【日本史】飛鳥①仏教伝来と蘇我氏・物部氏
飛鳥時代
日本の歴史
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飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる。
狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
名称
現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来する。「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。1900年前後に、美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、関野は大化の改新までを、岡倉は平城京遷都までを飛鳥時代とした。日本史では通常、岡倉案のものを採用しているが、現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用。大化の改新以降を白鳳時代(はくほうじだい)として区別する事がある。
概要
推古朝
538年(宣化天皇3年)に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年(用明天皇2年)、天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。
物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。
607年(推古天皇15年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。
620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
舒明・皇極朝
聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは、舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に舒明天皇を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。
舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。
孝徳朝
新たに即位した孝徳天皇は、次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める[1]。650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。
天智朝
孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により皇位には就かず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。
663年(天智天皇2年)、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
わかる歴史【飛鳥時代】白村江の戦い
664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、百済人2000余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれている。
天武・持統朝
天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。
681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没する。8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。
持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。
中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国・郡・里制が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。
飛鳥・白鳳文化
年表
- 531年(継体天皇25年) - 欽明天皇即位する。
- 535年(安閑天皇2年) - 屯倉(みやけ)を多く置く。
- 538年(宣化天皇3年) - 仏教伝来(公式に史書に記載されている時期として)
- 540年(欽明天皇元年) - 秦人・漢人の戸籍を作る。
- 552年(欽明天皇13年) - 仏像の礼拝を群臣に問う。
- 571年(欽明天皇32年) - 欽明天皇没する。
- 572年(敏達天皇元年) - 敏達天皇即位する。
- 585年(敏達天皇15年) 敏達天皇崩御
- 587年(用明天皇2年) - 仏教に帰依せんことを群臣に諮る。物部氏と蘇我氏対立し、蘇我氏勝つ。用明天皇没する。
- 588年(崇峻天皇元年) - 崇峻天皇即位する。
- 592年(崇峻天皇5年) - 崇峻天皇暗殺される。推古天皇即位。
- 593年(推古天皇元年)- 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となる。
- 600年(推古天皇8年) - 『隋書』によれば、倭国より遣使。
- 603年(推古天皇11年) 冠位十二階を制定する
- 604年(推古天皇12年) - 十七条憲法制定。
- 607年(推古天皇15年) -『日本書紀』によれば、初の遣隋使(大唐国と記載)。『隋書』では2回目と記載。
- 608年(推古天皇16年) -裴世清が答礼使として来日。
- 628年(推古天皇36年) - 推古天皇没する。遺詔を巡って群臣争う。
- 629年(舒明天皇元年) - 田村皇子即位し、舒明天皇となる。
- 645年(皇極天皇4年) - 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。蘇我蝦夷自殺する(乙巳の変)。軽皇子が即位。孝徳天皇となる。
- 646年(大化2年) - 改新の詔を宣する。(大化の改新)
- 654年(白雉5年) - 10月、孝徳天皇難波宮で没する。
- 655年(斉明天皇元年) - 1月、皇極天皇重祚し、斉明天皇となる。
- 663年(天智天皇2年) - 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)で大敗する。
- 670年(天智天皇9年) - 全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。
- 672年(弘文天皇元年・天武天皇元年) - 天智天皇没する。壬申の乱。飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)に遷る。
- 681年(天武天皇10年) - 飛鳥浄御原令の編纂を開始する。
- 690年(持統天皇4年) - 戸令により、庚寅年籍を作る。
- 694年(持統天皇8年) - 藤原京に都を移す。
- 697年(文武天皇元年) - 持統天皇譲位し、文武天皇即位する。
- 701年(大宝元年) - 大宝律令の撰定完成する。
- 707年(慶雲4年) - 文武天皇(25)没し、元明天皇即位する。
- 708年(和銅元年) - 武蔵国から銅を献上する。改元する。和同開珎を発行する。
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