンに直接支払うことです。
 
そうすれば、もし同じカメラマンでもやる気がすごく上がってきますし、プロと呼ぶにふさわしいカメラマンが集まります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

転載元: SEO技術を学ぶ

公益社団法人日本写真家協会

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公益社団法人日本写真家協会
(Japan Professional Photographers Society 略称JPS)
日本写真家協会(Japan Professional Photographers Society 略称JPS)は、昭和25(1950)年の創立以来、写真家の創作活動を奨励し、写真家の職能と地位確立のための活動を行っています。平成23(2011)年内閣府より公益社団法人への移行認定を受け活動しています。正会員は1,630名、名誉会員17名、賛助会員58社(2014年6月現在)で、わが国最大の職業写真家の組織です。
東京都千代田区に事務所を持ち、写真著作権の啓蒙・普及、写真展の開催、写真技術に関する研究、国際交流、ニュースや会報の発行などを通して、写真文化の発展に寄与しています。

公益社団法人 日本写真家協会 概要

名 称創 立設 立移行認定会 長所在地目 的事 業
公益社団法人 日本写真家協会
Japan Professional Photographers Society(JPS)
昭和25(1950)年5月12日
平成13(2001)年5月11日 文部科学省許可
平成23(2011)年4月1日 内閣府認定
田沼 武能
〒102-0082 東京都千代田区一番町25 JCIIビル303
職業写真家の創作活動を通して写真文化の振興を図るための人材の育成、表現活動の促進、著作権の啓発、顕彰等を行い、もって我が国文化の発展に寄与することを目的とする。
目的を達成するために、次の事業を本邦及び海外において行う。
(1) 写真に関する創作活動の奨励、人材の育成、教育に係わる事業
(2) 写真の表現に関する展示、講演、保存に係わる事業
(3) 写真に関する著作権の普及、啓発に係わる事業
(4) 写真に関する図書の編集発行、電子出版・情報に係わる事業
(5) 写真に関する優れた技術開発、表現活動に対する顕彰事業
(6) 写真に関する国際交流事業
(7) その他目的を達成するために必要な事業
 
 

事業活動

著作権の啓蒙活動・保護期間「死後50年」
昭和40(1965)年に設立した全日本写真著作者同盟(一般社団法人日本写真著作権協会-JPCA)と共に、写真著作権法の改正運動を興し、写真著作権の保護期間を「公表後50年間」から「死後50年間」(1997年)に引き上げました。著作権や契約、肖像権など写真に関するシンポジウムや研究会を専門家や弁護士を交えて全国で展開しています。

写真教育活動と講演会

4年生以上の小学生を対象に「写真教育プログラム」として「写真への興味を喚起する指導」を全国で実施しています。著名写真家が、写真愛好家を対象に写真の魅力を語る「フォトフォーラム」を毎年開催しています。

一般公募「JPS展」と「名取洋之助写真賞」

文化活動としての展覧会活動は、昭和51(1976)年より、東京、関西(京都)、地方都市で開催の「JPS展」。プロ写真家の登竜門とて写真文化の振興につとめています。
35歳以下の新進写真家発掘と活動の奨励を目的とする「名取洋之助写真賞」の選考および表彰を行っています。

企画展開催と写真史の編纂

創立以来、会員の写真ていいや企画展を開催。我が国の写真表現の歴史を編纂した、「日本写真史」「日本現代写真史」等を刊行。「日本の子ども60年」「おんな-立ち止まらない女性たち」写真展、写真集を刊行しました。平成23年には、東日本大震災復興支援事業として写真展「生きる」を東京、仙台、ドイツ・ケルン市(「フォトキナ2012」)で開催しました。

「日本写真保存センター」の設立を推進

歴史的文化的に貴重な写真原板の収集・保存を図る「日本写真保存センター」の設立を要請し、文化庁移植による「フィルムの収集保存」と「アーカイブ構築の研究」を行い、相模原のフィルムセンターの保存庫を文化庁から借り受け写真原板の収蔵を行っています。
 
 
 

JPAについて


名称
当協会は、一般社団法人 日本写真作家協会と称します。英文名称は Japan Photographers Association で、略して JPA と言います。

目的
当協会は、写真による記録及び表現の創作並びにそれらの研究に努め、もって文化向上に寄与し、社会の発展に貢献することを目的とします。

事業
上記の目的に資するため、当協会では次の事業を行います。
  1. 写真の研究発表会、展覧会、講演会の開催
  2. 写真創作活動の推進及び研究
  3. 写真著作権の普及及び研究
  4. 写真文化活動の国際的交流の推進
  5. 会員相互の情報交換のための会報、その他当協会の目的を達成するために必要な出版物の刊行
  6. 前各号に掲げる事業に附帯又は関連する事業
JPA展(会員展・公募展)についてはこちらへどうぞ。

[転載]継体天皇はどこから? 高槻市 今城塚古代歴史館

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 継体天皇はどこから? 高槻市 今城塚古代歴史館
 
三島古墳群マップ
  • しろあと歴史館
  • いましろ 大王の杜
古墳時代
 
 
 
 
 

名称所在地時代・概要備考
郡家今城遺跡
郡家今城遺跡(ぐんげ いましろ いせき)
高槻市今城町・郡家新町・氷室町一丁目
旧石器時代、奈良時代~平安時代 集落跡
出土した旧石器は平成10年2月、大阪府の有形文化財に指定

キャンプ地の想像図

キャンプ地の想像図
郡家今城遺跡では、約2万年前の旧石器時代のキャンプ地―獲物を解体して調理し、次の狩りのために石器をつくり、道具の手入れをしたところ―が、何か所もみつかっています。折れた石器や焼石料理に用いた河原石、石器の素材や石器づくりで出る石くずなどが多数出土しました。
そのころ、この一帯は、動物や木の実が豊かな、ブナなどの樹林が広がっていました。狩人たちは小集団で食物を求めて移動しながら生活していたと考えられています。移動の途中には、他集団との出会いもあったようです。出土した掻器(皮なめしの道具)のなかには北陸地方産の石器もあり、広範囲にわたる交流の様子がうかがえます。
石器出土状況
石器出土状況
出土したさまざまな石器
出土したさまざまな石器
叩き石・剥片・石核・ナイフ形・掻器など、木柄は復元
 
 名称所在地時代・概要備考
史跡今城塚古墳
史跡今城塚古墳(しせき いましろづか こふん)
高槻市郡家新町
古墳時代後期
昭和33年2月、国の史跡に指定

全景

全景
史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350m・総幅約340mをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。
今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわ さいし く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)
ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)
家形埴輪
家形埴輪
神殿風に屋根を飾る高床式の家 高さ約170センチメートル
 
 
 
 

継体天皇

誕生崩御陵所異称父親母親皇后夫人子女皇居
第26代天皇
足羽山の継体天皇像(福井県福井市)
450年?
近江国高嶋郷三尾野
(現・滋賀県高島市
531年3月10日?
三島藍野陵
袁本杼命・男大迹王
彦太尊
雄大迹天皇
乎富等大公王
彦主人王
振媛
手白香皇女
尾張目子媛ほか
安閑天皇
宣化天皇
欽明天皇
他多数
樟葉宮
筒城宮
弟国宮
磐余玉穂宮
 
 継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。
 戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
 
 ヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(詳細は「異説」の節にて後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。
 

生没年

  • 推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。
  • 推定没年:『古事記』には丁未4月9日527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。

生涯

 『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
 
 『日本書紀』によれば、506年武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連大伴金村物部麁鹿火大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
 そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女皇后とした。
 
 継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
 
 531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。
 
 死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は約40歳だが、『日本書紀』に従うと約80歳の長寿であった。
  • 品太ほむだ王の五世いつせみこ袁本杼をほどの命、伊波禮いわれの玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき(この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の3人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明安閑宣化 の3天皇である)。
この御世に竺紫君石井いはい、天皇のみことに従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲もののべのあらかひ大連おほむらじ、大伴の金村かなむらの連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳よそじまりみとせ。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり
(〔〕は分注)
 

皇居

※『日本書紀』に拠る。
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは最後の5年のみである。
 
 

陵・霊廟[編集]

継体天皇の陵墓と考えられる今城塚古墳
 
 (みささぎ)は、大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳前方後円墳、墳丘長227m)。
 本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考えられることから、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっている。宮内庁による治定の変更は行われていないため、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることができる。2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカにて復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。
また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

転載元: 環境歴史観光防災ボランティアのブログ

[転載]丸島鯨学校跡(まるしまくじらがっこうあと) 水俣市

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丸島鯨学校跡(まるしまくじらがっこうあと) 水俣市

丸島鯨学校跡碑

所在地

   水俣市丸島町

解説

鯨学校

   丸島港は水俣市役所から南西へ2kmほどに位置した、水俣市の中心的な漁港です。この丸島港を臨む畑の一角に「史跡 丸島鯨学校跡」の小さな碑が建っています。残念ながら学校の詳しい資料は残されておらず、詳細については分からないことが多いのですが、開校のいきさつなどが語り継がれ、『みなまたのむかしばなし』などで紹介されています。
   『新水俣市史 民俗・人物編』は、丸島鯨学校設立に関するエピソードとして次のように紹介しています。
   明治17、8年(1884、85年)ごろ、台風による激しい風雨、高浪が丸島沖を襲い、台風が去った翌朝、波打ち際の砂地に一頭の鯨が小山のように横たわっていました。このことは急ぎ村人に知らせられ、思いがけない海の恵みに村中が喜びにわきました。
   予想を上回る額に達した鯨の売上金は鯨発見の祝宴費用や各家庭への分配金に充てようということになり、厳しい生活をおくっていた村人は大方その意見に賛同しました。しかし、第一発見者の江口ルイ(オルカ婆さん)は、「これは神様が丸島の村に下さったお金だから、私ごとに使ってしまっては神様の意に反するのではないか、それより丸島から立派な若者を出すために学校を建てたらどうだろう」と村人を説きめぐりました。
   その村を思う熱心な説得に村人たちは同意して、学校をつくることが決まりました。明治5年(1872年)の学制公布を受け、水俣にも学校はありましたが(袋小学校が最初)、通うことができるのは比較的裕福な家庭の子どもに限られていました。小さいながらも村人の総意で建てられたこの学校は「鯨学校」の愛称で親しまれ、明治30年(1897年)ごろまであったといいます。江口ルイには、県知事から学校を設立した功を賞して、賞状と金杯が贈られたということです。
   現在でも丸島地区ではいかかご漁業や刺し網漁業などを中心に漁業が営まれ、水俣一の漁港として当時の面影を伝えています。しかし港湾の改修工事が進み、鯨学校は小さな碑にその跡をとどめているのみです。

参考文献

   寺本哲往 編・発行 『みなまた郷土物語集』 1956年
   水俣市史編纂委員会 編 『新水俣市史 民俗・人物編』 水俣市 1997年

周辺情報

   周辺には湯の児温泉・湯の鶴温泉などがあり、近くの見どころとしては市立水俣病資料館・エコパーク・竹林園・徳富蘇峰生家・徳富蘇峰記念館・塩釜神社などがあります。

地図

転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会 水俣水銀条約遵守

[転載]対馬へ行こう!対馬の歴史(紀元前6800年ころ九州産の黒曜石出土〜663大和朝廷の朝鮮半島撤退〜大宰府の宗氏支配〜元・高麗連合軍の元寇(生写真もドンドン転載願います)

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イメージ

対馬の歴史

古代〜安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治〜現代

対馬にはいつから人が住んでいたの?

 2005年10月現在、対馬で最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡です。紀元前6800年頃の縄文時代の遺跡で、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土しており、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示しています。

魏志倭人伝 〜史書への登場〜

 対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。
(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)

白村江の戦い 〜金田城と防人〜

 古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。
 大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。
 
 
 
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  現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。
 平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」神名帳は、当時「官社」とされていた神社の一覧です。神名帳に記載された神社を「式内社」(延喜式内社)と呼び、古くから朝廷に認められた神社として、一種の社格になっています。
 西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。

 対馬には多くの神々が鎮座していますが、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉(とよたま)姫と、神功(じんぐう)皇后です。豊玉姫は「古事記」の海幸山幸伝承に登場する女神で、初代天皇である神武天皇の祖母にあたります。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれてきました。
 一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があります。


阿比留氏と宗氏 〜中世対馬の有力者〜

 現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。

 
  伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。
 
 惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。
 宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。
 ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

元寇 〜国境の島を襲った悲劇〜

  阿比留氏に代わって対馬を統治することになった宗氏ですが、鎌倉時代から江戸幕末まで続くその治世は決して平坦なものではありませんでした。1274年、宗資国(助国)の時代には、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま。現在の金田小学校周辺とされている)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が全滅しています。
 宗資国の首と胴体は、お首塚・お胴塚に別々に埋葬されており、戦いの激しさを伝えています。

 対馬に上陸した元・高麗連合軍は暴虐の限りを尽くし、島人は未曾有の惨状に巻き込まれました。

文永の役

筥崎宮伏敵門の扁額『敵國降伏』
公家広橋兼仲の日記『勘仲記』(11月14日条)によると、文永の役最中と思われる時期に筥崎宮は火事により焼失したという[125]。この「敵國降伏」の扁額は、文永の役後の社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆のものと伝えられる。

元・高麗連合軍の出航

元軍の雲版
雲版とは寺院において時間を知らせるために打ち鳴らす道具。元軍が銅鑼として使用したものと伝わる。雲版の表面には、鋳造年に文永の役の3年前である「至元八年(1271年)五月日 造」との年号が刻まれている。
筥崎宮所蔵
元軍の雲版(裏面)
裏面にも凡字・漢字で「完全に勝破せよ」という意味の一節などが仏教において用いられる呪文の一種である真言陀羅尼から引用されている。
筥崎宮所蔵
  • 1274年文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[126]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[127]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。
 
 
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた。

対馬侵攻

 『八幡愚童訓』によると、対馬守護代宗資国は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。元軍は対馬に入ると、島人を多く殺害した。
 同日、宗資国は元軍の襲来を伝達するため、小太郎兵衛次郎(ひょうえじろう)らを博多へ出航させていた。
 この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
 この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
 元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。
 
 
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元寇650年の碑
 
 
 
 
 
 
 
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元寇上陸の地 小茂田浜
 
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 樋口〇〇作

一.
頃は文永十一の    浪の花立つ神無月
傲慢無礼の蒙古勢  海をおおうて寄せ来る
助国公を始めとし   一族郎党おしなべて
忠義一途の対馬武士  頼む心の一すじは
霰たばしる真剣ぞ   踏み迷わじ万張?の
月は照りその神前に 一歩も入れじとただ進め
進め勇めの号令よ  吶威?一声いかづちの
天地に響くばかりなり

二.
智勇仁義の名将の  下弱卆のあるべきぞ
忠臣心をあつめつつ 御陵威を楯となり
きらめく剣に将を?り とどろく蹄に旗を抜き
死して忠戦の鬼となるも 生きて異国の奴なる?
寸歩も去らず戦?    敵は竹葦と攻め囲み
流石武勇の英将も  いとも手痛き戦いに
五丈?頭星落ちて  ?なお暗きなりにけり?


三.
中にも斉藤資定は、二つの腕はたたれても
忠義の二字は凛然と 大喝 敵をしりぞけて
顔を岩にふれて死す 散りきわ潔き山桜
大和心に?みしらは 小茂田の浜を落ちていく
若葉の木の光こそ  実に国民の基盤なれ
 
 
四・・・・?誰かお教え願います
 
 
 
 
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壱岐侵攻

 壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する。
 『高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
 元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。
 蒙古・漢軍の右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は、日本兵を1,000余り討ち取ったという。
 日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。

 68歳であった宗資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。
熊本県の菊地神社資料館より
御首塚
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元軍の撤退後、対馬を中心とする倭寇の活動が激しくなり、高麗朝を滅ぼす原因のひとつとなりますが、背景には元寇への復讐という意味と再び元寇が起きないようにする防衛の意味がありました。

倭寇 〜海賊たちの時代〜

 13世紀から16世紀にかけて、東アジア一帯で猛威をふるったのが「倭寇」(わこう)と言われる海賊集団でした。倭=日本人等、寇=侵略、であり、北九州(対馬・壱岐など)や瀬戸内海の漁民・豪族及びアジア人により構成されていたと考えられています。
 古来よりこれらの地域では海外との交易が盛んでしたが、卑劣な侵略である元寇への報復の意味及び防衛のためであり、日本・朝鮮の中央政府が弱体化したり、戦争や対外的な緊張により交易ができなくなると、盛んに行為を行うようになりました。
 倭寇の行為は熾烈をきわめ、それが高麗王朝の滅亡を早めたと言われています。

 倭寇に悩まされた李氏朝鮮は、倭寇の本拠地とされた対馬の武力鎮圧を試みたり(1419年応永の外寇)、食料が自給できないことが海賊行為の原因であると推察し、対馬の有力豪族や対馬島主である宗家に官位を与え、貿易を認める等の懐柔策を取ります。
 1443年(嘉吉3年)には宗家と李氏朝鮮の間で嘉吉条約(貿易協定)が結ばれ、これより宗家は朝鮮との貿易権をほぼ独占することになり、また、室町幕府と明国の間で勘合貿易が行われるようになったため、倭寇の活動は次第に下火になっていきます。
 後期倭寇は、明国の海禁政策(貿易制限)によって生活手段を奪われた中国人・ポルトガル人・イスパニア(スペイン)人・博多の商人などが中心となっており、正確には「倭=日本」寇とは呼べないものである。

 対馬市美津島町の西部にある尾崎地域は、一大勢力であった早田氏の拠点の一つでした。尾崎の北端にある水崎遺跡の発掘の結果、陶磁器の9割近くは朝鮮製で、その他に東南アジア製の陶器等も見つかっており、早田氏が朝鮮・中国・東南アジアにいたる広い交易圏を持っていたことをうかがわせます。

 

朝鮮出兵と和平交渉 〜宗義智の人生〜

 宗家宗義智(そう よしとし)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な時代に生きた島主でした。天下統一を果たした秀吉が次に目指したのが大国・明の支配であり、宗義智や小西行長の反対を押し切り、朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)が計画されます。
 先導役を命じられた義智は、義父でもある行長の密命を受け、水面下でさまざまな和平交渉を行ったと言われています。日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥れますが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされます。

 朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となります。関ヶ原の戦いにおいて、義智は義父の行長とともに西軍(三成方)に味方しますが、小西行長は敗戦後に処刑、義智の妻であった行長の娘マリアは離縁され、長崎で一生を終えたと言われています。義智は、家康によってお咎め無しとされ、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられます。
 李氏朝鮮は強硬に拒絶しますが、北方で勢力を拡大していた女真族への防備の必要もあり、家康から先に国書を通じること等を条件に通信使の派遣を承諾し、1607年に最初の通信使(回答兼刷還使)が派遣されます。

 秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、江戸幕藩体制においてその功績を認められ、初代対馬藩主として元和元年(1615年)、その波乱に満ちた生涯を終えました。

 父・義智の苦労を偲んだ宗義成によって菩提寺が建立され、義智の法号から万松院と名付けられました。義智の妻マリアはキリシタンでしたが、厳原町の八幡神社の末社である今宮若宮神社に祀られています。

 
古代〜安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治〜現代



考古学的に見ると、対馬の中心地は各時代で少しずつ移動したように見える。

・縄文時代 … 上県町〜峰町 → 越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など
・弥生時代 … 峰町〜豊玉町 → 三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など
・古墳時代 … 鶏知周辺 → 根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳
・古  代 … 国府(厳原)

動画
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略①
 
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=fvwrel



Hojo Tokimune Second Mongol Invasion
 
http://www.youtube.com/watch?v=TLJIBDHDj9M&feature=related

Hojo Tokimune Munemasa Died for Japan 北条 宗政
 
http://www.youtube.com/watch?v=UjKWvP92Ous&feature=related
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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転載元: 海洋文化交流のブログ

[転載]元寇750年イベントにご意見募集(転載歓迎)

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元寇を忘れるな!
元寇750年イベントにご意見募集
 
1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
 
ご意見を募集します。
 
 
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元寇七〇〇年平和之碑
 
 
 
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元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
 
 
 
 
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助國忌
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
 
 
 
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元寇750周年イベントに対するご意見
※下記のことをして欲しいと思います。
<対馬>
・対馬厳原 元寇上陸地 小茂田神社における元寇750年平和記念碑建立
・       御胴塚 御首塚の整備
 
<壱岐>
・島内各所に散在する千人塚の整備
・少弐の墓の整備
 
<長門>
・元寇上陸地点標識整備
 
<鷹島>
・世界史上最大の海軍が集結した状況の再現
 
 
※ご寄付受入れ先
<対馬>
・小茂田神社、御胴塚、御首塚、対馬市
<壱岐>
・壱岐神社、少弐の墓前、各千人塚
 
 
 
 

転載元: 海洋文化交流のブログ

シニア婚活 形にとらわれず よく話し合って

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シニア婚活 形にとらわれず「事実婚」「通い婚」も

 中高年層が新たな伴侶を求める「シニア婚活」が盛んになっている。中高年を対象にした結婚情報サービスも目立つ。法律上の婚姻や同居を必ずしも相手に求めないといった、中高年ならではの特徴もあるようだ。
 埼玉県の会社員男性(61)は9月、東京都の会社員女性(63)に婚約指輪を贈った。年内に自分の子どもに結婚を知らせ、来年には婚姻届を提出したいという。

 男性は2012年に妻に先立たれた。寂しさを紛らわそうと一人旅に出るなどしたが、「心の穴が塞がらない」。妻の三回忌を機に、結婚情報サービス「オーネット」(東京)のシニア向けコース「スーペリア」に入会した。
 今年4月、会員が参加するイベントで女性と顔を合わせた。女性は20年前に離婚し、娘2人を育ててきた。「新しいパートナーを見つけたら」と娘に勧められて入会した。

 互いに好印象だったため、同社が仲介して2人で会うことに。「おしとやか」「気さくで話しやすい」と感じて、デートを重ねるようになった。今は朝晩、電話などでやりとりを欠かさない。「一緒にいると心が弾む」と口をそろえる。
 同コースは昨年、男性50歳以上、女性45歳以上を対象に首都圏で開設。入会金3万円、月会費1万円。ほかにイベントの参加費などがかかる。成婚した際の追加費用は不要だ。

 会員は男女ほぼ半々で、7割以上に結婚歴がある。年齢層では、60歳以上の男性が64%、55歳以上の女性が56%をそれぞれ占める。同社シニア専任アドバイザーの中野淳史さんは「こちらが紹介した会員同士がカップルになるのに加え、会員向けのイベントやパーティーをきっかけに交際を始めることも多い」と話す。
介護など話し合う
 結婚情報サービス「茜あかね会」(東京)は、60歳以上の会員が近年徐々に増え、現在は51%を占めるようになった。

 「形にとらわれないパートナー探しが、中高年世代の特徴です」と、同会チーフカウンセラーの立松清江さんは話す。時間をかけて家族の理解を得るため、まず婚姻届を出さない「事実婚」から始めるケースや、住環境を変えないよう、互いの家を行き来する「通い婚」を選ぶケースも珍しくないという。

 「中高年はライフスタイルが確立し、行動様式をすべて合わせるのは難しい。じっくり時間をかけ、互いの考え方や価値観を見つめ合うことが大切です」と立松さん。相続をどうするか、どの墓に入るか、要介護状態になった時は誰が世話をするのかといった点も、「家族も交え、話し合っておきましょう」。
業者選び慎重に
 結婚情報サービスを利用する際には、業者選びに気をつけたい。国民生活センターによると、「結婚相手紹介サービス」をめぐる相談で、60歳以上の割合が昨年度は17%と、4年前より3ポイント高まっている。「解約時の返金額に納得がいかない」「相手を紹介してくれなくなった」といった苦情が中心。紹介された外国人と結婚しようとしたら、何百万円もの仲介料を求められたケースもあったという。

 同センターは「サービス内容や料金、解約時の条件などを十分に確認しましょう。トラブルになったら、早く消費生活センターに相談をしてください」と呼びかけている。
 

シニア婚活を成功させる秘訣

いい歳をして恥ずかしい!

自分がいるから寂しくない!

長生きを楽しめる環境を認める

 
 

お互いの年金はどうなる?

 
 「婚活」にチャレンジするシニアが急増しているそうです。ある番組で、「婚活の相手に望むことは」と聞かれた女性が、「経済的な安定」と答えていました。婚活といえばどんな世代でも経済的な問題は付いてくるものですが、シニア世代では特にお互いの年金が気になるのではないでしょうか。
 では、60歳以降のカップルが再婚することで、受け取る年金にはどんな影響が出るのでしょう。配偶者加給年金と遺族年金に注目してみましょう。
 配偶者加給年金とは、年金版の扶養家族手当です。厚生年金に20年以上加入していた人で、65歳未満の配偶者がいれば年額39.3万円程度が老齢厚生年金に加算されます。
 配偶者加給年金の対象者となる配偶者かどうかは、特別支給の老齢厚生年金の定額部分または原則65歳から支給される老齢厚生年金の受給権が発生したときの状況で判断されます。
 受給権を取得したときに、対象となる配偶者がいれば加算されます。
 それでは、再婚した相手も加給年金の対象者となるのでしょうか。
 すでに老齢厚生年金を受給している人が再婚した場合、再婚相手が加給年金の支給要件を満たしていたとしても新たに加給年金が加算されることはありません。これに対して、受給権取得前に再婚した場合は、再婚した配偶者も加給年金の対象者になります。
 また、配偶者加給年金は、対象の配偶者が65歳になると終了し、その後は振替加算として配偶者の年金に加算されます(昭和41年4月1日以前生まれまで。金額は生年月日により変わります)。
 このように60歳以降の再婚は、加給年金や振替加算の受給に少なからず影響を与えます。
 
 次に遺族厚生年金を受給している方が再婚した場合はどうでしょうか。婚姻は、遺族厚生年金の失権理由に該当するため、年金の受給権は消滅します。遺族厚生年金は再婚した日を含む月まで支給され、その後は支給されません。
 再婚相手と離婚しても元の遺族年金が再び支給されることはありません。注意する点は、この場合の婚姻には内縁関係(事実婚)が含まれるということです。
 すてきなパートナーとともに残りの人生を楽しむためにも、それぞれの年金についてよく話し合っておかれるといいですね。
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キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。亀虎古墳とも書く。墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。

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キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳亀虎古墳とも書く。墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。
 
 

キトラ古墳位置所在地形状規模築造年代埋葬施設被葬者出土品史跡指定特記事項
Kitora tomb.jpg
阿部山麓から撮影(2009年5月23日
北緯34度27分05秒東経135度48分19秒 / 北緯34.45125度 東経135.805278度 / 34.45125; 135.805278座標: 北緯34度27分05秒東経135度48分19秒 / 北緯34.45125度 東経135.805278度 / 34.45125; 135.805278
奈良県高市郡明日香村
円墳
上段
直径9.4m
高さ2.4m
下段
直径13.8m
高さ90cm
7世紀から8世紀
石棺
不明
壁画
特別史跡
壁画の保存事業が進んでいる
 

概要

 二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
 1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める[1]
 
 1998年の探査で青龍白虎、天文図が確認され[1]、2001年には朱雀と十二支像が確認された[1]。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されている[1]
 2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
 2013年に石室の考古学的調査は終了したため石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われている[1]
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。

年代

 壁画などにみられるの文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。

被葬者

 誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
 
 白石太一郎は、被葬者は右大臣阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。岸俊男などもその蓋然性が極めて高いと考え支持している。直木孝次郎も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとした[2]。阿倍御主人は大宝3年(703年)4月右大臣従二位、69歳で没した(『続日本紀』『公卿補任』)。
 
 また猪熊兼勝は、天武天皇の皇子の高市皇子という説を主張。
 
 千田稔は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げる。

構造

 二段築成の円墳である。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。
内部構造は横口式石槨で天井は家形になっている。石槨は凝灰岩の切石を組み合わせて作られており、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。 奥壁・側壁・天井の全面には漆喰が塗られ、壁画がほどこされている。

壁画

 東西南北の四壁の中央に四神青龍白虎朱雀玄武が描かれている。
 東壁の青龍と西壁の白虎は右向きであり、すなわち青龍は南壁の朱雀のほうを向いており、白虎は北壁の玄武のほうを向いている。しかし中国においては、これとはことなり青龍も白虎もいずれも南壁の朱雀のほうを向いている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など6体の発見に留まっている。
 同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。
 しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。
 
 天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図がある。この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる。 描かれている星の総数は、277個である。
 
 
特別史跡キトラ古墳 墓道部の調査 現地見学会資料(2002年6月8日)


調査主体文化庁文化財記念物課
調査機関独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
調査協力奈良県教育委員会(奈良県立橿原考古学研究所)
明日香村教育委員会
所在地奈良県高市郡明日香村大字阿部山字ウエヤマ136番地の1
規模と構造円墳(二段、直径13.8m)
内部主体は横口式石槨(よこぐちしきせっかく:壁と天井に壁画)
調査面積15㎡
調査期間2002年5月7日~もうすぐ終わります


はじめに
 キトラ古墳は、1978年墳にその存在が知られるようになった、7世紀後半から8世紀初め頃のいわゆる終末期の古墳です。1983年に横口式石榔内甑をファイバースコーブによって調査したところ(飛鳥保存顕彰会とNHK)、玄武の壁画が発見され、高松塚古墳(明日香村平田、1972年に壁画発見、特別史跡)に次ぐ、飛鳥の壁画古墳として一躍有名となりました。
 その後は、明日香村が中心となって遺跡の調査と保存が進められました。1997年には範囲確認のための発掘調査が行われ、墳形と規模(上記)が判明しました。1998年3月、小型カメラによって石槨内部を再調査したところ、青龍・白虎と天文図が新たに発見されました。これを受けて、キトラ古墳は2000年11月に国特別史跡(国宝に値する遺跡)に指定されたのです。2001年3月には、3度目の石槨内部調査では、壁画としてはわが国初の朱雀が南壁で発見され、四神が揃ったのでした。
 こうした一連の調査によって壁画と古墳の重要性が広く知られましたが、また、壁画自体が極めて危険な保存状態にあることもわかってきました。昨年度(2001年度)からは、文化庁がキトラ古墳の調査に直接関わることになり、壁画と古墳そのものを保存するための委員会を設置して検討を始めました。この委員会での意見をふまえ、2001年12月には壁画が描かれている石槨内部の保存状態を記録するために高解像度のデジタルカメラを石槨のなかに入れて撮影しました。この調査により、それまでわからなかった石槨の盗掘坑の状況がわかり、どのような保存処置ができるのかも検討できるようになりました。
 今年、文化庁、そして委託を受けた奈良文化財研究所は、古墳と壁画の保存に万全を期すために、まず石槨内部と同じ環境を保てる仮覆屋を設置して壁画を保全する計画をたてました。キトラ古墳の今回の調査は、この仮覆屋を建設するために必要な基礎的資料の収集、なかでも石槨の南にある墓道に関して、その規模と構造を解明することを主な目的として調査に入りました。

調査位置図
調査の成果
 調査では、まず、2001年3月と12月の内部調査前に発掘した探査坑を再発掘し、これを手がかりに東西4m×東側南北5m・西側南北3mの調査区を設定しました。横口式石槨南壁までは約1.3~1.5mを隔てています。発掘調査の結果、盗掘坑と墓道を確認しました。
盗掘坑  すでに、2001年3月の明日香村教育委員会の発掘調査でも確認されていたものです。今回の調査区北壁の断面で、東西幅約3m、深さ1.5mの規模です。盗掘坑の底近くには、盗掘時に破壊した、凝灰岩製石槨石材の砕片が散在し、盗掘の様子を生々しく物語っています。1点だけですが、やや大型の石材破片(長さ25cm)も出土しました。埋土から瓦器(表面に炭素を吸着させた黒っぽいお椀)の破片が出土したので、盗掘の時期は平安時代末から鎌倉時代と推定できます。
墓道  墓道とは、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)へ棺を搬入し、さらに南の閉塞石(石槨南壁)を設置するためにもうけられた通路状の施設のことです。
 墓道は古墳の墳丘盛土から掘り込まれ、幅2.35~2.65m(底面で2.3~2.45m)、調査区北辺での深さは1.5mです。この墓道は、東側で3.5m、西側で1.8mの長さ残っていました。西側で短いのは、古墳西南部が後世に削られてしまったためです。今回の調査区は石槨南壁と1.3mを隔てるので、墓道の残存長は、東側で約5mと推算できます。西壁は真北より北で西に5度、東壁は北で西に11度振れているので、ごくわずかですが南で広くなっています。
 墓道の床面は、最も高い北側(石槨側)0.3mだけがほぼ水平で、それから南側は緩く南に傾斜します。水平な北側床面の高さは推定される横口式石槨床面の高さとほぼ等しいので、このままの高さで石槨まで延びていると推測してよいでしょう。
 墓道は、下のほうが堅い版築土で埋められ、その上には多少突き固めてはありますがやや軟質の土を重ねています。埋土は墳丘の基盤層(版築土層)や積み土(墳丘土)とは土質に違いがあるので、後から埋めたことがわかります。埋土からは、土師器と須恵器の小さな破片が出土しましたが、時期を特定できるものではありませんでした。

墓道

コロのレール痕跡  墓道の床面には、南北方向に3条(あるいは4条か)のコロのレール痕跡がみつかりました。コロのレールとは、閉塞石(南側側壁)を運び上げたときのコロ(転)の下にそれと直交して置いた木材を指し、それを抜き取った痕跡が残っていました。床面に張られた茶褐色の粘質土とよく似た土で埋められ、東西の2条は幅約15cm、心々距離(溝の中心同士を測った距離)は1.35m(内法の距離1.2m)です。中央の1条は、土層堆積観察用の畦に大半が隠れていますが、幅約60cmあります。レール痕跡の方位は、真北から西に8度振れています。これは墓道の東西両壁の振れを平均した値に一致し、横口式石槨の方位を反映している可能性があります。

調査区平面図

墓道と石槨との関係  横口式石槨の南西隅を開口している盗掘坑の位置とこれに沿って挿入されたガイドパイプ(内径15cm)の位置から判断して、墓道は横口式石槨の南側正面に正しく位置すると判断できます。それ以外の詳細は、残された石槨との取り付き部の調査に期待したいと思います。

墓道と石槨の断面図

http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/kitora1.html
 
 

[転載]【動画】ドキュメンタリー『カザフスタンのウイグル人』

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ドキュメンタリー『カザフスタンのウイグル人』





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ウイグル族3人が「テロ犯」として射殺される





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[転載]【動画/再掲】東トルキスタンから誘拐されスリをさせられる子供達

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東トルキスタンから誘拐されスリをさせられる子供達




東トルキスタンから誘拐されスリをさせられる子供達


 2011年7月に、中国でスリをして捕まり、周囲の大人たちから暴力を振るわれるウイグル人の子供の映像が話題になった。


 元の動画は56.comに投稿されたようであり、本当にスリをして捕まったウイグル人児童なのかは確定してはないものの、現在東トルキスタンの、そして中国全土の社会問題となっている現状を見るに、恐らくその通りの状況の映像であると考えられる。
 
 数年前より東トルキスタンでは児童が誘拐され、中国の都市部に売られ、そこで盗みを行う組織に入れられ、スリをさせられている、という深刻な問題がある。
 「新疆自治区救助所」の公表する数字で、4千人のウイグル人児童が中国都市部でスリなどをさせられているということであるが、実際にはもっと多くの被害者がいると見られている。

 自宅がどこにあったか分からないくらい幼い時に誘拐された児童も多く、そのような子を警察が保護しても自宅に帰すことが出来ない。
 またウイグル人スリを捕まえると「民族問題」となり易いこと、言葉が通じないことなどにより、警察も取り締まりに及び腰ということもあるという。
 そのため、スリ団の頭領が、保護者であると名乗って、捕まった児童を迎えに来ると、引き渡さざるを得ないという状況にある。
 
 警察が対処仕切れないということにより、民間人が反スリ団体を結成し、民間人によってスリをした児童を捕まえ制裁を加える状況になっている。彼らは児童であろうと容赦なく暴力をふるい、殺される児童も多いようである。

 そのような、民間人によるウイグル人児童への制裁の様子が、上の動画ではないかと考えられる。

*)動画が撮られた場所も日付も不明であるが、中国であることははっきりしており、虐待されている児童が漢人とは明らかに違う、多分ウイグル人だろう、ということからの判断による。
 
 このように中国の都市部で犯罪者となっているウイグル人が大勢いるということは、当然漢人らのウイグル人に対しての偏見にもつながる。
 
 「筆者が、中国で感じたのは、漢族のうち多くの人が、ダライラマに対しては悪感情を持っているものの、チベット族のことは悪くは思っておらず、チベット自体は、憧れの旅行先。内モンゴルについても、貧乏だとは思っているものの、それほど悪感情はない。それに対して、ウイグル族および新疆ウイグル自治区に対しては大変な偏見がある、というものでした。」という記事のように、チベット人やモンゴル人に比較しても、特にウイグル人に対しての感情が悪化していることが分かる。
 
 上の動画で、周囲の漢人の大人たちがウイグル人の児童を虐待する、という構図は、漢人らの持っている少数民族蔑視や、ウイグル人への偏見などが、集団心理として増幅されたのではないかと思われる。
 
 この解決には、警察による取り締まりが強化されること、ウイグル人児童に対応する警察官にウイグル人を採用すること、誘拐された場所を特定し自宅へ帰還させるための団体などを作ること、などが考えられる。
 
 2011年7月に、新疆ウイグル自治区公安庁が発表したことによると、集中取り締まりによって、子供を狙う誘拐団66組織を摘発し、容疑者332人を拘束、未成年者138人を救出したということである。しかし中国全土で数千人を超える被害児童の数に比べると、まだ不十分であるといえるだろう。
 
 行政の側が、児童救済の体制を整えるのと同時に、中国都市部に住む良心的な漢人達からの支援運動も、必要となると思われる。
 ウイグル人のスリを直接相手する漢人たちが、これら児童を単に制裁すべきものと捉えるのではなく、社会問題として解決すべきものと考えられるようにならなければ、この悲惨な子供達を救うことは不可能であろう。


参考文献

中国内地におけるウイグル族ストリートチルドレンの生存状況調査(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/6f7d9360f4c0642ebbc31c660b204e76
 
中国内地におけるウイグル族ストリートチルドレンの生存状況調査(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/d6d3618a5dbaeb222688612d3796023e

漢族のウイグル観、チベット観、内モンゴル観-反応が違うウイグル
http://bit.ly/p4QsJohttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0717&f=column_0717_004.shtml

ウイグル自治区、児童誘拐団66組織を摘発
http://news.livedoor.com/article/detail/5689405/


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[転載]【動画】ウイグル核実験

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ウイグル核実験





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[転載]継体天皇はどこから? 高槻市 今城塚古代歴史館

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 継体天皇はどこから? 高槻市 今城塚古代歴史館
 
三島古墳群マップ
  • しろあと歴史館
  • いましろ 大王の杜
古墳時代
 
 
 
 
 

名称所在地時代・概要備考
郡家今城遺跡
郡家今城遺跡(ぐんげ いましろ いせき)
高槻市今城町・郡家新町・氷室町一丁目
旧石器時代、奈良時代~平安時代 集落跡
出土した旧石器は平成10年2月、大阪府の有形文化財に指定

キャンプ地の想像図

キャンプ地の想像図
郡家今城遺跡では、約2万年前の旧石器時代のキャンプ地―獲物を解体して調理し、次の狩りのために石器をつくり、道具の手入れをしたところ―が、何か所もみつかっています。折れた石器や焼石料理に用いた河原石、石器の素材や石器づくりで出る石くずなどが多数出土しました。
そのころ、この一帯は、動物や木の実が豊かな、ブナなどの樹林が広がっていました。狩人たちは小集団で食物を求めて移動しながら生活していたと考えられています。移動の途中には、他集団との出会いもあったようです。出土した掻器(皮なめしの道具)のなかには北陸地方産の石器もあり、広範囲にわたる交流の様子がうかがえます。
石器出土状況
石器出土状況
出土したさまざまな石器
出土したさまざまな石器
叩き石・剥片・石核・ナイフ形・掻器など、木柄は復元
 
 名称所在地時代・概要備考
史跡今城塚古墳
史跡今城塚古墳(しせき いましろづか こふん)
高槻市郡家新町
古墳時代後期
昭和33年2月、国の史跡に指定

全景

全景
史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350m・総幅約340mをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。
今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわ さいし く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用された江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)
ハニワの出土状況(埴輪祭祀区)
家形埴輪
家形埴輪
神殿風に屋根を飾る高床式の家 高さ約170センチメートル
 
 
 
 

継体天皇

誕生崩御陵所異称父親母親皇后夫人子女皇居
第26代天皇
足羽山の継体天皇像(福井県福井市)
450年?
近江国高嶋郷三尾野
(現・滋賀県高島市
531年3月10日?
三島藍野陵
袁本杼命・男大迹王
彦太尊
雄大迹天皇
乎富等大公王
彦主人王
振媛
手白香皇女
尾張目子媛ほか
安閑天皇
宣化天皇
欽明天皇
他多数
樟葉宮
筒城宮
弟国宮
磐余玉穂宮
 
 継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。
 戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
 
 ヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(詳細は「異説」の節にて後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。
 

生没年

  • 推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。
  • 推定没年:『古事記』には丁未4月9日527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。

生涯

 『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
 
 『日本書紀』によれば、506年武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連大伴金村物部麁鹿火大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
 そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女皇后とした。
 
 継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
 
 531年に、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『日本書紀』では、『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して、天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったとし、政変で継体以下が殺害された可能性(辛亥の変説)を示唆している。
 
 死去年に関しては、『古事記』では継体の没年を527年としており、そうであれば都を立てた翌年に死去したことになる。『古事記』では没年齢は約40歳だが、『日本書紀』に従うと約80歳の長寿であった。
  • 品太ほむだ王の五世いつせみこ袁本杼をほどの命、伊波禮いわれの玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき(この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の3人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明安閑宣化 の3天皇である)。
この御世に竺紫君石井いはい、天皇のみことに従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲もののべのあらかひ大連おほむらじ、大伴の金村かなむらの連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳よそじまりみとせ。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり
(〔〕は分注)
 

皇居

※『日本書紀』に拠る。
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは最後の5年のみである。
 
 

陵・霊廟[編集]

継体天皇の陵墓と考えられる今城塚古墳
 
 (みささぎ)は、大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は太田茶臼山古墳前方後円墳、墳丘長227m)。
 本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考えられることから、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっている。宮内庁による治定の変更は行われていないため、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることができる。2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカにて復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。
また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

転載元: 環境歴史観光防災ボランティアのブログ

[転載]丸島鯨学校跡(まるしまくじらがっこうあと) 水俣市

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丸島鯨学校跡(まるしまくじらがっこうあと) 水俣市

丸島鯨学校跡碑

所在地

   水俣市丸島町

解説

鯨学校

   丸島港は水俣市役所から南西へ2kmほどに位置した、水俣市の中心的な漁港です。この丸島港を臨む畑の一角に「史跡 丸島鯨学校跡」の小さな碑が建っています。残念ながら学校の詳しい資料は残されておらず、詳細については分からないことが多いのですが、開校のいきさつなどが語り継がれ、『みなまたのむかしばなし』などで紹介されています。
   『新水俣市史 民俗・人物編』は、丸島鯨学校設立に関するエピソードとして次のように紹介しています。
   明治17、8年(1884、85年)ごろ、台風による激しい風雨、高浪が丸島沖を襲い、台風が去った翌朝、波打ち際の砂地に一頭の鯨が小山のように横たわっていました。このことは急ぎ村人に知らせられ、思いがけない海の恵みに村中が喜びにわきました。
   予想を上回る額に達した鯨の売上金は鯨発見の祝宴費用や各家庭への分配金に充てようということになり、厳しい生活をおくっていた村人は大方その意見に賛同しました。しかし、第一発見者の江口ルイ(オルカ婆さん)は、「これは神様が丸島の村に下さったお金だから、私ごとに使ってしまっては神様の意に反するのではないか、それより丸島から立派な若者を出すために学校を建てたらどうだろう」と村人を説きめぐりました。
   その村を思う熱心な説得に村人たちは同意して、学校をつくることが決まりました。明治5年(1872年)の学制公布を受け、水俣にも学校はありましたが(袋小学校が最初)、通うことができるのは比較的裕福な家庭の子どもに限られていました。小さいながらも村人の総意で建てられたこの学校は「鯨学校」の愛称で親しまれ、明治30年(1897年)ごろまであったといいます。江口ルイには、県知事から学校を設立した功を賞して、賞状と金杯が贈られたということです。
   現在でも丸島地区ではいかかご漁業や刺し網漁業などを中心に漁業が営まれ、水俣一の漁港として当時の面影を伝えています。しかし港湾の改修工事が進み、鯨学校は小さな碑にその跡をとどめているのみです。

参考文献

   寺本哲往 編・発行 『みなまた郷土物語集』 1956年
   水俣市史編纂委員会 編 『新水俣市史 民俗・人物編』 水俣市 1997年

周辺情報

   周辺には湯の児温泉・湯の鶴温泉などがあり、近くの見どころとしては市立水俣病資料館・エコパーク・竹林園・徳富蘇峰生家・徳富蘇峰記念館・塩釜神社などがあります。

地図

転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会 水俣水銀条約遵守


[転載]対馬へ行こう!対馬の歴史(紀元前6800年ころ九州産の黒曜石出土〜663大和朝廷の朝鮮半島撤退〜大宰府の宗氏支配〜元・高麗連合軍の元寇(生写真もドンドン転載願います)

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対馬の歴史

古代〜安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治〜現代

対馬にはいつから人が住んでいたの?

 2005年10月現在、対馬で最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡です。紀元前6800年頃の縄文時代の遺跡で、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土しており、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示しています。

魏志倭人伝 〜史書への登場〜

 対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。
(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)

白村江の戦い 〜金田城と防人〜

 古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。
 大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。
 
 
 
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  現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。
 平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」神名帳は、当時「官社」とされていた神社の一覧です。神名帳に記載された神社を「式内社」(延喜式内社)と呼び、古くから朝廷に認められた神社として、一種の社格になっています。
 西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。

 対馬には多くの神々が鎮座していますが、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉(とよたま)姫と、神功(じんぐう)皇后です。豊玉姫は「古事記」の海幸山幸伝承に登場する女神で、初代天皇である神武天皇の祖母にあたります。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれてきました。
 一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があります。


阿比留氏と宗氏 〜中世対馬の有力者〜

 現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。

 
  伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。
 
 惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。
 宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。
 ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

元寇 〜国境の島を襲った悲劇〜

  阿比留氏に代わって対馬を統治することになった宗氏ですが、鎌倉時代から江戸幕末まで続くその治世は決して平坦なものではありませんでした。1274年、宗資国(助国)の時代には、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま。現在の金田小学校周辺とされている)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が全滅しています。
 宗資国の首と胴体は、お首塚・お胴塚に別々に埋葬されており、戦いの激しさを伝えています。

 対馬に上陸した元・高麗連合軍は暴虐の限りを尽くし、島人は未曾有の惨状に巻き込まれました。

文永の役

筥崎宮伏敵門の扁額『敵國降伏』
公家広橋兼仲の日記『勘仲記』(11月14日条)によると、文永の役最中と思われる時期に筥崎宮は火事により焼失したという[125]。この「敵國降伏」の扁額は、文永の役後の社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆のものと伝えられる。

元・高麗連合軍の出航

元軍の雲版
雲版とは寺院において時間を知らせるために打ち鳴らす道具。元軍が銅鑼として使用したものと伝わる。雲版の表面には、鋳造年に文永の役の3年前である「至元八年(1271年)五月日 造」との年号が刻まれている。
筥崎宮所蔵
元軍の雲版(裏面)
裏面にも凡字・漢字で「完全に勝破せよ」という意味の一節などが仏教において用いられる呪文の一種である真言陀羅尼から引用されている。
筥崎宮所蔵
  • 1274年文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[126]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[127]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。
 
 
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた。

対馬侵攻

 『八幡愚童訓』によると、対馬守護代宗資国は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。元軍は対馬に入ると、島人を多く殺害した。
 同日、宗資国は元軍の襲来を伝達するため、小太郎兵衛次郎(ひょうえじろう)らを博多へ出航させていた。
 この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
 この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
 元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。
 
 
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元寇650年の碑
 
 
 
 
 
 
 
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元寇上陸の地 小茂田浜
 
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 樋口〇〇作

一.
頃は文永十一の    浪の花立つ神無月
傲慢無礼の蒙古勢  海をおおうて寄せ来る
助国公を始めとし   一族郎党おしなべて
忠義一途の対馬武士  頼む心の一すじは
霰たばしる真剣ぞ   踏み迷わじ万張?の
月は照りその神前に 一歩も入れじとただ進め
進め勇めの号令よ  吶威?一声いかづちの
天地に響くばかりなり

二.
智勇仁義の名将の  下弱卆のあるべきぞ
忠臣心をあつめつつ 御陵威を楯となり
きらめく剣に将を?り とどろく蹄に旗を抜き
死して忠戦の鬼となるも 生きて異国の奴なる?
寸歩も去らず戦?    敵は竹葦と攻め囲み
流石武勇の英将も  いとも手痛き戦いに
五丈?頭星落ちて  ?なお暗きなりにけり?


三.
中にも斉藤資定は、二つの腕はたたれても
忠義の二字は凛然と 大喝 敵をしりぞけて
顔を岩にふれて死す 散りきわ潔き山桜
大和心に?みしらは 小茂田の浜を落ちていく
若葉の木の光こそ  実に国民の基盤なれ
 
 
四・・・・?誰かお教え願います
 
 
 
 
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壱岐侵攻

 壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する。
 『高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
 元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。
 蒙古・漢軍の右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は、日本兵を1,000余り討ち取ったという。
 日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。

 68歳であった宗資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。
熊本県の菊地神社資料館より
御首塚
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元軍の撤退後、対馬を中心とする倭寇の活動が激しくなり、高麗朝を滅ぼす原因のひとつとなりますが、背景には元寇への復讐という意味と再び元寇が起きないようにする防衛の意味がありました。

倭寇 〜海賊たちの時代〜

 13世紀から16世紀にかけて、東アジア一帯で猛威をふるったのが「倭寇」(わこう)と言われる海賊集団でした。倭=日本人等、寇=侵略、であり、北九州(対馬・壱岐など)や瀬戸内海の漁民・豪族及びアジア人により構成されていたと考えられています。
 古来よりこれらの地域では海外との交易が盛んでしたが、卑劣な侵略である元寇への報復の意味及び防衛のためであり、日本・朝鮮の中央政府が弱体化したり、戦争や対外的な緊張により交易ができなくなると、盛んに行為を行うようになりました。
 倭寇の行為は熾烈をきわめ、それが高麗王朝の滅亡を早めたと言われています。

 倭寇に悩まされた李氏朝鮮は、倭寇の本拠地とされた対馬の武力鎮圧を試みたり(1419年応永の外寇)、食料が自給できないことが海賊行為の原因であると推察し、対馬の有力豪族や対馬島主である宗家に官位を与え、貿易を認める等の懐柔策を取ります。
 1443年(嘉吉3年)には宗家と李氏朝鮮の間で嘉吉条約(貿易協定)が結ばれ、これより宗家は朝鮮との貿易権をほぼ独占することになり、また、室町幕府と明国の間で勘合貿易が行われるようになったため、倭寇の活動は次第に下火になっていきます。
 後期倭寇は、明国の海禁政策(貿易制限)によって生活手段を奪われた中国人・ポルトガル人・イスパニア(スペイン)人・博多の商人などが中心となっており、正確には「倭=日本」寇とは呼べないものである。

 対馬市美津島町の西部にある尾崎地域は、一大勢力であった早田氏の拠点の一つでした。尾崎の北端にある水崎遺跡の発掘の結果、陶磁器の9割近くは朝鮮製で、その他に東南アジア製の陶器等も見つかっており、早田氏が朝鮮・中国・東南アジアにいたる広い交易圏を持っていたことをうかがわせます。

 

朝鮮出兵と和平交渉 〜宗義智の人生〜

 宗家宗義智(そう よしとし)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な時代に生きた島主でした。天下統一を果たした秀吉が次に目指したのが大国・明の支配であり、宗義智や小西行長の反対を押し切り、朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)が計画されます。
 先導役を命じられた義智は、義父でもある行長の密命を受け、水面下でさまざまな和平交渉を行ったと言われています。日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥れますが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされます。

 朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となります。関ヶ原の戦いにおいて、義智は義父の行長とともに西軍(三成方)に味方しますが、小西行長は敗戦後に処刑、義智の妻であった行長の娘マリアは離縁され、長崎で一生を終えたと言われています。義智は、家康によってお咎め無しとされ、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられます。
 李氏朝鮮は強硬に拒絶しますが、北方で勢力を拡大していた女真族への防備の必要もあり、家康から先に国書を通じること等を条件に通信使の派遣を承諾し、1607年に最初の通信使(回答兼刷還使)が派遣されます。

 秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、江戸幕藩体制においてその功績を認められ、初代対馬藩主として元和元年(1615年)、その波乱に満ちた生涯を終えました。

 父・義智の苦労を偲んだ宗義成によって菩提寺が建立され、義智の法号から万松院と名付けられました。義智の妻マリアはキリシタンでしたが、厳原町の八幡神社の末社である今宮若宮神社に祀られています。

 
古代〜安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治〜現代



考古学的に見ると、対馬の中心地は各時代で少しずつ移動したように見える。

・縄文時代 … 上県町〜峰町 → 越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など
・弥生時代 … 峰町〜豊玉町 → 三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など
・古墳時代 … 鶏知周辺 → 根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳
・古  代 … 国府(厳原)

動画
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略①
 
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=fvwrel



Hojo Tokimune Second Mongol Invasion
 
http://www.youtube.com/watch?v=TLJIBDHDj9M&feature=related

Hojo Tokimune Munemasa Died for Japan 北条 宗政
 
http://www.youtube.com/watch?v=UjKWvP92Ous&feature=related
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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転載元: 海洋文化交流のブログ

[転載]元寇750年イベントにご意見募集(転載歓迎)

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元寇を忘れるな!
元寇750年イベントにご意見募集
 
1274年から数えて、2024年は、750年目に当たります。
 
ご意見を募集します。
 
 
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元寇七〇〇年平和之碑
 
 
 
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元寇六五〇年 対馬 小茂田神社の鳥居
 
 
 
 
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助國忌
 
 
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
 
 
 
 
 
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元寇750周年イベントに対するご意見
※下記のことをして欲しいと思います。
<対馬>
・対馬厳原 元寇上陸地 小茂田神社における元寇750年平和記念碑建立
・       御胴塚 御首塚の整備
 
<壱岐>
・島内各所に散在する千人塚の整備
・少弐の墓の整備
 
<長門>
・元寇上陸地点標識整備
 
<鷹島>
・世界史上最大の海軍が集結した状況の再現
 
 
※ご寄付受入れ先
<対馬>
・小茂田神社、御胴塚、御首塚、対馬市
<壱岐>
・壱岐神社、少弐の墓前、各千人塚
 
 
 
 

転載元: 海洋文化交流のブログ

シニア婚活 形にとらわれず よく話し合って

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シニア婚活 形にとらわれず「事実婚」「通い婚」も

 中高年層が新たな伴侶を求める「シニア婚活」が盛んになっている。中高年を対象にした結婚情報サービスも目立つ。法律上の婚姻や同居を必ずしも相手に求めないといった、中高年ならではの特徴もあるようだ。
 埼玉県の会社員男性(61)は9月、東京都の会社員女性(63)に婚約指輪を贈った。年内に自分の子どもに結婚を知らせ、来年には婚姻届を提出したいという。

 男性は2012年に妻に先立たれた。寂しさを紛らわそうと一人旅に出るなどしたが、「心の穴が塞がらない」。妻の三回忌を機に、結婚情報サービス「オーネット」(東京)のシニア向けコース「スーペリア」に入会した。
 今年4月、会員が参加するイベントで女性と顔を合わせた。女性は20年前に離婚し、娘2人を育ててきた。「新しいパートナーを見つけたら」と娘に勧められて入会した。

 互いに好印象だったため、同社が仲介して2人で会うことに。「おしとやか」「気さくで話しやすい」と感じて、デートを重ねるようになった。今は朝晩、電話などでやりとりを欠かさない。「一緒にいると心が弾む」と口をそろえる。
 同コースは昨年、男性50歳以上、女性45歳以上を対象に首都圏で開設。入会金3万円、月会費1万円。ほかにイベントの参加費などがかかる。成婚した際の追加費用は不要だ。

 会員は男女ほぼ半々で、7割以上に結婚歴がある。年齢層では、60歳以上の男性が64%、55歳以上の女性が56%をそれぞれ占める。同社シニア専任アドバイザーの中野淳史さんは「こちらが紹介した会員同士がカップルになるのに加え、会員向けのイベントやパーティーをきっかけに交際を始めることも多い」と話す。
介護など話し合う
 結婚情報サービス「茜あかね会」(東京)は、60歳以上の会員が近年徐々に増え、現在は51%を占めるようになった。

 「形にとらわれないパートナー探しが、中高年世代の特徴です」と、同会チーフカウンセラーの立松清江さんは話す。時間をかけて家族の理解を得るため、まず婚姻届を出さない「事実婚」から始めるケースや、住環境を変えないよう、互いの家を行き来する「通い婚」を選ぶケースも珍しくないという。

 「中高年はライフスタイルが確立し、行動様式をすべて合わせるのは難しい。じっくり時間をかけ、互いの考え方や価値観を見つめ合うことが大切です」と立松さん。相続をどうするか、どの墓に入るか、要介護状態になった時は誰が世話をするのかといった点も、「家族も交え、話し合っておきましょう」。
業者選び慎重に
 結婚情報サービスを利用する際には、業者選びに気をつけたい。国民生活センターによると、「結婚相手紹介サービス」をめぐる相談で、60歳以上の割合が昨年度は17%と、4年前より3ポイント高まっている。「解約時の返金額に納得がいかない」「相手を紹介してくれなくなった」といった苦情が中心。紹介された外国人と結婚しようとしたら、何百万円もの仲介料を求められたケースもあったという。

 同センターは「サービス内容や料金、解約時の条件などを十分に確認しましょう。トラブルになったら、早く消費生活センターに相談をしてください」と呼びかけている。
 

シニア婚活を成功させる秘訣

いい歳をして恥ずかしい!

自分がいるから寂しくない!

長生きを楽しめる環境を認める

 
 

お互いの年金はどうなる?

 
 「婚活」にチャレンジするシニアが急増しているそうです。ある番組で、「婚活の相手に望むことは」と聞かれた女性が、「経済的な安定」と答えていました。婚活といえばどんな世代でも経済的な問題は付いてくるものですが、シニア世代では特にお互いの年金が気になるのではないでしょうか。
 では、60歳以降のカップルが再婚することで、受け取る年金にはどんな影響が出るのでしょう。配偶者加給年金と遺族年金に注目してみましょう。
 配偶者加給年金とは、年金版の扶養家族手当です。厚生年金に20年以上加入していた人で、65歳未満の配偶者がいれば年額39.3万円程度が老齢厚生年金に加算されます。
 配偶者加給年金の対象者となる配偶者かどうかは、特別支給の老齢厚生年金の定額部分または原則65歳から支給される老齢厚生年金の受給権が発生したときの状況で判断されます。
 受給権を取得したときに、対象となる配偶者がいれば加算されます。
 それでは、再婚した相手も加給年金の対象者となるのでしょうか。
 すでに老齢厚生年金を受給している人が再婚した場合、再婚相手が加給年金の支給要件を満たしていたとしても新たに加給年金が加算されることはありません。これに対して、受給権取得前に再婚した場合は、再婚した配偶者も加給年金の対象者になります。
 また、配偶者加給年金は、対象の配偶者が65歳になると終了し、その後は振替加算として配偶者の年金に加算されます(昭和41年4月1日以前生まれまで。金額は生年月日により変わります)。
 このように60歳以降の再婚は、加給年金や振替加算の受給に少なからず影響を与えます。
 
 次に遺族厚生年金を受給している方が再婚した場合はどうでしょうか。婚姻は、遺族厚生年金の失権理由に該当するため、年金の受給権は消滅します。遺族厚生年金は再婚した日を含む月まで支給され、その後は支給されません。
 再婚相手と離婚しても元の遺族年金が再び支給されることはありません。注意する点は、この場合の婚姻には内縁関係(事実婚)が含まれるということです。
 すてきなパートナーとともに残りの人生を楽しむためにも、それぞれの年金についてよく話し合っておかれるといいですね。
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キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。亀虎古墳とも書く。墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。

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キトラ古墳(キトラこふん)は、奈良県高市郡明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳亀虎古墳とも書く。墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められている。
 
 

キトラ古墳位置所在地形状規模築造年代埋葬施設被葬者出土品史跡指定特記事項
Kitora tomb.jpg
阿部山麓から撮影(2009年5月23日
北緯34度27分05秒東経135度48分19秒 / 北緯34.45125度 東経135.805278度 / 34.45125; 135.805278座標: 北緯34度27分05秒東経135度48分19秒 / 北緯34.45125度 東経135.805278度 / 34.45125; 135.805278
奈良県高市郡明日香村
円墳
上段
直径9.4m
高さ2.4m
下段
直径13.8m
高さ90cm
7世紀から8世紀
石棺
不明
壁画
特別史跡
壁画の保存事業が進んでいる
 

概要

 二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
 1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める[1]
 
 1998年の探査で青龍白虎、天文図が確認され[1]、2001年には朱雀と十二支像が確認された[1]。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されている[1]
 2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
 2013年に石室の考古学的調査は終了したため石室は埋め戻されて墳丘の復元整備が行われている[1]
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。

年代

 壁画などにみられるの文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。

被葬者

 誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
 
 白石太一郎は、被葬者は右大臣阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。岸俊男などもその蓋然性が極めて高いと考え支持している。直木孝次郎も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとした[2]。阿倍御主人は大宝3年(703年)4月右大臣従二位、69歳で没した(『続日本紀』『公卿補任』)。
 
 また猪熊兼勝は、天武天皇の皇子の高市皇子という説を主張。
 
 千田稔は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げる。

構造

 二段築成の円墳である。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。
内部構造は横口式石槨で天井は家形になっている。石槨は凝灰岩の切石を組み合わせて作られており、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。 奥壁・側壁・天井の全面には漆喰が塗られ、壁画がほどこされている。

壁画

 東西南北の四壁の中央に四神青龍白虎朱雀玄武が描かれている。
 東壁の青龍と西壁の白虎は右向きであり、すなわち青龍は南壁の朱雀のほうを向いており、白虎は北壁の玄武のほうを向いている。しかし中国においては、これとはことなり青龍も白虎もいずれも南壁の朱雀のほうを向いている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など6体の発見に留まっている。
 同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。
 しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。
 
 天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図がある。この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる。 描かれている星の総数は、277個である。
 
 
特別史跡キトラ古墳 墓道部の調査 現地見学会資料(2002年6月8日)


調査主体文化庁文化財記念物課
調査機関独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所
調査協力奈良県教育委員会(奈良県立橿原考古学研究所)
明日香村教育委員会
所在地奈良県高市郡明日香村大字阿部山字ウエヤマ136番地の1
規模と構造円墳(二段、直径13.8m)
内部主体は横口式石槨(よこぐちしきせっかく:壁と天井に壁画)
調査面積15㎡
調査期間2002年5月7日~もうすぐ終わります


はじめに
 キトラ古墳は、1978年墳にその存在が知られるようになった、7世紀後半から8世紀初め頃のいわゆる終末期の古墳です。1983年に横口式石榔内甑をファイバースコーブによって調査したところ(飛鳥保存顕彰会とNHK)、玄武の壁画が発見され、高松塚古墳(明日香村平田、1972年に壁画発見、特別史跡)に次ぐ、飛鳥の壁画古墳として一躍有名となりました。
 その後は、明日香村が中心となって遺跡の調査と保存が進められました。1997年には範囲確認のための発掘調査が行われ、墳形と規模(上記)が判明しました。1998年3月、小型カメラによって石槨内部を再調査したところ、青龍・白虎と天文図が新たに発見されました。これを受けて、キトラ古墳は2000年11月に国特別史跡(国宝に値する遺跡)に指定されたのです。2001年3月には、3度目の石槨内部調査では、壁画としてはわが国初の朱雀が南壁で発見され、四神が揃ったのでした。
 こうした一連の調査によって壁画と古墳の重要性が広く知られましたが、また、壁画自体が極めて危険な保存状態にあることもわかってきました。昨年度(2001年度)からは、文化庁がキトラ古墳の調査に直接関わることになり、壁画と古墳そのものを保存するための委員会を設置して検討を始めました。この委員会での意見をふまえ、2001年12月には壁画が描かれている石槨内部の保存状態を記録するために高解像度のデジタルカメラを石槨のなかに入れて撮影しました。この調査により、それまでわからなかった石槨の盗掘坑の状況がわかり、どのような保存処置ができるのかも検討できるようになりました。
 今年、文化庁、そして委託を受けた奈良文化財研究所は、古墳と壁画の保存に万全を期すために、まず石槨内部と同じ環境を保てる仮覆屋を設置して壁画を保全する計画をたてました。キトラ古墳の今回の調査は、この仮覆屋を建設するために必要な基礎的資料の収集、なかでも石槨の南にある墓道に関して、その規模と構造を解明することを主な目的として調査に入りました。

調査位置図
調査の成果
 調査では、まず、2001年3月と12月の内部調査前に発掘した探査坑を再発掘し、これを手がかりに東西4m×東側南北5m・西側南北3mの調査区を設定しました。横口式石槨南壁までは約1.3~1.5mを隔てています。発掘調査の結果、盗掘坑と墓道を確認しました。
盗掘坑  すでに、2001年3月の明日香村教育委員会の発掘調査でも確認されていたものです。今回の調査区北壁の断面で、東西幅約3m、深さ1.5mの規模です。盗掘坑の底近くには、盗掘時に破壊した、凝灰岩製石槨石材の砕片が散在し、盗掘の様子を生々しく物語っています。1点だけですが、やや大型の石材破片(長さ25cm)も出土しました。埋土から瓦器(表面に炭素を吸着させた黒っぽいお椀)の破片が出土したので、盗掘の時期は平安時代末から鎌倉時代と推定できます。
墓道  墓道とは、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)へ棺を搬入し、さらに南の閉塞石(石槨南壁)を設置するためにもうけられた通路状の施設のことです。
 墓道は古墳の墳丘盛土から掘り込まれ、幅2.35~2.65m(底面で2.3~2.45m)、調査区北辺での深さは1.5mです。この墓道は、東側で3.5m、西側で1.8mの長さ残っていました。西側で短いのは、古墳西南部が後世に削られてしまったためです。今回の調査区は石槨南壁と1.3mを隔てるので、墓道の残存長は、東側で約5mと推算できます。西壁は真北より北で西に5度、東壁は北で西に11度振れているので、ごくわずかですが南で広くなっています。
 墓道の床面は、最も高い北側(石槨側)0.3mだけがほぼ水平で、それから南側は緩く南に傾斜します。水平な北側床面の高さは推定される横口式石槨床面の高さとほぼ等しいので、このままの高さで石槨まで延びていると推測してよいでしょう。
 墓道は、下のほうが堅い版築土で埋められ、その上には多少突き固めてはありますがやや軟質の土を重ねています。埋土は墳丘の基盤層(版築土層)や積み土(墳丘土)とは土質に違いがあるので、後から埋めたことがわかります。埋土からは、土師器と須恵器の小さな破片が出土しましたが、時期を特定できるものではありませんでした。

墓道

コロのレール痕跡  墓道の床面には、南北方向に3条(あるいは4条か)のコロのレール痕跡がみつかりました。コロのレールとは、閉塞石(南側側壁)を運び上げたときのコロ(転)の下にそれと直交して置いた木材を指し、それを抜き取った痕跡が残っていました。床面に張られた茶褐色の粘質土とよく似た土で埋められ、東西の2条は幅約15cm、心々距離(溝の中心同士を測った距離)は1.35m(内法の距離1.2m)です。中央の1条は、土層堆積観察用の畦に大半が隠れていますが、幅約60cmあります。レール痕跡の方位は、真北から西に8度振れています。これは墓道の東西両壁の振れを平均した値に一致し、横口式石槨の方位を反映している可能性があります。

調査区平面図

墓道と石槨との関係  横口式石槨の南西隅を開口している盗掘坑の位置とこれに沿って挿入されたガイドパイプ(内径15cm)の位置から判断して、墓道は横口式石槨の南側正面に正しく位置すると判断できます。それ以外の詳細は、残された石槨との取り付き部の調査に期待したいと思います。

墓道と石槨の断面図

http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/kitora1.html
 
 

[転載]【動画】ドキュメンタリー『カザフスタンのウイグル人』

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ドキュメンタリー『カザフスタンのウイグル人』





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転載元: 東トルキスタン備忘録

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