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日中戦争は、1937年(民国紀元26年、昭和12年)から1945年まで、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争である。

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日中戦争


   
日中戦争 交戦勢力 指導者・指揮官
Map showing the extent of Japanese control in 1940
戦争日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争(太平洋戦争)の一部[注釈 1]となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中華民国内蒙古華北華中華南)、イギリス領ビルマ
結果:中華民国の勝利、大日本帝国の降伏
大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国の旗満州国(1932-)
蒙古聯合自治政府の旗蒙古聯合自治政府(1939-)
中華民国の旗中華民国汪兆銘政権(1940-)
中華民国の旗中華民国
National Flag of Chinese Soviet Republic.svg中国共産党(1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された)
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国(1941-)
イギリスの旗イギリス帝国(1941-)
ソビエト連邦の旗ソビエト連邦(1945-)
大日本帝国香月清司(1937-38)
大日本帝国松井石根(1937-38)
大日本帝国朝香宮鳩彦王(1937-38)
大日本帝国西尾寿造(1939-41)
大日本帝国畑俊六(1941-44)
大日本帝国岡村寧次(1944-45)
満州国張景恵
Flag of the Mengjiang.svgデムチュクドンロブ(1939-1945)
中華民国の旗汪兆銘(1940-1944)
中華民国の旗陳公博(1944-1945)
中華民国蒋介石
中華民国何応欽
中華民国徐永昌
中華民国陳誠
中華民国李宗仁
中華民国閻錫山
中國工農紅軍軍旗.svg毛沢東
中國工農紅軍軍旗.svg朱徳
アメリカ合衆国の旗ジョセフ・スティルウェル(1941-44)
アメリカ合衆国の旗クレア・リー・シェンノート(1941-44)
アメリカ合衆国の旗アルバート・ウェデマイヤー(1944-45)
イギリスの旗ルイス・マウントバッテン(1941-45)
ソビエト連邦の旗アレクサンドル・ヴァシレフスキー
日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年から1945年まで、中華民国大日本帝国の間で行われた戦争である。日本政府は、勃発当時は支那事変としたが[1]1941年12月の対英米蘭との開戦に伴い、支那事変から対英米蘭戦までを大東亜戦争とした[2]

中国内戦

この時代、中国全土は分裂し軍閥割拠時代となった[24]。 1919年の五・四運動以降、中国では共産主義思想への共感が拡大していく[注釈 7]。1920年にはコミンテルンのボイチンスキーが北京に派遣され[37]、1921年には中国共産党が結成される。
1920年7月14日安直戦争によって段祺瑞の政権は崩壊した。天津攻撃をおそれた日本は鉄道沿線各地に軍兵を配置した[25]10月2日には馬賊団が、琿春の日本領事館を全焼させ、日本人13人を殺害、数人を拉致する。 1920年11月張作霖の使者が日本を訪問し、支援を求める。
1922年4月、孫文が北伐を開始する。4月28日には第一次奉直戦争が起こる。10月25日には日本軍が、シベリア撤兵する。1923年6月1日長沙事件
コミンテルンの工作
1923年にはA.A.ヨッフェとミハイル・ボロディン孫文と接触し、孫文はソ連に武器援助を要求した[37]。孫文は野合政党からボルシェビキをモデルとした革命政党への脱皮を決断した[38]。1924年には北京のソ連大使館にソ連軍事センターが設置され、中国の団体への武器供与を監督した[37]1924年1月20日、軍閥および北京政府に対抗する国共合作が成立[39]。 孫文の広東政府はコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンを最高顧問に迎え、ソ連の支援で[37]国民革命軍を組織し、と1924年6月16日に軍官学校を設立した[注釈 8]1924年5月には反日ストライキ暴動事件発生[要出典]。1924年7月1日蒋介石汪兆銘等による広東国民政府が成立。ソ連はボロディンら工作員を派遣し広東などで反英運動を展開し、1925年7月には蒋介石は東シベリア赤軍のブルーシェル最高司令官[誰?]にイギリスとの武力戦争のためにロシア人顧問が必要であると伝えた[37]

1924年9月18日、第二次奉天戦争が起こると、日本は内政不干渉を表明する一方、日本陸軍による張作霖への支援は続け、1925年に郭松齢が奉天に迫ると、満州出兵を行い、張作霖への軍事支援を実施した[39]。 1925年5月30日、上海で数万の反日デモが発生、その後全市規模のストライキコミンテルン中国共産党陳独秀指揮のもとで行われた[40]。デモに対して上海共同租界当局は鎮圧にあたって発砲、13人が死亡する五・三〇事件が発生、以後、大衆運動の矛先は上海共同租界の代表であるイギリスに向けられ、香港などでも反英運動が展開した[41]

その後もソ連は多額の資金を提供し、大青年反帝国主義同盟、中国プロレタリアート作家同盟、中国社会科学作家同盟などの組織が設立されていった[40]
蒋介石の北伐と反共政策
翌1926年7月、蒋介石は孫文を継承して、軍閥・北京政府撲滅を目指し北伐を開始する[39]
ソ連とボロディングループの指導のもと中国共産党は党員を組織し、共産主義者を拡大させていったが、蒋介石ら国民党政府は共産党の権力奪取計画を察知し、1927年3月には共産党員を追放した[40]
1927年3月24日、南京に入城した蒋介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)[42]。米英軍は艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った[42]幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蒋介石の説得工作をおこなった[42]。蒋介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた[42]。4月12日、南京の国民革命軍総指令・蒋介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が処刑された(上海クーデター)[39]。上海クーデターについては日本政府・幣原外相らによる蒋介石への反共工作に対して蒋介石は日本側の期待に答えたとする見方もある[39]

北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府と汪兆銘等の武漢国民政府に分裂する。
アルコス事件
英国は、ソ連のブハーリンらが広東政府を援助し、ストライキなどの労働運動を指揮していたとして1927年5月12日、ロンドンのソ連ハウス(アルコス株式会社、ソ連貿易代表団)を強制捜索、ソ連が中国など諸外国で工作をおこなっている証拠書類が押収された(アルコス事件[37]。イギリスは南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した
蒋介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する

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