琉球侵攻の原因
日本側史料『南聘紀考』によれば、この事件は次のような経緯で起こった。1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、1603年に琉球に送還された。以後、薩摩を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、中山は最後までこれに応じなかった。
1608年9月には、家康と徳川秀忠が舟師を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて大慈寺龍雲らを遣わして、尚寧王及び三司官に対し、家康に必ず朝聘するよう諭したが、謝名利山は聴従せず、かえって侮罵に至り、大いに使僧を辱めた。こうして遂に、琉球征伐の御朱印が、薩摩に下る事となった。このように、同時代の日本側の記録は、本事件の根本的原因を謝名の人格的要因に帰し、これを幕府とその命を受けた島津氏による「琉球征伐」と位置づけている[3]。
もっとも、16世紀の後半に戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求して、琉球側がこれを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつあり[10]、その両者の緊張関係が琉球への侵攻に至る過程に大きく影響したと考えられている。
なお、琉球侵攻の時点では徳川幕府のいわゆる鎖国政策は始まっていない。そのため、当時の琉球周辺を日本列島の船の多数が往来していた[要出典]。琉球侵攻が行われた1609年の3年後、1612年から段階的に鎖国政策が始まった。
奄美大島へ
薩摩軍は総勢3000人、80余艘であった。大将は樺山久高、副将平田増宗である。1609年2月26日[11]に山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に出港した。同日亥刻、口永良部島に着く。6日辰刻に出船し、7日申刻には奄美大島に到着した。大島では戦闘は一切無く[11]、大島の現地首脳は中山を見限り、全面的に薩摩に協力していた[12][13]。
7日申刻に大島深江ヶ浦に着き、8日には周辺を打廻った[14]。薩摩軍は、笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いていたが、そんな人衆はおらず何事も無く終わったという[14]。彼等は悉く山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った[11]。薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在したが、12日には出船し、大和浜を経由して16日には西古見に着く。ここで順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。
中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、接触すらなかった[3]。以文はどこかに隠れていて薩摩軍と出合わず、後で勘気を蒙ったとする史料がある[11]。なお、戦闘があったことが記載されている史料もあり[15]、これを支持する研究者もいる[16]。
徳之島へ
かなぐまには2艘が漂着したが、何事もなかった。
湾屋には17日、8艘の薩摩船が漂着した。約1000人がこれを包囲したが、18日、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し50人を殺害した。
秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されたが、20人から30人を殺害して制圧した。指導者の掟兄弟は棍棒、手下の百姓は竹やりや煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑み、薩摩軍も一時海中に追いこまれる勢いであったが、庄内衆の丹後守が見事な精密狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転したという[15]。しかし薩摩側も庄内衆が6、7人打臥せられ(生死不明)、七島衆からは6人の死者が出た[15]。
徳之島には与那原親雲上なる王府役人も派遣されていたが、島民を見捨てて山中に隠れているところを発見され、22日に生け捕りになっている[14]。
本隊は20日申刻に秋徳港に到着した。21日、樺山を含む10艘のみが沖永良部島に先発した。残りは22日に山狩りを行った後、順風を待って24日巳刻に出発、同日日没ごろ、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部に到着、樺山と合流し、夜を徹して本島に向かった。
近世
「琉球侵攻」を参照
1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし名目上は琉球の一部とされた[2])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。
しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉(サゴの一種)をとって粥などに加工し、食用とした。
奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。
また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性愛加那と結婚して子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。
薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。
近代
明治維新後の1879年(明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。
このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。