Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

[転載]能登半島の外浦は、その位置と対馬海流の為に山陰地方や朝鮮半島からの漂着物が多く、8世紀から9世紀には志賀町の福浦港が渤海使の玄関口となった。



能登半島


   
能登半島座標最高標高 最高峰 最大都市 所在海域 所属大陸・島 所属国・地域
Image may be NSFW.
Clik here to view.
能登半島のランドサット衛星写真。スペースシャトル標高データ使用。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
北緯37度15分23.6秒
東経136度52分43.1秒
座標: Image may be NSFW.
Clik here to view.
北緯37度15分23.6秒 東経136度52分43.1秒
544m
鉢伏山
石川県七尾市
日本海
本州
Image may be NSFW.
Clik here to view.
日本の旗
日本
テンプレートを表示
Image may be NSFW.
Clik here to view.
能登半島の位置
Image may be NSFW.
Clik here to view.
能登半島の位置
能登半島
能登半島の位置

能登半島(のとはんとう)とは、北陸地方の中央付近から日本海へ北に向けて突き出した半島である。日本における日本海側海岸線で最も突出面積が大きい半島である。

概要

ほぼ全域が石川県に属するが、南東の一部は富山県に属する。側の海岸線は途中から東に折れて、富山湾を形成する。
半島内部は、標高 200 mから 500 m 程の丘陵地帯が続く為に平地は少なく、輪島市などでは、千枚田が見られ、中でも白米千枚田は有名。海岸線を主体に広い範囲が能登半島国定公園に指定されている。古代からナマコの特産地である。
「能登はやさしや土までも」との言葉もあるように、人はもとより土までも優しい(柔らかい意)と言われている。

半島内の地域

富山湾に面した海岸を内浦(うちうら)、日本海に面した海岸を外浦(そとうら)と呼ぶ。また、半島の先端から根元に向け、順に奥能登(おくのと)、中能登(なかのと)、口能登(くちのと)と呼ぶ。行政区域で分類すると、下記のようになる。
口能登
羽咋市羽咋郡宝達志水町志賀町
中能登
七尾市鹿島郡中能登町
奥能登
輪島市珠洲市鳳珠郡穴水町能登町
  • 口能登と中能登を分類せずに「中能登」という場合、輪島市を中能登に入れる場合、河北郡以北を能登地区という場合もある。江戸時代には羽咋郡、鹿島(能登)郡を口二郡(或いは口郡)、鳳至郡珠洲郡を奥二郡(或いは奥郡)と呼び区別した。
外浦は、その位置と対馬海流の為に山陰地方朝鮮半島からの漂着物が多く、8世紀から9世紀には志賀町福浦港渤海使の玄関口となった。また、勇壮な景観で知られる能登金剛曽々木海岸などの景勝地があり、男性的な景観を見せる。一方で、内浦は穏やかな湾入地形の為に波が比較的穏やかで、また、九十九島など繊細な自然美を誇る景勝地を持つことから女性的とも言われ、対比関係にある。

口能登では気多大社のある羽咋市が、中能登では和倉温泉がある七尾市が中心地であり、奥能登には外浦側に曹洞宗大本山總持寺祖院がある輪島市、中央付近に2003年に開港した能登空港、半島先端に禄剛崎がある珠洲市などがある。一帯は水産資源が豊富で、タラ・ブリ(特に寒ブリ)・イカなどが有名。輪島の朝市輪島塗、禄剛崎や外浦・内浦の海岸景勝地、和倉温泉など、観光資源が豊富。

このように観光地としても有名だが、反面リアス式海岸とまではいかなくても海岸線が複雑で、海沿いでも道を外れれば人気のない場所が多くある。そのため1950年代から度々北朝鮮の工作員が出入りする格好の場所(同様の地点として男鹿半島も挙げられることがある)とされ、1977年には日本人拉致事件の被害者が出ている。また、1978年にも半島の付け根にあたる氷見市で北朝鮮工作員による拉致未遂事件が起きている(これを1980年1月にアベック失踪事件と絡めて産経新聞が初めて報道した)。

能登国   

能登国 別称所属相当領域 諸元国力距離数 国内主要施設能登国府能登国分寺能登国分尼寺一宮
Image may be NSFW.
Clik here to view.
地図 令制国 能登国.svg

-能登国
-北陸道
能州(のうしゅう)
北陸道
石川県北部(能登半島
中国
中国
4郡26郷
石川県七尾市
石川県七尾市(能登国分寺跡
(未詳)
気多大社(石川県羽咋市
テンプレートを表示
能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。


沿革

養老2年(718年5月2日越前国から羽咋郡能登郡鳳至郡珠洲郡の四郡を分立して成立した。天平13年(741年12月10日越中国に併合された[1]が、天平宝字元年(757年)に再び分立した。
また、天元3年(980年)、『和名抄』の編纂で有名な源順が能登国守として赴任している。
能登郡の名称は後に鹿島郡へと改められた。

近代以降の沿革

領域

明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。

国内の施設

国府

源順の『和名抄』には「能登国国府在能登郡」とあり、現在の七尾市古府の総社の付近か府中町にあったと推定されている。発掘調査はまだなされていない。

国分寺・国分尼寺

国分僧寺は、新たに創建されたものではなく、飛鳥時代後期(700年頃)に創建された大興寺を承和10年(843年)に国分寺としたものである。国分寺跡には建物の基壇や柱跡が表示され、南門と塀が復元されている。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1社1座・小社42社42座の計43社43座が記載されている。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下
  • 総社 能登国総社 (能登国魂神社とも、七尾市古府) - 源順が能登守の時代、大穴持命を祀っていた神社に国内の有力神社43社の神を勧請・合祀し、現存する。
  • 一宮 気多大社
  • 二宮 伊須流岐比古神社または天日陰比神社

地域

国司

能登守

守護

鎌倉幕府

室町幕府


転載元: 環境・正義・歴史の友達のブログ


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles