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菊池神社 (菊池市)

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菊池神社 (菊池市)

   
菊池神社所在地位置主祭神社格等創建本殿の様式例祭地図
Kikushi-shrine.jpg
菊池神社
熊本県菊池市隈府1257
北緯32度59分16.4秒
東経130度48分58.2秒
座標: 北緯32度59分16.4秒 東経130度48分58.2秒
菊池武時
菊池武重
菊池武光
旧別格官幣社・別表神社
明治3年(1870年
三間社流造銅板葺
4月5日10月15日
菊池神社の位置(熊本県内)
菊池神社
菊池神社
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菊池神社(きくちじんじゃ)は、熊本県菊池市に鎮座する神社である。南北朝時代南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る。建武中興十五社のうちの一社である。旧社格別格官幣社で現在神社本庁別表神社
境内に菊池歴史館があり、菊池千本槍など菊池氏500年の歴史の遺物が展示されている。の名所としても知られている。

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摂社 城山神社は2度の元寇(文永の役、弘安の役)に出陣し、「蒙古襲来絵詞」にもその姿が描かれている第10代当主菊池武房公と、菊池の文教の祖ともいわれる第21代当主菊池重朝二柱を祀っています。
境内東側に位置します。


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菊池武房

   
 
菊池武房時代生誕死没別名官位幕府主君氏族父母兄弟子
Kikuchi Takefusa.jpg
蒙古襲来絵詞』で元寇防塁に座る武房
鎌倉時代中期
寛元3年(1245年
弘安8年3月26日1285年5月2日
次郎
従三位(1915年)
鎌倉幕府
惟康親王
菊池氏
父:菊池隆泰 母:託摩能秀女(大友氏
武房赤星有隆直隆頼隆隆顕
隆冬康成重宗
隆盛甲斐武本堀川道武長瀬武成
島崎武経迫間武門重富武村
菊池 武房(きくち たけふさ)は、鎌倉時代中期の武将菊池氏の第10代当主。第9代当主・菊池隆泰の次男。蒙古襲来に際して一族を挙げて戦い、その活躍が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。

生涯

文永11年(1274年)の文永の役では弟の菊池有隆とともに、上陸して赤坂まで進出してきた元軍を破り、元軍主力を麁原(そはら)へ、一部は別府(べふ)の塚原まで撃退する武功を挙げた。元軍を破った菊池勢100余騎は元兵の首を多数つけて帰陣した(赤坂の戦い)。

文永10年(1273年)5月に執権連署を務めた北条政村が死去した際に、政村の甥で娘婿である北条実時に宛てて「お悔やみを申し上げたいが、異国の事により鎮西の地頭御家人は参向してはならないとの御教書ですので、参拝する事できず残念です。」との書状を送っている。
弘安4年(1281年)の弘安の役でも活躍して武功を挙げた。しかし朝廷から甲冑を賜っただけで幕府からの行賞がなく、武房は反幕府へ傾いていたという。役の4年後の弘安8年(1285年)3月26日に41歳で死去し、後を孫の菊池時隆が継いだ。
大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られた[1]


菊池 重朝(きくち しげとも、宝徳元年(1449年)- 明応2年10月29日1493年12月7日))は、菊池氏の第21代当主。第20代当主・菊池為邦の嫡男。子に菊池武運(のち能運)、米良重房。官位は従四位下。肥後守。幼名は藤菊丸。通称は十郎。菊池氏隆盛期時の当主・武重より一字取って重朝を称す。この偏諱は、一族の菊池重安政隆の父)とその弟重順重基父子や宇土重光為光の子)も賜っている。
一説によれば、父・為邦は晩年、次男(重朝の実弟)である武邦に豊福城を奪われており、為邦の子である重朝が武邦から奪還したとされている。このように父の代から菊池氏の衰退が始まる中、1466年に家督を継いで当主となる。翌年から始まる応仁の乱では東軍に与したが、それは表面上のことであり、実際は筑後国などへの勢力拡大を目論み、応仁の乱の勢力争いとは別に自領の拡大を図るが、結局は失敗に終わる。その後は寺社勢力の統制に力を注ぐ一方で、桂庵玄樹を招聘して学問の普及などに努めた。連歌の才にも優れ、肥後の豪族を招いては連歌会を開催した。1493年10月29日、45歳で死去し、後を嫡男・武運(たけゆき)が継いだ。法名は竜雲院梅屋祥英。墓地は玉祥寺。
大正6年(1917年)11月10日、従三位を贈られた[1]



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祭神

菊池氏後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀する。

歴史

慶応4年(1868年)に熊本藩から明治新政府の参与に出仕した長岡護美が、菊池氏と加藤清正のために神社を創建する案を建議した。同年7月18日、太政官政府はこの建言を採択し、熊本藩に両者の祭祀を執行するよう命じた[1]。そこで熊本藩は、清正のために熊本城内に錦山神社を建て(現加藤神社)、菊池氏のために菊池城址に菊池神社を建てた。菊地神社の鎮座祭は明治3年(1870年)4月28日に行われ[2]、この時に主祭神を菊池武時とし、武重と武光を配祀神とした[3]

明治6年(1873年)5月に郷社に列され、8年(1875年)7月には県社に昇格したが、その10月24日に楠木正成を祭る楠社(現湊川神社)が別格官幣社なのに菊池神社が県社では不公平だと白川県教部省に願い出た。3年後の同11年(1878年)1月10日に名和神社とともに別格官幣社に列した[4]。あわせて、その時まで配祀されていた武重、武士、武光、武政武朝の5人に加え、菊池氏に従って戦った一族他家の将士も配祀することになった[5]。同年6月3日に、菊池武時が戦死した元弘3年3月13日を太陽暦に換算した5月5日を例祭日に定めた[6]
大正12年(1923年)に配祀されていた武重と武光を主神に加えた[7]
昭和26年(1951年)に宗教法人法が公布されたのをうけ、昭和27年(1952年)9月13日に宗教法人菊池神社となった。

年表

  • 慶応4年(1868年明治元年)7月18日 - 太政官が熊本藩に菊地氏の祭祀を命じた。
  • 1873年(明治6年)5月 - 郷社になった。
  • 1875年(明治8年)7月 - 県社になった。
  •   10月24日 - 白川県が別格官幣社への昇格を教部省に願い出た。
  • 1878年(明治11年)1月10日 - 太政官が菊池神社を別格官幣社に昇格させた。菊池武重以下の将士を配祀するよう指示した。
  •   1月31日 - 熊本県大書記官北垣国道が勅使代理として菊池神社で別格官幣社被列祭典を執行した[8]
  •   6月3日 - 例祭日を5月5日に定めた。
  • 1879年(明治12年)10月30日 - 太政官が別格官幣社の中での菊池神社の順序を護王神社の次にすると定めた[9]
  • 1923年大正12年) - 菊池武重と武光を主祭神にした。
  • 1952年昭和27年)9月13日 - 宗教法人菊池神社となった。
  • 2012年平成24年)4月1日 - 熊本県の旧県民歌菊池盡忠の歌」を奉納する集いが開催される。

社殿

本殿は三間社流造、棟に千木・鰹木を置く。拝殿は桁行5間梁間3間の入母屋造平入、正面中央に3間の向拝を付す。ともに屋根は銅板葺

摂末社

文化財

(件名後の括弧内は指定の種別と年月日)
重要文化財(国指定)
  • 絹本著色伝菊池能運像
  • 菊池神社文書 4巻(41通)
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