扶桑略記
内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。
『扶桑略記』の特徴とその享受―仏教関連記事の検討から―
はじめに
中世は多くの歴史叙述が行われた時代である。たとえば歴史書に限っても、日本の始原を基点とする通史である『日本紀略』や『扶桑略記』、鎌倉幕府の公的歴史書という性格を持つ『吾妻鏡』、さらには類聚という院政期を代表する行為による『本朝世紀』など多様な内容のものがある。
このような歴史書については、これまで多くの研究がなされている。それらは主に、叙述
中世は多くの歴史叙述が行われた時代である。たとえば歴史書に限っても、日本の始原を基点とする通史である『日本紀略』や『扶桑略記』、鎌倉幕府の公的歴史書という性格を持つ『吾妻鏡』、さらには類聚という院政期を代表する行為による『本朝世紀』など多様な内容のものがある。
このような歴史書については、これまで多くの研究がなされている。それらは主に、叙述
の特徴を明らかにするものや、歴史史料として記事の内容を検討するものであった*
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しかし、それらの研究で検討の対象とされるテクストは、中世において書写されて流通し、各地の文庫に所蔵されていたのである。そのような中世における歴史書のおかれた状況を踏まえて、どのように享受され利用されたのかという視点からも歴史書の中世における位置付けを考察していくことが必要なのではないだろうか。 。これらの研究は、成立時期や編者などを明らかにしていることから基礎研究として重要であり、また歴史意識の特徴を指摘していることから思想史研究として看過できないものである。
中世における歴史書の代表的なものとして、院政期に成立した日本通史である『扶桑略記』が挙げられる。『扶桑略記』は神武天皇より堀河天皇に至る日本の歴史を記した史書である。本来三〇巻であったと考えられるが、現存は巻第二から第六、巻第二十から巻三十の十六巻と、神武天皇から平城天皇までの抄本が遺るのみであり、その多くが失われている。その伝本については堀越光信氏が検討を行っている。『国書総目録』に掲載される八十五の伝本のうち七十八本を検討した結果、(イ)真福寺本系、(ロ)高野山系、(ハ)多数巻残存本系、(ニ)混淆体本系、(ホ)抜書本系の五系統に分けることができるということである*2。それによると、どの系統であっても全巻揃っているもの存在せず、部分的に流布していたと考えられる。そのような流布・伝存の状況からは、テクストの統一的な性格を理由に受容されていたとは考え難い。たとえば、『扶桑略記』の特徴として末法観に基づいた歴史叙述ということが指摘されているが*3
本稿では、第一章と第二章で『扶桑略記』の特徴について分析する。第一章では、注記の分析をもとに、編者が特に関心を持っている点について検討を行う。第二章では、明らかとなった編者の関心点がどのように描かれているのかを分析する。次いで、第三章で『扶桑略記』が引用される際、その編者の関心点がどのように引き継がれているのかについて検討する。その際、『扶桑略記』は全貌が現在では不明であるため、その全体に言及することは難しい。そのためここでは、真福寺本系が巻二、三、五、六を残していることに注目し、巻第二から巻第六までを『扶桑略記』前半として検討の対象とする。 、そのような歴史書として受容されていたのであろうか。この『扶桑略記』の受容という問題を検討することから、『扶桑略記』の中世における位置付けについて考察していきたい。
予め結論を述べると、『扶桑略記』は仏教史としての特徴を有しており、また、諸説を併記するところに特色がある。しかし、その『扶桑略記』が受容される際には、必ずしも仏教史としての特徴が受容されたわけではなく、歴史についての諸説を類聚した資料集として用いられた可能性を指摘したい。
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しかし、それらの研究で検討の対象とされるテクストは、中世において書写されて流通し、各地の文庫に所蔵されていたのである。そのような中世における歴史書のおかれた状況を踏まえて、どのように享受され利用されたのかという視点からも歴史書の中世における位置付けを考察していくことが必要なのではないだろうか。 。これらの研究は、成立時期や編者などを明らかにしていることから基礎研究として重要であり、また歴史意識の特徴を指摘していることから思想史研究として看過できないものである。
中世における歴史書の代表的なものとして、院政期に成立した日本通史である『扶桑略記』が挙げられる。『扶桑略記』は神武天皇より堀河天皇に至る日本の歴史を記した史書である。本来三〇巻であったと考えられるが、現存は巻第二から第六、巻第二十から巻三十の十六巻と、神武天皇から平城天皇までの抄本が遺るのみであり、その多くが失われている。その伝本については堀越光信氏が検討を行っている。『国書総目録』に掲載される八十五の伝本のうち七十八本を検討した結果、(イ)真福寺本系、(ロ)高野山系、(ハ)多数巻残存本系、(ニ)混淆体本系、(ホ)抜書本系の五系統に分けることができるということである*2。それによると、どの系統であっても全巻揃っているもの存在せず、部分的に流布していたと考えられる。そのような流布・伝存の状況からは、テクストの統一的な性格を理由に受容されていたとは考え難い。たとえば、『扶桑略記』の特徴として末法観に基づいた歴史叙述ということが指摘されているが*3
本稿では、第一章と第二章で『扶桑略記』の特徴について分析する。第一章では、注記の分析をもとに、編者が特に関心を持っている点について検討を行う。第二章では、明らかとなった編者の関心点がどのように描かれているのかを分析する。次いで、第三章で『扶桑略記』が引用される際、その編者の関心点がどのように引き継がれているのかについて検討する。その際、『扶桑略記』は全貌が現在では不明であるため、その全体に言及することは難しい。そのためここでは、真福寺本系が巻二、三、五、六を残していることに注目し、巻第二から巻第六までを『扶桑略記』前半として検討の対象とする。 、そのような歴史書として受容されていたのであろうか。この『扶桑略記』の受容という問題を検討することから、『扶桑略記』の中世における位置付けについて考察していきたい。
予め結論を述べると、『扶桑略記』は仏教史としての特徴を有しており、また、諸説を併記するところに特色がある。しかし、その『扶桑略記』が受容される際には、必ずしも仏教史としての特徴が受容されたわけではなく、歴史についての諸説を類聚した資料集として用いられた可能性を指摘したい。
結論
『扶桑略記』は、日本仏教史に強い関心を持って書かれている。その特徴は多くの資料を用いつつも、典拠を明らかにして併記するという点である。そのような特徴ゆえに、中世において評価の高い歴史書として、多くの場面で利用されていたと考えることができる。
以上のように『扶桑略記』の受容の特徴を捉えると、中世において『扶桑略記』が置かれた位相もみえてくるのではないだろうか。『扶桑略記』は書写がくり返される一方で、部分的な書写がなされたと考えられる。それは、『扶桑略記』を利便性の高い資料として捉えられていたために、必要な箇所のみを所蔵し利用することを目的として、書写がくり返されたと考えることができよう。ここに、必ずしも通史として、全巻を有することを求められない、需要に則した『扶桑略記』の流通を想定することができる。中世における歴史書の位置付けを検討する際、このような利用を踏まえた思想性の検討も必要であろう。
『扶桑略記』は、日本仏教史に強い関心を持って書かれている。その特徴は多くの資料を用いつつも、典拠を明らかにして併記するという点である。そのような特徴ゆえに、中世において評価の高い歴史書として、多くの場面で利用されていたと考えることができる。
以上のように『扶桑略記』の受容の特徴を捉えると、中世において『扶桑略記』が置かれた位相もみえてくるのではないだろうか。『扶桑略記』は書写がくり返される一方で、部分的な書写がなされたと考えられる。それは、『扶桑略記』を利便性の高い資料として捉えられていたために、必要な箇所のみを所蔵し利用することを目的として、書写がくり返されたと考えることができよう。ここに、必ずしも通史として、全巻を有することを求められない、需要に則した『扶桑略記』の流通を想定することができる。中世における歴史書の位置付けを検討する際、このような利用を踏まえた思想性の検討も必要であろう。
関連項目
外部リンク
扶桑略記 撰寫: 阿闍梨皇圓
第二、起神功皇后紀盡武烈天皇紀
清寧 顯宗 仁賢 武烈 |