Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である

$
0
0


インカ帝国

   
タワンティン・スウユ
Tawantin Suyu
クスコ王国
チムー王国
コジャ王国
カニャーリ
1438年 - 1533年
インカ帝国の国旗
(国旗)
国の標語: Ama llulla. Ama suwa. Ama qella.
ケチュア語: 嘘を付くな。盗むな。怠けるな。)
インカ帝国の位置
公用語首都通貨
ケチュア語
クスコ
皇帝
1438年 - 1471年1471年 - 1493年1493年 - 1527年1527年 - 1532年1532年 - 1533年
パチャクテク
トゥパク・インカ・ユパンキ
ワイナ・カパック
ワスカル
アタワルパ
面積
1527年
2,000,000km²
人口
1527年
20,000,000人
変遷
パチャクテクの即位スペイン人による征服
1438年
1533年
なし
先代次代
クスコ王国クスコ王国
チムー王国チムー王国
コジャ王国コジャ王国
カニャーリカニャーリ
新インカ帝国新インカ帝国
ビルカバンバビルカバンバ
スペイン植民地時代のペルー#スペイン植民地時代(1542年-1824年)スペイン植民地時代のペルー#スペイン植民地時代(1542年-1824年)
ヌエバ・カスティーリャヌエバ・カスティーリャ
ヌエバ・トレドヌエバ・トレド
ペルー副王領ペルー副王領

インカ帝国(インカていこく、スペイン語Imperio Incaケチュア語タワンティン・スウユTawantin Suyu, Tahuantinsuyu))は、南アメリカペルーボリビアチチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。文字を持たない社会そして文明であった。

首都はクスコ世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年、クスコの市街地は世界遺産となった。

前身となるクスコ王国13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年スペイン人コンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。

インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコグアテマラアステカ文明マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道路網スペイン語版英語版を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。

インカ帝国は、被征服民族については比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。

歴史

考古学期 ・ アンデス文明

アンデス文明はおそらくBP約9,500年(約紀元前7500年)ころまでに始まったと考えられている。

インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。

平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上となった。

アンデスの研究者らは、約500年間にわたり偉大な国家権力の行政資本と儀式により栄えたチチカカ湖地方のティワナクをインカ帝国の最も重要なさきがけ(プレ・インカ)のひとつとして認識している[1]

クスコ王国(12世紀頃–1438年)

クスコの位置
ケチュア族は、12世紀頃にクスコへ移住し、インカ族として成立した。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ(ケチュア語Qusqu'Qosqo)に小規模の都市国家を築いた。

彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃までと想定されている。インカ以前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。

彼らは先行する文化(ワリ帝国スペイン語版英語版、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。

タワンティンスウユ(1438年–1527年)


インカは中央高原地帯のクスコで起こり、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した。彼らの高地における資産は、リャマアルパカビクーニャに限定されていた。

インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。

インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。

しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。

インカの拡大(1438年–1527年)

インカ帝国の拡張は、おそらくその気候条件の結果である。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧投石器ランス投げ弓矢、皮革で覆った木製の、綿或いは竹製の刺し子により武装した。

攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。

インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。


パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。

多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。

チチカカ湖地方の征服・アイマラ諸王国とコジャ王国

1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。

パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。
1445年、第9代パチャクテクは、チチカカ湖地方の征服を始めた。

北征・チムー王国の征服

ワイナ・カパック

パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは1463年北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であったチムー王国に対するそれであった。

トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。彼は既存の文化、特にチムー文化の様式を、発展させ取り入れた。
トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であったワイナ・カパックは、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた。

南征・マプチェ族の抵抗

帝国の南進は、マプチェ族による大規模な抵抗に遭ったマウレの戦いスペイン語版英語版の後に停止した。最盛期のインカ帝国の領域は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分を含み、また、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。

しかし、帝国南部の大部分(コジャ・スウユと命名された地方)は砂漠(アタカマ砂漠アタカマ塩原など)による不毛地帯であった。

国家の再編とその構成・四つの邦

『インカの失われた都』マチュ・ピチュの風景

パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西のチンチャイ・スウユスペイン語版英語版、北東のアンティ・スウユスペイン語版英語版、南西のクンティ・スウユスペイン語版英語版、南東のコジャ・スウユスペイン語版英語版)とから成り立つ連邦制であった[2]

パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地としてマチュ・ピチュを建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。

内戦とスペインによる征服

我々は、そこがとても美しく、スペインにおいても注目されるであろうほど素晴らしい建築物が存在することを陛下に得心させうる。
天然痘はスペイン人の侵略者たちが最初に帝国に達するより前にコロンビアから急速に広まった[

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles