1 第一次南京事件(大正2(1913)年)
張勲軍が南京に乱入し、城内の民間人に対して虐殺、強姦、略奪を行った事件
1913年(民国2年)4月、張勲は早くも溥儀再擁立を画策したが、事前に計画が漏れたため断念している。袁世凱に反感を抱いた孫文(孫中山)ら革命派が第二革命(二次革命)を起こすと、7月に張勲は袁世凱の命を受け革命派を鎮圧した。9月1日に南京を攻略した際に、3日にわたって放火・略奪・殺戮を縦にしている(1913年南京事件)。鎮圧の軍功により、張勲は江蘇都督に任命され、12月には長江巡閲使に転じて徐州に駐屯した[3]。
2 第二次南京事件(昭和2(1927)年)
国民党の国民軍が騙し討ちのような形態で南京に入り込み、城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。
南京事件 (1927年)
蒋介石・国民革命軍
張宗昌・直魯連合軍
南京在留日本
3月22日朝、日本海軍は荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊10人を機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて上陸させた[3]。しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蒋介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した[3]。機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった[3]。荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された[3]。
南京在留日本側は、掠奪暴行が予想されたので3月22日に婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、本館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した[4]。
事件の発生
1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった[5]。当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船警備の海軍兵)[6]、イギリス3人[6]、アメリカ合衆国1人[6]、イタリア1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。
フランス人宣教師が2名殺害された[7]。アメリカ人で金陵大学副校長イーゼーウィリアム博士も殺害された[8]。そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された[8]。また婦人も陵辱された[8]。
日本領事館での暴行
日本領事館は蒋介石の軍が入城したとき、国民党軍は規律正しいと聞いていたので安心し、防衛のための土嚢や機関銃を撤去し、開門して国民党軍を受け入れた[9]。また、倉庫には小銃30挺が保管されていたが、それらの上に荷物を山積みしており、準備されてはいなかった[10]。当時の記録では、この時入場した国民党軍は、便衣隊であったかもしれないとも書いている[9]。
中国軍一個中隊が正門から闖入すると、歩哨に立っていた西原二等兵曹に銃剣を突き付け、殴りつけられた[9]。中国軍は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた[6]。救援にかけつけた数名の海軍陸戦隊員も銃剣を突き付けられ、時計や財布を掠奪された[9]。
領事館舎の2階にいた根本博陸軍武官(少佐)に対して、中国兵は室内に入るや否や頭をめがけて発砲したが、それた[12]。しかし腹を撃たれ、1階に飛び降りようとしたところ臀部を銃剣で突き刺され、突き落とされた[12]。室内に残っていた領事夫妻らに向かって中国兵は「金を出せ」「金庫を開けろ」「出さねば殺すぞ」と罵りながら、所持品を奪い、領事夫人は服を脱がされた[13]。寝室の領事専用金庫は破壊され、貴重品はすべて持ち去られた[13]。さらに中国兵に後続して、南京の老若男女の住民、苦力らが押し寄せ、電球、電線、装飾器具、炊事道具、風呂桶、便器まで持ち去った[13]。日本人は衣服を脱がされ、それらの衣服も持ち去られた[14]。強奪は朝7時から午後1時すぎまで打ち通しに行われた[15]。
その後、第2軍政治部蒋勁、師長戴岱がやってきて「我が国民軍は外国人に危害は加えない。今日、諸君を苦しめたのは確かに北軍の所為である」と述べた[16]。
荒木大尉は反撃すると日本人避難民に危険が及ぶため、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため[3][17]、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという[6]。
領事館外での暴行
また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった[18]。宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した[19]。中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した[20]。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日)
松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた[7]。
事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという[21]。
3 第三次南京事件(昭和12(1937)年)
南京に陣取った国民党軍が、 日本軍がやってくるからと城内で虐殺、強姦、略奪を行った事件。
蒋介石ら中国首脳部の南京脱出と日本軍南京城攻略要領(12月7日)
- 1937年12月7日(火曜)
- 夜明け直前、総統蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した[71]。またファルケンハウゼンらドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出した[71]。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難した[21]。中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した[72][73]。ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道[74]。中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された[75]。なお11月までの漢奸狩りで嫌疑をかけられた市民2000名、12月初旬には連日殺害された[76]。
4 第四次南京事件(昭和24(1949)年)
中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪を行った事件。