アジア
カンボジア王国
Kingdom of Cambodia
平成28年4月4日
トピックス
- 岸田外務大臣発カンボジア新旧外務国際協力大臣宛書簡の発出(平成28年4月4日)
- 地外務大臣政務官とパー・ソチェットボン・カンボジア・プノンペン都知事との懇談(平成28年3月31日)
- 地外務大臣政務官の北九州訪問(平成28年3月30日)
- 地外務政務官のカンボジア訪問及び第6回バリ・プロセス地域閣僚会議出席(平成28年3月25日)
- カンボジアに対する円借款及び無償資金協力に関する交換公文の署名(平成28年3月21日)
- 地外務大臣政務官のカンボジア・インドネシア訪問(平成28年3月18日)
- 地雅一外務大臣政務官とオックセレイ・ソピアック・カンボジア政治評論家との懇談(平成28年3月17日)
- サイ・チュム・カンボジア上院議長による安倍総理大臣表敬(平成28年2月25日)
リンク
カンボジア
- カンボジア王国
- ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
(国旗) (国章) - 国の標語:
(クメール語:国民、信仰、国王) - 国歌:素晴らしき王国
- 公用語首都最大の都市通貨時間帯ISO 3166-1ccTLD国際電話番号
クメール語 プノンペン プノンペン リエル (KHR) UTC +7(DST:なし) KH / KHM .kh 855
カンボジア王国(カンボジアおうこく、クメール語: ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា)、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家。ASEAN加盟国、通貨はリエル、人口1,513万人、首都はプノンペン。
国名
正式名称は、クメール語でព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プレアは王の称号。リアチアは王、ナーチャックは国で、両方合わせたリアチアナーチャックは王国と言う意味。隣国のタイの正式名称とよく似ている。
公式の英語表記は、Kingdom of Cambodia(キングダム・ァヴ・カンボゥディア)。略称は、Cambodia。
日本語表記は、カンボジア王国、通称は、カンボジア。漢語表記は柬埔寨(広東語発音でGan-pou-chia[k],北京語発音でJien1-puu3-chai2)。カンボジアでは自分の国を「カンプチャ」と呼んでいて、建国者といわれるインドのバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来するとされる。
カンボジア華人の間では、高棉(漢語発音でGāo-mián)と呼ぶ人もいる。
有史以前
詳細は「有史以前のカンボジア(英語版)」を参照
古代
扶南王国
詳細は「扶南」を参照
中国の書物によると、1世紀ごろ、ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯に跨る地域に扶南(フナン)という王国があった。1942年フランス人考古学者ルイ・マルレ(フランス語版)によって、ベトナム南部アンザン省バテ山とその付近の港市跡オケオから、装身具や交易品多数が発掘された。当地の後背地では後期新石器時代から人々が居住していた。プレ・オケオ文化の土器や遺跡がアンザン省ゴーカイトゥン遺跡やロンアン省付近の遺跡から発見されており、そこから西方に拓かれていたカンボジア平原まで人々が居住し、往来があった。
真臘王国
詳細は「真臘」を参照
6世紀には、カンボジア国家の起源とみなされている国、すなわち中国史料にいう北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興した。この国は扶南の属国であったが、7世紀には扶南を滅ぼし、さらに真臘王イシャーナヴァルマン1世(フランス語版)(611年-635年)に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、ラヴォー王国(英語版)がロッブリーに出来た。[1]
真臘王国はジャヤーヴァルマン1世(フランス語版)(657年 - 681年)の治世の頃に最大となった。インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用したが、クメール文字も使われ始めた。真臘は、現在のカンボジアとラオス南部、つまりメコン川流域を領土としていたと推測されている。
シャイレーンドラ朝
しかし、ジャヤーヴァルマン1世の死後、古代カンボジアは、中国の記録に見える北の陸真臘(現在のラオスチャンパーサック県)と南の水真臘に分裂し弱体化し、8世紀には水真臘がシャイレーンドラ朝ジャワ王国の支配下に入った。シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、扶南のプノン(山)と関係があり、シャイレーンドラ朝とシュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で、扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。
中世
クメール王朝
詳細は「クメール王朝」を参照
シャイレーンドラ朝からの独立は、ジャヤーヴァルマン2世(英語版)(802年 - 854年)により行われた。ジャヤーヴァルマン2世はプノン・クレン丘陵の頂上で即位[2]を行い、シャイレーンドラ朝からの解放を宣言した。これがアンコール王朝(クメール王朝)の始まりである。9世紀の末、ヤショーヴァルマン1世(889 - 910年頃)がアンコールに新都城「ヤショーダラプラ(英語版)」[3](889-1190)を築いた。このときの勢力範囲は、現在の東北タイ地域まで広がっていた。その後何代かの王が続くが、勢力争いや逝去で、どの王朝も長くは続かなかった。
1113年、スールヤヴァルマン2世が即位し、国内各地の敵対勢力と戦い国内を統一、国外においても西方のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人と戦い、南隣のチャンパ王国や東隣の李朝へ攻め入った。王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及び、また、彼は寺院建築にも熱心で、クメール美術の最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノン、バンテアイ・サムレ(Banteay Samré)などのヒンドゥー教寺院を建築した。この王の治世も平穏安泰ではなかった。1150年頃死去した。
スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り争いが続いた。さらに1177年には、チャンパ王国の大軍が都であったヤショーダラプラを破壊した。
1181年、チャンパに遠征していたジャヤーヴァルマン7世が帰国し、即位した。彼は粘り強く国づくりを進め、1190年には宿敵チャンパを降伏させた。また、8メートルの高さの堅固な城壁の「輝ける新都城」アンコール・トム(1190-1431)を都として造成した。アンコール王朝の最盛期であった。熱心な大乗仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨンを建設し、バンテアイ・クデイ(Banteay Kdei)、1186年にタ・プローム(僧院)、1191年にプリヤ・カーンなどの仏教寺院を建設した。
また、ジャヤーヴァルマン7世は、国内に102箇所の病院と主要街道に宿場を建設し、庶民の生活も重視した。しかし、大規模な寺院建設と領土獲得の遠征のため、死後(1220年)は国力が衰退していったと考えられている。その後、インドラヴァルマン二世、ジャヤーヴァルマン8世(1243-1295)が継いだ。1283年にクビライのモンゴル帝国の軍がアンコール・トムに侵攻した。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。この治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン三世(英語版)がジャヤーヴァルマン8世を殺害し、王位に就いた。
カンボジアの暗黒時代
詳細は「カンボジアの暗黒時代(英語版)」を参照
スレイ・サントー(1431年 - 年)
1431年、シャムの度重なる侵攻により、首都アンコールが陥落し、栄光の時代は終わりを告げた。時の王ポニャー・ヤットはアンコール・トムからコンポンチャム州のスレイ・サントー(英語版)に遷都し、シャム(現在のタイ)に近いアンコールを含むトンレサップ湖の北部を放棄した。その後、首都は転々とした。
プノンペン(年 - 1553年)
詳細は「プノンペン」を参照
スレイ・サントーは河川の氾濫があまりにたびたび起こるのでプノンペンへ再遷都した。西洋の資料としては、1511年のポルトガル人による手記に記されるプノンペンがカンボジアについての最初の記録である。既に日本人との貿易が始まっていたことが記されている。
ロンヴェク(1553年 - 1618年)
詳細は「ロンヴェク(