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孔子公園は、泗水町の町名由来が中国思想家である孔子生誕の地中国山東省泗水県にちなんだといわれることから、町名百年を記念して平成四年に完成しました

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孔子公園について

泗水町の町名由来が中国思想家である孔子生誕の地中国山東省泗水県にちなんだといわれることから、町名百年を記念して平成四年に完成しました。建物には本格的な中国宮廷建築様式が採用され、異国情緒漂う雰囲気です。


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孔子

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生誕 死没 時代 学派 主な概念
孔 丘
紀元前552年
紀元前479年
中国・春秋時代
儒教
仁、君子
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儒教儒家思想儒学者経書儒教の歴史 関連項目
孔夫子の像
孔子(こうし、ピン音: Kǒng zǐ; ウェード式: K'ung-tzu紀元前552年9月28日紀元前479年3月9日)は、春秋時代中国思想家哲学者儒家の始祖。 は孔、は丘、は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった末、国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[1]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回閔子騫冉伯牛仲弓、言語に宰我子貢、政事に冉有子路、文学(学問のこと)に子游子夏である。その他、の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目としたに加え、実践が可能とされる徳目の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて治主義を主張した。『』『』『』『』『』『春秋』といったの書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集であるが整理された(完成は漢代)。

孔子の死後、孟子荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開[2]。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として活用されている(孔子鳥孔子学院を参照)。


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時代背景

周公旦と礼学

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟である。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たっていた。
周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。
魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制がよく保存されていた[3]。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子が儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

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魯国の状況

春秋時代に入ってからの魯国は、といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父叔牙季友は第16代荘公重臣となり、慶父から孟孫氏仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。
孔子の生まれた当時は襄公紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季孫宿(季武子)の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる [4]

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生涯

出自

紀元前552年(一説には551年)に、国昌平辺境の陬、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた[5]。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる[6]。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている[7]。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている[8]。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている[9]
『史記』によれば、孔子の祖先はの人であるという。『孔子家語』本姓解ではさらに詳しく系図を記し、孔子を宋の公の兄である弗父何の十代後の子孫であり、孔子の曾祖父の防叔のときに魯に移ってきたと言っている。
孔子は3歳の時に父の叔梁紇を失い、母の顔徴在とともに曲阜の街へと移住したが、17歳の時に母も失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。幼少期には、母の顔徴在の影響を受けて、葬式ごっこをして遊んでいたという。しかし、成長してから、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。
弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ[10]、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった[11]



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青年期[編集]

紀元前542年6月、襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。
紀元前537年に季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。
紀元前534年、孔子19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する[12]。翌年、子の(り) (字は伯魚)が誕生。
紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し、まず倉庫を管理する委吏に、次に牧場を管理する乗田となった[13]紀元前518年には、孔子がはじめて弟子をとった記録が残っている[14]。またこの年、孔子は周の都である洛陽へと遊学している。
紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する[15]。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。この途上で「苛政は虎よりも猛なり」の故事が起こった[16]。この間、魯は紀元前509年定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。紀元前516年、斉の景公が孔子を召し出そうとしたが、宰相の晏嬰がこれを阻んだ。また、孔子はの首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。紀元前517年、孔子は魯へと戻った[17]。魯に戻ってからの孔子は長く仕官せず、弟子をとり教育することに励んだ。顔回や仲弓、子貢などの主要な弟子の多くはこの時期に入門している。
紀元前505年季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった[18]。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は紀元前502年叔孫氏孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。


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大司寇時代

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた[19]。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子は舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる[20]。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った[21]。この功績で孔子は最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった[22]

紀元前498年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を誅殺する[23]
紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦したうえで、三桓氏の本城の城壁を破壊する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった[24]。これは、先に陽虎が季孫氏に反旗を翻したように、曲阜に国相として居住する三桓氏に対し、地方にある三桓氏の居城にいる有力家臣がその本城に拠って下剋上を起こす傾向が強かったため、この憂いを取り除くためのものとして孔子が定公ならびに三桓氏に勧めたもので、このため君主権を拡大できる定公のみならず、三桓氏の同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏の本城城壁は破壊できたものの、季孫氏の本城城壁は破壊できたものの家臣の抵抗にあっててこずり、孟孫氏の本城では家臣が同意せずに城壁に拠って抵抗を続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場に回ったために失敗した[25]


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亡命から晩年まで

翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのはであり、ここに5年ほど滞在した。ついで紀元前493年、いったんに向かったが衛にいったん戻り、へ向かおうとしてで妨害されたためにへと逃れ、ついでに赴き、いったんに向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。紀元前489年、孔子はに向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた。

紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国のに攻められるも奮戦し、和解した。その後、斉に攻められ敗北した。前485年には呉と共に斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。
紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。

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