マラッカの建設
14世紀末から15世紀初頭にかけてマジャパヒト王国で起きた内戦(パルグルグ戦争)に巻き込まれたスマトラ島南部パレンバンのシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが、従者を伴ってマレー半島に逃れたのが王国の起源である[7]。
当初一行はトゥマシク(シンガプラ、現在のシンガポール)に逃れたがトゥマシクは海賊たちが跋扈する危険な地であり[5]、またタイのアユタヤ朝からの攻撃に晒されたため[8]にマレー半島を移動し、15世紀初頭にパレンバン、シンガプラなどに居住する「オラン・スラット」(またはバジャウ)と呼ばれる[9]マラッカ海峡の海上民の協力を得て村落を造り[10]、集落を「マラッカ」と名付けてパラメスワラが王となった。
建国の時期は1402年と推定されることが多いが、14世紀末にすでに王国が成立していた可能性を指摘する声もある[11]。
マラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始める。パラメスワラの子イスカンダル・シャーはマレー半島におけるマラッカ王国の支配領域を拡大し、マラッカ海峡の交易路を確保するために北スマトラの東海岸に存在するサムドラ・パサイ王国に目を付けるが[12]、当時のマラッカの軍事力はパサイに比べて劣っていた。ピレスによると、イスカンダル・シャーは戦争という手段に訴えず婚姻関係を作る道を選択し[12]、72歳という高齢にもかかわらずパサイの王女を娶った[13][注釈 2][注釈 3]。パサイの仲介によって敵対していたマジャパヒトとの関係が良化し、またパサイに住むイスラム教徒のマラッカへの移住も始まった[16]。イスカンダル・シャーは周辺地域の海賊、漁師にマラッカへの移住を積極的に勧め、彼の治世の3年目(1416年 - 1417年ごろ)には人口は2000から6000人に到達した[17]。
マラッカの発展にはパラメスワラが連れてきたシュリーヴィジャヤの貴族と海上民以外に、明が実施した私貿易の禁止によって東南アジア各地に留まらざるを得なくなった中国人のコミュニティも寄与していた[18]。彼らは明への朝貢貿易を組織し、また中国の造船技術と東南アジア島嶼部本来の造船技術が合わさったジャンク船を建造して海洋交易で活躍したのである[19]。
繁栄
1445年にスリ・パラメスワラ・デワ・シャーが明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服、朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイのアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える。
1446年に即位したムザッファル・シャーの治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた[22]。ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった[23]。
次のスルタン・マンスールの治世にマラッカ王国は繁栄期を迎える[24]。ムザッファルの遺言でラジャ・プテがマンスールの後見人を任せられるが、成人したマンスールは王と並ぶ権威を持つラジャ・プテを暗殺して統治者としての地位を確立する[25]。ラジャ・プテの殺害を不服として反乱を起こしたパハン、カンパル、インドラギリを再征服し[26]、ロカンを従属させた後[24]、これらの国から金を貢納品として受け取り、また婚姻関係を築いて各国間との仲をより緊密にした[27]。
第7代スルタン・アラウッディン・リアト・シャーの治世にマラッカの勢力圏にあった港市国家の再独立が始まる。マンスール・シャーの治世以前に従属させた港市国家は交易において自立性を保ちつつもマラッカの支配を受け入れていたが[28]、それらの勢力が王国の従属下から脱していったのである[29]。アラウッディンの治世は短く、彼はメッカ巡礼の準備中に病死した[30]。
16世紀のポルトガル人コメンタリオスはアラウッディンの死因について、彼がパハン、インドラギリの王を強引にメッカ巡礼に同行させようとしたために毒殺された説を伝える[30]。
その子マームド・シャーは幼くしてスルタンに擁立され、支配領域はマレー半島の一部に限られていたが[29]、叔父であるパハン王やブンダハラら有能な後見人に支えられ[31]、 交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。
14世紀末にマラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島にまたがる地域に成立したイスラーム教国。港市国家としてインド洋・南シナ海の海上交易で栄えた。
マラッカ王国
マラッカはマレー半島マの南西部の海港としてインド洋と南シナ海を結ぶ海の道の要衝であった。建国神話(『マラヤ編年記』)によると、その始祖はアレクサンドロス大王の血を引いており、その国は「黄金の国(スヴァルナプーミ)」といわれ、はじめスマトラ島のパレンバンにあったが、シンガポール島を経てマレー半島のマラッカに移り、14世紀末に王国を築いたという。マラッカ王国はマレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、マラッカ海峡に面した港市国家として繁栄した。イスラーム化と官僚制国家 マラッカ王国は海洋民族を従えながら、イスラーム教に改宗し、国王はスルタン(サルタン)として統治した。スルタンの下に、世襲の最高司令官(ブンダハラ)と大蔵大臣、侍大将、警察長官にあたる官僚制が形成され、多くの港市の外来商人や原住民の部族村落が管理されていた。
中国への朝貢 マラッカ国王は明に対して朝貢を行い、永楽帝からマラッカ国王に封じられ、印章と勅語を受けている。中国史料には「満刺加」として出てくる。また1405年に始まった、永楽帝による鄭和のインド洋への派遣では、鄭和艦隊はマラッカ海峡を経てインドへの進出をはかり、マラッカに寄港している。マラッカ王国も鄭和の来航を期に急成長し、ジャワ島のヒンドゥー教国マジャパヒト朝と対抗してその商業活動を抑え込み、インド洋と南シナ海の中継貿易を行い、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄した。
マラッカ王国の交易品 この地はまたムスリム商人の東アジア進出の拠点として海上貿易で大いに繁栄した。マラッカには三方の地域から物産が集まった。西方インドからは、綿織物・アヘンが、東方中国からは陶磁器・絹織物・武器などがもたらされ、現地東南アジアからは香料・象牙・白檀・獣皮・樹脂・金・スズ・銅・硫黄・真珠母・貝・鼈甲・さんごなどの特産品がインドと中国に輸出された。特にモルッカ諸島の丁子などの香辛料は珍重されていた。また琉球王国の商人も姿を現していた。ポルトガルなどのヨーロッパの商人が登場する以前に、このような広範囲で活発な交易が行われていたことは十分に認識しておく必要がある。