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[転載]擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。

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縄文土器と擦文土器 @北海道釧路市釧路湿原展望台 Joumon & Satsumon Earthenware in Kushiro Hokkaido


2010/02/19 にアップロード
北海道独特の時代である擦文時代の土器を含む土器の資料展示。釧路市釧路湿原展望台2階展示室に展示されているもの。釧路で発掘された縄文時代の縄文土器と擦文時代の擦文土器が展示されています。
詳細ページ http://pucchi.net/hokkaido/history/hi...
北海道動画チャンネル http://pucchi.net/

擦文時代

   
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)

この時代、9世紀平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化北海道北部から東部オホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。



ところ遺跡の館 オホーツク文化の解説(山田主任)


時代と分布

擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。
これは土器の表面を整えるためへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。

土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。

擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている[1]

生活

擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。たとえば、秋から冬にかけてサケマスなどの獲物をとる時期には、常呂川天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟とキビソバヒエ緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。わずかだがも検出されており、日本三代実録の記述から、それを本州との交易によって得ていたと考える研究者もいる[2]

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工道具として用いられたと考えられている。他に装身具釣り針裁縫用のなど様々な鉄製品が用いられた。や中国の銅銭も見つかっている。これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。また青森県五所川原で作られた須恵器が北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

伸展葬土坑墓が一般的な埋葬形態である。8世紀後半から9世紀奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯石狩平野西部と勇払平野)に作られた。東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

一方で10世紀半ばから12世紀はじめ(平安時代中期から平安時代後期)にかけて、北東北地方から樺太にかけて環濠集落高地性集落が多数見られることから、これを防御性集落とし、「蝦夷(えみし)」から「蝦夷(えぞ)」への転換時期とする見解が出されている[1]

文献史料

北海道の擦文時代は、道外の飛鳥時代から鎌倉時代後期にかけての時期に相当する。『日本書紀』にある7世紀後半(飛鳥時代)の阿倍比羅夫航海をはじめとして、六国史には渡島(わたりしま)の蝦夷(えみし)との交渉記事が多数ある。渡島の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。

見学可能な遺跡等

  • 常呂遺跡 - 国の史跡。北海道最大規模の遺跡で、擦文文化のものに混じってオホーツク文化の住居跡も検出されており、特異な存在。周辺は「ところ遺跡の森」として整備されており、附近には旧石器時代からアイヌ文化のものまで数多くの遺跡が散在している。ワッカネイチャーセンターへも近い。(北見市による紹介
  • 北斗遺跡 - 国の史跡。釧路湿原西側(釧路市湿原展望台の南側)にあり、釧路湿原を望む高台に縄文・続縄文時代のものとともに擦文時代の住居跡が検出されており、そのうち6棟が復元されている。また、釧路湿原展望台へ至る道道53号から少々入ったところに史跡北斗遺跡展示館があり、住居の模型とともに続縄文・擦文時代の解説や出土品の展示があるほか、ここから木道伝いに復元住居(「擦文の村」)へ行くことができる。復元住居は湿原遊歩道(鶴井軌道跡)からも近く、また釧路市湿原展望台とも木道で結ばれている。(釧路観光協会による紹介
  • 標津遺跡群 - 国の史跡(伊茶仁カリカリウス遺跡)。縄文期から擦文期の遺跡で、天然記念物に指定されている標津湿原と合わせて「ポー川史跡自然公園」として整備されている。歴史民俗資料館及び「開拓の村」を併設。(標津町による紹介
  • オムサロ遺跡公園 - 北海道指定史跡。縄文期からアイヌ期にかけての遺跡で、擦文時代の村が再現されている。(紋別市役所による紹介


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常呂遺跡

   
常呂遺跡(ところいせき)は、北海道北見市(旧常呂郡常呂町北見国)にある擦文文化期およびオホーツク文化期の遺跡。国の史跡に指定されている。

概要

オホーツク海をのぞむ海岸に沿って常呂川の河口からサロマ湖西岸へと続く幅約300メートル、長さ約2.7キロメートルの砂丘上に立地し、2,000基以上の竪穴住居跡および墳墓と推定される多数の小形の竪穴状遺構が検出された。
擦文文化の集落遺跡としては北海道最大規模を有し、オホーツク文化期の住居跡も発見されており、特異な存在となっている。両文化の移行の問題を検討するうえでも重要な遺跡である。

東北地方北部から北海道にかけての各遺跡では、しばしば竪穴が埋没しきらず地上に大小の凹みを残存させている場合がみられるが、常呂遺跡の竪穴群はそのなかでも最大級の規模と密度を有する例として知られている。
1974年昭和49年)3月12日、国の史跡に指定され[1]、遺跡の保存と整備が進められた。
周辺は「ところ遺跡の森」として整備されており、附近には旧石器時代からアイヌ文化のものまで数多くの遺跡が散在している。ワッカネイチャーセンターへも近い。

史跡「常呂遺跡」とは

常呂遺跡標識
 史跡「常呂遺跡」は、常呂川河口周辺からオホーツク海沿岸、サロマ湖東岸まで広がる大規模な遺跡です。この地区には多数の遺跡の存在が知られていますが、その中で特に保存状態が良好ないくつかの遺跡が「常呂遺跡」の名称で国指定史跡となっています。史跡「常呂遺跡」とは1箇所の遺跡ではなく、これらの遺跡の総称ということになります。
 史跡「常呂遺跡」の特色の1つはその地形の保存状態にあります。「常呂遺跡」では、大昔、この地域に住んだ人々がつくった竪穴住居の跡が、現在でも確認できる状態で地面に窪みとなって数多く残っているのです。こうした竪穴の跡と見られる窪みが史跡「常呂遺跡」の範囲全体で合計約2700基見つかっています。このような形で古い竪穴の跡が残ることは、北海道をはじめとする寒冷な地方ではしばしば見られることですが、史跡「常呂遺跡」のように広大な面積にわたり多数の竪穴跡が残されている事例は貴重です。さらに、かつて北海道で栄えた独特の文化である、擦文文化とオホーツク文化の遺跡が見つかっており、両者の関係を探る上でも重要な遺跡であることが認められました。こうした理由から「常呂遺跡」は国指定史跡として保護されています。
 「常呂遺跡」は一部が「ところ遺跡の森」として整備・公開されていますが、大部分は大きな改変を受けることなく保護されており、現在でも発見当時の面影を見ることができます。

史跡「常呂遺跡」の範囲と構成遺跡

 史跡「常呂遺跡」は、以下の4つの地区から構成されています。4つの地区を合わせた国指定史跡の範囲の面積は約128ヘクタールに及びます。
史跡「常呂遺跡」地図
 史跡「常呂遺跡」は昭和49(1974)年に国史跡の指定を受けました。このとき指定されたのは4つの地区のうち常呂竪穴群(A)、栄浦第二遺跡(Bの大部分)の2地区です。このとき史跡指定された地区では合わせて約2500基の竪穴の跡が見つかっており、史跡の中核をなす地区となっています。
 その後、史跡指定区域は3次にわたって追加がおこなわれました。昭和62(1987)年には栄浦第一遺跡を含む地区(Bの西側部分)が史跡に追加されました。続いて平成2(1990)年にはC.岐阜台地西部竪穴住居群地点が史跡に追加されました。この地区は「ところ遺跡の森」として整備・公開されています。さらに平成14(2002)年にD.常呂川右岸台地竪穴群地点(トコロチャシ跡遺跡群)が追加して史跡の指定を受けました。この地区では竪穴住居以外にアイヌ文化のチャシ跡も残っています。
 

史跡「常呂遺跡」と世界遺産

  国指定史跡である常呂遺跡は、2004(平成16)年、「オホーツク沿岸の古代遺跡群」の一部として北海道遺産にも選定されました。
  さらに2007(平成19)年、北見市は北海道・標津町と共同で「世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る以下の提案書」を文化庁に提出しました。審査の結果、「世界文化遺産暫定一覧表記載候補の文化資産」として位置づけられました。これは「世界遺産推薦候補の候補」ということになります。
 北見市では今後とも、史跡の価値をPRする活動を続けていきます。

イメージ

転載元: 北海道に行きたいな


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