ブラジル
- ブラジル連邦共和国
- República Federativa do Brasil
(国旗) (国章) - 国の標語:Ordem e Progresso
(ポルトガル語: 秩序と進歩) - 国歌:ブラジルの国歌
- 公用語首都最大の都市独立
- 宣言
- 承認通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号ポルトガル語[注記 1] ブラジリア サンパウロ ポルトガルから
1822年9月7日
1825年8月29日レアル (BRL) UTC(-2 ~ -5)(DST:脚注を参照[注記 2]) BR / BRA .br 55 - ^実際に用いられているのは方言のブラジルポルトガル語である。
- ^なお、一部の州で夏時間を導入している。
ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく、ポルトガル語: República Federativa do Brasil)、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を占め、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(つまりチリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。
また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。その国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2(コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きく、インド・パキスタン・バングラデシュの三国を合わせた面積の約2倍に相当する。首都はブラジリア。
南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で7番目の経済規模でもある。
ブラジルは全体的に低緯度(北部は赤道直下)で、尚且つ海流等の影響もあり気候は大変温暖であり、ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。
国名
正式名称は、ポルトガル語で República Federativa do Brasil(ヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ)。IPAでは、[xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw] 聞く 。通称 Brasil(ブラズィウ)。
公式の英語表記は Federative Republic of Brazil(フェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィル)。通称Brazil(ブラズィル)。 ポルトガル語では “Brasil” と綴られるが、英語では “Brazil” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasília と表記される。
日本語の表記はブラジル連邦共和国。通称ブラジル。漢字表記では伯剌西爾となり、伯と略される。1822年にブラジル帝国として独立し、1889年の共和革命以降はブラジル合衆共和国を国名としていたが、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。
国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名された。
ブラジルの歴史
以後の歴史はポルトガル領ブラジル植民地(1500年-1815年)及びポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国(1815年-1822年)時代、ポルトガルのブラガンサ王室皇太子を皇帝に推戴して独立した帝政時代(1822年-1889年)、帝政を打倒した共和政時代(1889年-現在)に大別される。
1532年、サン・ヴィセンテとピラチニンガに初めて恒久的な入植地が築かれた。16世紀から18世紀にかけてブラジルはポルトガルの植民地であり、「発見」初期にはブラジルの木、のちには沿岸部のプランテーションでのサトウキビの生産や、内陸部での黄金採掘が主な産業であった。この時期に沿岸部のインディオはほぼ絶滅し、労働力として大量の奴隷がアフリカから連行された。
先コロンブス期
1492年のクリストヴァン・コロンボのアメリカ大陸到達以前(先コロンブス期)において、現在のブラジルに相当する地域には、遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営むトゥピ族・グアラニー族・アラワク族系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インド人)[註釈 2]と名づけられる人々が暮らしていた。一般に、先住民(現在生きている先住民含む)は、原始共同体[註釈 3]のもとで生活していた。
ポルトガル人到来直前の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている[1]。
ポルトガル植民地時代(1500年-1808年)
「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
パウ・ブラジルの時代
1500年4月22日、インド洋に向かっていたポルトガルのペドロ・アルヴァレス・カブラルの船団は、未知の陸地に漂着し、これを「ヴェラ・クルス島」[註釈 4]と名付けた[2]。カブラルが上陸したのは現在のバイーア南部のポルト・セグーロだとされている[2]。
1503年にヨーロッパで需要のあった赤い染料「ブラジリン」を抽出できるパウ・ブラジル(葡: pau-brasil - 和名: ブラジルボク/ブラジル木)[註釈 5]が王室専売とされ、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人[4])のフェルナン・デ・ロローニャ(葡: Fernão de Loronha[5])に専売権が与えられた[6]。ポルトガル人は沿岸部に商館を建設し、1504年には貴金属を求めて、初の内陸部への「奥地探検」(エントラーダ)を行った[7]。
ブラジルには既に「インディオ」と呼ばれることになる多くの人々(先住民)が居住しており、現在ブラジル人であるとされるこれらの人々の歴史はポルトガル人の到来以前から始まっていたが、ブラジルの歴史はポルトガル人の到来によって大きく変わった。歴史上はじめて「ブラジル人」と呼ばれることになったのは、このパウ・ブラジルの貿易に関わる商人達だったのである[7]。
このように、当初ポルトガル人はインディオとのパウ・ブラジル貿易のみを行っていたため、入植も交易拠点となるフェイトリアの建設が主だったが、16世紀前半には早くも沿岸部のパウ・ブラジルが枯渇した[8]。パウ・ブラジルの枯渇後、ポルトガル人はパウ・ブラジルの伐採から貴金属の採掘にブラジル植民地の目的を変え、1532年には南西のパラグアイや西のペルー方面に存在すると考えられた鉱山を探すために、ブラジルで初めてサン・ヴィセンテとピラチニンガの二つの町が建設された[9]。