宝塚古墳 (松阪市)
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宝塚1号墳から出土した日本最大の船形埴輪
お問い合わせ先電話番号:0598-26-7330
公開日:2012年6月1日
日本最大、唯一立体的な飾りをもつ船形埴輪
宝塚1号墳の発掘調査では、古墳のマツリの場とされる「造り出し」の周囲からたくさんの埴輪がみつかりました。とりわけ、船形埴輪は第一級の埴輪資料の発見として、全国的な話題となりました。
宝塚1号墳出土 船形埴輪
宝塚1号墳の発掘調査でみつかった船形埴輪は、ほぼ完全な形で復元することができました。船形埴輪は、大阪府や奈良県をはじめとして全国各地でみつかっています。しかし、宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ90cm、最大幅25cmと、これまでにみつかっているものの中では最大規模のものです。
さらに特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾がほどこされていることがあげられます。船首と船尾には、権威を象徴する複数の鰭(ひれ)状突起で飾られています。また、船体中央には同じく権威を象徴する蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘、王のもつ杖とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀(たち)が立てられていました。このような装飾がほどこされた船は、古墳石室に描かれた壁画、円筒埴輪に描かれた線画で知られていましたが、立体的な形で確認されたのは、今回が初めてとなります。この発見は、古代の葬送儀式で使われた船は権威を示す様々な品物を船上に立てて飾る風習を立体として表現したものとして、学術的に最高水準の資料であると評価されています。
船形埴輪 各部分の名称
この船形埴輪をくわしく観察すると、表面のくぼみに赤色の塗料(ベンガラ)が残っていることがわかりました。このことから、造られた当時の船形埴輪は赤色に塗られていたと考えられます。昔から、赤色には「神聖なものを護り、邪悪なものを退ける」力があると考えられていました。船形埴輪に塗られた赤色は、宝塚古墳に葬られた人物の魂が何者にもじゃまされず黄泉(よみ)の国【死後の世界】へ旅たつことができるようにとの願いが込められていたのかもしれません。
【参考資料】東殿塚古墳(奈良県天理市)から出土した 円筒埴輪に描かれた船(トレース図)
埴輪からかいまみる古墳時代の船
大木を半分に割って中をくりぬいた、丸木舟と呼ばれる船は、縄文時代から使われていました。弥生時代になると、丸木舟を土台としてその上部に部材を足して大型化を図った「準構造船」が造られるようになりました。
宝塚古墳が造られた、およそ1600年前の古墳時代中期にも準構造船が使われていました。この船は、大きな波も乗り越えられるように船首と船尾が大きくせりあがった形をしており、波の荒い外海での航海も可能でした。船を進める艪(ろ)を差し込むピボットは、左右3対ずつ計6ヵ所あり、艪穴は一定方向に開けられており、船が進む方向もわかりました。ただし、宝塚1号墳の船は船首・船尾のせりあがりが極端であること、ピボットの数が少ないこと、船体中央に立てられた飾りも大きくつくられていることなどから、実際の船の形を忠実に再現したものではありませんが、当時使われていた船の構造などを研究する上で貴重な資料であるといえるでしょう。
「船形埴輪」をはじめとする宝塚1号墳出土品が国重要文化財に指定されました
国の文化審議会は、平成18年3月17日に開催された「文化審議会文化財分科会」の審議を経て、「宝塚1号墳出土品」を重要文化財に新規指定することについて文部科学大臣に答申、平成18年6月9日、文部科学省告示第79号により船形埴輪をはじめとする宝塚1号墳出土品は、一括して国重要文化財に指定されました。
170点からなる宝塚1号墳出土品は、伊勢地域最大の前方後円墳である国史跡 宝塚1号墳(全長111m)の墳丘及び造り出しから、当時の埴輪配列の全体像を保った良好な状態で出土しました。とりわけ、大型の埴輪船は、立体的な立ち飾りをもつ他に類例のないものであり、美術的にも大変優れた造形物です。これらの出土品は、古墳時代における首長の葬送儀礼を考えるうえで重要な意味を持つ埴輪資料です。さらに、遺物包含層から出土した埴輪・土器・土製品101点が附(つけたり)として加えられた結果、合計271点が国重要文化財の指定をうけました。
三重県宝塚一号墳出土品 (271点) 平成18年6月9日指定
一、埴輪船 一点
一、埴輪 百十九点 (以上 造り出し出土)
一、埴輪 五十点 (以上 墳丘出土)
附 埴輪 九十点
土器・土製品 十一点 (以上 包含層出土)
その後、国重要文化財「宝塚一号墳出土品」のうち、家形埴輪は解体修理の結果員数変更が生じ、平成23年3月18日の文化庁通知を経て、点数が下記のとおり276点に改められました。
三重県宝塚一号墳出土品 (276点) 平成23年6月27日員数変更
一、埴輪船 一点
一、埴輪 百十九点 (以上 造り出し出土)
一、埴輪 五十点 (以上 墳丘出土)
附 埴輪 九十五点
土器・土製品 十一点 (以上 包含層出土)
重要文化財に指定されたさまざまな埴輪(左から順に 囲(カコイ)形、家形、蓋(キヌガサ)形、甲冑(カッチュウ)形、盾形)
重要文化財に指定されたさまざまな埴輪(左から順に 柱状、壷形、二重口縁壺形、円筒)
船形埴輪をはじめとする「宝塚1号墳出土品」は、松阪市民だけでなく国民全体の貴重な宝・財産として、後世まで大切にまもり伝えていかなければなりません。
現在、宝塚1号墳出土品は松阪市文化財センターで収蔵され、その一部は博物館施設「はにわ館」で公開しています。お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
はにわ館へのアクセス
●松阪駅から
鈴の音バス「市街地循環線 左回り」乗車 約10分 『市民文化会館』下車すぐ
三重交通バス「松阪中央病院行き」乗車 約10分 『文化会館』下車徒歩5分
タクシー 約10分
■伊勢自動車道松阪インターから
車で約10分
地図情報
1号墳
宝塚古墳1号墳 | |
三重県松阪市宝塚町・光町 | |
北緯34度32分59.63秒 東経136度30分55.38秒 | |
前方後円墳 | |
全長111m | |
5世紀初頭 | |
伝・乙加豆知命 | |
埴輪ほか(国の重要文化財) | |
1932年(昭和7年)国の史跡 | |
この地の豪族であった飯高氏の祖先の乙加豆知命(おとかずちのみこと)の墓とする説がある。墓の北西約1キロメートルにある阿形を本拠地とした飯高氏は、大和朝廷に接近することで繁栄したと考えられている。平安時代には衰退したものの、松阪市飯高町にその名を残している。
松阪市と松阪市教育委員会を主体として1999年(平成11年)6月 - 2000年(平成12年)3月に発掘調査が行われた。調査結果を以下に列記する。
- 調査前は100メートルと考えられていた全長が111メートルであることが確認された。伊勢地方(旧伊勢国)最大である。
- 古墳時代中期初頭(5世紀初頭ごろ)の築造の首長墓であると考えられる。
- 墳丘は前方部を東に向けて造成されている。この前方部の北側には、祭事の場であったと考えられている方形台状の「造り出し」が設けられ、「造り出し」と前方部の間を繋ぐ橋状の通路が日本で初めて確認された。この通路は「土橋(どばし)」と呼ばれている。この「造り出し」部と土橋の周囲で円筒埴輪列と多くの形象埴輪が出土した。
- 畿内以外の地域では珍しく円筒・朝顔形の円筒埴輪、船形・盾形・家形・靫形・囲形・甲冑形・蓋形・大刀形などの豊富な種類の形象埴輪が出土した。
対岸にあたる三河湾岸愛知県西尾市の正法寺古墳も本古墳と類似した形状をしており、両古墳は、伊勢湾、三河湾などの水上交通で覇権を得て、強大な勢力を有した関西系豪族により作られたものとみられる[2][3]。
船形埴輪
この調査で土橋の西側から出土した船形埴輪は、全長140センチメートル、高さ90センチメートルとそれまでに出土した中では日本最大であると同時に独特の装飾がなされていたため第1級の埴輪資料であるとされ、2006年(平成18年)6月9日に他の1号墳からの出土品と併せて国の重要文化財に指定された。指定対象は造り出し付近出土の埴輪120点(船形埴輪を含む)と墳丘出土の埴輪50点であり、包含層出土の埴輪90点と土器11点が附(つけたり)指定となっている[4]。この発掘調査ののち、当時を想定し埴輪の模型を並べるなどの整備が行われ、2005年(平成17年)4月27日に「宝塚古墳公園」となり一般に公開されている。
2号墳
宝塚古墳2号墳 | |
三重県松阪市宝塚町 | |
北緯34度33分3.78秒 東経136度30分54.75秒 | |
帆立貝式古墳 | |
全長90m、高さ10.5m | |
5世紀 | |
埴輪 | |
1932年(昭和7年)国の史跡 | |
1号墳の北に位置する全長90メートルの前方後円墳である。前方部が極端に小さいため帆立貝式古墳と呼ばれる。1号墳より後に築造されたと考えられている。当初は円墳とみなされていたが、のちに帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。1号墳と同様、1932年に国の史跡に指定されたが、墳丘が史跡指定範囲外にも広がっていることが判明したため、1978年に指定範囲を拡大して国の史跡に追加指定された。
後円部は径89メートル、高さ10.5メートルで、前方部は幅約40メートル、長さ17メートル、高さ2.9メートルである。2号墳も周囲に埴輪が並べられていたことが確認された。墳丘の一部が当初史跡として指定した範囲外に及んでいたため、1969年(昭和44年)に一部が宅地として造成されたり、前方部が道路になってしまうなどの損傷を受けている。