今日(1月27日)は「ハワイ移民出発の日」
移民条約によるハワイへの移民第1号の船『シティ・オブ・トーキョー号』がハワイへ向けて横浜港を出航したのが1885(明治18)年の今日(1月27日)だったそうである。
ハワイの移民の歴史は、1778年にジェームス・クックを船長とするイギリス船の来航から始まったといえる。その後、外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は、白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎を築き、その資金をもとに、白人たちが持ち込んだ銃器を利用し、3つの王国が分立していたハワイ諸島を統一、ハワイ王国を建国する。
1820年 になると、多くの宣教師がアメリカから移住し、キリスト教文化がハワイに定着していく。また、アメリカ人によるプランテーション農場のための土地の収奪がはじまる。ハワイではじめて「産業」として確立されたのがこのプランテーション業といえる。
これによってハワイには莫大な収入がもたらされが、サトウキビプランテーションには 1:広大な土地と、 2:砂糖1ポンドにつき1トンと言われる膨大な水、それに 3:安い大勢の労働力を必須とした。
ハワイ諸島の一般的な傾向として、諸島の北東側は降水量が多く、南西側は降水量が少ないという自然条件があり、サトウキビプランテーションも、当初は降水量の多い、諸島の北東側の土地に開設されていくが、次第に、降水量の少ない、諸島の南西側にも開設されるようになっていった。そのため、水資源を得る為の用水路造りなどの労働力不足を補うために、中国:福建省と広東省から初の移民受け入れを開始したが、アメリカのカリフォルニアで増えすぎた華系移民 排斥運動などの影響から、1865年ごろより、中国人労働者に代えて日本人労働者を導入しようという動きがハワイ政府の中から起きてきた。
一方、近代日本人の海外移民は、ジョン万次郎などごく少数の漂流民を除けば、1868(明治元)年の所謂「元年者」と呼ばれるものが始めてである。これは、1868(明治元)年4月、アメリカ人で、横浜に在住していた貿易商人ヴァン・リードの世話で、ドイツ商社に雇われた男女42人がグアムに移住し、更に、同月、やはり、ヴァン・リードが141人(120人とも153人とも言われている)をハワイに移住させたものでる(週刊朝日百科「日本の歴史」)。しかし、これは、一応、非合法(江戸幕府とイギリス人ブローカーの契約だったため、明治新政府から認められず、パスポート不所持のまま移民)な集団移民第1号と言うことになる。この元年者の移民は正式に明治新政府の認めたものでない上に、現地でも最初からトラブル続きなどで色々問題があったようである。明治政府は、この後、20年近く、海外移住を許可していない。
1881(明治14)年 3月 ハワイ王国のカラカウア王が世界一周旅行の途中に訪日。赤坂離宮で明治天皇に謁見し、山階宮定麿親王と自分の姪の結婚を願い出るが断られる。
但し、このとき、同時に日本政府に公認の移民の実現を申し出たことを契機に、やっとハワイへの移民が再開され、 1885(明治18)年の今日(1月27日)、政府公認の第1回移民船『シティ・オブ・トーキョー号』で940人余(927人の説もある由)が横浜を出発した。
このときの移民は、日本・ハワイ王国の政府間で労働条件などを定めた約定書に基づく移民であることから、この移民は「官約移民」と呼ばれている。以後、日清戦争の前年1893(明治26)年まで、この制度の下で約3万人がハワイに労働者として渡航しているという。
日清戦争開戦の年(1894=明治27年)政府は、移民保護規則を交付、移民事業を政府の手から民間移民会社に移した。翌々年の移民保護法交付もあって、40社にも達する移民会社が出来、約4万人もの人が移住したという。これを「契約移民」と言うが、これは、海外への永住をめざした「移民」ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出稼ぎ労働者であり、この時が、ハワイ移民の全盛時代であった。
しかし、ハワイは、1898(明治31)年、アメリカに合併されてしまい、アメリカの契約移民禁止法がハワイにも適用されて移民が困難となる。
外務省が移民会社にハワイ移民停止を言い渡すのは1908(明治41)年で、その年のハワイ在住日本人は、6万6千人いたという。
ハワイへの移民が困難となった後、移民の本流は、アメリカ、カナダに移るが、1907(明治40)年には、日米戦争の危機さえ憂慮されていた。そのために、林董(ただす)外務大臣と駐日大使オブライエンとの間で、一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によってこの年から翌年にかけて自主的制限がされることとなった。にもかかわらず、アメリカでの排日運動は、収拾せず、日本人は土地所有や家族呼び寄せなどもできなくなり、1924(大正13)年の排日条項を含む新移民法の制定で日本人移民は禁止となる。(排日移民法参照)。アメリカ・カナダへの移民が困難になった時に登場したのが、ブラジル移民と朝鮮・満州への移民である。このように、移民には、19世紀末以降、第二次世界大戦後暫くの間迄日本政府が、積極的に関わって行なわれてきた。
移民ではなかなか成功するのは難しい。皆さん凄い苦労をされているが、その中でも、まだ、ハワイへの移民ではそれ以降の移民に比べて成功者が多い方だろう。
(※ハワイ移民の事については、以下参考の中でも「アロハWebかわら版/ハワイ日系移民の歴史」が特に詳しく書いている。興味のある方は参考にされるとよい。)
1941年12月7日(日本時間12月8日) 真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。
しかし、ハワイの日系人は、日本人会会長や僧侶など、日本人社会を代表する一部の人々を除き収容所に収容されなかったという。これは当時、ハワイが正式な州でなかったこと(1898年米国に併合後、1959年正式に、米50番目のハワイ州となる)、アメリカ本土から離れていること、そして何より、当時の人口の4割程度を占める(人口動勢参照)日系人を強制収容すれば、ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという事実が影響したようだといわれている。
そして、戦時に際しては、ハワイで生まれ育ち、合衆国の市民権を持つ日系の若者の多くは、自ら進んで志願兵となることで祖国に対する忠誠心を示そうとした。彼らハワイの日系人だけで組織された陸軍第100大隊は、後に本土の日系人部隊と合流し442連隊となり、欧州戦線において多くの犠牲と引き換えに目覚ましい戦果を上げたという。彼らの献身的で勇敢な戦いはすべてのアメリカ人に深い感銘を与え、ハワイのみならず戦後の米国社会における日系人の地位向上に大きく貢献したそうだ。
晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し
別れテープを 笑顔で切れば
望みはてない 遥かな潮路
ああ あこがれの ハワイ航路♪
石本美由起:作詞、 江口夜詩:作曲「憧れのハワイ航路」戦後、大ヒットした岡 晴夫の歌である。
ここでは、歌詞を見ながら曲が聴けるよ。↓
http://www.tei3roh.com/akogarenohawaikouro.htm
戦後の日本人にとって、ハワイは、憧れの地となった。
ハワイは日系人が多く住んでおり、3世以降の日系人の殆どは日本語が話せないというが、それでも単語のみを知っていることが多いといい、旅行会社などハワイ在住の日本人駐在員も多く、観光地では、日系人以外でも日本語を理解できるものが多いことから、今でも、日本人にとっては人気の観光地である。私も、1度だけであるが、ハワイの観光をしたが、英語が話せなくてもどこでも日本語が通用し、観光やショッピングなどには殆ど支障がなかった。ガイドに聞くと、ハワイでは、日本語ができないと観光などの仕事には就けないといっていた。
気候風土も良いし何度でも行ってみたいところだよね。
(画像は、ハワイ島 NASA撮影。フリー百科事典Wikipediaより)
移民 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%BB%E6%B0%91
排日移民法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
海外移住資料館
http://www.jomm.jp/index.html
2006年3月号ミクロネシア博物誌 - 幕末の日本人グアム出稼ぎ
http://www.hafadai.net/2006/03/hakubutusi.html
日本人の海外移住略史、1868年-1998年
http://www.janm.org/projects/inrp/japanese/overview_ja.htm
日清戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
アロハWebかわら版/ハワイ日系移民の歴史
http://www.pacificresorts.com/webkawaraban/nikkei/031106/
日本ハワイ移民資料館
http://www.town.oshima.yamaguchi.jp/hawaii/
ハワイ州 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%B7%9E
日系移民の歴史
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/index.html
第100大隊と第442戦闘部隊
http://contest.thinkquest.jp/tqj1998/10060/dainyakudaitai.htm
神戸市文書館 神戸歴史年表
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/year/meizi_23_26.html
ネット仲間よーさんより拝借
広島はハワイへ移民が多いです。
私のお爺さんもハワイへ移民しておりました。