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日本周遊紀行(221)七尾 「和倉温泉」 .
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写真:最後の宿「フローイント和倉」
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部屋にて・・、(小生の素顔です)
能登島大橋を渡った先の、和倉温泉東の交差点を右に行った先に、地方公務員の保養所になっている「フローイント和倉」があった。
一見、五階建ての地味な建物であるが、玄関を入ると真赤な絨毯が敷かれた広ーい豪華なロビーは一流ホテルを思わせる。
案内された最上階の和室はゆったりとした新装の施しがしてあり、窓の向こうには能登南湾から能登島が一望できる展望絶佳な部屋だった。
早速、湯に浸かる・・、
温泉浴場は一階に設置してあり、大窓で風流な中庭の和庭を見ながらの大浴場は満足である。
露天風呂がないのが残念であるが、折角だから、中庭の一角にでも掘っておけば、一段と風流さを味わえるのにと思ったが・・?。
湯質は海辺の温泉のせいか塩分が多く含まれて、やや塩味がするが、効能豊かそうなサッパリした湯である。
風呂上りで寛いでいるとやがて食事の時間になり、部屋に御膳が運ばれてきた。
ビールは部屋の冷蔵庫から取り出し、精魂の入った地元の食材、海の幸とともに戴き、更に地の酒を流し込む。
至福の時である。
それにしても、こちらの会席風の料理は超一級品であり、実感を込めて礼を言っておいた。 旨い酒に、美味い肴で今夜も気持ちよく酔えた。
思えば、長道中の内の今日は最後の夜になるだろう。
公営の宿舎とはいいながら、一流ホテル以上の隅々までの気使いを実感して大満足である。
今日の旅路の纏めも、そこそこに、もう一ッ風呂浴びて心地よい夢路を辿った。
目覚めて、更に、朝湯に浸かる。
部分覚醒が朝の湯浴みによって全身覚醒に至るのである。
あらためて屋上ラウンジより外を眺めると、海辺に沿って高層のホテル群が林立していて、その奥のほうに一段と巨大なのが、和倉温泉でも特に有名な「加賀屋」だという。
加賀屋は、旅行雑誌、その他に取り上げられる名旅館であり、全国的にも評判の旅館で、その豪華さ、満足度の点で日本を代表できる旅館だという。
「プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、26年連続で加賀屋が一位となっているという。 日本一の「加賀屋」の施設、建物は七尾湾に突き出るようにして建っている。
温泉が海から湧き出るように。
実は和倉の温泉は、時代を遡ること凡そ1200年も前に、沖合60メートルの海中から湧き出したという・・!。
「湯の湧き出づる浦」、湯涌浦(ゆわくうら)が発見されたが、実際に大衆、民衆が温泉として利用したのは江戸期に近い後の世のことであった。
江戸期には加賀藩の統制を受けつつ、湯が涌く「涌浦村」は加賀前田家の命により今日の「和倉村」と名を改めたとされる。
明治初期の廃藩置県の際、村人により和倉村の“湯権”は官地ではなく村の共有地として認められ、ともなって「湯の島」であったのが埋め立てられて陸続きとなった。
湯が発見され、湯島ができ、船着場や橋ができ、そして埋め立てて陸続きになったのは、或いは、今の「加賀屋」辺りではないだろうか・・?。
加賀屋は今の和倉温泉の草分けといわれ、創業は明治中期の頃という。
和倉温泉は明治初期、ドイツで開催された万国鉱泉博覧会で三等賞を受賞したと記録にあるという。戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化し、高度経済成長期になって能登方面にも観光ブームが沸き起こり、その後北陸本線の特急が直行運転され、急速に宿泊客が増加した。
一時は同じ石川県内の加賀温泉郷や福井の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが、今日その傾向は薄く、加賀屋旅館の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出し、今では山代温泉を抜いて、県内温泉地では宿泊客トップを誇るという。
大きな旅館が林立する和倉温泉の街中に、唯一の共同浴場「総湯」がある。
「竜宮城」という豪華な浴場もあり、その他、お楽しみのセンター形式の浴槽もある。
温泉はナトリウム・カルシウム塩化物泉(高張性中性高温泉)で神経痛、筋肉痛、関節痛、特に慢性皮膚病、虚弱体質、慢性婦人病等々に効くという。
飲用も可能だというがチョッとしょっぱいのがのが難・・。
江戸期、大阪に居ながら和倉温泉の湯に入ることが出来た・・?
この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒す所謂湯治が主流であり、多くの病に効くことが自慢となっていた。
涌浦(和倉)の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可であり、そこで、七尾の商人やお偉いさんは和倉の湯を船で運び、七尾の旅館の風呂に入れて湯治がわりにしたという。
この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも、湯が樽に詰められて船で運ばれるようになったとされる。
商人(あきんど)の町、大坂の「和倉の湯」は大変人気があり、温泉好きな人々を居ながらにして楽しませたといわれる。
現在、関西方面の利用客が多いのは、この「樽湯」の伝承が大阪地域には行き渡っているからだろうとも云われる。
和倉温泉駅まで電化されていることもあって、関西の大阪・京都方面、名古屋、新潟(越後湯沢)方面からの直通特急が其々和倉温泉まで運転されている。
能登の観光と併せて、半島唯一の名温泉・和倉温泉は今でも幅広く利用され、人気がある。
次回、再び「七尾」
日本周遊紀行(221)七尾 「和倉温泉」 .
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写真:最後の宿「フローイント和倉」
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部屋にて・・、(小生の素顔です)
能登島大橋を渡った先の、和倉温泉東の交差点を右に行った先に、地方公務員の保養所になっている「フローイント和倉」があった。
一見、五階建ての地味な建物であるが、玄関を入ると真赤な絨毯が敷かれた広ーい豪華なロビーは一流ホテルを思わせる。
案内された最上階の和室はゆったりとした新装の施しがしてあり、窓の向こうには能登南湾から能登島が一望できる展望絶佳な部屋だった。
早速、湯に浸かる・・、
温泉浴場は一階に設置してあり、大窓で風流な中庭の和庭を見ながらの大浴場は満足である。
露天風呂がないのが残念であるが、折角だから、中庭の一角にでも掘っておけば、一段と風流さを味わえるのにと思ったが・・?。
湯質は海辺の温泉のせいか塩分が多く含まれて、やや塩味がするが、効能豊かそうなサッパリした湯である。
風呂上りで寛いでいるとやがて食事の時間になり、部屋に御膳が運ばれてきた。
ビールは部屋の冷蔵庫から取り出し、精魂の入った地元の食材、海の幸とともに戴き、更に地の酒を流し込む。
至福の時である。
それにしても、こちらの会席風の料理は超一級品であり、実感を込めて礼を言っておいた。 旨い酒に、美味い肴で今夜も気持ちよく酔えた。
思えば、長道中の内の今日は最後の夜になるだろう。
公営の宿舎とはいいながら、一流ホテル以上の隅々までの気使いを実感して大満足である。
今日の旅路の纏めも、そこそこに、もう一ッ風呂浴びて心地よい夢路を辿った。
目覚めて、更に、朝湯に浸かる。
部分覚醒が朝の湯浴みによって全身覚醒に至るのである。
あらためて屋上ラウンジより外を眺めると、海辺に沿って高層のホテル群が林立していて、その奥のほうに一段と巨大なのが、和倉温泉でも特に有名な「加賀屋」だという。
加賀屋は、旅行雑誌、その他に取り上げられる名旅館であり、全国的にも評判の旅館で、その豪華さ、満足度の点で日本を代表できる旅館だという。
「プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、26年連続で加賀屋が一位となっているという。 日本一の「加賀屋」の施設、建物は七尾湾に突き出るようにして建っている。
温泉が海から湧き出るように。
実は和倉の温泉は、時代を遡ること凡そ1200年も前に、沖合60メートルの海中から湧き出したという・・!。
「湯の湧き出づる浦」、湯涌浦(ゆわくうら)が発見されたが、実際に大衆、民衆が温泉として利用したのは江戸期に近い後の世のことであった。
江戸期には加賀藩の統制を受けつつ、湯が涌く「涌浦村」は加賀前田家の命により今日の「和倉村」と名を改めたとされる。
明治初期の廃藩置県の際、村人により和倉村の“湯権”は官地ではなく村の共有地として認められ、ともなって「湯の島」であったのが埋め立てられて陸続きとなった。
湯が発見され、湯島ができ、船着場や橋ができ、そして埋め立てて陸続きになったのは、或いは、今の「加賀屋」辺りではないだろうか・・?。
加賀屋は今の和倉温泉の草分けといわれ、創業は明治中期の頃という。
和倉温泉は明治初期、ドイツで開催された万国鉱泉博覧会で三等賞を受賞したと記録にあるという。戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化し、高度経済成長期になって能登方面にも観光ブームが沸き起こり、その後北陸本線の特急が直行運転され、急速に宿泊客が増加した。
一時は同じ石川県内の加賀温泉郷や福井の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが、今日その傾向は薄く、加賀屋旅館の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出し、今では山代温泉を抜いて、県内温泉地では宿泊客トップを誇るという。
大きな旅館が林立する和倉温泉の街中に、唯一の共同浴場「総湯」がある。
「竜宮城」という豪華な浴場もあり、その他、お楽しみのセンター形式の浴槽もある。
温泉はナトリウム・カルシウム塩化物泉(高張性中性高温泉)で神経痛、筋肉痛、関節痛、特に慢性皮膚病、虚弱体質、慢性婦人病等々に効くという。
飲用も可能だというがチョッとしょっぱいのがのが難・・。
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この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒す所謂湯治が主流であり、多くの病に効くことが自慢となっていた。
涌浦(和倉)の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可であり、そこで、七尾の商人やお偉いさんは和倉の湯を船で運び、七尾の旅館の風呂に入れて湯治がわりにしたという。
この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも、湯が樽に詰められて船で運ばれるようになったとされる。
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次回、再び「七尾」
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