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盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である

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盧溝橋事件


   
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん) 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 損害
盧溝橋付近.jpg
1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図[1]
戦争日中戦争
年月日1937年(昭和12年)7月7日
場所盧溝橋付近
結果:日本軍の勝利
Flag of Japan (bordered).svg支那駐屯軍Flag of the Republic of China Army.svg国民革命軍第二十九軍
橋本群(少将, 支那駐屯軍参謀長, 司令官代行)
牟田口廉也(大佐, 支那駐屯歩兵第一連隊長)
森田徹(中佐, 連隊長代理)
一木清直(少佐, 第三大隊長)
宋哲元(二十九軍軍長, 冀察政務委員会委員長)
秦徳純(二十九軍副軍長)
馮治安(三十七師師長)
金振中(三十七師一一旅二一九団三営営長)
兵員:5,600 (支那駐屯軍の総兵力, 7/8の交戦戦力は510)[2]兵員:100 (國防部史政編譯局『抗日戰史』による二十九軍の総兵力、地区には40,000)
戦死10、戦傷30 (7/8)[2]
戦死6、戦傷12 (7/10)[3]
戦死60余、戦傷120余 (7/8)[2]
戦傷死約150 (7/10)[3]
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。英語ではMarco Polo Bridge IncidentBattle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる[6]
この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)が、日中戦争支那事変)の発端となった[7]。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。なお以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。


事件の概要

1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図[8]
盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真
宛平県城から出動する中国兵
1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習については日本軍は7月4日夜、中国側に通知済みであった。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射し[要出典]、その前後には宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。そのため清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた[9]

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。[要出典]

午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。[要出典]

11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

事件前の状況

コミンテルンの人民戦線と中国

1935年7月25日から開会された[10]第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され[11]、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた[12]。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した[13]

コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった[14]。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった[15]。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している[16]

南京政府による中央集権化と抗日の動き

1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった[要出典]1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[17]。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し[18]、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ[19]、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[20]宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[21]

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[22]上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[23]

また南京政府は山東省政府主席韓復に働きかけ[24]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[25]。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[26]


停戦協定と和平条件[ソースを編集]

宋哲元は当初、停戦交渉に積極的であった。しかし7月25日以降に中国兵が暴発した際に、屈辱的条件の受諾よりも抗戦を選ぶとの決意を中央政府に告げて抗戦した。
張自忠は7月11日だけでなく、7月19日にも停戦協定を結び、橋本群と共に戦線拡大を防ごうとした。しかし後に張は宜昌作戦で戦死を遂げる。
支那駐屯軍司令官の香月清司は対中強硬派であったものの、参謀本部に従って戦線は拡大させなかった。しかし中国兵暴発によって拡大する事になる。
石原莞爾は満州事変の首謀者であったが、盧溝橋事件の際に強硬に拡大反対した事で東京裁判で戦犯にされなかった。しかし満州事変で下克上を起こしたために、盧溝橋事件では対中強硬派が下克上の波に乗ってしまう。
盧溝橋事件の停戦協定は、7月17日の陸軍が出した停戦協定は小競り合いであるために、中国軍の陳謝・更迭と北京撤退と言ったそれなりの条件であり、第二次上海事変が勃発する前だったため当然の事ながら非併合・非賠償の条件であった。これらの停戦協定は後の第1次・第2次トラウトマン工作、汪兆銘工作、桐工作で出された日中戦争の和平条件に比べれば遥かに易しい条件であった。陸軍の対中強硬派とされる杉山元陸軍大臣、梅津美治郎陸軍次官なども外交官や現地軍の交渉には反対はしなかった。
しかし同時期の交渉は宋哲元香月清司へ、張自忠橋本群へ、広田弘毅日高信六郎を介して王寵恵へ交渉していた。しかし中国軍兵士の反日感情は暴発しており、日中両国の政府・外務省・軍中央の方針を無視し幾度も日本軍に対して散発的行為を行っていた。7月11日、停戦協定の細目は現地軍が妥協して行った。しかし近衛文麿の派兵発表で現地解決を困難にしてしまう。
: 1.第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、責任をもってこの種の事件の再発を防止する
2.中国軍は盧溝橋付近より撤退し、治安維持は保安隊をもってする
3.中国側は抗日団体の取り締りを徹底させる
増援決定を喜んだ現地の日本軍(支那駐屯軍)は、1937年7月13日段階で中国軍に北京からの撤退を求めた。そして、撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。7月17日、東京では陸相杉山元が中国側との交渉期限を7月19日にしたいと、五相会議で提案した。広田弘毅外相は、北京または天津での「現地交渉」に期限をつけるのはよいが、南京での国民政府あて外交交渉に期限をつけるのはまずいと反対した。海相米内光政、蔵相賀屋興宣も外相に同調し、杉山陸相も同意した。しかし、考えてみれば、広田外相の提案は、意味が不鮮明である。同日陸軍中央部は停戦協定の実施細目として以下を提案。この要求がいれられなければ、現地交渉を打切り「第二十九軍ヲ膺懲ス」との方針を決定した。それは「中国側の謝罪すべき当事者や、その方式を指定せず、又責任者の処罰も特定の人を指名せず、宋哲元の裁量にまかせる」という現地交渉担当者の考え方にくらべると、明らかに過大な要求であり、宋哲元に対し、蒋介石から離れて明確な屈伏の姿勢を示すか否かを迫ろうとするものにほかならなかった。日本側は、抗日的な人物を責任ある地位からしりぞけ、中国軍および国民党関係機関をできるだけ広い地域から排除することをめざしており、塘沽協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定などと同じやり方で、この事件を解決しようとしていたといえる。
: 1.宋哲元の正式陳謝
2.馮治安(第37師長)の罷免
3.盧溝橋北方・北平西方の八宝山附近からの中国軍の撤退(八宝山ノ部隊撤退)
4.7月11日の協定への宋哲元の調印
また、北京や天津では7月11日に調印された停戦協定の実施を日本軍が迫っていた。そのため、冀察政務委員会の指揮下にある第29軍の宋哲元はやむなく共産党の徹底弾圧や排日色の強い人物を冀察政務委員会の各機関から追放すること、蒋介石の秘密機構の冀察かの追放、排日運動・言論の取り締まり等を約束した。宋哲元は、和平を決意した。その夜、第三十八師長兼天津市長張自忠は、支那駐屯軍参謀長橋本群少将に対して、翌日、宋哲元が司令官香月清司中将に「謝罪訪問」をすると、伝えるとともに、次のような「解決案」を提言した。宋哲元の謝罪と合わせ、特に北京からの撤兵も含めて、支那駐屯軍の七項目要求をほぼ全面的に受諾したと言える。
: 1.盧溝橋事件の責任者の営長(第37師第110旅第29団第三営長金振中)を処罰する。
2.将来の保障についでは、宋哲元が北京に帰ってから実行する(以上の二項は文書にする)。
3.排日要人も罷免するが、文書にはしない。
4.北京には宋哲元直系の衛隊だけを駐留させる。
しかしこのような状況の中、7月13日に大紅門事件で日本兵4人が中国兵により爆殺され、14日にも団河付近で日本軍の騎馬兵が中国兵に殺害された。
王寵恵は1935年に訪日して広田弘毅外相と会談しており、7月17日に日高信六郎とも会談を行ってた。しかし8月14日についに王率いる外交部は抗日に転じる。
広田弘毅は7月17日に日高信六郎を介して王寵恵へ現地交渉による解決を目指した[1]。しかしこの事はあまり触れられていない。
7月17日、南京駐在の日高信六郎参事官を通して国民政府外交部長王寵恵に対し次のように要求させた。「帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後二於ケル国民政府ノ態度二鑑ミ左記ヲ要求ス1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止 2. 現地両国間二行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム」。広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた[108]。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。
そしてこれに対して南京政府は、日本側の要求を真向から拒否したのであった。すなわち、7月17日夜、日高が現地協定の実行を阻害しないよう、中央軍の北上を速かに停止して欲しいと申入れたのに対して、後の19日午後、国民政府外交部は「中国側ノ軍事行動八日本軍ノ平津一帯増兵二対スル当然ノ自衛的準備二過キス」と反論すると共に、日本政府に対して「一、期日ヲ定メ同時二軍事行動ヲ停止シ武装部隊ヲ撤回スルコト、二、今回ノ事件二対シテハ誠意ヲ以テ外交手段二依リテ協議スルコト」という2項目の要求を述に申入れてきた。それは日本側の云う現地解決主義を原理的に否定し、正規の外交機関による対等の交渉を要求するものであり、現地協定については「尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之カ解決ヲ

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