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国共内戦は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍と共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦(1927年

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2016/09/19 に公開
本映像は1966年から始まった文化大革命当時に、中国共産党にスポットを当てて製作されたドキュメントである。
清の弱体化によって起こった義和団の乱、共産党の創出、日中戦争によって始まった共産党と国民党による日本軍に対する共闘、そして戦後国民党勢力を一掃して共産党独裁となるまでの歴史が記録されている。

国共内戦

   
国共内戦 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
ChineseCivilWarCollage.PNG
上から時計回りに:四平戦役における共産党軍、国民革命軍(八路軍)のムスリム戦士たち、1930年代の毛沢東、兵士を視察する蒋介石、孟良崮戦役の直前に前線を調査する粟裕
戦争:国共内戦
年月日
第一次:1927年8月1日 - 1937年1月6日
第二次[注釈 1]:1945年10月11日 - 1950年5月1日[注釈 2]または1979年1月1日[注釈 3]
場所中国
結果
1927–1949年
中華民国の旗中華民国
1927–1949年
Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg共産党
中華民国の旗蒋介石
Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg毛沢東
4,300,000(1946年6月)[3][4]
3,650,000(1948年6月)
1,490,000(1949年6月)
1,200,000(1945年7月)[4]
2,800,000(1948年6月)
4,000,000(1949年6月)
最大150万(1945–1949年)[5]最大25万(1945–1949年)[5]
第二次国共内戦
国共内戦(こっきょうないせん、: 国共内战/國共內戰)は、当時複数存在した中華民国政府を自称する組織のうち、蒋介石率いる国民革命軍共産党率いる中国工農紅軍との間で行われた内戦である。第一次国共合作の破綻によって生じた第一次国共内戦1927年 - 1937年)と、第二次国共合作の破綻によって生じた第二次国共内戦1945年 - )とに大別される[6]


内戦までの経緯

五・四運動の影響

1915年第一次世界大戦中の大日本帝国対華21ヶ条要求を北京政府に要求。1917年にはロシア革命が起きる。第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」の五・四運動が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[7]陳独秀毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[8]

旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[8]。実際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[8]

第一次国共合作

結成当初の中国国民党中国共産党は、国民革命に向けて共同歩調をとっていた。両者は軍閥および北京政府に対抗する共同戦線を模索していた。1922年のコミンテルン極東民族大会における「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、国民党はソ連との連帯を鮮明にした[9]

この宣言は、コミンテルン中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。しかし、聯蘇容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥系の党員らの反発も強く、孫文の死後、国民党は反共主義方針をとるようになる。他方、1923年6月の中国共産党も、第三回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン(本名ヘンドリクス・スネーフリート)指導で、国共合作が方針となった[9]

なお、国民党はコミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンを1923年に迎え、孫文の軍事顧問・国民党最高顧問となった。またその前年の1922年には日本陸軍広東駐在武官佐々木到一を孫文の軍事顧問としている。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。

1924年コミンテルンの仲介で第一次国共合作を行う。国民党は1924年1月20日広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる国民革命軍の組織を開始する。
1925年孫文が死去。孫文没後の国民党は混迷し、孫文の片腕だった廖仲は暗殺され[10]蒋介石汪兆銘とは対立、最高顧問ボロディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。

蒋介石の上海クーデターと国共合作の崩壊

1926年に中山艦事件蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始。しかし、国共合作下で行われていた北伐の途上において、国民党右派の蒋介石が1927年南京国民政府を成立させ、同年4月12日、上海クーデターを決行する。これにより、国民党左派も共産党との連携を解消(武漢分共)し、国共合作は崩壊し、国民党と共産党は対立関係に入った。

黄文雄によると、蒋介石は第一次国共合作の頃は「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、支那事変勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した[11]。またスターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた[12]と言われ、中華民国を赤化させるつもりであったともいわれる。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。

第一次国共内戦

中国共産党の武装蜂起の開始

1927年7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し国共合作の終了を宣言した。共産党は武力闘争を開始し、同年8月1日南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返すが、国民党軍によって鎮圧された。この時期の共産党が引き起こした武装闘争は、内戦と呼べるほどの規模の戦闘ではなく、局所的であり散発的であった。

中華民国の国民政府主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。1928年にはドイツ軍のマックス・バウアー大佐を招聘し、軍事顧問団を形成し、ドイツからの最新兵器を輸入する(中独合作を参照)。また国民党の北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。

他方、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立する。

掃共戦と中独合作

蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開する。1931年5月、第二次掃共戦。同7月、第三次掃共戦。このときに軍事顧問団団長のゲオルク・ヴェッツェルが作戦助言をしている。9月に満州事変が勃発。日本

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