先コロンブス期
1492年のクリストヴァン・コロンボのアメリカ大陸到達以前(先コロンブス期)において、現在のブラジルに相当する地域には、遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営むトゥピ族・グアラニー族・アラワク族系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インド人)[註釈 2]と名づけられる人々が暮らしていた。
一般に、先住民(現在生きている先住民含む)は、原始共同体[註釈 3]のもとで生活していた。
ポルトガル人到来直前の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている[1]。
ポルトガル植民地時代(1500年-1808年)
「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
パウ・ブラジルの時代[ソースを編集]
1500年4月22日、インド洋に向かっていたポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」[註釈 4]と名付けた[2]。カブラルが上陸したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている[2]。「サルとオウム」しかいなかったこの地は、トルデシリャス条約に基づいてポルトガルに帰属することとされたものの、その後暫くは開発が進むことはなかった[3]。
1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジル(葡: pau-brasil - 和名: ブラジルボク/ブラジル木)[註釈 5]が王室専売とされ、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人[4])のフェルナン・デ・ロローニャ(葡: Fernão de Loronha[5])に専売権が与えられた[6]。ポルトガル人は沿岸部に商館を建設し、1504年には貴金属を求めて、初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った[7]。
ブラジルには既に「インディオ」と呼ばれることになる多くの人々(先住民)が居住しており、現在ブラジル人であるとされるこれらの人々の歴史はポルトガル人の到来以前から始まっていたが、ブラジルの歴史はポルトガル人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめて「ブラジル人」と呼ばれることになったのは、このパウ・ブラジルの貿易に関わる商人達だったのである[7]。
このように、当初ポルトガル人はインディオとのパウ・ブラジル貿易のみを行っていたため、入植も交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半には早くも沿岸部のパウ・ブラジルが枯渇した[8]。パウ・ブラジルの枯渇後、ポルトガル人はパウ・ブラジルの伐採から貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532年には南西のパラグアイや西のペルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めてサン・ヴィセンテとピラチニンガの二つの町が建設された[9]。
1494年6月7日に締結されたトルデシリャス条約によるスペインとポルトガルによる新世界の分割を認めない立場から、フランス人がブラジルに侵入してくると、1534年にポルトガル王ジョアン3世はブラジルにカピタニア制(葡: Capitanias do Brasil)を導入し、15の世襲制カピタニア(Capitão-generalに統治される行政区画)に分割された[10]。カピタニア制の下でセズマリア(開発地)の集中からラティフンディオ(大私有地)が生まれたが、民間人に開発を任せるカピタニア制は2つのカピタニアを除いて失敗に終わり、1549年に総督制が導入された[11]。
砂糖の時代
1549年に、ヴァロワ朝フランス王国の侵入に対処するためにポルトガル王室はバイーアのサルヴァドールに総督府を置き、初代総督にはトメ・デ・ソウザが任命された。これにより、ブラジルの開発は第三段階に入った[12]。しかしフランス人の侵入は止まらず、1556年にフランスの新教徒ユグノー達が現在のグアナバラ湾周辺に南極フランスを建設した[13]。
フランス人は定着を望んだが、フランス本国の内乱(ユグノー戦争)もあってポルトガル人とインディオの同盟に敗れ、1567年に南極フランスはポルトガル領に編入された。その後もフランス人は1612年にマラニョンにサン・ルイスを建設して赤道フランスを築いたが、赤道フランスも3年でポルトガルに編入された。
パウ・ブラジルの枯渇後に商品として注目されたのは、鉱物の他には砂糖だった。1516年にマデイラ諸島からペルナンブーコに移植されたサトウキビ栽培は、1533年に初のエンジェニョ(葡: Engenho de açúcar、サトウキビ農園と製糖工場を併せたもの)が建設されたことを境に、エンジェニョでの黒人とインディオを利用した奴隷労働により北東部で栄え、一気に主要産業となっていった。
こうした奴隷はアフリカからの黒人奴隷の連行と、インディオを捕獲することで賄われたが、次第にインディオの数が足りなくなると、エントラーダ(遠征隊)は奥地に遠征し、奴隷狩りを行うようになった。イエズス会の修道士はアメリカ大陸でのカトリックの布教を、特に現在のパラグアイ、アルゼンチン北東部、ボリビア東部、ウルグアイ、ブラジル南部に居住するグアラニー族に対して行ったが、1560年に創設されたサンパウロ・デ・ピラチニンガ(葡: São Paulo dos Campos de Piratininga)に居住するパウリスタスのエントラーダ(奥地探検隊)であるバンデイランテスは好んでイエズス会の布教村を襲い、多くのトゥピ・グアラニー系インディオを奴隷として売却した。バンデイランテスの活動地はパラグアイにまで及んだ。
また、砂糖プランテーションの労働力がインディオの奴隷だけでは足りなくなると、ポルトガル人は既に15世紀からマデイラ諸島で行っていたように、西アフリカのセネガンビア(現在のセネガルとガンビア)や黄金海岸(現在のガーナ)や奴隷海岸(現在のベナンとナイジェリア)、及びアフリカ中部のコンゴ、アンゴラ、更には東アフリカのモサンビークから、マンディンゴ人、ハウサ人、アシャンティ人、ヨルバ人、フォン人、コンゴ人、キンブンド人、オヴィンブンド人など、多種多様なアフリカの人々を奴隷としてブラジルに連行した。また、こうして渡来したポルトガル人の多くはインディオや黒人と性交渉を持ち、ムラート(葡: Mulato、マメルーコ - 奴隷とも)と呼ばれる多くの混血者が生まれることになった。
こうしてブラジルは他のポルトガル領の植民地であるゴアやマカオとは異なった商品作物の生産を軸とする開発型植民地となった。しかし、植民地であるが故に本国と競合する産品の生産や、自律的な工業化は許されず、重商主義的な本国経済を補完するための極めて歪なモノカルチャー経済が成立することになった[14]。さらに、ブラジルやポルトガルの商人は奴隷貿易で莫大な利益を上げていたが、このようにして成立した経済構造においてその富はブラジルには還流されなかった[15]。こうして植民地期のブラジル経済はポルトガルへの従属経済となり、これ以降19世紀末までブラジルの経済は外国市場と結びついた奴隷制プランテーション農業に規定されることになった。
この時期にはエンジェニョと農村が発展し、都市の開発はイスパノアメリカ植民地に比べると遅れたが、わずかな都市にはポルトガルからの新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)が多く住み着いた。17世紀前半にはサトウキビ農園は現在のパライーバ州からセルジペ州までの沿岸地帯一帯に拡大し、このエンジョニョを基盤とする経済構造は、イスパノアメリカ諸国の文化が都市的であることに比べて、ブラジルの文化が農村的であることに大きな影響を与えている。
サトウキビ産業と共に牧畜も開始された。北部、中央部の牧民はヴァケイロ(葡: vaqueiro)と呼ばれたが、現在のリオ・グランデ・ド・スル州のような最南部の牧民はスペイン、ラ・プラタ地域の影響を受け、ガウーショ(葡: Gaúcho[16])と呼ばれるようになった。
1580年にスペイン・ハプスブルク朝のフェリペ2世の王冠の下でポルトガルがスペインと合同した頃、スペインからの独立を巡って戦いを続けていたネーデルラントのユトレヒト同盟が1581年にネーデルラント連邦共和国として独立を宣言し、この対立の構図を引き継いでオランダ人が新たにハプスブルク帝国領となったブラジルに侵入した。
1609年にスペイン・オランダ両国間に12年間の休戦条約が結ばれたものの、条約が失効した後の1621年にオランダ人はアフリカと南北アメリカ大陸の貿易、征服を行うことを目的としたオランダ西インド会社を設立した。1624年にはピート・ヘイン(蘭: Piet Hein)率いるオランダ西インド会社軍が北東部のサルヴァドールを占領した(オランダ・ポルトガル戦争