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律令制下の若越 奈良・平安初期の対外交流 渤海使の来航と縁海諸国の対応 使節のメンバー 八世紀の事例

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律令制下の若越
 第五節 奈良・平安初期の対外交流
   一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      使節のメンバー

来航した渤海使のメンバーが具体的にわかる咸和十一年(承和八年、八四一)閏九月二十五日付「渤海国中台省牒案」(壬生家文書)によれば、一行は総勢一〇五人で使頭一人、副使一人、判官二人、録事三人、訳語二人、史生二人、天文生一人、大首領六五人、梢工二八人という構成であった。国史などによってもこれらのメンバーの存在が認められるほか、医師(一人)が加わったケースもあった。

渤海使は初めのころは二三人から二四人くらいの小規模であったが、そののち、三〇〇人を越える一行が来航したこともあり、弘仁年間ごろから一〇〇人から一〇五人の間に定着し、一〇五人が最も多いことから、これが定員かと想定される(船の数は二艘程度か)。このうち、使頭は大使のことである。大使は天平宝字二年(七五八)までは武官(武散官)が任命されたが、天平宝字六年以降は二例を除き、文官(文散官)が任命されるようになる(石井前掲論文)。副使は大使の次席で、判官は三等官、録事は書記官に相当し、訳語は通訳であり、史生は諸々の雑事にあたったらしい。



天文生は、羅針盤などがない当時、航海の際に天文の知識により航路を定めたり気象を予測したりする役目を担当していた。首領とは交易を目的に来航した商人的性格を帯びた靺鞨諸族の地方の首長たちである。また、梢工とは舵取りの船員のことである。
写真73 「渤海国中台省牒案」

写真73 「渤海国中台省牒案」

 さて、このようなメンバーのうち全員が入京できたかどうかははっきりしない。しかし、後述する宝亀七年の場合、遭難して生存者が四六人あったが、その内三〇人しか入京を許可されなかったため全員の入京を要請し、漸く認められていることからして、通常のケースは来航した全員が入京できたとは考えにくい。
首領や梢工の大部分は縁海国に滞在したと思われる。なお、参考までに日本から派遣された遣渤海使の構成は『延喜式』大蔵省によれば、入渤海使(大使)・判官・録事・訳語・主神・医師・陰陽師・史生・船師・射手・卜部・雑使・船工・師・人・挟杪・水手がいた。陰陽師が渤海使の天文生に、船師・船工・師・挟杪・水手らが渤海使の梢工に対応しよう。

二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
      八世紀の事例

この項では、若狭・越前両国が渤海使および遣渤海使に関連して文献史料に現われる具体的な事柄を中心に、時代を追ってその対応を述べることにする。なお、数字は表35(渤海使の来航・帰国表)36の渤海使・遣渤海使の回数である。

 天平二年(七三〇) まず、遣渤海使が帰国したケースであるが、天平二年「越前国大税帳」(公二)の加賀郡条によれば、「渤海郡の使人を送る使らの食料五拾斛」とある。高斉徳らを送った引田虫麻呂らは天平二年八月二十九日に帰国するが、稲五〇斛(石)の支出はその一行を供給した経費である。
  来航地は不明であるが、加賀郡に帰着した可能性も十分ある。他の郡の記載がみえないのは残念だが、帰国した遣渤海使を逓送した加賀郡以南の路次の各郡も同様な負担があったと思われる。遣渤海使が単独で帰国したり、派遣されたケースは少ないが、このような場合も越前国の負担が予想されていた。

表36 遣渤海使の出航・帰国表

表36 遣渤海使の出航・帰国表
写真74 三国湊

写真74 三国湊



 天平勝宝四年(七五二) 九月二十四日、渤海使慕施蒙ら七五人が越後国佐渡嶋に来航した。そののち、十月七日に左大史の坂上老人らが越後国に派遣され、消息を問わせている。慕施蒙らは翌年五月二十五日、京で拝朝し、信物を献上している。
  入京の経緯はみえないが、おそらく渤海使は越後国より北陸道を経て入京したと想定されるので、その際、渤海使は越前国を通過し、供給と逓送とを受けたと思われる。



 天平宝字二年(七五八) 『万葉集』二〇―四五一四の題詞などによれば、藤原仲麻呂の私邸で餞別の宴が行われた二月十日以降、ほどなく、渤海に向けて日本を出発したと思われる遣渤海大使小野田守らの一行六八人は、九月十八日に渤海大使揚承慶ら二三人を伴って日本に帰国し、渤海使は越前国に安置された。
  この時、安置の場所のみで来航の地点は正確には不明であるが、越前国か能登国と思われる。渤海使らは十二月二十四日に入京するが、それまで約三か月ほど越前国内に滞在し、その間、渤海使への供給が越前国で行われたと思われる。



 天平宝字三年 正月三十日に任命された遣唐大使藤原清河を迎える使(迎使)の高元度らは、渤海使揚承慶らとともに渤海に向かい、そののち、唐に赴いたが、渤海使は先に述べたように越前国に来航したので、おそらくはその出港も越前国と想定される。渤海使の対応とともに遣唐使の出港の準備も越前国が行った可能性がある。



 天平宝字六年 天平宝字六年「造石山寺所食物用帳」によれば、三月二十八日以降に高麗大山を大使として日本を出発した遣渤海使は、十月一日に渤海使王新福ら二三人を伴い帰国し、渤海使らは越前国加賀郡において安置・供給される。しかし高麗大山は船中で病をえて、「佐利翼津」に到着後、死去した。「佐利翼津」は越前国加賀郡内に求める説と出羽国避翼(山形県最上郡舟形町付近)に比定する説がある。越前国内とすると、「さりはね」の地名がのこっておらず、具体的な比定地は不明であり、出羽国とすると、最初の来航地は越前国内ではないことになるが、次に述べるように出羽国に来航した場合、常陸国へ安置されている例もあり、入京の際に北陸道を通るとは限らず、また避翼は内陸部になり両説とも難点を抱えている。ここではその当否はともかく、渤海使は越前国加賀郡に安置されたあと、閏十二月十九日に入京しているので、三か月余り越前国内に渤海使は滞在したらしい。



 宝亀三年(七七二) 前年宝亀二年六月二十七日に出羽国の賊地野代湊に来航した壱万福ら三二五人は常陸国に安置・供給され(東海道経由か)、十二月二十一日に入京する。そののち、帰国に際して、壱万福らを送る「送渤海客使」武生鳥守は宝亀三年九月ごろに出港するが、暴風にあい、能登国に漂着し福良津に安置される。この時、最初の出港地は不明であるが、越前国か能登国かと考えられ、いずれにしろ壱万福および武生鳥守らは越前国を通過したと思われる。
  なお送渤海使の武生鳥守は宝亀四年十月十三日に無事帰国し(時に正六位上、姓は連)、その後の天応元年(七八一)四月十五日、桓武天皇の即位叙位で外従五位下に叙されている。これ以外に武生鳥守に関する記事はないが、『続日本紀』天平神護元年(七六五)十二月五日条に右京の人外従五位下馬登国人、河内国古市郡の人正六位上馬登益人ら四四人に武生連の姓を賜わったとあり、『続日本紀』延暦十年(七九一)四月八日条と『新撰姓氏録』左京諸蕃上などによれば、武生氏は延暦十年に宿と改賜姓された百済系渡来人(王仁の後裔氏族)で、河内国古市郡が本拠地と考えられている。

  さて、武生氏というと、現在の武生市との関係が注目される。武生という地名は、『源氏物語』浮舟に「たとえ武生の国府にうつろい給うとも」、催馬楽に「みちのくち 武生の国府」とあるように、平安中期から院政期には認められる古い地名である(現在の武生の地名は明治以降の命名であり、国府があったことから、中世では長く府中とよばれた)。武生鳥守が正六位上から外従五位下に昇進していることなどから、畿内の豪族および官人とするよりは、越前国の国府があった現在の武生市周辺の郡司クラスの豪族出身、すなわち武生鳥守の本貫地(出身地)を越前国の国府があった武生市近辺に求められるかもしれない。
 しかし武生という地名が奈良時代までさかのぼるという確実な史料はほかにはなく、憶測の域を免れないことも事実である。その当否はともかく、渤海使を送る船に乗り大陸に渡った越前国出身の梶取や水手などが存在した可能性は十分ありうる。

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 宝亀七年 この年の冬、渤海国使史都蒙ら一八七人(一説には一六六人)は、光仁天皇の即位の賀と渤海国王(文王・欽茂)の王妃の喪を告げるため、渤海の南海府吐号浦を出発した。
 南海府は渤海の五京の一つ南京で、朝鮮の咸鏡南道北清または咸興にあてる説があり、最近、北清から南京南海府跡とされる土城跡が発掘されている(河上洋「渤海の交通路と五京」『史林』七二―六)。
 
 一行は宝亀四年に大宰府への来航を義務づけられたため、対馬の「竹室之津」(長崎県下県郡美津島町竹敷)をめざすが、その途中悪風のため目標とする航路を失い、越前国の沿岸に至り、着岸を目前にしてが折れ帆が落ちて漂流し、十二月二十二日に加賀郡と江沼郡に漂着した。
  この遭難により生存者四六名は加賀郡に安置され供給をうけた。翌宝亀八年二月二十日に大使史都蒙ら三〇人の入京が許されるが、史都蒙の願いにより四六人全員の入京が許された。

  この間、一行は約三か月、越前国内に滞在し供給をうけている。なお、この時、一四一人もの人命が失われる惨事となったが(『続日本紀』宝亀八年二月二十日条によると犠牲者は一二〇人)、溺死して江沼郡・加賀郡に漂着した渤海使人三〇人の遺体は宝亀九年四月三十日、越前国に埋葬が命じられている。
  その所在がどこであるかは不明だが、越前国(のちの加賀国か)には異国の地に派遣され、そこで亡くなった渤海人が埋葬されているのである。



10 宝亀九年 前年宝亀八年の五月二十三日以降のことと思われるが、史都蒙らを送るため渤海に向かった高麗殿嗣らは、航海の途中航路を失い、渤海の辺境地帯「遠夷の境」に漂着し、船は破損したものの、なんとか使命を達したようで、この年(宝亀九年)の九月二十一日に渤海の送使張仙寿に送られ越前国坂井郡三国湊に船二艘で来航した。遣渤海使と渤海使は「便処」に安置され供給を受けたとされる。

 「便処」とは具体的には不明だが、坂井郡の郡衙(郡家)などであろうか。確実に現在の福井県内に来航したとわかる初めてのケースである。殿嗣は一人だけ一行より先に入京しているが(十月六日に叙位されており、この時までに入京していた)、渤海使は翌宝亀十年正月一日の元日朝賀の儀に参列している。おそらく十二月下旬ごろには入京したと思われ、約三か月ほど越前国内に滞在したらしい。


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