Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

[転載]南京事件(なんきんじけん)1927年

$
0
0
 
   南京事件(なんきんじけん)1927年
 
1927年(昭和2年)3月
蒋介石の  国民革命軍の第2軍と  第6軍を主力とする
江右軍(総指揮・程潜)が
南京を占領した際に起きた
日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。
共産党が煽動して発生させた。
 
 
 
事件の経過反帝国主義暴動の発生
 
イメージ
 
 
事件で活躍したアメリカ海軍クレムソン級駆逐艦ノアen)」
 
 
イメージ
 
 
 
事件で活躍したイギリス海軍練習艦「ヴィンディクティヴ
 
 
 
1927年(昭和2年)3月24日早朝
国民軍総司令蒋介石北伐南京に入城した。
その軍長は程潜であった。
 
当初は平和裏に入城していたが、まもなく
帝国主義を叫ぶ 軍人や民衆の一部が
外国の領事館や居留地などを襲撃して
暴行・掠奪・破壊などを行い
日本1人(宿泊船en)警備の海軍兵)、イギリス3人
アメリカ合衆国1人、イタリア1人、フランス1人
デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。
 
このうち日本領事館では
警備の海軍陸戦隊員は反撃を禁じられていたため
館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。
 
 
駆逐艦「」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は
10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような
民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため
無抵抗が徹底された。
 
 
 
正門で歩哨に就いていた西原二等兵曹
侵入者を制止しようとした際
群衆は「やっつけろ、やっつけろ」と
連呼しながら銃剣で突きまくり
顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた。
 
 
根本博 陸軍武官と木村領事館警察署長は
金庫が開かない腹いせに
銃剣で刺されて負傷、領事夫人も陵辱された。
 
 
 
領事館への襲撃のほか
係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた
後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された。
 
 
 
この事件はあえて外国の干渉をさそって
蒋介石を倒す 
中国共産党の計画的策謀といわれている。
 
 
 
事件のかげには
  ソ連の顧問ミハイル・ボロディンがいて
第6軍政治部主任林祖涵
第2軍政治部主任李富春  共産分子であり
軍長の程潜は彼らにあやつられていた。
 
 
 
事件前夜の3月23日にボロディンが
武漢で招集した中央政治委員会
林祖涵は程潜を江蘇政務委員会の主席にするよう
提案していたという。
その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。
 
 
 
 アメリカ・イギリス軍の反撃
下関に停泊中のアメリカ軍イギリス軍の艦艇は
25日午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始
 
陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。
 
砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ
日本領事館近傍にも着弾した。
 
多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。
 
日本は、虐殺を誘致するおそれありとして
砲撃には参加しなかったが
 
25日朝に
警備強化のため新たに陸戦隊90人を上陸させた。
 
領事館の避難民らは
イギリス軍による反撃に巻き込まれるのを避けるため
増援の陸戦隊に守られて軍艦に収容された。
 
蒋介石は
29日に九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること
上海の治安を確保すること
排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。
 
しかし
 
日英米仏伊五カ国の公使が  関係指揮官及び兵士の厳罰
蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障
人的物的被害の賠償を共同して要求したところ
外交部長・陳友仁は
責任の一部が 不平等条約 の存在にあるとし紛糾した。
 
 
中ソ断交と上海クーデター
南京事件の北京への波及を恐れた列強は
南京事件の背後に  共産党とソ連の策動があるとして
 
日英米仏など七カ国外交団が
厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。
 
その結果、4月6日には
張作霖によりソ連大使館を目的とした
各国公使館区域の捜索が行われ
 
ソ連人23人を含む74人が逮捕された。
 
押収された極秘文書の中に
次のような内容の「訓令」があったと総司令部が発表した。
 
その内容とは
 
外国の干渉を招くための掠奪・惨殺の実行の指令
短時間に軍隊を派遣できる日本を各国から隔離すること
 
在留日本人への危害を控えること
 
排外宣伝は反英運動を建前とすべきであるというものである。
 
「訓令」の内容は実際の南京事件の経緯と符合しており
「訓令」の発出が事実であったとする見解は有力である。
 
4月9日
ソ連は中国に対し国交断絶を伝えた。
 
4月12日
南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告した。
 
いわゆる、四・一二反共クーデター(上海クーデター)である。
 
この際、共産党指導者90名余りと
共産主義者とみなされた人々が処刑された。
 
また、英国は
南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして  
関係先を捜索
 
5月26日
ソ連と断交した(アルコス事件)。
 
武漢政府容共政策放棄を声明し
南京に国民統一政府が組織されると
 
1928年4月に
アメリカ合衆国
 
8月にイギリス
 
10月にフランスとイタリア
 
1929年4月に日本と
それぞれ協定を結んで外交的には南京事件が解決した。
 
 
 
事件の影響
 
イメージ
 
海軍陸戦隊を派遣した駆逐艦檜
 
 
日本海軍は
アメリカ・イギリス海軍のように南京市内を砲撃しなかったため
日本側の思惑とは反対に
中国民衆からは日本の軍艦は弾丸がない
案山子張子の虎として嘲笑されるようになった。
 
まもなく
 
漢口でも日本領事館や居留民が襲撃される
漢口事件が引き起こされることとなった。
 
南京事件中に
日本領事館を守るために
第24駆逐隊駆逐艦檜から派遣された
荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊が
 
中国兵によって武を汚されたことは
第一遣外艦隊司令部において問責され
荒木大尉が自決を図ることとなった。
 
 
この事件は
日本の外交政策を大きく変えるきっかけとなった。
 
1924年
加藤高明内閣の外相・幣原喜重郎
それまでの対中政策をやや修正し
幣原三原則を基本とした親善政策である
幣原外交」を展開していた。
 
外務省は
事件当初から、森岡領事から受けた、共産党の計画による
組織的な排外暴動であるとの報告により
 
南京事件が
蒋介石の失脚をねらう過激分子によるものと判断していたが
列強が強行策をとれば
蒋介石の敵を利するものだとして
 
幣原は一貫して不干渉政策をとり、列強を説得した。
 
しかし
 
南京事件や漢口事件などにより
国民の対中感情が悪化、幣原外交は「軟弱外交」として批判された。
 
金融恐慌の中
事件直後の4月若槻禮次郎内閣が総辞職すると
田中義一が首相と外相を兼任
かねてから中国より東北三省を切り離すことを主張していた
外務政務次官森恪
その政策の背後にあり、日本の対中外交は一変することになった。
 
 
 
 

転載元: RCボトル潜水艦/RC潜水艦/RC艦艇/水生ロボット


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles