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伊勢・鳥羽の歴史(伊勢神宮

伊勢神宮

神宮 所在地 位置 主祭神社格等 創建 本殿の様式別名 札所等 主な神事 地図
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内宮(皇大神宮)
内宮(皇大神宮)
三重県伊勢市宇治館町1
外宮(豊受大神宮)
三重県伊勢市豊川町279

内宮:天照坐皇大御神(天照大御神
外宮:豊受大御神
式内社(大)
二十二社(上七社)
神宮(近代社格超越-対象外)
内宮:垂仁天皇26年
外宮:雄略天皇22年
唯一神明造
伊勢神宮
神仏霊場巡拝の道特別参拝
伊勢神宮の祭事を参照
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伊勢神宮の位置(三重県内)
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内宮
内宮
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外宮
外宮
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 伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宮」(じんぐう)[注釈 1]。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり[1]、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される[2]神社本庁の本宗(ほんそう)である。


創祀神話

 天孫・邇邇芸命が降臨した際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。

 崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

 崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

 崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動した。
 垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 3]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

 『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。
 この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳』(とゆけじんぐうぎしきちょう)[注釈 4]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

古代

 皇室氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)[6]天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。

中世

 朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬された[9]神仏習合の教説において神道側の最高神とされる[10]。また、外宮側の度会家行より伊勢神道度会神道)が唱えられた[10]。戦乱により神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮(後述)が行えない時代もあった[9]。資金獲得のため、神宮の信者を増やし、各地の講を組織させる御師が台頭した[9]
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伊勢参宮名所図会(1797年)による内宮の正宮。当時は内宮・外宮ともに板垣も外玉垣もなく、参拝客は玉串御門(現在の内玉垣南御門)前まで行けた。

近世

 お蔭参り(お伊勢参り)が流行した[6]。庶民には親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ばれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』で語られるように、多くの民衆が全国から参拝した[9][6]

崇神天皇

  
崇神天皇
先代 次代
陵所 異称 父親 母親 皇后 子女 皇居
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『大日本帝紀要略』(1894年)
在位期間
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
開化天皇
垂仁天皇
山邊道勾岡上陵
御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
開化天皇
伊香色謎命
御間城姫
垂仁天皇彦五十狭茅命国方姫命千千衝倭姫命倭彦命五十日鶴彦命豊城入彦命豊鍬入姫命大入杵命八坂入彦命渟名城入媛命十市瓊入媛命
磯城瑞籬宮
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崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。
和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。


人物

 記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。

 日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。このように崇神天皇を大和朝廷の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神天皇のかかわりをどう考えるかが問題になってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好による「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与摂政だった」という説、西川寿勝の「崇神天皇は『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などが提唱されている。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国は大和朝廷とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠などの説などが存在している。

 『日本書紀』の記述では、神武天皇が畿内で即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて日本の広範囲の出来事の記述が出てくる(崇神天皇による四道将軍の派遣派兵など)ことから、崇神天皇が初代天皇ではなく欠史八代が史実を反映していると見る立場から、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。

略歴

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位

崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 1]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

崇神天皇7年2月、大物主神倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。

祟神天皇7年8月7日、倭迹速神浅茅原目妙姫大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

崇神天皇10年9月、大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。

崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。

崇神天皇48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神天皇60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。
『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。


豊鍬入姫命   

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと[1]生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本皇族
日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。
第10代崇神天皇皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

系譜

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる[2]
なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる[2]

記録

日本書紀崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという[2]。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。
同書垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)


倭姫命   


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