石川県の歴史
原始
縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがある。能登町の真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期まで約4,000年続く長期定住遺跡である[42]。縄文時代後期から晩期の遺跡としては金沢市のチカモリ遺跡[42][43]、野々市市の御経塚遺跡[42][44]がある。1980年(昭和55年)チカモリ遺跡からクリの巨木を縦に半分に割り円形に並べた環状木柱列が見つかった。環状木柱列はその後真脇遺跡でも発見されている。環状木柱列の用途・機能は「儀礼の場」や「特殊な建物」など様々な考えがあり不明である[42]。羽咋市の吉崎・次場遺跡は北陸地方でも規模が大きい弥生時代の遺跡で近畿、東北、山陰などとの交流が認められる[42]。
能美市には60数基の古墳が点在する能美古墳群がある。その中心に位置する和田山・末寺山古墳群からは武器・武具など大量の副葬品が出土している。また、同じ能美古墳群の一角にある秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳である。中能登町の雨の宮古墳群には北陸最大級の前方後方墳である雨の宮1号墳がある。また、七尾市の能登島にある須曽蝦夷穴古墳はドーム型の墓室を持ち朝鮮半島の古墳にも通じるものとされる[42]。
古代
県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていた。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国の国司として赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。平安時代初期の823年になって越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立てられた。これは令制上最後の立国である。
七尾市にある能登国分寺跡は、能登地方を支配した能登臣(のとのおみ)一族が白鳳時代に建てた寺院を843年に国分寺としたものである。法起寺式伽藍配置を持ち[46]、約400年にわたり能登の仏教の場として栄えたとされる[42]。奈良時代から平安時代には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し交易が行われていた。志賀町の福浦港では渤海使が船の修理や宿泊をしたと伝えられており、平安時代初めに渤海使接待のため能登国に建てられた能登客院はこの地にあったと考えられている[47]。
野々市市の末松廃寺跡は加賀地方北部に本拠を置く有力氏族道君(みちのきみ)が7世紀後半に創ったとされる寺院である。法起寺式伽藍配置をしており、屋根瓦の一部は能美市辰口地区(旧・辰口町)で焼かれたものであることが分かっている[42]。奈良・平安時代、北陸地方には東大寺、西大寺などの荘園が多くあった。白山市から金沢市に跨る東大寺領横江荘もそうした荘園の一つである[42]。平安時代に修験道が活発になると白山を山岳信仰の対象とする白山信仰が広まり、山頂への登山道(禅定道)の起点の一つとなった白山比神社は信仰の拠点となった[48]。
平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、源義仲(木曾義仲)が倶利伽羅峠の戦い(津幡町)で数で圧倒する平家の義仲追討軍を破り[49]、さらに篠原の戦い(加賀市)で逃げる平家を追撃し、京都に進んだとされる。
中世
加賀国では、応仁の乱のころ浄土真宗が広まり、やがて農民らによる加賀一向一揆が守護の富樫政親を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた[50]所以である。本願寺は金沢の台地上に尾山御坊(金沢御坊)を作り、ここを拠点にして支配した[51]。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登国を前田利家に、加賀国を佐久間盛政に与えた。織田信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀国も領して、尾山御坊跡の尾山城(金沢城)に入り城下町の建設を始めた[13]。
能登国では、正長年間(1428 - 1429年)頃に初代当主畠山満慶が七尾城を築城し、畠山氏の領国支配の拠点となる。7代目当主畠山義総の時代に最盛期を迎えるが、義総の死後は畠山七人衆が実権を握り、大名権力を傀儡化する。1560年(永禄3年)、9代当主畠山義綱が実権を取り戻すが、1566年(永禄9年)に永禄九年の政変で能登国から追放される。1577年(天正5年)、上杉謙信が能登国へ侵攻し七尾城の戦いが起こり、畠山氏は滅亡する。
近世
前田利家の長男前田利長は関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍につき、戦後越中国を与えられた。利長は江戸幕府の幕藩体制のもと加賀国、能登国、越中国の3国を治める加賀藩の藩主となった。加賀藩前田家は外様大名でありながら大名の中で最大石高である約120万石を領した。
第三代藩主前田利常は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の娘・珠姫を娶った徳川の大名として大坂の陣を戦い、戦後の大坂城改修の普請では通常の大名の負担分より多い負担を敢えてするなど、外様大名として取り潰しを避けることに意を用いたとされる[52]。利常は1639年に家督を長男前田光高に譲り、次男の前田利次に富山藩を、三男の前田利治に大聖寺藩を分封した。しかし、1645年に光高が急死し、第五代代藩主となった光高の長男前田綱紀がまだ幼かったため、利常が後見人として藩政を補佐した。
利常が綱紀を後見した時代には、貧農の救済、年貢納入の徹底などを目的とした改作法と呼ばれる農政改革が実施された。これは、農民の借金を帳消しにした上で、農具、種籾の購入資金や当座の食料を貸し付けて農業生産性を高めるとともに、各地の有力豪農などから選任した十村(とむら)に農民の監督や徴税を委ねるものである。改作法は所期した成果を挙げ、藩政の安定に寄与した[52]。この頃から加賀藩は蔵米を日本海から関門海峡、瀬戸内海を通り大坂まで運ぶ船輸送を始め、後の西廻海運の基となった[53]。なお、1659年に白山が噴火(最も新しい噴火)。1668年と1671年には手取川の洪水で多数の死者が出ている[54]。
加賀藩は、産業の振興に力を入れ、学問や文芸を奨励したことから、城下町の金沢を中心として今に続く伝統文化が興隆した。金沢城内に設けた御細工所は初め武器・武具の修理等を行う組織であったが、利常は茶の湯道具や掛幅など美術工芸品の製作・修理をさせ、綱紀は塗物・蒔絵細工、象嵌細工など20を越える職種を扱わせた。綱紀は学問の奨励のため木下順庵、室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめた。綱紀が収集した古今東西の図書は尊経閣文庫として受け継がれている。綱紀は能楽の宝生流を取り入れ加賀宝生と呼ばれ栄えた。兼六園は綱紀による蓮池庭と御殿の建設が始まりとされ、現在の姿が完成するのは江戸時代後期である[13][55]。
輪島塗は江戸時代に輪島で下地塗りの漆に混ぜる珪藻土が見つかったことで堅牢な漆器となり、日用食器として盛んに生産されるようになった。北前船が寄港する輪島港の海運の利を活かして全国に販路を広げた。また江戸時代後期には沈金や蒔絵の技法が加わり美術工芸品としても発展した[56][57]。大聖寺藩では江戸時代初めに殖産興業の一環として鉱山開発に取り組み九谷村(現・加賀市)で磁鉱が発見されたことから窯を築き色絵磁器(九谷焼)の製造が始まった。一旦廃窯されるが九谷焼は加賀藩により再興され、明治期には海外への輸出品となった[58]。
江戸時代後期、加賀藩は1792年に藩校の文学校明倫堂と武学校経武館を文武ごとに別けて設立した[55]。明倫堂では儒学のほか易学、医学、本草学、暦学、算学などを、経武館では馬術、剣術などを教えた。また幕末には洋式兵学校の壮猶館や航海、測量の実習のための軍艦所を作り、ヨーロッパから洋式艦船を購入するなど海防に力を注いだ[55][59]。
近代
1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された[55]。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国新川郡、婦負郡、礪波郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。
なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。
1874年(明治7年)、旧金沢藩士長谷川準也(後の金沢市長)らにより金沢製糸場が創設された。官営模範工場の富岡製糸場に倣ったもので、県下の殖産興業の先駆けとなった[60]。1887年(明治20年)4月、金沢に旧制第四高等中学校(現・金沢大学の前身)が設置された[61][62]。また1898年(明治31年)10月、金沢城内に旧陸軍第九師団司令部が設けられた[13]。これにより金沢は北陸地域での学問的、軍事的な拠点として発展していく。
鉄道は、1897年(明治30年)9月、北陸線が福井駅から小松駅まで延伸。翌1898年(明治31年)4月に金沢駅まで、同年11月に高岡駅まで延伸された。また同年4月には七尾鉄道が津幡仮停車場(現・本津幡駅付近)から矢田新駅(後の七尾港駅)まで開通し、1907年(明治40年)国有化された。1925年(大正14年)和倉駅まで延伸し、1935年(昭和10年)までに輪島駅まで開業した。
金沢製糸場の施工にあたった津田吉之助の子津田米次郎は織機の機械化に取り組み、1900年(明治33年)日本初の力織機を発明した。当時、羽二重生産で出遅れていた金沢はこの力織機による工場制大量生産で大正期にかけて生産量を伸ばした[63]。同年、金沢では電気の送電が開始され、翌1901年(明治34年)に市内電話が開通。1908年(明治41年)にはガスの供給が始まっている[64]。