孔子の思想
『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある[26]。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
封号
孔子の没後、孔子に対して時の為政者から様々な封号が贈られた。
春秋時代 | 哀公(魯) | 尼父 | 哀公16年4月(紀元前479年) |
前漢 | 平帝(実質王莽の差し金) | 褒成宣尼公 | 元始元年夏5月(1年) |
北魏 | 孝文帝 | 文聖尼父 | 太和16年2月(492年) |
北周 | 静帝 | 鄒国公 | 大象2年3月(580年) |
隋 | 文帝 | 先師尼父 | 開皇元年(581年) |
唐 | 太宗 | 先聖 | 貞観2年(628年) |
宣父 | 貞観11年(637年) | ||
高宗 | 太師 | 乾封元年1月(666年) | |
武則天(武周) | 隆道公 | 天授元年(690年) | |
玄宗 | 文宣王 | 開元27年(739年) | |
北宋 | 真宗 | 元聖文宣王 | 大中祥符元年11月(1008年) |
至聖文宣王 | 大中祥符5年12月(1012年) | ||
元 | 成宗 | 大成至聖文宣王 | 大徳11年7月(1307年) |
明 | 世宗 | 至聖先師孔子 | 嘉靖9年(1530年) |
清 | 世祖 | 大成至聖文宣先師孔子 | 順治2年(1645年) |
至聖先師 | 順治14年(1657年) | ||
中華民国 | 国民政府 | 大成至聖先師 |
人物
身長は9尺6寸、216cmの長身(春秋時代の1尺=22.5cmとして計算)で、世に「長人」と呼ばれたという(『史記』孔子世家)。 容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろのほうについていたという(『荘子』外物篇)。
飯は十分に精白されている米や、膾(冷肉を細く切った物)などを好み、時間が経ち蒸れや変色、悪臭がする飯や魚や肉、煮込み過ぎ型崩れした物は食べなかった。また季節外れの物、切り口の雑な食べ物、適切な味付けがされていない物も食べなかった。祭祀で頂いた肉は当日中に食べる。自分の家に供えた肉は三日以上は持ち越さず、三日を過ぎれば食べないほか、食べる時には話さない等、飲食に関して強いこだわりを持っていた[28]。[1]