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[転載]さもしいシナ人が散った元寇史料館にアジア人は行くべきです。対馬の小茂田浜にも

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元寇史料館
 
 
外観
 
 福岡県庁のある東公園の一画にある史料館。ここでは約800年前、北部九州を元軍が襲った「文永の役・弘安の役」の史料を展示している。当時の両国の武具があり、動物の硬い皮で作ったモンゴル型の鎧など、日本の鎧とは違う点で文化の勉強にもなりそう。明治の洋画家・矢田一嘯作が描いた元冦絵や江戸期の刀剣、火縄銃なども展示している。
所在地福岡市博多区東公園
アクセスJR「吉塚駅」下車・徒歩5分
市営地下鉄「馬出九大病院前」下車、徒歩2分
 
 
 元寇史料館(げんこうしりょうかん)は福岡市博多区東公園内に存在する博物館である。
日蓮上人銅像護持教会が維持管理している。
 
 明治37年、「元寇記念館」として設立されたが、昭和61年「元寇資料館」として開設された。 展示室は元寇記念室と日蓮宗史、銅像史、武具の歴史、企画展示の二室からなる。 元寇の際、鹵獲したモンゴル帝国軍の武器など貴重な資料が陳列されている。また元寇に関する矢田一嘯画伯の連作の展示もある。

主な展示物

  • モンゴル型鎧
  • モンゴル型兜・短弓
  • 日清戦争における清国軍艦の神符
  • 日蓮上人佐渡流刑の景(小島与一作)
 
 
 『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の趙彜(官僚)や王世子(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された。
 
日本の被害
 現在伝世している日蓮の書簡のうち、建治元年5月8日に佐渡の一谷入道日学の女房に宛てた、いわゆる「一谷入道御書」によると、
《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫に寄セテ有シニ、対馬の者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人も助かる者なし、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
 「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。
 そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれており、壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた、とある。
 
 明治中頃に日本内外の蒙古襲来関係の史料を収集した山田安栄 編の『伏敵編』(1891年)には、「按(あんずるに)」として、『高祖遺言録』載録の上記の「一谷入道御書」と室町時代後期に描かれた円明院日澄『日蓮註画讃』(後述)に記述されているこれらの事柄について、編者山田安栄のコメントがある。
 
 山田安栄はまず、『太平記』に「掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ」との記述と比較しつつ、「索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。」と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と書かれているものであると文中の意味内容を明確にして説明している。
 
 さらにここでは、『日本書紀』の天智天皇の時代(662年)について書かれた高麗の前身の国家である「百済」での事例を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。
 
 まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している(しかしながら、近年の研究によると、
「捕虜の手に穴を開けて連行する」
というショッキングな内容にもかかわらず、「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡には対馬や壱岐などでの住民の連行などに対する蒙古への非難はある。
 
 室町時代の円明院日澄(1441年 - 1510年)の撰になる『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』には、文永・弘安の役について「一谷入道御書」その他一連の日蓮の書簡類や『八幡愚童訓』の記事に多くを依拠しつつ、
「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付け。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し、」
「皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。」
とも書かれている。
 
 また同じく建治元年8月に出された「乙御前御消息」では、
《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》
(同右書)とある。なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。そして、上陸軍を揚げている。
 
 『八幡愚童訓』の文永の役の件においても「(文永十一年十月)同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。」とある。
 
 『高麗史』や『高麗史節要』などの文永の役後の記事に童男女が俘虜として高麗国王等へ献じられたという記述が見られるため、「男女」が「捕らる」とあることから対馬や壱岐の住民も捕囚され連行されたものと考えられる。
 
 その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。
 
 モッコの子守唄(青森県木造町)のように
「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」
などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。
 
 また元寇への復讐や、元や高麗によって連行された日本人を取り返すために倭寇の活動がおこった。 
 
 
 
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 蒙古襲来においては高麗軍も南宋人とともに尖兵として日本へ攻め込み、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする兵と戦った。
 高麗軍は壱岐・対馬の民の男は殺し、女は手に穴を開けて船の舷に吊るし矢除けにしたと伝えられている。
 
 さらに博多に元軍は、上陸し博多に火を放ち、博多の町は灰塵となった。
 
 また、女や子供は捕虜にし、高麗軍に連れ去られ献上された。
 
 
 
 
 
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 元冠の油絵 本仏寺

更新日時:2005年3月17日

本仏寺の宝物殿には矢田一嘯画伯による油絵の元寇のパノラマ画(14枚1組)が同寺の寺宝館に納められています。
 

鎮西身延山本佛寺  所蔵元寇


パノラマ画矢田一嘯画伯文永11年10月 弘安4年5月  百号14枚
安政5年12月19日、横浜に生まれ、はじめ日本画を研究したが、進んで洋画を習得するために渡米。ロスアンゼルスでパノラマの技法を学び帰国。その後九州に至り佐野前励日管上人と出会い、元寇記念碑としての亀山上皇並びに日連聖人両銅像の建設に献身的に協力。その当時に描かれたものが西身延所蔵の歴史画14枚であって、現在文化財に指定されている。絵画史上最も貴重な資料である。他に日蓮聖人銅像台座の銅板画の下絵も画伯の手になったもの。また銅像前の広場に、大パノラマ館が日管上人の手によって建設され、それにも執筆しているが、大正中期大暴風雨にとって倒壊し、当時の絵画は、今日所在がわからなくなっている。 西身延所蔵の作品で知られるように、厳しい写実的な作風と大胆なタッチは、その偉大な天分の所有者であったことを永久に伝えるものであろう。大正2年4月22日56才で死去。墓碑は福岡市妙典寺に建てられている。

解説は作成当時のものをそのまま記載しています。
 イタリー人マルコポーロは、(元)国王忽必烈に 日本の富国なることを説き日本征服を説き進めた。
 
 また、『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の趙彜(官僚)や王世子(のちの忠烈王の)執拗な要請があったため、日本侵攻が決定された。
 敵は日本征服を実現、文永十一年十月五日先ず対馬を襲う。 守護代 宗助国 弟 馬之允、手勢八十騎、外に義勇軍と共 に敵約一千名と激戦し、玉砕した。
 
この対馬に上陸した敵兵は、男とみれば惨殺し、婦女は捕え て手に穴をあけ、これに縄を通して船舷に結びつけぶら下げる 等の残虐さをくりかえした。
 
勢いに乗じた敵兵は更に壱岐を攻め、守護代 平景隆は百余 騎と義勇軍で奮戦力及ばず、一門一党残らず自殺、宗三郎に急 を太宰府に報じるよう命じた。
 
破竹の勢いの敵は目指す博多に押し寄せ、先ず西部より室見川、 百道原麁原山に迫り、つづいて東部箱崎、博多正面に主力を注ぎ 一日中死闘が続いた。
 
その日の大将小弐景資は一日中の激戦に疲れ。
 
 
 
 
 
 
夕暮戦場のあとを彷徨い、戦没した夫を恋う妻、父を慕う子の悲惨さなど戦争のむごたらしさを物語るものがあった。この画面が全体の結論となっている。
 【蒙古襲来・英霊に感謝】_日本人再生(元寇と、韓国朝鮮の侵略)
 
JR吉塚駅前すぐ
福岡県庁東北隣り
電話して行った方が無難です 092-651-1259
 
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壱岐は1274年・1281年の二度にわたる蒙古軍の襲来によって、ほぼ全滅の状態になる。1281年の弘安の役では、大宰府の命をうけた19歳の少弐資時が、雲霞のごとき蒙古軍をここ瀬戸浦に迎え撃ち、壮烈な最期を遂げた。
 
元軍は島民にも暴虐の限りを尽くし、芦辺町には千人塚、千人供養、中島塚、八ツ塚、裏町の千人塚、千人堂などが残る。
「かくれ穴」も町内随所にあり、いかに島民が悲惨な目に遭ったかが偲ばれる。
少弐氏はもと武藤姓を名乗る武蔵国出身の武家の名門で、資時の曽祖父、武藤資頼が太宰少弐に任命されて以来、武藤氏が太宰少弐の官職を代々務めることになり、少弐姓を名乗るようになったという。資時はこの名家の三男だった。少弐資時が、何処で討ち死にしたかについては諸説あり、激戦の結果その死骸も確認されていない。元軍の殺戮がいかに激しかったかを物語っているともいえる。
人はその立場・状況に置かれたら年齢などには関係なく努めを果たす。
http://inoues.net/harunotuji/harunotuji4.html


対馬小茂田浜


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御首塚

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なぜ朝鮮人は嘘をつくのか




空理空論

働かざる者食うべからず
 
 
 
 
 
 
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転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


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