元年者の労働
一日12時間にも及ぶ重労働が待っていた。
当時の日本の習慣には無かった厳しい労働に、
元年者たちは当然ながら島の生活を楽しいとは思わなかった。
焼け付くような強い日差しのハワイ風土。
英語が理解できず、命令に従わないとか仕事を途中で中断したなどの事由で
牛のように鞭で叩かれた。
僅か10分程度の遅刻でも日給の1/4が容赦なく差し引かれ、
休んだ場合には2日分の日給が無造作に棒引きされた為に、
重病でも無い限り仕事は休めなかった。
しかも物価は高くて給料は安かった為に貯蓄さえできなかった。
元年者がハワイへ到着した日からおよそ1年が過ぎたある日
、このような日本人虐待のうわさが日本にも伝わって、
実態調査の為に日本政府は上野蔭典をハワイへ派遣しているが、
農園で働く労働者から直接事情聴取した事実はうわさ通りであった。
このために上野は、「元年者たちは明治天皇の許可を得ず不法にハワイに連れて来られている」ので
即刻日本へ帰国させるようにとハワイ王朝へ強く抗議しているが、カメハメハ大王政府はこれに対し、
労働者が逼迫(ひっぱく)していたこともあって、あたふたと日本人労働者への待遇改善を保証し、
150名の元年者のうちハワイで働くことを嫌がった40名の帰国を許可した。
3年間の労働契約期間が過ぎた1871年には、さらに13名以上がハワイを去っていったが、
残りのおよそ90名はハワイ滞在の延長を望み、明治政府にビザの発行を申請している。
日本人を労働者として初めてハワイへ移民させた「元年者」の企画は、農園主も労働者も、
双方が求めていたそれぞれの理想には十分に達しないまま、
次の日本人労働者を乗せた貨物船がハワイに到着するまでに13年間の歳月が流れていた。
「おかげさまで:ハワイの日本人」より